子をなくした父として
 
                           出 演 大 河 内  祥 晴(おおこうち よしはる)
                           作 家 重 松   清(しげまつ きよし)
 
ナレーター:  それは今から十一年前、秋の日の日曜日、夕暮れ時のことでした。愛知県西尾市の中学二年生大河内清輝(きよてる)さんが、自宅の裏庭で自ら命を絶ちます。勉強机の引出には、家族に宛てた遺書が残されていました。
 
家族のみんなへ
14年間、本当にありがとうございました。僕は、旅立ちます。まだやりたいことがたくさんあったけれど、・・・・。本当にすみません。
 
自殺の原因は、いわゆるいじめでした。清輝君は、四人の同級生から繰り返し暴行を受け、総額百万円以上のお金を取られていました。学校や家族に知られることなく、一人で苦しみ、死を選んだ清輝さん。いじめの深刻さが改めて問題となりました。失意のどん底で、それでも敢えて遺書を公開し、いじめの実態を訴えたのは、父親の祥晴(よしはる)さんでした。あれから十一年、息子を失った父親は、今あの日の出来事をどう受け止めているのか。作家の重松清さんは大きな関心を寄せています。一貫して家族の物語を書き続けてきた重松さんは、今年で四十三歳。中学生の娘を持つ父親でもあります。
 

 
重松:  その当時、お父さんは四十八歳だったんですね。僕もうすぐに四十三歳になるんだけども、本当に四十代の親として、その時お父さんが、あの息子さんの変わり果てた姿を見て、そして遺書によっていじめのことを知らされて、その時の気持がどうだったのか、というのも知りたいし、十一年経って、お父さんが、息子さんを死に追いやったそのいじめに対して、或いはいじめた同級生に対して、どんな思いを持っているんだろう。それがすごく気になる。知りたいんですよ、何か親としてね。
 

 
ナレーター:  名古屋から車で一時間。愛知県の西尾市は自動車関連工場が建ち並ぶ一方で、数多くの田畑が残る人口十万の街です。
 

 
重松:  重松清と申します。
 
大河内:  どうぞ。
 
重松:  ご焼香させていただきます。
 
大河内:  ありがとうございます。
 

 
ナレーター:  大河内祥晴さん、五十九歳。地元の大手自動車部品メーカーに勤めるサラリーマンです。清輝さんが自宅の裏庭で亡くなった後も、生活を変えることなく、此処で暮らしてきました。
清輝さんは、一九八一年生まれ。祥晴さんの次男でした。
 

 
重松:  命日は十一月・・
 
大河内:  二十七日ですね。
 
重松:  十一年、
 
大河内:  そうですね。もう十一年過ぎちゃったですね。
 
重松:  早いですね。
 
大河内:  朝、此処へお詣りをして、あと土曜日、日曜日は休みなもんですから、朝そういう格好でお経を―家のところは浄土真宗なもんですから、「阿弥陀経」と、それから普段読む「正信偈(しょうしんげ)」ですね。それで清輝に気持はどこまで伝わるかわからないんですけども、毎日いろいろ話し掛けたいこともありますし、応えてくれないですけども。
 
重松:  あの事件の直後、勿論そうだったんですけども、今回の取材に先立ちまして、清輝君の残された遺書をまた改めて読み返してみると、ほんとに胸が塞がれる思いがして、それを残された―当然清輝君の苦しみや悲しみは勿論なんですけども―お父さんお母さんのお気持ちに、もしかしたら僕も親として、少しお伺いできる資格ができたのかも知れないな、と思っておりますので、ほんとに不躾なんですけれども、いろいろお話を伺わせてください。
 
大河内:  よろしくお願い致します。
 
重松:  こちらこそ、よろしくお願い致します。
 
大河内:  これが清輝の・・・ちょっとまあバラバラになっているんですけども、二十七日に亡くなって、お葬式が三日後の三十日です。その明くる日一日ですが、兄が机の引出を―やっぱり気になったんでしょうね。私たちが気に付かないところで―そうしたらこれですね。
 
重松:  よろしいですか?
 
大河内:  ええ。中はこっちにありますけれども。これは二回に分けて書いたと思うんですけれども。

 
ナレーター:  遺書は便箋四枚に、ペンでびっしりと書かれていました。そこには家族への別れの言葉とともに、いじめがどんどん激しくなり、耐えきれず、死を決意するまでの経緯が詳しく書かれています。


 

































































いつも4人の人(名前が出せれなくてスミマせん。)にお金をとられてしまいました。そして、今日、もっていくお金がどうしてもみつからなかったし、これから生きていても…。だから…。また、みんなといっしょに幸せに、くらしたいです。しくしく!
 小学校6年生ぐらいからすこしだけいじめられ始めて、中1になったらハードになって、お金をとられるようになった。中2になったら、もっとはげしくなって、休みの前にはいつも多いときで60000、少ないときでも30000〜40000、このごろでも40000。そして17日にもまた40000ようきゅうされました。だから……。でも、僕がことわっていればこんなことには、ならなかったんだよね。スミマせん。
 もっと生きたかったけど…。家にいるときがいちばんたのしかった。いろんな所に、旅行につれていってもらえたし、何一つ不満はなかった。けど…。
 あ、そうそう!お金をとられた原因は、友達が僕の家に遊びにきたことが原因。いろんなところをいじって、お金の場所をみつけると、とって、遊べなくなったので、とってこいってこうなった。
 オーストラリア旅行。とても楽しかったね。あ、そーいえば、何で、奴らのいいなりになったか?それは、川でのできごとがきっかけ。川につれていかれて、何をするかと思ったら、いきなり顔をドボン。とても苦しいので、手をギュッとひねって、助けをあげたら、また、ドボン。こんなことが4回ぐらい?あった。特にひどかったのが、矢作川。深い所は、水深5〜6mぐらいありそう。図1〈図は省略〉みたいになっている。
 ここで矢印(A)につれていかれて、おぼれさせられて、矢印の方向へ泳いで、逃げたら、足をつかまれてまた、ドボン。しかも足がつかないから、とても恐怖をかんじた。それ以来、残念でしたが、いいなりになりました。あと、ちょっとひどいこととしては、授業中、てをあげるなとか、テストきかん中もあそんだとかそこらへんです。
 家族のみんなへ
 14年間、本当にありがとうございました。僕は、旅立ちます。
 でもいつか必ずあえる日がきます。その時には、また、楽しくくらしましょう。お金の件は、本当にすみませんでした。働いて必ずかえそうと思いましたが、その夢もここで終わってしまいました。
 そして、僕からお金をとっていた人たちを責めないで下さい。
 僕が素直に差し出してしまったからいけないのです。しかも、お母さんのお金の2万円を僕は、使ってしまいました(でも、一万円は、和子さんからもらったお年玉で、バッグの底に入れておきました)
 まだ、やりたいことがたくさんあったけれど、……。本当にすみません。いつも、心配をかけさせ、ワガママだし、育てるのにも苦労がかかったと思います。おばあちゃん、長生きして下さい。お父さん、オーストラリア旅行をありがとう。お母さん、おいしいご飯をありがとう。お兄ちゃん、昔から迷惑をかけてスミマせん。洋典、ワガママばかりいっちゃダメだよ。また、あえるといいですね。
 最期に、お父さんの財布がなくなったといっていたけれど、2回目は、本当に知りません。
 see you again
 いつもいつも使いばしりにもされていた。それに、自分にははずかしくてできないことをやらされたときもあった。そして、強せい的に、髪をそめられたことも。でも、お父さんは僕が自分でやったと思っていたので、ちょっとつらかった。そして20日もまた金をようきゅうされて、つらかった。あと、もっともつらかったのは、僕のへやにいるときに彼らがお母さんのネックレスなどを盗んでいることを知ったときは、とてもショックだった。 あと、お金もとっていることも…。
 自殺した理由は今日も、40000とられたからです。そしてお金がなくて、「とってこれませんでした」っていっても、いじめられて、もう一回とってこいっていわれるだけだからです。そして、もっていかなかったら、ある1人にけられました。そして、そいつに「明日『12万円』もってこい」なんていわれました。そんな大金はらえるわけありません。それにおばあちゃんからもらった、1000円も、トコヤ代も全て、かれらにとられたのです。そして、トコヤは自分でやりました。とてもつらかったでした。(23日) また今日も、一万円とられました(24日) そして今日は、2万円もとられ、明日も4万円ようきゅうされました(25日) あと、いつも、朝はやくでるのも、いつもお茶をもっていくのも、彼らのため、本当に何もかもがいやでした。
 なぜ、もっと早く死ななかったかというと、家族の人が優しく接してくれたからです。学校のことなど、すぐ、忘れることができました。けれど、このごろになってどんどんいじめがハードになり、しかも、お金もぜんぜんないのに、たくさんだせ、といわれます。もう、たまりません。最期も、ご迷惑をかけてすみません。忠告どおり、死なせてもらいます。でも、自分のせいにされて、自分が使ったのでもないのに、たたかれたり、けられたりって、つらいですね。
 僕は、もう、この世からいません。お金もへる心配もありません。一人分食費がへりました。お母さんは、朝、ゆっくりねれるようになります。ようすけも勉強に集中できます。いつもじゃまばかりしてすみませんでした。しんで、おわびいたします。 あ、まだ、いいたいことがありました。どれだけ使い走りにさせられたかわかりますか。なんと、自転車で、しかも風が強い日に、上羽角から、エルエルまで、たしか1時間でいってこいっていわれたときもありました。あの日はたしかじゅくがあったと思いました。あと、ちょくちょく夜でていったり、帰りがいつもより、おそいとき、そういう日はある2人のために、じゅくについていっているのです。そして今では「パシリ1号」とか呼ばれています。あと、遠くへ遊びにいくとかいって、と中で僕が返ってきたってケースもありませんでしたか。 それは、金をもっととってこいっていわれたからです。 あと、僕は、他にいじめられている人よりも不幸だと思います。それは、なぜかというと、まず、人数が4人でした。だから、1万円も4万円になってしまうのです。しかもその中の3人は、すぐ、なぐったりしてきます。あと、とられるお金のたんいが1ケタ多いと思います。これが僕にとって、とてもつらいものでした これがなければいつまでも幸せで生きていけたのにと思います。 テレビで自殺した人のやつを見ると、なんで、あんなちょっとしか、とられてないんだろうっていつも思います。最後に、おばあちゃん、本当にもうしわけありませんでした。
 【以下の文章は、遺書を入れた封筒の裏側に書き込んであった】
 お金をとられはじめたのは、1年生の2学期ぐらいから。 お母さんは、昔、教会につれていくっていってたこともあったよね。あのときは、とてもいきたかった。 (つけたし)日曜日もまた、2万円と1万円をようきゅうされました。そういえば、なぜ、ぼくが今度お金をとったら「しせつにいく」といったか。それは、そっちの方が幸せだと思ったから。いつも、彼らから、遊ぼっていうんだ。そして、いかないと…… 次の日にたくさんのお金をとられちゃうんだ。だからテスト週間でもあそばないといけなかったんだ。1年生のころは、彼らも、先輩につかまっていたから、勉強もできた。
              (毎日新聞 ’94年12月5日夕刊)
 
いじめグループからは繰り返しお金を取られていました。毎月の小遣いやお年玉、ついには母親や祖母の財布からお金を持ち出し、総額は百万円以上に膨れあがります。暴行を恐れて理不尽な要求や命令の言いなりになりました。髪を染められ、不本意ながら自転車を盗み、警察沙汰にもなります。しかし、清輝さんは平静を装っていました。いじめのこと、苦しんでいることを誰にも打ち明けず、追い詰められていったのです。
 

 
重松:  この遺書をですね、はじめてご覧になって、その時のお父さんのお気持ちはどうだったんでしょうか。
 
大河内:  そうですね。なんというんですかね、清輝が亡くなった時に、やはり自分にとっては、「何故だ」という、そういう気持が一番大きいというのか、「何故? 何故? なんでお前は」という気持しかなかったんですね。だから、この中で言っている彼の苦しさ、というのを、亡くなったということのほうよりか、何故居なくなったんだ、という思いのほうが強くて、正直言ってピンとこないところってあったんですね。ただほんとに、頭の中に意識を留めるんじゃなくて、頭の中サ―ッともう通り過ぎていったという、そんな感じだったんですね。
 
重松:  そこまで酷いいじめだった、というのは、これは遺書をご覧になるまでは、
 
大河内:  わからなかったですね。だからほんとにいろんなことがあるもんで、「大丈夫か!」って。「お父さんも一緒に学校へ行こうか」だとか、「なんかあったら言いなよ」ということは、常に言ってきたんですけども、それは自分の表情にも、言葉の中にも、一言も言わなかったですね。逆にいえば、この遺書を見て、「あ、こんなに耐えていたんだ」というのが、頭の中に実感として湧いてこないんですが、ほんとにもう「あ、そうなんだ」というのがパッと通り過ぎていった、といいますかね。
 
重松:  いじめのお子さんの「いじめのサインを見逃すな」とか、「SOSを見逃すな」と言われるんですけども、でも、じゃ現実に、何がサインで、何がSOSなのか。例えば、僕には娘がもしSOSを出していたとしても、一体どういうものがSOSなのか。それすらわからないんです。
 
大河内:  そうですね。ほんとにもう結果でしかないんですけど、ほんとに振り返ってみると、「やっぱりこうだったなあ」というのはある。ただそれがどんな場合でも当て嵌まるわけじゃないですし、ただほんとに「残念だなあ」と思うのは、これまだわからないところがあるんですが、「もう少しほんとに話してくれれば良かったのになぁ」という。それはほんとにありますね。だから、伝え方って、いろいろあるんだろうけど、たまたま八月に「自転車を盗んだ」ということで―後で聞くと、「盗らされた」ということみたいですけども―その相手の家へお詫びに彼と二人で行ったんですけども、車で帰ってくる時に後ろを見たらフッとなんかいろいろ考え事をしているんですよね。その中で、「お父さん、こうやって行っているんだけど、別に全然迷惑に思う必要ないし、それから大人が、お父さんお母さんに迷惑をかける、というのは、それはみんな子どもの時って当たり前だし、いっくらどんな大きな迷惑をかけたって、お金だって気にする必要ないし、これでもうお詫びもしたし、そんなことを考えなくていいよ」という話をしたんですけど、そういうところ一つとっても、もっとなんか違うことを言ってやれば良かったのかな、と思ったりしてね、ずっと思い続けているんですけどね。
 
重松:  それまで「何故打ち明けなかったんだろう?」と、今お考えになりますか。
 
大河内:  私が思っているのは、多分、彼自身「自分でなんとかしよう」という気持があったと思うんですよね。その中で、「自分だって多分なんとかできる」。そういう気持でずっといたと思うんですよ。おそらくそれは考えると、自分にかえってみても、だんだん大きくなっていた過程の中で、「いろいろなことがあっても自分で処理しなくちゃいけない。自分でなんとかしなくちゃいけない」という気持というのは、みんな持っている気持かな、という気がしますし、多分彼自身も、こうなっちゃったんだけど、自分で、という気持がずっとあったと思うんですよね。だからお金にしても、こうやって渡しちゃっているんだけども、それはいつか返すよ、という。「自分で」という気持の中で、やっぱり言えなかったのかな、という気がしていますね、それは。
 

 
ナレーター:  祥晴さんが三十五歳の時、大河内家の次男となる清輝さんが生まれました。「清輝」と名付けたのは祥晴さんです。自分が尊敬する人物にあやかりました。大きな病気をすることもなく、すくすくと育った清輝さん。中学校の入学式では、新入生百八十人の総代を務めます。祥晴さんにとって、清輝さんは自慢の息子でした。しかし、この頃すぐにいじめを受けていました。常に上位だった成績も二年になると下がります。一方、父親の祥晴さんは働き盛り。仕事に追われて、話をする時間は限られていました。その年の十一月、勤続二十五年の休暇を取った祥晴さんは、思い切って清輝さんに学校を休ませ、海外旅行に誘います。それが親子での最後の思い出となりました。帰国から三週間後、清輝さんは、「お父さん、オーストラリア旅行ありがとう」と遺書に残し、裏庭の柿の木にロープを掛けて命を絶ちます。その日は日曜日。祥晴さんは近くの畑で農作業に追われていました。
 

 
重松:  後から思うんですけど、清輝が亡くなる時に、ちょうど父が梨をやっておりまして、その梨をちょうど切ったのを燃やす時だったんですね。だから、十二時、お昼のご飯を食べて、出て行く時に、「お父さん、何時に帰って来るの?」って、彼が言ったんですよ。たしか「五時には帰ってくるよ」という話をしたんですが、多分彼が、死のうと決めたのは、五時頃だった、と思うんですよね。おそらくこの裏の柿の木なんですが、裏に道があって、多分彼は、私がそこを通って帰って来るのをわかっていたもんですから、多分「お父さん、見て!」と、そういう気持もあったんじゃないかな、という気がするんですけども、「助けてほしい」という気持はあった、と思うんですよね。ほんとに今でもそうですが、「助けてやれなかった」という思いの中で、じゃ、清輝が絶対帰ってこない中で、「自分で何かできるか」と言ったら、自分に対して清輝の苦しさを同じように経験する、といいますかね、それしか「清輝、赦してくれないだろうな」という。わかってやれなかっただけに、その苦しみを自分がどのくらいわかってやれるのか。自分のものにできるのか。それでないと、清輝に会った時に、何も言えないな、という。そういう気持だったですかね。
 

 
ナレーター:  清輝さんの苦しみとはどんなものだったのか。祥晴さんは覚悟を決めます。いじめをした四人の同級生を自宅に招き入れ、話を聞き出したのです。
 

 
重松:  十一年前の清輝君が亡くなった直後、いじめた同級生たちを家にお呼びになって、いじめの話を聞いたりされていますけども、その時点で、あの彼らのことをどんなふうに親として思っていらっしゃいましたか?
 
大河内:  やっぱり「赦せない」という気持よりも、自分の気持にあるのは、まず「自分たちが何をやったか≠ニいうのを全部話してくれ」ということで頭いっぱいだったですね。だから「何やったのか≠ニいうのを、まず聞かしてくれ」ということだったですね。だからほんとに毎週毎週彼らに、「いつ、どこで、何があって」ということを書いてもらって、それを毎週毎週持って来てもらった。それがずっと続いたんですね。だから、私にとっては、彼らがそうやって書いてくれることによって、「自分のやったこと」を彼ら自身が自覚をしてくれなければ赦せないし、清輝は亡くなったんだけども、やったことに対して、「そういうことを他の子にしてしまうこともいけないことだよ」ということがわかっていないんじゃないか、というのが、まあ最初あったですね。まずそれをわからせる。わからせなければ、自分が何を彼らに言っても、彼らはわからないんだろう、という。そういう気持だったですね。
 
重松:  それはお父さんが、毎週「とにかくやったことを書いてくれ」とおっしゃって、それによって、彼らはわかった感じでしょうか、それともわかっていないでしょうか。
 
大河内:  ええ。その当時はやっぱり「自分がやったことが原因で清輝が亡くなった」ということを、自分自身が自覚するのに、かなりそれ以後に時間がかかったんじゃないかな、という気がしますけどね。
 

ナレーター:  祥晴さんは、いじめをした同級生たちと時間を掛けて粘り強く付き合いました。やがて彼らは自分の意志で大河内家を訪れるようになりました。あれから十一年経った今も、命日には必ず清輝さんの遺影に手を合わせています。
 

 
重松:  もし万が一、自分の娘が、同級生のいじめに遭って、死を選んだとしたら―僕はこれ想像しかできないので、本当に申し訳ないんですけども―ずっと赦さない、と思うんです、相手を。で、一生憎み続けるだろうし、命日に手を合わせようが、何しようが、ほんとにまさに命を奪ってやりたいとさえ思うかも知れません。お父さんのお気持ちの中には、そういう「怒り・憎しみ・怨み」というものはほんとにないんですか?
 
大河内:  そういうのはないですね。ただ一つ言いたいのは、「清輝の代わりにしっかり生きてくれよ」という、そういう気持だけですね。ほんとに清輝は亡くなったんだけど、「清輝の分まで一生懸命やってよ。そうじゃないと赦さないぞ」という気持はありますね。「清輝の命の重さを自分のものとして、ほんとにどういう形かわからないんですが、しっかり生きていってくれないと、ほんとに清輝が浮かばれないな」という、いつもそういう気持ですね。
 
重松:  十一年前にやったことはもう赦したんですか?
 
大河内:  いや、それは言えないですね。「赦した」なんてとても言えないですけども。どういう形になるかわからないですけど、「ほんとに清輝の命というものをしっかり受け止めて、自分がやった行為というのを―それをどうだ、という気持は勿論あるんですけれども―そうやって命がなくなるまで悩み悩みしながら、しかもずっと長い期間ですよね。その苦しさというのを真剣に受け止めてほしいし、受け止めるためには―でも清輝帰ってこないですからね―だからその分だけ自分たちが清輝のことを思って生きて欲しいし、自分の子どもに対しても、同じような苦しさをさせないように、そういうものであってほしい。そうじゃないと赦せない」というのはありますね。「赦せる」って多分ないでしょうね。それではじめて赦してやれる、という、そういう気持ですね。
 

 
ナレーター:  いつまでも癒えることのない深い悲しみ。しかし、息子を亡くしたあの日を境に、父親としての新たな役目が加わりました。清輝さんと同じようにいじめに苦しむ子供たちとの交流です。きっかけは事件の直後に相次いだ中学生の自殺でした。隣町の愛知県岡崎市と福島県で、二人の少年が清輝さんの後を追うように亡くなったのです。これ以上悲劇を繰り返さないために、祥晴さんは全国の子供たちへメッセージを発表します。
 
 






























 

清輝と同じように人に言えない苦しみをもっている子供たちへ

                       清輝のお父さんより

 今、私は清輝がなぜあんなに苦しみ悩み、つらくてしかたがないのに、一人で心の中に閉じ込めてしまったのかをずっと考えています。
 今、清輝の悲しい出来事で、学校の生徒をはじめいろんな所でいろんな事をしようとしています。しかしこれは君たちのつらさを本当にわかっているのだろうか、助けてやれるのだろうかと悩んでいます。それは君たちの本当の気持ちをわかってやっているのだろうかとの疑問からです。
 清輝が何を思っていたのか……
僕にも弱いところがあった。だからそれを言うのは恥ずかしい。お父さんお母さんに言っても本当に助けて、守ってくれるだろうか。言ったらクラスの子や先生はどう思うだろうか……。
 そんな事をいろいろと私は考えています。
 今、私はできれば清輝についていきたい。
 清輝もやっと背が大きくなってきたなあ、これならお父さんをすぐ追いこしてくれるなあ……
 この彼がいなくなった悲しみは、君たちならわかってくれるとおもいます。
 今、清輝のことが国中で話題にされ、大きな事をしたと慰めてくれる人もいますが、私は彼が何もしないでも、何もできなくても、ここに一緒にいてくれる方がよっぽどうれしい。まだいろんな事をしたい。おばあちゃん長生きしてください。おじいちゃんありがとうといいのこすなら、なぜ、こんなことをしたのか。誰も心の中では良い事をしたとは思っていないよと、叱ってやりたい。 
 このくやしい、悲しい気持ちをわかってもらえるだろうか。君たちがぼくも清輝君のようになにかをのこして皆にわかってもらおうと思ったら、それはとんでもない間違いです。つらさにじっと耐えている君たちならわかってくれると思いますが、同じ苦しみ、いやもっと大きいつらさをお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、兄弟、友達に残すことになるんです。君たちはもっと大きくなれるんです。
 この苦しみをなんとか乗り越えて欲しいという願いで一杯です。今こうして書いている間も清輝の本当の気持ちが、わかってやれるだろうかと思っています。
 おじさんのこの苦しさを少しでも助けてやろうという気持ちがあれば手紙で今の気持ちを、なぜ人に言えないのかを教えてください。      
                
                         大河内 祥晴 

 
祥晴さんは、自宅の住所を公開して手紙を募りました。その反響は予想を超えるものでした。日本全国から千通以上の手紙が届いたのです。
 

 
大河内:  子供たちと、それからいじめられている子供たち、それからいじめを経験した人たち、それからそれ意外に清輝の死を悲しんで私たちを励ましてくださるといいますか、そういう手紙がずっと、
重松:  ぎっしりなんですけど、この二つだけじゃない?
 
大河内:  これが「あ」行。これ以外にもずっとあって、二十ぐらいあるんですがね。
重松:  二十箱ぐらいありますか。兵庫県、神奈川県、長野県、福島県、全国から。
 
大河内:  ほんとにこれを見ていて、「亡くなった子の悲しさ」って、あるんですけども、「ああ、同じように苦しんでいる子たち、苦しんでいた子たちがキズを負いながら、こんなにたくさんいるんだ」というのが、自分にとってはほんとに、「あ、清輝だけじゃなかったんだ」という、そういう驚きだとか、ビックリする言葉を通り越したものがあったですね。
 
重松:  お父さんのこの呼び掛けのメッセージが、僕はすごいな、とほんとに思ったのは、「君たち」って、「君たちの気持を教えてほしい」とかね、「君たちは死んではいけない」という。その「君たち」って呼び掛けられる、って嬉しいと思うんですよ、すごく。特にいじめに遭って苦しんでいる子供たちって、先生にも親にも言えない。ほんとに一人ぼっちでずっと苦しみを背負っているじゃないですか。そういう時に、「君たちの言葉を聞かせて欲しい」って、言ってくれる大人がいる。いるんだ、というふうに信ずるだけで嬉しいと思うんです。だからこんな一千通以上も集まったというのは、それだけ「君たち」とか、「君」というふうに呼び掛けてほしかった。いじめで苦しんでいる子供たちがこれだけいたんだな、という証拠でもあるかも知れない。
 
大河内:  そうですね。「死にたい」と書いている子がいっぱいいるんですよね。だからほんとにただそこの中で思うんだけども、やっぱり彼らは、「死にたくない」という気持というのはずっとあって、ある子は清輝の事件を知って、「やっぱり自分は生きなくちゃいけない」と思う。こう言ってくれる子もいますし、多分これは「助けてほしい」という気持の裏返しだ、と思うんですけども。こういう清輝の事件後、いろんな人が「死んじゃいけないよ。死ぬことはいけないことだよ」という。そういうことを報道でも言っていますし、いろんな方が言っているんですけれども、やっぱりその子たちにとっては―ある女の子が書いているんですけども、「私だって死にたくて死ぬんじゃない。死にたくて死ぬんじゃない」って、それを十数回も手紙で書いてくれた子もいるんです。みんな死にたくて死ぬんじゃないんですよね。やっぱり自分で納得しなくちゃ、という気持があるのかも知れないですけども、それでも「死んじゃいけない。自分も死にたくないんだよ。そんなことはわかっているんだよ。わかっているんだけど、その苦しさわかってよ。誰に言ったらいいの?」という、「助けてよ!」という気持というのがほんとに伝わってくる。だから、それを思うと、ほんとに私たちはもっとほんとに考えてやらなくちゃいけない、と思いますね。
 
重松:  今でもその手紙のやり取りや、或いはお目にかかったり、というような方はいらっしゃるんですか。
 
大河内:  こういう手紙をくれる子と、それから家に訪ねてくれる子ってたくさんいて、ほんとに思い出すといろいろあるんですけども、山口から来た子もいて、その子は中学一年生だったのかな、お父さんお母さんに内緒で黙ってきたみたいで、それで大騒ぎになって、「言ってきたの?」と言ったら、「言ってこない」という話で、こういうところなものだから、山口やなんか遠くから来る子は泊まっていく。だからその時はそういう子が来た、という話じゃなくて、「清輝の代わり」と言ったら怒られちゃいますけども、なんか清輝に近い子が来てくれている、という、そういう感じでどっかの子が来ているという。付き合っていた家族の一人が来てくれた、というような感じで、一緒にご飯食べて、一緒にテレビを見て、こんな話をして、時には一緒に犬を連れながら散歩をしたり、それからどっかへ遊びに行ったり、ということがずっとあったですね。
 
重松:  その時には、いじめのある、悩みを打ち明けたり、というような話もされるんですか。
 
大河内:  それはないですね。
 
重松:  かえってしないものなんですか?
 
大河内:  私は、その子たちが勿論来る時にはこういう格好で、だから彼らも来て、全然知らないという話じゃなくて、私も僕もいじめられている、という話をするんですけれども、こちらからは、「じゃ、どんなことがあったの?」なんて話を聞かないですし、彼ら自身が自分の口で、自分の言葉で話してくれるのを待っている。だから私は、清輝の子たちを付き合わせてもらって、それは一緒にいじめということではなくて、いろいろな話ができればいい。「じゃ、来たから教えてくれる?」ということではなくて、そこの中で、自然に話してくれる。
 
重松:  心配をするわけじゃない?
 
大河内:  そうそう。自分の気持が、そのほうがこちらも気楽に聞けるというんですかね、そこの中で「清輝も同じだったんだなあ」と。
 
重松:  「清輝君と同じだったんだな」と思うことが多かったですか?
 
大河内:  多いですね。それはほんとにそういう人たちとの、そういう話だとか、一緒に何かする中で、そういうだんだん少しずつ清輝に近づいているのかなあって、そういう気持はあったですね。
 

 
ナレーター: 
     教室に入れないようにされたり、
     とじこめられたり、服をぬがされそうになったり。
     イヤになって高校を中退しました。
     今は家の中に閉じこもっています。
            愛知県 男性
 
     死にたかったです。
     死ねば楽になると思ったんです。
     いじめた奴らは、
     おおぜいに囲まれた時のこわさを知らないんです。
     抵抗もできないで、
     おおぜいの人間に思い通りにさせられる。
     これほどいやなことはありません。
     いじめがおさまってきた今も、
     はっきりと覚えています。
     体調が悪いときなんかは、
     思い出したくもないのに思い出してしまって、
     泣いてしまいます。
            北海道 女子中学生
 

 
重松:  手紙のやり取りをこう続けている子もいるんですか?今でも。
 
大河内:  そうですね。でも時々間が空いたりなんかありますけれども、かなりいますね。
 
重松:  どんな子供たち?―大人になっているかも知れませんけども。
 
大河内:  そうですね。「どんな子供たち?」って。もう結婚して赤ちゃんもいますし、けっこうみんな元気にやっていますけどね、なんとか。それでもほんとに「いじめって残酷だな」と思うんですけど。そういう子たちでも、そうやって元気でやっていても、やっぱり自分が辛かった時に、自分の意志じゃないんだろうけど、引き戻されてしまうというんですかね。だからほんとに思うのは、いじめというのは、小学校、中学校、高校の時だけじゃなくて、大きくなっても折に触れて、それを乗り越えなくちゃいけない心の大きな障害というんですかね。学校で今でも闘っている子がたくさんいるな、と思いますよね。
 
重松:  大人になっても中学時代にいじめを受けた心のキズ、やっぱり残っている?
 
大河内:  大きいみたいですね。だからほんとにこの子たちもそうですし、時々女房と話をするんですけども、これを見ていると、「清輝―生きていてほしいんですけども―生きていても、こうやって苦しんでいたかも知れないね。みんなと同じように苦しんでいたかも知れないね」ということを、時々話をする時があるんですけどね。ほんとにこういう子たちの苦しみというのは、清輝の苦しみであるだろうし、ほんとに清輝―居ないだけども―そういう他人事というふうには思えない、というんですかね。
 
 
ナレーター:  清輝さんが亡くなった翌年から、祥晴さんは講演活動を続けています。依頼があれば、会社を休んででも出向き、その数は五十回を越えました。講演は当初、息子を亡くした父親としての体験談が中心でした。しかし、十年以上経った今、いじめに苦しむ全国の子どもたちと向き合ってきた思いを強く語るようになっています。
 

 
(講演会場から)
 
大河内:  みんなにいじめって何だろう? 心のキズって大変なもんだよ、ということをしっかり此処で考えてほしいな、というふううに思います。今、心的外傷ストレスだとか、心のキズについて、いろいろ取り上げられて、心のキズについて、みんなが考えるようになっていますけれども、いじめによっても、心のキズというのはすごく大変なことだ、と思っています。心のキズというのは、少し考えればわかるように、外から見えないものですよね。見えないから、周りからそのキズを大きくしていることがあっても気が付かない。キズを受けている本人自身も、大きくなっているのがなかなか自覚しにくい。そういうところがあると思うんです。でも、そのキズというのは、切ったキズのようになかなか治せません。外から見てわからないだけに、後から「しまったなあ」「こんなことをいわなければ良かった」「こんなことをしなければ良かった」。そう思っても取り返しがつかなくなってしまいます。
 

 
ナレーター:  息子の清輝さんが打ち明けてくれなかったいじめの苦しみ。そして全国の子供たちが教えてくれたいじめの残酷さ。それを伝えていく活動は続きます。
 

 
重松:  お父さんは、それこそほんとに清輝君はお父さんに相談せずに死を選びました。じゃ、「誰かわかってよ」「聞いてよ」って、子供たちが思った時に、誰がいいんでしょうか?
 
大河内:  少し難しいですね。だからほんとは私が呼び掛けたメッセージもそうですけども、「遺書を公開する」ってあんまり頭になかったんですけれども、ほんとにそういう相談する、できる人は、私は自分の思いかも知れないですけども、「お父さんお母さんに相談して欲しい」のであってね。それはほんとに自分が言って貰えなかっただけに一番強くあるんですよね。
 
重松:  僕も親として、自分の娘たちがほんとにいじめや死にたくなった時に真っ先に自分に来てほしいんですよ。来てほしいし、迎えたい、答えたい。いつも答える準備はしているんだけど、その一方で親だからこそ相談できない、という気持もわかるんですね。
 
大河内:  そうですね。
 
重松:  だからほんとに子どもと親との関係の距離の取り方って、勿論正解なんてないでしょうし、でも正解がない中で、清輝君の死から十一年過ぎて、今のお父さんだったら、もっとうまくできた、という気持はありますか。
 
大河内:  私が思うのは、勿論いじめに対する知識もそうですけども、私が今一番思っているのは、ほんとに一番いいのは―もう時代がかなり変わってしまっていますけど―ほんとに「自分の子ども時代、どういう気持でいたのか」というのを一時ほんとに思い出したいな、と一生懸命考えたんですけど、なかなか思い出せないんです。そこの中で―多分これは不可能でできないことを言っているんですけども―子ども時代の自分が戻れて、親と子というよりも、同じ子どもとして、声を掛けられたらいいのかな、という、それ気持としてあるんですけどね。それはやっぱりできないだろうし、ただそこの中で思うのは、一番最近心掛けている、というのか思うのは、やっぱり「親でも大人でも弱い部分っていっぱいある」わけじゃないですか。「弱い部分」という言い方―誤解されたらいかんですけれども―「ダメな部分っていっぱいある」わけですよね。「そういうところを子どもにもっと見せていいんじゃないかなあ」。
 
重松:  格好悪いとことかね。
 
大河内:  そうですよね。そんなのけっこうある。そういうと、「子どもに嘗められているんだ」とか言いますけど、そうじゃなくって、今の親の弱い部分をもっともっと子どもに見せることによって、「ああ、こんなことを言っていいんだなあ」「そんなに変わらないんじゃないか」という、そういうところが伝わればいいのかな、と思っているんですけどね。
 

ナレーター:  去年十一月、清輝さんの十二回忌。命日には今でも多くの人が訪れます。清輝さんの同級生は今二十五歳。ほとんどが社会人。中には学校の先生になった人もいれば、結婚して家庭を持ち、親になった人もいます。そしてまた手紙のやり取りを通じて知り合いになった人たちもやって来ます。清輝さんの死をきっかけに出会った子供たち一人一人の成長を見守る父親として、祥晴さんは歳月を重ねています。
 

 
重松:  一九九四年の清輝君の死から、十一年が過ぎて十二年目に入りました。その当時四十八歳だった。
 
大河内:  そうですね。
 
重松:  お父さんももう六十近くになられて、定年退職の日もそう遠くないですね。
 
大河内:  ええ。
 
重松:  定年後はどんなことを考えて?
 
大河内:  今までさっきあった手紙もそうですけれども、やっぱり勤めの中で、「じゃ、ああいう子たちとほんといつもにこういう話ができるか」と言ったら、やっぱりできないところがあるんですよね。で、手紙を貰っても、ほんとにしっかり返事ができない子がいますし、だから自分としてはやはりそういう子たちに対して、ほんとにもっと近づいてあげられる時間がほしかった、というのがずっと自分の気持の中にあります。そういう意味で、定年後というのはやはりそういう時間に使いたい。今まで子供たちからいろいろ教えて貰ったことから、清輝が亡くなった後の自分の気持というんですかね、家族含めたそういう気持。清輝の周りにいた同級生たち、清輝の中学校の後輩の子供たち、そういう気持をもっと近い立場で、もっとそういうことを伝える時間がほしい、というのをずっと思っていたもんですから、「じゃ、何がいいのかなあ」という。まあ十一年経っているもんですから、どっちかといえば、清輝の時間もだんだん忘れ去られていって、「こんなことがあったの」っていう人もいますし、今の東部中学校の先生をを見ても、やはり「知らなかった」という先生も見えるわけですよね。だからそこの中でもう一度それを伝えていきたい。
 
重松:  これはまさに今二○○六年の中学生の親の僕の実感として、ほんとにいじめがなくなってもいないし、減ってもいないし、また清輝君の時代にはなかった携帯電話とかインターネットというものが、どんどんどんどん子供たちが見えなくなってきている。知ろうと思っても、親が知れない部分がどんどん広がっていて、それがすごく不安なんですね。家の娘は今いじめに遭ったりはしていないと信じていますけれども、それが「運良く」というふうに発想してしまうところが、自分でも情けないんだけれども、それが本音になっている。だからそういう時代なので、清輝君はずっと九四年の中学二年生のままなんだけども、今の二○○六年の中学生にとっても、すごくリアルな、大事な問題をずっと僕たちに投げかけてくれている、と思うんです。
 
大河内:  「清輝の思い」というのは、多分清輝も今ずっと持ち続けていると思いますし、その清輝の思いを、それからいろんな子供たちの思い、というのは伝えていかなくちゃいけないのかなあと思っているんですよ。だから十一年経って、ほんとにいじめがなくならない中で、やっぱりそういう思いというのは、私は他のお父さんお母さんに持ってほしいな、という気がしますし、あの当時、ある方は、「ヌードが載っているような週刊誌に、清輝のことを話してほしくない」という学校関係者の方も見えたんですけれども、私の願いは違うところで、ほんとにそういう週刊誌を見ながらでも、「ああ、自分の子どもはどうなんだろうなあ」というふうに、そういうふうに思ってほしい、という気持がずっとあるわけですよ。子供たちには、そうやっていじめられていても、決して弱くないし、決してダメな子じゃないんだよ。決してそうじゃないんだよ、ということをほんとにもう一度訴えていきたいな、と思うんですよね。
 
重松:  最後の質問ですけど、いつかほんとに三十年、四十年後だと思うんですけど、お父さんがもし亡くなって天国で清輝君に会ったら、何を言いたいですか?
 
大河内:  そうですね。ほんとに「ごめんな」というしかないでしょうかね。「でもお父さん、こういうことをいろいろやってきて、清輝の代わりに、いろんな子供たちとの出会いを作ってくれて、その子供たちに、何ができた、ということではないですけど、一つは清輝がそうしてくれたから、お父さん、これまで何とかやってこれた」と。そういう感謝と、後は、「その子たちに、多分何ができた、と言えないかも知れないですけど、その子たち、元気でやっているよ」。そういう報告ができればいいな、と思っておりますね。
 
     これは、平成十八年一月二十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである