身心清浄 ―正法眼蔵 洗面・洗浄の巻をよむ―

                          東方学院講師   西 嶋  和 夫(にしじま わふ)
                          き き て      白 鳥  元 雄
 
白鳥:  千葉県市川市南八幡(みなみやわた)、JR本八幡(もとやわた)の駅に近い四階建てのビルに坐禅道場が出来て、九年近くになります。ある会社の元社員寮であった建物を借りて、実現したものです。坐禅会の日には二十人近い人が、この道場に集まりますが、普段の日でも此処に住み込んで坐禅の生活に励む人の姿が見られます。坐禅の指導をする西嶋和夫さん、法名和夫(わふ)さんは大正八年の生まれ、大蔵省を振り出しに金融界で働いておられましたが、若い時から禅に惹かれ、次第にその修行に打ち込むようになりました。昭和四十八年に得度、鎌倉時代の道元禅師が仏教の基本を説いた『正(しょう)法(ぼう)眼蔵(げんぞう)』の研究、現代語訳に携わる一方、禅の実践指導に当たって来ました。今日は西嶋さんの道場をお訪ねして、西嶋さんの人生に大きな影響を与えた『正法眼蔵』の中から、特に「洗面(せんめん)」と「洗浄(せんじょう)」の巻について、お話をお伺い致します。
 
この坐禅堂の周りは、裏てが工場でございますよね。前には大きなマンションがありますし、職業安定所なんてのもありましたし、まあそう言った意味では本当にコンクリートの建物に囲まれた街中の坐禅堂ということですね。
 
西嶋:  はい。
 
白鳥:  日常的な音も何時も聞こえて来ますし、トラックの音、時には飛行機の音、こういう街中に坐禅堂をお作りになったのは、何か志があったんですか。
 
西嶋:  その点ではですね。私は現代の世相の中で、一般の方々が坐禅をやる必要があると。そういう印象を持っておるものですから。それで普通の社会生活をしておられる方々が毎日坐禅の出来るような施設、それが出来て、それの広がることが、かなり大事なんではないかと、そんな考え方で、会社にお願いして、ここのかっての独身寮を坐禅道場に使わして頂くことにしたんです。
 
白鳥:  成る程。そうなんですか。そしてまた、外国の方も随分多いですね。
 
西嶋:  そうでございますね。ここは最初は社員の人の為というようなことが、かなり中心的な目的だったんですが、誰でも入っていいという形にしておきましたら、自然に外国の人がどんどん増えて来まして、今は九人おります中の七人まで外国人で、他に日本の尼僧が二人いるという構成になっています。
 
白鳥:  玄関で取り次いで下さった方も、外国の女性でしたけれども。今、どこから来ていらっしゃるんですか。
 
西嶋:  そうですね。いま国籍はカナダ人が三名ですかな、それからフランス人が一名、ドイツ人が一名、それからチリーから来た人が一名おります。それからイスラエルがおります。
 
白鳥:  これまでお訪ねした禅の僧堂というとですね、どちらかというと、街を離れたところが多かっただけにですね、こういうところで、まさに街中のですね、庵というよりも、もう完全な僧堂ですね。こういうのは珍しいなと思いながら。
 
西嶋:  私はこういう形の坐禅道場が各企業の方々のご理解を頂きましてね、こういう例がどんどん日本の中に増えていく。そのことが日本の仏道の発展の為にも役に立つし、企業の人事管理の面でも非常に意義が深いんではないかと、そういう見方をしております。
 
白鳥:  そうですね。それで今日は道元禅師の『正法眼蔵』の中の「洗面」、それから「洗浄」、この二つの巻についてですね、お話を伺いに参りました。どうぞよろしくお願い致します。まあ「洗面」、顔を洗う。或いは「洗浄」、身体を綺麗に保つ。これこそ日常性の中の最も日常的なものかなあと思うんですね。公称、難解をもって鳴る『正法眼蔵』の中にこんな巻があって、それを読んで見ると、実にまたこと細かに書かれているので吃驚いたしましてね。
 
西嶋:  私もこの『正法眼蔵』を初めて読みました時に、この「洗面」とか、「洗浄」の巻が『正法眼蔵』の中に入っているということに吃驚したという経験がございます。というのは『正法眼蔵』というのは大体、宗教書であり、哲学書であるという印象でしたから、我々の日常生活の具体的な行動がこと細かに書かれておるということで吃驚したわけですけれども。その後、道元禅師思想を勉強していきますと、道元禅師の思想、或いは仏教思想というのが、心を中心にした哲学と、ものを中心にした哲学の丁度中間に行いの哲学があって、その行いの哲学が仏道だと、仏教だと。そういう主張ですから、そういうことの理解が進んで来たにつれて。成る程、こういう巻が当然なければおかしいし、道元禅師のお書きになった意図というのも解って来たと。だから、私は九十五巻本で、『正法眼蔵』の講義をあちこちでやっておりますけれども、九十五巻本の順序に従って、この巻も必ずやるという形でやっております。
 
白鳥:  そうですか。『正法眼蔵』を読んで禅に入る。或いは禅に入った方は必ずきっと『正法眼蔵』を学ぶということだろうと思うんですが、正直言って日常生活的なノルム(norme:規範)と言いますかね、そう言った規範を書いたようなところというのは、皆様真面目にお読みになりますか。
 
西嶋:  いや、普通の方はこの巻はほとんどおやりにならないんだと思います。というのは哲学的な思想内容が少ないというふうなところから、この「洗面」の巻、或いは「洗浄」の巻が実際に提唱されているという例が、以外に少ないんではないかなと、そういうふうに感じております。
 
白鳥:  そうですか。成る程。禅以外の色んな宗派の色んな宗教書もあると思うんですが、そういう中にこのレベルの日常的な所作(しょさ)ですね。そう言ったものについて書かれたものというのはあるんでございますか。
 
西嶋:  これは非常に少ないと思います。
 
白鳥:  少ないでしょうね。
 
西嶋:  それがどこから来ておるかというと、仏教思想の基本的な立場と関係していると思います。欧米流の宗教と仏教思想というものを対比してみますと、かなり性格的に違うんじゃないか。そのことがあって、仏教では心の立場と、ものの立場ではない、その中間にある行いの立場を主張しておりますが、普通の宗教というのは心の立場を中心にした思想ですから、その点で仏教思想と普通の宗教と比較して見ますと、根本的な思想の基礎の違いがあると、こういう問題があると思います。私も最近そんなことに気がついて来たというふうなこと、或いは非常にそのことがはっきりして来たという事情があるわけですけれども、その点では『正法眼蔵』という本がやはり行いを中心にした哲学だと、そういう観点は常に頭の中においておく必要があるかなあという気がしております。
 
白鳥:  成る程。顔を洗う、或いはトイレに行くというですね、日常的な動作、それも殆ど無意識的に行っている行動が、何故、宗教的な意味を持つのかというあたりは、では一つ読むことによって、また教えて頂きたいと思います。それでは「洗面」の巻から入って参りましょうか。巻頭は『法華経(ほけきょう)』の引用から入っておりますですね。
 
西嶋:  道元禅師は『正法眼蔵』の中で『法華経』というのは、「諸経の大王だ」というふうに言っておられますから、仏教思想の面で非常に大事な経典だと。その中に、この日常の動作についての記述があるというのは、やはり道元禅師が指摘しておられるから、気がつくわけでありまして、我々自身がなかなか『法華経』の中でこの記述に気付くということは以外に少ないんじゃないかと思います。
 
白鳥:  冒頭です、『法華経』に云くと、こうでるわけですね。
 
法華経に云(いわ)く、「油(あぶら)を以(もっ)て身(み)に塗(ぬ)り、塵穢(じんえ)を澡浴(そうよく)し、新浄(しんじょう)の衣(え)を著(じゃく)す、内外倶(ないげとも)に浄(きよ)らかなり」。
 
しかあれば、身心(しんじん)を澡浴(そうよく)して、香油(こうゆ)をぬり、塵穢(じんえ)をのぞくは、第一の佛法(ぶっぽう)なり。
                    (正法眼蔵・洗面)
 
西嶋:  そうですね。『法華経』というのは申すまでもなく、妙法蓮華経の略になるわけですが、大乗仏教経典の一番中心的な経典とされております。その中で「油を以て身に塗り」と、ご承知のようにインドでは太陽光線が非常に強いとか、気温が高いとかというところから、皮膚に油を塗るということがかなり大事な美容法であるようで、そのことと関連して、「油を以て身に塗り」と。「塵穢」の塵というのは物質的なことを意味しておりますから、塵というのが物質的な汚れ、穢というのが精神的な汚れというふうな意味に使われておると思います。物質的な汚れ、精神的な汚れを「澡浴し」、澡というのは水で洗うという意味でございますし、浴というのは入浴の浴でございますから、入浴をして、身体を綺麗に洗い、「新浄の衣を著す」と。新しくて綺麗な衣服を身に付ける。そうすると、「内(ない)外(げ)ともに浄らかなり」と。内というのは心を表しておると同時に、外(げ)というのは外側つまり身体を意味しておりますが、身体も心も両方とも浄らかになると。こういう記述が『妙法蓮華経』の中にあるんだから、「身心を澡浴して、香油をぬり」、身体や心を入浴して綺麗に洗い、香りの高い油を塗るということ、或いは「塵穢をのぞく」。物質的な汚れ、精神的な汚れを、自分の身体を洗うことによって取り除くと。自分の心を洗うことによって、取り除くというのが、「第一の仏法なり」というふうに言われておるわけであります。この「第一の仏法」というのが道元禅師が非常に強調されておるということを意味するわけでありまして、何故、「第一の仏法」と言われたかというふうなことを考えてみますと、仏教の勉強でも経典を読んで、理論的に仏教を勉強するというふうな立場もありますし、それからまた、立派な寺院を建てるとか、金襴のお袈裟を身に付けるとかということが仏法だというふうな捉え方もありますけれども、そういう単に理論的なものとか、或いは目で見た場合に、立派に見えるということ以外に、日常生活をどうやるかというところに、第一の仏法があるんだと、そういうご主旨だと思います。
 
白鳥:  その「法華経に云く」から出てですね、「第一の仏法なり」。今こう言い切れるあたりですね。
 
西嶋:  この辺に道元禅師の思想の特徴があると同時に、仏教思想、そのものがこういう性格をもっているんだということがあると思います。
 
白鳥:  そうですか。続きまして、
 
しかるに佛法(ぶっぽう)をきかず、佛道(ぶつどう)を参(さん)ぜざる、愚人(ぐにん)いはく、澡浴(そうよく)はわづかにみのはだへをすすぐといへども、身内(しんない)に五臓六腑(ごぞうろっぷ)あり、かれらを一一(いちいち)に澡浴(そうよく)せざらんは、清浄(しょうじょう)なるべからず、しかあればあながちに身表(しんぴょう)を澡(そう)浴(よく)すべからず。かくのごとくいふともがらは、佛法いまだしらずきかず、いまだ正師(しょうし)にあはず、佛祖(ぶっそ)の児孫(じそん)にあはざるなり。
 
西嶋:  言葉の意味を申し上げますと、以上述べたような事情があるけれども「佛法をきかず」、釈尊の教えを聞いておらない人。或いは「仏道を参ぜざる」人、参ずるという言葉では道元禅師は体験的に勉強するという意味を含ませておりますから、仏道を参ずるというのは、やはり道元禅師は坐禅をするということを、頭においておられたようであります。そういう修行をしておらない、おろかな人々がいうには、「澡浴はわづかにみのはだへをすすぐといへども」、入浴して身体を洗ったとしても、ほんの身体の外側だけを洗うんだと。従って「身内に五臓六腑あり」と。身体の中には五種類の内臓もあれば、六種類の身体の器官もある。そのような身体の内部があるのに、それらを一つ一つ入浴して洗わないということであれば、「清浄なるべからず」。本当に綺麗になったとも言えないと。「しかあればあながちに身表を澡浴すべからず」。だから単に身体の外側だけを洗うということは無意味なんだ、やるべきでないというふうな考え方があるということを述べられて、これはものを中心にした哲学をもっておる人々の考え方だと。身体というものを物質的な立場で考えて、外側だけを洗っても、内が洗えなければ、意味がないじゃないかと。こういう主張になるわけですけれども、それに対して道元禅師が反論されて、「かくのごとくいふともがらは、佛法いまだしらずきかず、いまだ正師にあはず、佛祖の児孫にあはざるなり」とこう言われておると。だから、こういうふうにものだけを中心にして、問題を考えておる人々は、釈尊の教えをまだ知っていない。そして釈尊の教えをまだ聞いたことがないと。そうして釈尊の教えをしっかり身につけておる正しい師匠に出会っていないと。だからそういう人々は釈尊の弟子、孫弟子にあたるような人に出会っていないんだと。そういうことを言っておられると思います。
 
白鳥:  このレベルの反論というのは、非常に浅いものにこだわった考え方なんだと。
 
西嶋:  そうなんですね。ですから人生というのは、単に身体だけの問題ではないと。人間の存在を考えて見ても、身体と心と両方が一つに合わさったところに人間があるんだから、その身体の部分だけを取り上げて、それだけを論議するということは、人生の本当の意味が分かっていないと。そういう主張になると思います。
 
白鳥:  その次に参りましょうか。
 
しかあればすなはちいまだ染汚(ぜんな)せざれども澡浴(そうよく)し、すでに大清浄(だいしょうじょう)なるにも澡浴(そうよく)する法(ほう)は、ひとり佛祖道(ぶっそどう)のみに保任(ほにん)せり、外道(げどう)のしるところにあらず。
 
と続くわけですね。
 
西嶋:  そうですね。ですから、その点では、まずものだけを中心にして、問題を考える人々の立場を批判した上で、仏道の世界では汚れているとか、汚れていないとかということの問題ではないんだと。洗うという動作そのものに意味があるんだと。だから色々議論があるけれども、「いまだ染汚せざれども澡浴し」、まだ汚れていないけれども、身体を洗うということに意味があるんだし、「すでに大清浄なるにも澡浴する法は」。もう非常に完全に綺麗な場合でも、更に身体を洗うという生活態度というものが、仏道にはあるんだと。そうしてそのような生活態度というものは、「ひとり佛祖道のみに保任せり」、釈尊がお説きになった真実の中にだけ保たれておるし、またそういう立場を勉強しておる人々は、そういう教えに身を任せていると。
 
白鳥:  これが「保任する」という。
 
西嶋:  はい。「保任」というのは、自分で保つという意味と、それから自分がその教えに身を任せるという意味と両方含まれておるわけであります。でそういう考え方というものは、仏教を信じない人々には分からないと。それが「外道のしるところにあらず」。仏教以外の教えの人々という意味で、外道(げどう)という言葉を使われておる。そういうことがあると思います。この問題を考えた場合に、人間が本質的に綺麗なものが好きか、醜いものが嫌いかという問題を考えてみますと、普通、常識的には綺麗なものが好きだと、醜いものが嫌いだというふうに受け取れるわけですけれども、人間のあり方として、必ずしも、そうではないというふうな状況があるように思います。そして今日の世相などを考えて見ますと、まあ住専の問題があったり、薬害エイズの問題があったり、古くなりましたが、チッソの問題があり、又、いじめの問題がありますが、そういうニュースを聞いた時に、私が感ずるのは、人間として醜いなあという印象であります。人間の行いが美しいとか、醜いとかというふうな評価がありますけれども、倫理道徳の問題自身が、人間の美しい醜いということを見分ける本能と密接に関係しているんではないか。そうして戦後の五十年間というものが、醜い行いというものを平気でやるというふうな時代に入って来ているんではないかという心配がありまして、例えば、よく言われる標語ですが、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というふうな標語の中に、今日(こんにち)、我々が生きておる世相が、美しい醜いの規準を失っておると。しかもそのことに、気がついていないという心配がどうもあるんではないかということを感じております。
 
白鳥:  成る程。では続いて参りますが、
 
このとき、六根六塵(ろっこんろくじん)あらたにきたらざれども、清浄(しょうじょう)の功徳(くどく)ありて現前(げんぜん)す、うたがふべきにあらず、三毒四倒(さんどくしとう)いまだのぞかうらざれども、清浄(しょうじょう)の功徳(くどく)たちまちに現前(げんぜん)するは、仏法(ぶっぽう)なり。
 
西嶋:  そうですね。文章の意味は我々が身体を洗った時に、「六根」というのは、六種類の感覚器官でありまして、目とか、耳とか、鼻、舌、皮膚、或いは感覚中枢というふうなものを意味しておりますし、「六塵」というのは、その六種類の感覚器官に応じての目に見えるもの、耳に聞こえるもの、臭いの鼻で嗅げるもの、或いは舌で味わえる味わい、或いは皮膚で触ることの出来る感覚、そうしてそういうもの全体を含めた外界(がいかい)の世界ということを意味しておりますが、「あらたにきたらざれども」というのは、それが入れ替わるわけではないと。身体を洗ったから、それが入れ替わるわけではないと。しかし洗った動作の中で「清浄の功徳ありて」、浄(きよ)らかにするという性質が備わっておって、それが具体化する。その事実を疑うべきではないと。「三毒四倒いまだのぞかうらざれども」。「三毒」というのは、今度は前の六根六塵が感覚的なものに関係しておりますが、三毒四倒という方は思想的な問題に関係しておりまして、「三毒」というのは、貧瞋癡(とんじんち)と言いまして、貪(むさぼ)りと腹立ちと愚痴という三つのものを意味しております。こういう感情的になった状態を仏教では非常に嫌うというところから、この貪(むさぼ)りと腹立ちと愚痴を三毒と称して、避けるものの対象にしておるわけであります。それから「四倒」というのも、四つの真実とは違った考え方という意味で、仏教の世界に「常に我が淨きを楽しむ」というふうな言葉がありますが、常にという言葉に関連して、この世の中は非常に変化に満ち溢れておると、そういう考え方を見失っておるとか、或いは我々の人生というものが楽しみばかりではないと。苦しみもあるんだということを見失っておる場合、それから自分自身が存在するというふうに、普通は考えるけれども、自分自身が存在するということを正しいと感じていいのかどうかというふうな問題。それからこの世の中の一切が必ずしも綺麗なものだけではない。そういうものに関連して、真実に反した四つの捉え方を、四倒と呼んでおりまして、そういう精神的な傾向とか、或いは間違った考え方というものが、洗ったから無くなるというわけではないけれども、というのが、「いまだのぞかうらざれども」ということの意味でありまして、洗うことによって、「清浄の功徳たちまちに現前するは、仏法なり」と。そのような動作によって浄らかさというものが具体化してくる、それが釈尊の教えであると。でこのような形で道元禅師の思想というのは、ものの世界と心の世界とを絶えず対比されながら、その二つではない行いの世界というものを、非常に強調されておるという点に特徴があるように思います。
 
白鳥:  これまでお話を伺ったところはどちらかというと、「洗面」の中でも理念的なところが多かったように思えるのですが、この本を読んでおりますと至って具体的、how to 的なところがございますね。この西嶋さんの現代語訳のご本も借りながらですね、ちょっとご紹介していきたいと思うんです。
 
裙褊衫(くんへんさん)たづさへて洗面架(せんめんか)におもむく。手巾(しゅきん)は一幅(いっぷく)の布(ぬの)ながさ一丈二尺(いちじょうにしゃく)なり、そのいろしろかるべからず、しろきは制(せい)す。まさに手巾(しゅきん)を持(じ)せんにかくのごとく護持(ごじ)すべし、手巾(しゅきん)をふたつにをりて、左のひぢにあたりてそのうへにかく、手巾(しゅきん)は半分はおもてをのごひ、半分にては手をのごふ。はなをのごふべからずとは、はなのうち、および鼻涕(びてい)をのごはず、わきせなかはらへそももはぎを手巾(しゅきん)してのごふべからず。垢膩(くに)にけがれたらんに洗浣(せんかん)すべし。
 
洗面架(せんめんか)にいたりて手巾(しゅきん)の中分(ちゅうぶん)をうなぢにかく、ふたつのはしを左右のかたより、まへにひきこして、左右の手にて左右のわきより、手巾(しゅきん)の左右のはしをうしろえいだして、うしろにておのおのひきちがへて左のはしは右へきたし、右のはしは左にきたして、むねのまへにあたりてむすぶなり。
 
云々と。要するに襷掛(たすきが)け。
 
西嶋:  そうでございますね。今日では手巾と呼ばれているのは、この紐のことを言っております。道元禅師の時代には普通の布の巾があって、夫れの一丈二尺のものが、手巾と言われておったということですから、長い時代の間に、そういう布で顔や手を拭くことに使われておったものが、こういう紐に変わったんだと思います。ただ、今日でも、この紐を使いまして、洗面の時に襷掛けと同じような形をするわけですけど、その場合に、こういうふうに、袖をたくしあげるようにしまして、そして前に以て来て結ぶと。これは眼蔵に書かれておるのと同じ使い方なんです。ただ今日でも手巾というものを使って、こういうふうな、袖をたくしあげることに使っていますけれども、形としては道元禅師の時代には、布の巾をもった一丈二尺位のものが手巾と言われておった。今日ではやはり、長さは一丈二尺位あると思いますが、この紐を手巾と呼んでおるということですから、同じ名前のものでも、長い時代の間には、様子が変わり、また使い道も変わって来ているという事情があると思います。
 
白鳥:  この辺は何か、今でしたら、子供にまるで、洗顔の方法を教えているような、まさに生活的なノルム(norme:規範)と言いましょうか。
 
西嶋:  その点では道元禅師がこういう作法をですね、文化としてお考えになっておったと思います。中国に行かれて、寺院生活の中で、日本にはないような生活習慣があって、それが文化だというふうに、お感じになったので、それを克明に日本の国内に導入しようというご意図があって、「洗面」の巻とか、「洗浄」の巻をお書きになったという面があると思います。
 
白鳥:  成る程。顔を洗うという習慣は、西方のインドから伝わって来たもんだと、こういうふうにお書きになっておりますですね。そのすぐ後にですね、「つぎに楊(よう)枝(じ)をつかふべし」という形で、「嚼楊枝(しゃくようじ)の法」というのが出て来ますですね。読んでおりますと、今の私達が口を洗うのに使っている楊枝ではなくて、文字通りの楊柳(かわやなぎ)なんですか。
 
西嶋:  そうですね。
 
白鳥:  楊柳(かわやなぎ)の枝で歯を磨き、口を洗う。こういうもののようですね。
 
西嶋:  そうですね。この楊(よう)という字がヤナギの一種で、枝が上に向いている方のヤナギを楊(よう)をいうようです。それから日本にあるような垂(しだ)れ柳というのは、柳という字を書くという区別があるようでございます。ですからここでは中国のように、楊柳(かわやなぎ)の枝の柔らかいのを選んで、それの端を三分の一位噛みまして、そして繊維状の、まあ歯ブラシのような状態にしまして、それで歯を磨くということが行われておったようです。
 
白鳥:  しかも、ここも『華厳経浄行品(けごんきょうじょうぎょうぼん)』ですとか、『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』などというものから引用されながらですね、
 
よくかみて、はのうへはのうら、みがくがごとくとぎあらふべし、たびたびとぎみがき、あらひすすぐべし、はのもとのししのうへ、よくみがきあらふべし、はのあいだよくかきそろへ、きよくあらふべし。漱口(そうこう)たびたびすれば、すすぎきよめらる。しかうしてのちしたをこそぐべし。
 
西嶋:  楊枝を使うという習慣は、釈尊の時代から既にあったというふうに考えることが出来ます。この眼蔵の中にも、波斯匿王(はしのくおう)から、接待を受けた時に、釈尊が楊枝を使われたという記述がありまして、自分の身体を綺麗にしたい、口の中を綺麗にしたい。歯を綺麗にしたいというふうなことは、人類の本能的な願いだと。だから、そういう本能的な願いが基礎になって、人間の文化が発達して来ているんだと。だからこういう日常生活の動作の中に文化の根元があるんだと。そういうふうな捉え方が出来ると思います。
 
白鳥:  いまここまで、微に入り、細に入って、お書きになっていますね。
 
西嶋:  そうです。ですから、この楊枝についても、道元禅師はこの楊枝は、中国では使われなくなったと。しかし、日本では現に永平寺で使われておると。だからその点では古い過去の仏教僧達のしきたりが日本に迄伝わって来ているというのは、大変ありがたいことだと。そういうふうな感想をお持ちになったようです。
 
白鳥:  成る程。最後に言わば、纏めとしてですね。
 
おほよそ嚼楊枝(しゃくようじ)、洗面(せんめん)、これ古佛(こぶつ)の正法(しょうぼう)なり、道心辧道(どうしんべんどう)のともがら、修証(しゅしょう)すべきなり。
 
西嶋:  ですから、道元禅師が楊枝というものを使うことに、非常に愛着を持っておられたということが言えると思います。中国のしきたりとして、今日の歯ブラシと似たような道具が既に使われておって、この柳の枝を使うという風習は中国になかったようですけれども。当時は歯磨きが発達しておらなかったから、おそらく、そういう歯ブラシのようなものを使うと、非常に不潔になったということがあって、その点では道元禅師が柳の枝であれば、使い捨てが出来るから、その点で、非常に清潔で好(この)ましいというふうなことを述べておられます。だから、その点では、今日は歯磨きのようなものが発達しましたから、方法としては、かなりまた、進んで来たということが言えますが、身体を綺麗にしたい、歯を綺麗にしたいというふうなことは、人間の本源的な願いであって、それが文化の基礎なんだというふうなことが言えるのかも知れません。
 
白鳥:  お気づきになったかも知れませんが、この今日のタイトルが「身心清浄(しんじんしょうじょう)」、普通ですと、身心(しんじん)と言った時に、心(こころ)、身(み)と書きますね。それが身(み)が先に来ている。
 
西嶋:  これは道元禅師は意識して、身体を先にして、心を後にするということを実行されておったというふうに見ていいと思います。例えば、『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』という本の中に、人間は身体で悟るのか、心で悟るのかという質問に対して、身体で悟るんだということを言っておられます。『正法眼蔵』の中には「体達(たいたつ)」という言葉が出てきまして、体(からだ)という字に達人の達という字です。体を使って真実に到達すると。そういう意味で仏教思想は体の問題を外して成立しないという傾向がありますから、その点では道元禅師が体と心を並べてお書きになる場合には、体の方を先にお書きになったということは、意識しておやりになったんだと思います。
 
白鳥:  成る程。同じ延長の中に、次にお話を頂く「洗浄」もあるというふうに考えてよろしゅうございますね。
 
西嶋:  そうですね。性格的には同じ考え方で書かれたものだということが言えると思います。
 
白鳥:  ああ、そうですか。では一つこの「洗浄」の巻に入りたいと思います。これはまた巻頭に大テーゼ(these:命題)がおいてありますね。
 
佛祖(ぶっそ)の護持(ごじ)しきたれる修証(しゅしょう)あり。いわゆる不染汚(ふぜんな)なり。
                   (正法眼蔵・洗浄)
 
西嶋:  仏祖というのは道元禅師は釈尊を指すというふうな使い方の場合と、それから仏と祖師という方々を表す場合と両方の使い方があるようでありますが、仏と呼ばれ、祖師と呼ばれる方々が守り、保持して来たところの修行であり、体験があると。それは何かというならば、不染汚(ふぜんな)である。不染汚というのは汚(けが)れていないと、こういう意味でございます。道元禅師が汚れていないということを、非常に強く主張されたということと、行いを中心にした倫理道徳の問題とが、かなり密接に関係しているんではないかというふうに感じます。その点で最近の新聞に出ているような事件を見聞きしておりますと、人間が汚れた行いをしたくないという本能が消えてしまっておるんではないか。綺麗か汚(きたな)いかということよりも、損か得かということだけで動くという傾向があるんではなかろうかと。私は戦後の五十年間というのは、日本国民がものを中心にした考え方を勉強した時代だから、それはそれなりに、意味があるとは思いますが、その時代がいつまでも続くということになると、社会の自己崩壊を招くという心配がないかどうかというふうなことを感じております。ですから、ものを中心にした考え方を勉強することも、人間の思想の発展の中では大切だとは思いますが、何時までも続けた場合には、必ずしも安心していられないというふうなことを感じております。
 
白鳥:  さっき、「洗面」のところに出て来ました、三毒四倒の状態ですね。確かにものだけに拘っていて、私達の感覚だけの世界だけに拘っていると、何かこうそれだけでは説ききれないものが出て来るし、また非常に汚(よご)れが出て来るような感じしますね。
 
西嶋:  そうです。その点で大学の先生方が『知とモラル』というふうなものについて本をお書きになっているようですが、その中で出て来る思想の中では、知識の集積が善悪の基準になり得るというふうな考え方があるようであります。しかし私は事実はそうではないんじゃないかと。知識を積み重ねても、善悪の基準は出て来ないと。だから善悪の基準というものは別の観点から考えざるを得ないし、その場合に問題になって来るのが、美しいか醜(みにく)いかという価値判断が、かなり重要なのではなかろうかと、そんなことを感じております。
 
白鳥:  その時に更に、基本なのが「佛祖の護持しきたれる不染汚」という感覚であると。
 
西嶋:  そうでございますね。ですから人間が汚いものを嫌うという本能が必要だし、それを忘れるべきではないという主張があると思います。
 
白鳥:  そして更にですね、続けた形で、『大比丘三千威儀経(だいびくさんぜんいいぎきょう)』から借りて、こういうふうに書いていらっしゃいますね。、
 
大比丘三千威儀経に云く、「浄身(じょうしん)とは、大小便(だいしょうべん)を洗(あら)い、十指(じっし)の爪(つめ)を剪(き)るなり」
 
西嶋:  はい。この『大比丘三千威儀経』というのは、釈尊の時代以降、仏道修行者が守って来たところの生活のやり方というものを書いた経典ですから、時代的にはかなり古い経典だということが言えると思います。その際に常にこういう体を綺麗にするということ。それに関連して用を足した後の体の汚れた部分を洗うと。この大小便を洗うというのは排泄されたものを洗うという意味よりも、手洗いに行って汚れた体の部分を洗うという意味であります。それからまた、指の爪を切るというふうな習慣というものも、日本の文化がまだ非常に未発達の時代に、既にインドにおいてはこういうふうな文化的な生活態度がとられておったという点で、文化の新しい古いというふうなことを感ずる面では、かなり興味のある記述かなあというふうに見ております。
 
白鳥:  浄身。身を浄(きよ)めるということは、用便後の体を洗ったり、それから爪を切ることなんだと、非常に単純化されておるような感じですね。
 
西嶋:  そういうことでございますね。ですから、やっぱり仏教哲学は動作を基準にした哲学だと。行いを基準にした哲学だと。こういう哲学というものは、私は欧米の思想体系の中では殆ど見当たらないと。東洋の思想体系の中でも、仏教以外にはあまり見当たらないんではないかということで、今日(こんにち)、仏教思想が持っておる現代の文明に対する位置というものが、かなりこういう思想と関係しておるんではないかというふうに見ております。
 
白鳥:  「洗浄」の巻では、この他に髪を剃ることも問題として出しておられるんですけど、これも全て生活常識のレベルのことではないかと思って、道元禅師は非常に細々と丁寧に説かれておりますね。
 
西嶋:  そうでございますね。当時、僧侶の方でも髪を伸ばしておるとか、爪を伸ばすという習慣があったようで、「洗浄」の巻の中にも三四寸(さんしすん)に伸ばしている例があったというふうに書いておりますが、これは非常に意識的に爪を長く伸ばす習慣が、当時の仏教僧の中にあったんだと思います。それに対して天童如浄(てんどうにょじょう)禅師がそれはおかしいということで、非常に強く叱責されたということが残っておりますが、そういうふうな教えの中に、道元禅師が中国から持って来られた天童如浄禅師の教えの尊さがあるということも言えると思います。
 
白鳥:  そう言った浄身とはという形で、まあ単純化されているんだけれども、そう言ったことが宗旨であり、また得道したものはその作法を守るんだということで、こういう言葉を書かれておられますね。
作法(さほう)これ宗旨(しゅうし)なり、得道(とくどう)これ作法なり。
 
西嶋:  そうですね。ここで作(さ)というのは何か動作をするという意味で、法というのは正しい行いという意味に取っていいと思います。ですから、正しい行いをするということが宗旨というのは基本思想だと。釈尊の基本思想というのは正しい行いをすることなんだと。そうして得道という、道というのは真実でありますから、真実を得るというのが得道という意味でありますが、真実を得るということが、何かというならば正しい動作をすることなんだと。そういう形で行いと思想とが一致しておる哲学体系が釈尊の教えだと、そういう主張が出ておると思います。
 
白鳥:  これなどはほんとに短い文章ですけれども、道元禅師のお考えというのは、非常にきちんきちんと出ておりますね。
 
西嶋:  そういうことが言えると思います。
 
白鳥:  さて、次に出て来る言葉なんですけど、
 
水かならずしも本浄(ほんじょう)にあらず、本不浄(ほんふじょう)にあらず。
 
しかあれども水をもて身をきよむるにあらず。佛法によりて、佛法を保任するに、この儀(ぎ)あり。これを洗浄と稱す。
 
これは似たような言葉が先程「洗面」にも。
 
西嶋:  そうですね。ここで言っておられることがどういうことかと言いますと、現実の世界には完全に綺麗なものもないし、完全に不潔なものもないというこういう主張です。現実の世界というのは、必ず相対的な違いでしかないと。だから水が何時も完全に綺麗だとは言えないし、水が常に汚(きたな)いとも言えないと。だからそういう相対関係の中で、洗うという動作そのものが尊いのだと。だからこの「しかあれども」というところの後で、綺麗な水を使って、汚れた身体を洗うという意味ではないと。洗うという動作そのものに意味があるんだと。そこで「佛法によりて、佛法を保任するに、この儀あり」と。釈尊の教えというものを守るという態度からは、自然に洗うという動作が生まれて来ると。だからそういう点では、釈尊の教えを守るということと、身体を洗う、綺麗にするという動作とは同じことなんだと。その一つの例が洗浄と呼ばれておると、そういう意味になると思います。
 
白鳥:  成る程ね。この「洗浄」の中でもですね。これはほんとに細々と、そのやり方、How to の部分が書いてございますですね。「東司(とうす)に至る法」、東司というのは皆さんもご存じのように、手洗いのことですね。お寺の手洗いのことを東司と書きますが、
 
東司にいたる法は、かならず手巾(しゅきん)をもつ、その法は、手巾をふたへにをりて、ひだりのひぢのうへにあたりて、衫袖(さんしゅう)のうへにかくるなり。すでに東司にいたりては、浄竿(じょうかん)に手巾をかくべし、かくる法は、臂(ひじ)にかけたりつるがごとし。もし九條七條等(くじょうしちじょうとう)の袈裟(けさ)を著(じゃく)してきたれらば、手巾にならべてかくべし、おちざらんやうに打併(たへい)すべし、倉卒(そうそつ)になげかくることなかれ。よくよく記號(きごう)すべし、
 
云々という形で、このトイレの入り方なんかも実は細かく書いてございますでしょう。ここまで書く必要が何故あったのかなあという感じさえするんですが。
 
西嶋:  それは道元禅師が中国の寺院に行かれましてね、こういう作法が実際に行われておるのをご覧になった。そこでこれが仏道だという印象を持たれたんで、そういう生活態度というものを、日本に導入したいというお気持があったんだと思います。ですから、いま、お読みになったように、衣の畳み方でも、実に懇切丁寧に、袖のところと袖口とを持って、半分に折って、それを又半分に折って、更に半分に折れというふうなことが書かれておりますが。
 
白鳥:  トイレに入る時は、水を持って、それも十、全部入れてはいけないと。九分目位にしておくとか、或いはトイレに入る時には、草履に替えろとかですね、草履を替えるとか、用便前後の心得とか、ほんとに具体的、かつ細かく。
 
西嶋:  そうでございますね。この「洗浄」の巻に書かれておるような習慣というものは、今日のインドでは未だに続いておるようです。というのは、インドのホテルに行きますと、手洗いの中にコップの大きいような器がありまして、それが何に使うかと云えば、洗浄に使うわけなんです。ですから、インドではそういう習慣が未だに続いておるということが言えると思います。
 
白鳥:  西嶋さん、この「洗浄」の巻を読んでおりまして、面白いなあと思ったところがあるんですよ。
 
洗大小便(せんだいしょうべん)おこたらしむことなかれ。舎利弗(しゃりほつ)この法をもて外道(げどう)を降伏(ごうぶく)せしむることありき、
 
というのが、先程、引用したところのちょっと前に出て来ますでしょう。成る程。トイレのエチケットと言いますかね。仕方によって舎利弗という方はですね、仏教を信じなかった人を信じさせたのかなあと。
 
西嶋:  そうですね。この話もなかなか面白い話だと思います。その後のところにそういうことを舎利弗が意図的にやったわけではないと。それからまた仏教を信じていない人がそういうことが起こり得ることを期待して、舎利弗の動作を見ていたわけではないと。ただ、美しい動作が行われた時に、仏教を信じていない人が仏教を信じるという気持に変わったということで、思想の転換というものと、それから人間の動作というものとが関連しているという点で面白い話だなあと思います。
 
白鳥:  そうですね。だからこそ、またこういった形で道元禅師は非常にそういったごく基礎的なところをですね。
 
西嶋:  ですから、その辺に仏教思想の基本があるんだと思います。
 
白鳥:  それではもうちょっと読み進むことに致しましょうか。
 
佛祖(ぶっそ)の道場(どうじょう)、かならずこの威儀(いいぎ)あり、佛祖道場中人(ぶっそどうじょうちゅうのひと)、かならずこの威(いい)儀具足(ぎぐそく)あり。これ自己の強為(ごうい)にあらず、威儀(いいぎ)の云為(うんい)なり、諸佛(しょぶつ)の常儀(じょうぎ)なり、諸祖(しょそ)の家常(かじょう)なり。
 
西嶋:  「仏祖」というのは仏と呼ばれ、そして祖師と呼ばれる方々で、「道場」というのは真実を追求するという場所と、こういう意味でありまして、真実を追求する場所には、例外なしにこのような威厳のある姿、形が存在する。この「威儀」というのは、やはり洗浄のことを意味しておられます。「佛祖道場中人(ぶっそどうじょうちゅうのひと)」と。従って、そういう道場の中で、仏道修行をしておる人々は、「かならずこの威儀具足あり」と。例外なしに、このような動作を備えておる。「これ自己の強為(ごうい)にあらず」。これは修行者自身が自分の意図によって無理にやることではない。それからその点では、「威儀(いいぎ)の云為(うんい)なり」と。云為(うんい)というのは、云うという意味が云(うん)という言葉でありまして、為(い)というのは、動作をするという意味でありますから、威厳のある姿が、自分自身で姿を現して来た状態であると。だから、人間の意図的な動作ではなしに、自然にこういう動作が生まれて来るんだと。そこで「諸佛(しょぶつ)の常儀(じょうぎ)なり」。仏と呼ばれる方々のごく普通のあり方だし、祖師と呼ばれる方々の日常生活であると。だから、こういう思想の中には、ダールマというものが存在するということが背景にあると思います。この世の中には、厳然とした秩序がある。その秩序に従って行くことが仏道なんだと。だから人間の意図的な努力によって、無理にやるということではなしに、本来のダールマの教えに従っていくならば、自然にこういう動作が生まれて来るんだと。そういう主旨を述べておられるというふうに見ていいと思います。
 
白鳥:  威儀(いいぎ)と先程読んだこの威儀(いぎ)という今の読み方からすれば、これなんかは威儀を正すとか、何か外に向ける使い方なんですが、この中で言っていることは、洗浄とかね、特に用便の後の洗浄というような一番暮らしの中では低いレベルと言っていいのか、どうか分かりませんが、そう言った行動を言っていらっしゃるんですね。
 
西嶋:  そうですね。
 
白鳥:  それが威儀(いいぎ)である。威儀(いいぎ)具足十分であるということの大切さということをね。
 
西嶋:  ですから、そういう動作が美しくなければ人類の文化はないと、こういう考え方です。
 
白鳥:  そういうことですね。
 
西嶋:  だから、最近の公衆の手洗いなどで手を洗う方がどの位いるかを観察していますと、約五割位の方が手を洗うと。約五割の方は手を洗わないと。手を洗わない方のお気持ちとしては、物理的に汚れたわけではないと。だから、物理的に汚れていない手を洗うのは意味がないというお考えなんだろうと思いますが。手洗いに行った時、何となく汚れたような感じがするから、それを浄める意味で手を洗うという動作、そのものがやっぱり人間の文化というものが、どんなものかということの一つの意味を伝えているんではないかなというふうに感じています。
 
白鳥:  しかあればすなはち佛道場(ぶつどうじょう)に廁屋(しおく)あり、佛(ぶつ)廁屋(しおく)裏(り)の威儀(いいぎ)は洗浄(せんじょう)なり、祖祖相傳(そそそうでん)しきたれり、佛儀(ぶつぎ)のなほのこれる、慕古(ぼこ)の慶快(けいかい)なり、あひがたきにあへるなり。    
 
西嶋:  ですから、こういうような状況からすれば、釈尊の教えを勉強しておる道場には必ずこの手洗いの設備がある。手洗いの設備の中で、威厳のある姿、形と言えば、この体を洗うという動作である。「祖祖相傳(そそそうでん)しきたれり」、祖師と呼ばれる方々は代々伝えて来られたと。「佛儀(ぶつぎ)のなほのこれる、慕古(ぼこ)の慶快(けいかい)なり」。こういう釈尊以来の伝統的な動作が、今日でも残っておるということは、過去の祖師方の徳を慕うものとしては、非常に有り難い、喜ばしいことであると。そうして、なかなか出会うことの出来ない釈尊の教えに出会ったということが言えるということで、こういうふうな人間が普通は表面に出したくない汚れた部分を綺麗にするということの中に、人類の文化があるというふうな主張からしますと、人間生活にとって、非常に大切だというふうなことがあると思います。こんなことが環境汚染の問題などとも関係しておるんではないかとも思います。
 
白鳥:  私もこの「洗面」、「洗浄」の巻を読んで、もしかすると、今の地球の汚染の問題。今、そこから立ち直ろうとしている。今、まだまだ多数とは言えないけれども、そう言った人達の心の動きとも繋がっているのかなあという感じさえしましたですね。
 
西嶋:  その点ですね。仏教の立場では、人間が作った環境汚染だから、人間の努力で直せるという考え方をするんだと思います。ですから、今日は社会的に非常に大きな組織になっていますから、社会の中で法律が生まれて、企業や国民や政府が協力をして、環境汚染、そのものも努力して防ぐ、実行を通して防ぐという態度が必要なんじゃないかと、そういうふうな見方をしています。
 
白鳥:  そうですね。最後の「佛(ぶつ)廁屋(しおく)裏(り)の威儀(いいぎ)は洗浄(せんじょう)なり」という一句がございましたですね。これなんか読んでおりましてね、つまりそういうトイレを使う、或いは体を洗う。そういうようなごく普通のレベルのことが、これは実は仏様の教えというものが、そのまま残っておることなんだよという、何か一番生活の日常的なレベルのところに仏様の教えが残っているじゃないかと。宗教というものとは、えらく遠いような感じがしてたんですが。
 
西嶋:  その点で日常生活をきちっとやることが仏道だという主張がかなり強くこの「洗面」の巻、或いは「洗浄」の巻には出ていると思います。
 
白鳥:  これはやっぱり強い印象で残りましたですね。
 
西嶋:  そうですね。これはやっぱり仏教哲学の基礎だと思います。
 
白鳥:  今日はいいお話を有り難うございました。
 
西嶋:  どうも有り難うございました。
 
 
     これは、平成八年七月十四日に、NHKの教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。