感謝の心を描く
 
                          板画家 長谷川 富三郎(はせがわ とみさぶろう)
明治四十三年姫路市生まれ。昭和四年鳥取県立師範学校を卒業。倉吉明倫小学校、小鴨小学校に勤務し、校長として三朝町大昭小学校、倉吉市西郷小学校に奉職する。その間、昭和九年、師範学校専攻科に在学していた頃、民芸の指導者・吉田璋也の自宅に出入りしていた長谷川は、「民芸と教育を考え合わせたい」と考えるようになり、昭和十三年、吉田の紹介状を持って民芸先達者柳宗悦、河井寛次郎、棟方志功等と関わり多くの影響を受ける。特に長谷川は河井を師と仰ぎ、また、棟方については版画において大きな影響を受け、板画の道に志す。日本板画院同人。日本美術家連盟会員。著書に「無弟板画集」「妙好人因幡の源左語録板画集」「教えられ育てられ―聞法教育」他。
                          ききて 有 本 忠 雄
 
有本:  今日、お話を伺うのは、板画(はんが)家の長谷川富三郎さんです。長谷川さんのアトリエとお住いは、鳥取県中部の古い城下町倉吉(くらよし)にあります。この倉吉で長谷川さんは、三十数年にもわたった教員生活と掛け持ちで、板画と一途に取り組み、たくさんの作品を作り出して、展覧会や五十巻を越す板画集と著書で、多くの人たちを喜ばせてきました。若い頃の長谷川さんは、教師の身にありながら、当時日本の民芸館長を務めていた柳宗悦(やなぎむねよし)などの率いる民芸運動に共鳴して、芸術創作の道に勤(いそ)しみました。そして河井寛次郎(かわいかんじろう)や浜田庄司(はまだしょうじ)、棟方志功(むなかたしこう)、バーナード・リーチといった人々の門を叩き、また交流を重ねながら、長谷川さん独自の板画の世界を切り開きました。長谷川さんの作品で共通して際立っているのは、絵の中にほのかに薫る宗教的な雰囲気のようなものを感じます。作品の中央には、仏像、或いは民芸調の人形、または天人のような土偶(どぐう)や動物が親しみ深い表情で描かれて、赤や黒で彩られます。その左右上下の余白には必ず長谷川さんの独り言か、呟(つぶや)きのような言葉が彫り出されています。長谷川さんが、「土語(どご)」―土の言葉と呼ぶこの金言が見る人の心に強く響いて魅了します。その作品に盛り込まれた長谷川さんの宗教観を伺います。ようこそおこしくださいました。
 
長谷川:  どうも、ごめんください。
 
有本:  一九一○年(明治四十三年)生まれとおっしゃいますから八十二歳。お元気でいらっしゃいますね。
 
長谷川:  いやぁ〜。
 
有本:  また今日のお召し物が素晴らしいんですが、これは日本のものなんでございますか。
長谷川:  いや。これは昨年中国へ連れて行って貰いました時に布を求めたものです。こちらへ帰ってから作って貰いました。
 
有本:  先生は、お仕事なさる時はこういう姿でございますか。
 
長谷川:  はい。大体もんぺで仕事を致します。
 
有本:  たしかにもんぺ姿ですと、お仕事が、
 
長谷川:  楽です。それも河井先生がしょっちゅうもんぺでしたんで、いつの間にかそういう風が良いだろうと思ってやったもんですね。
 
有本:  先ほどご紹介致しましたように、五十巻の板画集、著書、そして五月大型連休は名古屋で個展をなさった。お忙しいんですね。
長谷川:  いや。私よりも世話してくださる方が忙しかったと思いますね。私は作品を送っておくようなもんですからね、みなさんが段取りをきちんとしてくださってね、喜んで行かして頂きました。
 
有本:  それにしても、年数回の個展ですから、精力的に作品に取り組んでいらっしゃる。
 
長谷川:  そういうふうでなくて、喜びながらやっておるというようなことでございます。
 
有本:  ところで先生は、「板画」が「板」の「画」と書きますね。これは何か特徴がございますか。
 
長谷川:  これは大体棟方志功(むなかたしこう)さんが、「日本板画院」というのを創られた中に、私は所属しておるんでございますが、昔は、「板画」と書いたもんだそうですね。印刷技術が非常に盛んになってから、印刷のほうで使う「版」という字を使うんですけど、昔は「板画」の「板」という字を使ったんでしょうね。
 
有本:  親はいつでも自分の中に生きる
 
という作品が画面に出ましたけども、どんなお母さんでいらっしゃいました?
 
長谷川:  父には早く別れましたんで、母に育てて貰いましたが、母のことを話さして頂くということは、勿体ない、有り難い、と思いながら、また母のことも喜んでおるんでございますが、一番印象に深いことは、私が自分の不注意で腸チフスになって、姫路市の避病院(ひびょういん)というところに入って、
 
有本:  隔離病棟ですね。
 
長谷川:  はい。もうあっちの世界に行ってしまうかも知らんというんで、母が非常に苦労したんですが、一ヶ月経って、いよいよ退院の間近になると、ある日母がおらんものですから、窓の外に見えた看護婦さんに、「看護婦さん、うちの母、知りませんか?」といったら、「長谷川さんのお母さんは大したお母さんですね」「えっ、それでどこへ行ったんですか?」といったら、「いや、やがて帰って来られるでしょうから」というようなことで、待っておりましたら、嬉しそうな顔をして、母が帰ってまいりましてね、「お前が入院した頃は、あっちのほうへいってしまうんじゃないかと思って目放(めばな)しがならなんだ。しかし今は、お前が一番この病院で幸せであり、同時にその付き添いをしておる私も一番幸せだから、かねがね思っておったこの病院の全部の便所を、朝からずっーと掃除して、良かったぁ〜」といいましてね。「便所掃除しておったん」といったら、「そうや、そうや。いやぁ〜汚かったけど奇麗になったでぇ」といってくれましたのが非常に印象に残ります。今も残っております。
 
有本:  当時の病院ですからほんとに不潔なトイレだったと思いますが、じゃ、お母さんは心込めて掃除をなさった、と。
 
長谷川:  いやぁ、どういう汚さであったか、どういうふうに奇麗になったかは存じませんけどね、一所懸命やってきたその嬉しさの顔は忘れませんね。いやぁ、やったな、と。
 
有本:  今、お話になる長谷川さんのお顔もですね、ほんとにかつてのお母さんを思う心が伝わってまいりますけど。先生が明治四十三年生まれですから、明治の初期の方でいらっしゃる?
 
長谷川:  はい。慶応末期でしてね。もう子供ができんと思っておったのにできたそうです。末子(ばっし)でございます。
 
有本:  お生まれが姫路なんですが、先生はずっと鳥取で学校の先生をなさるわけですが、どんなご縁で鳥取のほうにいらっしゃったんですか。
 
長谷川:  私は姫路中学の二年までおったんです。それから父が死んだりなんかしたもんですから、姉の婿のおりました鳥取県に呼ばれて、米子に来た、というようなことで、米子中学を出ました。
 
有本:  そうですか。進学の時は、どちらの進路ってお考えになりました?
 
長谷川:  それがね、いやぁ、その当時の高等学校に行きたかった。大学に行きたかったけれども、どうもそういう費用もなかって、親父が死んでしまっているんですから、それでは兵隊になってやろう、と思ってね、将校生を狙ったんですが、二年目に、ちょうど受験の時病気しましてね、もう諦めるより手がないというんで、それで師範学校に行ったんです。
 
有本:  そうしますと、小学校の先生をなさりながら、板画をお始めになっているわけですね。
 
長谷川:  ええ。それも終戦後でございますからね。随分それまでは油絵を描いておりましたな。
 
有本:  絵を描いていらっしゃった。むしろそうしますと、最初は絵の道へということなんですか。
 
長谷川:  いや、そうでもなかったんですね。やっぱり学問がしたかったな。
 
有本:  なるほど。
 
長谷川:  そう自分では思っておりますけどね。別に、儂(わし)絵描きになってやろう、というような気持はあんまりなかったです。とても第一計算すると、そういう絵具を買えるような資力もなかったですからね、学問がしたかったね。今でもそう思いますね。
 
有本:  旧制高等学校に行きたかった、というお気持ちがよくわかりますけれども、でもその師範学校をお出になって、学校の先生の道―この先生というお仕事も素晴らしいお仕事でございますよ。
 
長谷川:  そうですね。河井寛次郎先生がおっしゃってくださっておりますが、「先生、小学校の先生ほど尊いお仕事はほかにはありませんからねぇ、先生」といわれて、「先生」と、河井先生からいわれて、ぞっとした、というのが本当でございます。そのことは次の本に一生懸命書くつもりでおります。
 
有本:  その河井寛次郎さんとかですね、いろいろ知名士との交流がありますけど、これもどなたからのご紹介でございますか。
 
長谷川:  その一番目のきっかけは、勤めておった明倫小学校の伊佐田甚蔵校長が、「長谷川君、君はかねがね研究したいと思うところへ、どこへでも行って来い。それだけの費用があるんだ」というんで、「有り難うございます」といって、鳥取耳鼻咽喉科の先生でありました吉田璋也(よしだしょうや)先生を訪ねて、「先生、私は物と心の相関関係の教育を追求したいので、吉田先生が先生、先生≠ニ仰いでおられる先生をご紹介頂けませんか」といったら、「何しに行くんじゃ」と。「いやぁ、物と心の相関関係の教育を追求したいと思います」。「それは儂(わし)だけで良いわい」。「いや、そういうわけにいかん」といってね、生意気いいましたら、その次ぎに吉田先生がおっしゃったことは、「わしは長い間民芸の道を進んでおるが、お前みたいにそういう考えで儂を訪ねてくれたもんははじめてだ。よし、紹介状を書いてやろう」というわけで書いてくださった。
 
有本:  吉田璋也さんは民芸運動にずっと、
 
長谷川:  そうですね。柳宗悦先生にピシャッとついて、ご自身が医学生の頃からのお弟子さんでありましたですね。
 
有本:  で、吉田璋也のご紹介で、一番最初、どなたのところへ?
 
長谷川:  一番最初に行きましたのは、染め物の先生で―これはパリでも良い展覧会をなさって、そのパリの展覧会の時に、たまたま私の息子がパリに駐留しておりましたんで、お世話申し上げたらしいんですが―東京蒲田の芹沢_介(せりざわけいすけ)先生の家に行ったんです。そこに岡村吉ヱ門さんというお弟子さんがいらっしゃいましてね、それが鳥取出身でございましたから、いろいろご案内を頂きました。一晩芹沢先生の家に泊まって、次は日本民芸館の柳先生のお家に行った、とこういうような具合です。
 
有本:  柳先生の印象といいますか、一番心に残っていることというのは?
 
長谷川:  柳先生は、後々どんどん本を読まして頂き、いろいろ教えられましたが、要するに世界的な美学者であり、宗教家であった、と私は思いますし、非常に偉大な方でありました。ほんとにどうして日本はこういう先生に文化勲章をださんだろうか、ということを思いましたし、今も思っておりますね。韓国は柳先生に韓国文化勲章の第一号を贈っておるんですね。
 
有本:  そうですか。
 
長谷川:  柳先生は、要するに偉大な人でした。実に高邁(こうまい)なものの考え方をきちんと持っておられました。
 
有本:  浜田庄司さんの窯(かま)もお訪ねになったんですね?
 
長谷川:  これも柳先生が、「浜田のとこへ行け」といわれましたね。「益子(ましこ)は遠いですから後回しにします」といったら、「後回しにしたって、よう行きやせん。すぐ行け」というようなことで、柳先生という人はピシッピシッといわれる。お手紙を頂くと必ず、「こういう仕事をせ」とこう書いてありますですね。有無を言わさず、「浜田のとこへ行け」といわれると、やっぱり行かないけん、という気で行きました。
 
有本:  益子といいますと、今はほんとにいくつかの窯がありますし、有名になったんですけれども、地元と浜田さんの交流というのはまた語り草になっているようですね。
 
長谷川:  そうですね。私は、あそこの東北線の小山(おやま)というんですが、あそこで、「この汽車で益子へ行けますか?」と聞きましたら、それを聞いた人がずっと集まって、「あなたどこから来て、どこへ行くんだ?」という。「いやぁ、益子の浜田先生を訪ねに行きます」といったら、「浜田先生はすごい人ですよ」といって、みんながたまって話をくださいましたんですね。浜田先生の家に行ったら、また浜田先生のお父さんが、「すべて物を作るというのは、人間を作って、人間が物を作るんだ」ということを、そこでも教えられましたね。
 
有本:  そうしますと、「物と心の相関関係を」とおっしゃいましたけど、まさに益子でそういうことを目の当たりになさった。
 
長谷川:  そうですね。勿論その後で訪ねた河井先生もそうでございました。人ですね。「人が物を作るんだ」ということを。「テクニックじゃないんだ。腕で作るんじゃないんだ。人間のそのものが作るんだ」ということを非常に強く教えられましたな。
 
有本:  当時民芸運動というのは、大変語るに時間はありませんけれども、
 
長谷川:  要するに、正しい物の見方をする、ということと、勿論経済的な気持と、それから社会運動としてのしっかりしたものが地にあった。社会運動であり、文化運動であり、経済運動であるものが一体になったものがずっとあった。その上にまた大事なことでございますが、宗教活動というのがずっと地についておりますね。それはすごかったと思います。世界的な動きとして大いに評価されるべきものだと思います。
 
有本:  「技巧じゃなくて人間が作るんだ」という。
 
長谷川:  そうですね。人間の根底は宗教ですね。そうだと思います。
 
有本:  今、お話を伺っておりますと、私は直接お会いしたことはありませんが、棟方志功さんと語り口といいましょうか、動作といいましょうか、よく似ていらっしゃるな、という感じを受けたんですが。
 
長谷川:  「棟方さんに会いたい」というて、河井先生にいうたら、「河井が会いというて、会うてください」ということでございましたんで、棟方さんにそういうことを申しましたら、「河井先生が会いといわれたか。河井先生が会いといわれたか」と確かめて、何編も確かめてね、「そうです」といったら、その次ぎ、どういわれたか。「河井先生が人をよこされたのは、お前がはじめてだ」というようなことでね。それからご自身の家へ連れて行って頂きましてね、大きな声で、「わぁわぁ、わぁわぁ〜」いわれるし―いわれるし、というのはおかしいけど、奥さまも同じように大きな声で話されるんでね、こんな人が住んでおるんだから、東京は広いなぁと思いましたが、それはもう実感でした。
 
有本:  そうですか。その以後、棟方さんとは何回もお会いになって?
 
長谷川:  はい。倉吉にも五度も呼びましたからね。呼びましたって、「来てください、来てください」といって、頼んでね、来て貰いました。これも偉い人でしたなぁ。ほんとにね、私は恵まれて、ほんとにそういう方々とお出会いさして頂きました。
 
有本:  それぞれのご縁で、思い出に尽きないと思うんですけれども、今それぞれの方々も勿論故人でいらっしゃるんですが、まだ長谷川先生の身体の中に生きていらっしゃる、と。
 
長谷川:  う〜ん、それもありますけどね。もう一つ言いたいことがある。それは、いろいろ思い出すことがいっぱいある中でね、母のことを話したついでにもう一つ言いたいことがある。それは、私が小さい学校の校長になった時に、あんまり便所が汚いのでね、その母の教えを思い出して―思い出してやったというわけではなしに、何となく、「あ、汚いな。これ奇麗にせないかんな」と思ってね。ずっと水性ペンキで塗ったりしたことがあるんですね。子供がね、「校長先生、ようにしてつかるなぁ」―奇麗にしてくださいますわな、という礼をいうたんです。ビックリしてね、「儂(わし)はこれぐらいしかせんのに、おまえに礼をいうてもらうと勿体ないな。有り難うな」と思ったことがある。それからその次ぎ、西郷小学校へ行ってね、また便所掃除。やっぱり親に習ったことは、いつの間にかやっていたみたいだね。やると、用務員さんが、「私にさしてください」といって。「いやいや、あんたはお茶を出したりせならんから、便所掃除はいいで」と。しばらくすると、女の先生が、「校長先生、わしらにさしてくれ」という。「いやいや、儂はな、便所掃除しておっても月給が一番いいねぇ」。それで「儂にさしておけや」というてね。男の先生もいろいろいうてくるけども、儂がさして貰える、と。ところが男の子がさぁっとやってきてね、「校長先生、便所掃除するんかい」といって、「儂がさして貰っているや」といいましたらね、「う〜ん」といってる。そこへ一年の子がばぁっと入って来た。六年生の子がね、「こら! 校長先生が便所されるんだぞ。汚さんようにせいよ!」というようなことをいうんですね。いやぁ、それなんともいいん。そういう気持が繋がってね、非常に面白かった。そういう話をね、ついでに思い出したからやらせて頂きました。ほんとにそんなんでした。またそれぐらいしか務めませんでした。他の事ようせなんだ。
 
有本:  棟方志功はじめいろいろの方々の交流の中で、お互いの母親を語るというようなことがございましたか。
 
長谷川:  やっぱりありましてね。そういうようなことがありました。やっぱり繋がりみたいなものがあるでしょうね。ずっとあると思います。
 
有本:  ところで、「宗教心も大事だ」というお話がありましたけども、長谷川さんご自身振り返って、ご自分の宗教心というのはやはりお母さんから受け継いでいるな、というのはお感じに?
 
長谷川:  それもありますがね。私自体は非常にお粗末な人間でございましてね。
 
     弥陀(みだ)の誓願不思議にたすけられまいらせて
 
という『歎異抄(たんにしょう)』にある言葉を一生懸命板画に彫ってね、自分で彫って、間違いなく彫ったつもりだった。非常に宗教心の深いお婆ちゃんにね、「校長先生、られ≠ェ抜けておりませんかいな」といわれた。その「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて」とこうやっていた。「助けられ」だということを聞いて、それから私は、「られ」というたった二字の平仮名が、どんなに大事だか、ということをずっと思いました。思うたびに、「ああ、そうだ。親鸞さんが〈助けられまいらせて〉とおっしゃったのを、〈助けまいらせて〉というておったがなぁ。それで、「教えられ」「育てられ」の「られ」が、教育の中心だ。要するに、「教育とは教え育てるものでなく、教えられ育てられるものだ」ということを非常に強く思っております。今もそう思っております。私は浄土真宗でございますが、浄土真宗は、「られ」だという二つの言葉の中にこもっておる、というふうに思います。
 
有本:  「教えられ」の「られ」、「育てられ」の「られ」。「られ」こそ。そういえば「られ」というのは現代人は忘れているんですね。
 
長谷川:  いやぁ、これは他人(ひと)にいうんじゃなしに、僕にいうておるんですでぇ。私自体が「教えられ」の「られ」をお前は忘れておったんじゃないか、ということを思いますね。
 
有本:  その「られ」は「他人(ひと)にいっているんじゃなくて、ご自分に」とおっしゃいましたけれども、作品にはすべて「無弟(むてい)」と書いてありますが、「無弟」というのは、どういう?
 
長谷川:  「無弟」というのは、私の号でありますと同時に、二字のお経なんですね。
 
有本:  二字のお経?
 
長谷川:  はい。お経をよう覚えんけれども、二字ですからね、二字のお経だけは忘れちゃいかんぞ。弟子なし。これも親鸞さんでございましてね、「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずそうろう」という言葉が『歎異抄』の中にございますね。その親鸞さんに弟子がないのに、俺の弟子がある、なんていえんですからね。それで「無弟」としまして。名刺の「無弟」は、東大寺の管長であられた清水公照(こうしょう)先生に、「先生、無弟≠ニ書いてくださいませんか」。「無弟な。弟子なしか。あんたらしゅうていいな。よしよし」といって、ヒョイと書いてくださったのを名刺にさしてもらっております。
有本:  なるほど。弟子を持たず。
 
長谷川:  はい。それが私のお経ですね。
 
有本:  そうですか。ところで山陰といえば、真宗信者妙好人(みょうこうにん)の方々たくさんいらっしゃったんですが、倉吉の近くに妙好人の源左(げんざ)の生まれ故郷がございますね。
 
長谷川:  はい。青谷(あおや)(町)でね。
 
有本:  源左は今でもやはり山陰で生きているという感じはお受けになります?
 
長谷川:  ありますね。特に青谷で紙を漉いておられる大江正広製紙なんていうのはね、「紙を漉く心が源左の心で漉いておるんだ」というような気持がありますね。これは気持いいですよ。
 
有本:  ところで先生は、源左の遺品といいましょうかね、いろいろご覧になったことがあるといいますが、やっぱり源左らしい遺品というのは今でも残っておるんでございますか。
 
長谷川:  遺品としてずっと並べるというほどのものは、そんなにないと思いますけれどもね。やはり私が頂いたものは、源左さんの羽織の紐を頂いておりますので、それは大事にしておりますが。特に源左さんは、「ようこそ ようこそ」とおっしゃっておった、という、「ようこそ ようこそ」という言葉は、もう日本中にこう広がっていったような感じが致しますね。北海道に行きましたら、「ようこそ 北海道へ」と書いてあるでしょう。あ、源左さんが先に来ておられたか、というような感じが致します。「ようこそ ようこそ」それをお寺さんに申しますと、「さても さても≠ニいう言葉を付けると、またいっそうやで」と。「さても さても ようこそ ようこそ」というような、まあそういう気持で、儂も仕事をさせてもらおうかと思っております。
 
有本:  先生ご自身が、真宗というようなことで、そうしますと、お母さまも常に「ナムアミダブツ」と、念仏をお唱えになっていらっしゃったんでございますか。
 
長谷川:  まあ、わざとらしいということはなかったですね。「またナンマンダブツいいおる」というようなことはなかったですが、例えば、働いて働いて、と一生懸命働いて、クタクタになって、お母ちゃん、どうも草臥れておるなと思った。「ああ、草臥れた。おないどしに頼もうかいな」という。えっ、誰に頼むんかいな、と思ったら、自分で仕事をしておりましてね。それをだいぶ経ってからやっとわかったのが、「自分の身体の中にある自分とおない歳の仏さまを信じておったんだなあ」と。柳宗悦先生が、「あなふしぎ 御仏 吾が齢(よわい)」―ああ、ふしぎなことに、仏さまは自分とおない歳だ、ということをいうておられるんですが、そういうものを一応自分の腹の中にパッと掴まえていたんじゃないか、というふうに思いますね。
 
有本:  自然な形で、宗教が、或いは信仰心が入ってくるという感じなんですが、それにしても日本人が見失っているものがたくさんございますし、宗教心を親がどんなふうに子供に伝えていったらいいのか。悩み苦しんでいる方々が多いんですが。
 
長谷川:  そうですね。これは話をちょっと別にしましてね。タイの国に行きました時に、タイのガイドがね、「日本人は節度がなくなりましたね」と僕にいうんよ。「えっ!もう一遍いうてみ」といいたいところだけども、もういうてもらわんでも、タイの人たちに、「日本人は、節度がなくなりましたね」なんていわれるようなこっちゃいかんわい、ということを、もう非常に強く思いましたね。そんなことじゃいかん。日本人は礼儀の正しい、シャンとした国民だ、と万国から認められないけんのに、なぜそんなことになってきたんかな、ということが非常に寂しゅうございましたね。「えっ!」といいながらも、う〜ん、「そんなことはない」って、よういわなんだ。いえなんだ。しかし、日本人から宗教的なものが抜けていくということではない、と。必ず大事なものがいっぱい残っておると思いますけれども、普通の言葉、なんともない言葉の中に、大事なものがあるんじゃないか、と思いますね。それがもう一遍認識されないけんのじゃないか、と思いますね。
 
有本:  手立てはいくつかあって、なかなかどこからというふうな、掴み所のないことなんでしょう。先ほど先生が学校で教え子の前で、率先トイレの清掃をなさった、と。これもある意味では、そういう宗教心というふうな言葉に置き換えてもいいぐらい、まず率先して、先生からやってやろう、というお手本ですよね。
 
長谷川:  その手本を示そう、となんていう気はちっともない。ただね、母の教えがいつかこう滲み出たんだなあ、というようなことを自分では思っております。私を、「校長さん、校長さん」といっておった人が、「校長さん、電話かかった。どこじゃいな」といって、捜すと、「多分ゴミ焼き場だろう」というようなことをいうてね、ゴミ焼き場へ行ったうえで、「電話ですでぇ」という。「あ、すまん、すまん」といって、行ったりしてね。ところが、「ゴミ焼き場だけは儂に任せてくれ」という人があってね、とうとう儂の職場を一つ取られたような気もしましたけどね。だけど、その当時先生方が、「先生と別れるのは淋しいからずっと長谷川先生を中心にして」というから、「それがいかんのだ、それが。長谷川先生を中心にしてって、そんなのチョロい。もっと偉大なものを、仏さんでも、神さんでもそういうものをみて、そのお互いに弟子であるということにおいて、弟子の友だちの会≠ニいうのを作るんだったら、大賛成だなあ」というて、「弟友会(ていゆうかい)」というのを作りましたね。それが二十九年も続いておりますが。それで、「決して長谷川を中心なんて、そんなチョロいことをいうでないぞ。もっと大事なものを中心にしていこうや」というようなことを、つい「弟友会」というような言葉がポッと出てね、「それをやろう」というようなことでやっております。
 
有本:  そうですか。八十二歳で精力的に創作活動も続けていらっしゃるんですが、平均的な一日ですと、朝何時頃からお仕事なさるんですか?
 
長谷川:  いや、それはね、割合決まった時間はあんまりありませんが、とにかく割合次から次へ仕事が追っかけてくるんでね。それともう一つ、土地の人が、「長谷川のものをずっと集めて、八十八になったら盛大な展覧会をしよう」というので、去年から、「無弟コレクション」というのをお持ちくださいましてね。去年一年間になんぼかの作品を集めてある場所に置いてある。今年二年目のやつが六月から始まります。それを五年間で大体五百点の僕の作品を集めてくださっておるんですね。これは勿体ないことでね。ほんとにこんな勿体ないことをしてもらうんで、相済まん、と思いながらもね、やっていかないかん、ということがあります。
 
有本:  そうですか。まあ膨大な作品なんですが、時間の関係もございますけれども、ごく一部作品をご紹介頂きながら、またお話を進めてまいりたいと思います。
 

 
長谷川:  これは鬼なんですね、これは字が出てきますが、
 
     手を抜いたら手がかかる
 
これも母がよういいおりました。「手を抜いたら手がかかるけな」なんていうてね、いいおった。ところが大阪のある会社の方が、「これをポスターにしたい」とおっしゃるんで、「どうぞ、どうぞ」というたところが、「これをポスターにしてからえらい成績があがりました」いうてね。勿体ない。それは受け取り方ですからね。受け取り方の名人がおったんだなあ、ということを非常に喜んでおります。
これは、
 
     下手上手をこえねば ね
 
というので、もうちょっと前に、この前にもう一つの板画がございまして、
 
     下手は上手でないだけ
     上手は下手でないだけのこと
 
という、それはしょっちゅう僕は自分でいうておるんです。字書くのも下手やな、なんて思っても、まあそれは上手でないだけだわい、と思ってね、遠慮なく書いておりますわい。それで、上手な人を見るというと、これは下手でないだけだわい。大したことないわい、なんて生意気に思ってね。「上手下手をこえねばね」というのは、「下手は上手でないだけのこと、上手は下手でないだけのこと」というふうに、自分で勝手にいうておるんです。我が儘ですからね、僕は。そういうふうにいうてね、あんまり遠慮して、ヒクヒクしておらんと、こういう具合でございます。それが出てくると辛いな、と思いますけれども、まあ自分がいうたことですから間違いない。こういうことをほざいております。
 
有本:  こういう心境になるには、なかなか難しいですね。
 
長谷川:  これは大体ね、こけし風に作っておるんですけどね。利休さんのつもりなんです。
 
     一生先生を仰ぐ幸せ
 
お茶の先生がね、「利休さん、利休さん」と思ってね、お茶をやっておられる。とにかく先生を持つということは大事ですね。「あんたの先生は?」なんていわれて、「うちの先生、もうとっくに死んでしもうて、誰もないのや」というようなのはいかんですね。お亡くなりになっても、先生は先生として仰いでいけるようにならないけんな、ということをしみじみ思います。
 
有本:  その点長谷川さんには、一生、先生と仰ぐ方々がたくさんいらっしゃる。
 
長谷川:  そうですね。これは実に豊かです。そういう気持はいっぱいあります。
 
有本:  それと黒と赤のコントラストと言いましょうか、赤はなかなか生きていますね。
 
長谷川:  いやぁ、人様がやっておられることをずっと見ておるとね、もうみんなやってしまっておられるようでもあるし、またお前に残しておいてやったぞ、というようなところもあるしね。だから黒と白とだけの板画から、また赤と白との板画をやってみたりするのもね、ちょっとまた面白い。それを創作とは思いたくない。言いたくもないし、なんでございますけれども、そして楽しましてもらっておる、というようなことでございますかね。
 
有本:  今の作品を拝見しまして、人間精進しなければいけない、勉強しなければいけないんだなあ、というようなことを自分なりにこう作品を拝見して感じたんですが、
 
長谷川:  今ね、有本さんがおっしゃったんですけどね、僕の非常に嫌いな言葉はね、「勉強」という言葉が嫌いなんです。なんでそうかというとね、子供たちに、親は、「勉強せい、勉強せい」と言うておる。よう考えてみるとね、「強(し)いて勉(つと)めよ」という言葉が「勉強」ですよ。そうすると、「面白くもないけれども」という思想がパッと寝そべっておってね、いかん。もっと人生は楽しい。もっと人生は嬉しいもの、楽しい、喜びいっぱいのもの、ということを思うたら、勉強という言葉よりも、「仕事を片付けていきなさいよ。お父さんも仕事を片付けるんだから、あんたも学校の課題があったら片付けなさいよ」という、そういう言葉でやらんと、いかんな、と思っとるんですな。
 
有本:  おっしゃる通りで、大変失礼を致しました。
 
長谷川:  いえいえ。家の家内もね、子供にね「勉強せ」というから、子供に、「お母ちゃんが勉強≠ニいうたんびに百円ずつ貰え」というたらね、喜んでね、大分稼いだ、と思いますよ。
 
有本:  そうですか。
 
長谷川:  だけど、そのうちに家内も言わんようになりましたけどね。
 
有本:  じゃ、次の作品にまいりましょうか。
 
長谷川:  これは倉吉に打吹山(うつぶきやま)(204m)という山がございます。その打吹山というのは、天女伝説がございまして、太鼓を打ち、笛を吹くので、「打吹山」というんでございますが、
 
     ほんとの自分と一生つき合う
 
と言葉をそれに入れましてね、「自分というものは、一生つき合う。本当の自分と一生付き合うんだから、仮の自分と付き合っちゃぁいかん。自分を丸出しにした自分と一生付き合うんだから、自分を大事にしようぜ」という、その叫びなんですね。僕の勝手な叫びでございますけれども。大事な自分と一生付き合うぞ、ということをいいたいですね。
 
有本:  「大事な自分」・・・なるほど。
 
長谷川:  そうでないとね、この世に一人しかないんですからね。その自分に見られている自分を意識せんとね。他人(ひと)に見られておるんじゃない。「自分が一番自分に見られておるだ」ということを思いたいですね。それは何より自分に見られておりますね。自分に見られている自分、ということの意識を大事にせないかん、ということをしみじみ思っております。
 
有本:  「他人(ひと)に見られている自分」というようなことを、とかく考えがちですけども、「自分に見られている自分」。
 
長谷川:  そうですね。
 
有本:  素晴らしいですね。
 
長谷川:  あんたに、「晴らしいな」といわれると、本気にしますで。
 
有本:  いやいや、本当のことを申しておりますんで。私もかつて鳥取放送局に勤務致しました。久しぶりに鳥取言葉を伺ったような感じを受けまして。
 
長谷川:  そうですかいな。私は姫路から鳥取に変わった時は、言葉がわからんで困ってね。そのくせ鳥取言葉でも、いい言葉を覚えればいいんですけどね、やっぱり方言のあまりよくない言葉を先に覚えるもんでございますね。悪貨は良貨を駆逐する≠アとになると、そう思いますわ。
 
有本:  いや、鳥取言葉、大変心温かな、素晴らしい言葉で。
次ぎの作品にまいりましょうか。
 
長谷川:  よろこび合うよろこび
 
というのはね。喜びというのは非常に大事なことで、一番初めに喜びという言葉を非常に強く言われたのは河井寛次郎先生で、「よろこぶもの みな美し」という言葉が、河井美学の中心なんですね。「美とは喜びだ。喜びが美だ」ということをいわれた。それはもう世界で一番初めにいわれた先生じゃないか。河井美学の中心ですね。そうすると、東大寺の清水公照先生がね、「喜んでもらう喜びが一番の喜びやなぁ」といわれたんでね、「あれ、この先生偉いことをいわれるな」と思ってね。「先生、言葉をください」といって行ったことがあります。
     生かされているという最高の宝
 
というのも、やっぱり大事な言葉で、「生きているという最高の宝でない。生かされている」。やっぱり「られ」みたいなものですね。「生かされている」ということが有り難い、と思います。
 
     うしろが大事 うしろを拝む
ということで、仏さまの後ろから拝む。私は、「うしろが大事 うしろを拝む」と書いておりますが、「うしろ向きの仏さまがほしいんだがなぁ。なんとかしてもらえんかな」と、仏師に頼んだことがある。うしろが正面の仏さんを彫ってもらって、今、家に置いておるんでございますが、うしろ向きの仏さんを拝んでおると、「来い 来い」をいうてくださるようで。
 
     いまこそ全力
これはね、世間におられる鈴木八郎先生が作ってくださった獅子ですけどね。「その全力はいつか出すことがあるんだから、この今頃出さんでもいい」なんて思ってね、いつも自分の力をセーブしてセーブして暮らしている人がないでもないですが、やっぱり全力をいつもいつも出せるような気でないといかんと思います。
あ、これはいいたいことが出てきました。
 
     ただ今 只今
「ただ今」というのはね、子供たちが家へ帰って来ると、「ただいまぁ〜」といいますね。それは世界で一番美しい日本語だと思います、私はね。ふとその言葉に気がついた時、ああ、日本の子供はいいなぁ〜。「ただいまぁ〜」というて、帰って来るんだ、と思いましてね。「ただ、今しかない」という大宣言だ、というふうに思うんですね。「ただいまぁ〜」、いいなぁ〜。これは日本中老いも若きも、老若(ろうにゃく)男女を問わずね、「ただ今 ただ今」というようにね、「ただ今運動」やったらいいのにな、ということをしみじみ思っておりますがね。
 
有本:  たしかにおっしゃるように、「ただいまぁ〜」と元気よく帰ってくる。どうですか、周りにその「ただいま!」という元気な声が聞こえますか。
 
長谷川:  やっぱり子供たちはその叫びを叫んでくれますね。この前ね、静岡県の三島へ行ったらね、イギリスから英語を習わせしに来ておるお嬢さんがありましてね、その方がもうじき帰るといわれるからね、「日本のお土産にね、ただいま≠ニいう言葉を使ってください。ただいま≠ニいう言葉を、ロンドンにお帰りになってもね、ずっとお使いなさい。これは日本の一番素晴らしい言葉ですよ」といったらね、喜んでね。「良いお土産を頂きました」といって喜ばれたですが、それほどただいま≠ニいう言葉は大きく立派ですね。広がりがありますね。ぱぁっとしてね。私は、「ただいま経」という「ただいま」が好きですわ。
 
有本:  「ただ今」と大きな声して、「今」を大事にする。先ほど、「喜びを続ける」というようなお話がありましたけども、「継続は力なり」なんていうことをよくいいますけども、ほんとに喜びを続けられる。続ける、というのは、これは素晴らしいことですよね。
 
長谷川:  そうですね。結局喜ぶということは、要するに、向こうの値打ちをパッと見付けることですからね。それが自分の喜びになるんですからね。やっぱりそれをずっと続けんといかん、というふうに思いますわ。「感謝する」というのは、「感じる」ということが先で、「謝」というのは、お礼をいうことですね。花が咲いたら、勝手に咲きやがったな、ということでは具合がわるいんで、「わぁ、咲いてくれたか」というところ認めて、それに対してお礼をいうような生活をやっぱりやりとうございますね。それは我々が山を見たり、何かを見たりして、絵を描く場合、「ありがとう」という気持をやっぱり持ちとうございますね。昨日もホテルに泊まらせて頂きましたんですけれども、いろいろな人たちの絵を見ながらも、「ああ、よう描いてくださっておるな」ということと、「この絵をここへ掛けてくださって有り難う」と思いながら、こう一々作品を味わうと、なかなか楽しゅうございましたがね。
 
有本:  今、この一連の作品、ほんとに一部ですが、拝見致しまして、例えば、「ただいま」という言葉、日本一素晴らしい言葉じゃないか。或いは、「手を抜いちゃいけないよ」。ごく当たり前のこと。こういう長谷川さんの言葉というのは、散歩しながら、或いはお仕事しながら、ふと湧いてくるものなんでございますか。
 
長谷川:  はい。「いろは」を作ることが割合好きでしてね。今、持っておりませんけれども、「いろは」とずっと順番に書いて、その中に自分の好きな言葉を入れて書いて見ると、割合に、「おぉ・・こんなことがあったか」というようなことを思い出すようにね。そういうふうで、そういう言葉をふっふっと出すことを、やっぱり河井先生に習ったかな。そういうようなことを思い、また源左さんの「ようこそ ようこそ」という短い言葉だけれども、ピシッピシッと押さえてくださる言葉を見るというと、なるほど、これは大事な言葉だ、ということを思うように、それはだんだんお稽古さしてもらっとる、というようなことでございますがね。
 
有本:  たしかに我々人生生きていくうえで、いろんな素晴らしい言葉というのはありますが、宗教家であったり、哲学者であったり、ということなんですが、先生の、一般市民が口に出してくる言葉というところにまた大きな特徴がありますし、意味がありますよね。
 
長谷川:  いやぁ、勿体ないですね。あんたにいわれるともう恐縮するんですが。やっぱりこれはね、そういうように受け取ってくださる方が、受け取り方の名人だな。そういう受け取り方の名人というのがありますね。なんぼ良いもんがあっても、ちっとも受け取って頂けないのは、受け取り方の名人でない人ばっかりじゃ、そういうことがございますわね。
 
有本:  先ほどの仏さまなんか、正面から仏さまというのは当然なことながら拝むものだ、ということなんですが、逆に後ろ仏さまを拝むことによって、見えないものが見える、というようなことがありますね。
 
長谷川:  まあそういうとこがありますね。仏さまの後ろ姿ばっかりの板画集もあるんですけど。
 
有本:  そうですか。
 
長谷川:  本屋に行くと、「仏さまのうしろ姿はないか」というて捜して見たりね。古本屋へ行って特別に捜して頂いたりして、その仏の後ろ姿をずっと集めたことがありますね。東京の近代美術館にロダンの彫刻があってね、〈カレーの市民〉がございますが、そこの売店でね、〈カレーの市民〉の後ろからの写真はありませんか?」といったらね、「そんなものはありません」といわれてね。彫刻というのは、後ろから見るように飾るんだ、ということが、こういうところへお勤めになっておられる方も、まだわかっていないのか、ということが、非常に惜しかったですね。後ろの良さというものがたしかにあるもんです。ある時、私の家に来られた人がね、ふとお帰りになる姿を見たら、なんて淋しいんですよ。「あなたすまんけどね、もう一遍家へ来てくださいませんか」といったら、「どうしてですか?」というから、「私の家から帰られる人がちょっと淋しい姿に見えたんでね、これは私の見方かも知らんけども、もう一遍来てくださいよ」というたらね、「はい」といいながら、お帰りになって、何ヶ月か経ってね、お越しになってね、「あぁ、来てくださったか」といったら、「先生、今日は後ろから見てくださいよ」といわれてね、「そんなこといいましたか。えらいご無礼なことを申しましてね」といいながらもね、「先生、後ろを気を付けて歩くようになりました」ということをいわれて、これはもうそれこそ「教えられ」ですわ。「教えられ、育てられ」。「あんた、後ろを気を付けて歩くようになったか。凄いなぁ〜」ということを思いました。外国に行きましても、いろいろなところ、特にパキスタンのガンダーラなんかへ行って、ガンダーラの古い仏像なんかを見ましても、やっぱり後ろから見る喜びというものがいっぱいありますね。そういうふうでした。勝手なことを申しまして。
 
有本:  ところで、「喜びを継続をする」というお話がありましたけど、これからもお元気で作品に取り組んでいらっしゃると思うんですが、どうでしょう。これからこんなものを彫ってみたいな、というご希望ございますか。
 
長谷川:  いや、急にはないですね。急にはないですけれども、私、子供の時に、姫路中学の先生でしたがね。綴り方を上手になろうと思ったら、「文章を書こう、書こう、と一生懸命いつでも思っておることだ」というふうにいわれたのが、今、ふと思い出しましたわ。僕も実は、いつでも、何しておっても、「何かこの次ぎ、この次ぎ」「何かやってやろう、やってやろう」というふうに、いつでも、「やってやろう、やろう、やろう」という、その気持をずっと持続しておると、ポッとそういうもんが浮かんできますね。だから、「こういうものをこれからやりたいです」というふうなものは、申し上げにくいんですけれども、いつか何かを、この次ぎ見出していこう、というようなことを思っておりますね。それが新しいものが生まれてくる、まあソースみたいなもんですからね。そういうふうに思わざるをえんですな。
 
有本:  そうするとこれからもどんどん倦まずして素晴らしい作品が出てくる、と。
 
長谷川:  まあね、しかしそれこそね、「ただ今」を大事にすることですわ。「ただ今」をほったらかしておいて、いよいよの本番になったら元気出してやったるわい、とかね、旅行に行ったら珍しいところ書いたるわい、というようなことをいいよるが、ほんとでない場合に出くわす。ほんとに大事なのは、なんでもないただ今≠セなぁ、ということを思いますね。
 
有本:  ほんとに有り難うございました。
 
長谷川:  お粗末でございました。よう聞いてくださいました。
 

 
(参考)
 
柳 宗悦(やなぎむねよし〉
1889〜1961:思想家。民芸運動創始者。東京都生まれ。1913(大正二)年東大文学部卒。多くの日本人が根強い欧米コンプレックスとアジア蔑視感情に支配されていた時期に、さまざまな文化的価値を無意味にランクづけることなく捉える独自の審美眼を持ち、次々と新しい美を発見し、しかもその美の由来を宗教的深さをもって理論的に解明した。その契機となったのは、W・ホイットマンの思想であり、バーナード・リーチとの交友であったといわれている。無名の工人の生み出す日常的で健康な美に目を向け、日本の文化的価値を見直す中で、1926年浜田庄司、河井寛次郎らと民芸運動を起こし、理論の確立と運動の実践に努める。1936(昭和一一)年日本民芸館を設立し館長に就任。1931年雑誌「工芸」を創刊、近代化の過程で消滅しつつあった地方の手仕事を保護・育成。生涯にわたる思想と行動は、異文化共存の重要性を示唆するものである。1957年文化功労者。著作は多数あり「柳宗悦全集」二二巻に収められている。
 
浜田 庄司(はまだしょうじ)
1894〜1978:陶芸家。神奈川県川崎市生まれ。1916(大正五)年東京高等工業学校(現・東工大〉卒。在学中に二年先輩の河井寛次郎を知る。卒業後は河井のいた京都市立陶磁器試験場に入所し、一緒に釉薬の研究を行う。1918年東京でバーナード・リーチと出会い、1920年リーチの誘いで共に渡英し、向こうで築窯・作陶した。1924年英国から帰国し、京都の河井邸に滞在して河井と柳宗悦を結びつけ、栃木県益子に移った。1925年、柳、河井と「民芸(民衆的工芸)」の語を創案し、民芸運動の推進者となった。以来奇をてらった作風を嫌い、焼き物本来の健やかで堅実な作品を生涯にわたって制作した。釉薬も益子既存のものを使い、彼だけの特別の秘釉はなかったが、これを駆使し、独自の表現や手法を創案したのである。1955(昭和三○)年民芸陶器により人間国宝に認定され、1962年柳のあとを継ぎ日本民芸館館長に就任。1968年には民衆的工芸品の美しさを国際的にひろめた業績により文化勲章を受章。海外でも最も著名な日本の陶芸家で、米国ミシガン大学、英国ロンドン王立大学より名誉学位を受けている。
 
河井 寛次郎(かわいかんじろう)
1890〜1966:陶芸家。島根県安来の生まれ。山陰の豊かな自然と文化の中で少年期をおくった。東京高等工業学校(現・東工大)で窯業科学を学び、1914(大正三)年卒。京都市立陶磁器試験場の技手となる。同試験場に二年後に入所した浜田庄司とともに釉薬の研究を重ね、作陶の技術的支柱とした。その後京都五条坂に「鐘渓窯」を構えて独立。1921年の作陶展で天才陶芸家と称された。しかし1924年に英国から帰国した浜田庄司を介してはじまった、柳宗悦との交流により雑器の美に目覚める。翌年柳、浜田とともに「民芸(民衆的工芸)」の語を創案し、作風も技巧性を払拭した素朴で親しみのある「用の美」へと展開した。1937(昭和一二)年パリ万博でグランプリを受賞。1957年ミラノトリエンナーレ展でグランプリを受賞。作風はさらに器の形にこだわらない、自己の創意の赴くままの境地へと進んだ。「化粧陶器」「いのちの窓」の著書がある。「鐘渓窯」は現在河井寛次郎記念館となっている。
 
棟方 志功(むなかたしこう)
1903-1975:板画家。青森県出身。二○世紀の美術を代表する世界的巨匠。1942年以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。
1903年、刀鍛冶職人、棟方幸吉とさだの三男として生まれる。少年時代にフィンセント・ファン・ゴッホの絵画に出会い感動し、「わだば、ゴッホになる」と芸術家を目指す。1924年東京へ上京する。生命力、躍動感に溢れた力強い傑作を数多く生み出した。1956年ヴェネチア・ビエンナ-レ国際美術展に「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。大変な近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを鼻ずさみながら板画を彫った。仏を題材にした作品が特に有名。昭和四四年青森市から名誉市民賞を授与される、翌年昭和四五年文化勲章を受賞する。
青森県青森市松原に、志功の私費によって建てられた、棟方志功記念館(校倉造)がある。神奈川県鎌倉市鎌倉山のアトリエ跡に棟方板画館がある。
 
 
     これは、平成五年五月九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである