仏教と経済
 
                      元宮崎銀行頭取
                      高千穂商科大学理事 井 上  信 一(しんいち)
一九一八年生まれ。一九四一年東京帝国大学経済学部卒業、日本銀行に入る。一九七一年同行貯蓄推進部長より宮崎銀行に転じ、副頭取・頭取・相談役を歴任。一九八三年同行を辞す。仏教振興財団理事長。高千穂商科大学理事。著書「歎異抄に生かされて」「仏教的経営」ほか
                      き き て     金 光  寿 郎
 
金光:  今日は、「仏教と経済」というテーマで、元宮崎銀行頭取の井上信一さんにお話を伺います。井上さんは、日本銀行から宮崎銀行の頭取をされて、退職後は高千穂商科大学の理事をなさりながら、その他の名誉職なども持っていらっしゃいます。と同時に、仏教と経済という二つを結び付けて、「仏教経済学」というものを今研究されているところでございますが、今日はその仏教と経済の関係について、これからお話を伺ってまいりたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
 
井上:  よろしくお願い致します。
 
金光:  一般には、仏教というと心の問題であり、それから経済というと物とかお金の問題だ、というふうに別々のものと考えていらっしゃる方が多いんじゃないかと思いますが、その二つをどうお考えになっていらっしゃるのか、まずその辺のところから、ちょっとお伺いしたいと思いますが。
 
井上:  仏教は人間の本当の幸せを求めていくものでございます。それに対して人間の衣食住という、その他のこの物の面の生活というものも幸せを求めていく上に欠くことの出来ないものでございます。従いまして、仏教が経済と無縁であっては本来ならないわけで、大事な要素になるものなんでございますけれども、今のお話のように一般的には、まったく無縁だ、というふうに考えているのが現実でございますね。
 
金光:  井上さんの場合には、その仏教と経済を、これまで二つに関心を持っていらっしゃった、ということでございますが、その仏教と経済には、どういう形で関心をお持ちになるようにおなりになったんでしょうか。
 
井上:  最初は仏教のほうから関心を持ったわけでございますけれども、私、小学校の五年と六年の時に、両親が続けざまに亡くなりまして、
 
金光:  ああ、そうですか。
 
井上:  それでお坊さまが見えて、お経を読まれる。それが道元禅師のお言葉から取りました
 
     生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし。
     ただ生死即ち涅槃と心得て、
     生死として厭(いと)うべきもなく、
     涅槃として欣(ねが)うべきもなし。
     この時初めて生死を離るる分あり、
     唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。
        (『修證義』)
 
という、こういう言葉から始まっていたわけなんですね。
 
金光:  『修證義(しゅしょうぎ)』のわりに頭のほうの言葉でございますね。
 
井上:  そうです。それでいま振り返れば、「生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし」というお言葉で、本当はすべてのことが尽きているわけですけれども、当時はそんなことはわかりようもありませんで、要するにこの「生死」というものは大変なものだ、と。死ぬということはどういうことだ、と。こういうふうなことから、仏教に子ども心にだんだに入っていった、とこういうことでございます。
 
金光:  しかし、これは子どもの頃は当然こんな難しい言葉「生死即ち涅槃と心得て」とか、「生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし」とか、言葉としては非常に調子がいいんでございますけれども、子どもだったら当然わからないと思いますが、しかし、考えてみますと、大人にとってもこれは内容的には難しい言葉でございますね。これがやっぱり小さい頃から頭の中にずーっとどっかに引っかかってこれまでいらっしゃった、というわけですね。
 
井上:  この前のほうだけしか引っかかっていなかったと思いますがね。
 
金光:  それとその後の経済は、これはどういうことでございますか。
 
井上:  それで分かり易いような仏教書というものを、あれこれと漁(あさ)っておりますうちに、当時の流行でございまして、いまこういう情勢になりましたが、マルキシズムというものが大変な魅力を持っておって、若い頃には誰もがこの意味では一度はこれにかぶれるというふうな時代でございましたから、私もご多分にもれずでございまして、さっき申しましたような、本当の幸せというものを仏教に求める。しかし、マルキシズムがいっているように、経済が土台であって、例えば、経済生活が搾取なんていうことがあったんでは、後の心のほうへどのようにいじって幸せな人間を作ろうと思っても、これは無理なんじゃないか、というふうな気持で大学の経済学部に入ったわけなんです。それが私の経済への取っ付きだろうと思いますです。
 
金光:  たしかに経済構造が人間の意識を決定するような非常に強烈な言葉を聞かされますと、経済こそ第一だ、というふうに思うわけですね。
 
井上:  そうですよ。
 
金光:  ことに若い時には、世の中をよくするためには、まず経済構造を変えなくちゃというようなことを考えるわけでございますが、その後はずーっとその道をお進みにはなってはいらっしゃらないそうですね。
 
井上:  それやっております、しかし反面では仏教がやっぱり心に引っかかっている、と。こういうことでございまして、ちょうど本郷の街を歩いております時に、古本屋がありまして、そこでまったく偶然なんですけれども、倉田百三(くらたひゃくぞう)の―『出家と弟子』が非常に有名ですけれども―そうではなくて、『生活と一枚の宗教』という薄っぺらい古本に巡り遇ったわけなんですね。これが私にとって、大変な本でございましてね。倉田さんという人は非常に病身で、ほとんど一生病身であった。したがって、寝てばかりいる自分のような者がこの世に生きている資格があるか、ということを、また非常に感受性の強い人ですから煩悶するわけなんですね。勿論、仏書も読んだでしょうが、ついに最後に到達する結論は、「人間という者は生きる資格があってこの世に生きているわけじゃないんだ。そういうことから言えば、自分なんか全然資格がない。そうじゃなくて、人間は許されて生きているんだ。許されて生きているからこそ、大根を食べることも許されているし、お魚を食べることも許されている。空気を吸うことも許されているんだ。この点においてはすべて人間が平等なんだ」ということに気が付きまして、これを「後ろを見る目が開けた」と言っております。要するに、人間が生きている根拠は「許されていることだ」ということをいったわけですね。これが私にとって、まったく新しい考え方でございまして、それを私は、「今日は生かされている」というふうな表現でいっておりますが、まったく同じことでございます。
 
金光:  その辺に目が開けてきますと、一般の世の中のこと、と言いますか、自然に対しても今までと違った見方があることに気が付くわけでございましょうね。
 
井上:  そうです。その中でもう一つ、私が大変ビックリしたのは、今までは人間関係で、「片っ方が搾取したの、片っ方が搾り取られたの」と、こうカッカしていたわけですが、その本の中に、ある金持ちでしょうが、金持ちの婦人がキツネの襟巻きを巻いていたというんですね。それは、「人間関係はいろんなことをして革命やっていても、それは平等なものが出来るかも知れない。しかし、キツネは一体、儂はどうしてくれるんだ! 儂は搾取のされっぱなしじゃないか!≠ニ、こういうだろう」という。これは大変な私にとって非常なまた眼界が開けたという感じでございました。
 
金光:  これは「人間が許されて生きている」と同じように、「キツネも許されて生きている」。その同じ許されて生きているもの同士でありながら、一方は殺されっぱなしで、襟巻きになりっぱなしである。それこそ搾取され通しではないか、という。しかし、これは非常に強烈な印象に残るたとえでございますね。
 
井上:  まさにキツネが生態系を代表し、この宇宙、地球上のあらゆるいのちというものを代表していたわけなんですから、実に鋭い観察であった、と思います。
 
金光:  これは単にキツネ一匹だけではなくて、人間がキツネに対する姿勢というのは、その後だんだんいろんな文明が発達するにつれて大規模になって、森林とか自然の動植物とか、そういうもの全部に対して絶滅するところまで搾取しているというのが、今の現実ではないか、ということになってきますと、文明と、その基本にある考え方となる仏教というものが非常にそこで関わってくる、ということでございますね。
 
井上:  文明が持っている罪というか、これは非常に大きな問題でございましょう。
 
金光:  でも、そういうところで意識を覚醒―目覚めさせられたその後で、日本銀行、或いは宮崎銀行でのお仕事の上で接触なさる方は経済人という方が多かったんじゃないかと思いますが、その中で仏教との関係で印象の深かった方というと、どういう方がお出ででしょうか。
 
井上:  経済人でなかなか仏教を一生懸命やるというような人は少ないわけなんですけれども、幸せなことに協和発酵の創始者でございました―化学の大家でもあった、加藤辨三郎(べんざぶろう)さんにはお教えを受けることができました。これが私の随一のお一人でございますが、加藤さんは非常に仏教的な経営をなさった方でございまして、例えば、社員持株制度―これは今他にもたくさんありますけれども―これはさっきいった搾取というものに対しての一つの解答でございましょうね。それからこんにち定年の問題が喧しいけれども、定年が過ぎても働く意欲があれば、今度は機械の中ではなくて、緑の中でなるべく働いていけるような配慮というようなことをなさっているんですね。
 
金光:  それはどういうことなんでございますか。会社の勤めが終わられた方に?
 
井上:  つまり別会社を作りまして、それは農業的なことをやる、自然に接するような仕事を、それが協和発酵の原料にもなるというふうな、そういう会社で働く意欲のある希望者は、そこで今度はいつまででもそこで働いてよろしい、と。晴耕雨読である、とこういうことなんですね。私は非常にビックリしました。
 
金光:  なるほど。そういうのもやはり社長と従業員という関係だけじゃなくて、生かされている者同士ということでございますね。
 
井上:  そういうことでございますね。私もやはりトップの真似事をさせてもらって、一番きついということは、自分は六十過ぎても働いている。社員の方は、今こそ大分伸びましたけれども、五十五歳になったら、「はい、さようなら」という、これが一番辛かったですからね。加藤さんが先例を作られたということは、本当に仏教者だなあと思いましたね。それから加藤さんは、今のは対内的なことですけれども、対外的にも、これは競争社会だから競争しなくちゃならん。大いに競争はする。しかし、それがサバイバルなんていうんじゃなくて、相手の首を絞めて、というんじゃなくて、碁敵のような関係が望ましいんじゃないか、ということを考えられ、現実には社員に対して、例えばライバル会社というものは当然ありますが、それを「意識して頑張ることはいいけれども、決してその会社を名指しで悪口を言っちゃいけない」ということまで配慮されておられるんですね。これは面白い話がありまして、大分何年か前の話ですけれども、アメリカでは有名なクライスラーのアイアコックが、GMを名指しで非難したんですね。それだものだから、GMのほうもカッカしちゃって、今度はクライスラーを名指しで悪口をいうような泥仕合をやったことがありますが、その辺にもやっぱり加藤さんらしい仏教者の面目があった、と思います。
 
金光:  碁敵というのは、たしかに勝負の時は向かい合って、敵同士ですけれども、それが終わると非常に仲がよくて、いつも仲良くという。
 
井上:  同じ人間ですものね。仏さまの小僧であるしね。
 
金光:  その辺はなかなか出来にくいところであるわけですね。そのほかには?
 
井上:  その他には、これは晩年になりましてのことでございますけれども、「小さな親切運動」が機縁になりまして、安田生命の竹村吉右衛門(きちえもん)という方に非常に私は影響を頂きました。
 
金光:  竹村さんも仏教の信者でいらっしゃったわけですが、加藤さんはどういう?仏教もいろいろあるわけでございますが。
 
井上:  失礼しました。加藤さんは、はじめはさっきいったような自然科学ですから、仏教なんか全然いらない、というような頭でおられたんですね。それがまあいろんな方、先輩のお導き、その他によりまして、最終的には念仏の世界に入られまして、非常に熱心な念仏信者になられたわけです。そして驚くことに、晩年に書かれたものを読みますと、「会社にとって大事なことは、トップがありがたい≠ニいう心とすまない≠ニいう心、この二つをしっかり腹にもっている。これだけが大事であって、他のことはむしろ無用だ」とまで言っておられるんですね。
 
金光:  もう少し説明頂けますと。
 
井上:  「ありがたい」ということは、さっき言いました、倉田さんの許されていると同じ、つまり人間という者は生かされた存在である。このことに目覚めた時に、「ありがたい」という感謝の心が湧くわけなんですね。ところが、人間は非常にエゴが強うございます。インテリであればあるほどございますから、「自分、自分」と考える。その自分の第一と考えて、生かされているなんてことにまったく気付かない自分に気付くことを「すまない」という言葉で言われたんですね。これは生きることの原点であると、私は思います。同時に仏教の根本でございますところの御釈迦様が亡くなる前におっしゃったという「法灯明(ほうとうみょう)」「自灯明(じとうみょう)」ということに相当すると思うんですね。つまり「法を灯とし、自らを灯とし、自分がいなくなっても心配することはないよ」とこうおっしゃった。法というのは、さっき申します宇宙の法、宇宙のリズム、働き。つまり太陽が照り、空気があり、水があり、動植物がそこで生きている、と。こういうことに従って、私どもはそれに生かされている。これが「法灯明」だと思うんですね。
 
金光:  それに気が付くと、「ありがたい」ことになるわけですね。
 
井上:  はい。これを私は、「生かされている」ということに気付くことを、「第一の気付き」というふうに申しているわけです。ところが、自分という、それに気付かない自分に気付かない。そこで自分が生かされていることに気付かない自分に気付く。これが非常に難しいわけですけれども、それを「自灯明」というふうに思うんですね。
 
金光:  そのことに気が付くと、「気が付かない自分でありました。まことにすみませんでした」ということになるわけでございますね。
 
井上:  そうですね。これによって、われわれはオーバーに言えば、宇宙の法則に従って生きていき、会社を運営する。これが会社運営の根本である、と。まことにその通りだと思うんですね。
 
金光:  やっぱりそのことに気が付くような人が、社長としてもっとも適任であると、そういうことにもなるわけですね。
 
井上:  そうなんですね。それで先ほどの竹村さんという方は、大学を出られて、安田銀行に入られた。優秀なる大学出が入って、いわゆる立身出世渦巻いているようなことであったそうですが、それに飽きたらずに、なんとかそれを乗り越えていきたいということで、いろいろ努力をされて、最終的には「胸中(きょうちゅう)の一物(いちもつ)を放下(ほうげ)せよ」という禅の句がありますが、これに到達される。これはまた別の言葉でいうと、「胸中の一物」というのは、さっきの「自分可愛いや」という心でございますから、「自分を勘定に入れず」というふうな形でもおっしゃっております。この精神でもって安田銀行から当時の戦後の安田生命に迎えられまして、今日の立派な安田生命を作られた中興の祖と言われているわけなんですね。
 
金光:  禅のほうでは「放下着(ほうげじゃく)」と。
 
井上:  はい。そうですね。
 
金光:  要するに、「放下せよ」というそうですが、竹村さんはお念仏ではなくて、
 
井上:  そうです。竹村さんは今度は観音様のご信仰が非常に篤い方でございました。ところが、ある時、『中央公論』が財界の人にアンケートをしたわけなんです。そうしましたら、その時に、例のロッキード事件で有名なる財界人が、そのアンケートに答えて、「財界人にとって、仏教は無用である」と。電算機と優秀なるコンサルタントがあればいい、という意味でしょう。そういうことを言ったものですから、竹村さんは大変嘆かれまして、何とか一般の人、特に財界人に仏教を分かり易く伝えなくちゃいけない、ということで、月百円の月刊小仏教書『心の糧』というものを発行されまして、一生懸命努力なさった。不思議なご縁で、今、私がそのお手伝いをしておるという。こういうことになっておるわけなんでございます。
 
金光:  これは、しかし、「自分を勘定に入れない」とか、「自分可愛いやの気持を捨ててしまいなさい」なんて言われますと、そんなことで果たして経済戦争に勝てるのか、というふうに思う方が多いんじゃないか、と思いますが、その辺はどうお考えになっていらっしゃったんですか。
 
井上:  それが非常に面白いと思うんですが、これは決して今に始まったことではなくて、既に御釈迦様の時にあった、というんですね。やっぱり御釈迦様の説き方を聞いていると、さっきの放下着にしましても、もとは御釈迦様の精神から出ているわけでありますし、自分可愛いやの心というものを乗り越えなくちゃいけない、ということも言っていらっしゃる。そこでその時の人が、御釈迦様に「どうも御釈迦様のお話を伺っておるというと、あなたはいっこうに自分が可愛くないらしい。御釈迦様はご自身が可愛くないんですか?」という非常に率直な質問だと思うんですが、したそうですね。その時に、御釈迦様が、「いや、自分も自分の身が一番可愛いんだ。ただ、あなた方と私と違うところは、私は他の人も自分の身が一番可愛いいと思っていることをよく思っているんだ」というふうに言われた、というんですね。そういうふうに考えますと、ほんとに御釈迦様の説き方と申しますか、仏教というものは決して難しいものではなくて、ごく平易な説き方を御釈迦様がなさったんだな、としみじみ思いますね。
 
金光:  ちゃんとそういうところを踏まえた上で、それで自分可愛いやの思いを捨てなさい、と。しかし、これ考えてみますと、自分のことはよくわかりませんけれども、他人がいろんなことをしているのは冷静に批判できますから、他人の欠点とか良いところはわりに公平によく気が付くことができる。それを自分に応用すれば、自分の良いとこ悪いとこも、自分を勘定にいれなければかえってよくわかる、ということにもなるんでしょうね。
 
井上:  そうですね。それがさっき申しました、「生かされているということに気付かない自分に気付く」ということの難しさで、私はそれを「第二の気付き」というふうに呼ばせて頂いておりまして、「第一の気付き」「第二の気付き」を一つにして、「二つの気付き」と、これが私の現在の到達点、おそらく仏教も決してこれから遠いことを説いているではあるまいかと、かすかに信じているようなことでございます。
 
金光:  それで現役の時代には、今のお二人だけではなくて、他の方にもお会いになっていらっしゃると思いますが、そういうお二人の方に特に仏教と経済についてのいろいろの感化をお受けになったということでございますが、その後退職されてずーっといろいろ研究なさって、やっぱり仏教と経済を結び付けて考えていらっしゃる例というのは、日本の歴史の上でもいろいろあるわけでございますか?
 
井上:  ございますね。
 
金光:  その中で、例えば目につかれた例というと、例えばどういうものがございますか。
 
井上:  だんだんに、現在から過去のほうに遡ってみますと、いわゆる近代化を為しました明治時代でございますが、明治時代に日本のいわゆる近代化、資本主義化というものが行われる。そういう時に三井、その他が活躍をしますが、日本で今日まで一番古い企業というのは、住友だと思うんですね。これはいわゆる戦国時代の終わりに、戦国の武士だった人が、お坊さんになりまして、この人が住友の創始者になっているわけなんですね。ですから大変な古さであり、そういう祖先を抱いているから非常に仏縁も深く、今日まで及んできておるということでございまして、その精神を受け継いで、明治に新しい住友を作ろうとした時に、明治十五年に、従来の住友家に伝わっていたいろんな掟を整理しまして、「家宝」―家の宝というのを作ったわけなんですね。その中に、
 
     我営業ハ確実ヲ旨トシ、
     時勢ノ変遷、理財ノ得失ヲ計リテ、
     之ヲ興廃シ、苟(いやし)クモ浮利ニ趨(はし)リ、
     軽進ス可(べ)カラザル事。
 
というのがあるんですね。これはとにかく堅実でいかなくちゃいけない。しかし、時代の流れというものには勿論合わせていかないかん、と。良きを取り悪しき捨てて、ということであるが、忘れてならないのは、苟もそこにあります、「浮利に趨り、軽進すべからざる」―つまりまさに今日言われるバブルですね、バブルみたいなことに手を出しちゃいかんよ、と。
 
金光:  「浮利」というのを、音だけで聞くと、「不利益」の「不」と思うと大間違いで、浮いた利益、浮ついた利益ですね。
 
井上:  バブルですね。ということを言っているわけであります。それで当時、住友は、住友本家、そして住友本社というものがあって、そこに総理事というものがありました。これが今日では想像できないぐらい絶大なる権力と名誉をもって、住友を引き回していたらしいんです。二代目の総理事に伊庭貞剛(いばていごう)(1847-1926)という人がいるわけなんでございます。この人が非常にいろんな苦労がありまして、今日の住友の根拠をしっかり築くわけでありますけれども、その方の常に好んでいた言葉というのが、
 
     君子財を愛す。之を取るに道あり。
 
ということですね。財は決して今までのような、武士は喰わねど高楊枝じゃないんだ。財を愛していいんだ、と。しかし、これを取るのには道がなくちゃいけない。その道とは何ぞや、ということを今ちょっと振り返ってみるというと、加藤さんが言われました、「ありがたい≠ニいう心」と、「すまない≠ニいう心」でございますね。それは伊庭貞剛は、そうは言わないけれども、まさにそういうことだろうと思うんですね。或いは御釈迦様のおっしゃった「法灯明」―つまり法というものは宇宙の法というものに従っていかなくちゃいけないと、こういうことじゃないかと思いますね。
 
金光:  伊庭貞剛という方も、やはり仏教者でしたのですか?
 
井上:  そうでございます。伊庭貞剛さんは大変な禅者でございましてね。
 
金光:  坐禅をなさってきたわけですか?
 
井上:  住友が、別子銅山が非常に難しいことになった時に、『臨済録』一冊を懐に入れて乗り込んでいって、ほとんど表に見えるような手腕を振るわないままに、それを収めきった、というような話も残っているぐらいのしっかりした禅者でありましたですね。
 
金光:  ただ、そういう禅の仏教について「こうこうだ」というようなことを会社の方に話すような形でなくて、
 
井上:  ええ。伊庭さんのまた一つ好まれたのは、「乳飲み子が泣いていたならば、お乳をやるのが禅なんだ。それ以外に禅はないんだ」という。だから、「生活即禅なんだ」というふうな立場をとっておられたんですね。これが本当の禅であり、仏教でなくちゃなるまいか、と思いますね。
 
金光:  なるほど。「乳をやればいいんだ」と言葉でいってもしょうがなくて、「黙って飲ましてやればいい」ということですね。
 
井上:  そうですね。
 
金光:  そういう伊庭貞剛というような方が、おそらくお一人だけポコッとでた、ということではなくて、やっぱりそういう傾向の方が何人もいらっしゃった、ということでございましょうね。
 
井上:  はい。明治時代には廃仏毀釈という大問題がありますから、明治の仏教を語るということは大変難しいことだろう、と思いますけれども、まあ簡単に言えば、慶応、早稲田というそれぞれの立派な大学にもみんな仏教の勉強会があり、或いは坐禅会があって、そういう方がそれぞれにのちの経済界の指導者にもなっておられるわけですね。そういう伝統が現在だんだんなくなっている、ということが問題じゃないでしょうか。
 
金光:  そういう方が、明治には明治の形で西欧の文化を取り入れる。一応バックボーンとして、そういうものを持ってやってきた、という。もう一つ前には、やはりそういうところへ続く日本の伝統というものもあったわけでございましょうね。その前にいきますと、どういう?
 
井上:  その前にいきますと、徳川の初めというところまで飛んでみたいと思うんですけれども、徳川の世が治まり始めた時に、三河武士で戦場にも臨んだところの人が、禅僧に転向してしまうわけなんですね。その人の名前を鈴木正三(すずきしょうさん)(1579-1655)と申しまして、三河の人でございます。その正三の言った言葉が、『万民徳用』という著書の中に素晴らしい言葉がいくつもございますが、そのうちのいくつかをご紹介してみたいと思うのであります。まず第一に、
 
     ●何の事業もみな仏業なり。
 
要するに、経済の活動、すべてそれは仏法の修行である、という、こういうことですね。その次が、
 
     ●商人なくして世界の自由あるべからず。
 
これは今日のいわゆる自由経済、世界経済の本質を言い当てているような感じがするんです。つまり商人という者があって、物をこの土地からあの土地へ動かしていく。その事を通じて、この世の中というものが非常に自由闊達に活動していくんだ、と。その要になるこそ商人なんで、当時はご承知のように、士農工商という武士から一番低い階級にみられたけれども、それを武士であったところの鈴木正三が「商人なくして世界の自由あるべからず」といったなんていうことは、ちょっとこんにち考えられないぐらい大したことじゃないか、と思いますね。
 
金光:  その前に一番最初にあります「何の事業もみな仏業なり」という、そこに基本をおいていらっしゃるから、そういう今の「商人なくして世界の自由あるべからず」という言葉も出てくるわけでございますね。
 
井上:  そうですね。ご自身は禅僧であるけれども、「お百姓さんはナムアミダブツ、ナムアミダブツ・・・≠ニ言って、一鍬一鍬を打ちなさい」ということを言っているわけですね。さらに大変面白い言葉がありますが、
 
     ●貧楽は悪し、福楽がよくおじゃる。
 
これは、ある人が「私は清貧を楽しんでいる」と、ある意味では大変胸を張って言ったんです。おそらく鈴木正三に褒めて貰うつもりで言ったと思うんだけれども、その時に正三が、「いや、富というものは決して否定する必要はないものだ。貧しいということ、そのものをいいと考えることはナンセンスであって、いわゆる富を持ちながら楽しんでいっこうかまわないんだよ。大事なことは伊庭貞剛のいう道であり、加藤さんのいう二つ(ありがたい・すみません)の心構えであるよ」という、こういうことでしょうね。
 
金光:  そういう意味では、今から鈴木正三という方の場合ですと、三百数十年前の方ですが、そういう封建社会の中で生きた方ですけれども、いわば非常に近代的な考えをしていた、ということでございますね。
 
井上:  ほんとにビックリ致しますし、もっとたくさんの人がこういう事実を知って頂きたいものだ、と思いますね。
 
金光:  そういう意味では、鈴木正三という方は、禅僧でありながら禅なら禅だけというよりも、非常に広い立場で自由にものを考えていた方ということが言えると思いますね。
 
井上:  付け足しで申し上げますと、彼は、弟になる人が島原の乱の後の代官に任命されたわけですね。そこで弟を助けて島原へ乗り込んで精神面から平和を築こうとする、その時にはもうキリスト教についての相当深い理解を持ちまして、キリスト教の「こういうところがいい、こういうところが悪い」ということを十分心得て乗り込んでいる。今おっしゃった通りほんとに広い見識を持った人でありました。
 
金光:  これはたしか宗派でいうと、曹洞宗に属した人だと思いますが、そういう伝統というのは、もう一時代前にもあったわけでございますか。
 
井上:  ございました。これは曹洞宗に限らずということで、これからのお話を発展すると思いますけれども、まず同じ禅である曹洞宗の宗祖である道元禅師のお言葉から見てみます。そうすると、
 
     利行は一法なり。あまねく自他を利するなり。
 
利行というのは他人に利益を与えていくことですね。利益というものは決して自分だけのものではない。両方が利するものだ、ということでありますが、この理解をさらに大変分かり易くさせますのは、この文章の前に、「愚かな人は、普通思うのに、他人の利益を先にしたならば自分の利益は損なわれてしまう」と、こう思っている。「いや、そうではないんだ」とこう言って、「利行は一法なり」と入るわけですね。これを熱心な仏教者でありました読売新聞の正力松太郎(しょうりきまつたろう)氏が、この「利行は一法なり」というのを文鎮に彫りまして、外人のお客さんが来るというと、お土産にあげておった、ということでございます。
 
金光:  「一法」というのはいわば、一つの仏法であるということですね。だからこれも先ほどの「飢えている乳飲み子にはお乳をやればいいんだ」という、それと共通のところがあるわけでございますね。
 
井上:  そうですね。みんなほんとによく「他力」とか「自力」ということを、仏教を勉強なさるとすぐそこへ引っかかってくるけれども、そういうことはほんとにナンセンスじゃないか、と思うんですね。あらゆる宗派を超えて、結局、御釈迦様がすべての人を幸せにしたいと思われたその願いということが仏教を貫いているんじゃないでしょうかね。
 
金光:  ですから、やっぱり自分のことをまず「我が身可愛いや」と、あるにしても、他の人のことも考える。他の人のために利益を与える行為というのが、仏法の大事な法である、ということをおっしゃっている。ということは、それは道元さまだけじゃなくて、他の方でもそういうことをおっしゃっているわけですね。
 
井上:  それをもう一つ、他宗を出しますと、日蓮上人のお言葉に、
 
     世間の治世の法を能能(よくよく)心えて候を智者とは申すなり。
 
という言葉がございます。「治世の法」というのは、明治に今日の「経済」という言葉に訳しました時に、そのもとになっていた熟語は、「経世済民」という言葉だったんですね。これをエコノミックスの訳語として採用した。つまり経済というのは、元来「経国済民」の考えであったわけなんですね。
 
金光:  「治世」というのと「経国経世」というのは、同じ世を治めるというのと、国を経営し世の中を経営するというのと同じことでございますね。その下に、しかし経済となると、「済民」―民を助けるという言葉があるわけですが、現代の経済という言葉の感覚からは、「済民」―民を助けるという感じのニュアンスがわりに少なくなっているというきらいがあるように思いますね。
 
井上:  「福祉、福祉」というふうになってきたけれども、ほんとに他の人の痛みをわかるという福祉というものはなかなか難しいところか、と思いますですね。
 
金光:  日蓮さまのお言葉も、そういう仏教のいろんな難しい言葉もありますけれども、同時に「治世の法を能能(よくよく)心えて候を智者とは申すなり」というのは、現実に足がピッタリとついていらっしゃる、ということでございますね。
 
井上:  そうですね。
 
金光:  たしかに鎌倉時代というのは、日本で新しい仏教が興ってきた時代でございますが、もう一つ前の時代にいきますと、どういうことになりますか?
 
井上:  日本仏教の伝統というふうに言っていいと思いますのは、聖徳太子が日本に仏教を輸入し、確立したということは、みなさまよくご存じの通りでございますが、そして今日では聖徳太子の言われた「和をもって貴しとなす」という「和」というのが、いわば日本的経営の根本みたいに言われております。これにはあんまり言われる方が少し安易に過ぎていろいろ問題があるように思いますが、それは別としまして、聖徳太子は、在家仏教―出家者の仏教であってはならない。私どものような一般の仕事をしたり、家庭を持ったりしている者の仏教でなくちゃいけない、ということをキチッとおっしゃって、日本の仏教をスタートさせたということが、大変今のように経済についても十分なる理解を各宗祖がもっておられるというふうなことの遠因でございましょうね。
 
金光:  たしかに『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』の場合も在家の方の勝鬘(しょうまん)夫人とか、それから維摩(ゆいま)居士とか、そういう在家の方の経典を取り入れて注釈なさっていますし、それから『法華経』の注釈も非常に立派な注釈があるようでございますが、これはやはり本来の読み方と聖徳太子の読み方をパッと出されるとニュアンスが変わっているところもあるようでございますね。
 
井上:  そうらしいですね。もとの経典で言っている精神とズーッと書いている、例えば、「山林に入ってやるのがいいんだ」というところを、わざわざ「山林に入っているのはいけないんだ」というふううに読み替えていらっしゃるところがあるそうですが―中村元先生から教えて頂いたんですがね。
 
金光:  そうしますと、それは仏教専門職の出家者だけの仏教ではなくて、それこそ万民の仏教であるためには、在家のいろいろな生活を、お寺以外で日常いろんな生活を営んでいる人の仏教でなければいかんという立場が最初からあった、ということでございますね。
 
井上:  そうだと思います。
 
金光:  そうしますと、一番大元(おおもと)の御釈迦様のところへいくと、どうなるわけでございますか。
 
井上:  これも私の小学校の頃には、国語の教科書に「釈迦」というのがありまして、この時の御釈迦様のお顔が非常にハンサムであった。これはどっかの仏塔かなんかだと思うんですが、これに惹かれたというのが、私が今日まで仏教についてきた一つの大きな原因じゃないか、と自分で思って、有り難く思っております。それは別に致しまして、その教科書にもある話ですが、御釈迦様の話といえば、御釈迦様は、最初、王位を捨て、家を捨て、家庭を捨て、いわゆる出家をするわけですが、そしてすぐに苦行ですね、つまり肉体を苦しめる、或いは欲望を非常に厳しく制限というか遮断をする、と。ほんとにさっきの我が身可愛いや、の一つもないような、そういうことをやられたわけです。ところがそれを暫くやられて、それではダメだということに気が付かれるわけなんですね。そしてその川のほとりに出ていった時に、そこに牛飼いの少女がおりました。その人が高貴な人と思ったんでしょう。或いは坊さまであるからでしょう。乳粥を捧げたんですね。その捧げたところの乳粥を飲んで健康を回復されて、今度は静かに、いわゆる静坐と申しますか、坐禅と申しますか、静かに心を精神統一をされて、それが結局十二月八日の御釈迦様の悟りというものに直結をすることになっているわけなんですね。その時は何の気なしに読んでいましたが、今考えてみると、なるほど、ここに仏教の経済観の根本があった、と。要するに肉体を苦しめて、或いは衣食住の欲は悪であるというふうなことで、これを否定をするのではない。しかし、喰う物、綺麗な着物を着ることにただ溺れてしまうんでもない。これを御釈迦様は「中道」と申しましたが、そういう両極端に趨らないところのあり方、そこに経済というもの、つまり乳粥を飲むという経済行為を素直にお認めになったというところに、御釈迦様、或いは仏教の経済に対する一番最初の姿勢というものがあったと思うんですね。だから我々は、そこにいつも還りながら、つまり経済をある時は批判をし、ある時は激励をしていくものじゃないかなあ、と思っております。
 
金光:  乳粥を飲まれたということは、非常に一般によく知られていることでございますが、それをしかし、今のお話のように、経済行為と結び付けて解釈されたのは、私は初めて伺ったんですが、たしかにそういう考え方が出来る、と思いますね。
 
井上:  そこで御釈迦様のお弟子さんには、お金持ちがたくさんいるわけですね。平家物語の一番最初に有名な「祇園精舎の鐘の声」というのがありますけれども、これはつまりある長者が祇園という大きな土地と建物を御釈迦様に寄付をした。これが祇園精舎なんですね。それからまた中世のカトリックは利子を禁止した、ということは有名な話でございますけれども、お釈迦様の教団においては、利子は決して否定をしなかったんですね。むしろお金を運用して利息を取って、それによって、いわゆる寺院というか、教団というものを修繕して維持していく、ということをむしろ奨励した。だから、カトリックの場合は、お金を借りたことがいろんな貧民を苦しめる。そちらに注目して利息を禁止したが、仏教のほうはお金を運用することによって、無尽、つまり尽きないところの働きをすることに注目して、むしろお金というものを観察したわけですね。そこでそういう寺院が持っていましたファンド(基金)というものを無尽と申しまして、これがついこの間まで相互銀行というものでございましたが、相互銀行の前身であるところの無尽会社、その無尽というものはまさにこの無尽なんですね。それぐらいですから大変仏教と経済は仲良しでもあったんであります。
 
金光:  しかし、そういうお金とか物の運用というのは非常に難しいところがあるわけで、いろんな原因があったからでしょうけれども、そういう仏教と経済とが結び付いている状況というのは、インドではだんだんおかしな方向へいって、インドでは仏教がついになくなって、ヒンズー教の中に取り込んでしまう、というようなことにもなっているわけでございますが、今までのところを総合して経済というものと仏教と結び付いた経済というものをちょっと整理して頂くというと、どういうことになりますでしょうか。
 
井上:  今はどっちかというと、仏教と経済が仲良しな面を主として申し上げてきたけれども、その時勢になってきますと、これだけ経済が肥大をし、いろんな問題が起こってきますと、むしろ今度は多少仏教のほうが経済を非難していくような必要があるのではないか。それが私がいま考えていることであります。それは経典の中から、またさっきの加藤さん、竹村さん、その他の仏教的な経営者のお考えや行動の中から教訓を得て、十分に体系づけると申しますか、整理していくことができるんじゃないかというふうに思っております。それを経済はよく「生産」「消費」「分配」と言われます。つまり人間が衣食住に必要なところのものを作り―作る中心は労働でございます。そしてそれを消費し、またその物を分配をしていくということでございますから、この三つに分けまして、ちょっと整理してみますと、まず最初の「労働観」―働くことの意味というふうなものは、これはいま目の前にあります如く、従来今日までの考え方は金儲けである。しかもアダム・スミスもそういったというふうなことが金科玉条になりまして、自分の利益をまず考える、と。自分の利益さえ考える、といってもいいくらいに考えていく。またこれを労働する立場から申しますというと、これは聖書にありますように、旧約聖書では人間が額に汗して働くのは神さまから頂いた罰でございますから、労働は苦痛である、ということで、これは労働基準法なんかも多分こういう考え方の上に立っているかと思います。ところが仏教が考えています労働観というのは、これは、「small is beautiful」―ひと頃「なんでも大きいことはいいことだ」というふうに経済界で言われた。これに対して、『小さいことこそ美しい』というベストセラーを書いた思想家のシューマッハー(Schumacher, E. F. (Ernst Friedrich), 1911-1977)が書いた本がございます。彼は、「仏教的経済学が必要だ」ということを言い、「仏教においては、労働は人間的な成長のためのものである」ということですね。ですから、自分の利益を逐うばかりでなく、「自利利他円満」、これは日蓮上人の和讃という歌ですが、その中にこの文句でありますけれども、そういうのが働くことの意味である。またさっき鈴木正三のところにありましたように、労働―働くことは即そのまま仏業であって、決してそれは神さまの罰とか、仏さまの罰なんてものでは全然ない、ということでございますね。その次は「消費」でございます。これは従来の経済、或いは経済学は、欲望を全面的に肯定しておる。これはマルクスでも、欲望は肯定していないわけですね。つまり、どういう制度なりがよりよく、或いはより公平に人間の欲望に奉仕するか、というだけでありまして、欲望を抑えるなんていった経済学者は、おそらく一人のいないだろう、と思うんですね。ただ、ごく最近になりまして、一九七二年まで、EC(欧州共同体)の委員長をしたマンスホールドという人が現在の公害問題と申しますか、「資源問題、地球問題をほんとうに解決しようと思えば、人口と欲望をストップさせなくちゃいけない」ということを言ったですね。人口のことはズーッと前から経済学の課題になっておりますが、「欲望をストップ」ということをいったのは、ここがはじめてでございましょう。ところが仏教は元来これを「知足(ちそく)」というふうに言っておりまして、「足(たる)を知る」ですね。これは京都の竜安寺、その他いろんなお寺やお茶室にあるようでありますが、蹲(つくばい)―手洗鉢(ちょうずばち)のところにこういう彫り物がしてある。
 
金光:  円の中の文字ですね。何という文字かと思うんですが。
井上:  真ん中が水を入れる穴があそこに開いているわけですが、その周りにこの四つの字がくっついていまして、それぞれが口と一緒になりまして、上と一緒になって「吾」、右と一緒になって「唯(ただ)」、下と一緒になって「足(たる)」、左を一緒になって「知(しる)」。「吾唯足知(われただたるをしる)」という仏教の非常に大事な格言であると、こういうことでございますね。
 
金光:  それがやっぱり蹲に―石の縁側に上る時の踏み台みたいな、ああいう蹲にあるわけですか。
 
井上:  はい。ですから、つまり欲望の無限大なんていうことはとんでもない。人間の幸福は、大体人間の幸せ、特に物質って幸せというのはよくいわれることですが、「欲望を分母とし、物を分子とする分数式で表される。ところが分母は幾何級数、一、二、四、八・・というふうに増えるが、物の方は算術級数、一、二、三、四・・というふうにしか増えないというわけですね。だからいつまでもこの数式によっている限り人間には満足・幸せはない、と。こういうことがよく言われておりますね。最後が「財」でございます。出来た物を―財をみんなで分配していくのが経済の一つの一面ですが、その財というものについて従来の経済学は、それは所有物である。従って煮て喰おうと焼いて喰おうと勝手であって、使い捨てても勿論結構である、ということですね。それに対しまして、これは預かり物だ。仏さまからの預かり物と考えてよろしゅうございましょう。宇宙からの預かり物と考えてよろしゅうございましょう。従いまして、これは「勿体ない」という精神で扱わなくちゃいけないということですね。それでキリスト教の旧約聖書では、「人間は地球―地とその上の生き物を支配していい」。つまり「支配していい」ということは「勝手に使っていい」ということなんですね。そういうふうに教えられている。われわれは「それは預かり物なんだ。大切な預かり物なんだ」と言っているわけでございます。
 
金光:  さっきの表を見ながらお話を伺っておりますと、従来の経済の見方というのは、物なら物、それから自分の欲望なら自分の欲望だけ、なんか物に、財にしても、自分の持ち物というふうに非常に部分的なところに焦点をおいて考える。ところが、仏教的な見方、或いは、「small is beautiful」みたいな、そういう立場の見方というのは、もっと自分だけではなくて、地球全体、或いは宇宙との繋がり、それから所有物にしても、自分だけの物というよりも預かり物という。むしろ視野が非常に広いところから見ている、ということが言えるようでございますね。
 
井上:  はい。まさに一番最初に金光さんがおっしゃった「倉田百三の、キツネというのが非常に象徴的だ」とおっしゃって頂いたけれども、ほんとにキツネにまで思いを馳せたような生き方であり経済である、と。またそうでなければ、つまり地球は救うことができない、ということでございますね。一昨年だったかと思います。アメリカの「タイムズ」は、新年の特集号を出しますが、大体ある人物を特集するんですが、その時の新年号だけは地球さんを特集号にしているわけですね。いろんな地球を救うための方策が書いてある。その中にいま地球を危うくしている一つの大きな原因は、キリスト教的なものの考え方、さっき言いましたような、「人間は人間だけの世界なんだ。地球はそれに従っていくんだ。それを征服してかまわないんだ。自分たちで勝手にしていいんだ≠ニいうような考え方というものがやっぱり地球を危うくしているんじゃないか」ということを書いている。これは実に常識で、なかなかそういうことを日本人が、自分というものについて言い切れるかわからないくらい。私は、大変アメリカ人の素晴らしさの一面だったように思って心打たれました。彼ら自身がそういうふうに認めているわけでございますね。
 
金光:  そこのところを若い時から、仏教と経済に関係なさった井上さんは、仏教経済学というところで、今考えていらっしゃるということでございますね。どうも今日はいいお話をありがとうございました。
 
井上:  ありがとうございました。
 
     これは平成三年十一月十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである