釈尊の最後の旅
 
                        東方学院院長 中 村  元(はじめ)
一九一二(大正元)年、松江市生まれ。東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科卒業。東京大学名誉教授。インド哲学を中心に、幅広くかつ超人的な仕事ぶりで知られ、海外からも高い評価を得た。旺盛な学術研究・教育活動のかたわら、仏教を多くの人々にわかりやすく伝えることをめざして平易な入門書を数多く執筆、また、東方研究会・東方学院を創設し、学問普及に大きな役割を果たした。著書に「インド思想史」「インド仏教」「ブッダのことば」「釈尊の生涯」他多数。一九九九(平成一一)年没。
                        評論家    森 本  哲 郎
一九二五(大正一四)年、東京生まれ。東京大学文学部哲学科、同大学院社会学科を卒業。朝日新聞本社学芸部次長、『週刊朝日』副編集長、朝日新聞編集委員を経て、退社。著作に専念。主著に「文明の旅」「そして文明は歩む」「詩人・与謝蕪村の世界」「サハラ幻想行」他。
 
森本:  ネパールのルンビニーでお生まれになった釈尊は、悟りを開かれたのち、各地を歩いて法を説かれましたが、その活動の場はガンジス川の中流域でした。釈尊は齢(よわい)八十歳になられた時、最後の旅に出られます。王舎城(おうしゃじょう)や霊鷲山(りょうじゅせん)、竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)で知られるラージギルを出発して、故郷のルンビニーを目指し、途中のクシナガラで終わる凡そ三百五十キロの旅でした。この旅の模様は、『大パリニッバーナ経』、すなわち「大いなる死」という意味の経典に詳しく記されております。霊鷲山は釈尊が法を説かれた場所として、『法華経』や『無量寿経』にも出てきますが、『大パリニッバーナ経』も霊鷲山に釈尊がおられた時のことから語り出しています。当時この辺りでもっとも強国であったマガダ国の王は、隣国で繁栄していたヴァッジ族を攻め滅ぼそうと考えていました。そこで大臣を霊鷲山におられた釈尊のもとに遣わして、その是非を尋ねます。釈尊は直接大臣にはお答えにならず、弟子のアーナンダをかえりみて、ヴァッジ族が繁栄している理由を七つ挙げて説かれました。その七つとはこうです。
 
一、しばしば会議を開き多くの人々が参集する
二、協同して集合し、行動し、なすべきことを為す
三、旧来の法に従って行動する
四、古老を敬い尊び彼等の言(ことば)を聴く
五、良家の婦女童女を暴力で連れ出したりはしない
六、部族の霊域を敬い尊ぶ
七、尊敬さるべき修行者たちに正当な保護と支持を与える
この七項目が守られているかぎり、ヴァッジ族は繁栄するから、決して攻め滅ぼすことはできない、と説かれたわけです。釈尊は暫くラージギルに留まったのち、いよいよ最後の旅に出られます。八十歳の釈尊にとって、この旅は決して楽なものではありませんでした。最初に立ち寄られたナーランダではマンゴーの林の中で過ごされ、修行者に法話されたことが経典に記されております。次ぎに寄られたのがパトナの町です。当時商業で栄えていたこの町が、後に火と水と内部分裂で衰微(すいび)することを釈尊は予言されていますが、これは事実となりました。釈尊は此処でガンジスを渡り北に向かわれます。ガンジスを渡ると此処はヴァッジ族の国です。途中いくつかの村を経て、次ぎに逗留されたのは商業都市ヴァイシャーリーでした。この地は釈尊が何度も訪れ、時には逗留された懐かしい土地です。此処ではかねてから釈尊に帰依していた遊女のアンバパーリーの林で過ごされ、訪ねて来たアンバパーリーを法話をもって教え諭し励まし喜ばせた、と言われます。アンバパーリーは釈尊と弟子を食事に招待し、釈尊はこれを喜んで受けられました。雨期の間此処に逗留し、町に出て托鉢もされておられます。最後の旅の中で一番ゆったりと過ごされたのが此処ヴァイシャーリーの町でした。しかし此処で不幸な出来事が起こります。釈尊が病気に罹られたのです。余命の短いことを覚られたのでしょうか、釈尊はアーナンダに有名な法話をされます。
 
     自らをよりどころとして
     他人をよろどころとせず
     法をよりどころとして
     他のものをよりどころとせずにあれ
 
またここで、
 
     ヴァイシャーリーは楽しい
     ウデーナ霊樹は楽しい
     この世界は美しいものだし
     人間のいのちは甘美なものだ
 
との心境も述べておられます。病をおして釈尊は再び故郷に向かって旅立たれました。そしていくつかの町や村を経て、パーヴァーの町に着かれました。此処で鍛冶屋の子ども、チュンダの供養した菌(きのこ)にあたって酷い病気に罹られます。釈尊は禅定(ぜんじょう)に入ってこの苦しみに耐えられる。この時しきりに水を飲みたいとおっしゃったことがリアルに記されています。こんな苦しみの中でも釈尊はチュンダのことを心配されて、むしろ功徳があるに違いない、と言っておられます。
 
     与える者には
     功徳が増す
     身心を制する者には
     怨みのつもることがない
 
パーヴァーの町からクシナガラへの旅は本当に苦しい旅だったに違いありません。釈尊は何度も休んでおられます。クシナガラに入った釈尊はアーナンダに言われました。
 
     さあ、アーナンダよ。
     わたしのために二本並んだサーラの木の間に
     頭を北に向けて床を用意してくれ。
     アーナンダよ。
     私は疲れた。横になりたい。
     そして泣いているアーナンダに言われました。
     やめよ。アーナンダよ。
     悲しむなかれ、嘆くなかれ。
 
     アーナンダよ。わたしはかつて
     このように説いたではないか、
     ―すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、
     異なるに至るということを。
     およそ生じ、存在し、つくられ破壊さるべきものであるのに、
     それが破滅しないように、ということがどうしてありえようか。
 
     アーナンダよ。
     そのようなことわりは存在しない。
     アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、
     安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、
     わたくしに仕えてくれた。
     アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた
そして、釈尊の最後の言葉はこうだったと記されています。
 
     さあ、修行僧たちよ
     お前たちに告げよう。
     もろもろの事象は
     過ぎ去るものである。
     怠ることなく
     修行を完成しなさい。
 
以上、釈尊の最後の旅をご紹介致しました。今日はこの旅をもっともっと深く味わってみたいと思います。この道を何度も歩かれ、そしてまたこの『大パリニッバナー経』をさまざまな原典を元にお訳しになった中村元先生に、今日はゆっくりとその旅についてお話を伺ってみたいと思うんです。
中村先生は今回の最後の旅をずっと辿られたわけですけれども、特別な感慨がまたおありだったと思います。その辺りからちょっとお話伺いたいと思いますけれども、如何でございましたか?
中村:  今までもちょくちょくいろいろな場所を見ましたんでございます。けれど、この度はこういうご縁がありまして、釈尊が最後の旅路を進まれたその後をその通り進んで辿ることができまして、私としては特に感懐(かんかい)の深いものがございました。まあ原典を読んでおりましても、いろいろ感銘を受けるんですけど、またその旅路の後を実際にこの足で踏みますとなんとも言われない感銘を受けるんでございます。
 
森本:  実は私はこのコースを逆に辿ったことがあるんです。
 
中村:  ああ、そうですか。
 
森本:  ですからこのコースをもう一度先生と同じように、私もその通り辿ってみたいと思います。この最後の旅というのは、先ほどもご紹介しましたように、霊鷲山から始まっておりますね。この霊鷲山とこの釈尊との関係ということなんですけれども、どういう因縁で結ばれておるのか?
 
中村:  伝説によりますと、釈尊はそこでたびたび説法されたということになっております。大乗経典として有名な『法華経』でも、『大無量寿経』でも、そこで説かれたということになっているんです。そこで霊鷲山(りょうじゅせん)と申しますのは、元の名前を易しく訳しますと、「鷲(わし)の峰(みね)」ということですね。それで特別の霊山だというので、それで「霊」という字を付けまして、それで「霊鷲山」というわけでございます。何故そういうのか、というと、まあ二つの説ございまして、そこに「鷲が棲んでいた」という説と、それからもう一つは「山の―殊に岩の形が鷲の翼に似ている」というんですね。殊にいまご覧になっている少し下の所にはゴツゴツとした岩石がありまして、ほんとに鷲の翼を思わせます。霊山でジャイナ教の聖者も此処を訪れた、ということが言われております。釈尊は此処で説法された、と。最後に此処におられたのですが、当時マガダの国も国王でありましたアジャータサットゥという王様がヴァッサカーラという大臣を此処へ送りましてね、お釈迦様に伺いを立てたんです。それは何か、と申しますと、北の方にガンジス川を越えたところにヴァッジ族というのがありまして非常に栄えていたんです。それを攻め滅ぼそうとしたわけですね。で、釈尊の意見を聞くために大臣を派遣したわけです。釈尊はそれを聞いて、すぐに良いとか悪いとかいうことは言われないんですね。まずお付きの侍者でありますアーナンダ―仏典では阿難尊者(あなんそんじゃ)と申しますが、彼をして大臣にいろいろ質問をするんです。そして、「ヴァッジ族はこれこれのことを守っているかどうか」。そうすると、「その通りでございます」という。そうすると、「そういう道を守っている国を攻め滅ぼすことは容易でない。こういう国は栄える筈だ」と、そう言って答えられたものですから、大臣はそこで、「はぁッ」と言って引き下がったわけです。つまりいきなり「戦争するのはいかんぞ」と、そういう言い方をしないんですね。まずこう問いただして、諄々(じゅんじゅん)と説いて、あ、これはもう戦争なんかしでかさんほうがいい、と言って、王様に決心させる。そういう方法を講じられたわけなんです。
 
森本:  このいわゆる七つの掟と申しましょうか、この中で私がちょっと不思議に思ったのは、「しばしば会議を開いて多くの人々が集まっておる」、だから非常にこの国は攻めてはいけないんだ、ということが真っ先に出てまいりますね。
 
中村:  そうなんです。
 
森本:  これはどういう意味を持つんですか。
 
中村:  これはヴァッジ族、或いはヴァイシャーリー辺りの人々はリッチャヴィ族という名前でも知られていますが、共和国をつくっていたんですね。今日の共和国とは違いましょう。おそらく貴族たちが集まって会議を開いていたんだと思いますけれども、他の地方では大体王国で、王様の専断で何でも事を決められていたわけです。そうじゃなくて、此処では会議を開いていた。これが良いことだ、というんですね。
 
森本:  そうですか。それともう一つ、「良家の婦女童女を連れ出したりはしない」と。これはやはりちょっとそういうことが当時あったんでしょうか?
 
中村:  やっぱりあったんですね。インドのマヌ法典なんかみますと、結婚の様式―仕方にいろいろあるというんですね。そのうちで悪い仕方―一番良くない仕方としては暴力を持って女子を連れて来る、というわけです。そういうことも出ていますし、まさにそのことを言っているわけですね。
 
森本:  六番目につまり「部族の霊域を敬い尊ぶ」ということを言っておりますけれども、これはやはり宗教的な寛容ということを意味する?
 
中村:  そうなんです。これは元の言葉で言いますと、パーリー語で「チェーティャ」といいますサンスクリット語で「チャイティヤ」というんですが、大体大きな樹木がポツンポツンとインドには残っておりましょう。樹木に神霊が宿るとみられている。その下に祠が作られている。そこに神様を祀っているんですね。そういうものを大事にせよ、と。つまりその部族の精神的な拠り所となっていますから、そういうものも大事になさい、と。これがつまり今おっしゃったように寛容の精神ですね。
 
森本:  結局結論として、釈尊がおっしゃったことは、ヴァッジ族はこれだけのものを守っているから決して滅ぼすことは容易ではない、と言われたわけですけれども、そのことは要するに、「お前の国もこうしなさい。そうすれば繁栄するぞ」ということを暗に諭(さと)した、と受け取ってよろしいですね。
 
中村:  それで良いと思います。少なくとも釈尊はヴァッジ族の共和政体と言いますかね、みんなが相談しあって話し合って進めていくという、その体制を承認し、むしろ勧めておられる、ということが言えると思います。
 
森本:  この七つの掟と申しますか、教えというものは、決して一部の国について、国のあり方についてということも勿論ですけれども、さまざまな宗教的な集団の中においても、それから俗世の道徳の一つの指針としても受け取ってよろしいですね。
 
中村:  そうですね。ここに述べられたのは社会倫理ですよね。それに対応して文字に記されておりませんけど、仏典ではやはり同じように七箇条ずつ次々教えが出ていますね。仏教の教団でも、お前たち修行者たちでも、これに対応してこれこれの教えを守るならば教団は栄えるであろう。世の中はよくなるであろう、と。そういうことが説かれているんです。
 
森本:  そうですか。私はここの意味が今初めてよく解りましたけれども、これはいま竹林精舎が出ておりましたけれども、ああいう一つの宗教的な集団の中でもこのようにしなさい、と。それから世間でもそういうふうにしなさい、と。そうすれば栄えるでしょう、と。
 
中村:  つまり宗教と世俗と通ずる理(ことわり)を述べておるわけですね。
 
森本:  今の言葉でいうと非常に「民主的に」ということですね。
 
中村:  そういうことです。
 
森本:  それからいよいよ霊鷲山から旅が始まりまして、それからラージギル、ナーランダ、パトナと旅が続くわけでございますけれども、この旅の道は、昔は歩いて大変だったでしょうね。
 
中村:  大変だったと思いますね。
 
森本:  八十歳になられたわけですから、一番辛い旅だっただろうと思うんですが、次ぎにナーランダですが、このナーランダでは先ほど放映されたそこへお上りになるのは大変苦労しますね。
中村:  大きな建物がございますですよ。大変です。今此処に映っていますのは、ナーランダ大学に寄進されたトゥーパで宗教的な建造物のミニアチュアですね。年代にしましても非常に古いものでしてね、ナーランダが造られたのは五世紀頃にはもうあって、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)もそこに長く留まった、と。アジア諸国から留学生がまいりまして、それで一万人以上留学生がいた、というんですね。それが五世紀あたりから始まって七、八世紀頃栄えたわけでしょう。これはヨーロッパ辺りと比べてみましても年代は非常に古いんですね。今そこへ行きますといろんな建物が残っておりまして、煉瓦の固まりなんかあちこちに転がっていますが、そのどれ一つとってみても日本の国宝よりも年代だけは古いんですね。驚きものだと思います。こういうのが何エーカーもありましてね、まだ全部発掘されていないんです。
 
森本:  このナーランダは一種の大学でもあったわけですね、国際的な大学。ほんとに考えますと、例えばヨーロッパで大学が設立されたのはずっと後になりますよね。これほどの素晴らしい大学があったということはやはり大変なことですね。
 
中村:  大変なことだと思いますね。此処では仏教の学問が中心でしたけども、しかし文法学とか医学とかいろいろなことを教えていたんです。だからやっぱり一種のユニバーシティーでした。
 
森本:  私もナーランダへ行った時、規模の大きさに驚いたんですけれども、ストゥーパ(塔、記念の塚)を献納する。
 
中村:  献納と申しますね。
 
森本:  ちょうど日本では石灯籠とかそういうものを献納すると同じような意味ですね。
 
中村:  同じような気持でしょうね。石灯籠とか絵馬とかね。いろんなものを献上しますが、それに似ているわけです。
 
森本:  その時の玄奘の記述にもありますけれども、大変仏教の学問水準が高かったんでしょうね。
 
中村:  高かったですね。だから南アジアの学問の中心であった、ということは言いましょう。
 
森本:  そうですか。
 
中村:  だから釈尊の頃にはそういうものはなかったわけで、ただ村があっただけです。そこを通って北の方へ行かれた、と。原典にはそう出ております。
 
森本:  それから釈尊はパトナに向かわれるわけですね。それから有名な渡しですね。これはいわゆる「ゴータマの渡し」などと。
 
中村:  そうですね。釈尊がどこから北の方へ渡られたか、それはわかりませんけど、大体パトナ市には川に沿って渡し場がたくさんありましてね、釈尊が通られた所は「ゴータマの渡し」と、当時の人は呼んだ、というんです。現在どこかわかりませんけど、大体こういうふうな渡し場があったと思われます。現在でも立派な連絡船が着くような大きな港もできていますけどね。それと同時にこういう原始的な運搬方法もまだ行われています。
 
森本:  当時やはり釈尊がお渡りになった時は特別待遇で、ということはなかったんでしょね。
 
中村:  なかったと思いますね。修行者の場合には料金を取らなかった。これは料金を取らないように、ということはインドの法典類にも出ているんです。
 
森本:  それは現在でもそうですね。
 
中村:  そうでしょうね。
 
森本:  現在でも修行者はお金を取らない、というふうな話しを聞きましたけれども。それからやがて新しく建設されたパータリプトラの町へお訪ねになるわけですね。
 
中村:  そうです。その頃はパータリプトラにヴァッジ族を防ぐための城壁をアジャータサットゥ王が建設しつつあった。勿論実際におこなっていたのは大臣ですけど、大臣が造りつつあったということが出ております。ただ当時はまだ小さな港町だった思うんです。これが将来アショーカ王(阿育王(あいくおう)。前二六八〜前二三二年在位)の頃になりますと、インド全体の中心の都市になるんです。
 
森本:  大商業都市になる。
 
中村:  大商業都市であると同時に大政治都市にもなるわけですね。つまりマガダの国というのが大体ガンジス川の南の方にあったわけですが、最初のうちは、さっきご覧頂きました王舎城が都だったわけです。あれは連山に囲まれておりますでしょう。山脈に囲まれていまして、おそらく昔は火山の跡だったと思うんですね。その証拠にあそこにだけ温泉があるんですよ。それで想像されますが。だからこの難攻不落の城塞だったわけです。ところがインド全体をマガダの王朝が支配する時代になりますと、もうあんな山城にいる必要がなくなるわけです。むしろ水陸交通の要衝に移ったほうがいいわけです。そこでパータリプトラに移りました。此処はアショーカ王の頃はインドの中心になったわけですね。
 
森本:  此処で釈尊はこの町へあがって、水と火と、それから内部分裂なんかによって崩壊していくだろう、ということをおっしゃるわけですね。
 
中村:  これは、私の想像ではむしろ後にパータリプトラがそういう災禍を受けると、そういう事実を知っていた人が、お釈迦様はそういうことを予言なさったに違いない、と言って、過去へ託(かこつ)けたわけですね。殊にインドの古典にはよく出てくることなんですが、歴史を書いた本がインドにはあんまりないんです。歴史的な事実が宗教聖典の中で予言の形で述べられているんです。これは古代を研究するために非常に手掛かりなんです。ここもやはり古代に起きたことをお釈迦様に託けたんだろう、と思うんです。近年と言っても何十年も前ですけど、スプーナという学者が掘ってみましたら、そうしたら洪水でそこの都が水害を受けた、と。その跡が出てきたんです。それから火事の跡も見つかったんです。それからその王朝で内紛が起きた、ということ。これはプラーナ聖典というのはヒンドゥーのほうの宗教聖典に出ているんです。だからここに出てくることとちょうど合うわけです。
 
森本:  そうですか。私はこのくだりが何か聖書に出てくるイザヤ或いはエレミヤがバビロンの滅亡を予言する、と。イザヤが「カルデャびとの誇りであるバビロンは、ただ野の獣とふくろうだけが棲むだろう」と預言した。また、エレミヤは「バビロンのかたわらを通るものはみな、その禍を見て驚き、あざ笑うだろう」と預言する。その預言通り、バビロンの都はやがて言葉だけではなく道徳的にも乱れていき、その通りになってしまったという、それと何かどっか似たような感じが致しますね。
 
中村:  似ておりますね、たしかに。
 
森本:  結局やがてこの大きな町になりますと、どうしても道義は退廃していくということなんでしょうね。
 
森本:  とにかくアショーカ王の頃のマウリヤ王朝というのは大変な経済力と政治力を持っていたわけです。大きな石の柱を造るというだけでも大変なことです。そして仏跡のあちこちにストゥーパを造りましたでしょう。まあ領域も広くなってパキスタンからアフガニスタン、あちらまでも領有していたわけですから、あちらではギリシャ語で書かれたアショーカ王の詔勅文(しょうちょくぶん)というのが見つかっているんです。
 
森本:  そうですか。
 
中村:  大変な世界帝国だったんですね。だから今おっしゃったように爛熟しますといろいろ腐敗が起きる。
 
森本:  次ぎにいよいよヴァイシャーリーに行くわけですけれども、当時の商業都市であるヴァイシャーリーの状況というのはどういうものだったでしょうか。
 
中村:  これは今訪ねてみますと、もうまったくの田畑だけでしてね、何にもないです。わずかにアショーカ王の建てた柱が残っているだけなんです。けれど、昔は商業都市で非常に栄えたものです。富が集まりまして、そして政体は、さっきも申し上げましたように、共和制なんですね。人種的にもいろいろな人種が集まっていたらしい。そこの人々は青色の人―青というのは黒ですね、色黒い人。それから色の白い人、色の黄色い人、それから色の赤い人―赤い人は陽に焼けた人でしょうね。そういう人がいると。そしてみんなそれに応じた家に住み、同じような家に住み、それから彼らの立てている幡(はた)もやっぱりそれぞれ四つの色で別々だ、というんです。ということは、いろんな民族がそこへ集まってきたわけですね。そして商業都市でしたから共和制を行うのにやりよかったわけですよ。逆に共和制というような国はカースト制度を嫌うわけです。カースト制度とは矛盾しますから。等価交換が行われなければならない。それをカーストでせき止めるようなことはいけないわけです。だから自ずから仏教を歓迎したわけです。ジャイナ教(階級制度を否定し、あらゆるものに生命が宿るとしてとくに不殺生の厳守を説く)が起こったのもそこからです。ジャイナ教の開祖のマハーヴィーラという人もヴァイシャーリー市の郊外で生まれて、王族の家柄の人だ、と言われています。新しい文明がそこに起きていた。当時にバラモン教の法典では、ヴァイシャーリーのことは全然出てこないんです。つまりバラモンの決まりは守らないから。
 
森本:  たしかに商業というものは意外と民主化を促進する側面がありまして、例えばお客様であれば、カーストが違うから売らないなんて言えば商売になりませんね。ですから当然そういう商業都市というものは、すべての人々たちが平等だというような考え方が起こるのはある意味では当然と言ってもいいでしょうね。
 
中村:  当然だろうと思います。そして平野の真ん中でしょう。だから道が発達するのも必須なんですね。大体マガダの国から北の方へまいりましてパータリプトラを通って、そしてクシナガラからゴーラクプル、それから最後には祇園精舎のあるサーヴァッティーという西の方へずっと交通路ができていたわけです。その要衝にあたっているわけです。平坦な土地ですから商業には都合がいいわけでしょう。
 
森本:  私はこのくだりの中で一番興味があったのはアンバパーリーの遊女ですね。これは例えばキリスト教でいうとマグダラのマリア(イエスに七つの悪霊を追い出してもらい、喜んでイエスや弟子たちに奉仕したといわれる)の話と非常に何か共通点があるような気がするですけれども、やはりここでも遊女というようなことでも差別をしないで、
 
中村:  そうなんです。どんな人にでも教えを説く。教えを聞きたいという人にはみな受け入れて教えを説く、という釈尊の立場がはっきり出ていると思うんです。これはバラモン教のほうでは許されないことですが。
 
森本:  そうですね。遊女というのは一つのシンボルみたいなもので、つまり目を塞いでいるようなものでも慈悲をかけ、そして教え導く、と。これがやはり一つの仏法の大変大切な教えということですね。 
 
中村:  仏法の非常に大切な特徴的な点だと思いますね。そして遊女がはマンゴー樹林、そういう別荘を持っていて、マンゴーの林へ釈尊を請じて食事のもてなしをしたというのは、ある程度社会的地位がそれなりに高かったわけです。大したものです。ということは貨幣経済が進展していたということを意味すると思うんですね。貨幣経済が起こる前にはそういう職業は目立たなかったでしょうから。
 
森本:  ここでもう一つ、お釈迦様が説かれているのはやはりいろいろな修行集団の中で、自分を決して偉ぶった者、思い上がった者、そしてなんか教えてやるんだという感じを出していけないんだ、ということを言われておりますね。
 
中村:  そうです。此処に釈尊はしばらく滞留されて、殊に雨期に入ったらしいんですね。そうすると雨期の間はみなかたまって生活することは難しかったんで、めいめい知り合いの人を頼って別れて分宿せよ、と言われた。だから滞在期間が相当長かったんですが、そこで釈尊が述べられた言葉というものが非常に我々の心を打つものなんです。
 
     向上につとめた人は
     「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、
     あるいは「修行僧のなかまはわれに頼っている」とか思うことがない。
     向上につとめた人は修行僧のつどいに関して
     何を語るであろうか。
 
つまり向上に努めた人、ずっとその道を求めてきた人という者は、自分が修行僧の仲間を導くであろうと、そんなことは考えない、というんですね。それから或いは修行僧たちが大勢いるけど、それが自分に頼っているというような、そういう思い上がった気持は抱いていない、と。
 
森本:  これはいつも謙虚でいなければいけないということなんでしょうか。
 
中村:  そうだと思いますね。思い上がった気持を持たない、と。本当にその道を求めるならば―道を求めるということは、その人自身の問題でしょう。多数を頼んでどうこうするという事柄ではないですからね。
 
森本:  次ぎに今出ておりますけれども、
 
     自らをよりどころとして
     他人をよろどころとせず
     法をよりどころとして
     他のものをよりどころとせずにあれ
 
もう一つ大事な言葉は自分をあくまでも拠り所にしなさい、と。法を拠り所にしなさい、ということですね。これはやはりのちに仏教というものが自力とか他力とかということを言われますけれども、これは自分はあくまで拠り所にしろということになりますと、非常に自立的な精神、
 
中村:  自立的な精神が強かったんですね。釈尊はなるほど指導はされた。けれども、めいめいの人が道を求めなければいけない。ただめいめいの人が道を進めるための起因を与える。道しるべになる。そういうのが釈尊の立場だったわけです。本当の自己を追求せよ、と。「本当の自己を追求するというのはどういうことか」というと、それは人が人としてあるべき道を求めることですね。それは自己に頼るということは同時に法に頼るということと同じことになるわけです。本当に自己に頼っている人はまた法に頼りますから、だからそこに自信が出てくるわけです。だから他の人がどう思おうとも、とにかく信ずるところを進んでいくという確信が出てくるということになります。
 
森本:  もう一つここのくだりで大変感銘深かったのが、
 
     ヴァイシャーリーは楽しい
     ウデーナ霊樹は楽しい
     この世界は美しいものだし
     人間のいのちは甘美なものだ
 
と。この言葉を聞いた時にふと思い出したのは、『徒然草(つれづれぐさ)』第二十段に、
 
     なにがしとかや言ひし世捨人の、「この世のほだし持たらぬ身に、
     ただ空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、誠にさも覚えぬべしけれ。
 
と兼好(けんこう)(鎌倉末期の歌人・随筆家)は書いておるんですね。自分はこの世の中になんの心の束縛となる諸縁を持っていない身でいつ死んでもいい。間もなく死んでいく身だけれども、その死ぬにあたって、空の名残といいますか、空の名残というのは難しいんですけれども、なんか夕焼け空の美しい、ひろびろとした空のあの名残が惜しい。あれが見られなくなるのが惜しい、というようなことを言っていますね。ですから私そういう意味でお釈迦様のこの言葉というのは、私はこの世は美しいというのは何か重い響きを持つんですね。
 
中村:  もう胸に響きますね。原典にこの通り出ているんですから。釈尊がヴァイシャーリーを去るにあたって、おそらく少し小高い丘の上から振り返って見て、そして、ああ、ヴァイシャーリーは良いところだ。そこに霊樹がたくさんあるわけなんです。木陰で休むと涼しい。そういうようなところ、ウデーナ霊樹というのもその一つですが、ああ、美しいな、と。そして眺めて見ると、人の世がまた美しく麗(うるわ)しいものだ、と。人間が命を持っているということ、これが誠に甘美なものだ、という言葉になっているんですね。「甘美」ということばは訳しにくいんですが、元の言葉で「甘く味わいが良い」と、そういう言葉なんですね。味わえば味わうほどこの深みがあるということになりましょうね。
 
森本:  それと一つお釈迦様がよく「この世は苦である。苦しみであるんだ」ということをおっしゃっていましたけど、それとこういう言葉とは何かちょっと一見矛盾するように思われますけども。
 
中村:  おそらく最初はやっぱり人生は思うようにならないということを痛感して、それで道を求められたと思うんです。だからその時点においてはすべてが苦である、と。「一切皆苦(いっさいかいく)」というわけですね。けれど、ずっと修行して道を求めて過ぎ去る過去を振り返ってみますと、ああ、人の命というものは尊い味わいのあるものだということを、この歳にして感ぜられたということは深い意味があると思いますね。
 
森本:  それともう一つ、この経典の中で非常に私が感動するのは、お釈迦様が決して偉ぶらず、そして例えば老いですね、自分が老人になったということをはっきりと正直に語られていますね。
 
中村:  そうなんです。
 
森本:  ここら辺はリアリティーと言いますか、心打ちますね。
 
中村:  心打ちますね。ほんとに釈尊の感懐がそのまま伝わってくるような気がしますですね。原典に出ている言葉をご紹介致しますと、
 
     わが齢は熟した。
     わが余命はいくばくもない。
     汝らを捨てて、わたしは行くであろう。
     わたくしは自己に帰依することをした。
     修行僧らよ、汝らは精励にして正しく気をつけ、よく戒めをたもってあれ。
     思惟によって良く心を統一し、おのが心をまもれよ。
 
ああ、わが齢は熟した。わが余命はいくばくもないと。汝らを捨てて私は行くあろうと。これはどうにも仕方がない運命だと。私は自己を帰依すること、自分本当の自分に頼るということを追求してきた。だからみなさんも精励して正しく気を付けよく戒めを保ってあれと。ジッと心を落ち着けて、よく心を統一して、己が心を守れと―守れというのはつまりいろんなことに動揺しないように守れと。清らかであれと。そういう意味だと思うんですが。
 
森本:  おそらくこのお釈迦様もヴァイシャーリーで、自分の死の近いことを覚られて、これが自分はヴァイシャーリー見るのは最後だろうということも言われておりますね。
 
中村:  そうなんです。それでまた此処でもう自分はこの世を去って亡くなるという決心をしたと言われたと。原典にはそう出ているんです。或いは後の人が忖度(そんたく)した言葉かも知れませんけど、やっぱり自分の死期の近付いたこと感ぜられたんでしょう。
 
森本:  これからいよいよクシナガラに向かわれるわけですね。その途中にチュンダという人がお釈迦様に差し上げた食物にあたって、いよいよ大変苦しい病に罹られ、激痛にも耐えられるいう大変な最後の旅が始まるわけですね。こういうところも非常に経典の中でリアルに描かれておりますし、それから苦しい時には苦しいとおっしゃっておられる。そういうところが如何にも人間的と言いますかね。
 
中村:  そうです。
 
森本:  やはり八十歳になられても、悟られた釈尊としては痛い時は痛い。水が飲みたい時は飲みたいとおっしゃったんでしょうね。
 
中村:  そうです。非常にリアルにその情景が出ておりますね。そしてここで鍛冶工(かじこう)といいますか、金属細工人の供養を受けられたというんですがね。バラモン教のカースト制度によりますと、法典に出ているんですが、そういう職業の人はシュードラという一番下の階級なんですね。だけどそういう人のもてなしでも受けて、そしてそういう人にも教えを説くということを実際にされたわけです。ここでもカースト制度を越えた態度というものが出ているわけです。
 
森本:  それでチュンダが供養した、差し上げた食物にあたられたんですが、チュンダを怨むどころか、むしろ私にそうやって一生懸命になって供養してくれたんだから、チュンダはきっといいことがあるとおっしゃっているわけですね。
 
     与える者には
     功徳が増す
     身心を制する者には
     怨みのつもることがない
 
中村:  自分に供えてくれた食物は功徳のあるものだ、と。そういうことをいっておられるんです。自分が今まで受けた功徳のある食物の中で二つがある、と。一つは自分が苦行をして、痩せ細られた時に乳粥(ちちがゆ)を村の乙女が捧げてくれた。これは功徳があった。それと並んでいま此処でチュンダが供養してくれたこの食物は非常な功徳のあるものだ、ということを言って、チュンダが後悔しないように、という心遣いがあるんですね。
 
森本:  そうですか。それはなかなかできないことですね。普通でしたら、あの人のために私はこんな目に遭わされた、と怨むわけですが。
 
中村:  思い遣りがあるんですね。
 
森本:  私はここも非常に経典の中の一つの山場だろうと思いますけれども、こうしていよいよクシナガラに歩みを続けられるわけですね。そしてクシナガラにいらっしゃった時にほんとにここでも釈尊は人間的な言葉、「さあ、アーナンダよ。私は疲れた。横になりたい」と。
 
中村:  そうなんです。
 
森本:  ここもいよいよお釈迦様の入寂間近の大変素晴らしい情景ですね。
中村:  ほんとだったんじゃないでしょかね。自分は疲れた。横になりたい。そう言われて大きな衣を四つにこう折って、そして下に敷いてあげた。それから自分は喉が渇いたから水を飲みたい、と言われた。そうするとアーナンダが近くの川へ行って水を汲んできたと。そういう話もあるんです。その時異常な霊験(れいげん)が現れたというようなことも経典には出ております。
 
森本:  この時にやはり床をとってほしいと。それはお布団を敷くわけじゃありませんけれども、とにかくそこで布を敷いて、頭を北に向けて、と書いてありますけれども、日本でも「北枕」と言いますけど。
 
中村:  おそらくそこからきたんだろうと思いますね。
 
森本:  「北枕」というのは、そのルーツはここにある、と。
 
中村:  その解釈については学者間でも意見が両方ありまして、若干の人は、「昔から教養のある人がそういう具合に北を枕にして伏すものであった」と説明する人もございます。それからある学者は、「たまたま北を枕にしておられたんだ」というんですがね。ここを確定的に私としては断定できないんですけど、しかし北枕にされたというのはおそらく事実だろうと思いますね。
 
森本:  そうでしょうね。
 
中村:  それが我が国にもそういう観念が伝わってきたわけなんですね。
 
森本:  沙羅(さら)の樹の間にというのはこれは有名な沙羅双樹(さらそうじゅ)ですね。
 
中村:  そうですね。あそこへ行ってみますと、沙羅の木が多いですね。元の言葉でシャーラと言いますがね。双樹はどれか、と。これはどうもその頃のものは残っていないと思うんですが、それから何代目後か知りませんけど、実際沙羅の木がございますね。
 
森本:  クシナガラに有名な仏様の涅槃像がございますけれども、あの涅槃像の御堂の前に、私が行った時にはやっぱり若木ですけれども、二本の沙羅の木が植わっておりました。そして私の場合はゴーラクプルというところから車でずっとクシナガラを目指したんですが、その途中、あ、ここを釈尊がお歩きになったんだなあと思いながら行ったんですけれども、大変長閑(のどか)な美しい田園風景ですね。
 
中村:  美しい田園風景ですね。そしてあそこは割合に湿気が多いんじゃないですか。
 
森本:  そうですね。
中村:  だから割合に草木が茂っておりますでしょう、他の地域に比べて。
 
森本:  そうですね。
 
中村:  美しい湖といいますかね、池がかなり多かった、他の地方に比べまして。
 
森本:  ただ、私が行った時はたまたま雨期でもありましたものですから、余計そういう感じが致しました。
 
中村:  雨期でない時もやっぱり池が多うございましたよ。
 
森本:  そうですか。クシナガラにまいりました時にこちらに大きな塚がございまして、これは仏様の塚だというようなことですね。
 
中村:  そうです。
 
森本:  この最後のクシナガラ、これは現地では「クシナーラー」とか言っておりますけど、
 
中村:  そうです。
 
森本:  そこで、「疲れた、横になりたい」というのは、例えば他の宗教上の聖者はたくさんいるわけですけども、こういうふうに純心に語るというのは非常に人間的だと思いますね。
 
中村:  ほんとに釈尊の温かい体の温もりが伝わってくるような気がします。
 
森本:  ここで最後に非常にいよいよ命も間近に切れる迫った時に修行者たちが訪れてきていろいろお話をするわけですね。
 
中村:  そうなんです。スバッダという行者が訪ねてきまして、ちょっと議論をふっかけようとしたんですね。当時いろんな哲人がいる。その人たちの説をどう思うか。決着をして頂きたい、というようなことをいってくる。そうするとお弟子のアーナンダが、「今はもう釈尊は疲れておられるから」と言って断るわけです。そうすると行者がまた言い張る。またアーナンダが断る。三遍やった、というんですね。
 
森本:  そうしてこの言葉が出てくるわけですね。
 
     わたしは二十九歳で善を求めて出家した。
     わたしは出家してから五十年余となった。
     正理と法の領域のみを歩んで来た。
     これ以外には《道(みち)の人》なるものも存在しない。
 
中村:  そうなんです。釈尊は、「会ってやろう。中へ入れろ」と。そういうように瀕死の重病の宗教家がですね
 
森本:  そして、ただ自分の生涯を顧みて二十九歳で善を求めて出家して五十余年になった、と。これ以外に道の人なるものは存在しない、ということなんですね。
 
中村:  そうなんです。もう形而上学的な煩わしい議論はしないで、本当に真実の道を求めた。その感懐がズバッと出ているわけです。
 
森本:  そしていよいよ最期が近付きますと、アーナンダが泣く。そうするとお釈迦様が静かに諭す。アーナンダよ、ということですね。この言葉も大変素晴らしい言葉だと思いますね。この時にはっきりと諸行無常というんでしょうか。
 
中村:  そうですね。
 
     アーナンダよ。わたしはかつてこのように説いたではないか、
     ―すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、
     異なるに至るということを。
     およそ生じ、存在し、つくられ破壊さるべきものであるのに、
     それが破滅しないように、ということがどうしてありえようか。
 
愛する人とはいつまでも居たいわけですけど、好きな者とはいつまでも一緒でありたいけれども、それから離れねばならん時がくると。およそ生じ、存在しつくられ破壊されるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということがどうしてありえようかと。全ての過ぎ去る、つまり諸行無常ですね。滅びないということはあり得ない、と。
 
     アーナンダよ。
     そのようなことわりは存在しない。
     アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、
     安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、
     わたくしに仕えてくれた。
     アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた
 
アーナンダよ。お前は長い間慈愛ある慈しみの心持ちのこもった自分のためをはかる安楽な純一なる無量の身と言葉と心の行為によって私に仕えてくれた。あ、アーナンダよ。お前はほんとに善いことをしてくれたと。
もう今際の際にこういう清らかな愛情のこもった言葉を述べられた、というのは事実でございましょう。
 
森本:  そしてそこに修行者たちにも言葉をかけますね。その言葉というのも非常に短いんですけれども、
 
     さあ、修行僧たちよお前たちに告げよう。
     もろもろの事象は過ぎ去るものである。
     怠ることなく修行を完成しなさい。
 
大変含蓄のある言葉だと私は思いますね。
 
中村:  非常に含蓄のある迫る言葉ですね。
 
森本:  そしてここでやはり諸行無常をですね。
 
中村:  修行者たちよ。もろもろの事象は過ぎ去るものであると。だから過ぎ去るものである、滅びるものであるということを自覚して、怠ることなく修行を完成なさいと。これが最後の言葉であります。
 
森本:  ここがやはり釈尊の最後の言葉というのは、釈尊の一番の結晶、
 
中村:  結晶ということは言いましょうね。たった原文で言えば、二行ほどですけどね。そこに集約されているわけです。
 
森本:  そうしますと、ほんとうにおっしゃりたかったことというのは、まずこの世が諸行無常である、と。つまり要するに常なるものは存在しないんだ、と。その理を悟りなさい、ということだったと言っていいでしょうね。
 
中村:  そういうことですね。そこに尽きるんじゃないでしょうかね。そう思って毎日を生きていれば有意義な日を送ることができますものね。
 
森本:  以上、ずっと釈尊の最後の旅を画面と一緒に辿ってきたわけでございますが、こういう旅をずっと辿ってまいりますと、なんとお経というのは難しい。そこから仏教の理論というのを究める学ぶということは大変難しいという気がするんですけども、しかしこういう道を辿ると実感として迫ってまいりますね。
 
中村:  実感として迫ってきますね。釈尊その人が私たちに話し掛けてくださっていると。そういうことを感じますね。
 
森本:  私はよく思うんでございますが、例えば世界的な大宗教といいますと、仏教、それからキリスト教、イスラム教といろいろございますね。そのキリスト教の場合ですと、イエスがゴルゴタの丘で十字架に架けられて人間に代わって罪を贖(あがな)ってくれると。そして人間を救ってくださる、ということでして、一つのシンボルが十字架に架けられたイエスということになりますね。ところが仏教の場合は、釈尊がそれこそ眠るが如く往生する。安らかに涅槃にお入りになると。この二人の聖者の最後の情景を二つながら合わせ考えますと、何か非常に違うような感じがするんですね。
 
中村:  釈尊の最期というのはほんとに親しいアーナンダとかその他釈尊を信頼している親しい人に囲まれまして安らかなしめやかな大往生であったと思いますね。
 
森本:  そうですね。それに対してイエスは人類に代わって激痛をジッと堪えながらそのまま人間のために十字架に架けられるということですから、やはり世界的大宗教でも、やはり西と東の違いといいますか、なんかそのような感じが時として起こるんですがね。
 
中村:  そうでしょうね。大きな違いだと思います。
 
森本:  今度改めて先生お歩きになられたわけですけれども、やはりこの旅はどこに一番印象が深うございましたか。
 
中村:  そうですね。どこでもやっぱり私の漠然たる記憶をもう一度甦らせたり、或いは想像を確かめて貰ったということがございますが、私がヴァイシャーリーは初めて行ったんです、今度。
 
森本:  そうですか。
 
中村:  ですから初めてのヴァイシャーリーが一番印象深うございました。何にも残っていないんですけどね。しかしあそこへ行きますと、釈尊の頃もこうだったろう、と。マンゴーの林がずっと並んでいるんですね。そして下草がございませんで、風が透けて通るわけです。このマンゴーの樹木が茂っておりまして、その下でゆっくり休むことができる。ああ、それは最後の旅路の経典のあちこちに、どこそこのマンゴー樹林でお休みになった、と。ああ、この通りだったなと思いました。殊にマンゴー樹林はガンジス川を渡って北へヴァイシャーリーに向かうその辺りが一番多いですね。余計何か二千五百年前のことが今の事柄のような、そういう印象を受けましたです。
 
森本:  勿論仏教というのは、釈尊の教えというものはヒンドゥー教から出てきて、ヒンドゥー教とは違ったものでございますけれども、私、実はヒマラヤの麓の僧坊と言いますか道場で何日か過ごしたことがございますが、その時に一番私が衝撃といいますか、ビックリしたのは、何の規制もないということですね。朝何時に起きろとか、そういうこと一切ない。そしてうっかり寝坊して、慌てて出て行きますと、「何をそんなに慌てているんだ」と。「いや、寝坊しました」と、こう申しますと、「それはあなたが自分で修行しに来たんだから、自分で責任を取ればいい。何をしたっていいんだ。あんたの全部の責任はあんたなんだから、自分が思う通りやりなさい」という完全な自由放任というか。
 
中村:  そうです。これは南アジアの宗教について特に言えると思うんですね。今おっしゃいましたのはヒンドゥーですね。仏教のほうでも、スリランカには今でも昔からの、しかも原始的な形の仏教が残っていますけれども、めいめい人が勝手に修行するんですね。かり出されるというようなことがないわけなんですね。
 
森本:  ところが日本でいきますと、割合禅の修行なんていうと、指導して頂くわけですね。
 
中村:  そうです。集団的ですね。
 
森本:  私が何でこんなことを申し上げたかと申しますと、先ほどの釈尊の言葉に、「自分をよりどころにしろ」という教えが出てまいりましたね。ですからやはりほんとに自分が修行するんだから、自分で責任を持って向上していくように自分が努力しなければいけなんだ、と。人に導かれていくんじゃないんだという精神というのはやっぱりこの仏教の中にも十分あるわけですね。
 
中村:  あると思いますね。一つには、中国や日本で何故変わったかといいますと、社会経済が違う、或いは社会生活が違うと思うんですね。中国では集団的でしょう。耕作でも集団的にやる。我が国でもいろいろな規制がございますね。ところがインドだとかスリランカなんかではまったくめいめいの人が勝手にやっているわけです。それからギリシャ人が非常に不思議だと書いているんですね。「インド人はご飯頂く時も一人で頂く」というんですよ。「一緒に頂いたほうが楽しかろうに」というんですね。ギリシャ人と比べてみても違いがある。そうするとめいめいがインディビデュアル(individual)であると。個であるということ。この自覚はインドの子孫には非常に顕著だと思うんです。めいめい人が自己として絶対のものに対面している。そういうところにあるんじゃないかと思うんです。
 
森本:  ですからアートマン、ブラフマンが「一如」という考え方が出てくるわけなんですね。
 
中村:  本当の自己というものは実は絶対なものであるという、そういう捉え方ですね。仏教だって「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」と申しまして、あらゆる生きとし生けるものが、それぞれ内に仏性、仏となりうる可能性は持っている。つまり仏様と対面しているわけですね。
 
森本:  そういう意味で、例えば私もこのほんとにインドの心―最後の拠り所というのは自分なんだ、という考え方というのが今回の最後の旅の仏様の教えでもよくわかったような気がするんです。この釈尊最後のクシナガラへの旅というのは、私はある意味では、キリストのゴルゴタの丘の道のように非常に仏教にとって象徴的な意味を持っているように思われるんですね。
 
中村:  改めて教えられたという気が致します。
 
森本:  もう一度私も先生と同じようにあの道を辿ってみたいなと思っておりますけれども、大変興味深いお話を、今日はいろいろほんとにありがとうございました。
 
中村:  どうもありがとうございました。

 
     これは、昭和六十一年四月十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである