人はどう生きればいいのかー三浦綾子・想い出ノートからー
 
                               語り手 花 形  恵 子
                               朗 読 白 坂  道 子
語り手:  人はどのように生きたらいいのか。生涯をかけて問い続けた作 家・三浦綾子(あやこ)。北海道に生まれ育ち、平成十一年、七十七歳で 亡くなりました。デビュー作『氷点(ひょうてん)』。三浦綾子はこの作品で、 人間と生まれながらにして持つ罪「原罪」を描きました。一人 の人間が生きていくうえで、背負わなければならない過酷な運 命。小説の中で、主人公・陽子は、自分が殺人犯の子どもであ ることを知り、自殺をはかります。
今まで、どんなにつらい時でも、じっと耐えることがで きましたのは、自分は決して悪くはないのだ、自分は正 しいのだ、無垢なのだという思いに支えられていたから でした。でも、殺人者の娘であると知った今、私は私の よって立つ所を失いました。自分の中の罪の可能性を見 出した私は、生きる望みを失いました。いま陽子は思います。一途に精 いっぱい生きてきた陽子の心にも、氷点があったのだということを。
氷点の舞台となった北海道・旭川郊外の森に、「三浦綾子記念 文学館」があります。毎年十万人近くの人たちが此処を訪れて います。大正、昭和、平成、三浦綾子の七十七年の生涯は、波 乱に満ちたものでした。小学校の教師として、心に深い傷をお った戦争体験。その後の十三年に亘る壮絶な闘病生活。そして 苦しみから自分を救い、生きる希望を与えてくれた夫との出会 い。多くの苦悩と悦びの中から、三浦文学は生まれました。北 海道の厳しい自然や風土を舞台に、三浦綾子は生涯で、八十作 にのぼる作品を書き上げました。文学館の一角に、ノートが置 かれています。此処を訪れた人たちに、感じたことを自由に書 き込んでもらうためです。「想い出ノート」と名付けられたこ のノート。文学館が出来て四年半、全国からやって来た多くの 人たちが、三浦綾子への思いや、作品の感想を書き綴っていま す。
 

 
訪問者A: 原罪という重たいテーマは、今の私にはまだまだ理解できてはいないんですけれ ども、これまで読んだ本にはない、お腹の底に 響くこう感動がありまして。
 

 
語り手:  ノートには書いた人の心の内面が浮かび上がっ てきます。自らが抱えるさまざまな葛藤、悩み、 苦しみ。人はいかに生きればいいのか。その答 えを真摯(しんし)に問い続けた三浦綾子に宛てて、ノー トは綴られています。亡くなって三年を過ぎ、 「想い出ノート」は六十冊を越えました。作家 ・三浦綾子が残した言葉は、人々の心にどう響 き続けているのでしょうか。
 
「岡山から念願かなって参りました。 この記念館を作った人々の思いが、い っぱい詰まっているようで見ごたえがあります。この記念館に来れた喜 びを味わいたいと思います。今までを振り返ってみて、大きな不幸と思 われることが、実は大切な人生の曲がり角であったと思われてならない」
 
という文章に足を止めました。このノートを書いたのは、岡山 に住む吉岡晋一郎(しんいちろう)さん・六十歳です。毎朝職場への通勤は、妻 の恵子さんが車で送ります。吉岡さんは、十年前から、脳の神 経が冒されるパーキンソン病を患(わずら)っています。吉岡さんは精神 科医です。この十年病気を抱えながら、医師として仕事を続け てきました。今は、岡山市内にある精神障害者の社会復帰施設 で、カウンセリングや診察をしています。病気のため五年前に、 仕事のきつい大病院から今の職場に移ってきました。
 
 
吉岡:   寝付きが良くないですか?
 
患者A:  そうなんです。もう腹の立ったら、昔のことを思い出して、
 
吉岡:   ご飯のほうはどうですか?
 
患者A:  いやぁ、ご飯もあんまり家族は、「食べ」というもんですから、 食べるんですけど、

 
語り手:  診察は週に三回。アルコール依存症や鬱病(うつびょう)などの病を抱えた人たちが、吉岡さん のもとを訪れます。若い頃、吉岡さんは病気一つしたことがありませんでした。 県立病院の勤務医として、多い日には一日三十人もの患者さんを診察してきまし た。その後病院の副院長になり、三十人以上のスタッフを率いて、仕事はますま す忙しくなっていきました。そんな働き盛りの五十歳の時でした。吉岡さんは突 然パーキンソン病を宣告されたのです。パーキンソン病は、脳の中枢が冒され、 手足の振るえや身体の硬直など、運動障害が起こる病気です。吉岡さんは、一日 三回の薬で病気の進行を抑えています。しかし、パーキンソン病は、まだ治療法 が確立されておらず、特効薬もありません。いずれは身体がほとんど動かなくな って終います。発病から十年、病状は確実に吉岡さんの身体に進行しています。
 

 
吉岡:   この病気は痛くないんですよ。経過が長いんですよね。だから十分覚悟する時間 があるわけですよ。この病気で不自由しながら、他人(ひと)にお世話になりながら死ん でいくという覚悟でしょうね。
 

 
語り手:  今では、患者さんのカルテも満足に書けなくなりました。ペンがうまく持てない からです。
 
     (テープに吹き込む)
吉岡:   二月十日、月曜日。先生はよく話を聞いてくれたけど、結局、 何もしてくれない。それでいいのかと何度も念を押された。
 

 
語り手:  精神科医にとって、何よりも大切なカルテ。診察後に毎回思い 起こしながら、テープに吹き込まざるを得ません。これまで当 たり前のように出来ていたことが、パーキンソン病となって以 来、次々と出来なくなっていく。吉岡さんは、自分の身に迫っ てくる現実に、ただ諦めるしかありませんでした。
去年の春、吉岡さんは札幌の学会に出席した帰り、旭川の「三 浦綾子記念文学館」に立ち寄りました。それまで三浦綾子の作 品は、忙しい仕事の合間に読んでいた程度でした。記念館に来 て、吉岡さんが目にしたのは、病と闘い続ける三浦綾子の壮絶 な姿でした。三浦綾子は、二十代の半ば、肺結核を患い、療養所で暮らしていま した。さらに追い打ちをかけるように、脊髄カリエスが発症、寝返りすら出来な いベッドでの寝たきりの生活は、十三年間続きました。為す術(すべ)もない絶望の日々。 しかし綾子は、恋人の支えによって生きる希望を見出し、立ち直っていきます。 その姿に吉岡さんは勇気づけられました。
 

 
吉岡:   十三年間の闘病生活を潜り抜けたという事実ですね。その重たい事実が励まされ ますね。ああいう中でも人間というのは、生還できてくるんだという事実はね、 これは大きいですわ。
 
 
語り手:  そして記念館を見て歩くうち、吉岡さんは、この一つの文章に 目を留めました。三浦綾子が、自分の病をどう受けとめたか記(しる) したエッセイ。『生きること 思うこと』の一節です。
 
いままでをふり返ってみて、大きな不幸と思われるこ とが、実は大切な人生の曲がり角であったと思われて ならない
 

 
吉岡:  漠然とパーキンソン病というのは辛いことだけれども、何かこれは意味があるん じゃないかというようなことを感じておりましたね。この病気で何か学ぶことが あるんだろう、と。そういうふうな予感を感じたんですね。
 
 
吉岡:  今日は多いよ。
 
恵子:  はい。
 
吉岡:  頼みます。
 

 
語り手:  吉岡さんがカルテを吹き込んだテープは、いつも自宅で妻の恵子さんが、ワープ ロを使って書き起こします。病状が進んだ今、もはや妻の助けなしに精神科医と しての仕事は続けられません。これまで健康で不自由なく過ご していた自分が、恵まれすぎていたこと。妻が、いつも何一つ 嫌な顔をせず、支えてくれていること。吉岡さんは、病気にな って初めて、人の痛みや人生の陰の部分に気付くようになりま した。
 

 
恵子:  私が辛いよりも、本人が、してもらう人が辛く感じているんじ ゃないかなあと思うんですね。薬が効いていない時は、ネクタ イを帰って来て、解くのに、このネクタイが出ない時、ボタン が外せれない時、だから私がすれば難なく出来るんですけれど も、帰って、そういうことが出来ないということは、して貰う 方がむしろ辛い気持になるんじゃないかなあと思うんです。
 
吉岡:  私以上に苦しんでいる人たちに対する同情心みたいな、共鳴で すかね。私以上に苦しんでいる人がたくさんいるということに対して、大体無関 心なわけですけどね。そういう人たちへの共感みたいなことを勉強しろというこ とじゃないかと思いますね。
 

 
語り手:  定年まであと四年。吉岡さんは奥さんへの負担や身体のことを考え、一ヶ月後に 退職することにしました。自分が病気になったことで、患者さんの心を初めて深 く理解できた。吉岡さんはいまそう感じています。
 
 
吉岡:  薬と精神療法でなんとか切り抜けていきましょう。
 
患者: まあよろしくお願いします。
 
吉岡:  はい。
 

 
語り手:  残り少ない精神科医としての時間を大切にしながら、一日一日を過ごしています。
 
今までを振り返ってみて、大きな不幸と思われることが、実は大切な人 生の曲がり角であったと思われてならない。
 
三浦綾子は、肺結核で病床に伏すまで、小学校の教師を勤めて いました。昭和十四年、代用教員として、炭坑の町、歌志内(うたしない)の 小学校に赴任します。十七歳の時でした。当時、日本は戦争に 向かって突き進んでいました。軍国主義一色の中で、綾子はそ れが正しいと信じ、持ち前の熱心さで、軍国教育を子どもたち に徹底しました。その指導ぶりは、子どもたちの信頼を集めま した。理想に燃え、教育に情熱を傾けていた綾子にとって、子 どもたちの信頼は、何より嬉しいものでした。綾子の使命感は ますます高まっていきました。文学館の倉庫に、三浦綾子が教師時代から、大切 にしていたものが残されています。
 
 
館員:  綾子さんが、啓明(けいめい)小学校の教師を辞められる時に、生徒さんが 書かれた作文のようなですね、お手紙なんですね。
 

 
語り手:  綾子が担任だった小学四年生の子どもたちが、「私たちの先生 へ」という題で書いた作文です。綾子は生涯、自分の宝物として持ち続けていた と言います。
 
一番大好きな先生。強いやさしい先生。毎日熱心にお勉強を教えて下さ いました。先生、先生ありがとう。
 
昭和二十年終戦。この年、三浦綾子は、終生忘れることのでき ない体験をします。自分が教えてきた教科書に、墨を塗らせた のです。
 
わたしは教室に入って、生徒たちの顔を見た。
「硯を出してください」
子供たちは、何をさせられるかを知らないのだ。
わたしは涙が溢れそうな思いであった。本を出させ何 頁の何行目から何行目まで消すようにと、私は指示し た。真剣に教えてきたことが誤(あやま)ちだったとしたら、わ たしはこの七年を無駄に過ごしてしまったのか。いや、 無駄なら良い。だが誤ちだとしたら、わたしは生徒た ちに、何といって謝るべきであろう。
         (『石ころのうた』より)
 
教師として、子供たちに対して間違ったことを教えた罪。その重さに耐えられず、 綾子は翌年、教師を辞職しました。
 
綾子と同じように、自分がしたことに苦しみ、記念館を訪れた 人がいます。愛知県蒲郡(がまごおり)市の中学校で、英語の教師をしている 三浦嘉子(よしこ)さんは、二年前、旭川の文学館を訪れました。三浦さ んは、教師歴二十五年のベテランです。しかし以前から三浦さ んは、生徒たちにどういう態度で接すればいいのか。どうした ら生徒たちと心を通わせられるのか。教師としての自分に悩ん でいました。そんな三浦さんが、初めて読んだ綾子の作品は、 デビュー作の『氷点』でした。

 
三浦:  朝日新聞で、連載されていた時に、夢中になって読みました。 これ一体どうなるんだろうということで、この続きはどうなる だろうと、一生懸命読んだんですけど、ただ、まあやっぱり途 中で、どうにも設定がこう人工的というか、作ってあるなあと いうのが、どうにも気にかかって、最後までそれがちょっと抜 けなかったんですけど。ただ、もの凄くこの次ぎどうなるだろ うと、次を楽しみに読ませてくれたという感じはしました。ど うしてもこのあまりに人工的な感じが抜けなくって、それから 暫く綾子さんの小説を読むということは特になかったんですね。
 

 
語り手:  教師としての自信が無くなった時、悩みを抱える度に、三浦さ んは幼なじみの親友に相談してきました。中学校からの仲良しで、進学、結婚、 離婚など、三浦さんの人生の大切な時期には、必ず側にいてくれた人です。五年 前のことでした。三浦さんに突然、悲しい知らせが届きます。いつも悩みを聞い てくれていた親友が、何も言わずに、海で自殺をはかったのです。どうして親友 は、自分に悩みを打ち明けてくれなかったのか。三浦さんは、やり切れない思い を、二年前、「想い出ノート」に綴りました。最愛の親友を、自殺ということで失 った苦しさから、常に逃れられないでいました。読み出すと、引き込まれて止ま りませんでした。そして、記念館を訪ねようと、その頃から思っていました。涙 が流れて止まりませんでした。
 

 
三浦:  私は、自分の苦しさはいつも彼女に聞いて貰っていたのに、彼女の苦しさを聞い てあげれなかった自分に、ほんとに至らなかったなあと思いました。で、彼女が 苦しんでいるということを、ほんとに分かったのに、何もしてあげられなかった のが、かえって追い打ちをかけるみたいな、きつい言い方をしちゃったなあとい うふうに、後から思い出して堪らない気がありました。そんなこともきっかけで、 綾子さんの小説を次から次へと読んでいったということがあったと思います。綾 子さんの小説の中には、「人間は生きていく限り必ず人を苦しめてしまうところが ある」。それから、「まるっきり罪を犯さずに生きるということはあり得ない」っ て。「原罪」というのが出てきますけど。自分が生きるということは、悪気が何に もなくとも、やっぱり人の心を傷付けていくということがあるんだなあというこ とに気付きだして。
 

 
語り手:  昔読んだ時、設定に違和感を感じた『氷点』。しかし今は、綾子が小説の中で問い 掛けたメッセージが、痛いほど三浦さんの心に響いてきました。小説『氷点』は、 自分の子供を殺された夫婦が、その殺人犯の娘を養女にしたことから起きる愛と 憎しみの物語です。自分が殺人犯の子であることを知った娘は、物語の終盤、そ の出生に耐えられず、自殺をはかります。娘の遺書を見た父の啓造は、心の中で 呟きます。
 
信頼し合ったことさえ、悲劇になることもある。どこかが間違っている。 信頼とはこんなものではないと、啓造は思った。
人間の存在そのものがお互いに思いがけないほど深く、関わり合い、傷 つけ合っていることに、今さらのように啓造はおそれをかんじた。
(『氷点』より)
 
三浦:  自分が人を、友だちを分かってあげられなかった。支えてあげられなかった部分 というのが、ほんとに耐えていたんですけど、人間というのは、そんなに満ち足 りた存在でもなくって、欠けているところがいっぱいあって、そのつもりではな いのに、人を傷付けたり、それからほんとに人間同士分かり合えるということは、 たとえ夫婦とか、それからずーっと幼なじみで育ってきた、そういう友だち同士 の中ですら、ほんとに分かり合えるということが、なかなか難しいんだ。あり得 なくとも当たり前なんだということを、教えて頂いたような気がします。だから 自分が、そう出来なかったところを、自分でやっぱり責める部分がずーっとあっ たんですけど、そこら辺はなんかほんとに小説を読む中で救って貰ったような気 がします。
 

 
語り手:  二年前、三浦嘉子さんが文学館を訪れた時、息子の信之(のぶゆき)さんも 一緒でした。信之さんも、「想い出ノート」に記(しる)しています。
 
人間関係を円滑にすることでいつも苦しみます。そし て挫折して、仕事を辞職することも多くありました。 二十七年人生をやってきましたが、かなり苦しいこと が多かったです。
 
信之さんは、これまで二回仕事を変えてきました。初めはホームセンターに就職 をしましたが、人間関係に躓き退社。その後勤めた会社も半年で辞めました。い ま信之さんは、母親の嘉子さんと二人暮らしです。旭川の文学館を訪れたのは、 会社を辞めて間もなくの頃でした。

 
信之:  何というのか、コミニュケーションを取ることから引いてたと いう状態を引きずりながら、仕事を続けていますので、ストレ スを引きずっていたまま、仕事を続けているという状態であっ たということですかね。やっぱりこの人と合わないと思うと、 やっぱり引いちゃうんでしょうね。なんというか付き合いを最 低限ぐらいにしちゃうというか。やっぱり自分の火の粉が及ばない程度にしちゃ うというか。そんな感覚ですね。
 

 
語り手:  信之さんは、『想い出ノート』に、文学館の中で見付けた三浦綾子の言葉を記して いました。小説『帰りこぬ風』の一節です。
 
人間にとって、転んだことは恥ずかしいことじゃない。起き上がれない ことが恥ずかしいことなのだ。
 

 
信之:  これまで自分も二回仕事を結局辞めていますので、やっぱり自分の中で、「ダメな 人」という烙印を押しかけていましたので、無意識のうちに、そんなふうな考え 方になっていましたので、受けた衝撃が大きかったんだと思いますけどね。やっ ぱりまだまだ日本の人の意識には─まあ今そうないと思いますけど、「仕事を辞め ちゃう人はダメな人」という、レッテルというんですかね、そういった意識づけ は、やっぱり大なり小なりあると思うんですね。ですけどもやっぱり今はリスト ラとか凄く進んでいますし、綾子さんの「転んだことが恥じゃない」というセリ フが、印象を受けたんです。一方的に、どんどん感動を受けたという印象のほう が強いんですけど。ですけど何か心洗われるという詩でもありましたね。

 
語り手:  その後、信之さんは多くの会社の就職試験を受けますが、採用 されませんでした。今は、コンビニエンスストアで、深夜のア ルバイトをしています。信之さんは、今、福祉の現場で働きた いという夢を持っています。「人間にとって転んだことは恥ず かしいことじゃない。起き上がれないことが恥ずかしいことな のだ」。三浦綾子のこの言葉を胸に、信之さんは日々を過ごしています。
 
稚内にほど近い北海道豊富(とよとみ)町。まだ深い雪に覆われたこの町か ら、記念館を訪れた親子がいました。
 
出歩くことを、嫌がるようになった八十歳の母に、ゴ ールデンウイーク、三浦綾子文学館に行こうと勧める ととても喜び、片道三時間半の旅を苦にすることなく やって参りました。親孝行も出来、嬉しいです。また 毎晩母は綾子さんの本を手に眠ることでしょう。感謝 です。
 
このノートを書いた浜田真理(まり)さんです。豊富町で長年保育園の先生をしてきまし たが、去年の春に退職しました。今は、育児のボランティア活動をしています。 真理さんが、「想い出ノート」に、「毎晩綾子さんの本を手に眠るでしょう」と書 いたのが、母・山口とみさんです。八十一歳。一昨年、住み慣れた故郷から、真 理さんのいるこの豊富に移り住みました。とみさんは、娘のもとに引っ越して来 る時に、三浦綾子の本を大切に持ってきました。何度も繰り返し読んだ本。読む 度に、とみさんは自分が生きてきた時代を思い起こすのです。
 

とみ:  そうですね。私たちの育って生きてきた時代は、大変な時代で したから、何ていうのかな、やっぱり生きてきた戦前、戦後、 生きてきた心の中に仕舞ってあるアルバムのようなものなんで すね、私たちの。
 

 
語り手:  そんなとみさんの心に残る作品の一つが、小説『泥流(でいりゅう)地帯』です。『泥流地帯』 は、大正十五年に起きた十勝岳(とかちだけ)の噴火を題材に書かれました。 不条理な運命に翻弄(ほんろう)されながらも、必死に生きようとする開拓 農家の物語です。厳しい自然、貧しさの中で懸命に働く主人公 の耕作。しかし火山の噴火によって起こった泥流で、耕作は丹 精込めて耕した畑も家も家族も、一瞬にして失います。
 
耕作はぼんやりと泥流を眺めた。大きな渦を巻きその 渦がたちまち流れ去る。えん豆(どう)畠も小豆(あずき)畠も、大根畠 も薯(いも)畠も、いや、家さえも、ことごとく、根こそぎ泥流は押し流してい ったのだ。そこにはも早住み馴れたふるさとの姿はなかった。
         (『泥流地帯』より)
 

 
とみ:  そこを見るともう感動しちゃって、『泥流地帯』のとこなんかね。昔は、川とかそ ういうとこの設備がキチッとないから、一度大雨降ったら、もう大変なんですよ ね、農家でも。川の近くにあるほんとに泥流地である、そっくり。肥料をたくさ ん作って、撒いて作っている畠が、もう一雨降ったら流されてしまう。またそこ を耕して種撒いてね。まあ綾子さんの本って、何か身近に、「あ、私もこういうこ とあったんでないかなあ」というような、こう想い出もついてくるような書き方 なんですよね。そこが好きだったの。同じね、「ああいうことも、そう言えばこう いうことも、私にもあったかなあ」とかね。
 
 
語り手:  とみさんは、大正十年生まれ。三浦綾子とは一つ違いです。二 人は、北海道で同じ時代を生きてきました。とみさんは戦後、 十勝平野で小さな食堂を営んでいました。お客さんは、周囲の 開拓農家の人たち。みんな顔馴染みで、農作業の忙しい合間、 とみさんの食堂で一服しては、作物の出来具合や家族のことな ど、食堂はいつも笑い声に包まれていました。
 

 
とみ:  そうです。楽しかったですよ。ラーメンはね、みなさんに褒められてました。い ま聞いていても嬉しいです。
 
質問者:  どんなスープだったんですか?
 
とみ:  スープはね、やっぱり豚骨とか、その他いろんな魚とか、いろんな独特な味にし ていました。
 

 
語り手:  朝早くからのスープの仕込み。お客さんの相手、 子育て、そんな忙しい合間をぬって、同時代の 作家・三浦綾子の本を読むのが、とみさんの何 よりの楽しみでした。三浦綾子も作家としてデ ビューする前、旭川で雑貨屋を営んでいました。 仕事の合間、新聞の懸賞小説に応募し、入選し たのが作家になるきっかけでした。一つ違いの 三浦綾子が描く、北海道の庶民の暮らしや風景。 とみさんは自分が生きてきた時代の苦労や喜びを重ね合わせ、夢中になって読み ました。
 

 
とみ:  読みましたよ、夜寝ないで。忙しい時期だったけど、その合間あい間読んだから ね。想い出に繋がっていますよね。お客さんが来なえばええなと思って読んでい た。それを思い出すね。
 
 
語り手:  地元の人たちに、長年愛され続けたとみさんの食堂は、絵はが きにもなりました。ここ数年は、たった一人で切り盛りしてい ました。五十年近く頑張って続けてきた食堂は、とみさんの誇 りでした。しかし、八十歳になった一昨年、これ以上一人で続 けるのは難しいと、食堂を閉じる決心をしました。
 

 
とみ:  何十年も住んでいたから友だちと別れるのがね。近所の人も、私と同じく歳とっ てくるでしょう。だから話相手もなるし、いろんなことを相談したり、されたり しながらね。でも体がだんだん弱ってくるし、物忘れが多くなってくるからね。 あ、こんなにしていたら、近所の人に迷惑かかるからなあということもあったし。 でも友だちと別れるのも辛かったですよ。
 

 
語り手:  辛い思いで店を畳み、住み馴れた地から、車で八時間以上かかる豊富町へ。娘夫 婦以外に、知り合いのいない土地で、とみさんはほとんど外に出歩かなくなりま した。
 

 
とみ:  一歩出ても知らない人ばっかりだから、寂しかったのね。だから一生懸命本を読 んだり、写真出して見たりして。二人が勤めから帰ってくるとね、家の中、楽し かったけどね。外へ一歩出て、いろんな人が通っても知らない人に会ったようだ ということぐらいね、ほんとに言葉がないということは寂しいですよね。
 

語り手:  家の中に引きこもりがちだった去年の春、娘の真理さんに、「一 緒に行こう」と誘われたのが、三浦綾子の記念文学館でした。 文学館に足を運んで、とみさんは、三浦綾子の本を夢中で読み ながら、忙しい食堂の仕事を頑張っていた自分自身を思い出し ました。
 

 
とみ:  ほんとに嬉しかったもの。ほんとにね、良かったね。
 
真理:  母が来て、不馴れで住んで、いわば長い間住んだ土地からこち らに移って、ほんとに幸せなんだろうかというあたりでは、決 して幸せではないだろうというふうに思っていましたね。です から、ゆっくり馴れて欲しいというあたりでも、そうですけれ ども、その埋め合わせをどうするのかというあたりでもとても 難しい。わが家ばかりでなくて、多分歳をとって、子どものと ころとか、また住居が変わったというあたりでは、大変な問題になっているとこ ろだろうと思うんですけれども。ほんとにこういうきっかけが、少しずつ母に元 気を取り戻させ、私もそこで少しホッとして、
 
とみ:  もう一度三浦綾子さんの文学館にゆっくり行ってきたい。なんか初めて見るとこ だし、もう感動しちゃってね。チョロチョロしてね。じっくり見たい。ゆっくり した気持でね。
 

 
語り手:  雪が解け、遅い春が訪れる五月。桜が咲く頃になったら、もう一度三浦綾子さん の文学館に行きたい。とみさんは今から楽しみにしています。
 
北海道名寄(なよろ)市。市役所に勤める渡辺孝哉(こうや)さんは、一昨年の秋、 「三浦綾子記念文学館」を訪れました。渡辺さんは、「想い出 ノート」にこう記しています。
 
私も亡くなった母の顔も知らない父。私が来るのを待 っている。八十五歳の父に、三浦綾子さんの作品を少 しずつ読んであげたい。三浦綾子さんの生きる道を、 父に照らし合わせて尽くしたいと思う。
 
この日、渡辺さんは、老人ホームにいる父のために、下着と帽 子を買いました。渡辺さんは、作家・三浦綾子を知ったのは、 父がきっかけでした。渡辺さんの父親は、車で十分ほどの名寄 市内の老人ホームで暮らしています。毎日父のもとに渡辺さん は顔を出します。父親が、この老人ホームに入ってから六年、 一日も欠かしたことはありません。父・渡辺春雄さんは八十七 歳。前立線腫瘍を患い、現在は寝た切りの生活です。
 

 
孝哉:  じいちゃん、父さん来たよ。
 
春雄:  うん。
 
孝哉:  大丈夫。帽子を取り替えるね。新しくもう一つ ・・・はい、帽子。大丈夫?寒くない?帽子温 かいでしょう?
 
春雄:  あったかい。
 
孝哉:  うん。これ毛糸の帽子だからね。
春雄:  うん。
 
孝哉:  じいちゃんもそうだもんな。年明けたら、もう八十七だもんね。
 

 
語り手:  父・春雄さんは、二十七歳の時に、緑内障で失明しました。そ の後キクエさんと結婚。キクエさんも身体が弱かったため、二人はお互いを支え 合いながら生きてきました。そんな両親の姿が、渡辺さんには、晩年の三浦夫妻 に重なって見えました。
 

 
渡辺:  三浦綾子さんとご主人が支え合っているものが、自分の父もガ ンと、お袋が腎臓病でオシッコが出なくなって、二人とも重い 病気を背負っている中で、やはり携えて助け合っている姿が、 ある意味では、三浦綾子さんの夫婦とも照らし合わせて、父が、 母がそれぞれ二人とも病気が─重い病気だったもんですから、 ある意味では三浦綾子さん夫婦の人間愛というか、そういうも のに照らし合わせた面はありまして。

 
語り手:  三浦綾子は晩年、ガンやパーキンソン病に冒されました。夫の 光世(みつよ)さんは、綾子の身の周りの世話をし続けました。ペンを握 ることが出来なくなった綾子の代わりに、光世さんんは、綾子 が語る内容を口述筆記し、陰から執筆活動を支えました。夫・ 光世さんの綾子への献身的な介護は、死の間際まで続きました。
旭川医大病院の窓辺に立っていた三浦 のうしろ姿が見える。痛い痛いと、痛 みに耐えかねていた私が、いつしか軽 い笑いを漏らしていたのを、三浦は何 と思って見つめていたのか。その愛の 確かさが、痛いほど身に迫ってきて、 涙が出る。
(『明日のうた』より)
 
渡辺さんの父・春雄さんは元気だった頃、よく三浦綾子の作品に触れていました。 地元のボランティアの人たちが吹き込んだ、読み聞かせのテープを聞いていたの
です。当時、テープで聞ける本は限られていま した。
 

 
渡辺:  昔は本が読むのが好きだったんですけども、目 が不自由になってから、点字の場合は、医学の 本が主だったもんですから、普通の本を読みた い時には、やっぱりこのボランティアの人のテープでもって、本に接することし か出来ないもんですから、これで随分たくさん三浦綾子さんの作品を読ませて頂 いた。
 

 
語り手:  春雄さんは、『氷点』や『泥流地帯』など、三浦綾子の代表作を、何度も繰り返し 聞いていました。春雄さんは、針灸のマッサージの資格を取り、一家の生計を立 ててきました。春雄さんは、趣味で始めた短歌に、自分の気持を詠んでいます。
 
妻も子も盲(めしい)て後の縁ならば
  顔も知らずに一生(ひとよ)を終(お)えん
 

 
渡辺:  目が見えないとこで、一生懸命苦労した姿を見て、妻や子供の 顔も知らない。よもや孫の顔を見ることも出来ない。ほんとに 穏やかな優しい父である。その父が作った短歌も、生活感が滲み出ていて、また 父の生き様が、苦労して生きてきた父は、やっぱり尊敬出来る父だと思っていま す。
 

 
語り手:  四年前、母のキクエさんが亡くなりました。父を長い間支えてきた母の死。渡辺 さんは今度は、自分が母に代わって、父を支えていこうと心に誓いました。文学 館を訪れて一年。最近、渡辺さんは父の元に向かう時、三浦綾子が死の間際まで 書き続けた作品『明日をうたう』を持って行きます。
 

孝哉:  (本を読んで聞かせる)第一章、苦難をテーマに。一九六四年、 『氷点』が入選して、文筆生活に入ったことは既に書いた。一 九七五年は物を書き・・・・、
 

 
語り手:  今の春雄さんは、元気だった頃のように、テープを聞き取るの は出来ません。渡辺さんは、大きな声で耳元で読んで聞かせます。
 

 
孝哉:  三浦綾子のテープは、じいちゃんなんかどれか聞いたの、覚えている。『氷点』と か、
 
春雄:  氷点なんか聞いたな。
 
孝哉:  ほんと。覚えている、少し。
 
春雄:  うん。
 
孝哉:  もうちょっと読むね。・・・(本を読む)
 
孝哉:  どこか痛くない? どこも大丈夫?
 

 
語り手:  目が見えない身体で、懸命に自分を育ててくれた父・春雄さん。その生き様を、 渡辺さんは、三浦綾子に重ねています。
 

 
孝哉:  ラジオ聞くかい? 少し休む。どっち?
 
春雄:  休む。
 
孝哉:  よし。そうしたら、丹前と布団かけておくよ。
 
春雄:  考ちゃんは市役所に勤めているのか?
 
孝哉:  今ね。市役所の税務課の係長になっているから安心していてね。分かった?
 
春雄:  はい。
 
孝哉:  昨日も一昨日も来て行ったから、毎日来ているんだよ。じいちゃんとこへ仕事終 わってからね。分かった?
 
春雄:  うん。
 
孝哉:  また明日来るからね。
 

 
語り手:  父・春雄さんと息子・孝哉さん。支え合って生きる二人です。人はどのように生 きたらいいのか。作家・三浦綾子は、七十七年の生涯をかけて問い続けました。
 
人間というものは、毎日試されて生きているようなものですね。さまざ まな問題にぶつかって、思いもかけない自分の姿を見なければならない というのが、私にとっては人生のような気がします。
 
 
     これは、平成十五年三月一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである