ほんまもんの人生
 
                         月心寺住職 村 瀬  明道尼(むらせ みょうどうに)
大正十三年(一九二四)年、愛知県に九人兄弟の五番目として生まれる。九歳で京都の高源寺の徒弟となり、仏門に入る。岐阜県岐阜市の天衣寺・美濃尼衆学林での修行後、京都府八幡市の水月寺の副住職、福井県高浜市海見寺の正住職を経て、滋賀県大津市の月心寺へ。三十九歳のとき交通事故で瀕死の重傷を負い、右手、右足の自由を失う。その後、会席の精進料理が評判となり、料理の世界へ。特にごま豆腐は「天下一」と賞され、「精進料理の明道尼」として知られることになった。平成十三年放送のNHK朝の連続テレビ小説「ほんまもん」では料理人を目指す主人公の師匠「庵主さま」のモデルに。著書に「月心寺での料理」「ほんまもんでいきなはれ」他
                         ききて   西 橋  正 泰
 
ナレーター:  京都市から国道一号線を東に行き、滋賀県大津市に差し掛かった山添に月心寺(げっしんじ)があります。住職・村瀬明道尼さんは、平成十三年放送のNHK朝の連続テレビ小説「ほんまもん」で料理人を目指すヒロインの師匠・庵主(あんじゅ)さんのモデルとなりました。月心寺には今も村瀬さんの精進料理を食べに多くの人が訪れます。
 

 
西橋:  今日は月心寺を訪ねています。庵主さんの村瀬明道尼さんは、今八十一歳でいらっしゃいます。九歳の時に仏門に入り、以来尼として、まっすぐに精いっぱい生きてこられました。その七十年あまりの尼僧人生を伺います。連続テレビ小説の「ほんまもん」はご覧になっていましたか?
 
村瀬:  はい、はい。それは私の書いた字ですので、「ほんまもん」が。それで不思議とあれをよく見ました。
 
西橋:  そうですか。村瀬さんは、「私にとって最大のミステリーとは、私自身のこの人生ではないか」というふうにお書きになっていますね。
 
村瀬:  そういえば、ほんとになんで尼さんになったんでしょうな。いまでも尼さん、嫌いなのにね。
 
西橋:  あ、嫌いなんですか?
 
村瀬:  なんでこんな、女で頭剃って、こんな格好、死ぬまで、九つから今日まで一遍も色の着物着たことないし、お化粧したことないし、ネックレスも―数珠ぐらいでね。どっちかというと、男と同じ生活を、勿論頭の毛を剃ってね。それが「美しい尼僧の生き方だ」と、叩き込まれておりますからね。気が付いた時は、戦いの最中でしたからね。ちょうどいい時に日本の国がひっくり返りました。戦いがあって、もしあれが平和な時であったら、今の姿にはなっていないでしょうね。サッサと逃げ出すでしょうな。
 
西橋:  大正十三年(一九二四年)に愛知県でお生まれになって、少女時代は近くの木曽川を素っ裸で泳ぎ渡った、という元気な少女?
 
村瀬:  不思議と男の子と仲良うなりましたからね。その頃、竹の先っぽまで上って、小さな身体で竹を撓(しな)わしてパーンと下りることから、縄を綯(な)うこと、竹馬に乗ること、自転車に乗ること、ありとあらゆる遊び事は全部やった、と思います。
西橋:  その元気な少女が九歳の時に仏門に入る。
 
村瀬:  そうです。
 
西橋:  京都に来られるわけですね。その選択というのは?
 
村瀬:  たまたま私が六つ頃に、そこに善光寺如来殿ができまして、信州長野の善光寺の尼公(にこう)さまがそのお寺へお越しになって、村では三軒ほどが、「尼公さまを自分のお家へ詣って頂きたい」というので、昭和三年に百円の冥加金(みょうがきん)だったと思うんです。父親は四十代でありましたけども、それを奉納したんでしょうな。それで村瀬家へ尼公さまがお詣り下さるということが決まって、もう家中それこそ柱を磨かなならん、障子は張り替えならん、ご馳走作らんならん、てんやわんやでしたが、その時にはじめて美しい尼宮(あまみや)さんが見えたんですわ―尼宮さまといいましたからね―紫の衣召して、水晶の数珠を持って、そして綺麗なお姿で、お供の方を連れて静かに歩いていらっしゃるのを見て、私の子ども心に、べったりと尼公さまの傍にひっついて歩いていたそうですが、それが一つの凄いイメージやった、と思いますね。
 
西橋:  尼さんという、
 
村瀬:  そうそう。それでたまたまそこの庵主さんが「きょうだい多いなんだから、一人ぐらい尼さんにせいへんか」と。一人出家すれば九族天に生ず≠ニいう言い伝えのある愛知県ですから。上から順番に「行かへんか」と言ったら、みんな「いやや」と言ったんです。私が、「行く、行く」というたんです。それで行くことになったんでしょうな。
 
西橋:  九歳で、京都に来られた。淋しくなかったですか?
 
村瀬:  能天気ですからね。ほんでも汽車の中で寝てしまったというのは、親はよう送ってくれませなんだから、はじめて自動車で岐阜駅へ着いて、兄と叔父が送ってくれましたけど。大垣を過ぎた頃から、今思うと、京都駅まで知らないことは、泣き寝入りに眠ってしまったんでしょうな。やっぱり嫌だったんでしょうな。三日目ぐらいに、世にいう「ホームシック」ですか、朝からボロボロ泣いてね。双六やって遊んで貰いました。それだけ覚えています。誰でもみんな三日目ぐらいに泣くそうです。声出して泣かないんですよ。メソメソメソメソね。帰りたいとも言わないですし、不思議な心理ですね、あれはね。
 
西橋:  京都の高源寺(こうげんじ)(京都市下京区)にお入りになった。師匠の尼さんは非常に厳しい方だったそうですね。
 
村瀬:  それは言うこと聞かんからですよ、私が。野生の子がね。師匠にしてみたら、師匠は京都育ちでしょう。それから、師匠は十八ぐらいで寺へ入っていますからね、分別があるんですが、九つの田舎の、裸で平気で木曽川を泳いで渡るような子やいうことは、師匠は知りませんからね。貰ってきて、はじめて会うたんですから。もうちょっと可愛らしい女の子やと思ったら、やること見ることが、すべてが男の子が側におるようなことをやっているんですから。ご飯一つ食べるのも行儀が悪いし、もう茶碗を持たすことから、箸の上げ下ろしから、下駄の脱ぐことから教えなんだら、泥だらけの足で上がってきよるしね。それは叱られるほうも大変やろうし、いわんならんほうも大変でしょう。それが師匠と弟子と二人だけ暮らしているんやったらいいんですが、そこには師匠の先代、師匠のもう一つ前、そのもう一つ前から。六世、七世、八世、師匠は九世。それだけ生きていましたからね。
 
西橋:  みなさん一緒に?
 
村瀬:  八十代の大隠居さん、七十代の隠居さん、五十代の庵主さん、三十代の師匠、そして私ですからね。師匠にしてみたら、愛弟子(まなでし)というものが、如何に可愛いか、ということは、師匠は私を手許においてはじめて知ったでしょうが、師匠はそれまでに、先代住職のお弟子が一人、十八ぐらいで死んでいますからね。ちょうど私が貰われてくる、二年ほど前に。そういうことがあって、師匠は三十代で住職をしていますけども、たった一言、八世の隠居さまが、私の師匠に、「宗覚(そうかく)」というんですが、「宗覚さん、どうや、自分の弟子というものは可愛いもんやろ」と言ったことだけ、子ども心に覚えていますわ。それを聞いてから、師匠は途端に私に厳しうなりました。今思うと、相当師匠は先代住職の可愛がっていた弟子を虐めた―虐めたじゃないんですがね―子どもは手に負いませんからいろんなことをやったから、言うたと思いますけども。だから、我が弟子を可愛がっていると思われまい、という意識のほうが、師匠に動いていった、と思いますね。ちょうど小学校は三年間、京都の学校でした。楽しかったです。大変に人気者でした。
 
西橋:  クラスで?
 
村瀬:  頭剃ってあったから。
 
西橋:  なるほど。
 
村瀬:  九つの夏に頭剃りましたからね。その時は二学期始まって、麦藁帽子を被ったなり、ここにゴムを付けたまま、教室で三日間知らん顔をして、帽子を被ったまま、どうしても帽子が脱げなかったんです。何を思ったか知らんけど、ふっと忘れちゃったんでしょうな、頭剃ったることを。それで自分で帽子外したら、どうでしょう。みんな拍手してくれましたね。それで芦田先生というお寺の息子さんが先生でしてね、「村瀬さん、ちょっと前へ来なさい」というて、前へ行ったら、みんなに「いよいよ村瀬さんは尼さんにならはんので、頭剃ってはるから虐めないように」。私には「村瀬さんはよく目立つ子だから、廊下を走ったりせないで、学校の模範生になりなさいや」と言われてね。それからへっちゃらで、小学校へ六年生まで、頭剃ったまま通いました。
 
西橋:  村瀬さんは女学校に行きたかったのに、師匠はやってくれなかった、と。
 
村瀬:  はい。簡単なことなんですがね。一旦は得心したんです。はじめて三年目に二等賞もらったんです。故郷では一年生から三年生まで、総代村瀬きよ子で、優等賞ばっかり貰っていましたからね。京都で田舎出の子がいっくら頑張っても、四年生から唱歌と裁縫、手芸、これがありますから、それが唱歌がダメ、手芸がダメで、どうしても平均点で落ちるわけです。そういうわけで、七番目ぐらいでしたかね。そうしたら六年生になった時に、先生が組み替えをしてくれはったんです。上の学校へ全部行く子のところにおったわけですが、五年生でみな六年生までのありったけの授業は全部終わって、あと六年生になったという時は、全国の女学校の入試問題、
 
西橋:  受験勉強ですね。
 
村瀬:  おもしろいですね。それこそお裁縫、唱歌、そういうものが全部なくなって、一日六時間の授業が七時間になって、そして特訓教育ですか、お蔭で全部その頃府一(府立第一高等女学校)、府二といったら、全国の女性がひしめいた名門校ですが、そこのマンモス小学校ですから、一学年だけで三百人ぐらいいるんですね。そのうちの百五十人ぐらいの中の一番か二番の子が府立第一高女、府二に入ったりしてね。先生は、「頑張れば府二に入れるだろうから、是非向学心に燃えているから、女学校へやったってくれ」と、先生が頼みにいって下さったんですが、女学校へやったために、「尼さん嫌や」というて寺を飛び出した人があったんです、近くのお寺に。それだから、女学校なんかやったら、うちの小(こ)ぼんは還俗(げんぞく)したら格好悪いから、「美濃尼衆学林(みのにしゅうがくりん)」がいいということで、入れてくれなかった。やっと得心したら、卒業の日に、はじめて褒美もらって、喜び勇んで帰ってきた我が寺に、美しい着物着た見ず知らずの女の子が来ていたんです。
 
西橋:  妹弟子になるわけですね?
 
村瀬:  ええ。その出逢いが良くなかった。天から降ってきたように、途端に、師匠が、「この子、今日からおまえの妹や。今日から、これが小ぼん=Aおまえが宗清(そうせい)≠ノなって、靴からカバンから机から、弁当箱からみな全部この子にやってや」。その時にはじめて、「あ、女学校へやってくれないのは、この子に学資がいるのやから、それで私をやってくれなかったんだ」と、子ども心に僻んだわけです。高源寺に二年間おりましたけど、その間に、朝暗がりに起きることから、三度の食事を作ることから、お経を読むこと、それから師匠からお経を習うこと、全部真ん中のほうのご隠居さんが全部教えて下さって、師匠は何にも教えてくれなかった。師匠は修繕したり、いろんなことで手こずっていましたから、小僧を教育するのができない。妹弟子の面倒を、「宗清、弁当詰めてやったか」というようなことを、私にいうぐらいでね。私は意地悪だから、自分が詰められた通りに、自分がやられたから、止めておけばいいのに、梅干しと漬け物しか入れないとかね。師匠は「なんなりと、おかずいれたりや」いうてはんのに、朝ご飯滅多に炊かないから、冷やご飯を弁当に詰めて。「宗清さん、お弁当腐っていたし」「そうか」知らん顔をしているほどね。意地悪姉さんもいいとこだった。(笑い)
 

 
ナレーター:  小学校を卒業した村瀬さんは、しばらく高源寺で修行したあと、十四歳の時、岐阜県にある尼僧の養成学校「美濃尼衆学林(みのにしゅうがくりん)」に入学しました。
 

 
 
村瀬:  そんな楽しいところはなかった。
 
西橋:  そうですか。
 
村瀬:  小学校時代からトップで人気であった癖がついていますからね。特にもう既に目立つ学徒でしたな。それからもの凄い型破りに見えているのに、もの凄く規則をよく守るという。規則に反することは絶対しないんですが、ある意味において、規則を破ることもやってみとうて仕方がないという、おもしろい天の邪鬼(あまのじゃく)な面がありましたけど。お蔭で、開校以来学業は一番でしたから。学林創立以来、一年生で九十九点の平均点を取るという学徒は、まずおらなかったそうですから。それは後日にすべてを聞いたわけですけど。
 
西橋:  じゃ、そうとうその尼衆学林で一生懸命勉強されたんですね。
 
村瀬:  一年生と二年生の時だけ。三年生の時は相当ぐれました。
 
西橋:  ぐれたんですか?
 
村瀬:  はい。あほくそうて、こんなところで勉強しておれるか、と思いました。
 
西橋:  そうですか。
 
村瀬:  本当は眠たくて、眠たくておおかたいねむってね。そして四年生になったら下の子を教えならんので、ちょっとかしこなって、五年生になったらいよいよ卒業と思うと、かしこうならんと思ってね。それから一年生と五年生の時が一番楽しかったですね。五年生ではもうありったけの、三十五人のトップにいますからね。命令一過で全部なんでもみんな従うというほどの権限を自然に与えられていますの、その集団生活ですからね。新聞もラジオもない学校で、世の中が戦争色一色に塗りつぶされつつ、昭和十六年が大東戦争でしょう。昭和十八年の三月二十日が卒業ですから、そうやから、
 
西橋:  戦時中、真っ最中ですよね。
 
村瀬:  それが岐阜は食べ物が豊富であって、新聞もラジオも聞けない。ただ向かい側に六十八連隊の兵舎があって、起床ラッパと就床ラッパを聞いて、慰霊祭に連隊へ行くぐらいで、まったく隔離された集団生活でしたので、京都へ戻って来てビックリしました。また意地悪師匠は、私の卒業する日に、あれほど行きたがっていた女学校へやってくれずに、「宗清はこの寺の跡を継ぐ。妹弟子は、ゆくゆく余所の寺にやらんならんから、あの妹弟子は学歴をつけておかな可哀想や」というて、妹弟子は女学校へ行っているんですよ。またちょっとも行きたがらない弟子を女学校へ入れたい、という天の邪鬼ね、考えたら。
 

 
ナレーター:  村瀬さんが美濃尼衆学林を卒業して、京都の高源寺に戻った昭和十八年は、戦争の最中、女性も勤労奉仕に動員される時代で、村瀬さんも会社勤めを経験、終戦を迎えました。
 

西橋:  一九四九年、二十五歳の時に、水月寺(すいげつじ)という、京都の八幡市(やわたし)のお寺に副住職で移られる。
 
村瀬:  それもおもしろい。妹弟子と一緒に見に行ったわけ。
 
西橋:  妹弟子さんが本来は行く予定だった?
 
村瀬:  そうそう。行くことになっていた。
 
西橋:  一緒に下見に?
 
村瀬:  見に行って帰ってきたお彼岸の晩に、妹弟子は、「あんな歩かんならん、あんなちっちゃな寺はいやや」といったんです。そうしたら間髪を入れず、師匠が、「ほんならおまえ、行かへんか」と。どうしてああいうことをいうたか、私わからないんですが、その時の私の驚きは、地球が止まってね、息もできんほどの、反撥する気力もないほどの、一瞬にして全部ひっくり返る、という。「あ、あの小学校を出た時にフッと思った現実は、たしかに今日になっても生きていたのか。私は要らん子であったのか。妹と私と、私が七分で、妹が三分であったので、妹を女学校へやりはったこと当然やと思っていたけど、妹が嫌や≠ニ言ったら、断ればいいのに、おまえ、いかへんか≠ネんて簡単に言われるのは、五分と五分に扱われたのややったら、ほんなら行ってやろう」ということです。師匠は私が怒ると思ったんです。「何言ってんの!私をやるのに今日まで、そうして大きうして、跡を継げと。妹弟子は女学校までやっておいて。嫌やったら断ったらいい!」と、過去の私から割り出して、師匠は、私がもの凄く怒ると思っていたんです。怒ったら、「ほんなら後で継いだらいいさかい、もうちょっと大人しぃして、妹弟子も可愛がって、尼さんらしい人間にならんあかんで」と言えばすむと思ったんでしょうね。いうて悪いけど、学歴全部ついていますからね。学林五年と専門道場、お裁縫も手にいれて、お茶も習って、二十五歳で押しも押されもせん、どこへ住職に出してもまず恥ずかしくないと、師匠も自惚れている秘蔵の弟子が、弾みの言葉で、「私、行きます。ご恩は忘れませんので、私、行きます」と一旦言ってしまったら、決して撤回せんことは、師匠が一番よう知っているんです。「しまった!」と師匠は思ったでしょうな。
 
西橋:  ほんとはその最初の高源寺という「お寺の跡継ぎだ」ということでずっと育てられたわけですね。
 
村瀬:  ぐるりが全部。高源寺を取り巻いている人たちは、この寺を継ぐ大事な大事な、いうたら将軍家でいえば若殿様なんです。
 
西橋:  なるほど。と思っていたのが、妹弟子があそこへ行くのを「嫌や」と断ったら、「ほんなら、おまえ、いかへんか」と。
 
村瀬:  そうそう、いと簡単に。
 
西橋:  この衝撃ですね。何やったんやと。
 
村瀬:  ほんなら行こう、ということです。
 
西橋:  ひっくりかえして、「行かして貰います」と。
 
村瀬:  「このことを人に言うのは、向こうに行ってから通知せや」ということで、それこそ誰一人として、親にも言わず、友だちにも言わず、行李一つを持って八幡へ行きました。
 
西橋:  八幡市の水月寺に副住職としてお入りになった。
 
村瀬:  はい。
 
西橋:  その水月寺に移られたことが、村瀬さんにとってはもの凄く大きな人生の転機になりますね。
 
村瀬:  こんな嬉しいことなかったですね。籠から出れた、ということ。
 
西橋:  なるほど。
 
村瀬:  水月寺も二つ目の大きな鳥籠であったことを知らないんです。高源寺は小さな鳥籠ね。やっと羽ばたけた、と思った。それこそ大空へ飛び立てた、と思ったです。けど、それも隣に円福寺(えんぷくじ)という禅宗の大きな専門道場があり、そこには軍隊あがりの同年ぐらいの若人が、強者どもが兵隊から帰ってきた坊さんの卵が三十五人ほど、戦争と同じようにいのちを懸けて修行している中へ、紅一点の、たった一人の尼さんですからね。
 
西橋:  あ、一緒にそういう修行を?
 
村瀬:  坐禅するのをね。その事が大変なことで―今もですが―男僧(なんそう)の専門道場へ尼僧一人入れて、一緒に坐禅組ますことは許されていないほど、差別が大きいんです。けど、終戦直後ですからね―直後といっても昭和二十四年ですから―その時の井沢寛州(いざわかんしゅう)老師と、それを取り巻いていた雲水の長が、水月の跡継ぎになった私、一人の尼を修行さすのはどうしたらいいだろう、ということで、そんなら、「こんな時節になっているんだから、尼僧を禅堂の中へ入れろ」ということで、接心(せっしん)と言って、一週間ありますが、晩の鐘が鳴って、それから「いっちゅう」と言って、四十五分坐禅して、十五分歩いて、次ぎまた四十五分坐る間に問答に行かなならんです。問答の終わるまでの間、約一時間あまり、坐禅を許可されて、「今度は必ず来なければダメだぞ」という条件が付いたんです。それからきちっとした衣を着て、小僧ですから木綿の夏のこういう格好をして、男僧さんの中に混じって坐禅に行きました。けど、お高座というて、高いところから老師が提唱するのを聞いていても、向こう側へずらっと坊さんが並んでいるんですがね、同じ歳ぐらいの。
 
西橋:  男性の、
 
村瀬:  石ころが並んでいるぐらいにしか思わんぐらい無関心でした。後から聞くと、向こうは、気になった存在やったそうです。禁欲生活ですからね。それで同じぐらいの年頃の尼さんがいつも向こう側に坐っているでしょう。夕方になったら坐禅堂に来るでしょう。「誰があいつの手を握るだろう。ほんとにあんたの存在は、来なければ来ないで心配で、来たら来たで邪魔になるし、それでパッと飛び出していって問答に先に行きよるし、口惜しくて腹が立つこといっぱいやった」と、やっと今になってから語ってくれるから、五十年も経ってから、笑いもって、「ごめんなさいね」というているんです。
 

 
ナレーター:  村瀬さんは、三十三歳になってはじめて恋を経験しました。相手は村瀬さんも修行したことのある専門道場の円山蒼谷(まるやまそうこく)老師でした。
 

 
村瀬:  そのお方とはじめてお目にかかったのが、水月に行った年の五月十五日。五日に行って十日。その時に紹介されて、「その方が円福寺の跡継。これは水月の跡継ぎです」と。「今後ともよろしく。特別のお方だから、ようご挨拶しておけや」というてでした。
 
西橋:  庵主さんが三十三歳、
 
村瀬:  いや、まだ二十五歳。
 
西橋:  二十五歳ですか?
 
村瀬:  お目にかかったのは、最初の年ね。それから八年かかっているんです。
 
西橋:  なるほど。
 
村瀬:  私、無感覚でいるんです。彼は、「私が円福寺行く頃には、あの子が水月の住職をしているだろう。それまでにたくさん雲水どもが出入りしているから、ひょっとしたら雲水の慰め者になってしまっているのと違うかなあ」と。それとはなくに、親が娘を心配するように心配していた、と思います。それである日、何かの急用のお話しがあって、はじめて一人で行ったんです。ちゃんと衣を着て。
 
西橋:  円福寺に?
 
村瀬:  ええ。それで一生懸命お話しをしていて、するとパッと老師が立たれたから、なんで立たれたのかと思ったら、後ろからきて私を羽交い締めにして、それこそほっぺたに唇をつけたので、ピシャッと殴ったんです。
 
西橋:  老師を、
 
村瀬:  ええ。瞬間に。
 
西橋:  「失礼な! なんということをするんですか!」。絶叫です、腹が立って。腹を立てたことは、世にいう「嘗められた」と思ったんです。今日まで男さんに、そういう卑怯なことはされた覚えが一遍もないんです。それで入れ歯が飛んだんです。振り向きもせんで、逃げて水月へ帰って来たんです。庵主さんはビックリして、「何をしたんや。話はどうなった?」「そんなこと知らん!」。それで半年、お正月まで一言ももの言わなかったです。しかし行かんならんです。坐禅に行っても、問答にも行かないし、お提唱聞きに行っても顔だけ見ているだけで、挨拶もしなければ、怒っているんです。不思議ですよ。怒っているのに、もう一遍された時はどうしょうか、という心が動いたです。必ずもう一遍されそうな気がするんです。その時は、どうしようか、と。不思議な心理状態が動くんですね。向こうは八年間ずっと私を見てはったんですからね。そやから目に入れても痛くないほど向こうは思ってはったんでしょうけど、申し訳ないけど、私自身がまったくその気がなくて、大変失礼千万なことでぶん殴った、ということです。
 
西橋:  でもある時、村瀬さんが余所へ行かれて、約束の日に帰って来るのを、老師は石の上で坐って待っておられた?
 
村瀬:  また友だちの尼さんがややこしゅう問題を起こしてね。腹を立てても世の中は、高源寺の師匠はあんなやったし、水月の師匠はこんなんやったし、當麻の尼さんはこんなやったし、世の中はなんにも信用できるものあらへん。それで、老師が「今度行って帰る時は石の上に待ってるよ」なんていわれて、あれはウソに違いないけどね、ウソやってもともとやから、ウソかほんまか一遍あたってみようと思って、帰って来たら、待ってはったんです。
 
西橋:  夜中に、石の上で、十二時過ぎに坐禅組んで、
 
村瀬:  そう。はじめて男の膝にもたれて、声をあげて泣いたんです。
 
西橋:  待っててくれはったんやと。
 
村瀬:  やっと信用する人に出くわした。ウソつかん人にね。それからはじめて彼の寝所(しんじょ)で寝ました、同じ蚊帳の中で。何にも、触りも何にもしてくれん。そのそばへ寝て。「夕べ泊まったことを、水月の庵主さんにいいや。隠しておく必要ないさかいに」と言われて、帰って来て、素直にそう申しましたら、「まあ、あんさんとしたことが、なんちゅうことしたはりまんねん!」と怒られましてね。それにこっちなんとも思っていないんですけど、その日から嬉しくて嬉しくて、しょうがないほど、この世がバラ色になるほど嬉しいんですよ。おもしろいですね、人間って。そうしたら、一番最初の三日ほど経って、親しい人が、「ちょっと家内がな、あんたの目がキラキラして、足袋が綺麗に洗濯してあったり、ちょっと水月の若はんいい人できたんとちがうか。いい人だったら、大抵あの人だぞ、とみんな噂するけど、そうやろうなあ」というさかい、「あなたがいうている通りや」というたんです。
 
西橋:  噂になっているわけですね?
 
村瀬:  そこまでいっていないんです。気がある人がね、「若はん、ちょっと恋しているのと違うか」ということです。それを聞いた時に、「一刻も早く此処を逃げ出さなあかん」と思ったんです。大変なことが起きてくる。相手に迷惑かける。
 
西橋:  三十三歳で、二十五歳年上の老師と恋に落ちた。その苦しみというのは?
 
村瀬:  苦しみとかね。そんな簡単な問題じゃないんですよ。「尼僧にあるまじきことだ」という罪悪感のほうが強いわけです。好きになったことは、米二さんも好きになれば、亡くなった泥龍窟老師も好きになれば、拈笑軒というんですが、特にその方が好きやったんですが、そんな簡単なとこじゃない。彼から逃げた筈なんですね、迷惑がかかると思って。噂になったらあかん、と思って。そうやのに、お経読んでいてもご本尊さまが彼の顔に見えるんです。それぐらい哀れ、哀れなんですが、他人にはそれぐらい私が悩んでいることはわからないんです。ちょうど七月十七日、水月を出た日に、米二さんが写真を撮ってくれました。その写真が一枚残っているんです。それを眺めると、ああ、恋している時の尼さんというのは光り輝くほど綺麗なのね。これほっといても目立つんです。それ見ても、「あ、こんな純真な顔して、こんだけ美しかったら、そらほっとくはずがない」と。ほっとかれたほうがおかしくて、世の中ほっとかなかったんだろうけど、どうして、彼だけが私に、そういう失礼千万なことから始まって、口約束を守って、で、私が日に日に深入りしていく自分を、女に戻っていく私―寂聴(じゃくちょう)さんとさかさまな―その変りようの恐ろしさと変わっていく自分の姿を、昨日まで知っているみんなに見られるのが嫌だ、という矛盾。そやから、そばにおりたいという気持よりも、自分の変人ぶりの、心の変わっていくのを、人に見透かされるのが極力嫌やったんでしょうな。そやから知らない土地へ行きたかった。幸い知らない土地がすぐ見付かって良かったんです。
 
西橋:  でもその時に、もし、じゃもう尼の道は捨てて?
 
村瀬:  彼がそのことを望んでいませんから、今度は。決して私を還俗さして、自分の妻にしようとも全然そんなこと思っていないですからね。尼で一生懸命いるから可愛いのであって、普通のそこに転がっているようなことをやったら、それっきりになるでしょうな。一風変わっているから、大変興味を持ったんだろう、と思います。それから大変素直な子になっていますからね。明けの年の八月一日に一本の手紙を、八幡のおばさんが言付かってきてくれまして、寺を引退されて、
 
西橋:  その老師が?
 
村瀬:  そう。リウマチでした。右手右足が。リウマチになって、九年間寝たきりですからね。世話するほうも大変やった、と思いますけど。
 

ナレーター:  村瀬さんが、この月心寺(げっしんじ)に来たのは三十七歳の時でした。月心寺は、昭和二十一年日本画家・橋本關雪(かんせつ)の別荘を禅宗の寺に改めたのが始まりです。寺の初代住職は村上独潭(どくたん)老師でした。村瀬さんは、独潭(どくたん)老師とは十六年間、師と弟子としてともに暮らしました。
 

 
西橋:  此処にお入りになって、二年後、昭和三十八年に、三十九歳の時に、大きな交通事故に此処で遭われるわけですね。このお寺の前の道が国道一号線、昔の東海道ですよね。そこでダンプカーに跳ねられたんです、って。
 
村瀬:  実はね、上に小野小町(おののこまち)(平安前期の女流歌人。絶世の美人として七小町などの伝説がある)が祀ってあるんです。で、老師が向こうへ自分の部屋を造って、ユースホステルをやっていますから。
西橋:  ユースホステルを?
 
村瀬:  全部下を庵主に任して、月心寺を全部ユースホステルに改造するつもりで、普請をなさっていたんです。普請をするお金は、どこぞで借りられたと思うけど、返す目途が老師にはあった、と思う。私がおれば返せると思いはったんです。私は私で、あれが出来上がったら、老師が上へ移らはるのはいいけども、この月心寺を預かって一生、またユースホステルのあとの世話だけして一生暮らさんならんかと思ったらたまらんから、あの上が直ったら逃げだそう、と思っていたんです。
 
西橋:  思っていたんですか?
 
村瀬:  決めていたんです、心の中で。そうしたら、なんのことない。出来上がる一週間前に、自動車事故に遭うて全部ストップ。逃げ出すことも、どうもできなくなった。一年間ベッドに括られたわけです。
 
西橋:  瀕死の重傷だったんですか?
 
村瀬:  ええ。死なん奴は死なへんのです、って。死なん奴はほっておいても生きているんです、って。誰が私の心臓を動かしているのか知りませんが、ほんとにそれは不思議でした。それをほんなら、どうしてそうなったか、ということ。私、心の中で、あるまじきことに、人に思いをかけたがために、天地自然の法則に従って、私は道を踏み外したのであるから、右手右足の自由を奪われるのは自然の原理である、と思ったわけです。それの考え方が、ちょっとみなさんと違うかもわからん。逃れがたき宿業であった。彼に出会ったことも。自分の自動車事故に遭ったことも。けど、自動車事故に遭うた、ということで、この惨めな姿を、彼だけにはどうしても見せたくない、という心理が動いたですね。彼は寝たきりやから、私が行かないかぎり会えないのでね。ついに退院してから、亡くなるまで―まだ三年ぐらいあったかな―亡くなって骨になるまで一遍も会わずでした。
 
西橋:  そうですか。でも、ご自分がそういう事故に遭われたことは、自分が道を踏み外したことに対する報いだと?
 
村瀬:  自然の法則と思われますねん。「あ、小町にやられた」と思いました。小野小町の木像がね、私を留めるためにはどうしたらいいか、ということです。死なん程度に右手右足へし折ったらね、出ていくとはいわんだろう、ということです。そうでなかったら、私が独潭(どくたん)の跡を継ぐはずがないんですからね。大横綱のあとに十両にも充たない、まして尼さんの右手右足不自由なものが、月心寺の跡を継ぐなんていうことは、私も思ってないし、誰も思っていなかった、ということです。
 
ナレーター:  月心寺の庭園には、寺が出来る前から、「小町百歳堂(こまちももとせどう)」という小さなお堂があり、小野小町百歳の像が祀ってあります。小町が年老いて、この辺りに移り住み、百歳まで生きた、という言い伝えがあり、その伝説をもとに造られたのが、この像です。
 

 
西橋:  交通事故に遭われて、右半身不随と知った時の村瀬さんのお気持ちというのは?
 
村瀬:  大丈夫です。ゼロになったんですから。ゼロいうことは赤ん坊になったんです。三十九歳をもって赤ん坊になったんです。赤ん坊はおしっこ垂れっぱなしで、泣きっぱなしで、食べさして貰わんと、どうにもよう動かないのと同じ状態に、三十九歳でなったんです。自分は三十九歳と思っていますが、医者にいわせると、それは「大きな赤ん坊がベッドに寝ていると同じ状態で、垂れっぱなしの、喋りっぱなしの―口がどうもなっていないから―それは赤ん坊が声をあげて泣いているのと一緒で、よう泣く子は育つ、というから、庵主さんも、よう喋る間は大丈夫や」ということです。「赤ん坊は一年経ったら伝え歩きするから、ほっといても庵主さん、一年経ったら、ちゃんと寝ておれ、というても、ベッドから下りて歩くさかい、長い人生のうち、一年や二年歩けなんでも、それが何事じゃ。命あったら、何でも取り返せるのやから」という院長の言葉。それでその時が、九代目海老蔵が、十一代目市川団十郎の襲名公演が名古屋の御園座(みそのざ)であり、その公演で院長先生が河東節(かとうぶし)をなさるので行って帰ってきてから、院長先生が、「せっかく治ったらな、坊主も役者も相撲取りもな、一つの人気商売だから、明道さん、華やかな尼になってや。明道さんが来たら、パッと賑やかな席が一遍に氷が入ってきて、シーンとならないで、明道さんがきたらパッと華やかになるような、ちょうどな、団十郎が「助六」でパッと花道をかけると、パッと雰囲気が華やかなるように、あれは芸の力よりも人気やで。明道さん、せっかく助かったんやからな、素晴らしい尼になってや。おべっかせんと生きや。せっかく助けてもらったんだからな。おべっかいうたらいかんで。思うた通り生きていきなさいや。好きになったら好きになったで、そんなもの悩まんでも。あんた、悩むからこういう大きな反応で。考えたらな、あなたは漢方薬で治さないと、精進ばっか食べて大きうなったんやから、西洋医学ではダメなんやから、今後はもう血の滴る肉を食べ、小魚を食べ、人の食べるものはなんでも食べないと、その傷は治らないで」とこう言われて、それから何でもOKになったんです。そんなもの食べたから、尼さんがどうこういうことないんだからね。私の怨みに怨んだ師匠が、九つから二十五歳まで、厳しく私を大きうしてくれた。私を大きうしてくれたことが、全部ゼロになってから始めて気付いたんです。その厳しさがあったからこそ全部ゼロになっても私はゼロにならなかった。字も書けない、包丁も持てない、お茶も点てられない、三味線も弾けない。お経だけは読める。それが左手で字が書けるようになり―裁縫はできませんけどね―泣き言一つ言わずに、愚痴も一つも言わずに、これたのは叩き込まれた師匠の厳しさのお蔭。
 
西橋:  最初の高源寺さんで?
 
村瀬:  ええ。そうやから、「漬け物は厳しく漬け込まんと美味しい漬け物はできん」と、今でも思っております。
 
ナレーター:  この庭園には、清少納言の『枕草子(まくらのそうし)』に名水とうたわれた清水が、今も絶えることなく湧いています。水が山の上から下まで走って流れるために、この名水は「走井(はしりい)」と呼ばれています。村瀬さんはこの水を使い、本格的な精進料理に取り組んできました。特に村瀬さんのごま豆腐は評判です。
 

 
西橋:  「精進料理の明道尼さん」といわれるんですけれど、「美味しいごま豆腐の作り方」というのを教えて頂けませんか。
 
村瀬:  あんまり難しう考えずに、ともあれ、材料を吟味することと、よい胡麻で、よい吉野葛で、よい水である、ということ。これは名水の「走井」の水で作るから、すべてが美味しいのであって、水道の水で作ったら、ひょっとしたら美味しいごま豆腐はできないかもわかりませんね。あの豆腐が美味しいとか、お酒が美味しいのは、全部水によって味が変わりますから。
 
西橋:  夜中にごまを摺(す)るんですって?
 
村瀬:  夜中に摺らんでも昼摺ってもいいんですが、食べるのが十一時ですから。十一時から逆算すると、二時頃からごま摺り始めないと、冷やさならんし、切らならんし、つけならん時間を見ている。遅くても六時には、ごま豆腐が炊きあがって、ちゃんと水によう冷やしていないと、美味しいごま豆腐が食べられないんです。
 
西橋:  今でも村瀬さんご自身がごまを摺られるんですか? 夜中に。
 
村瀬:  摺らな、誰もおりませんから。
 
西橋:  左手で。
 
村瀬:  もう左手か右手よりも、間に合うのはこっちの手しかないから、仕方ないから摺ってるんです。右手が利けば右手で摺りますが、今、いうたように、全部ゼロになって、残ったのが左足と左手ですから。そやから、ごまが摺れた。ごまが摺れたのは、ほんならどうして摺れるかというたら、腰の力がピシッと決まっているから、ごまが摺れるんです。だから、ピシッとこう摺り鉢の前に坐った時にごまが摺れた、ということはまず健康であるということですね。そうやから苦痛じゃないんです。みなさん、「ごま摺るのはしんどいやろ」といわれるけど、水車小屋で麦や米が搗けるように、同じ間隔でごまを摺っていると、静電気が起きて、ごまが早く摺れる。ぎゃっぎゃっぎゃっと摺って、一服していればダメなんですね。同じ間隔で静かに米を搗いていると、静電気が起きて早く搗けるんです。そこに動力と水車との出来上がった時の美味しさの違いは、動力はガッガッガッですね。あれは弱いとこから順番に糠が取れていくわけね。動力は弱いとこも何もない。ガッと一遍に取っちゃうので、すべてうどん粉一つ、蕎麦一つが、山小屋の水車小屋で搗いた粉と、動力で搗いた粉との味が違うというのは、剥(む)く皮が粉末になる時の違い。そやから、ミキサーでごまを摺って、ごま豆腐を作ったらちっとも美味しくない。
 
西橋:  そのごまを摺りながらお経を読まれるんですって?
 
村瀬:  それは、『観音経』というお経を二回読む間に、ちょうどごまが摺れるからです。時間を見なくても、お経が終わった頃、ごまが摺れているわけです。不思議とごまを摺っている四十分前後の間が、一番言葉は出さないで、何を思っていようと許される一番楽しい時間。要は、それさえ回しておれば、自然に摺れるんですからね。手を切る心配もなければ、ごまが摺鉢から飛び出る心配もありませんから。
 
西橋:  いま、八十一歳ですね。
 
村瀬:  お蔭でね。どうもここで命を終わりそうな気がしますが。まだこれ改修せんなりませんので、これが改修終わったら、小町さんが「ご苦労さんやった。迎えにきたったで」いうて、あんじょう私を死なしてくれるだろう。それまでは小町さんに任せておけばいい。申し訳ないですが、資金のことからすべて。すべて婆ちゃん任せだ、とこう思っているんです。
 
西橋:  改めて、「生きる」というのは、どういうことだ、というふうに?
 
村瀬:  逆らわないことです。しんどかったら素直に寝ることです。お腹が減ったら夜中でも食べることです。汗掻いたと思ったら、夜中でもお風呂に入ることです。思った通り生きることです。誰に遠慮もいらないんです。生まれてきた時、一人なんですから。死ぬ時も一人なんです。なんぼ泣き言をいうても、誰も助けてくれへんのです。泣き言なんて、いうだけ野暮です、損です。いうて助かるのやったら、毎日「痛い、痛い」いいます。今でも痛いんですから。これ「痛い」といっても、治らないのやったら、いうだけ野暮ですからね。生きるということは、もっと尊い楽しいことですよ。いつなんどき息絶えるかわからない。誰が一体私を生かしているんでしょうね、みなさんも。だから生きている間、精いっぱい生きることです。
 
西橋:  「生きていることは楽しいことだ」とおっしゃいましたけれども。
 
村瀬:  ひっくり返せば、苦しいことです。要は、裏と表がありますからね。楽しいことは苦しいことです。嬉しいことは悲しいことです。それは言葉の綾なんです。全部人間には、裏と表があるのが正しいんです。だから、みなさんは、悲しいほうを見てもらうと喜んでいるんですが、ほんとは悲しいことないんで、陽のあたっているほうだけを付き合うことです。「一尺には一尺の影があり、五寸には五寸の影のある」ということを、ようく頭において、人と付き合うことです。すごく魅力ある方は、凄く嫌な面がそれだけあるでしょう。これが人間なんですからね。
 
西橋:  生きていく中で、苦しいこといっぱいありますよね。その苦しいことをどう自分で受け止めていったらいいのか、というところは?
 
村瀬:  そんなゆっくりしたこと考えられるほどの暇があって、元気なことに感謝することです。まず、しんどうて息も絶え絶えに苦しかったら、そんなこと考えている暇もないです。今夜食べる米もないようなところに追い込まれたらね、嬉しいとか、悲しいの、通り越しちゃって、それはもう大変なところへ追い込まれるんですね。そういうとこ追い込まれないように、日頃から心豊かにもってなあかんですね。そうすれば、必ず誰かがなんとかしてくれる、と私は思うんです。「人」という字は、片っぽにつっぱりがあること、と思う。「ノ」の字だけでなくして、片っぽに突っ張りがあって、「人」といいますから。人は一人では暮らせない。生まれてくるのも、父や母を縁にしなければ、絶対自分は出てこない、という。この天地自然の法則をよ〜く毎日一遍思うことです。そうすると、これ以上大事なものは世界中にないんです。「自分が自分を大事にする」ということが、一番尊いことで、それがひいては他人も大事にすることに通ずる、ということを自覚することです。
 
西橋:  ご自身の人生を振り返って、どんなふうに?
 
村瀬:  まずよい人にたくさん出会ったこと。その人たちが、私が九歳から今日まで曲がりなりにでも、同じ姿で生きてきた、という。その道一筋ということに、高く評価してもらっていること―これは人から見たことであってね。「そんならあなたはどうなんですか?」といわれると、よう逃げ出さないほど意気地なし。凄く自分では変わったこと、平気でやって、裸で川で泳ぐ子ども時代から、竹の天辺へ上るようなことをやって、派手なことを平気でやっていた筈であるのに、知らないうちに、凄く保守的な一面が叩き込まれて、なって、それの枠から一歩もよう出なかった自分を、いま口惜しゅう思います。なんで彼と寝ておかなんだか、と思う。なんで彼の子どもを生む、というたら、どこが悪い、ということ。極端過ぎますか? それで、なおかつ、いまこのことがしゃべれたら、もっとご立派なんだけどね。頭の毛を伸ばすこともようしなければ、考えれば、卑怯な一代でしたね。誤魔化してはいないんだけど、もっと真剣に生きる方法が、もっと自分を大事にして、もっと思っている通りに生きるべきであって、それには歳が行き過ぎました。気が付いた時には、もう八十越していましてね。いつの代も精いっぱい生きたと思っていますが、「ほんなら、いつが一番楽しかったですか?」と言われると、今でしょうな。振り返れば、二十五も歳の違う方に思い焦がれて、相手も決して私が嫌いでないことも、百も知っていながら、どうしてあれだけ思っていて、男と一緒に寝たことない。想像だけで生きているなんて馬鹿げた自分、と今思います。そやから、悲しいよりも、バカかいな、と思いますよ。
 
西橋:  「尼僧として生きる」ということと、それから、「一人の女性として生きる」ということとは、これは両立しないものなんですか?
 
村瀬:  両立しないですね。ほんとは両立せなあかんのですけどね。過去に叩き込まれた観念が、「尼僧はこうあるべきだ」ということが身に付きすぎたのかな。もっと仏さまはもうちょっと融通性があるような気がしますね。まあそんなこというていますが、ちょうどひっくり返せば、私を世話して下さった故郷の尼さん、その方は尼さんのまま、昭和十四、五年の時に、尼さんで二人の子どもを生んで、二人の子どもを大きうして、そして尼さんで亡くなっていったです。その時に、その方が私を訪ねて来て下さった。私は岐阜の学林におって、口聞くのも汚らわしい、と思うほど、その方を蔑(さげす)みました。そういう教育を受けていますから。世にいう「同席」なんて、坐るだけでも、座布団は燃やしてしまいたいぐらい。それが今になると、ああいう生き方が本当の人生であるのと違うか。どうして尼のままで、子どもを生んで、どうして悪いんだ。
 
西橋:  最後にもう一言、もし、生まれ変わったら、どんな道を?
 
村瀬:  また尼さんです。その道しか知らない。因縁はそれで。もっともっとおもしろい尼さんになる、と思う。いまいうたように、尼さんのまま子ども生むかもわからん。そうすると始めてそこで一つの改革ができる―親鸞さまのようにね。来世も必ずまた女に生まれ変わって、また同じ道を歩くでしょう。それから、今日私あるのも、前世も、その前の前世も、その前の前世も、彼には会うているんですが、徐々に思いを深くして、生まれ変わり、死に変わりして、七遍生まれ変わって、やっと初期の目的を達するという、仏教の唯識の世界があることを信じますから。生まれ変わればやっぱり変わった尼さんで、また一生懸命慣れた先の世にも作ったごま豆腐を、もっと上手に作るようになると思います。
 
西橋:  どうもありがとうございました。
 
村瀬:  えらい長いことおしゃべりしてごめんなさい。今日はありがとうございました。
 
西橋:  こちらこそありがとうございました。
 
     これは、平成十七年七月三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである