観音峰(1,347m)登山
                     2006/12/24

今日は内炭教室の「観音峰(納山会)登山」である。
社会保険センターの「山歩き」の水曜日、土曜日組の有志メンバーの参加者、総勢32名で、
7時に橿原神宮をバスで出発する。

今日は観音峰(1347m)の往復コースである。

8.28分 虻トンネルの側の登山口に到着した。
観音峰は2004年2月24日に一度登ったので、今回が二度目である。
この時にはこの駐車場は雪が少し積もっていたのだが、
今回は雪は全然ない。
準備体操をやって、8.40分 出発である。
  

天気もさほど寒くもなく、風もほとんどない穏やかな日和である。
 

8.52分 「観音の水」の水飲み場に到着。


「観音の水」のすぐ横には、
東吉野天川南朝物語@ 動乱の勃発(建武の中興)」と題した史記が書かれた銘文が埋め込まれている。

これは後醍醐天皇の御世のことでございます。鎌倉幕府の君主の徳はうすれ、荘園の支配に反抗した武士たちの戦がそこここで起こり、民の安穏な暮らしは失われてゆきました。おりしも、元亨元年(1321)の大干ばつで餓死すうr者は野に満ち、あたかも地獄絵を見るようなありさまで、世は乱れに乱れたのでございます。
この天下の騒乱や飢饉のさまをご覧になった後醍醐天皇は、天皇政治の復興をお図りになりました。が、この事がもれ、天皇は無念にも隠岐島に配流となりました。このとき、その皇子(みこ)の一人大塔宮護良(だいとうのみやもりなが)親王は、からくも追捕軍の手をのがれ、大峯から吉野へ、天川から高野へと潜行しながら活躍され、天川郷民には勤王の令旨を、諸国の勤王の士には皇軍勃起の令旨をお発しになりました。
ほどなく、楠木正成が赤坂城を奪回し、護良親王が吉野に挙兵されますと、これに応じて諸国の雄が令旨になびき、さらに足利尊氏、新田義貞など有力御家人が幕府に反旗を翻し、ついに鎌倉幕府は倒れました。
元弘三年(1333)、征夷大将軍に任ぜられた護良親王入京の行列のなかには、吉野軍の兵五百を従えた天川郷の頭領で、かつて大海人皇子(おおあまのおうじ:後の天武天皇)をささえた吉野の豪族角氏の末裔、加藤太郎光直の雄姿がございました。

暫く歩いていると、第2話、「吉野の南朝」の銘文がある。
 
後醍醐天皇の建武の中興の夢は、わずか一年余りで破れました。足利尊氏が離反して光明天皇を擁立しますと、後醍醐天皇は吉野に逃れて朝廷をお開きになり、ここに再興のすべてをかけられました。
吉野天川は、吉野山を入り口とし、けわしい山々が連なって天然の砦となり、山岳地帯で、壬申の乱の大海人皇子、南朝の護良親王等、都を追われた人々が再起を期して身をお清めになられた、深い縁で結ばれたところでございます。これ以後五十七年のあいだ、南北二つの朝廷に分かれての動乱の時代、後醍醐天皇から後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇の四代にわたって南朝の拠点とされました。
ここ天川村は、また全国にまたがる修験道の拠点で、情報をよく集めることができ、交通の要衝でもありました。すなわち、西は紀ノ川から瀬戸内海に通じ、東は伊賀・伊勢から、南は十津川から熊野灘に通じています。
後醍醐天皇が頼みとする勤王の郷士たちや吉野熊野の修験者たちは、海上の水軍勢力とも連携し、南朝をささえるべく暗躍したようです。しかしながら、天皇やその皇子たち、貴族たちの多くは京都へもどることのできる日をあてなく思い焦がれながら、この地で生涯終えることになったのでございます。


9.03分 展望台に到着。
晴れていれば、弥山、八経ヶ岳、頂仙岳は見えるというのだが、
今日は雲に隠れて姿は見えず。



第3話は「吉野山炎上」である。
四条畷の決戦前、死を覚悟した楠木正行兄弟は、吉野山での後村上天皇との涙の別れのなかで、「進退を慎重にし、永く忠勤を励め」とのおことばをいただきましたが、圧倒的な幕軍に果敢にいどみ、奮戦むなしく討死なさいました。
正平三年(1348)一月、四条隆資(たかすけ)は急いで吉野の行宮に戻り、「昨日、正行すでに討たれ、明日、幕軍大挙して襲来いたします。これを防ぐ兵はおりません。今夜にも急ぎ天川の奥、穴太の辺へ落ちられますよう」と申し上げると、三種の神器を携えて、天皇、女院、皇后、准后、内親王、宮々などとともに、とるものとりあえず、あわて騒いで尾根づたいに吉野の奥、ここ観音峯へと落ちのびられました。
この頃、幕軍、人けのない吉野行宮に襲来し、火を放つと、風は強く、蔵王堂、諸坊舎等すべて灰燼に帰しました。
天皇は、ほどなく観音峯より沢原の光遍寺へと移られ、しばらく行在所とされました。危急のなかで天川郷士たちの忠勤ぶりにいたく感激され、次第に落ち着きをとりものされたようです。そのとき、お側でかいがいしくお世話申し上げる一人の娘をご寵愛になりました。天川郷沢原の片山氏の娘で、ほどなく第十皇子賢光を宿し、この皇子は天皇のご意向により長じてこの寺をお継ぎになられたのでございます。


9.33分 左手方向に、木々の切れ間から尖った山が遠くに見えているのだが、
何という山だろうか?
 

9.36分 鳥居が見えてくる。ここが神社跡休憩所である。 ここには、「皇后陛下 御下賜金一封 明治二年四月」の石碑と、
「久邇宮(くにのみや)殿下 御下賜金一封 大正十二年六月」の石碑が並んで建てられている。
  
第4話は、「天川郷位衆伝御」の銘文もある。
天川郷には、多くの南朝方の武将たちが住み着くことになりました。新田義貞勢や北畠顕家とともに西征した奥州出羽の守護藤原家、南朝天皇に供奉(ぐぶ)した廷臣などもそうでございます。
天川の郷士たちは、これらの人々を中心として奥吉野の基地を整えるべく、南朝警護隊を組織しました。そして正平五年(1350)、後村上天皇より「後醍醐天皇の綸旨(りんし)にあるように、天川郷の課役免除に変わりはないので忠節を尽くすように」との綸旨とともに、南朝警護隊の天川郷士たちに、位衆傳御(いしゅうおとな)の命名を賜るに至りました。天川輩らは南朝守護の勅願寺として河合寺(かごうじ)建立(天川村川合)を上奏し、綸旨を受けて正平六年(1351)に完成させ、南朝の戦勝御祈祷を執り行いました。この年、足利尊氏は弟の直義との対立により朝廷に和睦を申し入れてきましたので、これを機に、南軍は宿願の京都奪回を果たしました。
この正平一統により、後村上天皇は吉野を出て摂津の住吉神社に本営を移されました。このとき吉野十八郷の兵五百七十人を指揮したのは、輩の藤原定季(さだすえ)で、もちろんここに天川郷位衆傳御組の姿もございました。

10分ほど休憩して、出発する。
  

上り始めてすぐのところの大岩に、「よしの山 花ぞちるらん天の川 くものつつみをくずすしらなみ」と、歌が刻まれている。
岩の裏には次のように記されている。

「お歌石」のこと
元弘二年十一月、吉野山に兵を挙げた大塔宮護良親王は、この合戦に敗れ、からくも落ちのびて天川郷の観音峯の岩屋に身をお隠しになったとき、藤原俊成卿の歌「よしの山 花のちるらん天の川 雲の堤を洗うしらなみ」を替えて、次のように詠まれたと伝えられています。
よしの山 花ぞちるらん天の川 くものつつみをくずすしらなみ
この観音峯には、かつてこの歌が彫り込まれた石があり、「お歌石」として知られていました。けれども、石灰岩に彫り込まれたその文字は、いつしか風化して失われてしましました。よってここに新たにお歌石を刻む次第です。 平成十一年





9.45分 「観音の岩屋」への分岐点に着く。右手に100mほど登れば「観音の岩屋」である。
ここにリックを下ろして、空身で上る。
 
第5話は、「観音峯の戦い」の銘文がある。

正平七年(1352)、吉野朝廷の人々が夢見た京都奪回がついに実現いたしました。が、それも束の間のこと、再び北軍が巻き返し、南軍北軍めまぐるしく京都を奪い合い、結局北軍の勝利に終わりました。
この後、後村上天皇に崩御し、長慶天皇が即位されました。
さて、南朝軍の柱である楠木正儀が甘言に誘われて突然幕府方に寝返ったことから、長慶天皇は皇太子煕成(ひろなり)親王に三種の神器をもたせ、吉野の奥深くにお隠しになりました。その後楠木正儀をはじめとする幕軍の攻撃により、天皇もまた吉野の奥へと遷幸され、天川郷位衆傳御組はこれを警護し奉って河合寺の黒木御所に迎えました。そして、郷民をあげて長慶天皇や煕成親王らを坪内の御所ノ坊、沢原の光遍が、野川勢を中心とする逆徒が執拗に襲来したため、これを迎え撃って戦いをくりひろげました。この戦いで河合寺は焼失し、長慶天皇や煕成親王は観音の岩屋に避難されました。が、ここまでも追手があり、天川郷士たちはこれを撃退し、尾根づたいに洞川の龍泉寺へとご案内申し上げたのでございます。
この後、賀名生(あのう:西吉野村)の御所に戻られた長慶天皇は、歌会にてこう詠まれています。

  浅からぬ ちぎりもしるし天の川
      はしは紅葉の枝を交はして

9.52分 「観音の岩屋」に到着する。
人が3人ほどしゃがんで入れるほどの洞穴である。その奥に観音様が安置れている。
洞穴に入ってお詣りする。
   
ここにも、第6話の「天川郷に御所があった」の銘文がある。
  

後村上天皇が吉野から天川へ落ちのびられたとき、この観音の岩屋に籠もられた一夜の夢に十一面観音が現れて、河合寺が安住の場所とのお告げをお受けになられました。爾来、この観世音を守り本尊としてご信仰になり、この山を観音峯と名付けられました。
そして、天川輩らによる南朝守護の勅願寺河合寺建立後は、この寺を黒木御所とされました。天皇は南軍を指揮して天川や賀名生の黒木御所から河内(かわち)の観心寺や天野(あまの)山金剛寺、摂津の住吉や男山等々に移られ、精力的にご活躍なさいました。
この間、天川郷に逃れられた女院、皇后、准后、内親王、宮々たちは、この郷に長らくとどまっておられました。坪内の天河大弁財天社近くには、古来、天河社の坊舎七坊の筆頭として御所ノ坊があり、ここにお潜(ひそ)みになっていたのでございます。
後村上天皇皇后嘉喜門院集には、このような御歌(みうた)が記されています。

たづねつつ わけ入るままに咲く花の
   にほひも深しみよしのの奥

たなばたの 暮るるたつまに先だちて
   秋風わたる天の河なみ

また「天授三年(1377)七月七日、行宮(あんぐう)にて嘉喜門院、琵琶を弾じ、天皇和歌を詠じ給う」と御所ノ坊でのことが記されています。天河大弁財天社には嘉喜門院御愛用の琵琶が残されており、毎年七月七日は弁財天降臨の日として妙なる琵琶の調べとともに、荘厳な神事が行われてきたのでございます。


10.15分 ススキ野の道を過ぎれば、観音平に到着する。
「観音峯展望台」と刻まれた石碑がある。
  
標高1,208mである。
360度視界が開けている。
山上ヶ岳(1719m)、大日山、稲村ヶ岳(1726m)、バリゴヤノ頭、弥山(1895m)、頂仙岳(1717m)が綺麗に見えている。
素晴らしい眺めだ。
ここまで登ってきた甲斐があったなあ、と喜ぶ。
                                  → 弥山、頂仙岳が右に隠れていますから、スクロールしてみてください






10.23分 記念写真を撮って、山頂めざして出発する。

目の前の峰を越えて、その奥にあるのが観音峰である。
 
10.55分 観音峰山頂に到着。
雪はほんの少し、まばらに見られる。
日当たりの斜面に腰を下ろし、昼食をする。
 
10.30分 記念写真を撮って、下山する。
  
11.45分 下山する途中から大日山、稲村ヶ岳がくっきりと見られる。

霧氷で木々は真っ白く輝いている。

再び観音峰展望台に戻り、展望を楽しむ。
  
13.13分 登山口に戻る。


洞川温泉に向かって、冷えた身体を温める。
14.30分 近くの食堂で、ビール、ジュースで乾杯、
簡単な自己紹介のあと、ビンゴゲームで内炭さんが用意して頂いた景品をそれぞれ頂戴する。
納山会がにぎやかに終わった。
内炭さん、ご苦労さん! 
来年もよろしくお願い致します。
  

         ― おわり ―