六根清浄(ろっこんしょうじょう) ー播隆上人(ばんりゅうしょうにん)の足あとー
 
                    
                           山岳写真家   穂 苅  貞 雄(ほかり さだお)
                     き  き  て    白 鳥  元 雄
 
ナレーター: 長野県松本市、JR松本駅前の木立の中に、一人の僧のブロンズ像が立っています。僧の名は播隆(ばんりゅう)上人(しょうにん)(一七八六ー一八四0)。今から凡そ百六十年前、日本アルプスの高峰、槍ケ岳(3180m)に登頂し、山頂への道を開いた人として、日本の登山史に名を残す人です。播隆上人は危険な道に鎖を掛け、一里塚に石仏を置いて、人々の安全をはかりました。よく晴れた日には松本市内からも槍ケ岳の山頂を望むことが出来ます。北アルプス第二の高峰として、日本のマッタンホルンとも呼ばれています。今日、お訪ねする穂苅貞雄さんはお父さんの跡を継いで、槍ケ岳に二つの山荘を経営し、また山岳写真家としても活躍する傍ら、この播隆上人の研究を続けてこられました。穂苅さんは大正十年の生まれ、今は山荘経営のお仕事を息子さんの手に委ねて、愛する山々や、故郷の自然を写真に撮り続けています。今日は播隆上人のお話をお伺いしたいとお願いしてありましたので、松本市内のご自宅に沢山の資料を用意して、待っていて下さいました。
 

 
白鳥:  床の間のこの像も播隆さんですね。
 
穂苅:  そうです。これは松本駅前にありますね。播隆像のこれが一番最初のもの、これをもうちょっと大きく作りまして、それでああいう大きいものに、三段階で作ったんですね。
 
白鳥:  駅前の像を見ましても、顔が良いでしょう。
 
穂苅:  そうですね。
 
白鳥:  穂苅さんは槍ケ岳山荘の経営者、そして又美しく厳しい山を撮影される山岳写真家としても有名ですけれども、もう一つの顔はこの播隆上人の研究家なんですね。
 
穂苅:  お恥ずかしいようなことをやっておりますけれども。
 
白鳥:  もう随分なりますね。
 
穂苅:  そうですね。二十九年から、親父の跡を継いで山小屋をやるようになったんですが。
 
白鳥:  昭和二十九年。
 
穂苅:  はい。その頃から、親父が播隆を調べておりまして。ところが丁度、身体がちょっと弱くなりまして、遠くへ行けないので、その親父が調べているところを、「あそこへ行け」、「此処へ行け」ということで、親父の使いで播隆の取材を続けたわけです。
 
白鳥:  初めはお父さんのお使いで。
 
穂苅:  そうなんです。まだ三十ちょっと出た頃で、若い頃でしたからね。私がどうして坊さんのことを調べなければいけないと、そんな反発も覚えたこともごさいますけれども、いろいろ各地へ行っている中に、この坊さんは只者(ただもの)ではないということで、だんだん播隆さんの魅力に惹かれまして、終いには周りから播隆病と言われるくらいになったわけなんです。
白鳥:  播隆病ですか。
 
穂苅:  それが今日まで続いているわけでございます。
 
白鳥:  数えると、四十年越えていますですね。
 
穂苅:  そうですね。いろいろと、今以て、播隆の資料が出て来るんです。大変ありがたいことです。
 
白鳥:  これは四十年間に集められた資料なんですね。
 
穂苅:  そうです。当時はコピー機がございませんので、みんな写真を撮ったわけなんですね。
 
白鳥:  専門の写真機の良い物があるから。
 
穂苅:  とんでもございません。未熟で、失敗も多くて、「もう一回写真を撮りに行け」なんかと、親父に言われまして、何回も行ったところもございます。
 
白鳥:  古文書の類もですね。これだけビシッと決まった写真で、複写してある。凄いことですね。これはお写真を含めて、またいろいろと伺って行きましょう。でその播隆上人という方ですね。この方はどういう方ですか。
 
穂苅:  生まれはですね、今の富山県大山町(おおやままち)の河内(かわち)という大変山深いところで生まれたんですね。
 
白鳥:  これがその越中(えっちゅう)の河内村。
 
穂苅:  当時の河内村ですね。今もう廃村になりまして、誰も住んでおりません。
 
白鳥:  そうですか。山深いところですね。
 
穂苅:  そうです。当時でも戸数がたった九軒。
 
白鳥:  そういう時代でも、たった九軒だったという。
 
穂苅:  一番多い時でも、十四軒だと聞いておりますがね。
 
白鳥:  しかし、こう深い山、そこに川が流れ、里があるという典型的な日本の山里ですね。
 
穂苅:  そうですね。三十年後半から、村を離れる人が多くなりましてね。四十年代には誰も居なくなってしまったんです。小さい九軒くらいの村でございますから、お寺が持てないんですね。お寺が無いんです。ですから、道場と言いまして、昔の簡易の寺(寺院)、お寺の役目を果たす道場。一向宗の道場でしたね。播隆が生まれた頃はこの道場が廃止されていたわけなんです。
 
白鳥:  いわば、お寺とは言えないけれども、みんなの寄り集まるところ。
 
穂苅:  そうですね。やはり村の人が時たま集まって念仏を唱えるとか、そういうお寺の代行をしたような信心深い家でしたね。
 
白鳥:  そうすると、ご生家、そのものは可成りそう意味ではこの一向宗としては知行でいらっしゃる。そういう中から、出家をすると。
 
穂苅:  はい。子供の頃の出家の動機とか、そういうことはよく分かっておりません。
 
白鳥:  そうですか。
 
穂苅:  農村の次男坊で、ある本によれば、十九歳の頃出家したと言われておりますが、正確なことは分かっておりません。
白鳥:  今、ある本とおっしゃいましたが、これは伝記があるんですか。
 
穂苅:  これは播隆さんの弟子が一応書いて、出版間際に、濃尾(のうび)大地震(一八九一年)で無くなってしまったんです。
 
白鳥:  これはまた茶渋のいい。
 
穂苅:  その当時の印刷物ですからね。相当沢山出たと思うんですが、今は本当に沢山はないんです。
 
白鳥:  これは活字印刷。
穂苅:  活字印刷になっています。明治になってから。
 
白鳥:  明治になってから。
 
穂苅:  そうです。
 
白鳥:  『開山暁幡隆大和上行状略記(かいざんぎょうばんりゅうだいわじょうぎょうじょうき)』と。
穂苅:  そうなんです。播隆さんの生まれた時から、亡くなるまでの播隆さんの業績をいろいろ書いているんですがね。
 
白鳥:  「明治二十六年」に、「岐阜県美濃国大野郡」の「棚橋智仙(たなはしちせん)」と言う方が発行した。
 
穂苅:  そうです。大体、この筋はですね、ところどころお寺の名前とか、人名とかいろいろ間違っておりますけれども、粗筋(あらすじ)はこの通りだと思いますね。
 
白鳥:  そうですか。
 
穂苅:  これは一番播隆さんの世に出る書物の第一号ですね。
 
白鳥:  それから、直接ですね、浄土宗に入られる前に、日蓮宗を経て、浄土宗に変わっていくという。
 
穂苅:  そうです。やはり道場が廃止さていたので、伝(つて)がなかったと思うんですね。
 
白鳥:  僧籍としての伝ですね。
 
穂苅:  そうです。それが無かったので、一向宗のお寺に入れないので、日蓮宗にひとまず身を寄せたわけですね。
 
白鳥:  尚かつ、その頃の寺院の生活に飽きたらずに、今度は積極的に山へ入って行きますよね。これは何故だったのですか。
 
穂苅:  それはその前に、一応浄土宗の師と仰ぐ方ですね、二人いらっしゃったんですね。初めは大阪の宝泉寺(ほうせんじ)の見仏上人(けんぶつしょうにん)という方です。弟子になりました。
 
白鳥:  仏の見ると書く、
 
穂苅:  見仏上人。それから次に京都伏見の一念寺(いちねんじ)の蝎誉(かつよ)上人、この弟子になったんですね。やはり今おっしゃったように、自分の志すその道と違うということで、お師匠さんの許可を得て、念仏行者になって、深山渓谷で修行をする身になった。こういうことですね。やはり初めはもう身心共にギリギリの命も捨てるくらいの激しい修行をして、それで悟りを開いて、その後はむしろ民衆の中へ入って、念仏を布教したと。これが念仏行者と思われますね。
 
白鳥:  随分、厳しい修行をされたようですね。
 
穂苅:  そうですね。やはり播隆さんが自ら残している文書(もんじょ)によりましても、木食行(もくじきぎょう)をやっておるんですね。それで米、麦、粟、稗、大豆、これは五穀ですね。
 
白鳥:  これを絶つ。
 
穂苅:  絶つ。それでソバ粉を食べて、塩もある時は塩気を絶っているですね。それは何によって塩分を取ったかと言うと、生のワカメをソバ粉の上に乗せて、そしてそれを食べると。大変これはもう自分の命を守るギリギリの線ですね。そういう激しい修行をしているわけなんですね。
 
白鳥:  そしてそこで、それこそ浄土宗ですから、念仏三昧。
 
穂苅:  そうですね。もう念仏三昧ですね。
 
白鳥:  その時に籠もられたのが、この写真の岩屋ですか。
 
穂苅:  ええ。播隆上人の書いた文書によっても明らかですが、文政四年に、飛騨の國へ入るわけなんです。そして杓子(しゃくし)の岩屋(現上宝村岩井戸:天元山(てんげんざん)中腹にある巖窟(いわや))というところですが、そこに籠もられて九十日間、塩穀を絶って、無言の行をやった。念仏の外には人とは話をしないと。九十日間そういう激しい行をやったわけです。
 
白鳥:  これを経て、飛騨の奧の笠ケ岳(2897m)という山を目指すんですね。
 
穂苅:  これは杓子の岩屋から笠ケ岳は尾根が続いているんです。それでやはり日夜眺めておりますので、播隆さんはその笠ケ岳に登ろうという決意をしたわけなんです。
 
白鳥:  ちょっと、お恥ずかしい話なんですが、私は山に詳しくないんで、ちょっと地図でご説明頂きますか。
 
穂苅:  笠ケ岳というのは、岐阜県ですね。これが松本。上高地があって、槍ケ岳がある。その西の方に聳える山ですね。飛騨の名山ですね。
 
白鳥:  飛騨の名山。
 
穂苅:  昔から宗教登山で登られた山でございますね。
 
白鳥:  一つ、これは写真家として、数々の作品を残していらっしゃるんですが、ちょっと写真で笠ケ岳を見せて頂きましょうか。
 

 
白鳥:  播隆上人が飛騨にも幾つかある山の中で、笠ケ岳に登った動機というのはどういうものなんですか。
穂苅:  それは昔から宗教登山の山でしたけれども、元禄年間に、例の円空仏で有名な円空が登っているんです。
 
白鳥:  元禄時代に。
 
穂苅:  播隆さんの頃から百二十年前ですね。その様子は直ぐ杓子の岩屋の近くに本覚寺(岐阜県吉城郡上宝村)という禅宗の寺があるんですがね。
 
白鳥:  禅宗の寺。
 
穂苅:  はい。播隆さんは宗派に関係ないんですから、どこでも宗派に関係なく、出入りをしていると。
 
白鳥:  この辺はまた凄いところですね。
穂苅:  そこの椿宗和尚という、なかなか立派な和尚様がおられまして、その方から、いろいろ笠ケ岳の状況を聞いているわけなんです。登ろうと思ったけれども、道が絶えてないと。椿宗和尚さんも道が開いていれば、私も行きたいんだと。昔、円空さんが登った頃は道があったんでが、もう今は道がないので、登山道を再興したいと。播隆さんは大いにその協力したい気持ちになっていたわけなんです。
 
白鳥:  なるほど。
 
穂苅:  文政六年にですね、まず播隆さんは偵察登山に出掛けたんです。大変に健脚であり、勇気もあったわけですね。やっと頂上に辿り着いた。で帰って、これは兎に角、村の方が大勢登れるように登山道を直したいということで、また椿宗和尚に相談したところがですね。その前に天明年間に高山の宗猷寺(そうゆうじ)というところの坊さんが登って、その人を案内した人で、名主の今見右衛門(いまみえもん)という方がおりまして、「その方の協力を得たらどうか」ということで、村の方の協力を得て、五十日間でその登山道を再興したわけなんです。
 
白鳥:  そうしますと、笠ケ岳中興の祖と。
 
穂苅:  そういうことですね。まさに中興の祖ですね。
 
白鳥:  成る程。
 
穂苅:  それで五十日で道が出来たので、今度はお礼に村の人、十八人を連れて、出来てから直ぐにですね、八月五日に笠ケ岳に登ったわけなんです。播隆さんの書いた文書が『迦多(かた)賀嶽(がたけ)再興記(さいこうき)』ということで、本覚寺(岐阜県吉城郡上宝村)に現在も残っているんです。
 
白鳥:  直筆の物が。
 
穂苅:  はい。そこに大変詳しく、笠ケ岳に登った様子が書かれているんです。笠ケ岳と、今言いますけれども、昔は、さす傘ですね。その「傘ケ岳」。ところがこれは天の恵みを避けるということで、字がよくないということで、今度は「肩ケ岳」。昔はだから難しい「迦多賀嶽」。現在は竹冠に立つと書いて「笠ケ岳」ですね。そういうふうに名前が変わっておりますけれども。
 
白鳥:  それで播隆さんの「迦多賀嶽」というのも難しい字が書いてありますね。この肩だと思いますがね。ところが当て字もありまして、「大」きいと書いて、「カタガタ」とカタカナ振ったのもございます。
 
白鳥:  『迦多(かた)賀嶽(がたけ)再興記(さいこうき)』の中で、こういう場面が書いてありますね。
 
焼香三拝して勤行(ごんぎょう)を始めけるに、時は早七つ過ぎ、日光は西海(さいかい)の雲に隠れ給う。山は置き雲に包まれて、四方ともにわきまえ難し。一心念仏の中、不思議なるかな阿弥陀仏、雲中より出現し給うこと三度なり。これを拝するものはただ三人なり。拙老念仏竟て、礼拝を行ずるに至て、二度目の拝に初めて拝し奉る。未曾有の思い忝なく尊行の間、僅かに三間ばかり。尊行は丈六と拝し奉り、大円光の中の周りは白光色、次の輪は赤光色、外輪は一面に紫光色であった。円なること大車輪の如し。雲上に照り輝かせ給う。
 
という一節が。
 
穂苅:  そうですね。
 
白鳥:  こういう奇跡が起こったんですか。
 
穂苅:  そうですね。やはり仏様が高山の大体、北アルプスの山で出るんです。それは太陽が傾いて、朝とか夕方出る現象ですね。今では「ブロッケンの妖怪」というように言いますけれども。
白鳥:  あ、ブロッケン現象(Brocken specter)なんですか。
 
穂苅:  ブロッケン現象なんです。それをその当時は「仏様が現れた」と言ってみんなその手を合わして拝んでいるんです。
 
白鳥:  丈六の阿弥陀様。
 
穂苅:  いい文章ですね。
 
白鳥:  美しいですね。
 
穂苅:  『迦多賀嶽再興記』にある文章ですが。もうそれこそ感激したと思うんですね。それでその時に、見えない人は「罪障の雲を覆えるか」といって、信心が足りないと言って、播隆さまはおっしゃっているんですね。一生懸命拝んで、みなさん全部拝んだわけですね。
 
白鳥:  そうでしょうね。これはお撮りになったブロッケン現象。
 
穂苅:  そうなんです。それは槍ケ岳から笠をバックに、朝の時のブロッケンです。これは私の影です。私の周りにこういう七色の大車輪の虹と言うか、こういう綺麗なブロッケン。
 
白鳥:  この文章に書いてある本当に白、赤、それから紫という綺麗な。
 
穂苅:  その通りですね。
 
白鳥:  成る程。
 
穂苅:  これは槍の頂上から、槍ケ岳の山小屋をやっているもんですから、槍の写真がどうしても多いんですが、槍の影にブロッケンが出る。これは珍しいのです。
 
白鳥:  これも槍ですか。
 
穂苅:  槍の麓にブロッケンが出たんです。
 
白鳥:  これなんか日本離れしているような感じですね。
 
穂苅:  そうですね。大変幻想的なブロッケンだと思いますね。夕方ですから、ちょっと色が赤くなっている。今は科学的にいろいろとブロッケン現象というのは解明されておりますが、その当時はこれは本当に不思議なるかなですね。手を合わせたくなる。それで光、雲の動き、それによって変幻自在です。もう消えたり、現れたりね。一生懸命念仏を唱えると、ずうっと現れると。それはもうね、今でも私も手を合わせて拝みたくなるような現象ですね。
 
白鳥:  やはり山にいくらこう馴染んでも、やはり神秘みたいなものがあるんですね。
 
穂苅:  そうですね。ただし、これは高山でなければ現れません。
 
白鳥:  高い山。成る程ね。その時には山へ登る道が出来て、山の整備も随分なさったわけですか。播隆さまは。
 
穂苅:  その後ですね。播隆さんは今度は六十六人、これは今でいう集団登山ですね。村の方、或いは松山とか、大阪の人も混じっておりますが。麓から頂上まで、九里八丁ございますが、その一里おきに、道しるべになる石仏を置いて、頂上には信者から寄進された阿弥陀様を祀った。
 
白鳥:  可愛いお顔した。非常に今でもしっかりした像で残っていますね。
 
穂苅; 丁度ね、岩の庇(ひさし)になっていまして、そこにある大変綺麗な像で、まだまだ百年も、百五十年も経ったというふうに見えない、新しいようなものですね。
 
白鳥:  それを一里毎においていらしゃった。
 
穂苅:  そうなんです。ところがそれから何時絶えたか分かりませんけど、今その登山道が全然歩けないような幻の道になっているわけです。
 
白鳥:  そうですか。しかしそこの播隆さんが笠ケ岳に登って、その笠ケ岳から槍を見ました。これが槍に繋がる決定的なきっかけになった。これが笠ケ岳から見た写真ですね。
 
穂苅:  そうですね。高原川を隔てて、そして向こうに穂高山群。これは大きな山の固まりですね。その左の方に、空にグッと聳えているわけです。もう播隆さんは笠ケ岳へ四回登っているんです。何時もやはり心に迫ったのは槍ケ岳だろうと思うんですね。
 
白鳥:  夏のを拝見した屹立したという感じというのは魅力的だし、しかもその時は前人未踏だったわけですね。
穂苅:  ええ。播隆さんはまだ様子が分かっておりませんので、下山後、椿宗和尚さんに相談したところが、こちらからは奥深くて、槍へ登った人はいないと。案内人がいないから、ちょっと飛騨側から無理だというので、飛騨新道を利用して登ったらどうかというアドバイスを受けたわけですね。
 
白鳥:  成る程ね。その槍ケ岳ですが、これも一つ穂苅さんの作品で、ちょっと山を見せて頂きましょうか。

 
白鳥:  穂苅さん、今、お話に出ました飛騨新道と言うんですか。
 
穂苅:  飛騨新道というのは、信州と飛騨との一番短い距離で結ぶ道で、信州側で一生懸命で、それを作ろうと思って努力して、文政三年から始まったんです。
 
白鳥:  江戸時代の大土木工事なんですね。
 
穂苅:  三千メートルの稜線を越えますからね。岩岡(岩岡村:現梓川村)というところがありますが、その庄屋の伴次郎さん、それから中田又次郎と、いろいろ主立った人が運動しまして、そして信州から飛騨へ抜ける道を作りたいと。その相談に乗ったのが椿宗和尚なんです。ですから丁度、播隆さんはいい方にアドバイスを頂いた。これは播隆さんの生家にある播隆さんの書いた絵図です。
 
白鳥:  これは播隆さんの書いた地図ですか。
 
穂苅:  それはコピーなんです。ここにございますがね。小倉(現三郷村)で、これが大滝山です。
 
白鳥:  一辺山に登って。
 
穂苅:  登ってそれで平らへ降りる。古池というところへ下りるんですが。それからこの三の池というのが、今の明神池ですね。
白鳥:  上高地の。
 
穂苅:  はい。これを焼岳へ登って、国境を上宝村の飛騨へ抜けると。そういう大土木工事ですね。これを約二十年掛かって完成したんです。丁度播隆さんが槍へ登りたいと言うときは、もうある程度通れるようになっていたわけです。全部は開通しておりませんけども。
 
白鳥:  今の解説でよく分かりましたけれども、播隆さんのお書きになったこの絵地図がまた凄くいいですね。
 
穂苅:  まあ、兎に角、その時代に大変なことをやったものですね。その為に播隆さんは信州松本へ現れるわけです。その松本の郊外にあります玄向寺(げんこうじ)という、これは浅間温泉の近くの大村にあります。そこのまた立禅(りゅうぜん)和尚に槍ケ岳に登りたいという相談をするわけです。でその立禅さんから小倉村の鷹庄屋(たかじょうや)で、中田九左衛門(くざえもん)(南安曇郡小倉村)という方を紹介して頂いた。その九左衛門が相当のお歳でございましたので、それで自分の娘婿の中田又次郎(またじろう)、この人は丁度、播隆さんが槍に登る時が四十一歳、十歳年下の三十一歳の屈強な若者でしたですね。
 
白鳥:  中田又次郎。
 
穂苅:  この鷹庄屋というのは鷹の雛を捕らえてですね、
 
白鳥:  鳥の鷹なんですね。
 
穂苅:  鷹狩り用の鷹ですね。その雛を公儀へ差し出す役目で、その付近の山を歩けるというような山見回りも兼ねていたわけです。ですからこの付近の山には大変詳しい。しかも飛騨新道の開拓に、一生懸命力を貸してくれたものですから、付近の山には大変詳しい方で、播隆上人にとっては、もうなによりもいい人を紹介して頂いたと。こういうことですね。
 
白鳥:  それでさっそく、槍へ向かうんですか。
 
穂苅:  いろいろと調べて上高地の平らをですね、その当時は松本藩が材木を切っていた。梓川(あずさがわ)を利用して木材を川流しをして、そして冬用の薪とか、いろいろにしていたわけで、二(に)の俣(また)というところがございますが、そこまでは道がある程度開いていたんですね。
 
白鳥:  二の俣。ここですね。
 
穂苅:  そこまでは。ちょっとそこに小屋がございませんか。
 
白鳥:  小屋が書いてありますね。
 
穂苅:  そこには杣(そま)小屋があったんです。そこまでは簡単に飛騨新道を使って行けたと思うんですが、それから奥は人跡未踏の道を登るんですから、大変だったと思いますね。
 
白鳥:  いやあ、この絵地図を見ておりますとね、私はこんなに凄いところを登ったんだと、この厳しさみたいなものがよく出ていますね。
 
穂苅:  そうですね。本当に槍のように書いてありますね。
 
白鳥:  この時は結局は頂上まで行かなかったんですね。
穂苅:  ええ。偵察登山はですね、現在私の山小屋をやっております槍ケ岳山荘、ここを肩(かた)と言いますが、昔の肩の小屋、肩と言ったんでが、その付近まで行きまして、そして槍をどういうふうに登ればいいかと、いろいろ研究をされたわけですね。決して無理をなさらずに。それで登れる自信を得て、下山をしたということですね。だから安全登山を心掛けているわけです。
 
白鳥:  凄いことですね。
 
穂苅:  決して無茶はしません。
 
白鳥:  宗教的情熱だけで、無謀登山はなさらなかった。といってそこから引き揚げられて。
 
穂苅:  そうですね。その時は偵察だけで、登れる自信を得て、そして下山をしまして、三河、美濃、尾張、信州、いろいろのところを布教して歩きながら、槍に納める仏像の募金を集めたわけなんです。
 
白鳥:  ああ、また布教活動を改めてやられて。
 
穂苅:  そして三年後の文政十一年に、再度槍へ挑戦したわけです。
 
白鳥:  その時には少なくとも肩までは。
 
穂苅:  これはもう前に、楽に歩いておりますからね。それから上はもう大変だったと思うんですね。これこそ誰も登っておりませんので、岩の割れ目に足を突っ込み、手を入れてですね、それこそ命掛けで頂上に登ったと思います。そのことは『行状記』に詳しく書いてあります。やっと頂上へ辿り着いた時の播隆と又十郎は、これはもうほんとに何とも言えないほど、感激を味わったと思いますね。そして先年登った笠ケ岳も見えますし、自分の故郷の河内方向も見えるわけですから。
 
白鳥:  河内、富山の方までね。
 
穂苅:  その時に播隆さんの文章を見ますと、「天気はよく晴れていた」と。三百六十度の眺望を楽しめたわけですね。
 
白鳥:  それで歌も残されているでしょう。
 
     極楽の花の台(うてな)か槍ケ嶽
       昇りて見れば見えぬ里もなし
 
穂苅:  まさにその通りですね。これはほんとに播隆さんの「極楽の花の台(うてな)」、これはほんとに浄土に、槍が一番清浄な山で、浄土世界をそこに見たわけですね。
 
白鳥:  それをこそ目指して、今まで山に望んでいらっしゃったんですから。
 
穂苅:  そこに三体の仏像を納めた。おそらく少し平らにしまして、大きな石を集めて、その中に仏像を納めた。そしておそらく南無阿弥陀仏を何回か唱えて、それは腹の底から、その声は下の方まで響き如くですね。ほんとに嬉しかったと思いますね。
 
白鳥:  三体の仏像。
 
穂苅:  三体の仏像です。
白鳥:  これが納められた仏像。
 
穂苅:  文殊さんに、阿弥陀さんに、観世音さん。
 
白鳥:  これは文殊師利菩薩、阿弥陀仏、観世音菩薩を最初に。
 
穂苅:  最初に納め、それから第四回目の登山の時に、槍の頂上を広げて、お祠を作った時に、お釈迦さん(釈迦牟尼仏)を納めた。計四体。槍ケ岳寿命神として祀ったわけですね。
白鳥:  その掛け軸がその時の。
 
穂苅:  その後ですね。下山なさってから書いたんですが。
 
白鳥:  この掛け軸もこれも播隆さんのですね。
 
穂苅:  播隆さんのです。
白鳥:  いい字というんですか、面白い字と言うんですかね。
 
穂苅:  そうですね。あんまり文字は上手ではないけれども、播隆さんらしい味が出ていると思うんです。この槍ケ岳の本当の「ケ」は、↑(槍)ですね。
 
白鳥:  そうですね。槍の使い方が巧いですね。
穂苅:  これはなかなかいいと思うんですね。
 
白鳥:  一見拙いようでいて、凄く味があるいい字ですね。これが掛け軸になってあるということで、結構ですね。
 
穂苅:  私の父が手に入れたものです。家の家宝でございます。
 
白鳥:  そうですか。その後はまた何度も。
 
穂苅:  ええ。播隆さんはその後ですね、第三回目は暫くおきまして、天保四年になりました。その時は弟子とか、信者を連れて大勢で登っているんです。それで八月でございました。別時(べつじ)を播隆さん一人残ってやられているんです。
 
白鳥:  別時というのは。
 
穂苅:  別時念仏です。
 
白鳥:  何か期間を限って集中的にやるお念仏だけの修行ですね。
 
穂苅:  ですから、みなさんをみな帰して一人残ってやったんです。ところが丁度、山も八月の末になると氷が張るんです。下の方も相当寒くなる。中田又次郎は心配致しまして、それで登って見ますと、播隆さんは衰弱しきって、もう動けなくなっていた。その為に中田又次郎さんは播隆を背負って、十三里の道を小倉迄やっと辿り着いたと。そういう激しい行をしてですね。
 
白鳥:  またこの師弟愛もいいですね。
 
穂苅:  そうですね。大したもんですね。
 
白鳥:  播隆さんの槍への思いというのも分かりますね。それからまた更に、
 
穂苅:  その後も播隆さんは天保五年ですが、第四回目をやっているんですがね。この時は大勢で槍に登っております。信者の中に、飛騨の方から加わった黒鍬職(くろくわしょく)と、これは記録に「黒鍬」と書いてありますが、その人が登りまして、槍の頂上を平らにして、そして今までは簡単な祠でしたけれども、木の祠を作って、それでやはり風もありますので、木を彫ってその中に仏像を入るように祠を作って納めたんです。
 
白鳥:  これが頂上に今もある。
穂苅:  現在もある祠ですね。そういう形の初期のものですね。そういうものを作って、しかも、その時は槍ケ岳、百間の中の七十間に「善の縄」というものを納めたんです。
 
白鳥:  善の綱。
 
穂苅:  はい。それは記録によりますと、藁縄をなって、太い藁の縄ですね。そして木をところどころに入れて、そしてそれを下げた。
 
白鳥:  成る程。信仰の登山だから、信者さんが登れるように。
 
穂苅:  簡単に、簡単にではないですが登れるようにしたわけです。藁縄は何年も持ちませんから。その時播隆さんは将来は鉄の鎖に変えなければいけないと、そういう気持を持ったと思いますね。
 
白鳥:  それからは鉄の鎖を付けるということで随分奔走されたようですね。
 
穂苅:  そうですね。下山後、各地を歩いて浄財を集めた。江戸時代の鉄というのは大変貴重なものでした。その時に信者の大坂屋佐助(さすけ)という、これは念仏佐助という位に播隆に心酔している魚屋さんですが、この方が播隆さんが書いた『信州鎗嶽略縁起』という木版で印刷致しまして、各地を歩いて、そして浄財を集めたわけなんです。記録によると、忽ちお金が出来て、美濃の関で。
 
白鳥:  関は有名なところですね。
 
穂苅:  ここで出来まして、忽ちの中に信者が信州へ運んで来たんです。
 
白鳥:  その時には、寄進募集に使った。
 
穂苅:  ええ。これが『信州鎗嶽略縁起全』です。
 
白鳥:  薄いものですけれども。
 
穂苅:  薄いものですね。沢山こういうものを紙で刷って配ったと思うんですが。今も現存するものは、三通くらいしかないんですね。私の親父が手にいれたもんです。
白鳥:  『信州鎗嶽略縁起全』。これは木版刷りなんですね。
 
穂苅:  一番最後の方をご覧下さい。
 
白鳥:  付録として、大坂屋佐助として、こういうことでやっているんで、頂上まで十里ばかりあるけれども、そこに鉄の鎖をつけたいと。成る程。これがいわば、寄進の発起人書みたいなものですね。これは貴重なもので有り難うございました。
 
穂苅:  ところが、思わぬ障害が出たんです。というのは丁度、天保の飢饉の真っ盛りでございまして、播隆の名前が世に知れ渡って、お寺さんの妬む気持もあったのではないかと思うんですが、その播隆さんが清浄無垢な槍ケ岳へ登ったので、神様が怒って、こういう凶作にしたと、大飢饉にしたと、こういうふうな中傷がありまして、松本藩も捨てておくわけにいかなくて、その鎖を押さえてしまったんです。その為に播隆さんは虚しく帰ったと。その後、天保の十一年になりまして、やっと作物が出来るようになったんです。大体、天保の飢饉というのは、天保四年頃から八年迄続きました。十一年に漸くお納めになったということで、中田又次郎とか信者が松本藩にお願いをいろいろしまして、で漸く許しが出て、天保十一年に信者によって鎖が掛けられた。その鎖が掛けられたのは、鎖六ヶ所、それで何条何尺という、播隆さんのお寺にある『念仏(ねんぶつ)法語(ほうご)取雑録(とりざつろく)』には、鎖の長さが具体的に書いてあるんです。これは驚きでしたね。今のメートルに換算すると、五十七メートル位になるんです。肩から槍まで百八十メートル。その中の悪いところ、五十七メートルに鎖を掛けた。ところが播隆さんはその春、江戸から松本へ来まして、玄向寺におりましたけれども、各地を布教して歩いた。「七月から、大病になった」と、庄屋の日記にもちゃんと書いてあります。玄向寺で病気療養中でしたから、槍に登ることが出来なかったのです。ですから信者によって、無事鎖が掛けられるように、おそらく毎日、朝晩お祈りをして、念仏を唱えていたと思うんですがね。
 
白鳥:  その夏にそうすると、大願成就した。鎖が。
 
穂苅:  大願成就したわけです。これは記録にはっきりあります。これは嬉しかったと思いますね。
 
白鳥:  そして、その年の秋に亡くなられるんですか。
 
穂苅:  その鎖を掛けられたという知らせを受けた時に、おそらく播隆さんは安心されたと思うんです。記録によると、九月の初めにある程度病気がよくなりまして、その近くの信州の松本平の、特に厄介になった信者のところへお礼に廻っておるんです。
 
白鳥:  ようやく鎖が出来ましたよと。
 
穂苅:  そうなんです。そして十月二十一日にですね、これも播隆の信者でございます美濃加茂の太田本町にある林市左衛門という方のところ、そこで病気で亡くなりました。
 
白鳥:  最後は美濃加茂、病の身をおして、美濃加茂までいらっしゃって。
 
穂苅:  そうです。
白鳥:  随分立派なお家ですよね。
 
穂苅:  重要文化財になって、今も残っておりますがね。林家というのは脇本陣(わきほんじん)です。
 
白鳥:  これが最後のお部屋になるわけですか。
 
穂苅:  今もそのままになって、残っております。
 
白鳥:  そうですか。
 
穂苅:  一回、改築致しましたけれども、重要文化財の為に、その通りに作りました。大変に立派な住宅です。
 
白鳥:  播隆さんは結局、お若く亡くなられたんですね。
 
穂苅:  当時としては、若いとは言えないですが、五十五歳でしたね。
 
白鳥:  そうですね。江戸時代の五十五歳ですからね。
 
穂苅:  まあ、いろいろと苦労なさって、難行苦行ですから、五十五迄持ったと思いますくらいですね。激しい行をしていますからね。
 
白鳥:  お手紙も随分ありますね。
 
穂苅:  ほんとにね、両親のことを心配したり、兄弟のこと、或いは叔父さんのことを心配した。ほんとに手紙を読むと涙が出るような温かさを感じるんですね。でも出家してからは一度も自分の実家へ帰っていないんです。高山から自分の実家へは、一つ山を越せば生家があるんです。そこにも帰らなかった。これはやはり身を律すると言うか、念仏行者の身ですね。そういう文章が残っております。着てるものも、文章にもありますが、ほんとに粗末なもので、もう全然、やはり民衆のため、庶民のために一生懸命念仏を布教したんですね。これは立派なものです。書いたものがそこら中にあります。播隆の「南無阿弥陀仏」と書いた名号碑、これも沢山ございます。その中で私が飛騨高山の了泉寺(りょうせんじ)というお寺で偶然に出合ったんですがね。これです。これに書いてある。
     「忍
     徳たる事は持戒苦行(じかいくぎょう)も及ぶべからず」
 
これに出合った時には、感激いたしましたね。まさに播隆さんの一生はこれだと。忍。
 
白鳥:  忍という字がなんとも言えず。太い豊かな字ですね。
 
穂苅:  どんなことよりも、忍だということですね。
 
白鳥:  しかも「持戒苦行よりも」という当たりですね、あれだけ戒を保ち、行を重ねながら、「それよりも」といっている当たりのこの突き抜けた感じというのが。
 
穂苅:  もう私、この時にはほんとうに播隆さんの取材をしていて、一番感激しましたね。この軸に出合った時にね。まだいろいろ最近でも出て来るんです。
 
白鳥:  そうですか。
 
穂苅:  「仏壇の中にこういうものがあったけれども、播隆という、これどういう方ですか」という手紙でお問い合わせ頂いたり、中にはですね、播隆と書いたのが、字が違うのがあるんです。ですから播隆さんのお弟子さんが書いたんじゃないかというようなものも見かけますね。字が上手なんです。ここにありますね、播隆さんの字は特色があります。直ぐ分かります。あんまり上手に書いたのは却って違うんじゃないかと。よく見るとやはり違うものございますね。
 
白鳥:  逆に言えば、そういう亜流も含めて人気があったということですね。
 
穂苅:  そういうことですね。それからもう一つですね。私は播隆さんのお寺から版木を借りていろいろ刷ってみたんです。特に驚いたのは、播隆の弟子の偽者が出て、托鉢に歩いているということで、御触書が出ているんです。これは「播隆行者弟子と称え、かたりもの(偽者)追々あるき申に付、云々」。ちょっと文章全部覚えておりませんが、これに出合った時には播隆さんは大したものだと、本当に感心しましたね。
 
白鳥:  しかし播隆上人という方は槍をまさに開山。私どもは何かというとウエストン(イギリスの宣教師:明治二十五年に登頂)なんていうような、イギリスの方のお名前ばかり考えていましたけれども、そうでしたか。
 
穂苅:  ウエストンが槍ケ岳に登った後ですね。いろいろな山に登って『日本アルプスの登山と探検』という本をロンドンで出されて、日本人に近代登山をお教えしたんですね。これは兎に角、立派なことです。播隆さんはそれよりも六十四年前に槍に登ってですね、そして槍ケ岳念仏講というのを作って、庶民を槍に導いている。
 
白鳥:  しかも、鎖を付け。
 
穂苅:  鎖を付けた。播隆さんは宗教登山で槍へ登りましたけれども、やはり今のアルピニズムの、より高く、より厳しさを求めている。これは近代登山ですね。そういう近代登山の精神を心にお持ちだったと、こういうことが言えると思うんですよね。しかもその登山も安全に、もう偵察をして、笠ケ岳に行く時もですし、槍ケ岳もですね、周到にいろいろと調べて。ですから、今の我々の登山も播隆さんに見習うべきものが相当あると思うんですよね。登山自身が播隆さんは修行ですね。高さ、苦しい登山ですね、それもやはり苦が楽しみだったんです。さっきの「忍、徳たる事は」とありましたね。まさにあの境地、登山即ち播隆さんの自分の道だということだったと思うんですね。
 
白鳥:  最後にお話が山の男、穂苅貞雄さんに戻った当たりで、お話終わることに致しましょうか。どうも有り難うございました。
 
穂苅:  どうも有り難うございました。
 
 
     これは、平成八年九月二十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」に放映されたものである。