東南アジアの仏教者 ーボランティア活動の輪の中からー
 
                          曹洞宗国際ボランティア会専務理事  有 馬  実 成(ありま じつじょう)
                           き   き   て               金 光  寿 郎
 
金光:  今日は「東南アジアの仏教者」というテーマで長年東南アジアでのボランティア活動を続けておいでになります「曹洞宗国際ボランティア会」の専務理事、有馬実成さんにいろいろお話をお伺い致します。どうぞよろしくお願い致します。
 
有馬:  こちらこそ。
 
金光:  早速ですが、有馬さんがボランティア活動に関心をお持ちになったのは何時頃からでございますか。
 
有馬:  そうでございますね。二つありまして、一つは戦争中に朝鮮半島からの強制連行で軍事工場なんかに連行されていた人達がたくさんいますが、その方たちが戦時中に、空襲で亡くなったりしたんですね。私の寺にも空襲でなくなった人達の遺骨が沢山ありまして、そういった問題の中から、国を奪われた人、或いは人権を損なわれた人達の問題というのに興味を持つ、関心を持つということが一つありました。もう一つは、私がお寺へ帰って住職をするようになったのが、昭和三十三年なんですが、丁度、高度成長が始まろうとしている時期でございますね。色んな地域社会の形態がどんどん目に見えて変化していく。そんな中で、若い人達が豊かさというものを感じ始めるという時期、ところがその一方で労働の価値というものが、だんだん見えなくなっていく時期でございましたですね。いわゆる従来、日本の社会に中心で動いていた農業であるとか、漁業であるとか、そういう第一次産業というものが、力を失っていく。そうしてその豊かさに向かって、日本中が走り始めていく。そんな中で孤独感とか、疎外感とかいうものを、若い人達がやはり色んな場面で訴え始めて来る。そんな時期でした。そんな中で日本人自身の、自分達自身のアイデンティティーがどこにあるだろうと、そんなことを考えながら、文化ボランティアみたいなことをですね、田舎でやっていた時期がございますんですよ。
 
金光:  そういう活動があるところで、現在、専務理事をなさっています「曹洞宗国際ボランティア会」の活動が始まったわけですか。
 
有馬:  そういうわけでございますね。
 
金光:  それはまたどういうことから。
 
有馬:  これは丁度、一九七九年でございますけれども、インドシナ、カンボジア、ラオス、ベトナムというような国々から、戦争が終わった後、大勢の人達が難民となって、海外へ逃げ出していくということがございましたね。そんな時期にカンボジアから陸路国境を越えて、地雷原を越えて、タイへ命からがら逃げて来る難民達が六十万とも、七十万とも言われる人達が出てくる。まさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵巻のような、そんな状況があそこのタイの国境沿いに展開されました。そんな中で難民キャンプにおける救援活動ということがきっかけになりまして、「曹洞宗国際ボランティア会」というものが、活動を開始する。それから足掛けもう十七年になりますかね、ずうっといま続いているわけです。ただ難民問題は、最近は東南アジアにおいては一応終息しまして、むしろ今度は難民達が帰っていったそれぞれの国での開発をどう進めていくかというような分野に今、比重が移っておりますね。
 
金光:  曹洞宗という日本の仏教教団の名前が付いている国際ボランティア会ということで活躍なさっているわけですが、東南アジアという国はもともと上座部の仏教が非常に盛んなところですが、やっぱりそういう活動をなさっていらっしゃいますと、向こうの仏教者との関係というのも、自然にお出来になるわけですか。
 
有馬:  そうですね。そして我々が関心をもっているような問題というのは、やはり東南アジアのお坊さん達、仏教界の人達で同じようなテーマを考えている人達がやっぱり大勢いまして、そこで自然に接点が出来て来る。難民キャンプでもそうでしたし、それから村の開発分野の中においても、そういう人達と常に一緒に仲間となっていくという場面が多かったし、また、むしろ助けられたんですね。
 
金光:  そうですか。そういう方の中では、やっぱりこういう方がいる。こういう方がいる。やっぱり優れた方が随分お出でになるわけでございましょうね。
 
有馬:  そうですね。そういう出会いから多くのことを学びながら、私ども、今日まで育    ててもらったという感じでございましょうか。
 
金光:  援助として上げるじゃなくて、むしろ育ててもらったという感じですか。
 
有馬:  そうですね。例えば、難民キャンプの中で最初に出合ったお坊さん、マハ・コーサナンダというカンボジアのお坊さんがいまして、同じ同胞の難民支援の為に精力的な活動をやっていた方ですね。この方はインドに行っている時に、この政変が起こって難民問題が発生する。急遽、タイへ帰って来て、難民救援を始めたという大変優れたお坊さんなんですけれども、この方、ちょっと片言の日本語が出来るんですね。そして片言の日本語で「まさかの友が真の友」こう言うんですよ。「本当の友達というのは、まさかの時の一大事の時に本当に友情を捧げてくれる友人が、本当の友人なんだ」と。で「私は今、日本とのそういう繋がりの中で、今、此処にいる」と言いましたね。大変堪えましたけれども。
 
金光:  それでそういう上座部の仏教というと寺院中心でですね、あんまり社会的な活動は盛んでないというふうに聞いていたんですけれども、今のような活動を伺っていると、全くそういうお話とは違っているところがあるわけですね。
 
有馬:  我々は大変な誤解があると思いますね。宗教というのは、本来大衆と共にあるものですし、そうして時代の苦悩と共に宗教というものはあるもんだと思います。そして上座部のお坊さん達もそういう動き方の中で生きている。むしろ日本のお坊さんの方がそういう問題意識を持っているのだろうか、とこう自分に問い掛けられているような気がしましてね。
 
金光:  日本は大乗仏教で、東南アジアは、言葉は悪いですが、小乗だと。個人の悟り中心だみたいな話を学校で教わっていたような気がするんですが、現実はどうも、じゃ違うようですね。
 
有馬:  そうですね。とんでもない誤解だと思いますね。
 
金光:  そういう中で色んな仏教者とお出会いになっていらっしゃると思いますが、じゃ、具体的な活動のケースなんかをもう少しお話を伺いながら話を進めたいと思いますけれども。そういう社会的な活動の中でめぼしい方、先ずどういう方をお選びになりますか。
 
有馬:  これはやはり上座部の仏教圏の中で、なんとしても最初に挙げなければいけないのはスリランカ、昔のセイロンですね。そのスリランカで非常に意欲的な活動をしていらっしゃるA・T・アリアラトネ(農村指導者:スリランカ)という方がいらっしゃいますが、このアリアラトネさんがやっているサルボダヤの運動というのは、これはもう世界全体の中で見ても、非常に特筆すべき活動だろうと思います。
 
金光:  アリアラトネさんが日本にいらっしゃった時に、NHKで放送したことがありまして、そのテープを用意しておりますので、じゃそれを見て頂いて、また、話を進めたいと思いますが、今から四年前の「現代ジャーナル」という番組の一部でございます。
 

 
アリアラトネ:  サルボダヤの意味することは、全ての人々が目覚めるようにということです。人類全員が一つの家族となるように、国の違い、宗教、言語、政治の違い、体制を越えてサルボウダヤというのは全ての人々の覚醒ということです。ウダヤというのは目が醒める。朝なら目が醒めて起きなさいということです。先ず自らの感性、知識、そして知慧を覚醒させ、本当の現実に目覚めるということ。瞬間瞬間幸せに感じる為には、何をしなければならないのかを知ることです。
 
上田紀行(東京工業大学助教授): サルボダヤの村に行って、みんなこう村の人達に話を聞きますと、サルボダヤで目覚めた後には、何かこう自分の力を使えばこの村を変えていけるんじゃないかとか、今までは何にも出来ないと思って、非常に無力感を感じていた人が何か出来るんじゃないかというように目が開いたというようなことをよく聞かされるんですが、そういうことが目覚めだというふうに考えてもいいんですか。
 
アリアラトネ:  全くおっしゃる通りです。いま現在、この瞬間、我々がテレビで目にしていることは世界の何処でも同じ画面を見ることが出来るわけですよね。同じように考えるエネルギーということ、我々の考えていることが他に伝わるスピードというのは光の進む速度よりも早いはずです。日本であろうと、世界のどこの地にいようと、ある人が何かを考えます。そうしますと、人類全体が幸せになるかも知れない。ですから、自分が目覚めることが世界全体の目覚めに繋がる。普通の村の人々がやっていること、考えていることがそれに繋がっていると私は思うわけです。
 
上田:  そこの部分だけを伺うと、今度はサルボダヤはこれは宗教ではないかというふうに沢山の方から言われると思うんですが、サルボダヤは宗教活動ではなくて、農村開発運動であるわけですね。その二つの関わりはどういうふうになっているんでしょう。
 
アリアラトネ:  サルボダヤというのは何の例外もなしに機能した方がいいと私は思っています。サルボダヤはサルボダヤなんです。サルボダヤのやろうとしていることは、一人一人に対し、精神的な喜びをもたらそうということです。より幸せになって欲しいと。その意味では宗教に近いものかも知れませんが、そういうレッテルを貼って欲しくないと思います。それから二番目にサルボダヤというのは、いわば道徳的な力なのかも知れません。というのは我々は非暴力を強く信仰している。そして公平無私ということを信奉(しんぽう)しているわけです。我々はいわゆる倫理的な力、道徳的な力を持つが故に、我が国の場合、例えば再軍備を望むような人々にとってわれわれは脅威になるわけです。我々はもっと単純な生活、例えば化学物質を使わない農業をやろうとか、或いは医薬品についても、人為的な化学物質の使われない医薬品をということを提唱しておりますので、これは政治運動だと言いたがる人もいるかも知れません。しかしながら権力や政党政治とは全く関係がないという意味で、我々は政治運動ではないと思います。人々の暮らしをよくしようとしているという意味では、社会運動だと言えるかも知れません。サルボダヤは善とされるものは全て包含するものだと思っております。
 

 
金光:  アリアラトネさんは一九三一年、スリランカ南部の中流階級の家庭に生まれました。中等教員養成学校卒業後、生物の教師としてコロンボの名門校、ナーランダ高校に勤務します。一九五八年の夏休みに生徒達を連れて、ある貧しい村でワークキャンプを実施しました。そこはスリランカの厳しい身分制度のもとで、最下層に属する村でしたが、彼らは二週間に亘って、村人に井戸を掘ったり、トイレを作ったりしました。それがサルボダヤの始まりでした。サルボダヤとはサンスクリット語の全ての人の目覚めを意味している言葉です。即ち、サルボダヤは一人一人の村人に自分の持っている力に気付かせることによって、行動を起こし、貧しさからの解放を目指す草の根の開発運動です。その村にある資源を使い、労働を分かち合って、スリランカの風土に根ざした農業を再生しようとするこの村おこし運動は、民俗や宗教の違いを越えて広私どもの展覧会―がりました。スリランカの二万三千の村の中、八千六百の村が何らかの形でサルボダヤの運動を受け入れています。サルボダヤ運動はある村落がサルボダヤの活動員を招いて、活動計画を立てるところから始まります。サルボダヤ運動員は一回目の会合から村の人を意志決定に参加させ、それがどんなに小さな活動であろうと地域のニーズを満たす為、何らかの行動を取ることを村人に求めます。道路作り、井戸の清掃、トイレの設置など、なすべきことがはっきりすると、ワークキャンプの計画に入ります。先ず、青年や母親の集団が出来、子供、農民、老人などの集団が順次作られます。それぞれの集団が栽培をするとか、家々を廻って調査を行うとか、テーマを決め、行動を開始します。これが「シュラマダーナ」、「労働の分かち合い」と呼ばれ、サルボダヤ行動の基本になっております。これには誰もが参加することが出来ます。地域の努力が根付いたところで、更にそれを発展させる為に、技術援助、図書館サービス、法律に関する手助けなどがサルボダヤ運動ネットワークから提供されます。一方では村の若者が近くのサルボダヤ協会で訓練を受け、出身地に帰って、リーダーになります。こうして村落の中の集団が上手く機能するようになると、少額づつ貯蓄を始め、色々な事業を興して村の自立を進めていきます。
 

 
アリアラトネ:  いま現在開発というのは、GNPの数字で計られます。しかしながら、GNPだけでは人間一人一人、或いは家族がどのように影響を受けているのか、本当のところは分からない筈です。アジアの多くの国々では貧困が益々広がっている状況です。ですから、何かおかしなことが起こっている筈です。サルボダヤは大々的な開発の哲学が必要であると思っています。もっともっと生産だけを増やすのではなく、我々はもっともっと人々のニーズを満たして行かなければならない。マハトマ・ガンディーはこの点をはっきり言っています。世界の全ての資源を集めたとしても、人間の貪欲(どんよく)さ、強欲(ごうよく)さを満たすだけの資源はない。しかしながら人々のニーズ、人類の全ての人々のニーズを満たすだけの十分な資源は地球上にある筈だということです。Greed、強欲さだけを満たすならば環境破壊にも繋がる生産性の向上だけが言われてしまう。そして気候の変動も起こってしまう。さまざまな悪い結果をもたらすわけです。しかしながら、一方で、もし単純な暮らし、質素な暮らしをして必要なニーズだけを満たすということだけならば、環境も保存されますし、社会の法、秩序も守られますし、もっと先進的に豊かな暮らしが出来るようになると思います。
 

 
金光:  今のアリアラトネさんのお話を伺っておりますと、現代文明が持っている、何というか、一方的なといいますか、盲目的な資源の破壊とか、そういうのとははっきり違った観点からの開発が目標として掲げられているようですね。
 
有馬:  そうですね。で今、地球上の開発問題を考える中で、持続可能な開発とか、或いは地球環境に優しい技術の開発とか、いろんなことが言われて、開発そのものの見直しが言われている。しかしそれをいち早く、一九五八年にアリアラトネさんは同じ様な問題意識の中から、そういうことを既に先見的にそういう運動を作っている。これはやはり非常に驚くべきことだというふうに思いますね。
 
金光:  しかもサルボダヤという名前が「万人の目覚め」と、「心の目覚め」、「自覚」であると。それをその名前、ネーミングに使っていらっしゃるというところがまた非常に目の付け所が違うという気がしますですね。
 
有馬:  結局、その目覚めというのは自分一人一人の人間の心の目覚めと同時に、彼が言うのは村を豊かにしようと思えば、村も目覚めなければいけない。もっと言えば国家も目覚めなければいけない。地球全体が目覚めなければいけない。そういう万人の目覚めと彼は呼ぶわけですね。ですから、その目覚めと言うのは、単なる精神的な世界の問題ではなくって、ある意味では社会運動になったり、地域そのものを変えていくような運動だと。この捉え方が私はやっぱり凄いと思うんですね。
 
金光:  そうですね。しかもそこで人間の心の問題になってくると、欲望をですね、それは貪欲と、必要と言いますか、この区別をはっきりなさっているところが、これは非常に貴重な目の付け所だと思いますね。
 
有馬:  だから、必要性というのはニーズと言いますけれども、Greed、つまり貪欲ですね。貪欲とニーズというのは、全く違うものなんだ。ところが我々は同じ言葉として、実はそれを使っているわけですね。不用意に。やはりここに東洋の持っているアジアの知慧とでも言うべき一つの価値観というものがあるんだろうと。我々はそれをちょっと見失ってしまっているんですね。
 
金光:  しかもそれが個人的な実験段階ということではなくて、先程の番組の中で、これは四年前ですけれども、八千六百のそういう集落が、ちゃんと村が取り入れてやっていると。八千六百という数は大変な数でございますね。
 
有馬:  そうですね。常に大衆と、その問題を一部の指導者から、上から下へというトップダウンでその問題を下ろしていくんではなくて、村人と一緒に問題を考えながら、新しい世界を、新しい価値観をもう一遍見直していこうという運動を、下から作り上げているということの成果だと思いますね。
 
金光:  成る程。やっぱりこれを何というか、二十年も続いているという、そういう活動というのは、やっぱり東南アジア全体に影響を与えているということでございましょうか。
 
有馬:  ええ。と私は考えますね。今、東南アジアのいろんな地域にそういう動きをしている精神的指導者というものが沢山いろんなところに出て来ていまして、これは仏教界だけではなくて、インドネシア辺りのイスラム圏にも、そういう運動が出ておりますですね。それから特に上座部の仏教圏の中では、そういう人達を開発僧(かいはつそう)と一般に呼んでいますね。村の開発、心の開発の問題を考えて、宗教と社会運動とを一つに連動した形で開発を考えようという、そういうお坊さん達を開発僧と呼んでおります。
 
金光:  そうですか。国際ボランティア会が活動なさっているメーンのところとして、最初はタイ、現在はカンボジアに随分力を入れていらっしゃるようですが、カンボジアでも、やっぱりそういう方はお出ででございましょうか。
 
有馬:  そうでござますですね。先程、ご紹介しましたマハ・コーサナンダというお坊さん、それから若いお坊さんの中に、ニエム・キム・テンと方がいらっしゃいますが、この方なんかもその中の一人でしょう。でこのニエム・キム・テンさんというのは、ベトナムに領土が突き出たような形になっているカンボジア東南部地域ですね、カンボジアのスバイリエンというところで、「オームの嘴(くちばし)」というふうに昔呼ばれていた地域なんですが、今ここで頑張っている和尚さんがいますね。
 
金光:  そうですか。このニエム・キム・テンさんの活動もNHKの「ETV特集(カンボジア・自立への提言)」という番組で放送したことがありますので、先ずそれを見て頂きましょう。この先頭に立っている方がニエム・キム・テン和尚さんですね。やっぱり現在でも朝の托鉢はずっとこう毎日行われているわけですか。
 
有馬:  そうですね。上座仏教ではお坊さん達は朝の決まった行事でして、こうして家々を托鉢して歩きながら、そうすると村人達はそれを待ち受けていまして、食事の供養をそれぞれのお坊さんの鉄鉢(てっぱつ)の中に供養して差し上げる。そうしてその托鉢に供養することが出来るということが上座部の東南アジアの人達の最大の喜びなんですね。
 
金光:  じゃ、もう生活の一つの中心と言いますか、そういうことをすることが人間としての生き方の大事な柱になっているわけですね。
 
有馬:  そうでございますね。難民キャンプ時代にですね、難民キャンプの中にお坊さん達が大勢難民として入っておりました。難民のお坊さん達は、お坊さんですから食料の配給がないわけですね。そうすると托鉢によってその日の糧を得ている。そうすると難民自身が非常に貧しい生活をしているのにその中から一部を割いてそのお坊さんに供養するわけですね。托鉢をする。そうすると、大変だろうと思って、私どもお寺にお米を寄付しようとしたことがあるんです。そうしたら難民達から怒られました。つまり私達はお坊さんに托鉢するをすることによって、自分が人間であることの証(あかし)を持っているんだと。だから人間であることの証なんですね。つまり自分の善意を人に、仏さんに施すことが出来るというのが喜びだ。それを奪わないでくれと言われたことがございます。
 
金光:  そうすると、托鉢の時の、日本で言うと、ある檀家の家だけということではなくて、ずっと集落を廻るわけですね。それで托鉢が終わって、これはニエム・キム・テン和尚さんのお寺だと思いますね。
 
有馬:  そうですね。朝の食事が終わりました後、今度はお寺の中に、小僧さん達が沢山おりますね。その小僧さん達に対して、今度は仏教の勉強を教えているわけです。
 
金光:  結構、小僧さんいらっしゃいますね。
 
有馬:  今、カンボジアの最大の悩みはですね。ポル・ポト政権時代に大勢のお坊さん達、特に学僧ですね。学問をしたお坊さん達がみんな殺されてしまった為に、仏教の基本的な考え方というものが分からなくなっているんですね。それからもう一つ、カンボジアのみならず、東南アジア、みんなそうなんですが、村の中心になって、この地の中心を担っているのが、お寺の和尚さんと、それから学校の先生と、それから村長さんですね。ところがポル・ポト以来のお坊さんも殺され、先生も殺されしたもんですから、村の開発のリーダーになる人達がもう根こそぎいなくなって。ですから、こういうお坊さんを養成して、そしてそのお坊さん達を村へ送り返して、そして村の開発のリーダーになって欲しいと。そういう願いを持って、ニエム・キム・テンさん、一生懸命仏教の学問、基礎学問を教えている。
金光:  成る程。これは村の人達が働いているところへ、ニエム・キム・テンさんが出掛けて、これは植林をなさっているところですね。
 
有馬:  そうですね。このスバイリエンの地域というのは、さっきの画面の中にも出ていましたように、豊かな森林資源が沢山あった地域なんですね。ところがベトナム戦争当時から、繰り返し起こった戦乱で、非常に激しい戦場になったんですね。その中で緑が失われ、それから貧しさを克服するために、無理な開発をやった為に、森林資源が無くなってしまったんですね。ですから、緑をもう一度ここに回復しよう。森というのは、言うなれば「食糧を貯える生きた冷蔵庫だ」というのがニエム・キム・テンさんの言葉ですね。
 
金光:  それじゃ、ニエム・キム・テン和尚さんが指導をなさっているわけですね。
 
有馬:  そうなんです。
 
金光:  じゃ、お寺では教えることもやらなければいけないし、村の人達に植林の指導もしなければいけない。これは大変ですね。やっぱり開発僧と言われる方は、そういうふうにいろんな活動をなさっているわけですか。
 
有馬:  そうですね。そして学校建設、教育が村には一番大事だというんで、学校建設も意欲的にやっていますね。
 
金光:  じゃ、そういうのは昔の上座部のきちんと坐ったお寺で修行するお坊さんとは、随分違うんですね。
 
有馬:  随分違いますね。
 
金光:  活動の巾が違って来ているわけでございますね。
 
有馬:  だから、東南アジアの仏教、上座部の仏教のことを、一般には小乗仏教なんてな変な偏見をもって呼んでいますけれども、これはとんでもない問題で、むしろ村人と共に大きな乗り物に、和尚さんとそれから村人もみんなが乗って行こうよという活動でございましょうか。
 
金光:  「曹洞宗国際ボランティア会」のカンボジアでの活動というと、そういう開発僧の方々との関係はどういう形で活動、援助なさっているんでしょうか。
 
有馬:  いろんな形であるんですけれども、村に入る場合には、先程申し上げましたように、村の精神的なリーダー、或いは村の開発の方向を引っ張っていく人は、お坊さんであったり、学校の先生であったりするわけですが、そういう人達と一緒に仕事を考えながら、この村をどういう方向にもっていきたいと思っているのか、そして、それを一緒に、じゃ考えて行きましょうよということで、いろんな現場で仕事を組み立てていくわけですね。
 
金光:  それで、これまでにいろんなことをお手伝いなさっていると思いますが。
 
有馬:  ええ。私達が特にカンボジアで一番力を入れていますのは教育の分野ですね。学校教育の推進。その為には学校を作るということも必要でしょう。それから学校で教えていく為の教材、教科書の印刷とかいうようなことが必要だということから、それからもう一つ、ポル・ポト時代に貴重なカンボジアの文献、図書というものが、みんな焼かれたんですね。ですから兎に角、出版文化というものを、もう一度、カンボジアに取り戻さなくてはいけないというようなことで印刷所を作りまして、そこでいろんな教材開発をする、或いは学校建設をする。そしてそういったもので、具体的に子供達と共に学ぶ場を作っていこうというふうなことをやっているんですね。
 
金光:  そうすると、文化活動を非常に巾広くなさって、そして子供達の絵本みたいなものもお作りになっていらっしゃるわけですか。
 
有馬:  そうですね。ここにあるのが、我々の印刷所で作った絵本のほんの四、五冊を今日持って来たんですが。
 
金光:  そうですか。じゃ、中をそれじゃ拝見させて頂きますと。
 
有馬:  その絵本は『ワニと御者』という絵本ですね。カンボジアの民話を文字にして、絵本を作ったものです。
 
金光:  成る程。それで片方がカンボジア語で、こういう形で。
 
有馬:  そうです。ところがこう出来上がってしまえば非常に簡単な稚拙な絵本だというふうに言えるかも知れませんが、これは大変なことでございまして、この絵本というのがカンボジアで、そうですね、二十数年ぶりに作られた絵本なんですよ。ひょっとすると、三十年ぶりの絵本かも知れません。
 
金光:  そうですか。
 
有馬:  で、絵本作家はみんな例外なく殺されましたから。
 
金光:  そうですか。
 
有馬:  そうすると、我々はこの絵本を作る時に、先ず絵本作家を養成するところから始めましてね。たまたま、町を歩いておりましたら、映画の看板を描いている人がいまして、これが絵が描けるというので、その人に絵本というのはこういうものだと、こういう意味があるんだと。ところがその方は絵本というのは生まれてこの方、見たことがない。でその絵本の意味を理解すると、じゃ、僕が描いてみようというので描き始めたのが、これなんですね。
 
金光:  そうですか。そういうところから、スタートしているわけですか。
 
有馬:  ですから、先ず作家を作るところ、それから絵本のライター、今度は文章を書く人から作っていかなければいけない。大変なんですね。
 
金光:  大変ですね。そうすると、相当いろんなものが絵本を生まれて初めて見るのですと、貴重な昔からの文化財もかなりもう焼けて無くなったりということが多いわけですね。
 
有馬:  そうですね。特にいろんな考古学的な文化財の破損、破壊というのもありますし、それからいろんな精神文化の中での破壊、それからまたそういう精神文化を伝承している大事なものとして、いろんな出版があるわけですが、その出版物も本当に焼かれてしまってですね。で私が一番驚いたのは、カンボジアに国立図書館というのがございますが、そこへ最初に参りましたのが、一九九二年だったと思いますが、行ってみたら本が一冊もないんですね。でどうなっていたんだとこう聞いたら、そこの本は全部焼き捨てられて、そしてポル・ポト時代は豚小屋になっていたと言うんですね。
 
金光:  へえ。
 
有馬:  そこで豚を飼っていたというんですよ。
 
金光:  ほう。
 
有馬:  そんなところから、いま国作りが始まってですね。ですから大変な状況ですね。当然、そのカンボジアは仏教国ですが、仏教経典も焼かれてしまっている。ですから、我々の印刷所ではいろんな仏教の経典を見つけて来ては、それを複刻印刷するということを、この十数年、ずっと繰り返してやって来たわけですね。
 
金光:  「曹洞宗国際ボランティア会」の人達が。
 
有馬:  そうです。
 
金光:  そうですか。現物を一つ持って来て頂いているんですが、これがその一冊ですけれども。これは何語ですか。
 
有馬:  クメール語。クメール語で書かれた仏教経典です。でいろんな我々が手がけてきた仏教の解説書とか、或いは教義の本とか、パーリ語のテキストだとか、色んな本を作ってきたんですが、基本経典になるものがトリピタカと言われるもので、いわゆる経、律、論という三つの三蔵を納めた経典がトリピタカと言うんですね。
金光:  そうしたら、三蔵と言ったら、結構たくさんありますね。
 
有馬:  ええ。全巻百十巻。
 
金光:  百十巻ですか。
 
有馬:  でこれはちょっと大部なものですから、そのいわゆる簡単な印刷ではいけないというので、これは日本で出版を致しました。
 
金光:  そうですか。写真か、何か。
 
有馬:  ええ。向こうにですね。一セットだけ奇跡的に損失を免れて、保存されていたものがあったんですね。それを日本へ持って帰りまして、一頁毎に写真を撮りまして、そしてそれをフィルムにして、写真製版して作ったんです。
 
金光:  そうですか。成る程。
 
有馬:  青森の印刷屋さんにやってもらったんですが、大変苦労して、先ず文字が全部クメール文字、数字もクメール数字ですから、クメール数字を頁を読みのにですね、クメール数字を覚えるところから始めたという。
 
金光:  ああ、そうですか。やっぱり相当みなさんのお力添えがあって出来たことでしょうね。
 
有馬:  そうでございますね。教育の方に熱心な活動をしていらっしゃいます無着(むちゃく)成(せい)恭(きょう)先生という方がいらっしゃいますが、無着先生が中心になりまして、全国のいろんな方々のご協力を仰いで、百十巻が、千セット以上のものが出来て、既にカンボジアへ全部送って、贈呈式をお寺に致しました。丁度今写っているのがそうでございますね。
 
金光:  この前、この番組で長野の藤本幸邦(こうほう)先生の話を伺った時に、学校を、何校かお建てになる。その式典の様子なんかもご紹介したんですけれども、学校なんかも、かなりお建てになっているそうですね。
 
有馬:  何校作りましたでしょうか。ちょっと数字を覚えていませんが、四、五十校にはなっている筈です。
 
金光:  そんなになっている。そうですか。そうすると、そういうところから、先ず人間教育というところから、カンボジアの再建を指導する。そのお手伝いをしようということになるわけですか。
 
有馬:  そうですね。先程申し上げたように学校とお寺というのが、言うなれば村の地域社会、コミュニティのへそになる部分ですね。ですからお寺を作るか、或いは学校が出来れば村の開発がそこから始まるんですね。
 
金光:  成る程。それでだんだんと両者が出来上がって、村も再建されつつあると。そういう現状ということでございますね。
 
有馬:  されつつあると言うよりも、そのような努力をしつつあるということですね。なかなか前途は多難でございます。
 
金光:  そうですね。戦乱二十年というと大変でしょうから。でカンボジアのお隣のタイ。仏教国と言うと、先ずタイということですが、タイの場合はどういうことでございましょう。
 
有馬:  タイも実は同じ様な上座部の仏教のお坊さんの中で、開発僧と呼ばれる人達が非常に沢山出て来ておりますね。特にタイの東北部、イサーンと呼んでおりますが、このタイの東北部というのは、貧困の代名詞になるぐらいに。
 
金光:  バンコックなんかは、非常に栄えているけれども、その対照的に貧困の、
 
有馬:  貧しいところでございますね。スリンとかブリラムとかいう地域なんかも、大変貧しいところですね。雨が降らないんですね。そのために、もう慢性的に干ばつがやって来るという、そういうところなんです。そんなところで頑張っている人達、例えばプラチャックさんというお坊さんがいますが、この和尚さんなんかは、環境問題に取り組んでいるお坊さんですね。貧しいもんですから、田圃を沢山作って、田圃を広げること、耕作面積を広げることによって、収穫量を増やそうとしますね。そうすると、木を切ります。そうすると、自然が奪われていくというようなことになります。
 
金光:  木を切ると、雨が、
 
有馬:  今度は降雨量が減りますね。悪循環になってくるわけです。それから一方、今度はお金になる木を植えようと言うんで、換金作物としての木を植えよう。そうすると、今ある自然を切ってですね。そこにお金になる木を。例えばユーカリなんかという非常に成長の早い木を植えて、そしてそれを日本のパルプ材に輸出して、お金を作っていこうと。こういう動きがあるわけですね。
 
金光:  ユーカリなんかは、割に他の木にあんまりいい影響を与えないとか。
 
有馬:  そうですね。特に成長が早いもんですから、成長が早いということは土地の養分を収奪(しゅうだつ)する量が多いんですね。その為に、農地が、いわゆる地力が奪われていくということがありますね。それを防ぐ為にですね、プラチャック和尚さんは、木の一本一本にですね、得度させまして、それで衣を着せるんですよ。
 
金光:  ほう。
 
有馬:  木がお袈裟着ているわけですね。そうすると、森林伐採業者なんかは、ちょっと切れないですね。体を張って抵抗していると。そういう坊さんがいます。それからまた、ナーン和尚という和尚さんがいます。このナーン和尚さんというのも、これもまた非常に面白い和尚さんで、この方が今坐っておりますけれども、非常にいい仕事をしていらっしゃいますね。そして先程のアリアラトネさんと同じような考え方で、このイサーンという地域は非常に貧しい村だけれども、本当に貧しいということはどういうことなのかと。我々が貧しいというのは貪欲の中で、貧しくなっているのと違うんだろうかということを、村人と一緒に考える。これはナーン和尚を中心にして村人が一緒になって止観、坐禅ですね。そして瞑想しながら、そして自分の心のありようとか、或いは自分の欲望というものがどんな形で我々の中で動いているんだろうかということを一緒に考える。そしてその我々は苦しいと言っているけれども、本当の苦しみというのは一体何なのか。その苦の実体を見ることから始めようと。そして苦の実体が見えて来たら、苦の原因の一つ一つを取り除いていこう。そして文字通り仏教が教えの基本になります四聖諦(ししょうたい)。苦集滅道(くじゅうめつどう)。その四聖諦を村の生活の中で実践しながら、村の豊かさを取り戻そうと、こういう運動でございますね。
 
金光:  そうすると、止観と、静かに自分の心を見るという、そういう修行と同時に活動的な面でも開発に繋がる。どういうふうにすればいいんだろうかということを考えているわけですね。
 
有馬:  ですから、心の幸せだけしかもたらさない宗教は本当の宗教とは言えない。心の幸せをもたらす宗教は必ず村の社会の幸せをもたらす宗教にならなければいけない。そしてそうなるように、宗教者という者は努力しなければいけない。だからナーン和尚は村の衆には借りがあるということを常に言うんですね。お坊さんというのは托鉢によって、村人によって支えられて生きている。しかしお坊さんであるわしが本当に村の豊かさをもたらす為のお返しをどれだけしているであろうかと。そうすると、いつまで経っても返せない借金を背負いながら、仏教者というのは生きているんだと言うんですね。
 
金光:  それで具体的にはそういう自分は村の人に借金しているという。それは事実として、そういうふうにお考えになっていらっしゃるんでしょうが、タイの東北地区というようなことですと、それこそ、非常に貧困ということは、
 
有馬:  それと飢えですね。
 
金光:  やっぱり借金が増えて、農民の方も借金が多いというような現実があるわけでしょう。
 
有馬:  そうですね。ですから借金のない生活をしようやと。そしてその為には先ず我々はいわゆる売る為の農業ではなくて、生きる為の農業をやろうと。
 
金光:  そうですか。売って金を返したらいいじゃないかという発想ではないわけですね。
 
有馬:  ないですね。そうじゃなくて、先ず農業というのは人間が如何に生きるかという、生きる為の農業なんだと。それをいわゆる換金作物も作って売る為の商業としての農業をやっていたところに間違いがあるんじゃないだろうかと。そういうところから先ず始めて、そして具体的な実践として、お寺の中にお米の銀行を作るんですね。
 
金光:  これは又、何でお米の銀行を作るんですか。
 
有馬:  つまり何年に一遍か、定期的に干ばつがやって来ます。飢えがやって来ます。そして飢えがやって来た時に、高利貸しから借金をするわけですね。それが累積して、大変な負担になっている。ですから、飢えが起こらないように、そのお米が出来た時に、一握りづつ、或いは二握りづつ、そのお寺の銀行に預金をする。
 
金光:  現物を。お米を。
 
有馬:  現物を。はい。そしてそれをお寺が保管しておいて、飢饉がやって来た時に、それを村人達に貸していく。しかしお米が穫れたならば、少し利息を付けて、また返すんですよと。
 
金光:  お米を少し沢山返すと、それが利子をつけて返すことになるわけですね。
 
有馬:  そうですね。
 
金光:  ああ、成る程。
 
有馬:  そんなことをやりながら、兎に角、飢えというものが起こらなくなりました。
 
金光:  それをやっている中に、干ばつが来てもそれがあるから。
 
有馬:  はい。そういう備蓄をやる。ライスバンクのようなものがですね、一粒のナーン和尚の提唱によって、ずうっと周辺の村に広がっていきましたね。非常に面白い動きになっていますね。それから総合的な農業、家畜の飼育とか、魚の飼育とか、或いはそういうものを全部農業、村の中に組織的に関連させながらですね、どんな時でも飢えないように。
 
金光:  そうしますと、一番最初に紹介したサルボダヤのアリアラトネさんの場合も、村の人達それぞれの地域の特性を生かしながら、みんなにどうすればいいかという、一緒に考えて行動するというようなことをなさっていましたけれども、今のナーン和尚の場合も、それぞれの地域の村の人達に、この地域ではこういうふうにすればいいんではないかとか、そういう上から、あなたこうしなさいじゃないわけですね。
 
有馬:  そうですね。ですからそこがやはりサルボダヤから始まって来るアジアに於ける開発と、それから今までのヨーロッパを中心に、北側先進国が考えていた開発とは、決定的に違うところですね。だから私はそれを区別する為に、敢えて開発僧(かいはつそう)という言い方を致しましたけれども、私はそれを開発(かいほつ)と言いたいんですね。
 
金光:  仏教読みにしますと、発(はつ)という字は「ほつ」と読みますから。
 
有馬:  で開発(かいはつ)と言った時には、他動詞ですから、外からの力によって村を変えていく。或いは自然を変えていく。環境を変えていくという考え方。ところが開(かい)発(はつ)と言った時には自動詞ですから、発露(ほつろ)という言葉もありますように、中からこう弾(はじ)けて出てくる。そうすると、下から開発をしていく。だから村人の一人一人の心が目覚めることによって、その目覚めと共に、村を一緒に目覚めさせていく、変えていく。そういう開発(かいほつ)の動きというのが、やはりアジア的な知慧なんだろうというふうに思います。
 
金光:  開発(かいほつ)と、発心(ほっしん)と言ったり、発露(ほつろ)と言ったり、要するに人間の内部、心の内からこう発してくる開発(かいほつ)だと、外からこうすればいいんじゃないか、じゃやりましょうと言うんじゃなくて、ほんとに自覚的な行動として、新しい一歩を踏み出せることになるわけですね。
 
有馬:  当然その中には、自分の心の目覚めというものが、同時に起こっていないと、それは出てきませんね。ですから、サルボダヤでいうアリアラトネさんの「万人の目覚め」というのが、そこで非常に意味をもってくる。そうするとその根底になっているものとして、やはり伝統的な文化であるとか、価値観であるとか、伝統的な宗教であるとかというものがやはり根っ子になっているものとして、非常に重要な意味を持ってくるというふうに思いますね。
 
金光:  そういうところを根っ子に持っているから、分かち合いと言いますか、シュラマダーナ、先程の「労働の分かち合い」ですね。そういう分かち合うという、しかもそれは物だけではなくて、知識とか、技術とか、いろんなものを分かち合うという、そういうところへ自然に繋がっていくことが出来るわけですね。
 
有馬:  と思いますね。私は特にこれから地球は二十一世紀を間もなく迎えますが、いろんな意味で深刻な問題に我々はいま既に直面していますね。その中の一つの問題として、環境の問題があります。環境の問題というのは、環境を守ろうとか、地球に優しくなんていうのは、大変無礼千万な話でございましてね。地球の環境を守るんだったら、人間がいなくなれば地球の環境は良くなるんですね。ところが我々はいつの間にか地球を我々は開発するという考え方で、ものを考える。そうすると、地球と共に生きる、地球の中で生かさせて頂いているという視点で、ものを考える。そうなっていった時には、先程のアリアラトネさんが言うGNPでものを考えるんではなくて、その自然の中で人間が自然の恵みを頂いて生きていく。だから Greed ではなくて、ニーズだ。ニーズを我々は大事にしながら、という考え方。ここで私は今日的な意味が、或いは未来を地球の上に置いて、もっと大きな意味をもってくるんだろうというふうに思いますですね。
 
金光:  むしろニーズというか、必要なものを人間が頂かせて頂くと言いますか、そういうことに取るんじゃなくて、頂くんだという姿勢になってくるだけでも、随分違って来ますでしょうね。
 
有馬:  やはりそこももう少し一遍、我々日本人は北側の先進国に所属していながら、同時にアジアの人達と同じ知慧を持っているわけですね。そうすると、そういう日本が持っている知慧を北側先進国の中でもう一遍捉え直していくという努力、これは日本の責任においてしなければいけないだろうというふうに思うんですが。
 
金光:  アリアラトネさんが、今紹介したところにも、ガンディーさんの言葉でましたけれども、確かあの時の話の中で、自然に対しても人間は非暴力でなければいかんというようなことをおっしゃっていましたけれども、そういう分かち合いとか、或いは非暴力とか、そういうものがボランティアの活動なんかも、結局その辺のところを自然に繋がるということになるわけでしょうね。
 
有馬:  だと思いますね。ですからボランティアの仕事、これは国内でも海外でも同じなんですけれども、やはりやればやるほど、人間が謙虚にならざるを得ないですね。
 
金光:  何かボランティアというと、持っているものを、してあげるというふうについ考え勝ちですけれども、長い間実践なさっていらっしゃいますと、そういう何とかしてあげようという姿勢だけではなかなか通じないようですね。
 
有馬:  と思いますし、それは力にならないですよね。
 
金光:  ああ、そうですか。
 
有馬:  やはり一緒に考えていく。そして一緒にものを作っていく、仕事を作っていくという、まさにシュラマダーナですね。その力の分かち合い、労働の分かち合いみたいなものの中で作り上げていったものは、決して潰(つぶ)れることはないですね。例えば、学校建設に致しましても、お金が出来たから学校を作って上げようと、ポンと落下傘で物を下ろしにいくみたいに学校を作っていくやりかたではなくって、村人と一緒にこの学校を作る。学校を作る前に、何故我々のこの村には学校が無かったんだろうか。学校を必要としなかった私達というのは、一体何なんだろう。じゃ、学校が必要だというけれども、学校で一体学ぶということは何を学ぶんだろうか。そうして学ぶということは人間にとってどんな意味があるんだろうかということを、一緒になって考えていく。村人と一緒に労働を分かち合いながら、作っていった学校というのは、我々がいなくなっても、絶対その村人が学校を守って行きますね。
 
金光:  成る程。いろんな新しい機材をポンとあげると、日本人がいなくなると錆びついて使われなくなるとか、昔、ちょいちょい聞いたことがあるんですが、現在どうか知りませんが。
 
有馬:  よくある話ですよ。
 
金光:  そういうことではなくて、先程のサルボダヤの活動の場合でも、村の人達と一緒に企画して、実際行動を一緒にするという、それが非常に大事な基本にあるようですけれども、ボランティアの場合も、その地区の人達と一緒になって考える。同じ方向に歩いて行くという、これが大事なわけですね。
 
有馬:  今もう、世界中がそういう開発の方向に気が付き始めましたね。で、内的開発、内発的開発という言い方を致しますけれども、これはもうアリアラトネさんから言わせるならば、「何を今頃そんなこと言っているんだ」と。
 
金光:  先程、お話を伺っていますと、お釈迦さんが人間が何故苦しんでいるのか、苦しみの原因、苦しみの原因は何だろうか。その原因を無くすにはどうすればいいだろうかというふうに、二千五百年前にお考えになって、しかもその方法を教えて下さっている。それを現代に応用してやっていらっしゃるのが、開発僧(かいほつそう)だということになるわけですね。
 
有馬:  ですから、これからまさに単なる仏教者の東南アジアの地域におけるお坊さん達の特殊な活動だというふうに捉えるのではなくて、これからの二十一世紀における地球と人間と、或いは村と、或いは農村と都市とが、どういうふうにこれから動いていくかということを考える上でも開発僧(かいほつそう)の動き、東南アジアの仏教者達の動きというのは、非常に注目する必要があると思いますね。
 
金光:  しかも先程、ちょっとおっしゃいましたけれども、イスラム圏のインドネシアでも、そういう動き、開発の動きというのは、関心を持たれているということですから、そういう地域の村落なら村落の地域での具体的なそういう生き生きした活動というものは、何宗という、宗教に関係ないというか、基本的なところでは、宗教的なものがあるかも知りませんけれども、宗教の違いが問題になるような次元での行動ではないということになるわけですね。
 
有馬:  そう思いますね。宗教を超えていると思います。
 
金光:  そういう意味でますます二十一世紀にとっては、そういう活動というのは、大事なものだということが言えるようでございますね。
 
有馬:  兎に角、我々は「驚き」とか、「感動」とかというものが、我々の心の中から疎遠になっていきましたね。
 
金光:  豊かになればなるほど、何となく感度が鈍くなるところがあるようですが。
 
有馬:  ですから開発僧の人達が考えている基本にあるなるものは、先ず生きることへの感動。まして自然に対する謙虚さ。そしてその驚きの発見。そんなところを原点にしながら、そこからスタートしようやというところじゃないでしょうか。
 
金光:  「曹洞宗国際ボランティア会」のお坊さん、現地でそういう方達と接触なさっている方なんかも、そういう方に直接いろいろ会って話を聞いていらっしゃる。かなり影響を受けられますでしょうね。
 
有馬:  そうですね。例えば、絵本をちょっといま紹介しましたけれども、この絵本の中でも、やはりその考え方はやっぱり生きているんですね。やはり子供達が、先ず教育を知識として覚えていくことよりも、教育の、例えばこの一冊の小さな絵本ですが、この絵本と出会う中で、先ず感動を覚えますね。それから新しい未知の世界を発見します。それから驚きを感じます。でそういう原体験みたいなものを、一度幼児期に体験している子供は、その人間の精神生活の成長の中で、大きな意味を持つと思いますね。
 
金光:  それはそうでしょうね。
 
有馬:  ところが今、我々、日本はどうでしょう。日本の子供達に親がほんとにそういうことを伝えているのか。
 
金光:  何でも好きなものがいっぱいあって。
 
有馬:  子供がそういう驚きを原体験として持っているのか。
 
金光:  そうですね。
 
有馬:  ですから開発僧が問題提起していることは、いま日本のこういう子供達の教育の問題にも、実は繋がっている問題です。
 
金光:  だから、一番基本的なところの現状をどう認識するか。そういうところからスタートしている東南アジアの仏教者の活動というのは、我々、日本人も大いに学ばなければいけないことだというふうにいま伺いました。どうもありがとうございました。
 
有馬:  いえ、いえ。
 
 
     これは、平成八年八月二十五日に、NHKの教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。