「デクノボー」という生き方―宮沢賢治と斎藤宗次郎の交流―
 
                        宗教学者 山 折(やまおり)  哲 雄
一九三一年サンフランシスコ生まれ、岩手県花巻市で育つ。昭和二九年東北大文学部卒、同大学院博士課程修了。その後東北大文学部助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本日本文化研究センター教授、所長を歴任。宗教学者。著書に「日本人の霊魂観」「死の民俗学」「近代日本人の宗教意識」「日本文明とは何か」「デクノボーになりたい〜私の宮沢賢治」他多数
                     ききて  峯 尾  武 男
 
峯尾: 
     「雨ニモマケズ」 
 
     雨ニモマケズ
     風ニモマケズ
     雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
     丈夫ナカラダヲモチ
     欲ハナク
     決シテ瞋(いか)ラズ
     イツモシヅカニワラッテヰル
     一日ニ玄米四合ト
     味噌ト少シノ野菜ヲタベ
     アラユルコトヲ
     ジブンヲカンジョウニ入レズニ
     ヨクミキキシワカリ
     ソシテワスレズ
     野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
     小サナ萱(かや)ブキノ小屋ニヰテ
     東ニ病気ノコドモアレバ
     行ッテ看病シテヤリ
     西ニツカレタ母アレバ
     行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
     南ニ死ニサウナ人アレバ
     行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
     北ニケンクヮヤソショウガアレバ
     ツマラナイカラヤメロトイヒ
     ヒデリノトキハナミダヲナガシ
     サムサノナツハオロオロアルキ
     ミンナニデクノボートヨバレ
     ホメラレモセズ
     クニモサレズ
     サウイフモノニ
     ワタシハナリタイ
 
宮沢賢治の詩「雨にも負けず」。この最後は「みんなにデクノボーと呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういう者に私はなりたい」と締め括られています。この「デクノボー」は何を意味するのか。これまでさまざまな議論がありました。このデクノボーのモデルではないか、といわれるのが、キリスト教の伝道者・斎藤宗次郎(そうじろう)(1877〜1968)です。斎藤宗次郎は一九六八年(昭和四十三年)に九十一歳で亡くなりました。七十年間に及ぶ膨大な日記と全四十巻の和綴じの自叙伝が残されました。その自叙伝の一部が最近発行されました。この自叙伝の編集にあたった宗教学者の山折哲雄さんに、今日はお宅にお邪魔してお話を伺います。どうぞよろしくお願い致します。
 
山折:  よろしく。
 
峯尾:  この「デクノボー」、或いは「デクノボーという生き方」は、どういうものか。山折さんご自身もこのデクノボーに随分関心を持っておられたようですがね。
 
山折:  私が宮沢賢治という人間、その文学作品に関心を持ち始めてからもう四十年ですね。随分文章にもしましたし、お話にも出してきたんですけど、結局、どうも分からない。分かりませんけれども、もしかすると、宮沢賢治はその人生の最後になんとかこのデクノボーになろうとしていた、というような気がだんだんとしてまいりましてね。これは宮沢賢治の人生と作品を解くためのキーワードかも知れない。そう思うようになりました。もっともこのデクノボーに関しては、いろんな方々の研究がございまして、ご承知のようにキリスト教の影響とか仏教の影響という方々がおいでになるわけですけれども、もしかすると、そういう要素も背景に考える必要があるかも知れません。けれども、斎藤宗次郎という同じ花巻の出身者で、内村鑑三(1861〜1930)の門に入ったキリスト者の生き方がなんらかの影響を与えていたのではないかというようにも思うようになりました。しかし、果たしてそれだけですべてが解決するかというと、これは難しい問題でして、今なお私はそれを考え中なんですね。ちょっと話が飛んでしまうかも知りませんけれども、賢治は果たして人間好きだったのか。もしかすると、人間嫌いだったかも知れない。言葉を換えて申しますと、農耕民という社会が嫌いで、狩猟民的な世界に憧れを持つようになったのではないか、という予測を、私は持っておりますけれども、そんな迷いのなかで、その紆余曲折の中で賢治は次第次第にデクノボー≠ニいう言葉を温め始めたのではないか。これは私が今抱えている仮説であり謎なんですね。何とか解きたいと思いますね。
 
峯尾:  四十年にもわたって、山折さんは宮沢賢治を研究されているというよりは、むしろ頭から離れず、常に宮沢賢治がそばにいた。そんな感じなんですかね。
 
山折:  そうですね。私が中学校、高等学校を過ごしたその故郷の実家のあるところから賢治さんの生家までわずか百メートルか二百メートル、そんなところですね。
 
峯尾:  ちょっと地図を用意しましたので、これでご説明頂けますか。
 
山折:  これは宮沢家ですね、賢治の生家ですが。私の実家というのは此処にあるんですよ、専念寺というのがそうです。それからこれからお話の中心になります斎藤宗次郎さんが新聞取次の仕事をされたその求康堂(きゅうこうどう)というお店がすぐ側のここなんですね。斎藤宗次郎と宮沢賢治の関係が私にとって最近の重要なテーマになっておりましたけれども、しかしそれはもう子どもの頃から宮沢賢治に親しみ、町内で御一族の方々ともお付き合いをしながら、花巻という故郷、賢治の息吹に次第に触れていった、そういう記憶と結び付いているんですね。
 

ナレーター: 宮沢賢治は、一八九六年、今の宮城県花巻市に生まれました。幼い頃から鉱物や植物の採集に興味を示した賢治は、盛岡高等農林学校を卒業し、地元の花巻農学校の教師になりました。賢治は教鞭を執る傍ら、凶作に苦しむ農民のために農業技術の向上に精力的に取り組みました。その一方で詩や童話などの文学にも情熱を傾け、『銀河鉄道の夜』など多くの名作を残しました。賢治は幾度か東京に出ましたが、上手くいかず、終生故郷花巻の地で活動し、一九三三年、三十七歳で亡くなりました。
 

 
山折:  母親から随分生前の賢治についての話を聞かされました。いろんな話を聞かされたんですが、その中で忘れることのできないエピソードが一つあるんですね。それはちょうど宮沢賢治が盛岡高等農林を卒業して、花巻に帰って来て、花巻農学校の先生になりますね。その頃だったと思いますが、毎年冬になりますと、寒行(かんぎょう)という、厳寒の寒い季節に行う修行、これが日蓮宗の修行者たちがやる行なんですね。寒行とこういいますが、それをやっていた、というんですね。その寒行をする時の服装がまた変わっておりまして、絣の着物を着て、その上に黒いマントを羽織って、町を歩きながら、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経≠ニ唱えていた、というんですね。それでそういう宮沢賢治の寒行の姿を土地の人がどれだけ理解していたかどうか、非常に疑問ですね。ほとんど理解する人はいなかったのではないか、と思いますね。まず、姿が非常に異様な姿。私は「異形の者」といっているんですね。どこか他界から訪れてきた「まれびと」のような、そういう人物に対して、やっぱり土地の人々は拒否的な態度をとったような気がしますね。そこから宮沢賢治の詩人としての魂が燃え上がっていく、ということが逆にあったと思いますけれども、賢治の孤独と淋しさと悲しさのようなものを、その寒行を通して、今あらためて思い起こしますね。しかも必ずしも賢治は健康な身体ではなかった。花巻の冬は寒いんですよ。厳しいですよ、この寒さはね。私、覚えておりますのは、厳冬期に卵の黄身が凍ったことがあります。そういう地域における、風土における寒行ですから、まあ賢治の思い入れも相当激しい、強いものがあったと思いますね。宮沢賢治の一生を見ておりますと、彼は実にいろんな世界に手を出しているんですよ。今申しましたように、まず農学校の教師をし、やがて農業改革のための農業技術者としての、或いは科学者としての知識を使って農村改良をしようとした、そういう側面もある。それからやがて詩を書き始めますから詩人。童話作家、そういう仕事にも手を染めております。それから何よりも宗教家たらんとしたところがありますね。しかし、どうもそのどれか一つを徹底して追求するということはしなかった、という面がありますね。ですから、これはいろんな人がいうんですけれども、どうも宮沢賢治というのは中途半端な人間だ、と。いろんなことに手を出して、その一筋の道を貫かなかった。考えてみれば、たしかにそうですよ。農学校の教師もやがて辞めてしまいます。詩人として一貫していたかというと、必ずしもそうではない。農業技術者として最後を全うしたかというと、勿論そうではない。そういう点では人生の失敗者だった、という評価もあるわけですよね。見ようによっては、たしかに宮沢賢治の一生というのは、人生の失敗者だった、という面があります。しかし現代の我々が今置かれている状況を考えてみますと、彼は一つの専門に自分を閉じこめようとしなかったともいえる。そういう面が、私には非常に印象的に思えるんですね。この現代的な社会、我々が現に生きている社会は、何かの専門がなければなかなか社会的に評価して貰えないという、そういう社会であるし、時代ですよね。ところがもうそういう専門馬鹿の時代じゃないよ。そういう声がいろんなところから出始めておりますね。脱専門―専門から出て、もう少し意味のある仕事をする必要があるのではないか。教育の現場でも、或いはいろいろな会社、企業においても、そういう声がだんだん聞かれるようになった。そう考えた時、この宮沢賢治の一生というのは非常に示唆に富む一生だった、という気がしますね。人間にもいろんな可能性があるんだ、と。ともかくその可能性にかけて見ようじゃないか、という。たとえ失敗しても、それが賢治にとってはより良き、広い総合的な人間たらんとする、そういう世界を当時としては一人垣間見ていた。そういう人間だったようにも思うんですね。だから人生の失敗者と考えるよりは、すべての人間の可能性に賭けようとした理想追求者としても見えてくる。正の面、負の面、両面抱えていた。そういう人間だったと思いますね。そこが私には、宮沢賢治という人間のたまらまい魅力と映るんですね。
 
峯尾:  七十年あまり前に亡くなった宮沢賢治ですけれども、あの「雨にも負けず」のデクノボーは、まさに若くして死んでいますけれども、宮沢賢治としては、晩年の作品にはじめてあのデクノボー、「雨にも負けず」が出てきたわけですよね。
山折:  もうみなさんご存じの「最後の手帳」。晩年病状に伏して書き付けた、その手帳が残されておりますが、これはその復元版なんですね。このように「南無妙法蓮華経」が林立しておりますね、林のように。その次ぎにこういう「雨にも負けず風にも負けず」というこの詩が出てまいります。その最後のところに、
 
     ヒデリノトキハナミダヲナガシ
     サムサノナツハオロオロアルキ
     ミンナニデクノボートヨバレ
     ホメラレモセズ
     クニモサレズ
     サウイフモノニ
     ワタシハナリタイ
 
そして、また「南無妙法蓮華経」ですね。ちょっと後を捲っていきますと、また「土偶坊(でくのぼう)」が出てまいりますが、これは漢字なんですね。「土偶(でく)」―人形という意味ですね。何の役にも立たないもの、という意味だろうと思いますが、「私はそういうものになりたい」と書いてある。
 
峯尾:  「最後の手帳」というのは、賢治の死後、遺品のトランクの中から見付かった。
 
山折:  そうですね。弟の清六(せいろく)さんが発見するわけですね。
 
峯尾:  さまざまなことを書いている中に、「雨にもまけず」があったわけですね。
 
山折:  印象的なのはやはり此処に「昭和六年九月廿日 再ビ東京ニテ発熱」とあるんです。発熱の中で花巻に帰ってきて、病床に伏して、病に苦しんで、その苦しみの中から何とか脱出しようと藻掻いている。そういう賢治の声がこの行間から立ち上ってきますね。そういう賢治の気持ちを映し出すように、「南無妙法蓮華経」の言葉が書き付けられ、その中でポーンと「雨にも負けず」が出てきて、その最後のところに「デクノボー」が書き付けられているわけですね。何か私には法華経とか仏教の世界の中に、突然別の神の光が射し込んでくるような、そういう詩のようにも、祈りの言葉のようにも見えるんですね。「雨にも負けず」から「デクノボー、そういうものになりたい」という賢治のこの言葉、―それは斎藤宗次郎という人が眼前に立ち現れてきたから、また私は、斎藤宗次郎にこのデクノボーの言葉を重ねてイメージしているから、それだからその仏教的な世界の中に神の光が差し込んだというふうに考えるようになったのかも知れません。しかしそれは本当のところはよく分かりません。とにかくいろんな問題を考えさせてくれる手帳になりました。
 
峯尾:  そのデクノボーのモデルではないか、といわれている斎藤宗次郎という人の名前は実は今回初めて聞いたんですが。
 
山折:  まあ専門家の間では知られていたわけですけれども、私もつい最近まで知りませんでした。同じ花巻の出身であるにもかかわらずですけどね。斎藤宗次郎という人は実は花巻の北笹間村というところの曹洞宗のお寺に生まれた方なんです。だから、本来ならお坊さんになる方なんですね。お生まれになったのは明治十年です。やがて斎藤家というところに養子に行きまして、それで岩手師範に入り、卒業して小学校の先生になるんです。その小学校が花巻小学校でございまして、その花巻小学校の先生になられた頃、内村鑑三の書物を読んで強い影響を受ける。やがて洗礼を受けて無教会派のキリスト者になっている。その洗礼を受けて内村鑑三に出会うのが、明治三十三年、二十二歳の時でした。その時内村鑑三は十六歳の年長。ですからかなり年齢差があったと考えていいと思いますね。小学校の先生をやりながら、当時内村鑑三の書物を、或いは論文を実によく読んでおりますが、やがて内村鑑三が日露戦争を前にして非戦論を唱えるようになります。『万朝報』という新聞にその論説を発表するようになりまして、それで戦争反対の立場から、もし戦争を日本の国家がやるならば、自分は納税を拒否する、というようなことまで言い出すわけです。勿論兵役拒否のこともいっていますけれども。そういうことを斎藤は教室で説くようになる。これが教育界で問題になり始めていたんですね。そのことを斎藤宗次郎は、師の内村鑑三に手紙で書き送るわけでありますが、それを聞いて内村鑑三が、これは非常に危険だ。過激な生き方をしていると心配しまして、花巻にやってくるわけです。それが日露戦争が勃発する直前のことでありまして、明治三十六年十二月で、暮れも押し迫った頃でありますが、雪の花巻へやってくる。翌日には花巻の信者たちと集会を持つんでありますが、その機会に内村鑑三がコンコンと諭(さと)すんですね。非戦論を実践することによって家族をはじめとする知人たちが大きな迷惑と被害を受けるということを考えなければいけない。きちんとキリスト教の信仰にたって、非戦論の立場を支持する、―そのこと自体は勿論正当なことだけれども、そのやり方については充分慎重でなければならない、という意味の説得をするわけでありまして、これを受け入れるんですね。この時のことを「花巻非戦論事件」と、こういうふうに斎藤宗次郎自身がいうようになります。そのことを書物にもしております。あまり一般にはこれ知られていないことなんですね。ところがせっかくそういう鑑三の勧めがあって、自制をするわけですけれども、既に彼は岩手県の教育界から危険人物視されておりまして、退職に追い込まれてしまう。それから、曹洞宗の出身でありながら、キリスト教に改宗したということも含めて、また忠実なキリスト者としての生き方を生活面に実践していくという、そういう態度をとったために地域からもの凄い迫害を受けるわけですよ。そういう孤独と苦しみの中で子どもを失うといったような悲劇にも見舞われるわけですけれども、新しい転身をはかることになります。それは師の内村鑑三の勧めもあって、新聞取次という仕事をしたらどうか。新聞だけではなしに最初は雑誌の取次なんかもしていたようでありますが、その師の勧めを受け入れて、先ほどパネルでお示しました求康堂という、そういう新聞取次業を始めるわけですね。ところがこの新聞取次の仕事のしぶりというのが実に変わっていたというか、キリスト者としての祈りの生活の中で新聞取次をする。例えば、十メートル行って配達し、神に祈る。さらに十メートル行って神に祈りながら新聞配達をするというような。それから病人の人がいれば側にいて慰めの言葉をかけたり、時にはなにがしかの喜捨をおいてくる、ということもあったかも知れません。とにかく一日平均四十キロ市内を走り回って配達をしたというんですよ。だからのちに「花巻のトルストイ」といわれるまでになった。そういわれてもまたむべなるかな、と私なんか思いますね。その宗次郎がこの花巻における新聞配達を十七年間やった後、上京することになります。年来そう考えていたんでしょう、内村鑑三の側にあって、忠実な弟子として伝道活動の手助けをする。そのために上京するんですね。これが大正十五年でありますが、以後内村鑑三の側にあって、その仕事を手伝い、最後に内村鑑三が昭和五年に息を引き取る時も看取りの看護までして尽くしている。その後は非常な健康を保持して九十歳まで生き抜いて、昭和四十三年に亡くなられる。ところが亡くなられた後、斎藤宗次郎が二十一歳から九十一歳までの七十年間に膨大な「日記」を付けていた、ということがわかった。しかもその「日記」にもとづいて自分の自叙伝まで書いていた、ということが明らかになったんですね。その自叙伝のことを『二荊自叙伝(にけいじじょでん)』と彼は称しております。その「二荊」というのは、荊の冠をつけて十字架にかけられたキリストに準(なぞら)えて自分を称しているわけです。
峯尾:  「荊(けい)」という字が「いばら」という字ですね。
 
山折:  「いばら」という字です。自分もその荊冠(けいかん)―荊の冠を被って世の苦難を受け、迫害に堪えたイエス・キリストにつづいて、みずからもその生き方を貫くという覚悟を示した号ですよ―「二荊」。その宗次郎の「日記」にもとづいた『二荊自叙伝』が、今度刊行されることになって、このようにしてお話をする機会に恵まれたわけでありますが、まず「日記」をちょっとご紹介して見ましょう。これが「日記」原本でございますが、一九二四年(大正十三年)のものです、これがもう既に四十八巻目になっておりますね。ですから明治時代から亡くなる昭和四十三年までの膨大な量の七十年間にわたる「日記」のほんの一部がこれということになるわけでございます。綺麗な和紙に丹念に毛筆で書かれたものですね。この膨大な「日記」をもとにして、斎藤宗次郎はさらに自分の自叙伝を編纂しております。記述はほとんどこれにもとづいているわけです。正確だと考えていいと思いますね。それがこれです。この自叙伝に纏めたものが全四十巻です。これが四十冊ですよね。此処に今お示し致しましたのは、『二荊自叙伝』の十四と十五です。此処に持ってまいりましたのは大正十二年と十三年のものでありますが、実はこの中に宮沢賢治との交遊を示す、交流を示す記述が出てくるんですね。それを一、二、ご紹介してみたいと思いますが、これは勿論「日記」原本にもある記述です。斎藤宗次郎は毎日のように、自分の従業員を使って新聞配達もしているわけでありますが、月に一遍ほど集金に行くわけですよ。この集金に行った時、花巻農学校に上がり込んで、宮沢賢治との交流が始まるというわけで、それを通して賢治は斎藤宗次郎の生き方にだんだん敬意を表するようになり、自分の作品を生徒たちに上演させるような時には必ず招待していた。またレコードコンサートをする時にも招待していた。この頁が花巻農学校におけるレコードコンサートに招かれた時の場面を記述したものですが、斎藤宗次郎にも絵心がございまして、非常に上手な絵をあちらこちらに挿絵代わりに描いて挿入しておりますね。これがレコードコンサートの場面ですが、こちらの頭が黒いのが賢治だと思いますね。こちらの頭のちょっと禿げているのは斎藤宗次郎だと思います。老青年と若き青年の対比ですね。
峯尾:  丸テーブルの上に蓄音機を回しているんですね。
 
山折:  なかなかユーモラスで面白い絵だと思います。此処に、この時に演奏されたのが、
 
     ヴェトーフェン 第八シンフォニー アレグロ
     モツアルト ジー調シンフォニー
     チャイコフスキー 第二シンフォニー
     メンデルスゾーン 真夏の夜の夢 ウエデンマーチ
 
といったようなことが書いてありますね。もう一つこちらは、実はこの頃花巻農学校の教師になった時に宮沢賢治は、『春と修羅』の詩集を出す準備をしておりまして、それで印刷所に原稿を渡していたんですね。そのゲラができて、そのゲラをまず真っ先に斎藤宗次郎のところに持って行って、それを見せているんですね。その中の特に「永訣の朝」のところを、ゲラを捲って斎藤宗次郎に見せるんですね。宗次郎はその「永訣の朝」のゲラを読んで感動するんです。「永訣の朝」をちょっと読んで見ましょうか。
 
     けふのうちに
     とほくへいってしまふわたしのいもうとよ
     みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
     (あめゆじゅとてちてけんじゃ) 註:あめゆきとってきてください
     うすあかくいっさう陰惨(いんさん)な雲から
     みぞれはびちょびちょふってくる
     (あめゆじゅとてちてけんじゃ)  
     青い蓴采(じゅんさい)のもやうのついた
     これらふたつのかけた陶椀(とうわん)に
     おまへがたべるあめゆきをとらうとして
     わたしはまがったてっぽうだまのやうに
     このくらいみぞれのなかに飛びだした
     (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
 
妹トシ(とし子)が死んで、そのとし子に呼び掛けるように、賢治がこの詩を書いている。そうすると、その向こう側からとし子の花巻方言の言葉が聞こえてくる。(あめゆじゅとてちてけんじゃ)―雨雪を取ってきて下さい、お兄さん。微熱があって喉が乾いているんでしょうね。そのみぞれを取るために外へ鉄砲玉のように飛び出した、という非常に印象的な場面を詩にしたものであります。この詩を宮沢賢治が一番最初に見せたのは、おそらく斎藤宗次郎ではないかと思いますね。その詩を読んで斎藤宗次郎が感動して、その感動の言葉をこの『二荊自叙伝』の中に記述しております。それは「二青年の対話」というところに出てくるんですね。「二青年」というのは、一人は斎藤宗次郎という老青年、もう一人は宮沢賢治というこれから世の中に出ていこうとしている新人―若き青年のことです。そういう二人の、つまり老青年と若き青年という二人の対話という形で、自分がこの「永訣の朝」を読んで得たその感動をここに、しかも詩の形で記述しているんですよ。これは非常に印象的な場面ですね。ちょっと読んで見ましょうか。
 
     卓上には既に印刷の成りし百頁近き校正刷や、
     執筆中の原稿が横たえられてある
 
それを取って斎藤宗次郎に渡したんですね。その時の感動を家に帰ってから斎藤宗次郎が自分の「日記」の中に書き付けたその原文ですよ。これは『二荊自叙伝』の方ですけれども、
 
     先ず詩題の奇抜と面白さを感じた
 
とこういっている。奇抜と面白さを同時に感じさせたんでしょうね。
 
     目の届き得る限りを詩化した
     耳の達し得る限りを詩化した
     脳の手繰り得る限りを美想化した
     黙するものは叫ぶ
     眠るものは歌う
     死せるものは躍る
 
なかなかリズミカルな文章になっておりますね。それでその時に宮沢賢治が、一言付け加えたというんですね。
     「これは私の妹の死の日を詠んだもの」
     アゝ死の日を詠んだものか
     予は心臓の奥の轟きを覚えた
 
その「永訣の朝」を読みながら感想を詩の形でまた述べているんです。で、老青年・斎藤宗次郎と若き青年・宮沢賢治は静かに対話を交わして、やがて二人は農学校の玄関で別れるんですね。その別れの場面をやはり詩の形にしている。最後にこのようにいっております。
 
     教員室を出て玄関に並んだ。
     二青年は、さらば≠フ一言をのこして
     室内と林間に消え去った。
     「又会う日まで消え去った」
 
と、それで終わっているんです。私はこの頁を捲って読んだ時にほんとに感動致しました。宮沢賢治と斎藤宗次郎の出会いが如何に深いものであったか。ある意味では如何に美しい火花を散らしたか、ということです。この「日記」原本と、『二荊自叙伝』の原本を私に見せて下さったのが、斎藤宗次郎のお孫さんにあたる兒玉佳與子(こだまかよこ)さんという方です。この方がちょうど京都にお住いでありまして、私が国際日本文化研究センターに勤めていた時でありますけれども、わざわざこれをお持ちになって見せて頂いた。手が震えましたね、私は。できるならば、これだけの資料をなんとか一般の方々にもお見せしたい。出版できないものか。その思いがだんだん募りまして、それで今回「日記」自叙伝の一部を、特に宮沢賢治と斎藤宗次郎の交遊を示すその一時期―これは大正十年から大正十五年までの六年間でありますけれども、その部分のみにかぎって全面復刻しようではないかという、こういう計画を立てるにいたりまして、いろんな方々のご援助ご支援を得て漸くそれを出版することができたのであります。それが実はこれなんですね。宮沢賢治の研究家としてよく知られております栗原敦(実践女子大学教授)さんと私が編集の任にあたりまして、『二荊自叙伝』の上下二巻として出版されることになりました。まだ上巻が出たばかりでありますが、間もなく下巻が出て、一応大正十年から十五年までの二人の交遊を示す時期、この部分の「日記」がこのようにして、一般の目に触れるようになったわけであります。大正十年というのは、宮沢賢治が花巻農学校の教師になった年なんです。この時既に斎藤宗次郎は新聞取次の仕事をして十何年、やがて斎藤宗次郎は大正十五年になって花巻を去って、一家あげて上京して、内村鑑三のもとに馳せ参じる。ですからそういう意味で大正十年から大正十五年というこの期間を限って、『二荊自叙伝』の刊行に踏み切った、というわけであります。これ全部刊行するとすれば四十巻ですからね、とてもとてもできることではございませんが。
 

 
峯尾:  その宗次郎と宮沢賢治との交流というのは非常に温かいものに思えるんですが、なんか生きていく生き方とか人柄とか、まったく違うような印象も受けるんですが、二人は。
 
山折:  そうですね。花巻における宗次郎と賢治の出会いの時代が終わって、やがてそれぞれが独自の道を歩み始めることになるわけですね。その二人の人生を辿りながら今おっしゃった問題をちょっと考えてみたいと思いますが、斎藤宗次郎は一家をあげて上京します。内村鑑三の側に行って仕事を手伝う。考えてみますと、内村鑑三には優れた弟子がたくさんいたわけですよね。しかしその優れた弟子たちの多くが―すべてが、と言ったら言い過ぎになりますけれども―内村鑑三の門を出て行っているんですね。例えば、古い話をすれば、有島武郎(ありしまたけお)、小山内薫(おさないかおる)、正宗白鳥(まさむねはくちょう)、そして志賀直哉(しがなおや)。みな青年時代に内村鑑三の門に入って強い影響を受けた。しかしやっぱりどこか厳しい内村鑑三の生き方に躓いてその門を出て行った。言ってみれば、裏切って出ていった、と言えないこともない。私は、非常に関心を持っているのは、内村鑑三がやがて「弟子を持つの不幸」というエッセイを書いているということなんですよ。弟子なんか自分は持たない、という。自分のところに弟子にしてくれ、といってくる青年たちはたくさんいるけれども、そのほとんどは自分を裏切って出ていった。だから弟子なんか持たない。持ちたくない。ところが、そういう弟子たちの中にあって、最後の最後まで裏切ることなく忠実に、無教会派のキリスト者として伝道の仕事に従事して、最後の最後まで内村鑑三の指示に従って生き抜いたのは斎藤宗次郎でした。斎藤一人とは申しませんけれども、これは非常に珍しい例だったと思いますね。そういう点では最後の最晩年において、内村鑑三は「弟子を持つの至福」を味わったといえるかもしれません。斎藤宗次郎によってそのころを味わうことができた、と私は思っているんですよ。その斎藤宗次郎の生き方というのは、優秀な他の弟子たちとは違って愚直なまでの誠実さ。言ってみれば、敢えて宮沢賢治の言葉に寄せていえば、「デクノボーのように愚直な、そういうキリスト者としての奉仕の生き方」だったのではないか。そういう生き方を私はつい思い出してしまう。花巻における斎藤宗次郎も、言ってみれば、必ずしも地元の人々に理解されるような生き方をしたわけではなかったわけですね。キリスト者として誠実に生きるために迫害も受け、誤解もされ、衝突もいろいろな場面で生じていたわけでありますが、それもやっぱり愚直な生き方、デクノボーのような生き方のように私には見えるわけであります。その愚直な生き方というのはこの「日記」原本―『二荊自叙伝』を読むだけでも十分分かるんですけれどもね。今日はそれ以上のことは申しませんけれど。ところがそれに対して宮沢賢治の場合はどうだったんだろうか、ということですね。よく知られておりますように、賢治の生まれたお家は、浄土真宗の篤信家の家ですよ。賢治のお父さんの政次郎(まさじろう)という人は非常に熱心な浄土真宗のご信者だった。おもしろいことにこの宗次郎と宮沢賢治のお父さんの政次郎、この二人が肝胆相照らすというか、お互いに尊敬しあっていたという関係が、この「日記」を通してわかるんですね。これが非常に大事な、しかも誰も今まで知らなかった、そういう事実だと思いますけれども、そういう家に育っているわけです。ところがやがて法華経に触れたり、キリスト教に触れたりして、いろいろな宗教的な世界に心を開いていく。ある意味では宗教的な遍歴を重ねていった賢治というのがそこにいるわけですけれども、その生き方というのは、内村鑑三の門に入って一神教の世界を突き進んでいった斎藤宗次郎の生き方とは非常に対照的だったと思うんですね。むしろ日本人的といってもいいのかな、多神教的というか、重層信仰的な生き方を疑うことなく受け入れていたというところが賢治にはあるわけですね。ところがやがて宮沢賢治はそういうさまざまな宗教的な世界に心を開いて、さまざまな体験をしていきながら、もう一つ別の宗教的な世界に目をひらかれていったんではないか、或いはもう一つ別のもっともベーシックな宗教的な感覚というものに目覚めていったのではないか、という気がするわけですね。それは一体どういう世界か、ということでありますが、それを掴むための一つの手掛かりが彼の詩とか童話の作品の中に潜んでいると、私は思っています。そのためのキーワードになるものが「風」という問題だろうと思っているのです。例えば、『風の又三郎』、あの物語りが始まるのは、風が吹いて、あの又三郎がひょいと花巻の山間部の村の小学校に舞い降りて、ドラマが始まる。気が付くと、風が吹いて、その主人公・又三郎の姿が消えている。同じことは『銀河鉄道の夜』でも言えることであって、ジョバンニがあのお祭りの日に丘から丘へ上っていって、草の上に寝っ転がって天上を振り仰いだ時に、冷たい風がサッと吹いてくる。途端に宇宙の彼方から列車の走る軌道の音が聞こえてくる。風とともに軌道を走る音が聞こえてくるんですよ。それで不思議な銀河鉄道の旅が始まるわけでありまして、カムパネルラがあの世に去って、ジョバンニが再びこの世に戻って来る。気が付くと草の上に再び転がっていて、このときまた風がサッと吹く。賢治の作品というのは、みんな風が吹いて物語りが始まる、風が吹いて物語りが終わる。そういう工合になっている。考えてみますと、宮沢賢治のイマジネーションというのは、宇宙の彼方に遠く駆け上っていくような、そういう独特なイマジネーションの性格を持っている、と私は思っているんですね。例えば、『よだかの星』というよく知られた作品がありますけれども、あれは空を飛んでいる間、いろんな虫を食べずには生きていられない自分の運命というか、生き方に絶望して、最後は自分の身体を燃やして、昇天して星になった、という話ですよね。どうも賢治には、この宇宙にはさまざまな生きものが存在している。さまざまな生命が自分に向かって、例えば風に乗って呼び掛けてくれる、そういうことを、いわば生きる支えにしていたようなところが彼にはあるように思うんですね。それは裏から言えば、現実の生活に絶望し始めていたということが言えないこともない。病身だった。いろいろなことに手を出しても必ずしも社会的にそれを認めては貰えなかった。さまざまな条件が現実には作用していたと思いますけれども、どうも賢治という人は、花巻という土地の農耕民的な世界に満足することのできなかった人間のような気がしますね。花巻は盆地ですよ。自然は美しいんです。しかし、社会のあり方は非常に閉鎖的ですね。東京にも何度か出て、脱出して行って、自分の詩人としての才能を開かせようとするんですが、それにも挫折して、また花巻に引き戻されてしまう。すると彼のイマジネーションというのは、後は宇宙に向かって垂直にほとばしりでていく以外になかった。そこから、そういう閉鎖的な現実の社会に堪えられないような自分というものが、次第次第に強く意識されるようになっていった。その一つの証のような作品が先ほど申しました『よだかの星』であるわけですけれども、もう一つ私は『なめとこ山の熊』という童話に注目したいんですね。あれは熊捕の名人が山に入って、熊とのさまざまな交流を通して、最後は熊よ赦せよ、と。俺がお前を射殺して生活の糧にするのは、そうしなければ生きていけないからなんだ、と。自分はやがてはお前たちのために殺されて犠牲になるよ。身体を差し上げるよ、というようなことを、熊たちに向かって呼び掛けるところが出てきますよね。人間の世界と動物の世界は対等なんだ、という感覚がここにはある。もしかすると、これは喰うか喰われるかの世界というものを受容することによって、人間のエゴイズムと言いますか、人間であることの不安から何とか脱出したい、と思っていた。そういう賢治の気持ちが、この物語りの背後には流れているかも知れない。この動物と人間との平等の関係が、いわば生き生きと生きていた時代が、私は狩猟社会だった、と思いますね。狩猟社会の掟というのは、人間は動物を殺して食べてもいい。しかし、同時に動物の方も人間を襲って人間の肉を食らう。そのことを受け入れていた。人間の側もそれを受け容れている。それが狩猟社会というものだった、と思いますね。その感覚というのは、私は農耕民的な感覚ではない。狩猟民的な感覚だ、と思いますね。何故そういう狩猟民的な感覚に賢治が拘ったか、というと、人間であることの根元的な不安感に彼が取り憑かれていたからではないか、とも思うんですよね。宇宙への呼びかけ、宇宙から吹いてくる風へのこだわり、それから熊の世界、よだかの世界、そういう動物や鳥たちに対する格別の関心の持ち方、そういうものを総合していきますと、どうも宮沢賢治というのは、最後は人間であることをやめて、非人間的な、言ってみればデクノボー的な生き方を、次第次第に求めるようになっていたのではないか。ここのところは自信はないんですけれども、どうもそんな気がしてならない。冒頭に宮沢賢治は果たして人間が好きだったんだろうか。いや、嫌いだったのではないか。或いは最初は好きだったけれども、だんだんに人間が嫌いになっていったのではないか、ということを申し上げたのは、そういうことなんです。或いは農耕民的な世界から脱出して狩猟民的な世界への関心をかき立てるようになっていた、と。それがもしかすると、「デクノボー」という、そういう言葉に結晶したのかも知れない。そして、その「デクノボー」という言葉の背後に、もしかすると、もう一人のデクノボー、花巻出身のデクノボー―斎藤宗次郎の生き方が影を落としていたかも知れないということですね。
 
峯尾:  お話を伺ってきて、その斎藤宗次郎がデクノボーのモデルではないか、というのは、ああ、そうなのかなぁという気がしてはきましたけれども、一方では宮沢賢治そのものがある種デクノボーだった。そうすると、デクノボーというのは簡単に定義できなくて、デクノボー的な生き方というのが、なんか非常に私にはぼんやりとしか感じられないほど理解が足りないのかも知りませんが、そんな気がするんですけれども。
 
山折:  そのように言われますと、宮沢賢治が「雨にも負けず」の中で、最後に「デクノボー」と出した、そのデクノボーの意味が、やはり非常に難しいなぁとあらためて思うんですがね。ですから、そこに先程来話をしてまいりましたけれども、斎藤宗次郎というもう一人の愚直なまでに誠実な人間の生き方の影が落ちているかも知れない、ということにもなるわけです。それは、いわゆる、言うところのモデル問題とは違うような気がするんですよね。もしもそうだとすると、非常に薄っぺらなものになってしまいますね。もしもあの賢治のデクノボーのモデルが斎藤宗次郎だ、とこう言ってしまうと、ほんとに薄っぺらな話になってしまうんですよ。私は最初からそんなことをいうつもりはないんですね。賢治がデクノボーという言葉をいわば溜息のように、あそこに書き付けた、そのことの意味というのは、やっぱり賢治の全人生というものの中から絞り出された言葉だ、と思いますね。そのことの意味については、先程来あれこれ申し上げてきた。人間であることの根元的な不安感みたいなものをズーッと私は感じ続けてきましたからね、賢治の場合。そのこととおそらく無関係ではない。人間であることに堪えられなくなった時の呟きかも知れない。或いは人間であることの苦しみから脱出するために、ふと口から飛び出した言葉かも知れない、そういうことですね。そういうことを一方で考えた場合に、さて斎藤宗次郎の場合はどうだろうか、ということになりますね。私は、あのキリスト者として、祈りの生活を本当につゆ疑うことなく、誠実に追求しようとした、この斎藤宗次郎の生き方、―これは自叙伝を読むと、行間から毎頁毎頁立ち上ってくるイメージなんですよね。よくぞこれまで、あの地方において、自分の信念を貫き通すことができたなぁと思うくらい、私はとてもできそうに思いませんね。斎藤宗次郎自身は、自分のことをそうは思っていなかったかも知れませんけれども、私なんかにはもう一つのデクノボー的な生き方、普通の平均的な人間の生き方を脱出して、いわば自分を無にするというか、そういう生き方を追い求めた人のように見えてくる。その点で、敢えて斎藤宗次郎の生き方をデクノボー的な、もう一つの生き方と捉えることができるのではないかと思うんですね。もしそう解して良いとすれば、一方の多神教的な生き方をした賢治と他方の一神教的な生き方をした宗次郎は、その宗教観人生観の根本を異にしながら、なおかつ互いに尊敬しあい、手を結ぶことができたということになります。その重要な原因の一つが、このデクノボー的な生き方を二人が共有したからではないか。意識するとしないとにかかわらず、おそらく無意識のうちに、だったと思いますけれども、そのデクノボー的な生き方を二人が共有していたからではないか、という気がするわけであります。こういう二人の生き方というのは、もしかすると、現代の日本からはもう失われてしまったものかも知れない。しかし、そのように言われると、そのように思い返してみると、これは大変貴重な人間の生き方の遺産の一つではないか、という気もするんですね。敢えてこの二人の人生を比較し取り上げたのもそのためであって、そのような二人の生き方の中からデクノボー的な生き方というものを取り出すことが、私自身のこれからの賢治研究に一つの新しい道を指し示してくれる道標になるかも知れない。そんな気もしているんですね。
 
峯尾:  そうすると、まだまだ山折さんはそのデクノボーから卒業できない。
 
山折:  それは死ぬまで卒業できそうにありませんね。デクノボーと同行二人の生活が続くかも知れませんね。
 
峯尾:  ありがとうございました。
 
山折:  どうも失礼いたしました。
 
 
     これは、平成十七年六月十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである