み運びのままに
 
                       浄秀寺前住職  藤 原  正 遠(しょうおん)
                       き  き  て     金 光  寿 郎
 
ナレーター:  石川県能美(のみ)郡川北(かわきた)町(まち)、県の南西部、手取川(てどりがわ)の北岸を中心に東西に広がる町です。穏やかな秋の日差しが照らす十月中旬のある日、この町の一角にある『日光山浄(じょう)秀(しゅう)寺(じ)』というお寺に前住職の藤原正遠(しょうおん)さんをお訪ねしました。
藤原さんは明治三十八年のお生まれで、九十歳を越えた現在もお元気で、人々の心の支えになっておられます。
境内には藤原さんの短歌が一首刻まれていました。昔から沢山の歌を作って、歌集も出版しておられます。藤原さんは福岡県の在家のご出身ですが、京都の大谷大学に学んだ後、念仏信仰一筋の道を歩んで来られました。今回は藤原さんの短歌を味わいながら、お念仏の心について伺ってみたいと思います。
 

 
金光: 今、こちらへお邪魔する時に、本堂の前にある碑を拝見しますと、
 
     あや雲のながるる如くわがいのち
       永遠(とわ)のいのちの中をながるる
 
という、お歌が碑になっていましたですね。ここに色紙にも書いて頂いているんですが、
「あや雲の ながるる如く わがいのち 永遠(とわ)のいのちの中をながるる」という、お歌でございますが、これはどういうお気持ちでお作りになった歌でございましょうか。
 
藤原:  「あや雲のながるる如く わがいのち」「あや雲のながるる如く」というのは歌の修飾語ですね。言いたいのは、その後です。私の命は、わがいのちでしょう。「永遠(とわ)のいのちの中をながるる」と言うんで、単なる五十年の命でなくて、永遠普遍のお命の中に流れている、永遠(とわ)の命の、流れているという、何かそういうことを感じて出来たんでしょう。
 
金光:  普通は、オギャと生まれて、それで五十なり、百年なりで死にますね。それで命終わったというふうに考えるのが普通ですが、この歌は五十年や百年で終わる命ではないということでございますね。
 
藤原:  そう、それからもう一つ言うと、五十年、百年で、いつも不安でしたけれども、背後に「永遠(とわ)の、永遠(えいえん)のお命の中の私だ」ということが気付かされて、私自身はなんか落ち着いたようですね。何時かは覚えませんけれども。やっぱり四十頃まで、生死問題で苦悩しましたけれども。
この頃、苦悩しないのは、どこで落ち着いたかと言うと、その歌の「永遠(とわ)の命の中を流がるる」という心境になったら、落ち着いたようですね。
今までは、命というものに、非常に脅迫されて来ましたけれども、その歌の出来た頃、なんか落ち着いたんでしょう。何故なら、私は永遠のお命の現れだと。今までは、私の命だと有限に考えていたけれども、そういう背景が感じられてから、なんか落ち着いたようですね。今もう九十二になりますけれども、なんか落ち着いていますわ。
 
金光:  そうすると、たしか同じ様なところで歌われた歌かと思うんですが、
 
     一息が永遠(とわ)のいのちと知らされて
       すべてのものが輝きて見ゆ
 
やっぱりその一息一息で終わりじゃなくて、その一息が、今おっしゃった、
 
藤原:  即ですね。
 
金光:  即、永遠(とわ)の命ですね。
 
藤原:  そうですね。永遠(とわ)の命。
 
金光:  そうしますと、あんまり何年生きたからというようなこと、たしかに、それはそれとして、それが永遠(とわ)の命と地続きであるということですね。
 
藤原:  そうそう。永遠(とわ)の命の一分子がここにおるんですけども、背景は永遠(とわ)の命なんです。もう一つは永遠(とわ)の命の現れがここにおるわけなんです。
 
金光:  と言って、永遠(とわ)の命だから、自分がこれから将来どうなるとか、あんまりそういう将来の計画たてて、こうこうしなければいけないとか、この世が終わったらどうなるとか、あんまりそういうこととは繋がらないんでございますか。
 
藤原:  そういうことは考えませんね。永遠(とわ)の命というところに腹が据わったんでしょうかね。今死ぬという問題も、気になっていませんね。昔は気になってね。
家によく遊びに来ておった兄の長女の友人で、田代園子というのが、九つで急に亡くなったんですよ。私が十九だったか、十八だったかね。それから私が不安になったんです。死に脅迫されるようになったのです。
 
金光:  自分も何時死ぬかわからないと。
 
藤原:  そうそう。あの子によって死の脅迫を受けて。丁度、あれは中学出て、一年浪人している頃です。それで普通の旧制の高等学校に入る予定でありましたけれども、あの子が死んだら、勉強出来なくなりましてね。
 
金光:  勉強よりも、そちらの死ということが。
 
藤原:  それで毎日お墓に行った。まあ、あの頃純情だったんでしょう。何かお供えを持って行って上げて。横に高い木がありまして、その下に草があって、そこに半日位横になって、そしてお供えみんな食べて帰って来た。あの子の死んだことで、大谷大学という、南無阿弥陀仏の学校に入ったのです。
 
金光:  やっぱりその問題を解決するのには、この学校、こちらの方に行ったら、何か問題解決出来るんではないかと。
 
藤原:  そういう意識があったんでしょうね。中学時代に大谷大学学生募集という、ビラがありました。それが他のビラよりとても良くて、そういうことで大谷大学を覚えておったんです。ご縁てそんなもんですね。あの子が死んだら、パッと大谷大学が出てきて、それで大谷大学にご縁があったのです。私の家は寺でございませんから、ぜんぜんそういうものがなかったんです。あの子の死によって、脅迫されて、それでまた、学生募集のビラで、そんなご縁で大谷大学に入ったんです。
 
金光:  それで死の脅迫されていた問題は、即解決出来たというわけでもございませんでしょう。
 
藤原:  大谷大学に六年おる間に、お念仏がお出ましになるようになったんです。それですから、解決出来んでも、”南無阿弥陀仏”でおさまるようになったんですね。
 
金光:  ああ、そうですか。
 
藤原:  毎日人の死や、また自分の病気とか、戦争とか、いろんなことがありますと脅迫されます。それでも、”南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏”とお出ましになると、おさまればいいんですから、おさまりますよ。
それから何十年も経ちます。今、九十二になりますからね。それから、ずうっといろんなことがあっても、お念仏がお出ましになると、一件落着しますわ。
 
金光:  成る程。それで、例えばですね、
 
     来(こ)し方(かた)も 又行く方(かた)も今日の日も
       我は知らねどみ運びのまま
 
という歌がありますね。でも、やっぱり問題は毎日出て来ますでしょう。
 
藤原:  み運びのままで。またそれが、言えば、南無阿弥陀仏ということですがね。歌ですから、”み運びのまま”。そこに南無阿弥陀仏をつけんで。”み運びのまま”というところに、南無阿弥陀仏です。
 
金光:  そうすると、この歌ですと、現代の人は、それではあまりにも主体性がないではないかと、いうかも知れませんが。
そこのところはどういうことになるんでしょうか。
 
藤原:  そういう”み運びのまま”という主体が変わったんです。
 
金光:  あ、永遠(とわ)の命の方に変わったという。はい。
 
藤原:  そこから歌が出たんでしょう。永遠(とわ)の命というのが主体なんです。
 
金光:  成る程。大転換ですね。
 
藤原:  そうです。また、永遠(とわ)の命というところで。
今はもう九十を越しておりますけれども、若い時は死の脅迫をとても受けました。それで大谷大学にも行ったんですけども、今はもうね、永遠の命の中におるから、生死(しょうじ)という問題もそう気になりません。如来の生死じゃもん。
ですから、『生死即涅槃(しょうじそくねはん)』という言葉がありますが、涅槃というのは、永遠の仏(ほとけ)業(わざ)ということですから、生死が仏業(ほとけわざ)です。『生死即涅槃』そんな意味でしょうから。
 
金光:  そうすると、行く方も気にならないけれども。
よく死んでお浄土へ行くとかですね、極楽へ行くとかという話が仏教の場合、そういうふうに思っていらっしゃる方、多いと思うんですが、極楽行きとか、そういうのはあんまりお考えになりませんですか。
 
藤原:  今が極楽です。
 
金光:  はあ、そうですか。これから行く必要もないわけですか。
 
藤原:  極楽ということは、永遠のお命の現れがここにおるという、それが極楽ですね。そうなると『三世の業障(ごっしょう)一時につみきえて』て、そういうことでしょうね。
罪というのは私中心にしていることが罪なんですね。『三世の業障(ごっしょう)』業(ごう)というのは私の業(ごう)やと思っているのです。
 
金光:  業障(ごっしょう)というのは、業(ごう)の障(さわ)りと書くわけですね。
 
藤原:  それで如来業(ごう)なんですね。そうすると、三世の如来業だったら、一時につみきえる。罪と障り、しこりがとれるから、『三世の業障一時につみきえて、正定聚不退転』とは、今言う、永遠の命の流れの中におる身であったと、今知らせてもらう。
まあそれだから、仏様のお仕事の中でね。もう向こうで用意してあるんでしょう死ぬ日も、又、行き先があってもなくても、仏様のご用が用意してあるというようなところでいま不安がないようです。
 
金光:  数年前に心筋梗塞でお倒れになりましたですね。そういう時も、やっぱりその、み仏のお運びのままということでしょうか。
 
藤原:  そんなこと考える暇ありませんわ。病気の時は。
 
金光:  大変苦しいそうですね。
 
藤原:  ええ、苦しいからね。「苦しい、苦しい」でね。
「よくなりたい」という言葉でなくて、苦しいからでしょうね。「あら、よかった」というのは後でね。
 
金光:  それはそうでしょうね。でも、病気になってお倒れになって、それでそのことを、ああ、あの時はこうだったんだなあ、というふうにお考えになると、また別にそれで、その後の不安とか、なんとかは出てこないんですか。
 
藤原:  元がおまかせになってるからなあ、「ああ、良かった」「あら、助かったなあ」くらい言ったんじゃないんですか。死にとうない、というのも仏の声だから。
 
金光:  成る程。あ、それは自分が死にとうないということも、含めて仏様の声。
 
藤原:  死にとうないということが、仏の声ですからね。何を言うとってもいいわけです。
 
金光:  ああ、そうですか。
 
藤原:  何か変わったものになるんじゃなくて、言っていることが、みんな仏の声ですから。「死にとうない、死にとうない」と言うてね、死んでもそれが仏の声ですから。そしたら今、やっぱり病気して死にとうないなあと思っていても、よくなるとあらよかった、と思うままが仏の声なんです。
 
金光:  そうすると、煩悩を滅して、涅槃に入るとかですね。皆さん何か、煩悩というのを目の敵にする場合が。
 
藤原:  滅して、でなくて、『煩悩即菩提』です。煩悩が仏業(ほとけわざ)ですから、『煩悩即菩提』です。滅しでないんですわ。
 
金光:  消えないですね、これは。
 
藤原:  煩悩が仏のものなのや。それだから、消える消えないではないわなあ。仏の仕事なんだから。煩悩が私のものと思って、苦労しておったんだけども、煩悩が仏様のお与えだということになれば、人様の煩悩も認められますね。
 
金光:  はい、はい、それはそうですね。
 
藤原:  それだから、腹立つのがを良いとか、悪いとかじゃないでしょう。気にいらんと立ちますよ。それだから、腹立って、いい身になったら楽ですわ。
そして、何時も立てるわけではないですわ。何食べてもいいと言っても、腹一杯の時には食べれませんからね。それで、気持が自由になりますわな。それからまた、人様のなさっていることを、ご苦労さんと思いますね。泥棒さんでも、ご苦労さんですわ。夜中にこっそり入って、下手すると捕まるしね。
 
金光:  でもそこまで、やっぱり泥棒に入られたら、困るとかですね。
 
藤原:  そう、こちらは勿論困る。困るのも本当だしね。入るのにもわけがあるのや。それだから、蛇がカエルを飲んで、蛇は永遠に憎まれるでしょう。蛇はあれは先祖伝来憎まれる。カエルはいとしがられておりますから。まあ、この世の中もカエルになったり、蛇になったり、やっているんでしょう。
 
金光:  しかし、そういう話を聞くと、うっかり聞くと、それじゃ、煩悩は、何をしても善いんであれば、世の中は滅茶苦茶になるんではないかと、想像する人がいるんではないかと思いますが。
 
藤原:  居て結構ですわ。
 
金光:  ああ、そうですか。
 
藤原:  何故なら、下さる煩悩しか出ないもの。
 
金光:  はあ、成る程。
 
藤原:  ですから、「どうぞお出し下さい」と言いますわ。言いましてね、その人殴るご縁があると、殴れることだし、喧嘩でも縁がないと出来ないからね。何をやっても良いですよ。みんな何をやってもいい中でやっていますわ。
 
金光:  そうですね。しちゃいけないと言いながら、そういうことばかりする人もいますし。
 
藤原:  向こうの方が強いと思うと、手を引いているし、こっちが強いと出ているしね。みんな自由にやっているわけですわね。
 
金光:  ただ、それで自由になると、むしろ本当に何をしても良いということになると、自分に一番適していることをするようになるのかも知れません。
 
藤原:  そうですよ。やっぱり美味しいものを食べるようなもんでね、何をやっても良いということになっても何もやれませんわ。下さることしか。
また、何をやっても良いとなると、自分の気に入ったことやら、人様に邪魔せんことをやった方が一番楽なんです。
 
金光:  そうですね。
 
藤原:  そういうことでしょうね。
 
金光:  煩悩については、前にお作りになった歌だと思うんですが、
 
     煩悩をわがものとする卑下慢(ひげまん)に
       永(なが)くとどまりみ仏を見ず
 
というお歌があるんですが、卑下慢というのは高慢の反対ですね。自分を卑下するのも、慢の中なんですが。自分に煩悩があるからというのは、これはやっぱり、卑下慢、慢の中のことなんでございますか。
 
藤原:  そうですね。煩悩。
 
金光:  で、自分の煩悩があるから困るなんて言うのは、それがある間は、仏様の方を向いていないということなんですか。「永くとどまり、み仏を見ず」というお歌なんですが。
 
藤原:  煩悩を私の煩悩とするからね。仏の煩悩になったらなあ、問題はない。
 
金光:  そこのところが。しかし、やっぱり私の何かしたいとか、あれが欲しいとか、やっぱり私のものじゃないかと思うのが普通じゃないかと思いますが。異うのですか。
 
藤原:  それが気になるかならんかでしょう。引っかかるか、引っかからないか、同じように私やっていますけどもね、仏に遇うたんでしょうか、気になりませんもの。
 
金光:  じゃ、そこのところが同じく煩悩を詠われている歌で、
 
     煩悩が仏のわざと知らされぬ
       余るいのちをいとしみ生きむ
 
というのは、「煩悩が 仏のわざと 知らされぬ 余るいのちを いとしみ生きむ」そうすると煩悩が邪魔じゃなくなるわけですね。
 
藤原:  そうですね。仏の煩悩になったらなあ、煩悩は邪魔になりませんしね。そうしたら、お出ましのままに、歩かしてもらいましょうと、こういう意味でしょうからね。
 
金光:  そこのところを、また異った表現で、
 
     酔生夢死(すいせいむし)のままでよろしき安(やす)けさを
       いただきにけり弥陀(みだ)のみ恵み
 
というお歌があるんですが、
 
藤原:  若い頃は、酔生夢死ということで、中学時代でも、しっかりして生きなならんとか、眠ったような生活をしてはいかんということで、教育されて来ましたけれども。今は、寝ても起きても、全部それが”一如”一つに見えるようになったものですから、頭が鈍かろうが、良かろうが、私には今関係がないのですよ。それですから、亀は鈍(のろ)いと言うんだけども、あれは比較病で、如来の与えられた速度ですからな。
 
金光:  ウサギより確かに遅いけれども、それはそれで、
 
藤原:  そうそう、ウサギはまた、亀みたいになったら、また困りますよ。ですから、このままが、みんな自然(じねん)法爾(ほうに)の世界だと、見えるようになったんでしょう。それだから、こっちは楽になったんでしょう。
学問がある人も、ない人も、頭がいいとか、悪いとか、そういうところに、今まで引っかかっておったけれども、このままで生きられるようになった、自分を楽しんでるんでしょう。
 
金光:  苦しみみたいなものがなくなってしまうわけでもない、何か困ることは出て参りますでしょう。それを困ったら、困ったままで、
 
藤原:  そうそう。困った時は困ったのが真(まこと)ですね。真(まこと)という言葉を使えばね、みんな真(まこと)ですわ。
 
金光:  こういう歌もございますね。
 
     いずれにも行くべき道の絶えたれば
       口割り給う南無阿弥陀仏
 
やっぱり、いずれにも行くべき道が絶えることもおありなんですか。
 
藤原:  何時も絶え通しですわ。こっちは絶え通しなんです。腹が減り通しなんです。でもご飯が何時も。
お念仏に摂取されて、包まれているから、南無阿弥陀仏でご飯を頂くわけでしょう。お念仏は心のご飯なんです。
 
金光:  そういうことですか。絶え通しということが、仏のわざと知らされるところで、何時も行くべき道が自分には絶え通しであると。
 
藤原:  そうそう、こちらは絶え通しであっても、”南無阿弥陀仏”と。具体的に言えば、”南無阿弥陀仏”とお出ましになると、そのままで歩かしてもらうわけです。人様見ましても、あんなことと思っていても、南無阿弥陀仏と。あの人には、あの人のわけがあるんだから。それだから、我々は亀の鈍いを見て、とやかくこっちが言うてるので。手を離して見れば、みんなそれぞれお与えの中に歩いているんです。
 
金光:  亀は亀で、自分の速度で、
 
藤原:  あれで如来の速度ですね。
 
金光:  あれじゃ困るだろうというのは、こちらが思っているわけですね。
 
藤原:  こちらがみんな思っているのです。あれは怠けていると、こちらが思っているのでね。あの人にして見れば、やっぱりもう間違いのない法則通りやっているわけですから。泥棒さんでも、あれは法則で泥棒しているので、ご苦労さんですわ。我々は善い悪いでものを見ていますけれども、やっぱり先祖から泥棒せにゃあならんような、ご縁を頂いていらっしゃるから、ご苦労さんですわ。やっぱり、国でも戦争せなならんような状態に今でもありますわね。それで我に手のなしでね。
手のなしとまた放っているのではないですよ。手がないというところに自然法爾の何か摂取されるような、世界が”南無阿弥陀仏”と、こういうふうに、南無阿弥陀仏の内容ですね。そんな生活のようですわ。
 
金光:  今のお話で、戦争もせざるを得ない状況で戦争をするようになっているとおっしゃいますけれども。
 
藤原:  して良いというのではないですよ。
 
金光:  はい。
 
藤原:  して悪いですよ。喧嘩は悪いですよ。それでもやっぱり親子でも、喧嘩せねばならんような訳がありますわ。
 
金光:  しかし、そこのところが本当に仏わざと解ると、
 
藤原:  認められる。しかし、悪いのは悪いということも認められますよ。しかし悪うてもやっぱり出ることは出ますわ。
まあ言えば命がそうですわ。死にとうないというのが本当なんだけれども、しかし死が来ればもう至上命令ですね。
 
金光:  そこのところに落ち着けると、そんなに戦争までして、何かするという、ご本人は戦争までしなければいけないというようなところはあんまり問題にならないということにもなるわけでしょうね。
 
藤原:  いや。問題になってもいいですよ。問題になりますよ。戦争がない、家庭喧嘩がないようにと、みんなお互い仲良くしていこうと一生懸命にやっていますわ。それでも出ますわね。それを良いとか悪いとかのところでは結論でませんわ。”南無阿弥陀仏”です。
 
金光:  善悪、善い悪いとかいう、そこのところとは、もう一つ次元が異うところでのお話ということですね。
 
藤原:  そうですね、次元の異ったところから言えば、泥棒なさるのもご苦労さんと言えますわ。ご縁が私にあれば、私がやっているんですもの。ご縁がないから、やっておらんので、あらゆることがそうですね。日本が今戦争をするような境涯になっておらんからしておりませんけれども、境涯がある時は、今までやって来ましたわな。そうすると、毎日の生活をみますと、そうですね。個人個人の生活が、腹立てまいということで、一生懸命思っているけれども、先に立つわ。
 
金光:  はいはい、そうですね。ところで、こういう歌がありますね。
 
     罪に泣く人らを待ちて下下(げげ)の国
       大悲(だいひ)の弥陀は待ち給うなり
 
例えば、腹立てた自分が、何故あんなことに腹を立てたのかと、つまらん自分だと。例えば、思ったりします。そういう思っている自分をちゃんと、
 
藤原:  思って苦悩するわけです。苦悩のしまいにね、どこで落ち着くかと言うと、下のちゃんと待っていらっしゃる親が、”南無阿弥陀仏”で。「罪はいかほど深くとも我をたのめ」という、阿弥陀様の、南無阿弥陀仏はそういうことですわね。「罪はいかほど深くとも、我をたのめ」という阿弥陀様の懐に帰らせてもらうのが、南無阿弥陀仏ですから。
 
金光:  そこのところで、
 
     たのめとは 助かる縁のなき身ぞと
       おしえて救う弥陀のよび声
 
というお歌がございますね。
 
藤原:  たのむと言うのは、助けて下さいと頼む。そういうのもありますわね。それが多いですけれども。本来は阿弥陀様のたのめというのは、助かる縁のないぞという、お前の自由はきかんぞ、という、お前の願いを認めてやるぞというんじゃないんですね。たのめとは、たすかる縁のない身だと教えて、こっちはもうどうにもならん、その下に、阿弥陀様のそのまま来いのよび声に会うわけですから。
 
金光:  助かるというのは、上の方に上がっていくんじゃないわけですか。
 
藤原:  そうそう。阿弥陀様は下においでるから。摂取して下さるから、抱いて下さるので、負けたまんま、抱いて下さる。
 
金光:  では、落っこちるところで、受け止めて下さるということですか。
 
藤原:  そうそう。それで有り難いですわ。上がって行くのは、限界がありますけれども、落ちていく下は、もう限界ないですから。たのめとは、お前にはもう助かる縁がない身ぞと教えて、救うというのが、助かる縁がないのに救うというのは、その救いではないですね。「助かる縁のなき身ぞ」と、教えて、下でお待ちになっているから、教えて救う。弥陀の呼び声ですから。阿弥陀様の救いは下なんですね。この歌は私の歌でない。誰かの歌だと思いますよ。
 
金光:  ああ、そうですか。その落ちていくところというのは、これはもう自分で飛び込もうというんじゃまだダメなんですね。
 
藤原:  一遍、お念仏した人は、親に抱かれたんだから、必ずそこに帰っていくんです。お念仏のない人は帰ってこれないですわ。
 
金光:  では兎に角、お念仏口で称えれば、それでいいんだと。
 
藤原:  そうそう。一声称えておくと間に合いますわ。
 
金光:  何も他に条件はなくて。
 
藤原:  そうです。佐々真利子さんという、あの人が小児マヒで、そして脊椎カリエスで長い間寝ていらっしゃったんですね。そして、「お念仏出ますか」と言うたら、「出ません」とおっしゃるから、「出ます」とおっしゃれば、そのまま私は「結構ですね」と言うけど、「出ません」とおっしゃるなら、「練習しましょう」と、練習するんですわ。後で聞くと「おかしかった」と言うんですよ。それでも小児マヒでそれから脊椎カリエスで、何を思っておったかと言うと、「何で死なんか、何で死なんか」とばっかり思っておったというのです。
 
金光:  こういう身体で生きていても、しょうがないと。
 
藤原:  今では「死にとうない、死にとうない」ですって。それだから、今は身体のそういうことには問題ないんですね。その世界にも満足して、後は生きたいという、人間本来のものになってあるのでね。
 
金光:  歩けるようにおなりになったわけではなくて、歩けないままで。
 
藤原:  「これが私だけに与えられた仏様の身体」というところに腹が決まったんでしょう。そうなったら、もう、そこから解放されてますわな。別に達者な人とか、達者でないとか、もう比較病とれていますから。
 
金光:  私達の苦しみの元には、人と比較するという、一種の病気とおっしゃるそのことが大きな原因になっているわけでございますか。
 
藤原:  そうでございますね。もう一つ言うと、あらゆることが比較病ですわ。金があるとか、ないとか、頭がいいとか、悪いとか、比較病で苦しんでいるのでね。自分が仏に摂取される。「この身、このままが仏から貰った」ということになれば、比較病は取れますわ。どこにでも、お与えの所におれる身になるわけですね。
 
金光:  そこのところで、こういう歌がありますね。
 
     そのままをこちらで聞けば自力なり
       まかせまつればまことそのまま
 
そのままという言葉を、比較しないで、じゃこのままでいいんだと。
 
藤原:  そういうことを、いいんだと言うのも、やっぱりね。その身になったらもう忘れていますわな。
 
金光:  はあ、そこのところですね。
 
藤原:  先生がここに来ようと思っていらっしゃっている時は、ここでないわな。今、ここにおるということを意識なさっていませんね。まあ調べれば、ここにいらっしゃる。いらっしゃるまでは、むこうにあったけれども、来てしまえば、もうここにいらっしゃることは忘れていますわ。
我々の性格も、比較しておる。外に見てるとなんやけれども、自分に返れば、『天上天下唯我独尊』ですわ。独尊て、人と比べての独尊じゃないですね。本当に有り難いなあ、自分というところで満足出来ますから。
 
金光:  そこのところが、永遠の命の中の自分の命であると。
 
藤原:  そういうことと、一致するわけですね。
 
金光:  前に、佐々さんにも、出て頂きましたが。ずうっと前に一度、先生にも出て頂いたことがあるんですが、この前の時に、
 
     百花(ひゃっか)みな香りあるごと人の世の
       人の仕草(しぐさ)のみな香りあり
 
という。この百花みな香りあることということで、伺ったんですが、「百花みな香りあるごと 人の世の 人の仕草の みな香りあり」これが比較病を離れたところでのお歌ということでございますね。
 
藤原:  まあ、後で言えば、そうなるわけでしょう。歌を作る時、そんなことは考えない。人の仕草のみな香りあり」みんな香りあるとなると、みな香りありますわね。
 
金光:  ただ、良い香りもあれば、あまり嫌だなあという香りも、やっぱりあるわけですが。
 
藤原:  嫌な香りもあるけど、みんなそのまま、いい香りですよ。
 
金光:  いい悪い、先程、おっしゃっていました、善い悪いという目で見ると、確かに善い悪いだけれども、もう一つ、離れてみると、全部いい香りであると。
 
藤原:  そうそう。あるいはご苦労様と言いたい香りですね。
 
金光:    不可思議と思うは思議なり自力なり
          まかせまつればまこと不可思議
 
という歌がありますね。この不可思議と、確かに考えてみますと、この世に生まれて来て、朝が来て、夜が来て、草が生えて、鳥が飛んで、木が茂って、花が咲いて、不可思議というようなことは考えられるんですけれども、不可思議だなあと思っているのは、それはまだ自力なんですか。
 
藤原:  いや、まあね、それも他力なんだけれども、取り立てて言えば、言葉を越えて、本当に不思議だなあ、というね。
 
金光:  お話を聞いて、ああ、成る程、確かにこの世の中というのは、不可思議だなあというふうに、思っている程度の味わいと、全くもっと異いますよという感じでございましょうか。
 
藤原:  そうですね。例えば、今、便所のところにコスモスの花の赤いのをじっと見て来ましたけれども、あの赤がね。どうしてこんな綺麗な赤が出るんだろうとね。別に言葉に出さんでも、ほんとに不可思議ですね。あんな赤い色が、どうして出るやろうと。
まあ、そんなことから言うと、こんどは自分にもこんな手がちゃんとあって、ほんとに不可思議なんですね。言葉で言うても良いんですけれども、不可思議だなと、ほんとに不可思議なんですね。
 
金光:  ほんとにそうですね。指がちゃんとあって、握ることも出来れば、爪があって。
 
藤原:  そうすると不可思議という言葉以上に、本当に不可思議と、そんなことの意味でしょうね。
 
金光:  そこのところから、見ますと、人間だけではなくて、今、花の話もおっしゃいましたが、
 
     山も川も鳥もけものも法の邦(くに)
       一如に見えて心ほのぼの
 
藤原:  そうですね。何か大きなもうね、永遠のお命が生き生きとね、草の命も、私の命も、仏様と申しますか、永遠の仏様の活動体ですね。活動体という言葉になると、固くなりますけれども、ほんとに不可思議なんですね。そうなりますと、自分の身体に目があって、鼻があって、空気があって、食べたものを消化して、いらんものを排泄するし、完全無欠ですね。しかも不思議ですね。こんな皮一枚でちゃんと生きさせて貰っていますわね。
 
金光:  そうですね。考えてみれば、先程、コスモスの花のことをおっしゃいましたけれども、桜の木には桜の花が咲いて、梅の木には梅の花が咲くというのも、これ不思議と言えばほんとに不思議ですね。
 
藤原:  そういう全く不思議ですね、そうするとここがお浄土ですわ。
 
金光:  別のところにわざわざ作らなくて、
 
藤原:  そうそう。死んだら、お浄土ということは、そういう世界を知らされたことが、前の私中心の世界が死んだら、今ここはお浄土ですわ。
 
金光:  前に極楽という言葉と一緒に、慾楽という言葉を使っていらっしゃったですね。普通は極楽というのは、慾楽、欲の楽しみが満たされるところを極楽と言っていることを、慾楽という言葉で表現されているんだと思ったんですが。
 
藤原:  普通、慾楽で生きていますわね。勝ったとか、負けたとか、儲かったとか、損したとか、みんなこれは慾楽だけど、極楽の中にそれも入っているけれども、次元が異うのです。しかし、極楽を遠いところに見ておりましたけれども、今が極楽ですと、先のことを言わんでもいいですね。今が極楽なら、今日までも極楽だったんだから、死んで先も極楽ですわ。魂があっても、無くても極楽です。極楽ということは大法のお運びのままに、素晴らしく、すがしく、そういう世界なんですね。そうなると、私も九十二になりましたけど、死が近いと思うほど、楽しんで行こうと思ってね。先ず、腹を立てんようにしたほうが楽やから、白いものを黒いと言われても、「はい、はい」と、そういう気でおりますから楽ですわ。
 
金光:  今、日本では極楽という言葉をあまり聞かなくなって、天国という言葉がよく聞かれるようですけれども、
 
     天国に生るることをあきらめし
       我は下国(げこく)に安らけくあり
 
というお歌があるんですが、別に天国に生まれなくても、今ここが極楽であれば。
 
藤原:  天国ってまだ不足の人が言うとるわけですね。今が不足の人が言うてるので、今が満足の人は向こうに手を出しませんもの。今が満足ということは、過去も満足。満足であったんですね。不平言うて来ておったけど、よく考えてみると、私だけに与えられたところを歩いて来ておったんです。未来もね。
それから死ぬということも、如来様の仰せだからな、そうなると、死ぬということも越えたわけですね。まあ、それも南無阿弥陀仏というお言葉のお陰でしょう。”南無阿弥陀仏”という上でそういう心境が出て来たんで、ただその心境だけを掴んではいかんわけですね。成れんもん。
 
金光:  そこのところを、
 
     分別が分別をして出離(しゅつり)なし
       無分別智の弥陀のよび声
 
というお歌がありますが、そこで、そうだと聞くと、直ぐああ、そうかと分別で掴みたいんですけれども、その分別で掴んでいる間は、どこまで行っても分別だと。
 
藤原:  また分別です。南無阿弥陀仏はそれだから分別をとってもう、大地と自分と一枚になった世界が、南無阿弥陀仏というわけで。いろんなことがありましても、またそこで行き詰まり、また、”南無阿弥陀仏”となると、そのままが自然法爾のね。ですから、お念仏というものは大した薬ですわ。どんなものが出て来ても、また”南無阿弥陀仏”と歩かせてもらうように、二十歳くらいから、今日まで歩かせて貰っていますよ。
 
金光:  そこのところは、分別心ではダメだということが、気付かせてもらったところに、無分別の世界が見える。
 
藤原:  いや、気付いた私がおるからなあ。
 
金光:  はあまだ。合点などいらない。必要のない。
 
藤原:  要らないのでなくて、やっぱり私から言えば、お念仏の、
 
金光:  もう理屈でどうこうと言わなくても、お念仏だけと。
 
藤原:  それだから親鸞聖人は、やっぱり、「ただ念仏して」と。法然上人もおっしゃったと。『歎異抄』第二章で、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」そういう世界に早う、お生まれなさいと言われた。それが『歎異抄』第二章ですね。
 
金光:  そこの信じるということで、面白いことをおっしゃってるんですが、本当に信ずるということは、信じる必要がないことだということをおっしゃって。
前におっしゃったことでですね、自分が、
 
藤原:  信じた人には、
 
金光:  成る程。男であるなんということを、信じる必要がないということを、
 
藤原:  もう信じた人にないのでね。男ということを、先に知っているから、言う必要がないのです。信心というものも、そうだから、貰うたとか、貰わないとか言うてるのは、貰ろうた人は、信心と自分とが一つになっているから、意識しませんわ。
どうして、そんなら、証明するかと言うと、前にいろいろ捜しておったけれども、今、捜していないというのが、証明ですね。
 
金光:  はい。捜す必要がない。そこに、
 
藤原:  もう、おさまってるからね。何にもさがしていません。
 
金光:  同じようなことを、任せるということは、こちらで任せる必要がないことだというふうにも、おっしゃっておりますね。
 
藤原:  それはもう、任した人は、任せる必要がないというわけです。
任せるという言葉のある間は、まだ、任せておらんので。私は男ですという必要ないもの。男なんだから。信じた人にはもう信ずる必要はないです。
 
金光:  そこで、ではどうして、なんてという質問が、どうすればそうなるかという、また、分別では、直ぐそういうことを考えるんですが、こういうのがございますね。
 
     空念仏(からねんぶつ)まことによろしいつの日か 
       空(から)は棄(す)たりてまことは残る
 
藤原:  そうです。さっき言いかけた、佐々さんが、小児マヒで、十年間、確か寝ておったね。それでも何を思っていたかと言うと、「何で死なんか」と思っていた。そういうことは、自分自身に何もたのみがなかったわけですよね。
 
金光:  自分では、どうしようもないというところに、
 
藤原:  それだから早う死んだらいいというんでしょうね。
しかし、「念仏出ますか」と言うと、「出ません」とおっしゃったから。「それなら練習しましょう」と言ってね。そして、私が先ず”南無阿弥陀仏”と言ってね。後でね、私が真剣に”南無阿弥陀仏”というのがおかしかったと。
それでも「真似しよう」と言うから、せにゃあならんから、心で笑いながら、お念仏したのがご縁なんですよ。それが真(まこと)になったんや。初めは笑うてしておったことが、いつの間にか、何かいろんな事件があった時に、ほっと、南無阿弥陀仏が生きて来たことなんでしょう。
 
金光:  称えている中に、無分別智のよび声が聞こえて来たと。
 
藤原:  そうですね。
 
金光:  そうしますと、今、苦しんでいる人の場合も、その苦しんでいるところから、逃れたいと。
何か救済とか、救われるとか言うと、救われたいということを、当然、誰でも考えると思うんですが、そこのところが、救われたいと思う。それがその歌としては、こういうのがございますね。
 
     救われむとするわざやめてみ光の中に
       すべてがあるをしるべし
 
藤原:  しかし、この歌の境地に出られるのに、親鸞聖人は二十年かかられたと。比叡山に行かれて、法然様のところに行かれる間に、二十年かかる。私は、私なりに、何か時間でなくて、行き詰まったんでしょう。親鸞聖人は二十年して、ほんとに行き詰まられたのと、今、何か一瞬に行き詰まるかも知れんからね、時間をおかんでもいいわけですね。
 
金光:  佐々さんの場合は、もう死にたいと思って、死にたい、死にたいと思って、行き詰まっていらっしゃるところで、真似の念仏をされたという。
 
藤原:  そうです。しかし、真似の念仏しておる間に、ほんとの念仏が流れた、死にたいという時は、絶望しているから、今は死にとうない、生きたいというところに、人間として、本来の人間になったのでしょうね。
 
金光:  そうすると、この不可思議な肉体を頂いている、そのままの肉体が仏様のわざとして、自分の命が永遠の命の中にいるというところで、生きたい、生きたいということになるということでございますね。
 
藤原:  そうそう。まあ自分は死んでも、しかし、みんな次々の仏様の命があらゆるものを出して下さる。仏様の命というものはこれは永遠のものだというところに。
”南無阿弥陀仏”というのは永遠のお命だというので、私も死んで行けるわけです。背景がないと困りますけれども、永遠なるお命の活動の中に、私は一分子としてここに命を頂いて、またその世界に帰るといま帰るわなあ。そしてここに私をあらしめている大生命力のお命は、草も木も、全部親兄弟となって、荘厳されている。ここが浄土です。
 
金光:    さまざまの死に方あれどすべてみな
          弥陀のいのちの電源のわざ
 
という、こういうお歌があるんですが、やっぱり今、おっしゃったところでのお歌ということでございますね。
こういう死に方がいいとか、何とかということは全く問題ではなくて、
 
藤原:  いや、元がきまると、どの死に方も尊い死に方ですわ。
 
金光:  電源というのは、
 
藤原:  大宇宙を活動して下さる永遠のお命さまがありますわね。
 
金光:  それを電気に喩えていらっしゃるわけですね。
 
藤原:  そこから、草も木も全部御同朋御同行で、出ていらっしゃるところに、私は死にとうないのも、本当ですよ、死にとうないけれども、しかし、私をここに私たらしめている、そのお命がね、そういう背景を頂きましたら、死にとうないのも、本当だけど、また死なんと、後が出てこれんから。”南無阿弥陀仏”とね。
ですからそういう理屈でなくて、やっぱり”南無阿弥陀仏”で、みんなおさまっておりますわ。「南無阿弥陀仏は義なきを義とす」と言われますから、われわれ話していたら、義がありますけれども、南無阿弥陀仏は一枚になっておりますね。私と法とが一枚になってるから、”南無阿弥陀仏”と。
よく聞かれますわ。南無阿弥陀仏て、どういうわけですかと。これはもう大宇宙の永遠のお命と自分とが、お母さんと呼んでる、子供は生んだ親を呼んでいるように、大宇宙の活動の親様を”南無阿弥陀仏”と落ち着きますわね。ま、言えば、病気しておっても、又何時死ぬか、”南無阿弥陀仏”と。そういう世界をお任せ、と言うているんでしょうから。
 
金光:  そこのところを永遠の命、活動なさっている大宇宙の生命というのを、また表現を変えると、無量寿という言葉で使えることもあるわけですね。
 
藤原:  そうです。初め、それですから、『帰命無量寿如来』とこう言い切っていらっしゃいますわね。
 
金光:     無量寿の国より生まれ無量寿の
           弥陀のみ国に帰り給えり
 
これは、どなたかが亡くなられた時のお歌かと思いますが、その帰り給えりと、いう言葉がついておりますので、
 
藤原:  松崎さんとかいう女の人に、
 
金光:  松崎さんについては、
 
     日ねもすを床に臥(ふ)すとも三世十方
       仏の邦(くに)に遊ぶ君かも
         (松崎姉に)
 
という歌がありますね。これは「松崎姉に」という、註釈がついておりますが、日ねもすを床に臥すとも 仏の邦に遊んでいらっしゃるという、これは大した心境といいますか、その辺のところが、分かってくると、
 
     無量寿のいのち一つと知らされて
       今はやすけしわれも宇宙も
 
というような歌もあるわけですが、その松崎さんという方も、やっぱり宇宙と一つところで、宇宙の働きと一つになっていらっしゃる。そういうことでございますね。
 
藤原:  そうですね。それだから、安らかにおれるわけです。
 
金光:  みんな今いるそこが天上天下唯一のお与えの場所であると、
 
藤原:  そうです。唯我独尊と言うと、人と比較して言うているのでないです。ああ、このまま仏様のお手の中におるという境地でしょうね。
 
金光:  現在、ここがその人にとっての、唯一のお与えの場所であると、そういうことでございますね。
 
藤原:  そうですね。
 
金光:  それがお念仏の世界であると。どうもありがとうございました。
 
藤原:  どうも。失礼しました。
 
 
     これは、平成八年十一月十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。