煩悩にさまたげられて
 
                          仏教談話会主宰 野 田  風 雪(ふうせつ)
大正十年小樽市に生まれ、真宗専門学校卒業後、兵役に従事。昭和二十九年から昭和五十五年まで、少年院の法務教官を勤め、現在は篤志面接委員。昭和四十四年から仏教談話会を主宰、生活に直結した仏教を語り合う。
                          き き て   金 光  寿 郎
 
ナレーター: 晴れ上がった冬の空に聳える名古屋城。立春少 し前に訪れた名古屋の風は、まだ身を切るよう な冷たさでした。しかし青空からそそがれる日 差しの明るさに、春を予感させるものがありま した。お堀端の木々の枝先に緑の芽生えている ものを見つけました。今日はこの名古屋城にほ ど近い丸の内というところに、野田風雪さんを お訪ね致します。野田さんは少年院の法務教官 を二十七年勤められた方ですが、三十数年前から東海地方を中心に各地で仏教談 話会を開いておられます。
今日は、野田さんが月一回仏教談話会を開いておられる清和会館でお話を伺いま す。
 

 

金光: 




 

いのちそのものは
戦争も差別もしないし
煩悩にも汚染されません
この「いのち」にめざめましょう。
と仏さんの教えです。
 







 
           (掲示板に書かれた言葉)
 
 

 
金光:  先ほど、下の掲示板を拝見しますと、「いのちそのものは戦争も差別もしないし煩 悩にも汚染されません。この「いのち」にめざめましょう。と 仏さんの教えです。」という非常に現代風の「いのち」という 言葉を使っていらっしゃって、現代の世の中の非常に混乱して いる、そこのところを抜け出た世界があるんですよ、というこ とをおっしゃっているんですが、こういう掲示板の言葉という のはしょっちゅう考えていらっしゃるんですか。
 
野田:  最近は、あまりにも人間の状態が壊れてしまっている、という んでしょうかね。そういうことから戦争も起こるし、殺人も起 こるし、ということで、「人間のどこが問題なんだろうか」と いうことで、しょっちゅう考えておりましてね。そしてある時、 自分自身の「いのち」そのものに気が付いた時に、「あ、い のち≠サのものは、仏さまの世界なんだ」という、そこからい ろいろ気付かして頂いておりましてね。そういうことからこの 言葉が生まれてまいりましてね。
 
金光:  仏さんというと、何となく抹香臭いという印象をお持ちの方もおいでかも知れま せんが、「いのち」という言葉でおっしゃられますと、非常に新鮮な感じがします ね。
 
野田:  実感になるんです、仏さんがですね。それが「いのち」と結びあっていかないと、 仏さんというのは観念の世界になってしまいますものですから、それで仏教が観 念論になったら、それはもう仏教でも何でもない。悪戯な世界でしかなくなる、 ということで、そういうところから気付かして頂いたことでございましてね。
 
金光:  昔からそこの「いのち」のところにどう気が付いたらいいか、ということをいろ んな方が、
 
野田:  ずーっと今まで仏教の世界でもあんまり「いのち」そのものを取り上げていると いう言葉が、非常に少なかったんじゃないかなあ。それが私自身が年齢をたくさ ん頂いて、今自分の「いのちそのもの」に気付いた時に、どうしてもこれは、「仏 さまの世界以外にないんだ」という実感を致しましてね。そこから生まれてきた 言葉でございます。
 
金光:  そこのところを気付いて貰おうということで、昔からいろんな表現がされている わけですけれども、人間というのはいろんな欲望をもって、いろんなことをする ことによって、毎日の日暮らしをしているわけですが、今日のテーマと致しまし て、「煩悩にさまたげられて」ということで、昔から有名な親鸞聖人の御和讃に、 例えばこういうのがあるわけですが、
 
     煩悩にまなこさえられて
     摂取の光明みざれども
     大悲ものうきことなくて
     つねにわが身を照らすなり
         (源信和讃八)
 
源信和讃の中にあるお言葉ですが、これも「いのち」という言葉は使われており ませんけれども、やはり「いのち」について謳われているというふうに考えてよ ろしいんでしょうか。
 
野田:  はい。これは人間そのもののあり方の一大欠点というんでしょうか。問題がここ にいわれていくわけですね。人間というものは、本来生きる生活能力というのが あるわけですが、その生活力がやっぱり煩悩なんでしょうね。煩悩なんで、それ がもっとも生活をする上に大事なものなんですよ。欠かすことのできない問題な んですけどね。それが、「これはおかしいんだ」とか、「これは変なんだ」とか、 「これが問題なんだ」という、そこに気付きがないんですね。ですから、「煩悩が 煩悩のまんまで暴走する形になってしまう」ということがあって。これは親鸞聖 人の和讃ですけれども、親鸞聖人のお心の中にも、そういう「人間凝視の言葉」 ─それが「煩悩」という言葉でおっしゃっていらっしゃるだろう。そんなふうに 頂いておりましてね。
 
金光:  そこのところをいろんな形でいろんな文章で表現して下さっているんで、例えば 今日ご用意頂いた言葉の中に、「一念多念文意(いちねんたねんもんい)」の中の言葉もご用意頂いているわ けですが、
 
     凡夫というは、無明(むみょう)煩悩われらがみにみちみちて、
     欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、
     ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、
     きえず、たえずと、水火二河(すいかにが)のたとえにあらわれたり
             (「一念多念文意」のことば)
 
「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて」とおっしゃっていますね。 「欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく」随分並べて下 さって、「ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、 水火二河のたとえにあらわれたり」と。
 
野田:  人間というものを─私もみなさんもみんな人間なんですけれど─人間というもの が本当に分かっていないんじゃないのかなあ。その分からないところから、いつ でも「過信」が生まれたり、或いは「横暴」が生まれたり、或いは「執着」が生 まれたりしていますね。そういう意味で、この親鸞聖人のお言葉は、「人間という ものは」ということで、キチッとすべて言い尽くしていらっしゃる。そういう言 葉ですね。この言葉から、「あ、自分自身の問題でもあるんだ。これは私のことな んだ」という、そういうことが誰にでも頷ける。気付かして貰える。そういうと ころからおっしゃっていらっしゃるんだろうと思うんですね。そのことに、「凡夫 なんだ」という。つまり「欠点だらけなんだ」ということで、「百点満点ではない んだ」という。「そういう自分自身というものを見つめることができたら、もっと 人間のあり方が変わっていくんだろう」ということを、私自身は頂いているわけ です。
 
金光:  そこの受け取り方ですけれども、臨終の時まで、そういういかりとか、はらだち とか、ねたみ心が消えないのが人間であると認めて下さるのなら、それでいいで はないかと、開き直ると、これはまたおかしなことになると思うんですが。
 
野田:  そうですね。人間というものは、「自分が問題なんだ。自分のところに問題があっ たんだ。私が随分考え違いしていたんだ」というようなことが本当に分かったら、 人間というものは、それ以上にそういう問題は膨れ上がらないんです。増長しな いんですよ。それが人間のいいところだ、と思うんです。
 
金光:  気が付いて認めると、自分は─そういうもんですか。
 
野田:  そういうことなんですね。それでこういうお言葉が生まれてくるんだろう、とい うことがあります。
 
金光:  むしろ気が付かないほうがどんどんそういう欲望が膨れてくる。
 
野田:  気が付かないと悪循環してきます。その悪循環を停止させるのが、「気付く」とい うことですよ。そういう意味でおっしゃっていらっしゃるんだろう、と思います ね。私ども随分たくさん教えられております。
 
金光:  今随分「いかり」「そねみ」「ねたむこころ」ということでおっしゃって下さって いるわけですが、仏教では昔からそういう煩悩を随分整理させた形で、
 
野田:  整理は実は仏教は、釈尊がお亡くなりになってから、一つの学問体系に入った、 その頃からの一つの表現でございましてね。
 
金光:  「根本煩悩」ということで書いて頂いていますね。
 












 

 根本煩悩

  貧(とん)・瞋(じん)・慢(まん)・無明(むみょう)・疑(ぎ)

 
  有身見(うしんけん)
辺執見(へんしゅうけん)
見取見(けんしゅけん)
戒禁取見(かいごんしゅけん)
邪見(じゃけん)
 
  見(けん)    

 

 

  四暴流(しぼうる)
    欲・有・見・無明
 












 
 
野田:  人間というものは本来そういうことなんだ、という。そういうことを明確に表す ためにこういう言葉を使っていらっしゃるんですね。別のお書物には、「客塵(きゃくじん)煩 悩」という言葉を使います。これは煩悩というものは、生まれ出てから人生を生 きている間につくられていく人間の心の歪みであろう。そういうことがこういう 「根本煩悩」として表現されるわけですね。
 
金光:  最初から読んで頂くと、
 
野田:  「貧(とん)・瞋(じん)・慢(まん)・無明(むみょう)、疑(ぎ)・見(けん)」ですね。この六つが、「根本煩悩」。別に、「六大 煩悩」という言葉で言われております。
 
金光:  「貧(とん)」というのは「貪(むさぼ)り」でございますね。
 
野田:  はい。「貧(とん)」というのは「貪り」。「執着」の「執」ですね。「瞋(じん)」は「いかり」で す。「慢」は「自惚れ、過信」ですね。それから「無明(むみょう)」は「痴(ち)」です。「無知」 も入りますし、「愚痴」の「痴」です。
 
金光:  「愚かさ」の「痴」ですね。
 
野田:  「痴者(しれもの)」という「痴(ち)」ですね。それから「疑」ですね。
 
金光:  疑いですね。
 
野田:  「疑」というのは「不信」ですね。不信になりますね。自分の意見と合わないも のは信じられないという。自分中心の世界から生まれてくるものですからね。そ ういう流れから今度は「見」というものが出てくる。「見」というのは、「物事の 考え方・思想」ですね。その考え方を五つに分けています。「五見(ごけん)」と言います。 一番最初に、「有身見(うしんけん)」ですね。「有身見(うしんけん)」は「我」です。「自己中心」ですね。 その「自己中心の我」というものが物事を判断していく、そういうことに繋がっ ていきますね。それから「辺執見(へんしゅうけん)」は「偏見」です。「偏(かたよ)り」です。それから 「見取見(けんしゅけん)」は一番初めの「有身見」のもう一つ強い「我執」です。
 
金光:  我執の固まりみたいなものですね。
 
野田:  我執ですね。それから「戒禁取見(かいごんしゅけん)」というんですが、これは間違いだと分かって いても、自分の立場でそれを主張する。それを「戒禁取見」というんです。それ からその次にお終いは「邪見(じゃけん)」ですね。「邪見」というのは考え方が間違っている ということだけでなくて、「無責任」ということですね。責任が取れない。言い訳 ばっかりするというのが「邪見」ですね。そういう意味で、仏教は、煩悩という ものは「暴流(ぼうる)」という意味をもっているんだ、ということを教えているんです。
 
金光:  「四暴流(しぼうる)」と書いてある。「暴(あば)れる」という字と「流れ」ですね。
 
野田:  「暴走する」と。煩悩というものはいつでも暴走するもんですよ。何でも暴走す るんです。その中の特に強いものは、「執」であり、「我」であり、
 
金光:  「執」というのは「我」ですね。
 
野田:  「執着」ですね。「我」であり、そして「考え方・思想」であり、「受け取り方」 であり、そして「無明」なんだ。「無明」ということは、「真実を知らない」とい うことです。「真実が分からない」ということですからね。そういう意味でこんな ことをずーっと根本的におっしゃっていらっしゃる。
 
金光:  そうすると、全部流れる。洪水みたいにドンドン広がっていく。流れると。
 
野田:  一人の人間にも、例えば私がおかしなことになると、そのおかしいことがドンド ンと暴走していく。歯止めが利かなくなるというのが、それが「暴流」という言 葉で表現されていくわけですね。実に仏教というものは、きわめて明瞭な考え方、 明瞭な掘り下げ方、そして真実の伝え方をされるというのが、こういうところで も頂けるわけでございますね。
 
金光:  現代という時代は、いろんな「暴流」と言いますか、いろんな思いがさまざま勝 手に洪水みたいに溢(あふ)れかえっているという、そういう「暴流の時代」というふう に、
 
野田:  「暴走の時代」という。そういう時代が感じられますね。
 
金光:  そういうふうな事実をみることができると、それからまた次の一歩を踏み出す目 処ができるということでございましょうか。
 
野田:  仏教というのは、そういういろいろな教え・言葉を、「私自身の問題として気付か ない、自覚しない」と、それは余所事(よそごと)になりますね。それはもう教えでもなけれ ば、何でもないですね。ただ「我執の世界」でしかないわけですからね。どうな んでしょうね。今この時代のいろんな犯罪の様子を見たり、聞いたりしておりま すと、「ほんとに自分というものが分かっているのかなあ」「自分のしていること がどういうことなのか。良いことなのか、悪いことなのか」ということが分かっ ていないんじゃないのかなあ。「自分が見えない時代」というふうにこの頃気付か して頂いております。
 
金光:  「自分が見えない」というお言葉がでましたけれども、野田先生は長い間少年院 のお勤めのご経験もおありで、「罪を犯してしまうまで、おそらく自分自身が何故 そういうふうなことをするのか、気が付かないで犯罪を犯す」というケースもけ っこうあったんじゃなかろうか、と思いますが。
 
野田:  少年院を退職してから、しばらくして篤志(とくし)面接委員というのを仰せ頂いているわ けです。それで今でも少年院の生徒さんと二人だけでお話をすることがあるんで す。聞いたり話をしたり、そういうことをさせて貰っておりますけどね。そうい う時に、「どうしてこんなふうになったんだろう? どうして自分は間違ってしま ったんだろう?」。そういうことをずーっと話をして貰っているんです。そうする と、それを聞くと、悪いことをしている。良くないことになっていく。学校の勉 強が嫌いになってきた。そういうところから悪い友だちと随分関係ができるよう になってきた、という。そういう流れがほとんど一緒なんですね。それで、それ は何だろう? 原因は一人ひとり全部違うんですけどね。ある少年が、こういうこ とを言いました。この少年は、実は小学校の三年生から間違った道へ入るように なった。泥棒が始まった。窃盗が始まった。或いは、悪い友だちと付き合うよう になって、家へ帰らなくなった、という。小学校の三年生から生まれてきている んですね。で、どうしてなのかなあ。家庭の状況だとか、或いは、そういう時の 家の状況だとか、それを、「どうだったの?」と訊いたら、その子は、「小学校三 年生からおかしくなってきた」。というのは、「お父さんとお母さんが、僕の小さ い時から、もう幼稚園へ行く前から、僕のお父さんとお母さんは全然仲が悪かっ たんです。毎日僕の目の前で言い争いをして、喧嘩ばっかりしていたんです。そ れを見るのが嫌だし、随分面白くないから、だんだん暗い気持ちになって、あ あ、こんなふうなら、俺も面白いことをやればいいんだ。俺の好きなことをやれ ばいいんだ≠ニいう思いがいつの間にか自分で気付かない間に出来てしまった」 ということを言うたものですから、それを聞いた私が、「ああ、そう。じゃ、君は そんな小さい時から寂しかったんだ。本当なんだなあ。寂しかったんだなあ。そ の寂しかった気持ちがこんなふうになっちゃったんだなあ」と言ったら、その子 は、僕の言葉を聞いたとたんに、ポロポロと涙を流した。「ああ、やっぱりそうだ ったのかな」と思って、後で、その子に、「ごめんね、君を泣かしちゃって、ごめ んね」と言ったら、「いいえ、先生。ありがとう」と言ってくれましたんですね。 そういうことから、人間というものは、誰かから、「君、それはおかしいじゃない か」って。それ、親切なんですけども、そういう言葉があったら、どうだったん だろうか。或いは、「お前はおかしいぞ」と言って直接言ってくれたら、どうだっ たんだろうか。そういうことを考えたんですがね。ところが、今はご存じのよう に、注意すると、注意した人を恨んだり、腹立てて傷付けたりすることがあるも んだから、誰も言わなくなってしまった。そういうところから、今の時代の問題 点というのは、「人間の言葉が通じない人間になっている」。そうすると、「人間 の言葉が通じない世界」というのは何だろう。「人間でなくなっていくのかなあ。 人間が壊れてしまったのかなあ」という、そういう実感を、そこで出てくるわけ ですね。例えば暴走族なんかの少年なんかでも、いろいろ聞いてみましたら、全 然忠告の言葉が耳に入らないんです。なんぼ言われても、なんぼ言われても、 「あ、そうか。おれちょっとおかしいかなあ」っていうゆとりがない。ゆとりが ないほど我執ですね。自分の好きな方向へ走ってしまう、という状況が暴走。そ れこそ先ほどの「暴流の世界」が如実に非行少年の少年院に入っている少年から も教えられるわけですね。
 
金光:  そういうふうに少年院に入って、それでまた生活が以前と変わって、そこの中で 生活している時に、先生方とお話なさる。そうなってくると、また違った受け取 り方もできるようになるわけでございますか。
 
野田:  それでこの少年院の少年たちが、一番の問題点というのは、百パーセント自分の 悪いところを知っているんです。
 
金光:  あ、そうなんですか。
 
野田:  「おれはこういうところが悪いんだ」ということは、みんな知っているわけです。 それでみんな知っているから、その上に、「お前が悪いんだ」と言ったって、何の 効き目もないわけです。警察でも言われるし、学校でも言われるし、親からも言 われるし、隣近所からも阻害されていく。「俺は悪い奴なんだ」という、そういう ところからどうしても抜けれないんですね。それで私は、心を開いて貰うために、 一つ気付きましたのは、「それじゃ、あなたの良いところって、どういうところが あるの?」って訊くと、「分からないんだ?」って。分からないんですよ。自分の 良いところ、聞いたことがない、小さい時から。
 
金光:  「お前はここがダメだ。ここがダメだ」と、そればっかり言われて、
 
野田:  言われるだけで、小さい時からいいところ一つも言われたことがない。それで、 「どうだろう。君のいいところ、君だって良いところあるんじゃない。自分で気 が付いていないかなあ」と言ったら、「分からない」と。「それじゃ担任の先生と 相談して、俺の良いところどこだ。教えてくれ≠ニ言って、先生に頼んだらど うだ」と言って、「今度来るまでに、それ、僕に教えてよ」と言ったら、大概分か るんですけども、それでも分からない人がいるんですね。それで私は話しておっ て、「ああ、君の目って、もの凄くいいじゃない。美しい目じゃない。それ、とっ てもいいところだよ」というと、初めていいところを教えて貰った、という。そ れで安心感があって、そこから初めて僕と話し合うのに心を開いてくれるんです。 心開いてくれると、僕の言葉が耳に入るんですよ。僕の言葉を聞くことができる んです。そうすると、聞いてくれると分かるんです。「ああ、そうか。やっぱり俺 も随分間違っていたんだなあ」ってね。これから「どうしようか。どうするんだ」 ということも考えられる。そういうことがありましたね。少年院のことで、ちょ っとそんなことを申し上げました。
で、実はこの頃も、「本当の善人って、どういう人なんだろう」ということをテー マにして、お互いに語り合ったことがあるんです。そうすると、「善人」というの は、「いい事をした人だ」とこういうわけです。だけど、「本当にいい人間って、 いい事初めからできるんだろうか」と訊くと、「さあ、そこのところが、人間って 誰でも失敗するし、誰でも横着もするし、誰でも人を馬鹿にするし、おかしいん じゃないのかなあ。随分間違っていくんじゃないのかなあ」と。「いや、間違った ことをしたら、悪人だろうか」という話から出てきて、私は、その時に、みんな とお話をしておって気が付いたんです。「ああ、そうなんだ。善人というのは、人 間って誰でも間違うんだ。誰でも失敗するんだ。そして小さい時も、或いは人生 の途中でも、歪んだこともやるし、恥ずかしいこともするんだ。だけども、それ から気が付いて、ああ、しまった。私はこんな酷いことをした。こんな恥ずか しいことをした≠ニいうことに気付いて、気付いたらもうその失敗は二度と繰り 返さないのが、先ほど申しましたように、「人間なんだ。人間の価値なんだ」と いうことから言えば、「気が付いて繰り返すことが無くなったら、無くなった人は そこから善人と言えないかなあ」と言って、みなさんに申し上げたことがありま してね。「ああ、そうか。そういうことだったのか」ということが、随分みなさん も考えて下さったことがありましてね。
 
金光:  そこのところが最初の言葉の「いのちにめざめましょう」と。「いのち」本来の流 れに沿って生きる時には、そのことに気が付くと、悪いことは出来ない、という 方向に自然に出来ているんでしょうか。
 
野田:  はい。「いのちそのもの」に自覚が出来た時に、初めに申しましたように、「い のち≠サのものは仏さん」なんですよ。「仏さんの世界」なんですよ。そのことに 仏教というのは、「そういうこと─そこに目覚めませんか。そこへ目覚めましょう や」という呼び掛けが、仏教であろう、と思うんですね。そういうところから、 今申しましたようなことが出てきましたね。私自身も随分間違ってきましたし、 随分愚かな間違いもしてきたことがあって、そういうことから、この頃、「やっぱ りあれは迷いなんだなあ。僕自身の迷いだったんだなあ」ということにこう気付 かして頂きましたら、そこから、「他人様(ひとさま)に偉そうにものが言える」とか、或いは 偉そうに、「俺は問題はないんだ」というような「自己過信」というものはすっか り、とてもとてもそんなことの言える存在ではない。そういう私ではない、とい うことを、この頃歳くって遅いんでしょうけど、人生が終わりになって、しみじ みと気付かして頂いております。
 
金光:  よく少年院の友だち仲間であると、「悪に染まる」という。「染まる」という言葉 を時々使いますが、「いのち≠ヘ煩悩にも汚染されません」と。「染まりません」 ということを書いていらっしゃいますね。その「染まる・染まらない」というの は大きな意味があるような気がしますが。
 
野田:  染まるのは、「自分の煩悩」が染まるんですよ。「いのち」は染まらないんです。 そこのところをちゃんと仏教の教えから気付かして頂かないといけないじゃない のか。或いはそういう説き方をして下さらないといけないのかなあ、というふう に、こう気付かして貰っています。
 
金光:  「いのち」そのものは染まらないんですね。
 
野田:  「何故染まらないか」というと、「仏さまの世界だから。仏さまは染まらない」ん ですよ。「金剛心」なんです。「清浄心」なんです。金剛心、清浄心というものは、 どんな汚いものがあっても、汚いものが注がれても、ちょうど海の水のように全 部浄化していく世界。それが浄土の世界でしょうからね。そういう意味でおっし ゃっているんだ、と思いますね。
金光:  「仏さんというのは、清浄心であり、金剛心であり」というお 話を伺いましても、自分の場合はちょっとそのことは距離があ るような気がしないでもないんですが、この近辺でいろんな方 との座談会だとか、お話なんかに出ていらっしゃる。そういう いろんな方の実例の中で、「いのちの働き、仏さまの働き」み たいに気付かれた方が、「こういうふうなケースもあるんです」 という例がおありでしたら、一、二ご紹介頂きませんでしょう か。
 
野田:  そうですね。これはある京都の旅館のお母さんとお嫁さんのことでございました けどね。お嫁さんが─旅館ですから食器の後片づけなんか大変なんですね。そう いう仕事をしていると、必ず一枚や二枚割るわけです。そうすると、今までだっ たら、お母さんから、「随分高価なものを。これはなんぼしたのよ」とか、或いは、 「これは大事な食器だったのに、もう代わりがないのよ」とか言われて、随分辛 い思いをしてきた。そうしたらある時、同じ過ちをした時に、お嫁さんの方が、 「お母さん、私、また割っちゃった」と言ったら、そうしたら、お母さんがまた 文句をいうのかなあと思っておずおずしていたら、お母さんが、「あら! 大事な ものが割れちゃったね。私も若い頃はよくやったのよ」って。で、「お母さんから 随分叱られて辛い思いをしたけど、また割れちゃったんだなあ。いいじゃない。 自分で失敗したなと思ったら、それでいいのよ」と言ってくれた。その時に、お 嫁さんが初めて、「助かった。救われた」という。そういうことを聞いたこともあ りましてね。「たった一言(ひとこと)で、人間というのは、そんなに変わるんだ」という。暗 くにもなるし、明るくにもなる。「この一言(ひとこと)って、どこからくるんだろう?」とい うことが、実はいろいろ後で聞かして頂きましたら、このお母さんは、「しょっち ゅう本山の近くの旅館ですから、お話を聞きに行っていた」ということが、大き な世界でして、そういう聞き続けてきた。そこから自分自身の心の中から一言(ひとこと)出 てきた。その出てきた言葉が、実は「いのち」に甦った、自分自身の問題が気付 けた。そういう一言(ひとこと)でしたですね。
それからもう一つは、ある婦人会のみなさんと座談会をした時に、この奥さんは 五十位だったと思いますけれども、「先生!」と言って、一番最初に手を挙げてお っしゃって下さった。「先生、私、人から悪口言われるのが一番辛いです」と言っ た時に、フッと考えたんです。「それじゃ、あなたは、おなたの悪口言っている人 を知っていますか?」と訊いたら、「大概あの人だ、と見当ついています」「それ じゃ見当付いているんだったら、いいじゃないですか。その人のところへ行って、 あなたから悪口言われるの、私は辛いから、もう明日から言わないでおいて下 さい≠ニ言って、お願いに行ったらどうですか」と言ったら、「そんなことは出来 ません」「出来なかったら言われるまんまでいいの」と言ったら、「それは困るん です」と。それでちょうどそれは仏法の集まりでございましたので、ここのとこ ろで一つ把握して欲しいなあと思ったんです。「あなたはどうですか。あなたは人 からあなたの悪口言われて、随分辛い思いするでしょう。嫌な思いするでしょう。 嫌な思いするあなたは人の悪口言いませんか?」と言ったら、もうそこで俯(うつむ)いち ゃって、何にも言えなくなってしまったんですね。そこで大勢の他のみなさんに 申し上げたことは、「自分の矛盾ということに気が付かないで、困ったり腹を立て たり、悩んだりしているんです、私たちは。だから自分も人から迷惑掛けられて 困っている。そういう私自身が、人に迷惑を掛けているんだよ、という。そうい う自己凝視≠ニいう言葉があるんだけど、自分というものを、そこで見詰めた ら、あんまりその辛さは半減どころか九十パーセント無くなるのと違うんだろう か」ということを投げかけたことがあって、私たちは随分自分の矛盾ということ に気が付かないで、他人(ひと)の問題ばっかりあげつらう、ということがありますよね。
 
金光:  ありますね。
 
野田:  そういうところに、私たちはやっぱり教えて頂かないといけないんだな、という ことをこの頃気付かして頂いております。
 
金光:  ご用意頂いた言葉の中に、これは『涅槃経(ねはんぎょう)』の「現病品(げんびょうほん)」というんですか、面白 い題名で、「現在の病の品」と書いてあるんですが、
 
慚愧(ざんき)あるがゆえに
すなわち父母(ぶも)師長(しちょう)を恭敬(くぎょう)す。
慚愧あるがゆえに
父母・兄弟・姉妹あることを説く。
(涅槃経「現病品」)
 
この「慙愧」─今のお話を伺いながら、わが身を考えて、振り返ってみると、そ こに他人に言われるのは恥ずかしいけれども、自分自身も同じだったという時に は、「慙愧の思い」というのが、自ずから湧いてくる。「あるがゆえにすなわち父 母師長を恭敬す」。
 
野田:  これは、「現病品」の半分から後の言葉でございまして、その前に、慙愧の説明が あるわけですが、その説明が『教行心証』の「信の巻」で、親鸞聖人が引用して いらっしゃるんです。ちょっと読んでみます。
 
     二つの白法(びゃくぼう)あり、よく衆生を救(たす)く。
     一つには「慙(ざん)」、二つには「愧(き)」なり。
     「慙(ざん)」は自ら罪を作らず、
     「愧(き)」は他を教えて作(な)さしめず。
     「慙」は内に自ら羞恥(しゅうち)す。
     「愧」は発露(はつろ)して人に向かう。
     「慙」は人に羞(は)づ。
     「愧」は天に羞づ。
 
「他を教えて作(な)さしめず」というのは、「誘惑しない」ということですね。「発露 して人に向かう」というのは、「私は恥ずかしいものです」という姿勢で対応する という。そういう意味があるんだ、ということをおっしゃっていらっしゃいます ね。その次ぎに、「見えないものに羞じる」という。このことについて、例えば 曹洞宗(そうとうしゅう)の道元(どうげん)禅師という方がおっしゃっていらっしゃる言葉の中に、こういう言 葉があるんですね。ちょっとメモしてきました。
 
     愧(は)づべくんば
     明眼(めいげん)の人を愧(は)づべし
 
「人に羞じる」という時には、誰にでも恥ずかしいと思えない。けれども、眼の ある人、つまり本当に賢明な人に、心のある人に恥ずかしいという心を持つべき だろう、ということを、道元禅師さんがおっしゃっている。
 
金光:  「明眼」というのは、「明るい眼、見る眼を持っている人に」という。
 
野田:  見る眼を持っている人ですね。そういう人に、「恥ずかしいと思うことが愧≠ネ んだ」ということを、道元禅師が、これは『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』というお書物の初 めの方にあるんだそうですがね。私はこれを教えて頂きましたので、そんなこと をちょっとメモしてきました。そういう「慙愧」ですね。「人間関係の基本なんだ よ」ということが、今の文章だと思うんです。
 
金光:  後半にあるのが、
 
     「慙愧あるがゆえに
     すなわち父母師長を恭敬す。
     慚愧あるがゆえに
     父母・兄弟・姉妹あることを説く。」
 
野田:  人間関係が成立するということです。人間関係が成立しないなら、「無慙愧」とい うことなんですね。この『涅槃経』の言葉の中に、非常に厳しい言い方を釈尊が していらっしゃる。これは釈尊として珍しい言葉でございますけれども、こうい うふうにおっしゃっていられるんです。
 
     「無慙愧(むざんき)」は名づけて
     「人(にん)」とせず、
 
金光:  「人間でない」と。
 
野田:  はい。「人間でないんだ」と。「人間でなかったら、何だ」と言ったら、その次に、
 
名づけて「畜生」とす。
 
ということなんです。畜生というのは、先ほど申しましたことから言えば、人間 の言葉が通じない世界です。だから蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)もよくおっしゃっていらっしゃった 言葉の中に、「人に直されなさい」とよく言われる。そういう教えがあるわけです ね。そういう言葉が蓮如上人のところにあるんですが、これは、『蓮如上人御一代(ごいちだい) 記聞書(きききがき)』の中にありましたけど、「直されるんだよ。直されなさいよ。若い人から 言われることから学びなさいよ」という、そういう言葉が出てくるんです。私は、 今この時代に、そういう「人間の生き方」というのか、或いは「姿勢」と言うん でしょうか、「心の姿勢」というものが非常に大事なんじゃないかな、というふう に、この頃しみじみと思われるわけです。
 
金光:  その、『御一代記聞書』のご用意頂いた部分を拝見致しますと、
 
     たれのともがらも、われはわろきとおもうもの、
     ひとりとしても、あるべからず。
     これ、しかしながら、聖人の御罰をこうぶりたるすがたなり。
     これによりて、一人ずつも心中(しんじゅう)をひるがえさずは、
     ながき世、泥梨(ないり)にふかくしずむべきものなり。
     これというも、なにごとぞなれば、
     真実に仏法のそこをしらざるゆえなり。
          (『蓮如上人御一代記聞書』第五十八条)
 
「泥梨(ないり)」これは地獄ですね。大体「自分は悪い」と、誰も思わないですからね。
 
野田:  これは私どもの姿ですね。みんな、「私が間違っている」というところには居ない ことですからね。「私はこれでまだ増しなほうなんだ」としても、「俺が悪いんだ」 と言える人は本当にいないんじゃないかなあ。「私が悪かった」という。先ほど京 都の旅館のお母さんのが、「あら!」という言葉があった。そのことに、「私も若 い頃よくやったのよ」という一言(ひとこと)ですよ。そういうことが実は人間を救う言葉じ ゃないですかね。
 
金光:  その言葉が出てくるというのはやっぱり心中をひるがえした言葉ということです ね。
 
野田:  そうですね。
 
金光:  人を責めるんじゃなくて、わが身を振り返って、
 
野田:  そうですね。「私が悪かった」って、言えない場合には、「言えなかった人が自分 の人生の終局まで地獄になるんだ」という。「人生が流転のまんまで、立ち上がれ ないんだ」という。そういう状況のことをおっしゃっていらっしゃる。これは大 変厳しい言い方をしていらっしゃるけれども、これは仏教の真髄と言っていいほ どの言葉でしょうね。それを蓮如上人が、キチッと生活していらっしゃる。念仏 の生活というのは、そういうことなんでしょうね。
 
金光:  仏法の説かれた一番大事なところに気が付く。自分の牙城と言いますか、或いは 自分の理屈を捨てて、そちらに従うというと、「自分らしさ」というものがなくな ってくるんじゃないか、と。この頃最近は、「自分らしさ」というのを非常に大事 にされているようですけれども、その辺の「いのちの流れ、本来の仏さまの世界」 と「自分らしさ」との関係は、どう考えたらよろしいんでしょうか。
 
野田:  よくお話を聞くことでございますけどね、「仏教ではすぐ俺が悪かった∞俺が 悪かった≠ニいう。そんなに自分自身を自虐(じぎゃく)的にしたら惨(みじ)めですよ」ということ をおっしゃる人がいましたね。それは、「自分で自分を惨めだと考えるから。本当 は考えたくないのに考えるから」それで惨めになってしまうんです。そうでなく て、人間というものは、先ほどからありましたように、凡夫(ぼんぷ)なんです。「罪悪─罪 が深いんです。煩悩に苛(さいな)まれていくんです」ということは、これは人間がいう言 葉じゃないんです。お釈迦様が、私どもに説いて聞かせた言葉でございます。そ の言葉で、「ハッと気が付く。ハッと気が付いたら、ああ、恥ずかしかった。私は 随分、愚かだったんだなあ」ということに気付くということが大事なんですよ。 それを自分で反省して─自分で反省するもんですから、反省が足らないから、反 省が不十分だから、「いつでもそんなに自分自身を虐めなくともいいではないか。 自虐的にならなくてもいいじゃないか。仏教はそういう点で自虐的なんだ」とい うことをよくおっしゃる人がいらっしゃるけど、もう少し経典というもの、或い は仏語(ぶつご)というものを読み直しをして下さると、どうかなあ、ということをしょっ ちゅう感じますね。
 
金光:  さっきおっしゃった「慙愧(ざんき)」ということができると、もっと広く見える。「慙愧」 によって、それまでの自分の見ていたのと、「もっと違う大きな世界、広いいのち の流れ」と言いますか、そういうことに気付くことができる世界があるというこ とでしょうか。
 
野田:  「慙愧」というのは、仏語の教えによって開かれた世界ですからね。「二つの白法」 というんですからね。「白法(びゃくほう)」というのは、「いのち」に目覚めた世界ですね。「い のち」に目覚めてみたら、「悪かった、ごめんなさい」と言えることが、実は随分、 「いいことではないのか。あれは人間が変わった世界じゃないのか」ということ がありますね。それで「いのち」そのものにもっと焦点を当てて、そうすると、 仏教がもっと実感的になるし、具体的になりますね。そうすると、大勢の人たち が、みんなして、「ああ、そうなんだ」ということが言えていくんだろう、という ことがありますね。今までは、言葉の解釈が非常に多かったものですから、しょ うがないと思うんですけどね。今これからそういう時代であろうというふうにも、 この頃歳くってから漸く私自身も気付かして頂いたわけでございます。
 
金光:  どうもいろいろとありがとうございました。
 
野田:  いいえ、至りませんで。どうもありがとうございました。
 
 
     これは、平成十五年二月二十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである