人間・空海に助けられて
 
                              哲学者 上 山(うえやま)  春 平(しゅんぺい)
一九二一年和歌山県生まれ。哲学者・京都大学名誉教授。著書に「神々の体系」「空海」他。
                              ききて 峯 尾  武 男
 
峯尾:  三百五十段という長い石段を登り、漸く神護 寺に着きました。京都市の西、高尾山にある 神護寺は平安時代に作られた真言宗の寺院で す。平安時代、日本に真言密教をもたらした 空海が日本に帰って来て、最初に入ったのが この神護寺、当時の高尾山寺です。今日の「こ ころの時代」はその空海に青年時代助けられ、 それ以来空海に惹かれてきたという哲学者上 山春平さんに、上山さんにとっての空海のお話を伺います。
 

峯尾:  上山さん、この神護寺にはよくいらっしゃるんですか。
 
上山:  はい。私が三十代の初め頃、京都の大学に帰って来ましたので、 それからしばしば行っていますし、博物館に関係したあたりで、 もっとしげしげと参るようになりました。
 
峯尾:  ああ、そうですか。私、初めに、「上山さんは青年時代に空海 に助けられた」というふうにご紹介したんですが、これはいっ たいどういうことなんですか。
 
上山:  ちょっと大袈裟な感じがしますけどね。実は私、十七歳から十 九歳位の問題の世代ですね、その頃にちょっと酷いノイローゼ になったわけです。サイクリック(cyclic)のきついやつです ね。だから気持のいい時はとってもいいんですけど、ディプレ ッション(depression)の時は非常に危ないんです。そういう のを三、四年続けていました。その最中に二度も自殺を試みた りしたことがあったのですが、二度目に失敗した後から、もうこれは着実に生き る以外にないと思い定めまして、そちらに歩み出したんです。そんな時に、京都 の大学に来たんです。その頃に、「弘法大師に出会った」といいますか、弘法大師 に出会って活路を見出す糸口を掴んだわけです。そのおかげで 今日まで生きて来られたという実感があるんです。それでちょ っと大袈裟に、「助けられた」などと申したわけです。
 
峯尾:  今、「出会った」とおっしゃいましたけども、その出会いとい うのは、どういう形のものだったんですか。
 
上山:  それはかなり前段階があるんです。非常にハッキリしているの は、空海の書いた本に巡り会ったんですね。本というのは、空海が二十四歳の時 の処女作と申しますか、最初に書いた『三教指帰(さんごうしいき)』という本があるんです。その 『三教指帰』という本の序文で、僕は、何か「これだ」と思うものに出会ったわ けなんです。それが空海との出会いの始まりです。
 
峯尾:  空海の若い頃の著作に、京都の大学へいらっしゃったばっかりの上山青年が出会 って、特にその序文で、「これでもしかすると、自分は救われる」というか、そん な思いになられたわけですか。
 
上山:  そうです。その序文の中にヒントがあったんです。それまで、ちょっと前話があ るんです。私は、京都に来て、銀閣寺のそばに住んでいたんです。お盆の時に送 り火を焚く大文字山のふもとです。その大文字山に、下宿のおばさんから勧めれ れて、僕がフラフラしているものだから、「気 が晴れますよ」ということで、登ってみたん ですね。ちょっと大変なんです。四百メート ル位ありますから、途中で何回か休みながら 登ってみたら、もの凄く気持がいいんですね。 目の下に大学が見えるし、京都の街が一望で きる。そういうことで、ときどき大文字山に 登っていましたら、あそこは弘法大師の信者 の方がおられまして、朝早くからお詣りしていることが分かってきたんです。僕 も朝早く登ってみたら、あそこでお経を称えているんですね。その頃何も分から なかったんですが、だんだん何を称えているか分かってきて、そういう人たちの 中に混じってお経をとなえたりしているうちに、弘法大師にだ んだん関心をもってきたんです。そして、ある時、本屋に行っ たら、こんな薄っぺらい『三教指帰(さんごうしいき)』というのがあるんです。 「あ、空海の書いたものや」と思って、ペラペラとめくってい ましたら、「自分が若い時に云々」ということが書いてあって、 「虚(こ)空蔵求(くうぞうぐ)聞持法(もんじほう)をやって、何となく気持がスッキリした」 というふうな意味のことが書いてあったわけです。それで、 「あ、これだ」と思った。自分がなんとなくモヤモヤしていま したから。そこに、「虚空蔵求聞持法というのは、虚空蔵菩薩 の真言(ダラニ)を百萬遍称えることが中心だ」と書いてある。 僕も「これをやってみよう」と思ったのです。大文字の大の交 点に、御大師さんを祀った祠があるんですね。そこでみんない ろいろお称えをしている。僕もあそこへ行ってこのダラニを繰(く) ろう、と思い立ったのです。先程、『三教指帰』によって、「救 われる糸口が出来た」と申しましたのは、それをやり始めてか ら、僕の気持がだんだん安定してきたことがあったからです。
 
峯尾:  実際、通い始めてどれ位の期間、それをなさったんですか。
 
上山:  大学の二回生の初め頃から始めたんです。それを毎朝暗いうちから起きて、無茶 苦茶に早いんです、三時から四時頃に起きて、家を出る時から虚空蔵菩薩の真言 を称え始めるわけですね。それでずーっと登ってお堂の所まで行く。大文字の大 の真ん中まで。お堂に入ってまたずーっと繰って。私は、一年かけてやろうと思 いまして、二千から三千、ともかくやっていく。通しでともかく百万遍やってみ よう、という。それ勝手に考えたことなんですね。そのころ私は京大の哲学科に いたんですけど、行(ぎょう)に相応(ふさわ)しいように丸坊主にしていました。それが教室の前の 方に座るわけです。出来るだけ先生の話を吸収しようと思って。それがグーグー いびきをかいていつも寝ていたということを覚えてくれている人がいますけど も、そういう状態でやっていましたね。
 
峯尾:  で、まさに一年通われて、非常にディプレッション(depression)の苦しい時代 から、上山青年は見事立ち直ったわけですか?
上山:  非常に活力が出てきましたね。当たり前なんです。朝早く起き て、四百メートルばかりの急な山道を、初めは休み休みですが、 ほとんど駈けるように登れるようになってきました。そうした ら身体が見る見る元気になってくる。それともう一つ、大文字 山は街に近いですけれど、ちょっと入るとやっぱり山なんです ね。春になると山ツツジが絢爛と咲きみだれ、秋には色とりど りの紅葉につつまれる。ほんとに極楽という感じですよ。下宿 で寝ていたら十時位まで寝るわけでしょう、下手すると。講義 がある時でもせいぜい八時ですわね。それが真っ暗なうちに起 きる。あそこの道端にはコンコンと泉が湧いているんです。そ れで顔を洗って腹一杯飲むわけです。そうすると、何か山のエ ッセンスを頂いたような感じになってくる。まあ後で考えたら 身体にいいことばっかりしているんですよ。朝早いから、夜は 早いんですね。もうすぐ寝付いてしまう。こんなことって生ま れて初めてです。長いこと本の中に埋まっていたのが、そうい う自然の中に埋まって、しかも四百メートルの山を登って、ダ ラニという単純なものを繰り返していると、頭が冴えてくる。申し訳ないことで すが、弘法大師信仰とかいうことでなくて、弘法大師に初めのボタンだけ押して 貰った感じで、後はまあダラニにかこつけて、健康法をやっていたような感じで すね。
 
峯尾:  で、実際にそれをなさるに際して、今度は称える真言(ダラニ)をこちらに用意 しましたので、これを見ながらご説明頂けますか。









 

虚空蔵菩薩の真言

南牟 阿迦捨掲婆耶 ? 阿?迦摩? 慕? 莎?訶
ナウボウ アキャシャギャラバヤ オン アリ キャマリ
ボリ ソワカ
Namo ãkã?agarbhãya om arikah mari muri svãhã
ナモ アーカーシャガルブハーヤ オム アリカ マリ
ムリ スバーハー
 
上山:  ややこしい字書いていますけど、もともとはサンスクリットなんですね。サンス クリット(梵語)で書いてあるわけですが、ダラニというのは大体そうなんです。 それで一番原型に近いのは、左に書いてあるものです。
 



 

ナモ アーカーシャガルブハーヤ
オム アリカ マリ ムリ スバーハー
 
 
という。この「ナモ」というのは、「南無阿弥陀仏」なんかの「南無」と一緒なん です。要するに、「帰依し奉る」という。「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀さんに帰 依し奉る」ということですね。「アーカーシャガルブハーヤ」というのは、「虚空 蔵」ということです。「アーカーシャ」は、「虚空」。「ガルブハーヤ」は、「蔵」 に当たるわけです。菩薩の名前ですね。「ナモ アーカーシャガルブハーヤ」を、 僕などは訛って、普通の密教のお勤めのものに書いている読み方で、「ナウボウ アキャシャギャラバヤ」と読んでいたんです。これはどういうことかというと、 「虚空蔵菩薩に帰依し奉る」。その次ぎに、「オム」というのは、なんかを祈る時 に頭に付けるんです。下の「スバーハー」というのは、「ソワカ」と言いますね。 般若心経でも「ギャテーギャテー」というダラニのしまいに「ソワカ」とついて いますね。要するに、「これが成就しますように」という、「アーメン」と一緒で す。「オム」と「ソワカ」の間の「アリカ マリ ムリ」というのは、これはどうも このダラニが擦り切れて、原型を留めていないようです。サンスクリットの専門 家たちもお手上げなんです。これは分からん、と言われる。要するに、擦り切れ て。「虚空蔵菩薩に帰依し奉る」という前半だけはハッキリしている。だから、「南 無阿弥陀仏」と一緒で、「南無虚空蔵菩薩」と言って称えていたわけですね、私は。 後でこういうことがだんだん分かったんですよ。初めはぜんぜん分からなかった。 「ナウボウ アキャシャギャラバヤ オン アリキャマリボリ ソワカ」というふう に、普通の庶民が言ってる称え方で。
 
峯尾:  今、上山さんの口からごく自然に出ましたが、若い頃に称えられたものが、今で ももう全部頭に─。
 
上山:  これはもう忘れることはないですよ。
 
峯尾:  そうですか。で、それは実際に歩きながら、お数珠を繰りながらなさるんですか。
 
上山:  そうです。実はこのお数珠は後で申し上げますけども、私がこれを半年以上やっ て、一年近くやった時に、正式の「虚空蔵求聞持法」というのを一遍教わってお こうと思って、紹介者を得て、東寺というところがありますね。あそこに種智院(しゅちいん) 大学というのが、今ありますが、空海の作った「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」の跡です。当時、 中学だったんですかね、そこの先生をしておられた長谷(はせ)宝秀(ほうしゅう)という方がいて、そ の方は、『弘法大師全集』を編纂した非常な学究の方なんです、後で知ったんです けど。その方に、「虚空蔵求聞持法」というのを型通り、伝授に従って教えて頂い たということがあるんです。その時に、長谷先生からこれを、「私の使い古したも のですが」と言って、頂いたんです。初めはこういう数珠でなくて、自分で買っ た普通の数珠ですが、途中からこれでやり始めたんです。「ナウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャマリボリ ソワカ」という真言を、 一つ称える毎に、この数珠の珠を一つ、この太い大きな珠こ れを親珠と言いますが、そこからスタートして、一つ、「ナウ ボウ アキャシャギャラバヤ オン アリキャマリボリ ソワカ」、 二つ「ナウボウ アキャシャギャラバヤ オン アリキャマリボ リ ソワカ」二遍目やったら二つ、「ナウボウ アキャシャギャ ラバヤ オン アリキャマリボリ ソワカ」三つ、ずーっとこう やっていくわけです。こうやって、「ナウボウ アキャシャギャ ラバヤ オン アリキャマリボリ ソワカ」と 爪でこうやっていきますでしょう。そうした らこの親玉にぶつかるんですよ。これで五十 四個の珠が連なっている。五十四回ダラニを 繰ったことになるんです。親玉にぶつかりま すと、ターンして、また「ナウボウ アキャ シャギャラバヤ オン アリキャマリボリ ソ ワカ」こういって、出発したこの親玉に返っ てきます。そうすると、これで百八。ところ がこの「百八」というのは煩悩の数らしいん ですが、それを乗り越えてきているわけです、 指先だけで。この百八を百とカウントするん です、おまけしてですね。そして、実はここ のところに二つぶら下がっているものがあっ て、そこに五つずつ小さい珠が連ねてあるん です。これを一つ上げるんです。一回往復し たら。これで百ですね。それから二回往復し たら、二百というふうに。片一方だけで五百 いくんですね。そして、両方やりますと、千 いくわけですね。千いきますと、これを全部 一旦下ろすんです。そして今度、向こうを一 つ上げるんですね。そしてまたこっちでずー っと百、二百、三百、・・・それでその次ぎ 千になりましたら、二つ目のこれを上げるん です。これが二千です。こちらにも五つずつ 連なったのが二つありますから、一万までカ ウント出来ますね。僕は、毎日二千から三千繰って、ともかく一年で百万遍を目 標にしました。そんなことは先生から授かった人には許されないことですけども。 大体歩きながら数珠を繰るなんていうこともあんまりないことだと思うんです が、僕はともかく百万遍というのが基本だと思いまして、これをずーっと繰りな がら大文字山の大師堂に通ったんです。
 
峯尾:  「今、いくついった」なんていうのは、歩いている時には頭に無くても、
 
上山:  手の触覚だけです。後、シュッシュと上げて、サッと下ろしていけばいいわけで す。そうでないと、真言をとなえていますから数はカウント出来ません。浄土教 関係でも、「百万遍」というお寺があるように、昔は、「百万遍」というものに拘 っていたところがあったのかも知れませんね。
 
峯尾:  しかし、その大もとは、先程お話があったように、特に「三教指帰」の序を読ん で、「これだ」と思われたということですが、その序にどのようなことが書いてあ るか、ちょっとそれを教えて頂けますか。
 
上山:  これは申し上げておきたいと思っていたんです。漢文で書かれた「三教指帰序」 です。これは、「空海(弘法大師)さんはこういう字で書いたんですよ」というこ とをお知らせするためにやったので、一々漢文を読んでいくつもりはございませ ん。初めの方だけちょっと字に則して読んでいきますと、
 













 

三教指帰序

余年志学 就外氏阿二千石文学舅
伏膺鑚仰。二九遊聽槐市。拉雪蛍於猶怠。
怒縄錐之不勤。爰有一沙門
呈余虚空蔵聞持法。其経説。
若人依法誦此真言一百萬遍。
即得一切教法文義諳記。
於焉信大聖之誠言。
望飛?於鑚燧。
躋攀阿国大瀧獄。勤念土州室戸崎。
谷不惜響 明星来影。
 
 
(余年(よとし)志学(しいがく)にして外氏阿二千石文学(がいしあじせんせきぶんがく)の舅(きゅう)に就いて伏膺(ふくよう)し鑚仰(さんごう)す。二九(じきゅう)に して槐市(かいし)に遊聽(ゆうてい)し雪蛍(せっけい)を猶ほ怠るに拉(とりひし)ぎ、縄錐(じょうすい)の勤めざるに怒(いか)る。爰(ここ) に一(ひとり)の沙門(しゃもん)あり。余に虚空蔵聞持(こくうぞうもんじ)の法(ほう)を呈(しめ)す。其の経(きょう)に説かく、「若(も)し 人法(ひとほう)に依って此の真言(しんごん)一百萬遍(まんべん)を誦(じゅ)すれば、即ち一切の教法(きょうぼう)の文義(もんぎ)諳(あん) 記(き)することを得」と。焉(ここ)に大聖(だいしょう)の誠言(じょうごん)を信じて飛?(ひえん)を鑚燧(さんすい)に望み、阿(あ) 国(こく)大瀧獄(たいりゅうのたけ)に躋(のぼ)り攀(よ)ぢ、土州室戸崎(としゅうむろとのさき)に勤念(ごんねん)す。谷響(たにひびき)を惜まず、明星(みょうじょう)来(らい) 影(えい)す)
 
「余」私は、「年志学(とししいがく)にして」というふうに読むんですが、これはどういうこと かというと、「志学」というのは論語からきているんです。「十五にして学に志す」 とあるのをふまえて、「私は十五歳で」と言っているわけです。その次はちょっと ややこしいんですが、「外氏阿二千石(がいしあじせんせき)文学」と、「舅(しゅう)」と書いてある。「舅(しゅう)」は叔 父さんということです。母方の叔父さんに大学者がおるんです。阿刀大足(あとのおおたり)という。 この人は親王さんの、言うたら国費で養われている家庭教師みたいな立場の人で す。空海はこの人に就いたんです。この人に就いて大いに勉強した、と。この人 を崇めて、その次ぎ、「二九(じきゅう)」にしてという、「二九(にく)・十八(じゅうはち)」で、十八歳のことで す。こういう書き方をよくするんです。「槐市(かいし)に遊聴(ゆうてい)す」というのは難しいんです が、「槐市(かいし)」というのは大学です。「十八歳で大学へ入りましたよ」と。そこでは 蛍の光窓の雪みたいに大いに頑張ってやりましたよ、と。そういうことが書いて あるんです。要するに、自分は十五で勉強始めて、十八で大学に入りましたよ、 と。この大学は律令制の大学ですから、明治初年の東京帝国大学みたいなもので す。一つしかなかったんです、都にね。しかも、それは東京帝国大学と同じで、 高級官僚を養う、エリート官僚養成所ですね。彼はそこへ入ったんです。この人 は、お父さんは今の香川県、讃岐(さぬき)の国の知事さんにあたる国司(こくし)というのがあるん ですが、それの下に地元で援助する立場にあったんです。郡司(ぐんじ)と言うんですが、 国の下の郡という単位の長ですね。そういうところの子弟は大学でなくて、国学(こくがく) というのがあるんです。国の学。「阿波の国」だとか、「讃岐の国」の「国」です ね。それが相当なんですが、彼は叔父さんのコネかなんか知りませんけど、大学 に入ったんですね。ということは、ある意味でみんなから期待されて入っていた んだと思うんです。で、そこまでのことがまずこの三行の半分まで書いてあるわ けです。ところが注目したいのはその次のところです。「爰(ここ)に一(ひとり)の沙門(しゃもん)あり」と 書いているんです。「ここに一人の出家がいた」というのが突然出てくるんです。 大学で一所懸命勉強しているのに、出家となんの関係があるかと思われるんです が。
 
峯尾:  これは、「爰(ここ)に一(ひとり)の沙門(しゃもん)あり」と、「爰有一沙門」ここですね。
 
上山:  そうです。次ぎに「余に虚空蔵聞持の法を呈す」と書いてあるわけです。虚空蔵 求聞持法というものを教えてくれた、と。そういうのが突然出てくるんです。そ して、その後にそのお経にはどういうことが書いてあるかというと、この「真言」 というのは、虚空蔵菩薩の真言のことなんですが、それを「一百萬遍称える云々」 ということが書いてあるわけです。大学で一生懸命勉強していたところが突然出 家と出会って、虚空蔵求聞持の法というのを教えて貰った。その要点は、虚空蔵 の真言を百万遍称えることだ、とあるのです。私は、「あ、これだ」と思いまして ね。どうも空海という人は大学に入って、あまり面白くなかったんじゃないか、 と。学問が出来ない筈はないんです。それは後で書いた『三教指帰』を見てもも の凄く出来る。よくよく見ると、これは官吏養成所ですね。こんなところは当時 隆盛の極みにあった藤原氏の子弟たちは、お父さんたちのランクは高いものです から、息子はそのランクのいくつ後からスタートする、というルールがあって、 大学出たてでポンと高いところへいくんです。ところが、空海みたいに地方の官 僚の出身者はウンと低いところからしかスタート出来ないんですね。そういうこ とだけではないと思うけど、なんとなく官僚養成のそういう大学の雰囲気には合 わなかったんじゃないかなあ、と思ったんです。それで、虚空蔵聞持の法という のを、「一沙門」と言って名前も何にも書いていない。名のない人かも知らん。し かし、空海という人をそういう気持にさせるには、かなり苦労もした人であろう し、場合によってはインテリだったかも知らん。そして、どういうことが書いて あるかというと、この「大聖之誠言(たいしょうのじょうごん)」を信じ、というふうに書いてあるんですが、 これは何かというと、「大聖(たいしょう)」というのは、仏さんのことです。ブッダですね。 この「聞持の法」というのは、お経ですから、仏さんの説になっている。「仏さん が一百万遍称えたら、これはある意味で悟りに達する、というふうに約束してい るんだから間違いあるまい、と思って一所懸命やった」と。「飛?(ひえん)を鑚燧(さんすい)に望み」 というのは、どういうことかというと、弥生時代の人なんかがやっていたような 「火鑚臼(ひきりうす)」で火をおこすことなんですね。一所懸命炎が出ることを願ってやって いるとポッと火がつくように、行(ぎょう)をやれば報われるということですね。自分は一 所懸命そうやって、達成出来るように、と祈りながら、郷里の四国の阿波の国に 行って、「大瀧獄(たいりょうがだけ)」、これは今も求聞持をやる行場があります。八十八カ所の一 つの有名なところです。それから有名な室戸崎。こういうところに行って修行し た、と。そうすると、虚空蔵菩薩のシンボルであると言われる明星が、行(ぎょう)をやっ ていると大きくなって自分の中へ迫ってきたような印象を受けた、と。要するに、 自分はそこで何かを掴んだ、というふうなことが書いてあるわけですね。この中 で、僕は、この「一百萬遍」という文字にひかれて、「あ、これだ」と 思って、 「これをやろう」というふうに無謀にも思い付いたわけです。
 
峯尾:  なるほど。それがまさに青年期の上山さんが、空海が数え年二十四歳で書いた『三 教指帰』の、特に序文に触発されて、というか、立ち直った、というか─。
 
上山:  それは、驚くほど身体の気力は出てきましたね。自分で、ただもう百万遍という ことでね。「あ、百万遍というのは、上手な設定だったんだなあ」と、途中で思い ましたね。
 
峯尾:  今、お話にあったように、この序文にある空海が、都にただ一つの最高級の大学 に入って、それがある時突然一人の僧侶が現れて、仏教の方のお話になってしま うという、
 
上山:  聞持の法をいきなり教えてくれたんですね。「これをやりたまえ」と。
 
峯尾:  地方の官僚の息子である空海が、たとえ大学に入っても最高の地位は?
 
上山:  もう下っ端官僚ですよ。
 
峯尾:  いうなれば、空海は、自分が最初に目指した道が、自分にとって最良のものでは ない、という思いがきっとそこにあったんでしょうね。
 
上山:  あったでしょうね。まあ揺れていたと思うんです。そこへ「一沙門」が登場した。 僕は、かなりインパクトのある人物だったんじゃないかと思って、ある人物を想 定しているんです。それはこれから論証したい、僕の残されたテーマなんです。 「戒明(かいみょう)」という人で、同じ讃岐の出身なんですよ。また同じく「国造家(こくぞうけ)」と言い まして、伝統的な名家の坊(ぼん)なんです。戒明の方は初めから坊さんだったんですが、 空海の方はまず大学へ行った。戒明さんは、唐にも行っています。しかし、ちょ っと失敗がありまして、後伸びなかった人なんです。その不遇な時代に出会って いる可能性があるんだけど、ここはこれから僕は論証しようと思って、大事にし ているテーマなんです。
 
峯尾:  あ、そうですか。ここまでは、青年空海と青年であった上山さんとの関わりのお 話と、これから大事にしているテーマのお話もして頂きましたが、この後は、少 しお年を召してからの上山さんと空海とのさまざまな関わりについて、引き続き お話をして頂きたいと思います。
 

 
峯尾:  若き日に空海に助けられた上山さんは、その後はお書きになった文章によると、 緩やかに空海とのお付き合いをしていらっしゃって、それから還暦を前に、その 記念として『空海』というご本を書かれたんですね。
 
上山:  ええ。『三教指帰』の序文で空海と出会った、これが二十一歳の頃ですね。還暦と いうとそれから四十年経つわけですがね。その間緩やかに、というのは、まあサ ボっていたことの言い換えですけどね。しかし、その間も少しずつ接触がありま した。大文字山で虚空蔵の真言を繰っていた時から暫くして学徒出陣というのが あります。昭和十八年です。その頃身体は元気だったものですから、郷里の和歌 山で徴兵検査を受けたら甲種合格だったんですよ。非常に元気になっていまして ね。私は、海軍を志願して、海軍では航海科の士官になったんですが、やがて人 間魚雷回天の搭乗員ということになりましてね。その時に、先程の数珠持ってい まして、あれを首に掛けていたんです、シャッツの下にね。そして、魚雷で訓練 なんかやっているとピンチに陥ることがある。舵が壊れたりね。その時はあれを 出してきて、求聞持繰るんです。そうすると、気持がすーっとしてくるんです。 僕は、二、三回事故に遭ったことがあるんですけれども、あれで別の意味で救わ れた。そういうことが済んで帰って来ましたので、非常にお礼したい気持があり ましてね。ところが、長谷先生はすぐ亡くなってしまわれたし、そういうことで 緩やかに、と申しますけれども、もう求聞持の行みたいに思い詰めて、毎日やる というものではないんですが、時に応じて空海の書いた十巻の論文集があるんで す。『十巻章(じっかんじょう)』と言いますが、これは空海の自分で書いた短編集みたいなもので すね。短編集と言えないか、小さい論文だけど、非常にシャープな論文を集めた ものです。それを田舎で、まだ戦後の慌ただしさから脱しない頃に、要約を作っ たりしたノートがありますね。そういうことをやっていたんですが、そのうちに、 私とご縁のあった『三教指帰』の口語訳を作る仕事が入ってきました。それはど こで入ってきたのか、というと、私が属していた「思想の科学」という集団があ って、それが雑誌を出していたんです。そこに私の求聞持体験みたいなものを書 いたことがあるんです。その頃は、ヒッピーというのが流行っていたんですね。 そのチベット紛(まが)いのこともあってか、「お前、あの話、書け」というようなことで、 書いたんですよ。そうしたら、高野山大学の学生自治会が、「講演してくれ」と言 って。その時から高野山の方々と接触が出来たりした。だから、緩やかにですね。 ただこちらが思い詰めた、もう自分の眉毛に付いた火を払うような思いでダラニ をやっていたんですが、そういう時と違いまして、それこそ緩やかに関係付けら れていった。そういうふうなのを背景にして、『空海』という、あれは「評伝選」 と言いまして、伝記のシリーズの一巻として、前から編集者とお約束していたん です。その編集者は、「思想の科学に書いたああいうものを膨らませて書いてくれ ないか」ということですね。しかし、書こうと思うと、学がないんです。空海を 専門にやったわけじゃない。いわゆる仏教学の専門家でもないし、それから坊さ んでもないし、ほんとに素人で、ただ自己流に虚空蔵求聞持法と出会ったという だけのことですからね。大分手間が掛かったんですが、それをやっているうちに、 最澄と空海の関係が面白いな、と思い出して、二人に往復書簡があるんですよ。 ところが、年代が確定されていないものがいっぱいあるんですね。それを丹念に 読んで、年代を設定しながら、それを手掛かりにして、空海の伝記を作り上げよ うと思った。思っておるうちに、還暦が目前に迫ってきたんです。これを僕の還 暦祝いにして還暦祝いって、他人がしてくれるものだけど自分で祝う。それ で空海に対するお礼という意味を込めて、やろうと思って書いたんですよ。それ が『空海』という本になったんですね。
 
峯尾:  しかし、その内容は、これまで空海について書かれたものから、一歩踏み込んだ というか、今まで論じられなかったもの─。
 
上山:  いやぁ、無茶苦茶なものですよ。宗門の方が見たら腰を抜かされるだろう、高野 山からは、「近寄るな」と言われるだろう、と覚悟して出したんです。
 
峯尾:  そこまで思い切ったものを書かれるには、それなりの上山さんの思いというか、 是非これは世に問わなければいけない、というものがあったわけですよね。
 
上山:  ええ。空海との出会いの場であった『三教指帰』の序文、ここに空海の魂から出 た言葉があると、僕は信じているわけです。それと宗門で通説とされている空海 伝があまりにも違うんです。空海伝を書こうと思ったら、どうしてもこの矛盾を 解決しなければならない。これまで空海伝を書かれた方は、みんな宗門の方なん です。学者めいた方もおりますけれども、それは宗門の方なんですね。宗門の空 海伝の基準とされているものに、空海の「遺言状(ゆいごんじょう)」と称するものがあるんです。 「遺告(ゆいごう)」と言います。その遺告がいくつかありますけれども、「御遺告(ごゆいごう)」と言って、 「御(ご)」を付けて呼ばれているものが、ながいあいだ空海伝の基準とされてきまし た。その「御遺告」に二十五箇条あるんですが、その第一条が空海の伝記なんで す。そこで書かれている空海像というものと、私の出会った『三教指帰』の序文 の空海像はまったく違うんです。勿論空海の心から出た言葉の方が本当だ、と僕 は信じて、その二つの違いを煮詰めるという作業をその本でやったんです。そう したら、どういう結果になったかと言いますと、初め大学に入って高級官僚にな る道を選んだわけですよ。ところがそれを放り出して、坊さんになったんですね。 ところが、御遺告の方ではどうなっているかというと、先程言った母方の叔父・ 阿刀大足という大学者が、仏教をやるにしても若い時にちゃんと学問をやった方 がいい。大学に行っておいた方がいいというふうに指導して、空海はそれに従っ た。それでまず大学に入って、それから仏教、仏門に入ったというふうに書いて あるんです。しかし、『三教指帰』の序文では、阿刀大足を含めて、親戚とか両親 と、もの凄い確執(かくしつ)があった、激突した、というふうな意味に取れることが書いて ある。「忠孝に背(そむ)くというふうに、周りの人が言った」と書いてあるんです。しか し、忠孝にもいろんな道があるではないかというふうに、空海は反撃してそれを 取らなかったんですね。要するに、大学に行くことを勧めたと言われる阿刀大足。 大学に行く方は阿刀大足が大いに協力していったんでしょうけど、僧侶になるこ とには、賛成ではなかったことは歴然としているわけですよ。怒っているわけで すからね。ところが、それが初めから僧侶になることを目指して大学にやった、 と書いてある。これは具合が悪いんじゃないか。もう一つは、だんだんと資料を 調べていって、確証をしたんですが、得度の年が、『三教指帰』を元にして書かれ た伝記が、政府の作った正史に載っているわけですが、それによると、「三十一歳 で得度した」となっているんです。ところが、遺告の方には、「二十歳で得度した」 ということになっている。これも、空海は三十一歳で唐に渡りますが、その直前 まで正式な僧侶ではないんですね。山の中で修行していたとしか思えない。それ が二十歳でちゃんと得度して、それからお寺できちんとやったみたいな印象にな るわけですね。これは空海像と違うんじゃないか、と。その為には、二十歳で得 度したか、三十一で得度したか、それを実証するために、資料なんかがあります から、僕は七転八倒して、すったもんだして、それを論証したんです。一応出来 たつもりでおるんですが、大変難しい論証でした。そういうことがあったんです ね。それで、おそらく高野山を初め、宗門の人から総すかんを喰らうなあと思い ながら、しかし、僕自身の目を開いて貰った『三教指帰』からしたら、こうだ、 ということだったんですが、実は本が出ると、当時の高野山の法印さんですか、 僧侶としてはトップクラスの、森寛紹さんという方ですが、その方があの『空海』 という本をまとめて買ってくれて、知り合いの人に配られたというんです。それ からもう一つ驚いたことは、また暫くして、私は、高野山の夏季講座に招かれた ことがあるんですが、十年ほど経って。そうすると、あの遺告によっていた伝統 的な見方といいますか、私は、「遺告は偽書(ぎしょ)だ」という激しいことを書いたんです がね。
 
峯尾:  あのご本の中にありますよね。
 
上山:  そうしたら、今度、新しい『空海全集』がその後出たんですけども、それでは、「偽 書」とまでは書いていないんですが、真筆と申しますか、それと分けまして、参 考資料というふうに、遺告がなっているんですね。それから、「昔から、遺告は 偽書だと、先輩たちがいってきた」というふうな説になっていて、非常に嬉し かったですね。
 
峯尾:  そうですか。それが「還暦記念」と、自らおっしゃるご本ですけれども、
 
上山:  ただ、申し上げておきたいのは、私は仏教学者でも、真言宗の専門家でもないか ら、そういう時に、思い込んで暴発的にパッとやるわけですね。他のことをやっ ていながら、素人ですから、粗(あら)はいっぱいあると思うんです。しかし、大筋はそ ういう自分の体験に基づいたもので、それに心広くも、賛同できる部分は賛同し て頂いた、ということはもの凄く嬉しいし、場合によっては、これは御大師さん のお陰かなあ、というふうに思っておるんです。
 
峯尾:  それで今日、『三教指帰』の話が中心で随分いろいろ教えて頂きましたけれども、 これが二十四歳の時の『三教指帰』の本文がこういうふうに構成されているわけ ですね。
 






 

 三教指帰

 巻上 亀毛(きもう)先生(儒教)
 巻中 虚亡隠士(きょむいんし)(道教)
 巻下 仮名乞児(かめいこつじ)(仏教)
 
 
上山:  そうです。先程、『三教指帰』と言っていましたけど、中味についてあまり説明し なかったんですが、これは「上巻」「中巻」「下巻」と三巻に分かれていましてね。 上巻は、「亀毛先生」と。これ亀に毛がないので、架空の人ということです。それ から、「虚亡隠士(きょむいんし)」というのは、文字通り道教の方の無をいう人ですね。それから 第三は、「仮名乞児(かめいこつじ)」、これは乞食(こつじき)をやっている仏教の出家ですね。これはある意 味で、「儒教」と「道教」と「仏教」という三つの教え。その三つの教えのこと、 「三教(さんごう)」ですね。それぞれに人物を設けてドラマの形に、単調なドラマではあり ますけれども、議論させているわけですね。ここで三つの教えというもの、これ は空海の書いたものの特徴なんですが、いつまでたっても、儒教とか道教を切り 離して、仏教だけ論ずるということをこの人はしないんです。道教とか儒教は宗 教以前の世界ですね。世俗の世界。彼はここにもの凄くエネルギーを割(さ)いていま すから、道教なんかももの凄く詳しいですし、それから儒教については、儒教だ けでなくて、中国文学全般について、いわゆる『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』という、今では原 本が失われたような、批評論みたいなものを、彼はコレクトしているわけですか らね。だから非常に視野が広い。この視野というのが晩年まで続きますね。そし て、それがフルに展開されたのが、『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』と『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』という膨大な主 著ですね。もう亡くなる直前に書いた。『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』というのは、いっぱい出典 などを引きまして、それをそのまま写したりしているので、退屈で仕方がない。 親鸞聖人の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に似ていますね。もの凄く引用文が多いんですよ。と ころがそれを圧縮して自分のペースで纏めたのが、『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』というものです ね。
 
峯尾:  これもご覧頂きましょう。
 

秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)

巻上 第一住心 異生羝羊心
    第二住心 愚童持斎心(儒教)  孔子
    第三住心 嬰児無畏心(道教)  老子
巻中 第四住心 唯薀無我心(四諦)  声聞
(憂国公子と玄関法師の十四問答)
    第五住心 抜業因種心(十二因縁)縁覚
巻下 第六住心 他縁大乗心(法相)  弥勒
    第七住心 覚心不生心(三論)  文殊
    第八住心 如実一道心(天台)  観音
    第九住心 極無自性心(華厳)  普賢
    第十住心 秘密荘厳心(真言)  大日
 
 
上山:  ええ。これです。その中で、三つから十に世界を広げているんです。さっきは、 儒教、道教、仏教でしょう。その仏教を展開するんですが、この第二住心が儒教 に当たるんです。「住心」というのは、人がそこで腰を下ろして、気持が安らかに 安定するような場所。これは人によっていろいろ違うんです。よっこらさと落ち 着くところ、安住するところは。それで、第一住心は動物なんかと似ているとこ。 そこから少しずつ増しな安住の場所、儒教がまず第二住心。儒教というのは、世 俗の思想ですけれども、道教というのは、世俗を超えたところがあるので、一つ 上において第三住心。そこから次は、仏教に入るんです。第四住心から仏教。ず ーっと終いまで仏教なんです。要するに、仏教がこういうふうに、七つに展開す るわけです。『三教指帰』では一つだったのが。この中にはインドから中国を経て 日本に来て、奈良や京都で栄えたのが網羅されています。ここは大体大乗仏教以 前の原始仏教と言われたりする、そういうお釈迦さんに密着した思想ですが、お 釈迦さんから自由になった大乗仏教というのは、この第六住心から展開するんで すね。法相宗、三論宗、華厳宗。これは南都六宗だとかと言われるものですね。 それから、真言、天台というのが、平安時代に入るわけです。こういうものをず ーっと展開して、これが三教の開いたものですね。そういうふうなことをいつも 全部視野に入れながら、そういう教えを心病心の病と。心の病を治すためのお 薬と見立てているんですね。それぞれの人にあったお薬を与えることが、もっと も真言密教の行いに相応しいものだ、というふうに、彼は考えたわけです。その レパートリーをずーっと展開したのが、『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』だったと思います。
 
峯尾:  そうすると、第一住心は、特に獣と同じようなもの─。
 
上山:  普通の何のブレーキもかからない世界、
 
峯尾:  段階として上がっていって、やはり一番最高のものが自らの真言だというふうに 説いているんですか。
 
上山:  というのは、そこはよっぽど病が重いか、ある意味でいうと、宗教的な持ち物が 非常に重いか、まあそういうことをハッキリ言っていませんが、非常に器量が大 きくて、なまなかなものでは満足しない。非常に貪欲(とんよく)なと言いますかね。そうい うものが、ともかく人にはいろいろな性格だとか、それに応じたこれが世界であ って、これでないと満足しない人には、今まであまりなかったこういう薬を用意 しますよ、というふうなことですね。
 
峯尾:  自分のところが第十だから、とにかく一番上で、後はだんだん下がっていくんだ と、そういう思想じゃないんですね。
 
上山:  そこのところはややこしいんです。やっぱりレベルは高いですけれども、しかし それぞれの人に応じて、それはベストなんだ、と。第二であろうと、第三であろ うと。それで、そこで救われたら、この頂点と一緒になる可能性がある、と。い ろいろ溜まっている垢が洗い落とされる、と。仏さんがお腹の中から出ていらっ しゃる、と。それはどれも一緒で、何でもって垢落としをするか、ということの レパートリーがいろいろある、というふうにとれることをしばしば言っています ね。
 
峯尾:  そうすると、大日如来を中心にした曼陀羅というのは、
 
上山:  これを絵にしたものです。視聴覚教育的にしたものだという、
 
峯尾:  全体像をこれ随分小さくなって終いましたが、見て頂くと、
  
 
 
 
上山:  この真ん中に大日さんがいて、そこへ出てきた菩薩さんなどがずーっといらっし ゃるという、そういう姿ですね。
 
峯尾:  真ん中の部分だけを、
 
上山:  例えば弥勒さんがここにいらっしゃいますね。文殊さんがここにいらっしゃいま すね。それから観音さんがここにいらっしゃいますね。観自在菩薩。そういうふ うにお医者さんみたいな人が、このもの凄いお医者さんの親玉みたいな人の周り にずーっといらっしゃる、と。そういうのが中心にあるのが曼陀羅ですね。だか ら、この薬は一応バラエティがあるようでいて、基本的には大日さんから湧いた 泉の一環だと、いうふうな捉え方じゃないかと思います。
 
峯尾:  それが、『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』、最晩年に近い空海さんの著作ですが、亡くなる一年前に書 かれた、これがさまに一番最後のお仕事になるわけですね。
 
上山:  そうですね。
 
峯尾:  確認いたしましょう。
 

空海略年譜
 
 一
二四
三一
三六
三九
四三
五七

六一
六二
 
 七七四(宝亀五)
 七九七(延暦一六)
 八○四(延暦二三)
 八○九(大同四)
 八一二(弘仁三)
 八一六(弘仁七)
 八三○(天長七)

 八三四(承和一)
 八三五(承和二)
 
生まれる
三教指帰
唐に渡る
高雄山寺に入る
灌頂暦名
最澄と訣別
十住心論
秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)
般若心経秘鍵
亡くなる
 
 
上山:  『十住心論』と『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』というのが、亡くなる五年前ですね。これがおそら く空海さんの最後の集大成と見ていいと思います。ただ、これよりあとに『般若 心経秘鍵』というのがありますけれども。これは、今言ったいろんなお医者さん とお薬というふうなもののレパートリーが般若心経の中に散りばめられています よというものです。「これはここだ、これはここだ」ということを指摘したなんか 記憶術みたいな感じのサービスなんですね。般若心経というのはみんな覚えてい るじゃないか、その中に、このお薬の一覧表が全部ありますよ、というふうなサ ービスだったと、僕は思うんですね。だから、これは簡略ですけれども、ある意 味で、空海さんというのは、方便というのを非常に大事にした。いわゆる分かり 易いやり方でサービスするという精神の一つの固まり見たいなものだ、と僕は受 け取っているんです。
 
峯尾:  いろいろお話を伺ってきて、空海という一人の偉大な人物が、やはり成長しなが ら、六十二歳で亡くなった。上山さんも『三教指帰』の頃に、空海に出会われて、 現在、上山さんにとって、空海さんというのは、師ですか、お友だちですか、そ れとも、また全く違う存在でしょうか。
 
上山:  いやぁ、これはね、率直に言いますと、神さまですよ。というのは、僕にとって は、初めはただ虚空像菩薩の真言で出会ったんですけれども、だんだんこの人の 姿が深くなって広くなってきましてね。空海というお名前の通りだなあと。空み たいに広くて、海みたいに深いと。そういう実感がますます深まってきています ね。これは学問の出汁(だし)なんかにするべきものではない、と。生きるうえの非常に 有り難いお助けだと思っております。
 
峯尾:  有り難うございました。
 
 
     これは、平成十四年七月十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである