限りある命と向き合
 
                                医 師 鎌 田(かまた)   實(みのる)
                                ききて 迫 田  朋 子
                                (NHK解説委員)
 
ナレーター: 長野県茅野(ちの)市にある諏訪中央病院です。最先端の医療を行う一 方、在宅診療やホスピスの充実に力を入れる地域医療の拠点で す。内科医の鎌田實さん、五十三歳。去年までこの病院の院長 でした。鎌田さんは、限りある命を最後まで豊かに生きるため に、「医療に何が出来るのか」を考え続けてきました。この病 院では、患者の心を和ませるために、さまざまな工夫をしてい ます。ここは病院三階にある屋外デッキです。豊かな自然を眺 めることで、死と向き合う患者も癒されるのではないか。そう 考えて作ったスペースです。
 

 
迫田:  いやー、眺めがいいですね。
鎌田:  そうでしょう。
 
迫田:  気持がいい。
鎌田:  向こうの山側を越えると伊那へ行く山なんで すけれども、唐松林に病院が囲まれているん です。
 
迫田:  そうですね。この風景が見えるわけですね。
 
鎌田:  そうです。寝ている時って、景色が見たいじゃないですか。
 
迫田:  そうですね。春や夏は、此処が花がいっぱいなるんですね。
 
鎌田:  はい。患者さんたちも此処へ出て来るのを楽しみにしていて、なんか結構ホッと する。だから早くよくなって此処へ出て来よう、という目的にもなっているみた いですね。
 

ナレーター: 病院入り口のホール。患者が安心出来るよう に、柔らかな光を投げかける設計です。建物 の至る所に、美術作品を置きました。その中 には、地元の知的障害者が書いた書がありま す。患者からも、ホッと出来ると好評です。 鎌田さんの好きな言葉、死と向き合う患者を 支える医療にとって大切なことの一つが、こ の「がんばらない」で、と鎌田さんは考えて います。
 
 
迫田:  病院の中にこうした書がたくさん掛かってい るんですけど、これはどういう経緯(いきさつ)のものな んですか。
 
鎌田:  そうですね。「風の工房」という障害のある 人たちが、共同生活しているグループがあっ て、その展示展を知った時に、この字に僕は ぶつかるんですね。凄いなあと思っていたら、患者さんたちもみんな、「この字が いい」って言われて、ちょっとホッとした後、もう一回なんか病気と戦おうとい う気にさせる書かなあ、と思ったんです。
 
迫田:  特にこの「がんばらない」という言葉ですけれども、鎌田さんのお書きになった 本のタイトルにもなっている。「がんばらない」という言葉自身に、鎌田さんの思 い入れが、ご経験からあるんだそうですね。
 
鎌田:  僕が青年医師だった頃に、四十代のガンの末期の女性の方だったんですけども、 僕は、その頃は当たり前に、「患者さんを激励するのが医者の役目」と思っていた ので、疑うことなく、患者さんの診察を終わった後、「がんばろうね」って、声を 掛けたんですね。そうしたら、なんかおかしいなあ、と思って、僕は、病室を─ 回診の後ですから─出ようとして、患者を振り向いたら、ポロポロと涙を落とし ていて、「あ、これはいけない」と思って、ベッドサイドに戻って、でも、若かっ たからなかなか声が出ないんですね。患者さんが、今度自分から話して下さった んです。「もう先生、今日まで頑張ってきました。もうこれ以上頑張れません」と 言われたんですね。その時に、「頑張れ」という言葉は、とてもいい言葉の筈なの に─多分大概の場合に、九十八パーセント位間違いなく、そう悪い言葉じゃない、 と思うんです。でも、何パーセントかのシチュエーションで、その「頑張れ」と いう言葉が、相手にプレッシャをかけたり、傷付けていることがあるんだなあ、 ということを、僕は経験していて、そのことがずーっと僕の医療の中で、簡単に 「頑張れ」と言ってはいけない時がある、というふうに思いながら、医療をやっ てきたもので、本を出すという時に、この「がんばらない」というフレーズを使 って、本にさせて貰えたらいいなあ、というふうに思ったんです。
迫田:  「頑張らない」ということは、諦めるということなんですか?
 
鎌田:  あ、そうじゃないですよ。ほんとはその本を書く時に、僕の原 稿が全部書き上がって、僕が付けた題は、「頑張らない 諦めな い希望を捨てない」という題だったんです。そうしたら、編集 者が、「先生、これ長すぎて売れません」と言われた。あ、そ うか、と思って、じゃ、「頑張らない」という言葉の一番初め のところだけを使うけれど、その後ろの、「頑張らない」のフレーズの裏側には、 「諦めない。希望を捨てない」という意味を含めたメッセージのある本にしたい なあ、というふうに思ったんです。
 
迫田:  「頑張らない。でも、諦めない」という、どういう状況になるでしょう。
 
鎌田:  はい。まず、あるがままを、現実を受け入れる、という。あるがままというもの を大事にしよう。だから、頑張りすぎて、片意地張って、あるがままを認めない で、なんでもぶつかっていかなくちゃいけないことではなく、まず全部を受け入 れたところからスタートする。だけど、どんなに人間は苦境に立っても、やっぱ り大事なことは、僕は希望を持ち続けることだし、そして、諦めないことだ、と 思うんですね。「あきらめる」というふうに、辞書を引くと、二つの言葉が書かれ ていて、「明らかにする」の「明らめる」という言葉と、「諦観(ていかん)する」という「諦(あきら) める」という言葉があって、僕は、「あきらめる」というのは、どっちかというと、 明らかにする。自分の置かれている現実─癌であることとか、いろんな苦境に立 たされているという現実を受け入れる。明らかにすること。だけど、諦観するん じゃなくて、諦めないこと。その両方の裏側が大事なのかなあと、いつも思い続 けているんです。患者さんたちに、まず現実をちゃんと知ってもらうことが大事 で、それは、僕たちプロの役割で、例えば、告知の時でも、出来るだけショック なく、ほんとの話をする。お互いにほんとの話を知ったところからスタートしよ う、というのが、医療現場で一番大事なことかなあ、と思います。だから、「明ら める。明らかにする」ということと、だけど、「諦観しない。諦めない」というこ とを、僕は大事にしたいなあ、と思っているんです。
 
迫田:  実際の患者さんで、そういう方というのはよくお有りになるんですか。
 
鎌田:  そうですね。「胃癌で、癌性腹膜炎で、腹膜癌腫があって、腹水が溜って、余命三 ヶ月という、もう手の施しようのない胃癌だ」ということを説明をされていた患 者さんがいたんです。その患者さんは、癌で、お腹が張ってきて、ご飯がまった く食べられなくなって、僕らの諏訪中央病院の緩和ケア病棟・ホスピス病棟をご 自分で選んで来られたわけです。
 
迫田:  お幾つ位の方ですか。
 
鎌田:  当時四十二歳で、亡くなった時四十三歳だ、と思うんです。
迫田:  女性?
 
鎌田:  女性ですね。その方に、僕たちはほんとにいろんな勉強をさせ て頂いたんです。緩和ケア病棟に入って、痛みが取れていくと、 「生きたい」と言うんですね。
 
迫田:  「余命三ヶ月である」ということは、ご存じでいらっしゃった。
 
鎌田:  そうなんです。初めは告知は出来なかったんです。ご家族やなんか随分迷って迷 って。でも、やはり奥さんとお子さんたちにも知らせてあげたい。ご主人も迷い つつ、ご主人の口からキチッとご説明をされた。そして、家族でみんなで相談を して、ここへ来られたんです。内科の細川先生が、痛みは取ることができる。そ れから、いろんな可能性をもう一回詳しく説明をなさったんです。ホスピスの医 師と内科の消化器の医師とが一緒になって、可能性のことをずうっとご説明をし ていったんです。「抗ガン剤を使うと、この胃癌に関しては、多分、十のうち九は 効かないだろうけど、十のうち一くらいは効く可能性があるんじゃないか。それ は治るということではなくて、少し寿命は長くなるかも知れないし、腹水が取れ るかも知れない」と。そういうご説明をした。そうしたら、本人が、「子どもの卒 業式まで生きたい」と目標をもたれていたんですね。九月に病気の診断がついて、 僕らの病院に来たのが、十二月です。彼女は、「お子さんの三月の卒業式に、母親 として出てあげたい」という希望を持たれるんですね。この「希望が大事だった」 と思うんです。彼女は、副作用や合併症の説明をジッと受けた後、「可能性が非常 に少なくても、それに希望を賭けたい」と言われたんですね。
 
迫田:  「もう三ヶ月」ということも分かっていて、卒業式には、もしかしたら間に合わ ないかも知れないけれども、でも、とにかく復活に賭ける、と。
 
鎌田:  諦めたくなかったんでしょうね。で、ほんとに主治医が綿密な作戦を立てて、抗 ガン剤治療を始めたんです。三月の卒業式の前の抗ガン剤なんかは、二十パーセ ントほど抗ガン剤の量を減らしたりして、とにかく彼女に、「元気な姿でお子さん の卒業式に出させてあげたい」というふうに、主治医が考えて、ほんとに卒業式 まで生きたんです。凄いのは、その後、また彼女は、「二人目の年子だった次女の、 秋に推薦入学が決まるまで生きたい」という希望をもたれるんですね。そして、 今度は、主治医が常にリハビリの理学療法士のスタッフを導入したりして、マッ サージをしたり、筋力強化をしたりする。それから、お酒の好きな方だったんで すけど、夜寝る前に、看護婦さんたちと「梅酒タイム」なんて言って、みんなで 少しずつ呑む。
 
迫田:  梅酒を?
 
鎌田:  梅酒を呑んだり。生きる気力というか、病院に居ながらでも、彼女の方が、少し でも前向きに生きていることを喜べるように、お手伝いをスタッフもしましたし、 家族が素晴らしかったんですけども、お子さんたち二人は、それぞれ自分たちが、 大学の問題とか、受験とかを抱えながら、それを一個一個克服しながら、お母さ んのことをずーっと寄り添って、ご主人とお二人の娘さんたちが支えて、十一月 を突破するんですね。「次女の方の卒業式まで生きたい、入学式を確認したい」 と、一個一個、それを実現するんですよ。彼女は、次女の方の卒業式には出られ なかったんですけど、三月一日に卒業式があって、お子さんが、三月三日の日に お母さんのところへ報告に来て、お娘さんと二人で─その時だけは日本酒で─卒 業式のお祝いをお酒を呑みながら、緩和ケア病棟でされましたね。そして、四月 の初めに、今度は、次女の方が、入学をする時に、ほんとはお母さんは行きたか ったんでしょうけども、行ける体力はなくて、娘さんが電話で、「お母さん、これ から入学式に行くからね」と言って、お母さんはその電話をほんとに嬉しそうに 受け取った。そして、四月十六日に家族に見守られて亡くなって逝ったんです。 自分のために生きたい、というんじゃなくて、娘の母親として、娘の卒業式まで 見てあげたい、という思いが、多分、彼女を生かし続けたんじゃないかなあ、と 思います。家族が凄い力で支えきった。だから、なんか医学はいろんなことが分 かってきて、「あと余命三ヶ月」というふうに言っても、その方は、結局、その後 一年八ヶ月生きましたね。
 
迫田:  それはどういうふうに考えればいいんでしょうか。結局、病気そのものは治らな い。だけど、自分の寿命を自分で延ばすことが出来るというか、それは余命三ヶ 月というのが間違っていたということではないんですね。
 
鎌田:  もう癌性腹膜炎で、腹水が溜まって、それは間違っていなかった、と思うんです。 やはり僕たちの体の中には、治ろうとする細胞─ナチュラル・キラー細胞という ─癌と戦ってくれる、癌細胞を食べてくれる細胞があるわけですね。多分、母親 として、「子どものために、もう少し生きたい」というふうに思ったことが、多分、 余命三ヶ月の命だった筈の彼女の命を、一年八ヶ月長らえたんじゃないかなあ、 と思います。僕たちの分からないことが、人間の体の中には結構ある。それはや っぱり分からないものがあるということが、逆に、僕らにとってまだまだ希望に 繋がる。総てが遺伝子で、この人の寿命は幾つだ、こういう病気に将来なるんだ と、全部分かるかと言ったら、分かりそうなことを、今、みんながDNA分析や なんかで言い出していますけれども、僕は、そこで分かりきれないところに人間 の面白さというか、不思議さがあって、そこを大事にする医療があってもいいん じゃないかなあ、という気がするんですね。
 
迫田:  「頑張らない、でも諦めない、希望を捨てない」。それが鎌田さんの考える医療と いうことでしょうか。
 
鎌田:  そうです。医療の現場には、「いつでも、あるがままをまずキチッと受け入れて、 みんなでその厳しい状況を了解しながら、尚かつ希望を持ち続ける」というのが、 医療にとっては大事なことなのかなあ、と思っています。
 
 
ナレーター: 鎌田さんは、一九四八年、東京に生まれまし た。鎌田さんの幼い時の記憶には、いつも心 臓の病で苦しんでいた母・ふみさんの姿があ りました。手術するしか助かる見込みがない 重い病でした。治療費を稼ぐため、父・岩次 郎さんは、タクシー運転手として、朝から深 夜まで働きました。懸命に働く父の姿を見ながら、鎌田さんは育ちました。
 

 
迫田:  そもそも鎌田さんが、医師という職業を選ばれたのは、もともとお医者さんにな りたかったんですか、小さい頃から。
 
鎌田:  いや。僕が子どもの頃、ずーっと母は弱くて、入院生活が長かったんですね。そ んな母を見ていました。小学校の時は、ほとんど母は入院していました。僕の父 親は、凄い厳しかったんですよ─家の掃除とか。父は、母の入院費を稼ぐのに必 死だったんです。
 
迫田:  入院費を・・・保険もなかった?
 
鎌田:  そうです。国民皆保険になったのは、昭和三十六年なんです。 それよりも七、八年前から、母はずーっと入院生活をしていま した。父親は母を治したいという夢をもっていて、タクシー運 転手をしながら、朝早くから夜中まで、もう兎に角いっぱい仕 事をして、お金を稼いで、母を治すというのが父の夢だった。 僕は、朝早くから父から与えられた仕事がある。日曜日にいつ も母の病院へ行って、一日中病院の母の─僕は一人っ子で、甘えん坊だったんで す─母親のベッドの中に潜り込んで、日曜日ずーっと一緒に居た。小学校三年か 四年になっても、母のベッドに潜り込んで一日過ごしていたんです。同室のみん なから、「甘えん坊だね」と言われていたんです。父は、恐くて厳しい人だった。 母のところへ行けば、母は弱いけど、いつもそこに居てくれて、僕の話を聞いて くれた。そういう母を見ていました。高校三年生の時に、「医者になりたい」と父 に相談をしたんですね。
 
迫田:  お父さんはそうしたら喜ばれたでしょう。
 
鎌田:  いや。怒られたんです。
 
迫田:  あ、そうですか。
 
鎌田:  はい。「家計のことをよく考えろ」と言われて。「俺は母さんの面倒を見るのが精 一杯で、お前の面倒をこれ以上みれない」と。
 
迫田:  医学部に行くようなお金はない、と。
 
鎌田:  はい。そうなんですね。父は小学校しか出ていなかったのです。青森出身だった んです。小学校を出て、青森に居ても食べていけない。子どもがたくさん居て、 末っ子だったんです。東京に出て来て、苦労して、そしてタクシーの運転手で生 活をしていたんです。ですから、「国立大学へ行けば、そんなに授業料はかからな い」というのは、父には分からなくて、「医学部というのはとても大変なことだ」 というふうに、父は思ったみたいです。「絶対ダメだ」と。何度も何度も父にお願 いするんですけど、「ダメだ」というんですね。最後に父親は、「もうそんなに言 うんだら、好きなようにしろ。もう今日から食べることも、それからもし万が一 運良く大学が受かった時にも、大学の授業料や教科書代も全部自分でやれ」と。 親父が、これが言いたかったんだろうなあ、と後でだんだん分かってきたんです けども、「家(うち)みたいに貧乏な家の人間が、病人を抱えて、どんなに苦しんできた か、お前も見ただろう。その弱い人、貧乏な人のためになる医者になれよ。弱い 人たちの気持ちが分かる医者にならないとダメだぞ」と言ったんですね。
 
迫田:  「弱い人の気持ちが分かる医者になれ」と。
 
鎌田:  はい。だから、僕は、その時に、父に約束したんです。「分かっている」って。心 臓外科が始まる頃に、東京女子医大で、榊原先生という大変有名な心臓外科医に、 父は母の手術をしてもらうんですね。その苦労をずーっと僕は見ていた。その最 先端の技術で、母が元気になったのも見たので、僕はやっぱり医学に憧れたんで すね。やはり困っている人たちを助けれるような医者になりたい。だけども、父 との約束をずーっと守ろうと、今までしてきたんです。
 

ナレーター: 大学卒業後、地域医療に魅力を感じていた鎌田さんは、諏訪中 央病院の内科医として着任しました。医師になって五年目、鎌 田さんはある事実を知ります。初めて手にした戸籍を見て、自 分が養子であることを知ったのです。それまで入学や結婚など、 戸籍が必要な手続きは、すべて父・岩次郎さんが行っていまし た。
 

 
鎌田:  唖然としましたよ。母はずーっと心臓弁膜症があって、しかも、母が四十ちょっ と過ぎた位の時に生まれた筈になっている子なので、よく考えれば、母には産む 体力はなかった。産める健康状態ではなかった筈です。僕が後から考えれば、あ あそうだったのかなあって、思い当たることは幾つかあったんですね。
 
迫田:  でもその時までまったくご存じなくて。
 
鎌田:  ええ。ほんとに父と母が必死になって、自分の子として育ててくれた、というの が、その時やっと分かったんですね。
 
迫田:  ご両親に対しては、どういうふうに感情が変わったりなんかされたんですか。或 いは、確認されたとか。
 
鎌田:  もうずーっとしない。僕の父も母も、僕が知らないという前提で、一生懸命僕に 接していたので、僕は知らない振りをしながら、それ以後は、僕は、父や母をほ んとに大事にしなくちゃいけない、って思ったんですね。でも、半年後に、心臓 弁膜症の手術が成功して元気になっていた母が、東京から僕の家へ─もう茅野へ 赴任していましたので─遊びに来ている時に、脳卒中になってしまったんです。 その時、僕の大学時代の同級生で大変仲のいい親友が、内科医で此処に務めてい てくれた。その親友が母親の主治医になってくれて、一生懸命治療してくれたけ れど、どんどん病気は悪化をして、今でいう脳死状態に近い状態になるんです。
 
迫田:  あ、そうですか。
 
鎌田:  その同級生の主治医が、「鎌田、もうやるだけのことはやったけど、ここまでだ よ」って言うんです。僕は見ていて分かったので、「ウン、分かった」って、「親 父に僕がいうから」という話で、僕は、親父に、「母さん、もうダメだから。やる だけのことを全部やった。もう殆ど呼吸が止まりかかっていて、心臓はまだ動い ている」と。それで、親父が、「分かった」と言った後に、僕が、「だけど、その 心臓が動いているので、母さんの口の中から気管チューブを入れて人工呼吸器に 繋げば、もう一週間位もつかも知れないけど、もう対光反射もないし、脳が死ん だという証拠の、そういう状態だから、父さん、母さんがよくなることはないか ら、母さんは、助かる見込みがないのに器械を入れるのは、僕は、望まないと思 うから、これで終わりにしてあげた方がいいと思う」と言ったんです。その時に、 親父が手をワナワナと振るわして─凄い厳しかったんですけど、高校三年の時に、 僕は父とぶつかり合って、父が、「お前に自由をやる。好きなように生きていい」 と言って、僕は医学部にいくわけです。それ以降、父は僕に自由をくれて、まっ たく僕の生活の仕方にあれこれいうことをしなくなったんです─ひさびさに父に 怒鳴りつけられて、「お前の目の前にいる、お前の大事な母親だろう! その人が 死のうとしているのに! 俺だって分かるよ。素人の俺だって、お母さんが助から ないのは。だけど、一秒でも生きて貰えたいんじゃないか!」というんですよね。 「人工呼吸器に繋げ」と言うんです。「助からないのは、俺だって分かるけど、人 工呼吸器に繋いでくれ」と言うんですよ。その時に、僕は、母が大好きで、その 大好きな母を大事に看てあげたいから、人工呼吸器に繋ぎたくなかった。父は、 死ぬのは分かっていても、一秒でも生きて貰いたいから、人工呼吸器を繋ぎたい。 僕は、父の気持ちが痛いほど分かった。僕の考え方は今でも間違ってはいないと 思っているんです。僕は、友人と相談して、人工呼吸器に繋いだ。一週間後、心 臓が止まって、母は亡くなったんです。その時に、父親が初めて、僕に─父はな んとなくシャイな人で面と向かって誉めてくれることをしない人だったんです─ 初めて、「よくやってくれた。大変だったけど、ほんとによくやってくれた」と言 って誉めてくれたんです。その一週間は、父にとっては、多分母と別れる心の決 着をする大切な一週間だった、と思うんですね。でも、僕は、「母にああいうふう にして良かったものだろうか。母はあれを望んでくれたかなあ」って、ずーっと 不安な思いでいました。
 

 
ナレーター: 母親を看取って十年後、鎌田さんは、父・岩次郎さんを東京から呼び寄せ、一緒 に暮らし始めます。その間、鎌田さんは、自分の出生の秘密を知ってしまったこ とを、岩次郎さんに話しませんでした。そして、岩次郎さんと の別れの時がやってきます。
 

 
鎌田:  八年程、父と三世代家族は過ごすことができて、父は八十八歳 で、糖尿病はあったんですけども、やはり母と同じように、脳 梗塞で倒れるんです。母のことがあったじゃないですか。人工 呼吸器に繋げてしまって、母はそれを喜んでくれたかなあって、ずーっと疑問を 抱えながら、僕はいたので、父が看取る時は、家族の中で、出来るだけ人間らし い、人間的な死を迎えさせてあげたいなあ、と思っていたんですよ。でも、最後 って、分からないじゃないですか、どうなるかってね。脳外科の先生方や内科の 先生が協力してやってくれたんですけども、父は八十八歳ということもあって、 徐々に徐々に悪くなって、二ヶ月治療して、血圧がどんどん下がっていくんです ね。「血圧が五十、脈拍が触れにくくなりました」って、僕は看護婦さんに呼ばれ て、病室へ行きました。病室は個室にいたんですけど、開けた瞬間に、僕はほん とに、こういう光景を見るとは思わなかったんですけども、音楽が流れていたん ですよ。
 
迫田:  病室の中で?
鎌田:  そう。父の枕元に小さなカセットデッキが置かれて、津軽三味 線が流れていたんですよ。
 
迫田:  お父さんの故郷ですね。
 
鎌田:  そうなんです。
 
迫田:  青森の─。
 
鎌田:  青森なんですね。八十五歳位から晩年になると、津軽が恋しく て、小学校卒業して出て来た父は、津軽恋しいというか、故郷 恋しくって恋しくって、という感じで、毎日高橋竹山(ちくざん)さんとい う目の見えない三味線の方の曲を、ビールを飲みながら、いつ も八ヶ岳を見ながら、その音楽を聴いているんです。僕は、ず ーっといつも、「ああ、八ヶ岳を見ながら、父はほんとに八ヶ 岳を見ているんじゃなくて、その向こうにある岩木山・津軽富士を見ているんじ ゃないかなあ」なんて思っていたんです。その津軽三味線が、ほんとに父の耳元 で、静かに流れているのを聞いて、凄いと思った瞬間、目を父のベッドの方に向 けたら、僕の子どもたちや僕の女房が、岩次郎さんの手と足を─ベッドの上にビ ニールが敷かれて、洗面器が置かれて、お湯が張られて─家族 みんなで手と足を洗ったり、マッサージをしてあげたり、爪を 切ってあげたりしていたんです。岩次郎さんは、血圧五十で、 三途(さんず)の川を渡っているんじゃないかなあ、と思われるシチュエ ーションの中で、故郷の曲を聞きながら、孫たちに手と足をお 湯で洗って貰って、フワフワッとして、気持がいいだろうなあ、 と思った時に、「ああ、この人に拾ってもらって、育ててもら ったけども、ああ、これでいい」というふうに思えたんですね。 母は、ああいうふうに看取ったけども、父はきっと、「ああ、良かったよ」って、 誉めてくれるかなあ、というふうに思えたんですね。それは、僕にとっては、父 と母を看取った、看取り方のところで、僕の医療観みたいなのができてきて、僕 が関わる患者さんには、同じように人間らしく看取ってあげられないかなあ、と いうふうに思うきっかけになりましたね。
 
迫田:  それはほんとにとても大きな親孝行でもありますね。
 
鎌田:  そう。僕は、いま日本の家族というものの力が、つまり日本の教育力というのは、 学校の教育力だけではなくて、地域の教育力と家族の教育力があって、日本人の 不思議な力を、僕は作ってきたと思うんだけれど、いま日本は、家族の中の繋が りとか、教育力がウンと低下しているような気がするんですね。それは、僕の家 は血が繋がっていなかったことによって、逆に凄い努力をしながら、お互いが大 事にしあったり、そして尚かつ非常に良かったのは、お互いが一人ひとりの人間 として、自由を認めあった。苦労はしろ、だけど、自由をくれたわけですよ。僕 が、やっぱり父から貰った大切なものは、人間が生きる上で、一番大事なものは 自由だ。だから、僕は、子どもにしても、それから僕と関わる病院の中の職員に しても、それから地域の人たちや患者さんと関わる時でも、それぞれの人の自由 というのを、どうやって認めてあげられるか。その人たちのその人らしさを、ど うやって認めてあげればいいのか、ということを考えるきっかけを作ってくれた のは、やっぱり僕たちの擬性家族というんですかね。偽物の家族の中で、岩次郎 さんや母のふみから教えられたものが大きかったかなあ、と思っているんです。
 
 
ナレーター: 鎌田さんは、往診にも積極的に出掛けて行きます。最後まで自 宅で暮らしたいという人たちの願いに応えるためです。患者が 希望する生き方を支援すること。最後まで患者や家族とともに 歩むこと。鎌田さんが訪問看護で大切にしている理念です。
 

鎌田:  おはようございます。いっぱいできました。・・・・大分良い よ。
 
患者: お薬は朝晩つけていますからね。二回ずつ。
 
鎌田:  書いてあるよ。先月来たんだっけ。「此処が死ぬ場所にいい」 って書いてあるよ(笑い)爺ちゃんが具合が悪かった時、僕は 此処に夜でも真夜中でも来て、ちゃんと看取るから。
 
患者: いつになるか分からないわね。
 
鎌田:  まだ長そうだなあ(笑い)。
 

 
ナレーター: 患者の中には、病院で安らかな死を迎えたいと希望する人もい ます。そのため鎌田さんの病院では、四年前、痛みを緩和しな がら過ごせるホスピス病棟を作りました。
 

 
鎌田:  此処が緩和ケア病棟で、六床の患者さん、六人の患者さんがいます。
 
迫田:  六人というと凄く小さいですね、規模が。
 
鎌田:  そうですね。ずーっと在宅ケアというのをやっていて、在宅ホスピスケアという 癌の患者さんたちが、在宅医療を受けるようになった。そうすると、今度は痛み をコントロール出来ない患者さんがいて、その患者さんを何とかキチッと痛みを コントロールしてあげたい。それから、ご家族が介護で疲れた患者さんなんかに 関しては、僕たちが此処でキチッとサポートしてあげることで、ご家族にもちょ っと休んで頂こうと思っているんです。
迫田:  個室なんですね。
 
鎌田:  そうなんです。個室なんです。全部個室で、大変広くとられて いて、ご家族が一緒に泊まりたい時には、ここは畳の部屋です ので、ご家族が添い寝というか、一緒に川の字に布団を並べて、 最後にご夫婦で一緒に寝て頂くということも出来る。
 
迫田:  成る程。
 
鎌田:  こちらが、一応奥さんがご主人のためにもう一品自分の手料理 を加えたいという時に、病院の料理人さんが作ったものにプラ スで、此処で簡単なお勝手があって、此処でボランティアが居 て、お茶会があったり、いま此処に雛祭りの絵がありますね。 これはみんなボランティアが描いてくれたものです。此処の雛 祭りに出て来られる患者さんやご家族が此処で歌を歌ったり、 ご家族も此処で出会ったりするので、いい形で家族と最後のお 別れの時間を過ごせるんです。此処は痛みを取るプロの先生が いますので、痛みは完全に取ってくれて、看護婦さんの数も非 常に多いのです。六人のところに、看護婦さんが十二人おりま すので、ゆったりと看護をして貰える。とても多くの患者さん たち、ご家族、ご遺族の方も、亡くなった後も訪ねて来てくれ て、感謝をして頂けることが多いですね。


 

 
ナレーター: ホスピス病棟も含め、総ての病室で、心穏やかに過ごせるように工夫しています。
 
 
鎌田:  日本間に居るような感じで、雪見障子になっているんですね。 ここから八ヶ岳の眺めがいいですね。
 
迫田:  いいですね。
 
鎌田:  この景色だけでも凄いですよ。
迫田:  心が洗われる感じがしますね。
 
鎌田:  ここから下を見ると、庭は今雪で覆われていますけども。







 
迫田:  特に病気だったり、死を直前にしていると、患者さんって、と ても孤独に陥る。自分のことは誰も分からないし、しかも自分の命がもうじき亡 くなるかも知れないという不安と、孤独というのはとても大きいと思うんですよ ね。それをどんなふうに、どうやって支える、ということを考えていらっしゃる でしょうか。
 
鎌田:  大事なことは、激励したりするんじゃなく、まず聞いてあげることが大事なのか なあ、と思っているんです。それは、聞いてあげることの大事さというのは、や はり患者さんから教えられたんです。前立腺癌の患者で、骨(こつ)転移があって、もう 歩けなくなった患者さんです。その患者さんには、癌であること、骨に転移があ ることもキチッとご説明してあった。ちょうど春だったんですね。その患者さん が、「桜が咲いた」というニュースを、テレビでやっているのを見て、「僕は、も う来年生きて桜を見ることはないだろうなあ」って、言われたんですね。偶然看 護婦さんが病室にいて、どぎまぎしちゃって、なんと応えたらいいかって分から ないですよ。僕がそこに居たって、いい言葉なんか見出せないですね。見出せな い時ってあると思うんですよ。その時に、なんか嘘みたいな言葉で、「来年良くな って、お花見出来ますよ」なんていう言葉が、どんなに相手を逆に傷付けるか、 その看護婦さんは多分分かったんだと思うんです。ですから、言葉を見出せない 看護婦さんは、黙って病室を出て、同僚たちに、「何々さんがこう言っている」っ て、話をしたら、同僚も、いい言葉は見出せないですよ。だけど、ベテランの看 護婦さんが、「言葉は何もない。返事は何も出来ないけど、午後みんなで仕事の順 序を変えて、その方をお花見に連れて行ってあげよう」という話になったんです。 で、お花見に、彼は看護婦さんと病院の運転手さんに付き添ってもらって、近く のお花見に行くんです。帰って来て、「先生、嬉しかった。先生、何で嬉しかった か、先生にはきっと分からないだろう」って。「お花見に行けたことではないん だ」と言うんですね。彼がこう言ったんですね。「僕の言葉を受け止めてくれた。 その若い看護婦さんが、そんなにも僕の言葉を受け止めてくれて悩んでくれたん だ。赤の他人の看護婦さんがそうしてくれた。だって、声を聞き流してくれても 良かったし、聞こえない振りをしてくれても良かった。あれは、僕が、自分に言 い聞かせるように、もう来年は生きていないぞ≠チて、自分に言い聞かせた言 葉で、返事を僕は求めていたんじゃない」って言うんですね。「でも、凄く嬉しか ったよ」って言う。つまり、「言葉を受け止める」というふうに言われた時に、日 本は二十世紀後半もの凄く豊かになったけど、僕の家庭の中でも、僕もほんとに 忙しくて、病院作りにほんとに全力で走って来たので、ああ、僕は、僕の家族の 言葉をちゃんと受け止めていたかなあ、とか、僕の子どもたちの言葉を受けてい たかなあとか、職場でも、或いは地域人や患者さんの声でも、ほんとに大事なこ とは、言葉を受け止めてあげることで、何かをしてあげることよりも、まず言葉 をまず受け止めてあげることで、結構なことは解決出来るんじゃないか、という 気がしたんですね。だから、迫田さんが、「支える」というふうに言ったことの一 番大事な根本は、まず「聞いてあげる」ということなのかなあ、と。僕たち、福 祉や医療に関わる人って、「何かをしてあげることが支えることだ」というふうに 思うじゃないですか。でも、一番患者さんたちに望まれているのは、もしかした ら、僕たちがプロとして、何かしてあげることの前に、言葉を受け止めてあげる ことで、患者さんは、かなりの部分ホッとするようになるじゃないかなあって、 その患者さんを通して教えられたんです。
 
迫田:  孤独だったりする時に、自分のことに関心をもってくれる人がいる、ということ が、凄く大きいですよね。
 
鎌田:  多分、ほんとに苦難の状況の中にいて、自殺をしようなんて思っている人にとっ て、一番救われるのは、肩を叩かれて、「頑張れよ」というんじゃなくて、やっぱ り自分の言葉を黙って聞いてくれる人がいる時に、結局、自分の内から立ち直ろ うという気持が出て来ないと、人から言葉で、「元気になれよ」とか、「頑張れよ」 とか、言われても、ほんとのエネルギーは湧いてこないかも知れないですね。
 
迫田:  周りにいて聞いてあげる。共に居てあげる。何か積極的に、何かするよりは、共 に居るとか、そういうことになるわけですか。
 
鎌田:  そうですね。古い話なんですけど、僕らの老人保険施設が、十一年前に初めて開 設した時に、初めての死亡退院をしたおばあちゃんがいたんです。それは、胃癌 の患者さんで、もう九十二に手が届く位の年齢だったと思うんです。その患者さ んには身寄りが居なくて、老人保険施設へ入所して、僕たちの若いスタッフたち が支えていたんです。ご飯が食べれなくなって検査をしてみると、胃癌だという ことが分かって、当然、僕は、病院へ移そうというふうに思ったんです。そうし たら、職員たちが、「いや、僕たちが看たい。私たちが看たい。手術をするんなら、 別だけど、もうそういう状況ではない。手術をするのでないなら、私たちが看た い」と言って、ほんとに若い介護職員たちが、もう食べれなくなっていくと、ア イスクリームを時間をかけて食べさせてあげるんですね。最後、ほんとに穏やか な死を、その方が迎えていくんです。亡くなった時に、夜だったんですけど、老 人保険施設の全部の職員たちが口コミで、みんなに連絡がいって、集まって、み んなが泣きながらお見送りをしていた。その光景を見た時、「あ、僕は無理に病院 へ移さなくて良かったんだ。身寄りのない人だこそ、職員たちは自分の家族のよ うなつもりで、そのおばあちゃんを看てあげたんじゃないかなあと思ったんです ね。やはり攻める医療で、手術や抗ガン剤で治すということも凄く大切な武器で すけども、もう一つ「治す医療」や「攻める医療」と同じ位、「支える医療という か、支える福祉」というのが大事である。そのところには、家族のようなものが、 ほんの少しでもいいからあると、患者さんはきっとホッとするし、逆にそこから 生きる意欲とか、気力が湧いてくるのかなあって思っているんです。
 

 
ナレーター: 地元のお寺で営まれた葬儀です。鎌田さんは、自分の看てきた患者が亡くなると、 弔いの訪問をすることにしています。亡くなったのは九十三歳の患者でした。望 み通り、自宅で迎えた最後でした。家族と病院が一緒になって、患者を支えてき ました。

 
鎌田:  お世話になりました。
 
遺族: とんでもない。いろいろ有り難うございました。
 
鎌田:  ほんとは脈を僕が取りにいかなくちゃいけなかったのにね。も う少し、あと一ヶ月位長生きしてくれれば。
遺族: そうですね。やっぱり当たりましたね。
 
鎌田:  おばあちゃん、幸せな人生だなあ。
 
遺族: そうですね。みんなにほんとに看て頂いて良かった。有り難う ございました。
 

 
迫田:  昨日も弔いというか、葬式に行かれたりして、その亡くなられることもそうだし、 その後も気持としては繋がっている、支えるんですかね。
 
鎌田:  いつでも、僕はものの考え方として、「繋がって看ていきたい」と思っているんで す。
 
迫田:  繋がって?
 
鎌田:  繋がって看ていきたいというふうに思っているんですね。ですから、今の日本の 医療って、出来るだけ平均在院日数を短くして、キチッと治療して、すぐどっか へ放り出すようにして出す。出された側は、自分で次の病院を捜したり、戸惑い ながら在宅へ帰っていったりするわけです。僕たちの病院も、この病院の経営が 成り立つために、平均在院日数が十四・七日ということで、大変短い在院日数で、 三百六十六床の病院を切り盛りしているわけです。でも、患者さんを出来たら継 続して、患者さんが途方にくれないようにしてあげたい、と思っているんです。 だから、普通の患者さんが、此処の病院でずーっと最後までというのは難しいけ ども、老人保健施設や特養に移ったり、或いは、在宅がいいといえば、二十四時 間体制で、医師や看護婦さんたちが行くようなシステムの中で、患者さんを、「い つも安心」というキーワードを大事にしながら、患者さんがこれならやっていけ る、生きていて良かったなあと思ってくれるようなシステムの中で、患者さんを 支えられないだろうか、と。それは、その先には、死があっても、死んだからそ れで終わりではなくて、僕たちは、患者さんを一人の人間として見るだけではな くて、その後ろにいる家族を支えようとか、その家族が生活している地域も支援 しよう、というふうに思っているのです。そう考えた時に、患者さんは亡くなっ ても、そこで家族が生きているわけですね。その時に、やはり一ヶ月位、亡くな った後に、ご家族のところにお線香あげに行かせて頂いて、患者さんのご遺族が まだちょっと淋しいお気持ちが残っていたりする時に、少しお喋りをしてあげる ことで、家族がホッとしたり、「よく看てあげたんですね」っていう、僕たち専門 家の一言で、自分のやってきた家族の介護に自信がなかった人が、「あ、これで良 かったんだ」と思えて、例えば、苦労して二年間、お舅さんを看たお嫁さんが、 「あ、その一言で救われました」と言って下さる方なんかもいるわけです。です から、そういうことを考えれば、その患者さんだけを看れば終わりじゃなくて、 その周りにあるいろんなものを支えていくことで、命を支えることになるのかな あって、思っているんです。
 

 
ナレーター: 誰にでも必ず訪れる死。どうすれば納得のいく形で、最後を迎 えることが出来るのか。どうすれば、家族は大切な人の死を納 得することが出来るのか。鎌田さんは、アメリカ先住民の老人 の死に、一つの理想をみています。
今日は死ぬのに とてもよい日だ。
あらゆる生あるものが 私と共に仲よくしている。
あらゆる声が私のうちで 声をそろえ歌っている。
すべての美しいものが やって来て私の目のなかで
憩(いこ)っている。
すべての悪い考えは 私から出ていってしまった。
今日は死ぬのに とてもよい日だ。
私の土地は平穏で 私をとり巻いている。
私の畑にはもう最後の 鋤を入れ終えた。
わが家は笑い声で満ちている。
子供たちが帰ってきた
うん、今日は死ぬのに とてもよい日だ
(ナンシー・ウッド著、丸元淑生訳)
 

 
鎌田:  「Yes, today is a very good day to die」という、「今日は 死ぬのにとてもい い日だ」という。あの詩は、一生懸命キチッと生きたからこそ言えるんじゃない か。だから、僕も今までずーっと一生懸命夢中になって生きてきたわけですけど、 これからも夢中になって生きて、そして、死を迎える時に、「いや今日は死ぬのに もってこいの日だ」「いい日だ」って、言えるような生き方を、これからもしてい きたいんです。あの光景の凄さは、農業をやっていたネーティブ・アメリカンが、 自分の畑を自分で鋤(すき)や鍬(くわ)を入れて、そして種蒔きの準備をして、そしていよいよ 春がくるという時に、自分の死を予感して、子どもたちがまた集まって来て、そ の子どもたちが来てくれたんで、自分は鍬を入れたり、鋤を入れたりして、準備 を整えながら、子どもたちが今度は春、種を蒔くんだ。そして、その実りを刈る のは子どもたちなんだ。そうやってバトンタッチをしてのが、僕たち人間の役割 という気がするんですね。
 
迫田:  命がこう消えるけれども、繋がっていくということでしょうか。
 
鎌田:  そうだと思うんですね。僕の子どもたちは、岩次郎さんを看ていった時に、「ほん とに人間って、お父さん凄いね」と。岩次郎さんが亡くなっていく姿を見た僕の 娘が、「死は恐いものじゃない」って、こう言ってくれたんですね。多分、そう死 に逢うことは経験の中でなかったから、彼女にとっては恐ろしい光景だった、と 思うんだけども、お湯でおじいちゃんの手と足を洗っていきながら、つまりおじ いちゃんを癒そうと思っていながら、その行為そのものが、僕の娘・彼女自身が 癒されている。おじいちゃんの手をさすりながら、自分が大切な人を失っていく 喪失感を、お湯の温もりの中で、おじいちゃんの体温を感じながら、彼女自身が 癒されていたんじゃないか。だから、人を看るということは、一方的に何かして あげるように見えて、実は、何かをしながら、逆に、僕らが癒されている。医療 するとか、介護をするとか、ということは、多分、逆に僕たちが頂いていること が多いのかなあ、って気がするんですね。
 
迫田:  娘さんはつまり岩次郎さんにとってはお孫さんですけれども、死という一番悲し い、子どもにとっては非常に辛い場面でも、そこに何か貰った、いのちを貰った というか、なんかそういうことが起きるような死ということがあるんですね。
 
鎌田:  それが、その家族の役割の大切なものじゃないんですかね。家族というのは、結 婚して子どもを生み育て、そして親を看取り、そして親を葬る、という一連の中 で、家族というのは、脈々と流れていくわけですけども、その一番大事なバトン タッチ、いのちの大切さみたいなものを、子どもが生まれるという時と、それか ら大事な家族が死んで逝くという光景の中で、子どもたちへその大切さをバトン タッチしていくことが大事だ、と思うんですね。家族の大切な機能というのは、 子どもにそういうものの大切さを教え伝えていくことじゃないか、と。だから、 岩次郎さんのお陰で、岩次郎さんの死を通して、僕たちの家族は、また大きな深 い繋がりをもって、僕は教えられたし、僕の子どもも教えられた。そして、僕の 子どもは、また結婚をして、次の人たちに岩次郎さんを通して、学んだことや感 じたことを伝えていってくれるんじゃないか、という気がするんですね。
 
迫田:  それがよく鎌田さんがおっしゃる「いのちのリレー」と。
 
鎌田:  そう思っています。
 
迫田:  鎌田さんご自身は、まだ五十代前半でいらっしゃいますけど、ご自身の死のイメ ージとかあるんですか。もし聞かせて頂けるならば、ちょっと 教えて下さい。
 
鎌田:  なんか音楽があったらいいなあって、時々思うんだけど、どの 曲にしようかって、まだ決めれていないですね。そのうちに家 族に、「僕は最後の時はこの曲だよ。この曲を流してね」って、 言っておきたいなあと思うんです。これから五年位の間にちゃ んと考えたいですね。それからやっぱり自分らしく生きて、亡 くなって逝きたいので、やっぱり最後に、「サンキュー(thank you)」って、子どもたちや女房に言えるように、今から家族の大切さというのは、 亡くなる時だけが大切なんじゃなくて、やっぱり今なんだと思うんですね。だか ら、今ある人間関係、人と人の繋がりとかを凄く大切にしていくことが、結局、 自分らしい、鎌田實らしい死がくるかどうかにかかっているかなあ、と。今を充 実して、一生懸命誠実に生きることなのかなあ、って言い聞かせているんです。
 
 
     これは、平成十四年二月二十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである