棟方志功(むなかたしこう)の世界
 
                         作 家 長 部 日出雄(おさべ ひでお)
一九三四(昭和九)年、青森県弘前市に生まれ。早稲田大学第一文学部中退。週刊誌記者。ルポライター、TVドキュメンタリー構成、映画評論などの仕事を経て、一九六九年から小説を書き始める。著書に、棟方の伝記「鬼が来た」「津軽じょんから節」「津軽世去れ節」他。
                         ききて 広 瀬  修 子
 
ナレーター: 眼病の棟方志功
      眼を剥(む)きて
      猛然と彫るよ
      森羅万象
 
谷崎潤一郎がこう歌った棟方志功は、その生き方もまた激しいものでした。何ものかに憑(つ)かれたように夢中になるのは、子供の頃からでした。このような創作態度の中から多くの作品が生まれました。そしてサンパウロ・ビエンナーレのグランプリをはじめ、さまざまの国際的な賞を獲得しました。しかし彼は自分の作品を創り出したとは言わず、生まれた、頂いた、と言っています。「版画」とは書かず、「板画」と書いたのもそのためです。
 

 
棟方:  私の板画というのは、そうですね、自分から作るというのではなく、板の中に入っているものを出してもらっている。作るというより生まして貰うと言うんでしょうかね。生んで貰いたい、という願いなんですね。そういう一つの自分は、板のもっている生命と言うんですかね、木のもっている生命というものと合体して、自分の思いというものを十分に発揮し、そしてそういう板から受ける大きい生命(いのち)というものか、力というものをこっちの紙に写して頂くと言うんで、作るというより頂くのが多いというので、板画という字を使うんですがね。
 

 
ナレーター: 棟方志功は明治三十六年、十五人兄弟の三男として青森の鍛冶屋に生まれました。父の腕の良い職人でしたが、世渡りは下手で、家はきわめて貧しかったと言います。生活の苦しさを、父は酒で紛らすこともありました。酔った勢いで、鉄瓶を子供に投げつけるのを、母が庇(かば)って怪我をしたこともありました。家は貧しく、身体も小さく眼の悪かった彼が、いじけることもなく、少年時代を送ったのは、一つ得意なことがあったからでしょうか。それは絵を描くことでした。友だちは紙を持って来て競って役者絵を描いてもらい、それで凧を作ったものでした。小学生の頃から彼の創作態度は独特で、一張羅(いっちょうら)の着物が墨や絵具で汚れるのも気にせず、無我夢中になって描いたと言います。小学校を卒業すると、間もなく裁判所の給仕となり、さらに直向(ひたむ)きに絵の道を歩むことになります。無我夢中という世界は、棟方志功の身近にありました。イタコ(巫女)の世界です。一心に呪文を称え、忘我の境地に入り、霊界の言葉を受け取って俗界の人間に伝える。津軽にはシャーマンの世界が色濃く残っていました。人間を超えるもの、目に見えないものを畏敬する心を子供の頃から身に着けていました。鍛冶屋の守護神・不動明王を一心に祈る父親の姿、信心深い祖母が毎朝あげる読経の声、家の庭のように毎日遊びに行った善知鳥(うとう)神社のたたずまい、志功の日常生活の周りには、いつも宗教的な雰囲気が漂っていたのです。彼が子供の頃から親しんだ世界が、その作品に表れています。棟方志功が子供の頃から愛し親しんだもう一つの世界、それはねぶた祭です。優れたねぶたの絵を描くことが子供の頃の夢だったのです。
 

 
(昭和四十五年撮影のVTRから)
 
棟方:  ねぶたの興(きょう)というのは、太鼓と笛とそれから鉦(かね)なんですね。太鼓はダンダンダラダラダンダンダンダカランダンダラカンダンダン・・・笛がピューヒロピューヒロ・・・と、私は言いにくいけれども、あの立派な笛と、鉦はガガスカガン ガガスカガン・・・という単純な鉦の音だけれども、三つにすれば、はじめてねぶたの曲が盛り上がります。そこへこの跳人(はねと)とういうのがありましてね、跳人(はねと)というのはセラセラセラセ セラセラセラセ・・・というんで、もう無常無常になって、自分も忘れて、もう青森のねぶたのことは猫も犬もネズミまでが踊り出しているんですね。もうそわそわして黙っていられないという、このねぶたの祭はね、太鼓と笛と鉦の音が聞こえると、もう青森中の人たちがそわそわして、人任せじゃないですよ。猫でも犬でもネズミまでが、もうそわそわするぐらいの大きい一つの青森県自体のかたまりがですね、ねぶたに集中されますね。
 

 
広瀬:  今日の「こころの時代」は、棟方志功の人生、心の展開を追いながら、人生人間の生き方について考えてみたいと思います。スタジオには、作家で棟方志功の伝記もお書きになりました長部日出雄さんにお出で頂きました。よろしくお願い致します。
 
長部:  よろしくお願い致します。
 
広瀬:  生前の棟方志功に、長部さんはお会いになったことはないそうですね。
長部:  僕は棟方志功について千七百枚の伝記を書いたんですけどね、直接に会ったことは一度もないんです。遠くから見かけたことはありますけれども。
 
広瀬:  あ、そうですか。じゃ、棟方志功という人については、どんな印象をお持ちですか。
長部:  若い頃、学生時代から絵は好きだったんですね。ところが棟方志功は嫌いだった。
 
広瀬:  嫌いだったんですか?
 
長部:  ええ。若い時というのはどうしたってね、外国のもの、新しいもの、今の言葉で言えば、ナウイものがみな好きですよね。ところが棟方志功というのは見るからに、古くさいし、泥臭いし、田舎臭いし、で、自分は同郷であるということもあってなんか恥ずかしいような気がして嫌だったんですね。
 
広瀬:  同郷であるがゆえの厭(いと)うような気持もあったわけですか?
 
長部:  あったですね。例えばこの絵に出ているような、なんか呪術的な感じがありますね。これが戦後の僕らの若い頃というのは、近代合理主義全盛の頃ですから、こういったものはおぞましく思えたんですね。でもって志功というのはなんとなく敬して遠ざけるというか、偉い人かも知れないけれども、あまり好きじゃないな、と思っていたんですけどね。
 
広瀬:  それがだんだんに気になってきたわけですか?
 
長部:  ええ。三十代の半ばに、僕はそれまで東京でもって、週刊誌のライターとか、映画の批評とか、こういうテレビドキュメンタリーの構成とか、いろんな仕事をやって飯食っていたんですけどね。三十代の半ばに、僕は青森県の津軽というところが故郷なわけですが、そこを舞台にして小説を書こうというふうに思って帰ったんですよ。書こうと思った小説の主人公が三味線弾きなんです。津軽三味線というのがありますね。その三味線弾きから津軽三味線の弾き方を習っているうちに、「あ、これは棟方志功の絵の描き方、彫り方と同じじゃないか」というふうに思ったんです。これは、音楽からそんなふうに絵画に関心を持つというのは変な入り方だというふうに思われるかも知れませんけどね。私は、棟方志功の場合はそれでいいんだ、というふうに思うんですね。どうしてそれがいいのか、というのは、後で詳しくお話できると思いますけれども、先ほどVTRでもって、盛んにガガスコジャンとか、なんか盛んにねぶた囃子なんか最初にやっていましたね。あの人がいつも身体の中にあんなリズムを持って、絵を描いたり、版画を彫ったと思う。多分版画を彫る時には、お経を称えたり、歌を歌ったり、きっと身体の中に音楽があって、その外側に出る表現として、彼は絵を描いたり、書を書いたり、それから版画を彫ったんじゃないか。僕はそう思うんです。
 
広瀬:  傍にいる人に一生懸命話し掛けながら、それも独り語りみたいな感じですけれども、やっていらっしゃいましたね。
 
長部:  ええ。よく棟方志功のドキュメンタリーがありますけどね、大抵歌を歌っていますよ、彫る時に。ですから基本的には、彼はとても音楽的な人間というか、それは例えば西洋音楽を学んだとか、そういうのじゃなくて、身体の中にリズムみたいなものがあってね、それが彼の生き方とか、芸術とか、一番基本的なものになっているというふうに気がするんですけど。
 
広瀬:  そういうことに限らず、仕事の仕方にもなんか津軽三味線の弾き手と、
 
長部:  似ていますね。津軽三味線というのが、基本のジョンカラならジョンカラ、ヨサレならヨサレという節がありまして、それを他の人と同じように、昔からずっとあるように弾いちゃダメだ。我流でなくちゃいかん。我流というのは普通悪い意味に使われるけどね、今の言葉で言えば、「個性的」とか、「オリジナル」ということですかね。なんか基本のうちから自分なりの新しい節を弾き出さなくちゃダメだ。それはいくら頭で考えても出てこないというんですよ。それは三味線を叩いて叩いて、津軽三味線は「弾く」と言わず「叩く」という人たちがいるんですよ。叩いて叩いて、何時間も叩いていると、肉体的にも精神的にも疲労の極限に達した時に、ふあっといい気持になって、自分でも知らないうちに新しい節が身体の中から出てきて、撥(ばち)から引き出されるというんですよ。今、志功さんが、「板画は作るんじゃなくて、生まれるんだ、頂くんだ」と言っていましたけどね、津軽三味線も叩いて叩いてくると、自分の中から生まれてくるんですよ。ですから、そういった意味で、津軽三味線も新しい節を作り出す時は、身心ともに疲労の極限に達した時は無我夢中になっていますよね。その無我夢中になって、その中からなんか生まれるように新しいものを作り出すというのが、志功さんの版画の彫り方と津軽三味線というのは共通する、というふうに思うわけです。
 
広瀬:  さっき「跳ねて」という言葉が出てきましたけども、無我夢中に跳ね回るような、ねぶたとか、
 
長部:  そうですね。あれはあんまり常識があったらできませんよね、あんなことは。あれも跳ねているうちに無我夢中になるでしょう。
 
広瀬:  じゃ、そういう意味で勿論津軽という故郷に深く彼は結び付いているわけですね。
 
長部:  と思いますね。津軽にイタコ(巫女(みこ))というのがいましてね。さっき出てきましたけど、死んだ人の言葉を与えるというんですが、この人たちも延々とですね、「出の文句」―仏さまが出るまでの呪文みたいなものを延々と称えてですね、それでもって神憑(かみがか)りになって、無我夢中になってですね、なんかその時意識下から生まれてくる声が死んだ人の声だと、昔の人は言ったんですね。そういった意味では、なんか基本的に津軽三味線の弾き方、或いはイタコの口寄せの仕方、そして棟方志功の版画の彫り方というものには共通しているものがあるような気がするんですけどね。
 
広瀬:  それにしても津軽の人間はみな、ああいう感じというわけじゃないでしょうから、彼の独特の性質というか、資質みたいなものというのは、熱中し易いというようなものがあった?
 
長部:  ああいうふうなカッと我を忘れてはしゃぎ回るというふうなのは、津軽人の中にありますね、特に濃く強く志功さんにはあったんじゃないですかね。
 
広瀬:  大変小さい時から負けず嫌いだし、自我というか、自己主張も強かったようですね。
 
長部:  そうですね。とにかく志功さんという人は、ある時期まではとってもエゴイスティックだった人だと思いますね、たぶん。自分中心でね、自分勝手でね。若い頃に『白樺』というものがありましてね、当時、雑誌の『白樺』というのが、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)とか、志賀直哉とか、柳宗悦とか、ああいう人たちの、この『白樺』というものが、日本中の若い人たちに当時与えた影響というのは大変なものだったと思う。特に地方にいる人たちはみんな古いものに縛られたり、家とかに縛り付けられて、昔の人たちは非常な重圧を感じて生きていたでしょう。それに『白樺』というものが、印象派の画家たちを紹介した。この人たちは古い伝統に反抗して、自分の思いとおりの芸術を作り出していたわけだけど、なかなか認められなくて、非常に苦労しながら、しかし生きていった。ですから『白樺』の西洋絵画の紹介というのが、田舎の若い人たちには人生論として受け取られたところがある、と思うんですよね。
 
広瀬:  これは青森でもそういう『白樺』がとっくに入っていたわけですか。
 
長部:  ええ。それでもって棟方志功という人は、親孝行になる、というんで、鍛冶屋の息子で正規の美術教育をなんにも受けていないのに、東京へ出て行くことになるわけです。その頃白樺派の、いわば西洋の個人主義、それから天才礼賛、或いは芸術至上主義というものが非常に影響が強かったんです。つまり芸術のためにはある意味で周りに迷惑を掛けても、家族を泣かしても仕方がないんだ、というふうな、
 
広瀬:  そういう意味の芸術至上主義、
 
長部:  そうそう。それで志功さんという人は、大変あの人は肉体的にも強度の近視だったわけですけども、精神的にも近視眼的なとこがあったんじゃないかなあ、というふうに思いますね。その例は、東京へ出て行ってから四年間、つまり帝展目指して出て行くわけなんですが、帝展を目指すということには、志功さん流の立身出世主義というのがあると思いますね。やっぱり権威というもの―帝展に入選して特選を取って、やがて審査員になって、偉くなるという望みがあったんでしょうけども、四年間落選し続ける。その間彼が描いたのは何かというと、東京にいるのに故郷青森の風景なんですよ。そんなふうに非常になんか自分の身近なものにこだわる、執着するとこが強かった、と思うんですね。
 
広瀬:  帝展というのはやはり青森でもかなり重きをおかれてみんなから考えられていたわけですね。
 
長部:  当時は地方の新聞というのは、朝夕刊あわせて六頁ぐらいの薄っぺらな新聞です。それに帝展の選考経過から、入選とか伝えるというのは、今でいうと高校野球の報道と同じですよ。ですから志功さんにしてみたら大変な栄光なわけですから、帝展に入るというのは。ですから是非ともそれに入りたかったわけなんだけども、四年間落選し続けるんですね。
 
広瀬:  それからのちに女性崇拝というか、女の人―女体にかなりこだわって描き続ける時期があるわけですけど、やはりそういうものも小さい時から萌芽(ほうが)みたいなものがあったんでしょうか。
 
長部:  そうですね。僕は棟方志功の特徴というのは、フェミニズム―女性礼拝(らいはい)というか、女性崇拝というか、とにかく女の人を自分より高いところへ置いて、これを崇めるという。それを目指してなんか進めていくというのが好きな人なんですね。それからエロチシズム―これもわりと早くからありますね。もう一つダイナミズム―なんか生命力、力があってこの世の中を動かしているのはダイナミックな力だ。そういう三つあると思うんですね。これはわりと最初のほうからあって、特に最初の頃はちょっと少女趣味みたいなところがありましてね、それがだんだんにいろんなものに落選したり、それからチヤ夫人と出会ったり、いろんなことがあって、とにかく滅多にないぐらいの貧乏をする。
 
広瀬:  食べ物もほうも困っていたようですね。
 
長部:  ちょっと絵描きとして独立していないのに、チヤ夫人と結ばれて子供ができる。いろんな苦労とかなんかでもって、だんだんに彼のエゴイズムというのも非常に力の強いものになっていった、という気がするんですね。
 
広瀬:  初めの頃は、幼い、あどけない、無垢な少女にかなり恋をして、憧れたみたいなところもあったという、そういう傾向もあったという。
 
長部:  ですから初期の「星座の花嫁」となんていう版画は、今で言ったら宝塚みたいな感じですよね。そういった幼いところというのが、まあ志功さんには一貫して、道を求めるという永遠の少年みたいなところが最後までありましたね。女性に対する好みとか、そういった点は若い時は非常に幼いというか、純情可憐派とか清純派だったですね。最初みんな清純派を好きになりますけどね。そういうのがとっても強かったと思いますね。
 
広瀬:  かなりそういうものを持ち続けていたわけですね。それでもさっきおっしゃったように肉体的には近視だったけれども、精神的には故郷というものにずっとこだわり続けていたという。
 
長部:  はい。ほんとに自分の目に入るものしか大事ではないというふうな、そういった考え方がずっと続いた、と思うんですね。
 
広瀬:  で、故郷の絵を描き続けていた、ということになるわけですね。
 
長部:  そうです。
 
広瀬:  どんなものを描いていたんでしょうか?
 
長部:  これはずっと後の絵〈八甲田山〉ですけれども、ゴッホに憧れていたわけですから、やっぱり当時の絵を見て知っている人は、「騒々しい絵だった」と言いますけどね。そういうタッチでもって、東京へ出てからも故郷の知り合いの果樹園とか、そんなのばっかり描いていたんですね。
 
広瀬:  で、落選し続けたということになるわけですね。
 

 
ナレーター:  棟方志功が上京した翌年、彼はたまたま一枚の版画と出逢いました。川上澄生(すみお)の「初夏(はつなつ)の風」でした。彼はこの作品に深く感動して、以来版画の作品を作るようになります。昭和十一年大作「大和(やまと)し美(うるわ)し」を発表したとき、彼はもう三十三歳、結婚して三人子供があり、生活のもっとも苦しい時期でした。この作品を佐藤一英(いちえい)の「日本武尊(やまとたけるのみこと)」を主題とした叙事詩二千字を刻み込んだもので、四枚の額からなる大作でした。この作品を国画会に持ち込んだ時、会の委員は全作品を展示することを拒否します。当時国画会版画部に割り当てあれていた展示室は小さな一室だけでしたから、これを掲げると一つの作品が独占してしまうことになるからです。四枚の額のうちの一枚だけ展示を認めたのでした。棟方は四枚セットでなければ作品とは言えないと主張します。この時たまたま通りかかった工芸部の浜田庄司(しょうじ)が、この作品に感動し、全作品が展示されるようにはからってくれます。このことが機縁となって、浜田をはじめ柳宗悦、河井寛次郎など一級の教養人、芸術家、そして民芸運動の人々と深い交わりを持つことになります。
 

 
広瀬:  この柳宗悦たちとの出会いというのは、たまたま出会った運命的なものがやっぱりあったんでしょうね。
 
長部:  これは非常に大きかったと思いますね。先に川上澄生さんの版画に出てきましたけどね、僕は冒頭でもって、「若い頃は田舎臭いものは嫌いだった。外国のものが好きだった」と言いましたけど、志功もそうだったんですね。やっぱり外国のもの、ゴッホが好きで、ですから川上澄生の絵の中にあるようなハイカラな感じが凄く好きで、それでさっき言った「星座の花嫁」みたいな、宝塚みたいな版画を彫ったりなんかしたんですけれども、そのうちに中国では、「書画一致」と言って、字も絵も同じもんだ、という考え方を知りまして、それで「大和し美し」という、ほとんど字ばっかりという版画を彫るんですね。これは当時としては大変思い切ったことだと思うんですよ。これは非常に志功の大胆さというものを物語っていると思いますね。二十枚の版画―佐藤一英の二千字の長い詩をそのまま彫ったわけですから、絵も入っているけれども。
 
広瀬:  四枚の額といいますけれども、全部で二十枚の版画だった。
 
長部:  二十枚の版画を四枚の額に収めてあるわけですね。それを全部展示したら国画会の版画部というのは小さい部屋しかないわけですすから、ほとんどというか、かなりのスぺースを志功一人のために取られて、他の人は寄せられちゃうでしょう。あんなふうに彫る。それからその翌年にはもっと大きな版画を出した。その翌々年にはもっと大きな版画を出したわけですよ。壁一つ全部占領するようなですね。その辺にも志功のエゴイズムというのが出ていると思うんです。
 
広瀬:  勿論意識的に、もうより大きいものを、広い部分を取ろうという。
 
長部:  他人(ひと)はどうでも、自分という。でも、これはまた考えようで、人に遠慮して、じゃ、これぐらいの今まで通りの版画というふうに考えていたら―それまで版画というのは、女、子供とか、もの好きが集めて喜ぶぐらいのものとしか思われていないわけですよ。このぐらいの小さいものですね。どうして版画というのが油絵と同じ大きなものじゃいけないのか、或いは壁画というのもあるじゃないか。どうして版画が壁画になってはいけないのか、というふうに考えたわけなんですね。そこが非常にエゴイズムと紙一重でもって、非常に志功の大胆で革命的で斬新なところだ、と思うんですよ。ですから、あんなふうなやり方をしていなければ、のちにサンパウロ・ビエンナーレでグランプリを取ったような「釈迦十大弟子」という、ほんとに大きな版画が生まれたかどうかわからない。そんなふうに彼の中に非常なエゴイズムというのがあって、それは自己顕示欲もあったろうけれども、それがまた新しい世界を開くことになっている、と思うんですね。
 
広瀬:  その自己顕示欲ゆえに、柳宗悦なり浜田庄司なりとも出会ったことになるわけですね。
 
長部:  そうなんです。
 
広瀬:  そこで我を張っていなければ出会いはなかったわけですね。
 
長部:  そうですね。あの二千字の、ほとんど字だけ彫った「大和し美し」を、これは全部展示できない、と言われているところに浜田庄司が来て、全部展示できるように取りはからって頂いたわけです。その浜田庄司をきっかけにして柳宗悦、河井寛次郎という、当時民芸運動を始めていた人たちと知り合うわけですね。
 
広瀬:  ある意味では全然今までの彼がいた世界とは違う世界の人たちですよね。
 
長部:  これは非常に志功にとっては幸運だったと思いますね。志功という人は美術界では正規のコースを歩んでいない。美術学校も出ていないんですからオーソドックスな画壇というものに認められるのは大変だったかも知れない。ところがこの民芸運動の人たちは、画壇とは別なところにいるわけですよ。まるっきり違った考え方をしている人たちなわけですね。つまり民芸運動というのはどういうことかというと、芸術家が作った芸術も良いかもしれないけれども、無名の、昔からいた、例えば朝鮮の李朝の工人たち、無名の工人たちが作ったもの―人々が日常ご飯食べたり、日常使うものの中に大変な美があるということを主張していた人たちです。つまり芸術家でなくて、ごく普通の職人みたいな人の中に、実は「俺は美術家だ」なんて言っている人たちよりか、もっと深い美を創り出している人たちがいる、という考え方をする人たちでしたから、その人たちと志功が出会えたというのは、大変な幸運だったと思いますね。
 
広瀬:  それは職人と自分とを重ね合わせて見、また鍛冶屋だったお父さんをも、ともに認めてもらった、という気持というのは随分あったわけですね。
 
長部:  それまでは鍛冶屋の子供というのは、絵描きになるためには、彼のコンプレックスだったかも知れない。ところが柳さんたちの民芸理論によれば、その鍛冶屋の鎌作る名人は、どんな芸術家にも負けない、ちゃんとしたその人たちもまた立派なものを作る人たちなんだという、値打ちのある人たちなんだということを教えられたわけですからね。ですから、彼にとっては非常にその時コンプレックスから解放されたろうし、それから学歴ばかりが全部じゃない、と。柳宗悦という人は東大を出ているし、河井寛次郎、浜田庄司たちは焼き物を作る人たちですけれども、二人とも東京高等工業学校(現・東工大〉卒業後は京都市立陶磁器試験場に入所するわけです。勤めていたけれども、その月給よりも丸善から買う洋書の代金のほうが上回ったぐらい、非常な勉強家の人たちで、いろんなことを知って、しかも熱心な人たちでしたから、この人たちと出会って、美術とかいろんなものに関して教えてもらった。目が開かれた、というのはとても大きかったと思うんですよ。
 
広瀬:  その河井寛次郎と出会うことによって、仏教の世界に入ることになるわけですか。
 
長部:  ええ。河井寛次郎はその頃仏教というものに非常に打ち込んでいて、さっきもいいましたように、棟方志功は、「どうしても帝展に入りたい、偉くなりたい」という、そういうものにすごくとらわれていた。或いはまた故郷とかいろんなものにとらわれていた、縛られていたわけなんです。その河井寛次郎が、志功に『碧巌録(へきがんろく)』とか、そういう禅のことを教えるわけなんですね。河井寛次郎は京都にいたので、志功は京都に行くわけなんですね。それで河井の家で志功にお弟子さんたちと一緒に『碧巌録』の講義をして教えるわけなんですね。この『碧巌録』というのは、一等最初に出ている言葉が「廓然無聖(かくねんむしょう)」という―つまり秋の澄み切った空みたいに雲一つない、何にもない無一物の境地とかですね、こういったものが最高の境地なんだとか、或いは「東涌西没(とうゆうさいもつ)」といって、お日さまは東から出て西へ没するように、出没自在で融通無碍(ゆうずうむげ)で、何ものにもとらわれない。そういった境地を非常に重視しているわけなんですね。無一物で何ものにもとらわれない。河井寛次郎は、のちに志功さんがまた帝展に落選した時に、「落選おめでとう」という電報を打ったぐらいで、帝展とか、そういう小さい世俗の権威にとらわれていちゃダメだ、ということを言いたかったんだろう、と思うんですよ。
 
広瀬:  河井寛次郎というのは陶芸家としては?
 
長部:  大変な人です。これ大変な人だからまた志功も聞くわけですよ。いい加減なものを作っている人だったら聞きませんけれども、河井寛次郎の焼き物というのは一目見たら大変なものだということが、見る目をもった人にはわかりますよ。ですから志功は、もともと河井寛次郎の焼き物に惹かれていましたから。ですから志功という人はまた乾いた白紙みたいに何でも吸い取るんですよ、吸い込む。それから非常に素直に学ぶというか―但し非常に客観的に正確に理解していたかどうかわからないですよ。非常に自分勝手に思い込みとかですね、自分勝手な解釈も含めてでしょうけれども―それで河井寛次郎から仏教の何にものにもとらわれない、無一物の世界というもの、そういったものがこの世の中にあるんだ、と。そういったことに、つまり入り口を開いてもらった、ということはとても大きかったんじゃないでしょうかね。
 
広瀬:  本を渡されるんですけれども、全部読まないうちに、「あと同じことでしょう」というふうなことを言った、というふうなことを、
 
長部:  気がせっかちなんです。それで『碧巌録』の一則から百則まで全部丹念に読むという性格ではないんですね。おそらくパッパッパッと見て、「あ、これ全部同じだ」と、まあ大体直感型の人でしょうから。
 
広瀬:  「一を聞いて十を知る」といいますけれども、それは全部わかってしまって、自己流の自分のほうに引きつけてわかってしまうというようなところがある。どうなんでしょうか。
 
長部:  まあ大体野球の選手でいうと、長島茂雄とか、ちょっと語弊があるかも知らんけども、田中元総理という人がすぐ「わかった、わかった」と言った、といいいますけども、ああいうタイプじゃないんですかね。
 
広瀬:  とにかく自分の世界にもう吸収してしまう、という。
 
長部:  それが非常に勘の良いというのか、とても一番肝心なところですね、パッと素早く掴む力というのがあったんじゃないですかね。
 
広瀬:  河井寛次郎なり他の人たちも、逆にすごく彼に夢中になっていくわけですね。「すごい怪物みたいな人、芸術家というか、天才を発見した」というふうなことで、彼に直接言ったというのは随分力になっていると思いますね。
 
長部:  大体民芸の人たちというのは、言うことが大袈裟なんですよ。誉める時でももの凄い誉め方をするわけですよ。
 
広瀬:  そういう意味で波長が合う。
 
長部:  合うんです。オクターブが高いわけですよ。河井寛次郎は、「君は畏(おそ)るべきものを有(も)つ人だ。君のものを見ていると、人が嘗(かつ)て山野を駆け廻っていた時の荒魂が頭をもたげる。君は確かに人々の中に隠れている荒魂を呼び返す人だ」と書いている。しかも「天才天才」というふうに、とにかくオクターブの高い言葉で誉められると、またその気になっちゃう人だったんですね。
 
広瀬:  載せに載せられて、それは自然にその気になるんでしょうね。
 
長部:  ええ。
 
広瀬:  それから水谷良一という人にも非常に教えを受けたようですが、同じグループに属している人ですか。
 
長部:  民芸運動の中の一人で、商工省のお役人だったわけですが、東大を出た秀才で、この人がまた仏教にも詳しい。謡曲は習っている、何から何まで知っている人なんですね。
 
広瀬:  今はなかなかいないタイプの人かも知れませんけども。
 
長部:  そうですね。昔も趣味人とか教養人というのが結構いたんですね。水谷さんにまた『華厳経(けごんきょう)』というのを教えてもらったのがすごく大きかったですね。僕も仏教のことはよく知りませんけれども、『華厳経』というのは、一番中心になる仏さまは毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)と言って、「毘盧遮那(びるしゃな)」というのは「光」「光明」という意味らしいですね。無限の宇宙の果ての果てまで照らし出す光、これは毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)という仏さまである。
 
広瀬:  東大寺の大仏さんもそうですね。
長部:  そうそう。大仏さん。で、この光によって宇宙の本質が明らかになる。それを掴むことが悟りをひらくということなんでしょうけどね。そういう広大無辺な宇宙というものが、主体になっているわけですから、それに比べたら自分自身なんているものは、芥子粒にも当たらないようなもんで、また『華厳経』の世界ではその芥子粒の中にも全宇宙が含まれているというんですけれども、その芥子粒みたいなちっちゃなものの中にも、微塵の中に宇宙が含まれているというんですが、それにしてもとにかく広大無辺な宇宙というものを、その仏の世界、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の世界なんかと比べてみたら、自分なんか芥子粒みたいなもんでしょう。そうすると、その棟方志功というのが、とても自己中心的で、エゴイスティックで、こだわりが強くて、固執癖があって、偉くなりたかったり、それから故郷に非常に固執していたり、そんなふうだった自分というのが、仏の世界に比べたら、ほんの小さなものでしかないという。そこでもって、「小我」―小さな我から、「大我」―大きな我に生まれ変わるきっかけになった、と思うんですね。この『華厳経』なんかの話を水谷さんから教えてもらって、その世界を彫った。これもまた随分自分勝手で、必ずしも『華厳経』に出てこないような神様が出てきたりね。
 
広瀬:  自分で想像してしまう?
 
長部:  そうです。根本に空想力とか、想像力を発揮する。志功さんのものの作り方というのは、今でいうとSFの作家の想像力の働きに似ています。いろんな怪物とか、出てくるというところなんかはね。
広瀬:  自由自在に膨らませたりしておったわけですね。
 
長部:  ええ。教えられたこと、聞きかじったこととか、パッと読んだことなんか、パッと掴んだ、それを金平糖の芯みたいにして、それに色を付けて膨らませていくというのが、志功さんのそれからの芸術になるわけですね。
 
広瀬:  水谷さんは謡曲にも大変造詣の深い方だったわけですね。
 
長部:  ええ。志功さんは青森で育った。青森というのは昔「善知鳥(うとう)」という名前だった、ということは知っていたわけですが、その水谷さんから「善知鳥(うとう)」という謡曲があるということを教えられるわけですよ。自分としては本州の端っこの誰も知らないと思った善知鳥(うとう)という古い名前を聞いてびっくりするわけです。また志功さんは、地名でもなんでも、古い名前が好きなんですよ。大体あの人が書く時は、字が昔の字と今の字が違うと大体昔の字を使うという。
 
広瀬:  字なんかにかなりこだわりがあるわけですね。
 
長部:  こだわりがあります。それは室町時代の初期に世阿弥(ぜあみ)によって謡曲になっているという話を聞いたもんですからビックリしてね。また水谷さんがこの謡曲を見せたりなんかするんですね。
 
広瀬:  当代一流の人を連れてきて見せるんですね。
 
長部:  それを見て感激してね。それでまた善知鳥(うとう)の物語を彫るわけなんですが、この辺りになってくると、とても美術的にいろんな余分なものを削(そ)げ落として凝縮された造形的な美しさというものが出てきている、と思うんですよね。
 
広瀬:  白と黒のこう引き締まった感じがしますね。
長部:  そうですね。これは多分自分自身だろうと思うんですよ。これは立山(たてやま)から善知鳥(うとう)へ行く僧なんですけれども、これは『華厳経』に出てくる善財童子(ぜんざいどうじ)みたいな、なんか道を求めている―さっき僕は永遠の少年と言いましたけれども、大体志功さんという人は自分をなんか道を求める永遠の少年というイメージでもって―そういう言葉で意識していたかどうか別として―これはつまり僕の考える志功さん自身ですね。
広瀬:  水谷さんでしたか「善財童子みたいな人だ」といったのは?
 
長部:  そうなんです。単にそういう善知鳥(うとう)という物語を離れて、だんだんお終いになるほど、非常に簡潔になってきて、造形的な白と黒との量とか、そういったものの美しさとか、面白さとか、そういうのがとても出てきていますよね。それでとても深い一種の詩情と言いますか、悲しみみたいなものが出てきていますしね。これがやはり志功さんの傑作と言っていいんじゃないか、と思いますけど。
 
広瀬:  謡曲の善知鳥(うとう)のお話というものは、どういうお話なんですか?
 
長部:  これは善知鳥(うとう)の浜でもって、猟師が「うとう」というふうに呼ぶと、「やすかた」というふうに答えて、ヒナが顔を出す。ですから、「うとう」「やすかた」という、そういう言葉を使って、猟師が騙(だま)してヒナを捕っているわけですよ。猟師が地獄へいってから、親鳥がものすごい化鳥に、鉄の嘴を持つような怪物みたいな鳥になりまして、それで非常に虐められやっつけられるわけなんですね。そこに僧が助けにくるという。そういう話なんですね。これはなんか志功さん自体にとってみると、北国というところに生まれた人たちの宿命みたいな、そういうものを感じとったんじゃないかというふうに思うんですよ。お父さんという人はとても腕の立つ人だったけど、お酒飲みで酔って、とても家族を泣かせる。そういうお父さんだったわけですね。お母さんはそのお父さんのために一生苦労した。そういったことがなんか善知鳥(うとう)の物語の中になんか二重写しになって感じられていたんじゃないかなあ、というふうに思います。善知鳥(うとう)の中には、志功さんの頭の中にあるお母さんのイメージだろうなあ、という女の人も出てきますね。
 
広瀬:  この「善知鳥(うとう)」で特選するんですか。
 
長部:  これは文展(昭和十二年に帝展が改組し、文展と名が変わる)でもって、版画としては官展でもって初めての特選になるんですね。
 
広瀬:  版画ではそれまで特選というのはなかったわけですか。
 
長部:  なかったですね。
 
広瀬:  じゃ、世間的にもこれで版画で認められたわけですね。
 
長部:  ええ。
 
広瀬:  そして、どんどん波に乗って制作を続けていたことになるわけですね。
 
長部:  ええ。仏教とかそういったもの、謡曲とかいろんな物語、それから文学、いろんなものに素材をとって、次々に想像力を存分に発揮して、いろんなものを作っていくようになるわけですね。ですから前だったら非常に狭い自分の関心事だけに閉じ籠もっていたのが、その仏の世界というものを知った途端に、ものすごい広い世界に出ていった、という感じがあるんですね。
 
広瀬:  やはり河井寛次郎なり水谷良一なりによって、
 
長部:  或いは柳宗悦。柳宗悦という人が大体「我執を捨てよ」―自分に対するこだわりを捨てよ。小さな自分を捨てて、「大我」―もっと大きな我というものに生まれ変わらなくちゃいかん、というふうなことを言った人ですからね。
 
広瀬:  そして、昭和十四年に代表作が生まれることになるわけですね。
 
長部:  これが「釈迦十大弟子」と言って、多分多くの人が、志功の代表作、多分最高の傑作というふうに認める作品ですね。すごく野性的で、エネルギッシュで、ダイナミックですよね。普通釈迦のお弟子さん―仏像とかだったら、悟り済ましたようなですね、そういった人たちの姿を描く。これはなんかもの凄く欠点も癖も強そうだし、弱点もありそうだし、ひょっとしたら今でも悪いことしかねない、という人たちが、なんか仏の道を求めて苦しんだり、それから自分を鍛えたりしているというふうな、そういった感じがとても出ていますよね。志功は世界的に認められるのは、戦後サンパウロ・ビエンナーレとヴェニス・ビエンナーレでグランプリをもらってからですけど、その主力作品だったのはこの昭和十四年のこの作品なんです。棟方志功という人は、一番貧乏していた頃、無名の頃から漸く抜け出して、柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎に出会った、或いは水谷良一に出会った、この辺りに最初の大爆発というのをするんですよ。彼の傑作のかなりの部分はこの時期に生まれているんですよ。ですから戦後、外国で認められたのは、この戦前のこの頃の作品が非常に大きな力になっているんですね。
 
広瀬:  この頃経済的にも苦しい時期ですね?、
 
長部:  この頃は水谷さんとか、みんなの援助があってですね、後援会みたいなのができて、それでもって一応の生活の安定をみたという時期だろうと思いますが。
 
広瀬:  ある時期には食べ物もなかったでしょうけれども、もう寝食を忘れて没頭するという、無我夢中だったという。
 
長部:  ええ。無我夢中となるというのは志功の特色でね。この無我夢中ということが、「我を忘れる」と。「無我」というのは、ほんとに「自分が無くなる」と書きますね。ですから小さな自分とか、こだわりなんかを捨てるということにも、この無我夢中というふうな熱中の仕方というのは、そういう自分を捨てることに役立つと思いますね。
 
広瀬:  傍にいた家族なりなんなりというのは、かなり違った意味で影響を受けている。
 
長部:  大変だったろうと思います。それまで奥さん、子供さんたちは随分犠牲になったというか、苦労したと思いますね。でも何しろ芸術至上主義のものですから、芸術のためには周りの人たちがある程度犠牲にならなければ仕方がないと多分思っておったんでしょう。
 
広瀬:  経済的に困れば、助けの手紙を出せば金が送られてくるみたいな、そういうふうな支えもあったという。
 
長部:  そうですね。またこの志功さんという人は、そんなに貧乏でも少し金が入るととても高いものを買うんですよ。家具なんかでも、イギリスのもの凄い昔の高い家具を買ったり、絵とか、それから美術品も、それからいろんな材料―絵の材料とか、いろんな材料なんかでも貧乏していてもあの人は最高級のものを使うし買うんですね。その辺はとても志功さんという人は志の高い人で、あんまり風貌なんか、そんなふうに見えませんけれども、あれでけっこうおしゃれで、身に着けるものなんかでもけっこう高いものを身に着けていたんですね。
 
広瀬:  そうなんですか。なんでも求めるものは、じゃ一級品だという、こだわるところもあったわけですね。
 
長部:  これはほんとにそうです。何でも好きなものは第一級の物、第一流の物。
 
広瀬:  そして戦争があって、戦後に入るわけですね。戦後、棟方さんの思考というのは、どこか変化をしていくようなところがあるわけですか。
 
長部:  戦争中に戦争の末期、富山県の福光というところへ疎開しまして、当時は日本中どこだって食べる物がないし、みんな貧乏していたわけですが―大体そういったら悪いかも知れないけれども、志功さんというのは、苦しい時ほど、いい仕事をするような気がするんです。それで戦後の何もかも不自由な時期に、また二度目の大爆発というのがあります、この福光の頃にね。この戦後の爆発というのは何かというと、もともと志功さんには戦前から、フェミニズム、それからエロチズム、この芽はありますし、ダイナミズムというのがあるわけなんです。特にフェミニズムとエロチズムが、戦前戦中というのは不自由な時代だったでしょう。あんまりそういった女性礼賛とか、エロチズムの礼賛なんていうことはできる世の中じゃなかった。それが戦後はある程度それが自由になってきたわけですから、そこで彼のフェミニズムとエロチズムというのが全面的に開花した。花が開いたという感じがあるわけですね。この「女人観世音」というのには、志功さんのフェミニズム、女性礼賛、なんかいつでも女性的なるものが自分を導いてくるんだという、そういう感じを非常によく出した作品だと思いますね。この辺の色の使い方なんていうのは、彼が故郷にこだわっていた頃は油絵を描いていたわけですが、そういうものから解き放されて、いろんなものに題材にとるようになってから、かえって、ねぶたなんかの、或いは津軽の凧絵なんかの色彩を思わせるものが出てくるんですね。
 
広瀬:  明るい感じになる。
 
長部:  なんとなく懐かしい、温かみのある色彩ですよね。ですから小さな自分というものを捨ててから、かえって志功の作品というのはもの凄く個性的になって、誰が見ても一目でもって、「これが志功だ」という、そういうスタイル(画風)もつわけです。絵描きにとって一番大事なものはスタイルでね。つまりスタイルというのは、その人が発見した新しい世界の見方、考え方、感じ方だわけなんですよね。ですから志功さんというのは、明らかにスタイルというものを作りだして、この辺りになると、もう版画だって、肉筆画だって、或いは書だって、誰が見ても一目で、「あ、これが棟方志功だ」とすぐわかる強烈なスタイルというのを創り出したわけですね。これが戦後の代表作と言っていいんじゃないかと思います。これには志功さんのフェミニズム、エロチズム、ダイナミズムが全部出ていますよね。非常に力強い、女性礼賛、母性礼賛、生命力礼賛という讃歌が出ていますね。これはサンパウロのビエンナーレでもって版画部門のグランプリを取って、日本ではみんな志功というのは、「古くさい、古くさい」というふうに思っていますけれどもね、サンパウロのビエンナーレというのは、当時、前衛的な作品がみんな集まる場所だったんですよ。そこで認められたんですからね。外国人から見ると、この作品なんかは大変に前衛的な新しい感じを与えるわけなんですね。
 
広瀬:  その他に「流離抄(りゅうりしょう)」というのがあるわけですね。遊びの精神をこう描いた。
 
長部:  僕は、「釈迦十大弟子」とか「湧然(ゆうぜん)する女者達々(にょしゃたちたち)」、ああいう力強い作品は、勿論素晴らしいと思いますけど、「好き」という点でいうと、この「流離抄」がとても好きなんですね。これにはとても「遊び」という感じが出ている、と思うんですよ。それと、もともと絵というのは、子供は字を書く前から絵を描き始めるわけでね、絵というものは基本的に遊びの精神というのがあると思うんですけど、この作品にはとても遊びの精神というのが流れ出ていましてね。それとユーモアがあるんですね。志功さんの自由の要素というのは、ちょっと稚拙味(ちせつみ)を感じさせる、子供っぽさを感じさせるユーモアです。これが例えば、外国でいうとルソーとか、ああいう画家たちにも通じるような、稚拙味を感じさせるユーモアがあるんですね。これが、「流離抄」というのにはとてもよく出ている、と思うんです。吉井勇さんの歌を題材にして彫っているわけですけどね。これなんかユーモアでしょう。マンガといっていいぐらいですよね。
 
広瀬:  そうですね。
 
長部:  色彩がとても奇麗なんですね。ですから、おそらく志功さんはたぶん楽しんで彫ったんじゃないですかね。僕はさっき志功さんは、いつもなんか歌いながら、きっと心の中にいつでも文学とか音楽があって彫っていた、と思うんです。きっとこういう時には吉井さんの歌を絶えず口の中で繰り返しながら彫ったと思うんですよ。そういう遊びの楽しさが、この作品にはとても出ているというふうに思うんです。
 
広瀬:  たしかにそういう感じが溢れていますよね。
長部:  色なんかとてもいいですよね。
 
広瀬:  ええ。
 
長部:  僕は、志功さんという人は、生涯目指したのは遊びの境地なんですね。つまり仕事というのは、遊んでいるようにできたらどんなにいいだろう、という。
 
広瀬:  これは私たちでも考えますけど、なかなかそれはちょっとしたくてもできないところがありますでしょう。
 
長部:  ええ。僕ら大体仕事というのは、「嫌だ嫌だ」と思っておりますがね。子供の頃、遊びというのは、それこそ無我夢中になって神社なんかで遊んでいると、ハッと気が付くと辺りが暗くなっている。あんなふうに無我夢中になって仕事ができたら、その人は天才ですよ。ところで「火事場の馬鹿力」とよく言いますけれども、なんかそういう時だったら、ある短い時間なら、かなりの力が出されるかも知れないけれども、それを持続することが難しいですよね。ですから子供の遊んでいるような無我夢中の状態、或いは熱中する状態を持続するのが天才だと思うんですよ。だからほんとに子供が遊んでいるように仕事ができるという人は天才ですね。志功さんという人は、子供が遊ぶみたいに仕事をずっとできた人だと思うんですね。
 
広瀬:  でもはじめは、「帝展、帝展」という気持もあったし、「故郷に錦を飾りたい」とみたいな気持もあったし、
 
長部:  かなり汗くさいみたいな、ちょっと遊びというふうな気持から随分遠いところで切々と、やたら歯を食いしばって頑張るみたいな感じだったろうと思うんですが、だんだん次第次第に、仏というものに出会ったり、広い世界に出て遊ぶという。彼自身は自分の版画は自分が彫っているんじゃない。つまり神様、仏さまのなすがままに、自分はいわば道具になって動いているだけだ。
 
広瀬:  手先になっていると、
 
長部:  ええ。手先になって。神様や仏さまに、いわば遊ばせてもらっているんだ、というふうな言い方をしていますね。
 
広瀬:  仏教なりに出会うと思うんですが、自分を小我から大我へそんなふうに変えていけたというのは、その人のやっぱり力と言いますか、ただの偶然じゃない、出会いだけじゃない。
 
長部:  ええ。彼は小学校を卒業したあと美術学校なんかへ行っていないでしょう。ですから、「絵とは何か」とか、それから「真善美」の「真とは何か」「善とは何か」「美とは何か」というふうな、非常に基本的な問題を、一番根源から考えるという習慣が身に着いていたんですね。ですからいろんな大きな問題なんかは、柳宗悦に教えられたりして、全部自分の頭で考えるという。自分の精神的な胃袋で咀嚼(そしゃく)するということはやってきた、と思うんですよ。ですから彼の宗教というのは、ほんとに仏教がどうか、というのはわからない、と思うんですよ。戦後、彼はキリストの像も彫っていますしね。それからまた神様というのも信じていたでしょうし、仏さまも、神様も、キリストも、何でも全部いいわけですよ。多分彼にとっては、山にも川にも海にも、木にも森にも、みな神様がいただろうし、そうすると、これはもっとも原始的なアニミズムといったようなものですね。それからまた死んだお父さんお母さんもきっと。日本人は仏さまという場合に、ブッダのこともいいますけれども、死んだ人のことも仏さまといいますね。そんなふうに大体日本人というのは、神も仏も神仏混淆(こんこう)ですね。また八百万の神がいて、キリストなんかでもかなり受け入れるというふうにですね、そういった日本人のほんとの宗教というのはない、といわれますけれども、なんか漠然とですね、なんかこの世の中に生きているというか、レベルがほんの少し高いところに目に見えない漠然たる神仏にあたるものがいて、この世を動かしているような、支配しているという、そのものに対する畏敬の念というのは漠然ともっていると思うんです。そういった如何にも日本人的な宗教意識というものを、志功さんという人がとても濃縮された形でもっていたと思うんです。ちっちゃい頃からあの人はなんかデッサンする、或いは写生する時でも、必ず写生の対象を拝んで描き始めて、描き終えた後も拝んだといいますけど、そういったふうに森羅万象の中に生命があって、しかも神がいるというふうな、そういった宗教意識でもってなんかに祈るという気持というのはあったんじゃないですかね。
 
広瀬:  棟方さんが頭にハチマキのように巻いているのは、あれはしめ縄だそうですね。
 
長部:  あれもしめ縄なんですね。ですから神のよりしろになっているわけです。淡谷悠蔵(あわやゆうぞう)さんという人がテレビかなんかで見まして、「あれはきっとしめ縄だろう」と言ったんですね。基本的には志功さんというのは遊びを目指したわけだけれども、その遊びというのは、日本語でも、それから英語のプレイでも、ドイツ語のシュピーレン(spielen)でも、みな一等古い言葉は「踊る」という意味なんですね。ですから神様に一生懸命祈る。その祈りの言葉がだんだん気持が高まってくると歌になる。それがやがて踊りになる。そんなふうにして、すべての芸能と芸術が始まっている、と思うんですよ。一等最初に神に祈る。それが祈りの言葉が歌になって、それから踊りになって、神憑(かみがか)りして、志功さんという人はそういうふうに書を書き、絵を描き、版画を彫ったと思うんですね。僕は一等最初に音楽から入っていったというのは、志功さんの場合はおかしくないというのが、基本に神に対する祈りがあって、それがなんか一種の詩とか言葉になって、音楽になって、それがさらに身体的な表現になっていったという意味で、志功さんの芸術表現というのは、まさに遊びであったと思うんですね。
 
広瀬:  無我夢中に没入していた時にも、版画という世界、ほんとに彼にピッタリした世界に出会ったわけですね。
 
長部:  そうそう。それを見付けたもんですからね、非常にこだわりのあった、ある意味で小さかった棟方志功が、その仏の世界に出会って、それももの凄い広い世界に出ていって、自由奔放に自分を遊ばせて想像力を発揮した。その結果が外国の人たちにもすぐに理解されて認められるようになった、と思うんですよ。日本の画壇は、今もって棟方志功というのを認めていなくて、ただ「海外ジャポニカ趣味だ」と思っているでしょうけれども、外国の人はそう言いませんね。棟方志功というのは、世界の美術家の一人だ。そういう普遍的なところへ志功というのが出ていったんですね。
 
広瀬:  今日はありがとうございました。
 
     これは、昭和六十二年に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである