陰涼と成らん
 
                      曹洞宗雲龍寺住職 荒 崎  良 徳 (あらさき りょうとく)
一九二八年生まれ。一九五一年駒沢大学文学部卒。石川県立高校教諭、社会福祉法人林鐘園長を経て、現在、雲龍寺住職。著書「空を拝む」「観音さまのまなざし」「心眼をひらく」ほか。
                      き き て     金 光  寿 郎
 
金光:  今日は、金沢市の兼六園に近い雲龍寺(うんりゅうじ)へお邪魔しております。ご住職の荒崎良徳さんにお話をお伺い致します。荒崎さんは養護施設「林鐘園(りんしょうえん)」の園長をなさっておりまして、「金沢南無の会」の会長もなさっておられます。どうぞよろしくお願い致します。
養護施設「林鐘園(りんしょうえん)」の園長におなりになったのはいつ頃のことでございますか。
 
荒崎:  昭和五十一年四月一日就任しました。十五年ほど前になります。
金光:  その前は何をなさっておられたんですか。
 
荒崎:  ずっと高校の教師をしておりまして、その年の三月の終わり頃に、父が胃ガンでございましたけれども、もう危篤状態に入りまして、それで教員と住職の二足の草鞋は履くべきでない、と考えまして、教師を辞めまして、四月一日付で園長と住職になったわけでございます。
 
金光:  「養い護る」―養護施設ということでございますが、これはどういう方のための施設なんでございますか。
 
荒崎:  これは児童福祉法の第四十一条に書かれております子供で、親がいない子供たち。それから居ても育てられるような状況でない、環境が整っていない子供たち。さらに虐待されている子供たち。近頃はそれに加えて、心に病があると言いますか、いわゆる登校拒否であるとか、非行であるとか、そういう子供たちを預かって親代わりに育てさせて頂いている、という施設なんです。
金光:  そうしますと、高校の先生からいきなりそういうお仕事に変わられますと、随分また勝手が違ったことでございましょうね。
 
荒崎:  そうですね。初めは私は高(たか)を括(くく)って、園長の席に就いたんですけれども、いや、これはもうほんとに四六時中面倒を見なければならないという、そういう仕事でございますのでね、初めはほんとにどうしていいかわからんというのが正直なところでした。特に親が居ない子供というのは、実は今ほとんどいませんでして、一番多い措置の理由、つまり施設に送られてくる子供たちの状況の理由としては、離婚の家庭の子供が非常に多いわけなんです。離婚といいましても、その当事者はどうでもいいとは言いませんけれども、言いたいことはほんとにいっぱいあるんですが、当事者よりもその子供の気持を考えますと、非常に胸に迫ってくるものがたくさんあるんですね。例えば離婚というのは、ある日突然行われるんじゃなしに、その離婚に至るまで、その夫と妻、その当事者は、それこそ何ヶ月間も、或いは何年間も非常に険悪な状態というか、お互いに信じられない、尊敬できないという間違った夫婦の関係がずっと続いて、そして最後に離婚というゴールに到着するんだろうと思いますけれども、当事者はそれで良いとして、そういう険悪なというか、信じ合いないという夫婦の間で、ずっと身を曝(さら)してきた子供たちはおそらく心の中に淋しさやら、悔しさやら、悲しみやら、憤りやら、一番大きなのは不安だろうと思いますけどね。そういうものをずっと心の中に蓄積し続けてきた子供たちを預かるんだというんで、だから園長として仕事はその子供たちの子供の心の中を覗いてやるというか、共鳴共感はできないにしても、その心の中を理解してやるというところから、園長の仕事というのは始まるわけなんです。まあ私は幸いに非常に幸せに育てられてきましたもんですから、解りたいとは願うものの、なかなか難しいんですね。
 
金光:  普通の高校生の方を相手になさっていたのが、そういう子供さんという対象がパッと変わりますと、頭で思っても、なかなか実際はすぐ溶け込むといいますか、心を通わせるというのはなかなか難しいんじゃございませんでしょうか。
 
荒崎:  そうですね。私も初めは解らなかったものですから、理屈と言いますか、理論というか、生意気なことで、例えば児童心理学であるとか、その辺の分野から、私は子供を理解しようと思った一時期がございました。それはもう到底子供たちの心の底に届くような、子供たちの心とほんとに通わすような、そういう考え方でないと思います。それよりもっと子供と一緒に泣かなきゃならんというか、逆にいうならば、子供と一緒に大きな口を開けて笑わなければいかんという、そういうところから子供との繋がりというものを考えていかないと、この仕事はできないな、と思いますね。それにしては、私はあんまりにも未熟者でありまして、自分のこれまで仕入れてきた知恵であるとか、知識では歯が立たないんです。幸いなことに、私は雲龍寺の住職も兼ねておりまして、名前だけではありますけれども、長い間仏さまのご飯を頂戴してきたお蔭で、この私に至らないところの知恵といいますか、子供たちに対する思いと言いますか、これをお経の中に、特に私は、『般若心経(はんにゃしんぎょう)』というお経を心から信じているつもりでありますけれども、その『般若心経』の知恵に助けられて、そしてまあ漸く園長を務めさせて頂いているというのが正直なところなんです。だから私が園長としているんじゃなしに、『般若心経』に守られた一人の男が園長という席に就いているというふうに、私は自分を理解しているわけなんです。
 
金光:  『般若心経』と申しますと、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)―観音様が説かれたお経ということになっておりますが、そうしますと、その観音様のお心を頂戴して、と言いますか、その『般若心経』に説かれている世界で子供さんを見ていく、接していく、そういうお気持ちなんでございましょうか。
 
荒崎:  そうですね。それ以外に、私は方法がないと思うんですね。さっきも言いましたように、欧米の進んだ児童心理学等あるかも知れないけれども、それは理解するには、それがいいかも知れないけれども、ほんとに子供と共鳴共感して、子供と生きていくという上においては、これは心理学よりも、私は、『般若心経』のほうがより力になってくれていい、と信じているんです。
 
金光:  ただ『般若心経』というお経は短いお経でございますけれども、「空(くう)」だとか、「無」だとかですね、なかなか掴み所のない表現に思われますが、そこのところを、どういうふうに実践の中でなさっていらっしゃるんですか。
 
荒崎:  私は、全部『般若心経』を理解させて頂いて、『般若心経』の通りに生きているというんじゃなしに、ご承知のように『般若心経』の最初は、「観自在菩薩行深般若波羅蜜多(かんじざいぼさつぎょうじんはんにゃはらみった)」と始まりますが、最初のその「観自在菩薩」―これは通常「観音様」でございますけれども、今の私の段階はその観音様のお心を少しでも頂戴できればなあ、と。じゃ、観音様のお心というのは何か、と言いますと、いわゆる人様の苦しみ、我々の苦しみをわかってくださるところの仏さまというふうに、普通一般に言われます。観世音菩薩は世の中の音を心から聞いてくださる菩薩さまだ、と言いますけれども、そういう説明よりも、私は、どなたがお書きになった物語か知りませんけれども、私は「早離(そうり)・速離(そくり)の物語」というのが観音様の一番お心をピタッと言い表している物語じゃないかな、というふうに考えるわけなんです。
 
金光:  「早離・速離」と申しますのは、これは人の名前でございますか。
 
荒崎:  そうでございます。これは経典に出ておるのか、或いは単なる伝説なのか、私はそれは勉強しておりませんものでわかりませんですが。
 
金光:  どういうお話なんでございましょう。
 
荒崎:  昔むかしのその昔、と言うんですが、天竺という国に、「早離・速離」という兄弟が居たというんです。その兄弟の母親―生みの親は、兄弟がまだ小さい頃に亡くなってしまって、そして言ってみれば、継母(ままはは)に育てられるわけなんです。ところがある年、天竺に非常に恐い飢饉(ききん)が襲ってまいりまして、食べ物がどんどん底をついていった。父親は、これじゃ一家が飢え死にしてしまう、というので、食べ物や薬を捜していくというわけで旅に出るわけなんですね。ところが待てど暮らせど、父親は帰って来ない。後に残ったのが継母と早離・速離の兄弟である。ところがその継母があまり良くない心を起こすわけなんですね―継母が悪いと言うんじゃないです。お釈迦様は継母に育てられておりますから、継母がすべて悪いと言うんじゃないけれども、この物語はそうなっておるんですから、ご承知おき願いたいんですが―その継母がいけない心を起こしまして、このままほっといたんじゃ、三人とも死んでしまう。だから、せめて私だけでも助かりたい、と。こういう願いを起こしましてね。そのためにはどうすべきかというと、子供二人捨ててこなければいけない。子供を捨てるわけなんです。どういうふうに捨てるかと申しますと、「父親が見つかった」という嘘を言いまして、そして子供たちを小さな舟に載せまして、絶海の孤島へ連れていくんですね。その孤島―無人島は岩だらけのゴツゴツした島でございまして、そこには木一本、草一本生えていない。そこへ子供たちを連れて行って、「この島にお前たちのお父さんがいるから捜しておいで」と、こう言って上陸させるわけなんです。そしてそのまま母親は舟をサッと漕いで帰ってしまうんです。子供たちはそれを知りませんので、一生懸命父親を捜す。これまでろくなものを食べていないし、それこそ体力の限界がきているところに、陽がカンカン当たって、日陰の全然ないような岩だらけの島に着いて、そして声を限りに、「お父さん! お父さん!」と捜し歩くもんですから、みるみる体力が衰えていって、やがて二人はもうお終い、という時を迎えるわけなんです。二人は、「どうもこの島にお父さんは居ない。だからもう一遍家へ帰って、そしてまた出直そう」ということで、海岸へ行きましたら、母の姿は見えなければ、舟の姿もない。はじめてその兄弟は―早離・速離は、騙されたんだ、ということに気が付くわけですね。しかし、その時、二人の命は消える寸前だった。先に弟のほうが息を引き取るわけなんですが、その息を引き取る時に、速離はこう言うんですね。「兄さん、僕たちの一生というのは、ほんとに不幸であった。いろんな嫌なこと、苦しいこと、辛いことがたくさんあって、最後には信じ切っていた継母のお母さんにも裏切られてしまった。こんな嫌な人生を送ったのは誰のせいだろう。あの継母のせいだ。だから僕は死んだら生まれ変わり、生まれ変わりして、あの母親を呪ってやりたい」と、こう言うんですね。そうしたら兄の早離が、弟を抱き抱えて、「お前、それは違う。これだけ苦しい思いをさせられ、辛い目に遭ってきたのは確かだ。しかし、考え方を変えれば、これだけの辛い苦しみ、そして継母からの裏切りに出逢うたという、こんな苦しみはきっと願っても頂戴できない苦しみじゃないか。せっかく頂いた苦しみだから、これを人様のために役立てるように生まれ変わろうじゃないか。今度は生まれ変わったら、裏切られて泣いている人のところへ、腹空かして泣いている人のところへ、母親に死に別れて泣いている人のところへ行って、手を取って、泣いてあげようじゃないか。そのほうが良いよ」と言いましたら、弟のほうの速離が、兄さんに向かって、「僕が間違っていた。兄さんのいう通りだ。やっぱり兄さんのいう通りに、僕も生まれ変わりたい」と言って、息を引き取るわけなんですね。おそらくこれはそういう願いを立てて息を引き取った弟の速離の顔というのは、これは非常に穏やかで美しかっただろうと思います。これが怨んでやろう。呪ってやろう、と死んだら、これは恐い顔だったろうと思うんですが、兄さんの言葉をほんとに受け止めて、人様のために泣いてあげられる人になろう、と死んだんですから、きっと美しい顔だった、と思いますね。その美しい微笑みをたたえたような死に顔の弟の遺骸を抱いたまま、兄の早離もやがて息を引き取る。その兄の生まれ変わりが、「観音様」であって、弟の生まれ変わりが、「大勢至(だいせいし)菩薩」である、と。阿弥陀如来さまの両脇にお立ちになって、如来様の誓願を世に広めてくださるのが、そういうお心で誕生した観音菩薩と、大勢至菩薩である、と。こういう物語があるわけなんですね。私は、この物語は、どなたがお作りになったのか。この物語はおそらくお釈迦様はお作りにならないだろうと思います。学問的なことを言えば、それは出鱈目で間違いの物語かも知れません。しかし、私は如何にそれが出鱈目の作り事であっても、お釈迦様のおっしゃったことでなくても、私はこれは観音様のお心をそのままズバッと、私らに伝えてくださる素晴らしい物語だとして、私は紹介しているんです。同時に、早離・速離というのは、何にも物語の中の話だけではなしに、私たち自分自身の中に、早離・速離がキッといらっしゃるに違いないと信じているわけなんです。大変おこがましい言い方をしますけれども、私の心の中にも、そういう早離・速離が居てくれるんじゃないかなあ、と。これを頼りに、今の仕事をさせて頂いていると、こう言っていいかも知れません。私の考える、私の思う観音様というのは、そういう仏さんだというふうに思うんです。
 
金光:  そうしますと、先生の目の前に、家庭的には非常に不幸な環境の中から離れて、園に来ている子供さんたちはそれぞれみなさん、苦しみをお持ちだろうと思いますが、そういう子供さんの苦しみをできるだけ一緒になって、軽くしてあげるために、ということで、いわばその観音様の願いというのを、毎日日常の中で受け取って、子供さんに接していらっしゃる、ということになるわけでございますね。
 
荒崎:  美しく言って頂けばその通りであります。そこまで行きたいんですけれども、なかなか行き着かないというのが正直なとこでございましてね。私もさっき申しましたように、子供を心理学等で理解してみたいと思った時期もありましたし、福祉ということもよくわからなかった時期もありました。そういう何にも知らなかった私の目を一つ一つ開かせてくれたのが、今預かっている子供たちであると同時に、私の父であり、また私の子供であった、というふうにも思っているわけなんです。例えば私の父なんですけれども、この「林鐘園」を開設したのが、私の父ですけれども、その「林鐘園」の開設の経緯の中にも、観音様の心を、私は拝ませてもらうんですね。というのは、私の父は生涯、社会福祉の道を歩み続けた人間でございました。戦前、戦中、戦後にかけて、もう一筋に社会福祉をやりましたんですけれども、一番この父に大きくものを考えさせたのは、やはり敗戦でございましたでしょう。これまでのいろんな価値観が崩れまして、新しい日本にはじめての民主主義というものが入ってきて、その中で社会福祉は如何にあるべきか、ということを、父は相当苦悩したらしいんです。その苦悩の中から、父がまず最初に辿り着いたのは何か、と言いますと、「小児施療院」というものを造りたかったんですね。
 
金光:  子供に治療を施す治療院ということですね。
 
荒崎:  そうです。中味を言いますと、現代の言葉に直しますと、「小児科専門救急医療センター」と言いますか、ちょっと具合の悪い子供たちを、身体の調子の悪い子供を抱えて飛び込みますと、即座に、つまり夜中であろうと、休日であろうと、時かまわず、即座に最高の腕を持ったお医者さんが、最前の努力をして、しかも無料である。そういう夢のような―今では夢ではありませんけれども、終戦後は夢でございましたけれども―そういう病院を作りたかったんです。何故私の父が、そういう病院を作りたかったか、と言いますと、実は、私、弟が一人、妹が一人―父からしますと、息子が息子が一人、娘が一人でありますけれども、私の妹のほうは疫痢という病気がございまして、弟のほうは日本脳炎で、妹が三歳で、弟は二歳で亡くなっておるわけなんです。その時のことをうろ覚えに覚えておりますけれども、その時両親の悲しみ、苦しみというのはほんとに深いものがございまして、四十九日間、毎晩毎晩西国三十三カ所の御詠歌を唱え続け、或いは小さな黒い石に一字一字観音経を書きまして、「これをお墓の中へ入れてやるんだ」と。いま思うと、ほんとにどれだけ両親の悲しみ、辛さというのが深かったかなあと、私は思うんです。終戦後、自分がこれから新しく歩むべき社会福祉の道を考えた時に、「そうだ」と。あの悲しみ、あの苦しみ、つまりわが子に先立たれるという、あの悲しみや辛さ、苦しみを、人様に味合わせてはいけない、と。おれ一人でたくさんだと、そういう気持があって、父は小児施療院をなんとか開きたいと考えたわけですね。これは後ほど、父が亡くなりましてから、父の書き残してくれました遺稿によって、私はじめて知ったんです。いえ!と思ってね。その時はほんとに感動というよりも、言葉に言い表せない気持に打たれました。でも、そういう病院を開きたいと、県へ持って行きましたら、県はそんなゆとりのある時代じゃない。それよりも戦災孤児等で親を亡くした子供がいっぱいいるんだから、そっちを救ってくれ、と。そこで県と父は口論をしたそうです。「いや、小児施療院で、とにかく子供に先立たれる親の苦しみをなくしたい」と、父は主張しますし、県のほうは、「今、親が亡くなってしまった子供が、巷(ちまた)に溢れているんだから、あの孤児たちを救ってやってほしい」と。相当いざこざがありまして、とうとう父が押し切られましてね。父も、「そうだ、子供の健康―命を守ることも大切だけれども、今、親に死に別れ、そして親に戦死されたり、或いは戦災死されたりして、巷にうろついている子供たち―孤児たちを救うほうが大事だ」と、腹決めて、そして「林鐘園」というのを始めたわけでございます。
 
金光:  そうですか。
 
荒崎:  私の父の心の中にも、早離・速離がちゃんといらっしゃったんだなあ、とこう思うんですね。もう一つ、これは私の身内の話でありますけど、私はほんとに未熟者で、父には勿論こと、娘にもものを教えてもらうほうでございましてね。実は、私の長女でございますが、これは左手に「血管腫」と言いまして、痣(あざ)じゃないんですけれども、左手が赤いんです。保育所から小学校にかけて虐められっ子だったんですね。「おばけ、おばけ」と言われて、虐められっ子で、そして時には、「学校へ行きたくない」と言ったこともございましたけれども、なんとか卒業させて、上の学校へと進ませたいんですけど、私は親としては、これだけ手が赤いと、お嫁の口もないんじゃないかなあ、と。そうすれば女一人が自活していくためには技術を身に付けさせてやりたい、と。まあ高校へ入りましてから、その先の大学の進学先は奈良女子大をいつも考えていたんです。「奈良女子大の書道科へ入れ」と。普通の先生だったら定年退職で終わりでしょう。書道の先生だと、教員としても成り立つし、それから作家としても成り立つ可能性がありますもので、盛んに私は、奈良女子大の書道部へ進むように勧めたんですけども、妙なことに頑として、娘はそれを拒むんですね。そして、問い詰めて問い詰めたら、ポツリと答えてくれたのが、「そういう自分の生活を考えるお父さんのような考え方よりも、お爺ちゃんのような―私の父ですけれども―おじいちゃんのように世の中の人のためになるような、そういう生き方をしたいから、社会福祉の関係のほうだ」と、こういうんです。私は、「それはお前は若いから、そういうのであって、やっぱり書道は良いよ。芸術だから」なんていうことを言いましたら、なかなか承知してくれないんです。最後に問い詰めましたら、娘はなんと言いましたかと言いますと、「私は手が赤いために、保育所の時から、小学校の時から、おばけ、おばけ≠ニ虐められてきた。どれだけ口惜しい思いをしかたわからない。そういう口惜しい思いをしておる子供たちがいっぱいいる。私はその子の味方になってやりたい」と、こういうことをいうんです。えッ!と思って、「じゃ、具体的にどんなのか」と言ったら、「学芸大学の言語障害へ進みたい。そうして吃音の子供やら、それから言語未発達の子供やら、或いは言語障害の子供らの味方になって、あの子たちもやっぱりその学校等で虐められているに違いないから、あの子たちの味方になってやりたい」。そこまで言われますと、私はほんとに「どっちが親かしら」とこう思いましてね。お蔭様で学芸大学へ進ませて頂いて、そして小川先生という研究室へ入れて頂いて、そこで素晴らしい婿さんまで巡り合わせて頂いて、今、幸せに東京で生活をしておりますけどね。あの時の言葉、これは私はほんとに未熟者だなあ、と。娘に教えられるわけですからね。自分で味わった苦しみを活かしていくというか、そういう苦しみを持っている子供たちの味方になってやりたい、と。その時、娘は泣きながら私に言ってくれたんですけど、あの涙の素晴らしさというのは、我が子ながらほんとに私は脱帽したところなんです。
 
金光:  やっぱり困って苦しんでいる子供たちにとっては、同じような苦しみを持っている人のほうが、言葉で、理屈でいうよりも、言葉を超えて共感できるという、そういうことがあるんじゃございませんか。
 
荒崎:  そうですね。実は、これは非常に恥ずかしいと言いますか、これまではほんとに口が裂けても言うまい、知られまい、とした私の秘密があるんですね。ずっとこれは生涯自分の秘密だなあ、とこう心に決めていたことがあるんです。それは何かというと、私は小学校の頃、学校へ行けなかったことがあるんですね。今でいう登校拒否ですね。学校へ行けなかった一時期があるというのは恥ずかしいものですから、ずっと私の心の秘密として、しまっておいたんですけども、今言いましたように、父のそういう生き方を見、そして娘の長女からそういうほんとの気持を聞かせてもらい、いろいろしているうちに、私のその秘密にしているということが非常に恥ずかしく思いましてね。そうして私の秘密ではあるけれども、これを役立たせたいなあと思って、恥を忍んでこう申し上げる、とこういうことなんでありますが、私は学校へ行けなかった一時期がある。今でいう登校拒否でありますけどね。今の登校拒否というのは、私は講演なんかでいうんですけれども、「楽ですよね」とこう言うんです。というのは、子供が部屋へ入って、内から鍵をかけて、「学校へ行かないよ」と言えば、両親から、教師のほうもウロウロして、「行って頂戴! 行って頂戴!」と、こういう時代の登校拒否ですから、「楽だね」と、こういうんです。本人は苦しいでしょうけどね。私が学校へ行けなかったというのは、小学校三年か四年生の頃でしたけども、当時はそんなことができる時代じゃございません。「学校へ行く」って、家は出るんですけども、どうしても学校へ行けなかった。どうしていたか、というと、金沢市内をうろついていたんですね。あの時の私の心境と言いますか、今思い出しても、ほんとに惨めなもんです。いわゆる表通りを歩けないんです。心理的に、心情的に歩けない。それは悪いことをしているんですから、どうしても裏通り、小さい細道から細道へと隠れるようなことをしている。ジッとしているわけにいかない。ジッとしていたら大人に見つかって、「何しているんだ」と言われるから、さも用事のありそうな顔をして小道から小道へうろちょろうろちょろしていなければならない、という。だから、侘びしさというんですか、惨めさというのは、私はたっぷり味わってきたわけなんですね。だからあんまり惨めで恥ずかしいものですから、これは自分の生涯の秘密だと決めていたんです。でも、さっき言いましたように、父親が、或いは娘やら、或いは『般若心経』の中の観音様に出会いまして、これを役立てて差し上げなければいけない、という気持になりましてね。どういう形で役立つのか、と言いますと、例えば私の施設に登校拒否の子が送られてまいります。園長室で二人きりで話をするんですね。私は、「君は学校へ行けなかったんだってな」。「はい」。「学校へ行かないで、どこに居たんだ」。ある子は、町はずれの土管の中に隠れていた、とこういうんです。その時なんですね。私にできることというのは、「辛かったなあ!」と言ってやることができるんです。これが経験のない者は、それが言えない。つまり「辛かっただろうなあ」と。「だろうなあ」が入ると、本当の慰めには、私はならんと思うんですね。私はこの時こそ、私の自分の過去の恥ずかしい経験が有り難いなぁ、と思ったことがない。送られてくる子供に、「辛かったなあ!」と言ってね。子供も私の手を取って泣いてくれるんです。それで登校拒否が治るわけじゃないんですね。言ってみれば、あ、自分を少しでも理解してくれる人がここに居るんだな、という、それだけのほんのちっぽけな安らぎだけが与えられるわけなんですけど。後は勿論職員たちがほんとにそれこそ命懸けで、一生懸命その子供の立ち直りをはかって努力してくれるんです。最初のきっかけの、「あ、ここにほんとの辛さがわかってくれる人間がいるんだな」という、ホッとした、何か小さなものだけで、私の力で与えてやれるんだなあ、と。そう考えると、これは小学校の時に、私が学校へ行けなかったというのは、これは観音様が、将来お前は寺の住職と施設の園長にならないかんのだから、今ちょっと辛い目にあっておけ、というわけで、登校拒否にさせてくれたんだなあ、と思うわけです。自分のそういう辛い思い出を―こんなことを言ったら、ほんとに甘ったるい考え方ですけどね―そういうふうにも自分の過去を振り返ることができておるんですけどね。今言いました「辛かっただろうなあ」でなしに、「辛かったな」というのが、実は私たちが一番求めている救いというか、一番欲しがっておる安心じゃないか、と。それを観音様がたっぷり持っていらっしゃるから、私たちは観音様にすべてをお預けして、大きな安らぎが頂戴できるんじゃないかな、というふうに思えるわけなんです。
 
金光:  そういう意味では、子供さんなら子供さんに接する人が、苦しみをどれだけ感じていたか。その苦しみを感じていらっしゃった量が多いほど、いろんな子供さんの苦しみがわかる、ということにもなるわけでございますね。
 
荒崎:  そうですね。だから、「苦しみが深ければ深いほど、仏さまに近い人だ」というふうに、どなたかがおっしゃった言葉があるんです。ほんとだなあと思いますね。或いはまた、「挫折したことのない人とは、話たくもない」という言葉があるんですね。これなんかはやっぱり挫折というか、苦しみに出逢うて、はじめて人間の心が開いてくるんじゃないだろうかな、と思うんです。これがいろんなところで役だってくれましてね。去年も一つありました。富山のある高校の先生から電話がきましてね。その先生というのは、私のかつての昔の教え子なんですが、「助けてほしい」というんですね。「何だ?」と聞いたら、「自分の受け持ちの子供が一人登校拒否になっている。なんとか先生、力になってほしい」というもんですから、私は、「じゃ、いいよ。私は力むかもしらんけども、まあ連れておいで。しかし、子供だけじゃダメだよ。君も来ないといけないし、それからその両親も連れておいで」と。これは学校へ行けなくなった高校生の親というのは、どんな遠いところであろうと、藁をもすがる思いで来てくれたんです。私の寺のお座敷に入ってもらいましてね、両親とそれから担任の教師と本人と、その四人を前にしまして、私は言いました。どう言ったかというと、担任の教師と両親には、「暫く黙っておってくれ。私はこの子と話をしたいんだ」と。その子と言っても、それは高校生の男の子なんですけど、ほんとに突っ張った顔をしてね。まあ私はわかるんですよ。もう担任の教師から、親から、親戚の者からそこらじゅうの者から、「学校へ行け、行け。今の世の中で学校卒業の資格がなくて、どうする」とか、何とかって、おそらく説教をずっと聞いてきたんだろうと思うんです。挙げ句の果てに、わざわざ汽車に乗って金沢まで行って、それもお寺へ行って、坊主に説教されるのか、というような顔をしている。いろんな説教を聞いてきたんだぞ、というような顔をして、ふて腐れて坐っているんですよ。私は彼に言ったんです。「君は学校へ行けなくなったんだってね」。黙っているもんですから、「良かったねぇ!」と、私は言ったんですよ。「おめでとう。学校へ行けなくて良かったねぇ!」。まあビックリしたのがありありとわかるんですね。担任の教師は変なところへ連れて来た、と思ったんでしょう。両親も、これはほんとにビックリして、一体何が始まるんだろう、と。その言ったことを予想して釘を打っておいたものですから、黙っていたんです。で、それ以上に本人が意表を突かれたのは当然でしょうね。「学校は大事だから行きなさい」なんて言われると覚悟しておったところへ、変な坊主が、「学校へ行けなかった。良かったね。おめでとう」というんですから、ビックリしたんでしょうね。で、「私は何で君におめでとう。学校へ行けなくて良かったね、と言ったのかわかるか」と。それはわかる筈ないですから、キョトンとしている。「じゃ、今から話をしてあげるからね」と。それで、私は話してあげたんです。「文部省の統計によると、登校拒否というのは増えることはあっても減ることはあるまいという、非常に嫌な数字が出ておるし、それからまた登校拒否は君一人じゃない。この日本全国にどれだけの登校拒否がいるか。おそらくたくさん人がいるだろう。みんな苦しんでいる。君も非常に苦しいだろう。学校へ行けない。何故行けないのか、そんなことを私は聞かない。でも行けないということは、学校へ行こうとしてもなかなか足が向かない。家から出ることができない。それは苦しい」。「それは苦しいだろう」と言ったら、本人がそれは頷いてくれるんですね。「そういう君と同じ苦しみを持った同じ年頃の仲間がたくさんいるんだし、これからも増えていくという予測が出ているんだけど、ほんとにその苦しみや、悲しみや辛さというか、それをわかってやれるのは、誰かというと、ここにいる五人の中でほんとにわかるのは、俺と君だけだよ。俺も実は小学校の時、学校へ行けなかった非常に辛い惨めな思いがあるんだ。君も今きっと俺のあの頃と同じ気持ちだろう。しかしながら、この味わったということはほかのたくさんのそういう同じ辛さを味わっておる悲しい人々の気持をわかってやれる。それ素晴らしいじゃないか。だから俺は君におめでとう≠ニ言ったんだ」と言ったら、顔色がだいぶ変わってきましてね。一番先にビックリと言いますか、頭を下げたのが、担任の教師でした。「先生、許してください」と、私に頭をさげるんですね。「そんなふうにこの子の登校拒否を、今まで一遍も見てやることができませんでした。それで登校拒否を起こしてしまったんです。僕が悪かったんです」と、担任の教師が頭を下げる。それから両親もそれに続きましてね、「ごめんなさい」と、私に下げるんですよ。「登校拒否をそんなふうに捉えることができるということを、今まで知らなかった。行けないことをしっかり捉えられなかった。この子を責め立て、この子をさらに頑なにさせてしまった」と、私に謝って、その次に子供にも謝ってくれるんですよね。まあ後聞きましたら、やがて子供の心が解(ほぐ)れてきて、学校へ行けるようになった、という報告を聞いて、ほんとに良かったなあと嬉しかったですね。経験のない者が、そういう話をしたんじゃ、子供の心の底へは決して届いてくれんだろう、と思うんです。大人が何をまた理屈をこね回して、というふうにしか取ってくれないと思うんです。その点、私は小学校の頃に学校へ行けなかった、ということが、なんか観音様のお導きというか、観音様の大きなお心に支えられて、というのはおかしいですが、そういう巡り合わせになってきたんじゃないかなあ、と思って、自分自身の過去に、実は私は手を合わせているのが正直なところなんです。
 
金光:  苦しみということでございますと、お釈迦様は苦しみについての大先輩で、普通の人が感じないようなところまでいろんな苦しみの原因というのをちゃんとご覧になっていらっしゃるし、それから荒崎さんご自身も登校拒否だけでなくて、その後も苦しい経験をお持ちになって、それを超えてこられた。その苦しみというものに対して、「困った、困った」だけでは、辛いだけでは展開はされないんじゃないかと思いますが、ご自身の体験で苦しみの時には、その場は大変どうしていいかわからないから苦しいわけでしょうけれども、それを超える転機みたいなものになることがあったら何か教えて頂きたいと思うんですが。
 
荒崎:  今振り返ってみますと、ほんとにたくさんの方のお力を頂戴して、やっと苦しみを―ご存じない方はいらっしゃるかも知れませんけれども、昭和五十八年にとんでもない苦しみ(林鐘園の経営危機)を頂いたというのが正直なところですけどね―頂戴して、夜も寝れなくなって、食事も喉を通らなくなって、坐っていることさえ苦痛になりまして、横になって呻いておったんです。お蔭様でたくさんの人に支えて頂いて、その苦しみから立ち直ったんです。やっぱり今思い出してみますと、一番大きな力になったのは、観音様に対する祈りじゃなかったかな、というふうに思うんですね。お寺に生まれて、お寺で成長させて頂いたお蔭で、観音様に手を合わせて心から祈れば救われるという、そういうことをずっと聞き続けておりますもので、苦しい中からほんとに一生懸命、家(うち)の観音様にお願いしたというか、手を合わせてお詣りしたんです。そういうお詣りの中からポツンポツンと力が頂戴できるんですね。例えばあるご老師さまは私の顔をご覧になって、「雲龍寺さん、苦しいか。苦しいならトコトン苦しみなさいよ」と。これがとっても大きな励みになりました。実はこのご老師さんは、若い頃私によく似た経験で、大変な苦しみに遭われた方なんです。その方が優しい顔をして、「荒崎さん、苦しいか、苦しいならもっと苦しみなさいよ」。ああ、ほんとにあの時はひれ伏しましてね、感動して、それだけでも違いますね。苦しんだことがない人が、そんなこと言っても、大したことないですけどね。苦しんだというご経験がおありになることを、私はよく存じておりますもんですから有り難かったなあと思いましたね。或いは酒井大岳(だいがく)先生のご本を読まして頂いたり、いろんな方に支えて頂いて、助けて頂いて、言ってみれば苦しみを転じて、大きな喜びにさせて頂いたというのが偽(いつわ)らないところですけどね。
 
金光:  「転じて」と言いますと、あの『般若心経』の中に、「遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)」とありますね。苦しみの場合でも、そういう苦しんでいる自分自身というものをもう一回見つめ直すと言いますか、何か苦しみに対する対し方が違った目で見ることができると、またそこにある転換点みたいなものが出てくるわけでございますか。
 
荒崎:  それもあるでしょうけどね。例えば、私はこういうことを思うんです。助かりたい一心で一生懸命『般若心経』を読んだ。ところが『般若心経』の精神は、空(くう)であると。空(くう)というのはほんとに難しい思想で、私は到底わからんけども、いわゆる一般には、「総ては縁によって生じた仮のもので、実体のないものである」ということになっているようです。そして、その実体のないものが総てであると気付いたとき、人間は救われると説きます。何にもないことであって、それを人間があるように錯覚しているから苦しみが起こるんだと。本来は何にもないのを空というんだ、と言いますけれどね。私はよくわからないんですよ、全然。そういう考え方をしますと、空(くう)という以上、虚(むな)しくて虚しさにいくんじゃないかなあというふうに―これは私は修行が未熟ですから―そんなことじゃないよって、叱られるかも知れませんけれども―どうも納得できない。「空(くう)」というのは別に読むと、「そら」とも読みますね。私は、その苦しみの最中に、ひょうと空(そら)を見たらヒントがあるんじゃなかろうか、と思ったんです。私は何をしたかと言いますと、この芝生に大の字になりまして、空をこう見上げたんです。そうしたらわかったんです。なんとバカバカしい話だ、とお思いかも知れませんけどね。私たちが普通見る時の空(そら)は、立って見るか、こうやって坐って見るか、でしょう。そうすると言ってみれば、空の四半分か、半分か、わずかしか見えないわけです。
 
金光:  そうですね。
 
荒崎:  後ろが見えない。カエルじゃあるまいし。ところがこう芝生に大の字になって見ますと、言ってみれば、全天が見えるということです。空全体が見えるということ。そして、私はわかったんです。「あ、これだ」と思ったんです。何が「これか」というと、立って見る、坐って見る、というのは自分というものに支えられて見るんだ、と。自分の足が支えて、自分の腰が支えている。つまり明らかに自分というものを土台にして見ると、物は半分しか見えない、と。それよりも自分というものを全部大地に預けてしまって、言ってみれば素っ裸になって、さあ、どうでもしてくれ、という感じで見ると、全部が見えるんじゃないか。禅宗のほうでは、「見性(けんしょう)を得た」ということを言いますが、見性を得た方のお言葉を言いますと、「見証を得た時には、爆発するような、突き上げてくるような喜びを感ずる」とおっしゃるけど、私はそんな見事なものは感じたことないんですけども、あの時は私は、「これが見性かな」と思うぐらい、ああ、嬉しかったですね。そして私はこの参道を、「見えた! 見えた! 空が見えた!」と言って躍って歩いたんです。家内はとうとう苦しみのせいで頭にきたんじゃないかと思って、えらい心配したそうですよ。ほんとにあの時は嬉しかったですね。この大きなでっかい空、カラスが糞をたれながら飛んでいますが、なんとも言わないし、ジェット機がゴォーッと騒音を立てながら飛んでも、なんに言わないし、何でもこい、という顔をして、空は大きく広がっているでしょう。悠々としているのが空である、と。そうしますと、今おれが抱えておる苦しみなんていうのは、なんだ視野の角度三十度の狭いもんじゃないか、と。それ以外にでっかいでっかい人生が、でっかいでっかい毎日があるんだ、と。そんなちっぽけな苦しみに振り回されて、やれ食欲がないの、やれ眠れないの、そんなのはおかしい、と。それ一遍に空の全部を見させて頂いて、頂戴したんです。だから苦しみは苦しいとして、徹底的に老師さまがおっしゃったように、トコトン苦しみを味わえばいいし、それからまた酒井大岳先生がおっしゃるように、「苦しみというのはなんのことはない。自分がつくるものじゃないか。人にもらうものじゃないんだ。そうならざるを得ないような過去がお前にあって、それがだんだんそういう苦しみというところへ、終着駅へ近付いてきて、それがやって来ただけのことじゃないか。苦しみは自分でつくるものだから、自分でそれを処理するのが当たり前なんだ」と、酒井大岳先生にそれを教えて頂いて、そして今話をしました空(くう)の問題とか、苦しみそのものについては、いろんな経験でいろんな方から教えて頂いて、苦しみの多面性と言いますか、それも私は、一つの「空(くう)」ということの愛用じゃないかな、と思うんです。私の考える「空(くう)」というというのは、薬師寺の管長さまの高田好胤(こういん)さまが、
 
     かたよらない心
     こだわらない心
     とらわれない心
     ひろくひろく もっとひろく
     これが般若心経 空のこころなり
 
とおっしゃった。素晴らしい名言ですね。
私の尊敬する林屋友次郎(1886-1953)という先生は、「空というのは、無限の可能性を見ることだよ」というのを教えてくださったんですね。これだな、と。私は、この林屋先生や高田好胤さんも同じ発想じゃないかと思うんですね。とらわれないことが空(くう)である、と。そういう形で、この苦しみというものを考えて、そしてまたトコトン苦しんだ苦しみを、今度は早離・速離のように人に分けてあげたい、という。こういう気持ですね。それ一口で言いますと、海援隊というグループの武田鉄矢さんが、良い詩を作っていらっしゃる。「贈る言葉」という歌の中に、
 
     悲しみこらえて 微笑(ほほえ)むよりも
     涙かれるまで 泣くほうがいい
     人は悲しみが 多いほど
     人には優しく できるのだから
 
と。まあこの言葉ほんとに武田鉄矢さんは、観音様のお心をご存じかな、と思うぐらい。これでなければいけないな、とこういうふうに思います。
 
金光:  今、この芝生に大の字になられた話というのは非常に面白いと思いますが、と言いますのが、自分は非常に客観的に物にとらわれないで見ているつもりでも、立って見ている時には後ろは見えていないし、後ろが一部分しか見えていない人間にとっては、それで全部だと思わざるを得ないところがあるわけですね。それが本当に地球に全部を任せて、手も足も力を抜いて、目だけ開けて上を見ると、何にも力を入れないのに全部のこの空が見える、と。そういうふうに全部の空が見えてこないと、今までの一部分だったということに気が付かないということがあるわけでございますね。そういう意味で、ほんとに空(くう)の目で見るということは、ほんとにとらわれのない目で見るということなんでございましょうけれども、理屈で、「じゃ、空(くう)の目で見よう」と思ったって、これはなかなかそうは簡単にいかないところがございますね。
 
荒崎:  やっぱりこう自分で苦しんで、ああでもない、こうでもない、あっちへいってぶっつかり、こっちへ行って跳ね飛ばされて、やっとわからせてもらえるもんじゃないかなあというふうに思います。
 
金光:  そういう意味では、ご自分が苦しみをいろいろ体験なさっていらっしゃいますので、だから子供さんに対しても、子供さんのほうも、「ああしなさい、こうしなさい」ということは、もうしょっちゅう言われてきていることだろうと思いますが、そういう方向でなくて、そこから超える道と言いますか、方向というものを感じることが出来やすい先生になっていらっしゃるんじゃないですか。
 
荒崎:  いや、そこまでなかなか・・・なりたいんですけどもね。ほんとに今子供三十五人預かって、それを育てる職員が十五人ほどおりますけどね。その中で一番仕事をしないで、一番未熟なのが園長じゃないかなあと思って、毎日毎日恥ずかしくてしょうがないというのが、実際のとこなんですがね。
 
金光:  でもその子供さん、或いは一緒に仕事をしていらっしゃる先生方から教えられると言われることは、園長先生は自分たちのことをこういうふうに感じてくれているな、というのが、またこれわかることでございましょうし。
 
荒崎:  わかってくれますかどうか。実は昨日も和倉温泉で中部六県の施設の研究協議会がありまして、「最後の締め括りの挨拶をせ」というので、私は、壇上で暫く話をさせてもらったんです。その時、初めはあるほかの話を用意していったんですけども、その場の空気で、昨日は実はどういう話をしたかというと、私の施設には指導員が三人、保母が六人おりますけどね。その指導員の三人のうち二人が、私が仲人して纏めてやった人なんです。相手は同じ園内の保母なんです。職場結婚なんですけどね。その時、最初の結婚の許可を取りにきた指導員と保母が、結婚すると言って来た時に、私は心配して、「これから結婚するとなると、妊娠から、出産から、育児というのがあるけど、お前、それをどう考えているのか?」と聞いたところが、その指導員が私に言ってくれたことは何かというと、「今、我々の預かっている子供たちは、母親というイメージが非常に薄いと私は思う。つまりどう人間は生まれて、どう育てられてきたか、ということは非常に薄い、と思う。それを見せてやりたい」と言うんです。「結婚して、妊娠して、お腹が大きくなって、それが陣痛という苦痛で、赤ちゃんとなって新しい生命(いのち)が生まれて、それにおっぱいを与えて、おむつを替えてやる。それ一部始終をその子供たちに見せて、母親というのはこんなもんだよ、ということを、自分たち身をもって教えてやりたい」と、こういうふうに言ってくれたんです。その時は本当に感動しました。これはまあ園長というのはほんとに飾り物だな、と。ほんとに子供のことをしっかり見てくれるのは、職員のほうなんだなあというわけで、それを実は、最後の挨拶の時に話をして、みんなも頑張ってほしい、と激励をしてきたんです。事々左様に、と言いますか、子供たちにも教えられ、職員たちにも教えられて、そしてやっと歩み続けている、というのがほんとに正直なところなんです。謙遜でもなんでもないです。
 
金光:  でも、禅のほうの言葉に、「天下の人のために陰涼ならん」と言いますか、涼しい陰になろう、という言葉があるというふうに伺っていますけれども、先ほどからのお話を伺っていますと、何か苦しんでいる人の、暑さに、苦しみの人のための陰の役をご自分の苦しみの体験を通して活かしながら、そういう暑さ避(よ)けのお仕事を、苦しみを除くお仕事を随分役立てていらっしゃるんじゃないかな、というふうな気がしながら伺っていたんでございますが。
 
荒崎:  その「陰涼とならん」というのは、実は松原泰道(たいどう)先生から頂戴した言葉です。私はあのお言葉を頂戴した時に、これは畏(おそ)れ多いと思ったんです。私はそんな人様の苦しみを覆い尽くすという、そんな力はありませんしね。逆に私ははっきり申し上げたいのは、すべての方々に陰涼になって頂いているという感じですね。みんなに涼しい陰を作って頂いて、そこで、私は漸く歩ませて頂いているというのが実感じゃないか。そうすると世の中で一番幸せなのはこの私じゃないかなあと、こういうふうに今自分を捉えて手を合わせているんです。
 
金光:  そうしますと、ご自分は園長というお仕事ですと、いわば一番上に居て、みなさんに、「ああしなさい、こうしなさい」というような、そういう立場にいらっしゃるのかなと思っていたんですが、どうもみなさんと向かい合っているんじゃなくて、なんか同じ方向を歩いていらっしゃる。
 
荒崎:  後ろからね・・・。園長としての事務的な処理はやりますけどね。ほんとの人間対人間というのは園長もあるもんかという気持ですね。園長も保母も指導員も給食のほうの人たちも、みんなこれは子供さんも勿論含めて、みんな同じじゃないか、と。ただ世の中のバランスを取っていくために、園長職という、そういう職があるだけなんだというふうな感じですね。
 
金光:  でも、それは例えば観音様も、「ああしなさい、こうしなさい」という立場でお話になっているんじゃないか、という気がしますが。
 
荒崎:  観音様は、「わかるよ、わかるよ」と、ほんとにさっきの「辛いだろうねぇ」でなしに、「辛いねぇ」と言ってくださるのが観音様じゃないかなあ、と。私らは、「その辛いねぇ」と言ってくださる観音様にもう甘い切っていけば、それでいいんじゃないかな、というふうにこう思います。
 
金光:  禅の話でいうと、非常に難しいというふうに思われがちでございますけれども、でも先ほどからのお話も、禅の説かれている世界とまったく同じことと、
 
荒崎:  と思いますね。実はこれ「絡子(らくす)」というんですが、これは私の宝物であります。いっぱい「絡子」を持っておりますけれども、これだけが宝物です。ちょっと外して見ますと、こう書いてあるんです。これは私の亡くなりました父が、亡くなる前の年なんです。私に形見のつもりでくれたんだろうと思いますけれども、読みますと、「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)」。「無一物」と言ったら裸になれ、ということでしょう。裸になると無尽蔵の宝が掴めるよ、と。これ父がくれた時は、難しいことを書いてくれたなあと、こう思ったけど、近頃やっとこの意味が、ああ、本当だなあ、と。親父は最後まで偉かったんだなあというふうにこう思っております。
 
金光:  「無一物中無尽蔵」というのは、本当に汲めども尽きぬ働きのある言葉だと思いますが、それを実践なさっていらっしゃるいいお話を今日は有り難うございました。
 
     これは、平成二年七月二十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである