一休和尚を語る
 
                          瑞巌寺住職 平 野  宗 浄(ひらの そうじょう)
1928年大阪府生まれ。45年京都府大徳寺真珠庵に出家得度。55年花園大学卒業。同年、神戸祥福寺僧堂にて修行、のち松島瑞巌寺に移る。65年花園大学に帰り、禅学の研究に専念。76年花園大学教授。88年花園大学を退き、瑞巌寺僧堂師家。92年瑞巌寺住職就任。著書に「一休和尚全集」「頓悟要門」「大燈」「一休宗純」ほか。
                          ききて   金 光  寿 郎
 
金光:  日本三景の一つ、宮城県松島、平安の昔から歌に詠まれ、人々に愛された風景が、冬の日射しを浴びて、静かに広がっています。平安時代、慈覚(じかく)大師、圓仁(えんにん)によって創建され、後に奥州随一の禅宗寺院に発展した瑞巌寺(ずいがんじ)が千年の歴史を伝えて、古い木立の中に建っています。現在、この寺の第百二十九世住職を務める平野宗浄さんは、昭和三年大阪府堺市のお生まれで、若い時、この瑞巌寺の専門僧堂で修行されました。後に、京都の花園大学で教授を務めた後、平成二年に瑞巌寺の住職になりました。平野さんはまた室町時代の禅僧、一休宗純(そうじゅん)の研究家としても知られています。庫裡の向かいにある宝物館の一室でお話を伺いました。
今日はその一休さんについての色んなことをお伺いしたいと思うのでございますが、頓知(とんち)の一休さんだとかですね、それから非常に反骨精神の溢(あふ)れた方だとか、そうかと思うと非常に女性に優しい一面のある方だとかですね、何か非常に人柄が多面的な人だという印象を受け持っているわけですが、例えば、お正月を詠った歌に
 
     元日や冥途の旅の一里塚
       目出度くもあり目出度くもなし
 
という、あの有名な歌がありますけれども。この歌なんかも如何にも一休さんらしいなあという気はするんでございますが、こう一休さんをずっと研究なさっていらっしゃる平野老師さんからご覧になると、この歌は果たしてご本人の作でございましょうか。いかがでございましょうか。
 
平野:  はい。私も前から少しは疑問に思っておりましたですね。例えば、杖の先に骸骨(がいこつ)を乗せて、そしてこの歌を唱えながら、町を歩いたと。ちょっとやりすぎた。まあかねて疑問は持っておりましたけれども、それはどうも江戸時代の作であるということが、分かりましたのは、実は私、花園大学に長くおりましたが、その時に野間光辰(のまこうしん)先生ですね。有名な西鶴で研究していられる、あの先生、花園大学にやっぱり来ておられまして、その時に、お訊ねしたんですね。そうすると、一里塚というのは、室町時代にはございませんと。
 
金光:  そうですか。
 
平野:  はい。これはもうね、江戸初期の頃からのものでありますから、この和歌は全く一休さんのものではございませんでしょうと。
 
金光:  はあ、そうですか。
 
平野:  私、やっぱりはっきりしまして、あ、やっぱりこれは一休さんのものではないということが分かりました。しかしその精神は、お正月だと言って、浮かれてはだめですよと、無常ですよと。それはちゃんと、そこに一休さんの精神はあると思います。
 
金光:  そうしますと、この歌なんかを聞いて、一休さんらしいと思っている人が、一休さんという方はおそらく後小松(ごこまつ)天皇のお子さんであろうと、あるというふうに思っていらっしゃる方が多いと思うんでございますが、しかも元日に生まれられたとかいうことを聞いておりますが、この辺は如何でございますか。
 
平野:  それも多くの方は、後小松天皇の皇子ということを信じておられまして、多くの歴史学者の方も、ほとんどはそれを認めておりますが、私は異論がございまして、先ず一番最初の生まれの年月日ですね。これからちょっと怪しいんです。これは私は確証はございませんけれども、年譜には応永(おうえい)元年(一三九四)の一月一日と。これ歴史家の常識としまして、大体古文書で、元年号には気を付けよ。偽物が多いと。
 
金光:  はあ、そうですか。
 
平野:  何かジンクスがございまして、実際、偽物には元年の日付が多いんですね。
 
金光:  はあ、そうですか。
 
平野:  はい。まずそれと。応永元年の一月一日。一休さんというと、何か一、一、一でですね、あまりにも目出度くって出来過ぎだと。しかも夜明けに生まれたと。
 
金光:  そうなんですね。
 
平野:  それはあまりにも出来過ぎではないかと。ここの点は私の憶測かも知れませんけれども、その日付に関しては、ちょっと粉飾があるんではないかなあという気がします。それから後小松天皇の皇子であるということも、これは一休さん自体の記録には何もございません。ただ、一休さんが亡くなった後、つまり俗説として、    一休さんの子供であるというね、これは岐翁(きおう)紹偵(しょうてい)(室町時代の僧)という方なんですけれども、これは一休さんの弟子であったことは、一頃弟子であったことは弟子らしいんですが、その人が一休さんの法を嗣(つ)いだ法嗣(はっす)であるというふうに、自分が言っている。その人が、一休さんは後小松天皇の皇子だということを言っているというんですね。
 
金光:  何か歴史家の人が信じているということは、何か記録があるということなんでございますか。
 
平野:  それは有名な東坊城和長(ひがしぼうじょうかずなが)という方の日記が残っておりましてね、これが『和長卿記(かずながけいき)』と言うて、室町時代の資料としては有名なんです。これは歴史学者の根拠なんですね。これは『大日本資料』に載っておりまして、私もそのお陰で読めるわけですが、これを歴史学者の方はそのまま信用しておられるんですね。そのもの、和長(かずなが)さん自体の書いておられることはどこまで本当なのか、それを批判した人がないんですよ。この『和長卿記(かずながけいき)』の中に、「岐翁紹偵から聞きまして、その秘伝に曰く」と。
 
金光:  あ、成る程。
 
平野:  はい。「一休和尚は後小松院落胤(らくいん)の皇子なり」と、こう言っておるんです。この「岐翁紹偵の判もちゃんとある」と言うんですね。この岐翁紹偵(きおうしょうてい)は、自分で、「私は一休さんの息子であり、一休さんの印可証明を貰った」と、このように言っております。これは『和長卿記(かずながけいき)』の中に書いてあるんですよ。そこで法の正伝ですね、つまり、
 
金光:  法を正しく伝えるわけですね。
 
平野:  そうそう。「法の正伝、実の親子、奇なるかな、異なるかな」とこういうふうに言っているんです。一休さんの実の息子でありながら、一休さんの正伝であると。
 
金光:  しかもそれは秘伝であると。
 
平野:  そうそう。
 
金光:  それは秘密の伝えであると。
 
平野:  「世の中、誰も知らない。私だけが知っているよ」と。こういうちょっと言い方がね、何かおかしいんだなあと。もし本当ならば、どうどうと言えばいいじゃないかというふうに、私は感じがするんですね。そのお弟子は、『和長卿記(かずながけいき)』の中で、内容でですね、一休さんの精神と、相反するものがあると考えますのは、東坊城和長(ひがしぼうじょうかずなが)とか、或いは、烏丸宗賢とか、そういうお公家さんが実は、岐翁紹偵に参禅をしているんですね。一休さんは、勿論印可証明というものを出さなかったと明言しておられるし、人に参禅をさせるということも、絶対に許さなかった人なんですね。
 
金光:  はあ、そうなんですか。
 
平野:  それを日記に書いているんですよ。堂々と。ということは、そういうことをやっておったというですね。つまりお公家さんですから、お公家さんとか、エリート階級が多かったと思いますが、その方々が岐翁紹偵のところに参禅をしていたということは、実は本当なんだけれども、それは本当なんだけれども、一休さんの精神を破ったと。
 
金光:  一休さんご自身はそういうことはしてはいけないとか、しないとかいう、それは記録としてはあるわけでございますか。
 
平野:  はい。ちゃんとございまして、これは一休さんの『自戒集(じかいしゅう)』というのがございまして、自ら戒(いまし)むですね。『自戒集』というものと、それから、実は直筆の『遺戒(ゆいかい)』というのがございましてですね。
 
金光:  遺した戒めですね。
 
平野:  二つとも大事なものでございまして、そこにはっきり言っているんですね。長くなりますので、ざあっと、中のことを掻い摘んで申しますと、弟子の中で、或いは山林樹下、つまり山へ入って、坐禅をしたり、その反対に、或いは、居酒屋へ行ったりですね、色街へ遊びに行ったり、そういうことはまだ許せるというんですね。面白い言い方ですが。  
 
金光:  一休さんらしい言い方ですね。
 
平野:  ところが説禅(せつぜん)、説道(せつどう)ですね、つまり、禅を説き、道を説き、人の為にそういう説法をしたりすること、参禅を聞いたりするということ、そういう連中が一番許さないというんです。
 
金光:  ほうほう。
 
平野:  これは「仏法の盗賊であり、我が門の怨敵(おんてき)なり」とまで言っているんですね。だから、そういうふうに禅を説いたり、参禅を聞いたりすることはもってのほかなんですね。だから一休さんはよく兄弟子の養叟(ようそう)を悪口を言ってですね、徹底的なことを、『自戒集』としても、その根本はですね、一休さんの精神としては、その間違ったことをその説法したり、参禅をさせたりするということ、これを一番嫌ったということですね。そこのところが、どうも矛盾致しまして、この『和長卿記』の内容は、これを以て、どうも後小松天皇の皇子であるということの根元となすにはちょっと弱いのではないかという。
 
金光:  そういう日記には記録はされているけれども、一休さんの説かれて、残されたとこから、その一休さんの禅の精神からいうと有り得ないことを言っていると。
 
平野:  そうなんです。しかも、一休さんは『狂雲集(きょううんしゅう)』という禅詩集を残されていますが、その中で、あるお坊さんが説法の時に、弟子達の出所ですね、身分。自分は高貴の出であるというような、この人はなかなか優秀だよというようなことで、百姓、町民の出のものは大したことがないんだというようなことを、説法で言っておったと。それを一休さんが側(はた)で聞いておりまして、もう腹が立って腹が立って、もうそこの場所から出てしまったと。そのことを偈頌(げじゅ)でも言っておられましてね。そういう人間というものは出家したら、平等なんだという、貴族も平民もないんだということを明言しておられますからね。だからこういうことを言うというのはやっぱり一休さんの精神に反すると思いますね。
 
金光:  じゃ、書いた和長卿(かずながきょう)という人が、人がよくて、その通りだと思って信頼して書いているんだけれども、これはそれを根拠に後小松天皇の子供だと言ったりしているのはまことに怪しいと。
 
平野:  そうなんです。それで、これだけでは岐翁紹偵の怪しい人間ということは分かりませんが、実はもう一つ証拠がございまして、一つは、これは伝説と言いますか、私が弟子であった真珠庵の口伝ですね、岐翁という人は破門になっておったという口伝があります。
 
金光:  そうですか。
 
平野:  これは直接の古文書はないんですが、間接的に色んな古文書から類推しますと、どうも怪しい人間だということが分かるんです。先ず、一休さんが亡くなって、十三回忌、この時の記録が、『真珠庵文書(しんじゅあんもんじょ)』という古文書に載っております。その時に十三回忌に出席した人、弟子達の名前が全部、隈無く記載されております。香資を幾ら持って来たという、そういう明細まで残っております。それには載っていないんですよ。
 
金光:  あ、そうですか。
 
平野:  岐翁紹偵は載っておりません。
 
金光:  ということは、もう本来の弟子であるべき人だったら来る筈なのが、来ないというのは外されているということですか。
 
平野:  弟子であったとしても、何か破門になっているということは間違いないんじゃないかなあという感じがします。それとですね。
 
金光:  まだあるんですか。
 
平野:  まだあるんです。何故、来ないとダメかと言いますと、一休さんは、これはちゃんとした古文書で、一休さんの直筆の古文書で酬恩庵(しゅうおんあん)に残っておりますが、「私が死んだ後、一年に一回、私の命日には、弟子達はみんな集まれ」と。
 
金光:  あ、そうですか。
 
平野:  「酬恩庵(しゅうおんあん)に集まれ」ということは、ちゃんと明記されておりまして、「そこに来ない奴は私の弟子じゃないんだ」と。これね、こんなことを言う人は珍しいんですよね。やっぱり弟子ということを、きわめて大事にされておった証拠だと思いますがね。
 
金光:  そうすると、そこにないということは、弟子ではなかったということが出来るわけですね。
 
平野:  そうなんです。これを私は岐翁紹偵という人は怪しいということの、どうも決定的な証拠になるんじゃないかというふうに思います。
 
金光:  一休さんは非常にそういう意味では、参禅もしてはいけないとか、みだりにこう仏法の話をしてはいけないということをおしゃっているということは、それだけ本来の禅の一番大事なところを大事にされたということにも通じるかと思うんですが、その一休さんの禅の精神というのは、どういう方の流れを受けていらっしゃるんでございましょうか。
 
平野:  はい。これは一休さんが一番日本の、つまり祖師の中で尊敬されておられますのが大燈(だいとう)国師でございまして、大燈(だいとう)国師は、つまり大徳寺の開山さんでございますね。この方が、つまり中国の禅を持ってこられた大応(だいおう)国師のお弟子さんなんですね。大燈国師は。この大応国師のお師匠さんが虚堂(きどう)和尚なんです。そういう繋がりになるんですが、その大燈国師の精神を一休さんは非常に大事にされておりますね。ちゃらんぽらんみたいなふうに受けることがございますけれども、それは非常に自由な、一休さんは自由な精神をもっておられるけれども、その根本は、そういう伝統の祖師、その中でも大燈国師を本当の心から尊敬しておられたわけです。
 
金光:  その大燈国師という方の、その禅の精神が分かるような言葉、何かございますでしょうか。
 
金光:  それは一番、私は大燈国師の語録を全部ですね、『大燈国師語録訓注』本を出しました時に、研究をしましたけれども、語録、なかなか難しいですね。ところが『遺戒』というものがございまして、これは僧堂で、今でも提唱の前に、必ずみんなで読むんです。
 
金光:  今でも、それを読むのが文章になっているわけですね。
 
平野:  だから、勿論、大燈国師は大徳寺の開山であると同時に、妙心寺の開山の關山(かんざん)慧玄のお師匠さんですから、だから現在、臨済宗の僧堂で、ほとんど全部と言っていいほど、大燈国師の遺誡を。
 
金光:  ちょっとそれをご紹介頂けますでしょうか。
 
平野:  はい。先ずちょっと原文を読みます。これは二つに別れておりまして、最初は『示衆法語(じしゅほうご)』と言います。
     《大燈国師(示衆法語)》
 
     汝ら諸人(しょにん)、この山中に
     来たって、道(どう)の為に頭(こうべ)をあつむ。
     衣食(えじき)の為にすること莫(なか)れ。
     肩(かた)あって着(き)ずということなく、
     口あって食(く)らわずということなし。
     ただ須(すべか)らく十二時中(じゅうにじちゅう)、
     無理会(むりえ)の処に向って、
     窮(きわ)め来り究(きわ)め去るべし。
     光陰矢(こういんや)の如し、
     慎(つつし)んで雑用心(ぞうようしん)すること勿(なか)れ。
 
と。ここまでは『示衆法語』で。
 
金光:  やさしい言葉もありますが、言葉でところどころ難しいところがありますので、ちょっと現代語を、今の言葉で今の内容を教えて頂くと、どういうことになりますでしょうか。
 
平野:  はい。諸君よ。「この山中」というのは道場のことですね。昔から山と言いますが。それから「道の為に」仏道のために、道を求めるというのは、仏道ですね。道の為にみんな集まってくれよ。衣食住の為に来て居るんじゃないんだと。「肩あって着ずということなく、口あって」これはですね。つまり与えられるものさえ食べ、或いは着ておれば十分だと。何と言いますか、余分にいいものを着たり、食べたりするなということです。そして、「ただ須(すべか)らく十二時中」一日中ですね。「無理会(むりえ)の処に向って、窮(きわ)め来り究(きわ)め去るべし」というのは、ちょっと難しいですが、ここは一番大事なところですが、これは理屈で、仏教学などでですね、理屈でわからない、どうしても最終的には、自ら体験しなければならないわけですが、そこのところですね。仏道の根本、そこのところに向かって、一生懸命に修行しなさいと。だからつまり無常迅速で、とにかく直ぐ歳いくから、しっかりやりなさいということですね。次は『遺誡(ゆいかい)』と言われておるものですね。それはまた原文を読みますと、
 
     《大燈国師(遺戒)》
 
     老僧行脚(ろうそうあんぎゃ)の後(のち)、
     或は寺門繁興(じもんはんこう)し、
     仏閣経巻(ぶっかくきょうかん)に金銀をちりばめ、
     多衆(たしゅう)閙熱(にょうねつ)、或いは誦経(じゅきょう)諷咒(ふうじゅ)、
     長坐不臥(ちょうざふが)、一食卯斎(いちじきぼうさい)、
     六時行道(ろくじぎょうどう)、たとい恁(いん)麼(も)にし去るといえども、
     仏祖不伝(ぶっそふでん)の妙道(みょうどう)を以(もっ)て胸間(きょうかん)に掛在(かざい)せずんば、
     則(すなわ)ち因果(いんが)を撥無(はつむ)し、
     真風地(しんぷうち)に堕(お)つ、併(あわ)せてこれ邪魔(じゃま)の種族(しゅぞく)なり。
     老僧世(ろうそうよ)を去ること久しくとも、
     児孫(じそん)と称することを許さず。
     もし一人あり野外(やがい)に綿_(めんぜつ)し、
     一把茅底折脚鐺下(いっぱぼうていせっきゃくしょうか)に野菜根(やさいこん)を煮(に)て喫(きっ)して日を過すとも、
     専一(せんいつ)に己事(こじ)を究明(きゅうめい)する者は、
     老僧と日日相見(にちにちしょうけん)、
     報恩底(ほうおんてい)の人也(ひとなり)。
     誰か敢(あ)えて軽忽(きょうこつ)せんや、勉旃勉旃(べんせんべんせん)。
 
こういう原文でございます。私が死んだ後で、「老僧行脚の後」ということは、そういうことですね、私が死んだ後、お寺が盛んになる。それからつまり経巻も立派になる。修行者が多く集まる。お経を一生懸命に読む。坐禅を熱心に行う。戒律を綿密に守ると。それは理想的な状態です。修行者としては。それだけではダメなんだと。しかしたとい、そのようにしても、「仏祖不伝の妙道」というのは、さっきの無理会(むりえ)のところですね。これを自分の心に納めもつということがなければ、たちまち因果にそむいて、本当の精神が堕落してしまうと、これらは悪魔の種族と同じで、
 
金光:  悪魔の種族ですか。
 
平野:  だから、先程いろいろ『遺戒』で申しました。山の中へ入って行ったりですね、修行したり、或いは今度は居酒屋に行ったり、色街に行くのにも、非常にその極端な形式だけのことで批判されるということになるわけですね。だから悪魔の種族だと言うんですね。私が死んで後、それらは児孫ということは絶対許さないという厳しいですね。もしたとい一人でも野外で小さなあばら屋に住んで、我々に「野菜根」というのは、本当の意味は、普通の人が捨てるような、そういうものですね。それを食べて毎日過ごすような生活をしていても、「己事(こじ)を究明(きゅうめい)」ですね、自分の今の一大事に専念する者は、私と毎日顔を会わせていると言うんですね。そして仏道に報いる人であると。敢えてなおざりにしてはならないというね、これが大燈さんの精神を一番よく私は表現していると思うんですね。
 
金光:  そうしますと、しかし寺が大きくとも立派な堂塔伽藍を建築しても、ダメだとおっしゃっている。その精神を一休さんご自身はどういうふうに実践されたということになるんでございましょうか。
 
平野:  これはまた一休さんの一番大切なところでございまして、一休さんはずっと小さい頃は京都で育っていますが、本当の修行というのは、滋賀県の堅田(かただ)の祥瑞寺(しょうずいじ)に入ってからです。そこで華叟(かそう)和尚という和尚さんにつかれるわけですが、そのお師匠さんがお亡くなりになった後、それからはもう自由な身になるんですね。一カ所にはじっとしておられないですね。それで住職という、つまり住職というのは一つの寺にゆっくり留まるということですがね。これは一番長いので、言外(ごんがい)さんの寺でですね、如意庵(にょいあん)というお寺、そこに十日間だけですよ。
 
金光:  ほう。十日間ですか。
 
平野:  正式に住職したのはですね。如意庵に十日間だけです。
 
金光:  後はどう。
 
平野:  後はですね。つまり、お寺でない人のお家、空き家を借りたり。
 
金光:  借家を借りたりですか。
 
平野:  はい。そこで弟子達と一緒に生活をしてですね。さて、毎日どんな生活をしていたのか、ちょっと記録はございませんが、一緒に生活していたと思います。そしてまあ一つ分かっているのは、高槻の山の奥の方に小さな百姓家、小さなでもないですか、百姓家の空き家を借りて、そこに尸陀寺(しだじ)というお寺、これも正式なお寺ではないですがね。勝手に名付けて、勝手におっただけのものですけれども、そこにおったという記録もございますし、転々と場所を変えて、堺の方へ行ったりですね。
 
金光:  そうすると、堺だとか、京都のような町中にも、お出でになったり。
 
平野:  そうそう。
 
金光:  それから、山の中にも入られたり、
 
平野:  割合、一休さんという人は行動範囲はそんなに広くないんですね。つまり京都府、大阪府、滋賀県、大体この範囲ですね。だけど、その中で転々としておられますね。一所不住でありまして、これは、私はお釈迦さんと一緒だと思いますね。皆さんご存知の通り、お釈迦さんという方は、本当に一所不住で、一カ所に、大きなお寺に、ドンと座っていたことは絶対ないわけでしょう。
 
金光:  そうです。
 
平野:  樹下叢林(じゅかそうりん)で、托鉢をしながら、お弟子達と共に歩かれた。で考えたら、一休さんはそうなんですよ。こういう方はたまにありますよ。良寛さんも、それから曹洞宗の桃水(とうすい)さんとかね、そういう方がおられますけど、はっきりと大徳寺派の僧としてですね。正式な僧籍としてありながら、そういうふうな一所不住というのは、これは一休さんくらいじゃないですかね。
 
金光:  そうしますと、内陣があって、須彌壇があって、お香があがって、朝晩お勤めなんというようなご生活ではなかったということなんですね。
 
平野:  はい。本堂というのは、勿論無いでしょうし。
 
金光:  何かそういう生活について残された詩とか、文とか、何かそういうものもございますですか。
 
平野:  あることはあるんですよ。滋賀県におった頃に、『山居(さんきょ)』という、
 
金光:  山に居る。
 
平野:  山路、山居とありましてね。これは譲羽山(じょううざん)といいますが、今、さっき申しました大阪府の高槻市の、
 
金光:  譲羽(ゆずりは)。
 
平野:  譲羽(ゆずりは)とも読みますね。譲羽山(じょううざん)、そこで居って偈頌を作った、私の訳したのを読みますと、『山居(さんきょ)』という題で、
     《山居》
 
     婬坊十載興窮(いんぼうじゅっさいきょうきわ)まり難し
     強(し)いて空山幽谷(くうざんゆうこく)の中に住む
     好境雲遮(こうきょうくもさえぎ)る三万里
     長松(ちょうしょう)耳に逆う屋頭(おくとう)の風
 
金光:  山に居る。
 
平野:  遊里に十年も入りびたりながら、遊び尽くすには、まだ未練があるというね、それを振り切って、強いて山や谷間に住むことにしたと。しかし三万里も見渡せる眺めの良いところにも、雲がそれを邪魔をするし、屋外に吹く風が背の高い松の間を吹き抜けて、その音が気になって仕方がない。これはね、私、好きなんですよ。つまり京都でいろいろあっちこっち遊んだり、たまには私も山の中で修行しなければいかんというようなことで行かれます。そうすると、今度は行った当座は景色がいいなと思っていても、雨が降ったり、雲が邪魔したりするし、しかも静かだと思っておったのに、びゅうびゅう風が吹いて、何かまた、都が恋しくなる。これ人間らしいですわね。
 
金光:  何ですか、抹香(まっこう)を嫌うとか、抹香臭いのは嫌いだというような詩も作っていらっしゃるんですね。
 
平野:  はい。これはですね、私はこれも好きなんですよ。一休さんは抹香臭いということを一番憎みまして、一番嫌いなんですよ。抹香ですね。抹香臭いということを嫌う偈頌がございましたね。ちょっとこれ読みます。
 
     《抹香を嫌う》
        
     作家(さっけ)の手段孰(たれ)か商量せん
     説道談禅舌更(せつどうだんぜんしたさら)に長し
     純老(じゅんろう)は天然殊勝(てんねんしゅしょう)を悪(にく)む
     暗(ひそか)に鼻孔(びくう)を顰(しか)む仏前(ぶつぜん)の香(こう)
 
つまり一休宗純はもう生まれながらにして、殊勝なしたり顔をして香臭いと。これをもう一番悪(にく)むんだと。「暗(ひそか)に鼻孔(びくう)を顰(しか)む」と、つまり抹香の臭いがして、しかむというんですね。仏前の香りを、
 
金光:  鼻の孔をしかめる、まあ顔をしかめるというような感じですね。
 
平野:  顔をしかめるということですね。もっともらしい人間を嫌うんですね。
 
金光:  「作家(さっけ)の手段、孰(たれ)か商量せん」、「説道」道を説き、禅を談ずる。「舌更に長し」。「禅を談じ」ですかね。「舌更に長し」。「純老は天然殊勝を悪(にく)む。暗(ひそか)に鼻孔(びくう)を顰(しか)む仏(ぶつ)前(ぜん)の香(こう)」。
 
平野:  そうなんですよ。やっぱりここで。
 
金光:  作家(さっけ)の手段というのは何何でございましょうか。
 
平野:  作家(さっけ)の手段と言いますのは、やり取りですね。
 
金光:  禅の方の、
 
平野:  作家(さっけ)というのはお師家さんですね。一番遣り手と言いますか、優れたお坊さんが「手段孰(たれ)か商量せん」というのは、現代語に訳しますと、やり取りですね。
 
金光:  はい。
 
平野:  一体、本当にやり取りの出来る人はおるだろうかというね。
 
金光:  なるほど。
 
平野:  なかなかそんなものは出来ないから、一休さんは道を説き、禅を説くということを嫌うんですね。
 
金光:  「舌更に長し」というのは、くだらんことばっかり言い過ぎると。
 
平野:  言い過ぎると言うんです。
 
金光:  成る程。
 
平野:  「純老」というのは、自分のことですね。一休親父と訳しますがね。もっともらしい人間を憎むんです。一休さんは「殊勝」というのは。もっともらしい人間というのは、殆ど一休さんの嫌いな養叟(ようそう)さんが、やっぱりもっともらしかったんでしょうね。
 
金光:  一休さんは一所不住だというふうに、先程のお話で伺っているんですが、それでいながら、結構お弟子さんが沢山いらっしゃったようですね。
 
平野:  そうなんですよ。
 
金光:  どういうお弟子さん達がいらっしゃったんですか。
 
平野:  十三回忌の時の記録を見ますと、本当に大勢でございます。あんなにうろうろしているのに、あれだけの大勢ということは不思議なんですけれども。まあ、いろいろおられまして、中には女性で、噂のある森女(しんじょ)という人も、実は森侍者(しんじしゃ)として、弟子の中に入っております。ただし、私はここで強調したいのは、いかに一休さんは弟子思いであったかということですね。弟子の、つまり人間性を大事にしたかということの証拠が『狂雲集』にございまして、それをちょっと紹介させてもらいたいと思います。
 
金光:  ちょっと、じゃ。
 
平野:  先ず最初はですね、『虎丘雪下三等(くきゅうせっかさんとう)の僧』というのが一つございます。
 
金光:  虎の丘の雪の下ですね。くきゅうと読むんですか。
 
平野:  虎丘と、虎丘というのはお寺の名前ですね。
 
     《虎丘雪下三等の僧》
 
     少林の積雪心頭(しんとう)に置く
     公案円成(こうあんえんじょう)す上等の仇(あだ)
     僧社(そうしゃ)に詩を吟ず剃頭(ていとう)の俗(ぞく)
     飢腸食(きちょうじき)を説くも也(ま)た風流
 
と。
 
金光:  「少林」、これは少林寺ですね。「少林の積雪心頭に置く 公案円成す上等の仇僧社に詩を吟ず 剃頭の俗 飢腸食を説くも 也た風流」ですか。どういうことになるんでしょうか。
 
平野:  これは一番、『大慧武庫(だいえむこ)』という宗代の禅の語録に、
 
金光:  あるんですか。
 
平野:  はい。大慧(だいえ)禅師という有名な方が、次のように言われている。圓通禅師という人がですね、雪の降る日に、自分の友達の僧堂へ遊びに行った。ところが虎丘雪下という。虎丘というのはお寺の名前で、そこでは丁度、雪の降る日ですが、お休みの日だったんですね。そこに三種類のグループがおると。一番上等が、達磨さんが少林におった時に、二祖(にそ)慧可(えか)がお弟子になりたいと、雪のもの凄く降る胸まで積もる雪の中にジッと耐えておったと。それを頭に入れながら、寒い禅堂の中で、坐禅をしておる。これが一番。それから上等の仇(きゅう)というのは、これは上等の類(たぐい)ということなんです。それから「僧社(そうしゃ)に詩を吟ず」は第二番目です。「僧社(そうしゃ)に詩を吟ず剃頭(ていとう)の俗(ぞく)」というのは第二番目で、筆を執って、墨を刷って、雪に因んだ詩を作っておる。そういうグループがある。これは中クラスです。それで一番落ちこぼれの人達は、「飢腸(きちょう)」、
 
金光:  飢腸というのは。
 
平野:  腹が減ったという。
 
金光:  ああ、成る程。
 
平野:  腹が減って囲炉裏を囲みながら、食べ物の話をしている。ところが、風流だと言うんですね。だからね、実はこれを三番目の落ちこぼれを、つまり救いたいと。これが一番問題だと。一休さんはおっしゃるんですね。お腹を空かしている。落ちこぼれの弟子達、これを風流という言葉で、高めて、
 
金光:  ダメだと言っているわけではないわけですね。
 
平野:  はい。これを高級な意味での風流という。
 
金光:  その場合の風流というのは、どういうふうな。風流というのも、いろんな意味があるわけでございますね。
 
平野:  はい。ここではですね、いろんな食べ物の話は楽しいですよ。
 
金光:  それはそうです。
 
平野:  決して、これは嫌(いや)らしいものでも、何でもない。人間としての本来のあるべき姿だと。こういうふうで風流と言っておるんですね。人間の一番大事なことを風流という意味に高めておりますね。
 
金光:  成る程。
 
平野:  そして、もう一つですね、今度は大事なのは、「病僧(びょうそう)に五辛(ごしん)を与う」という題の、ちょっと読んでみます。
 
     《病僧に五辛を与う》
 
     病僧(びょうそう)の大苦傷風(たいくしょうふう)を発(はっ)す
     死脉(しみゃく)頻々(ひんぴん)として命(いのち)終らんとす
     如来の新病牛乳(しんびょうぎゅうにゅう)を用(もち)う
     忌(い)む莫(なか)れ凡身薬草(ぼんしんやくそう)の葱(そう)
 
金光:  これはどなたか、病気になられたということですか。
 
平野:  これはやっぱりですね。沢山のお弟子さんがおりますから、病気になる僧はおられまして、一休さんもそんなに健康そうな、八十八まで長生きでしたけど、いろいろ病気になったこともあったそうで、非常に弟子に対する思いやりが、大変なものなんですね。それでここではですね、ちょっと説明しますと、一休さんのお弟子さんが大変重い病気になったと。傷風というのは感冒のきついんですね、肺炎ですか。ひどい風邪なんですね。昔は質素な食事でしたから、風邪でも引いたら大変なことで、「死脉(しみゃく)頻々(ひんぴん)として命終わらんとす」脈が乱れて、命が危ないと。可哀想だなあということですね。「如来の新病牛乳を用う」と言いますのは、お釈迦さんでさえも、苦行を捨てて、尼蓮禅河(にれんぜんが)へ戻りました後、あれは牛乳で炊いたお粥なんからしいんですがね、ここでは牛乳でいきましょう。牛乳、これは、実はその苦行の間、禁止されておったんですね。バラモンでは。
 
金光:  そうですね。
 
平野:  それを戒律を破ったということは大事なんですね。お釈迦さんでさえ、戒律を破って、その牛乳を飲まれて、こう回復された。それをですね、我々の凡僧は実際ですね、「忌(い)む莫(なか)れ凡身薬草(ぼんしんやくそう)の葱(そう)」これはいわんや凡身の我々はこのような病気の時には、薬になる五辛(ごしん)を忌み嫌うべきでない。つまり五辛と申しますのはこれはインド地方と日本と違うそうですが、大体言いますと、ニラ、アサツキとか、ノビルとか、ねぎとか、
 
金光:  割にこう精がつくような、
 
平野:  そうなんですね。ニンニクとか、そういう臭いものですね。これは戒律で禁止されておった。けれども、
 
金光:  お釈迦さんでさえ、
 
平野:  そうそう。だから一休さんはこれはやっぱり戒律よりも、弟子の命の方が大事なんだと。弟子の健康の方が大事なんだという親心と言いますかね、これは私は本当に一休禅の真実と思います。
 
金光:  そういうお気持ちがあるからお弟子さんが、いろんなお弟子さんが来られるということなんでしょうね。
 
平野:  そうなんです。
 
金光:  それでいながら、一方では道に対しては、もの凄く厳しいんですね。
 
平野:  厳しいです。
 
金光:  だから、そういう厳しさと、そういう優しさとが一人の身体の中に両方あったということなんですね。これで、しかしそういう形でやっていらっしゃる一休さんが、やっぱりさっきちょっとお身体のことをおっしゃっておりましたけれども、当時としては随分長生きされて、もう九十歳近いお歳まで生きられたそうですが、その最後に残された言葉というのはどういうものでございましょうか。
 
平野:  これがここにございます『遺偈』ですね。これは本物の複製でございますが、
 
金光:  よく出来ておりますね。
 
平野:  本物は真珠庵にございます。これもまた面白くって、一休さんらしいですね。南という字が書き忘れたから、横にちょっと書かれている。これを読みますと、
     《遺偈》
 
     須彌南畔
     誰會我禅
     虚堂来也
     不直半銭
 
須彌南畔(しゅみなんぱん) 誰か我が禅を會(え)す 虚堂来(きどうきた)たれり 半銭(はんせん)に直(あたい)せず
 
金光:  虚堂来たるやと読むんじゃないんですね。
 
平野:  普通はよく、虚堂が来ても、と読むのは間違いです。来たれり、半銭に直(あたい)しない虚堂がやって来たということになりますね。
 
金光:  そうなんですか。
 
平野:  「須彌南畔」というのは、この俗世界ですね。
 
金光:  須彌山(しゅみせん)の南にある。
 
平野:  須彌山(しゅみせん)というのはインドの世界観ですね。私の禅が本当に解ってくれるものがおらんということですね。「虚堂来也半銭不直」というのは、自分の若い時は、一休さんが虚堂さんの再来だとおっしゃるくらい虚堂さんを心から尊敬しておられた虚堂さんが、もう今際の際になると、一休さんの目から見ると、半銭の値打ちもない。そういう虚堂さんがやって来た。やっぱり、一休さんは半銭のない虚堂と悪口を言いながら、最後までですね、虚堂さんの名前が出て来たということは、やっぱり本音が出て来ているんです。やっぱり死ぬまで虚堂さんを尊敬さいておられたということです。
 
金光:  この意味の偈頌の他にも、何か別に『辞世』の句があるんだそうですね。
 
平野:  この方が好きなんです。これは『狂雲集』に入っていないんです、『遺偈』の方が。片一方の方はですね、『辞世』という題で、ちょっと読みますと、
 
     《辞世》
 
     今宵涙(こよいなみだ)を拭(ぬぐ)う涅槃堂(ねはんどう)
     技倆(ぎりょう)尽(つ)くる時前後忘(ときぜんごぼう)ず
     誰か奏(そう)す還郷真(げんきょうしん)の一曲(いっきょく)
     緑珠恨(りょくしゅうらみ)を吹いて笛声長(てきせいなが)し
 
これの方が禅臭くないですよ。実は。
 
金光:  そうですね。実に綺麗ですね。何か故事があるんでしょうね。この中には。
 
平野:  はい。あるんです。涙を拭うことはね、涅槃堂というのは禅僧が病が酷くなったら、涅槃堂という部屋に入れられるんですよ。昔の人は偉いもんですよ。死刑宣告みたいなものですね。それで最後はそこへ入って、もう平生の修行なんかどこへ行ったか、「前後忘ず」ですよ。最後、緑珠というのは、中国の女性で笛の名人だったんです。
 
金光:  人の名前ですか。
 
平野:  はい。この人は何かの事件に巻き込まれまして、追い込まれるんです。逮捕に来られる。その時に二階から飛び降りて死ぬわけですが、その時に、笛の名手だったから、最後の笛を吹いて二階から飛び降りて死ぬと。だから、私の最後に、私の為に、私を慰めてくれるのは、この緑珠の「笛声」笛の声だと。これ最後まで、ここで女性が出てくるでしょう。
 
金光:  はい。
 
平野:  これね、私、一休さんらしいと思うんですね。
 
金光:  やっぱり風流ということなんですか。
 
平野:  非常に、高められた風流ですね。女性がよく出て来ますのは、私はですね、やっぱり母親の面影が死ぬまで。つまり、一休さんというのはマザーコンプレックスですね、そういうものがずうっと小さい時から、別れるんですから。母親の抱懐(ほうかい)がずっとありますね。
 
金光:  お母さんの方も、随分気を掛けていらっしゃったようで、何か若い頃、非常に後年の一休さんから想像出来ないようなことも。何かお師匠さんが亡くなられた後、呆然として、身投げをしようかと、自水(じすい)しようかと思っておったという。その時にお母さんが止めたとか。
 
平野:  その時にお母さんの侍女がちゃんと後をつけて、だから、年譜で一休さんがその自殺の時まで、お母さんことがずっと出て来ますね。ちょんちょんちょんと。ところが今度、華叟和尚のところへ入られてからは、表には全然出られないです。ところがいろんな場面で女性のことが出て参ります。悟った時の動機、公案の話とか、いろんなところに、要所要所には女性が出て来るんですね。で最後にこれでしょう。辞世のところで。だから、お母さんを如何に思っておったかという、これは言えると思いますね。
 
金光:  一番心の底の方にはいつもお母さんに対する思いがあった。
 
平野:  はい。森女に対する恋愛の思いというのも、実は根元的には母性愛に対する思いと言いますか、私はそういうふうに思いますがね。
 
金光:  これまでお話を伺っておりますと、俗に知られている一休さんというのは頓知、当為洒脱なイメージが強いんですが。今のお話を伺っていると、一方でもの凄く禅については厳しい、本当に本質的なことを追いかけていらっしゃる。それから、そうかと思うと一方では居酒屋へ行ってもいいとかですね、非常に対女性関係では、割に、人によると破戒僧だというふうなことも、おっしゃっている人もいらっしゃるようです。何か非常にバラバラのイメージで思っているようですが、長年一休さんを研究なさっていらっしゃるお老師さんはどういうイメージをお持ちでいらっしゃいますでしょうか。
 
平野:  これは何か禅というものの持つ、何か究極みたいな感じがするんですよ。禅そのものがですね、本当は外に崇めるようなものは持たないし、本当に禅の精神が分かれば日常生活が全部禅だということになるわけですから。一休さんのアンバランスに見えるようだけれども、実は全て根本的には一休さんの中にははっきりしたお釈迦さんの精神というものがあるということが、私には解るんですね。
 
金光:  頓知的な面もお持ちだったのでしょうか。
 
平野:  それは頭は凄く回転の速い人でして、『狂雲集』なんか読みますと、頓知に近いような言葉ももって、中国の故事来歴を上手く持ってくる仕方。そういう面ではさすが一休さんという人は頭の優れた人だなあと。
 
金光:  漢詩というのは、何か非常に難しいというか、イメージにしてもですね、景色なら景色を読み込む、偈頌を読み込むにしても、何かいろんなパターンがあって、向こうの勉強しなければいけない、割にそんな俗なことなんかは読まないような印象があるんですが、一休さんのはそうでもないんですか。
 
平野; それがですね、フランクと言いますか、自由でしてね、平仄(ひょうそく)をバラバラにしたり、或いは昔の、漢詩では故事、古いちゃんとした言葉を使わなければいけないんですね。典拠のある言葉を使わなければいけない。ところが一休さんはもう平気で日本語を入れたりですね、俗語を入れたり、自分で作った言葉を入れたり、『自戒集』なんか、特にそうでございますね。
 
金光:  それからもう一つ、漢詩で随分エロティックな表現もあるようですが、ああいうところはどういうふうにご覧になっておりますか。
 
平野:  あれも一休さんの自由な精神の迸(ほとばし)りであって、あれはウソではないです。自分が本当にそう思っておるのがそのまま出ておりますから、一休さんは八十八まで死ぬまで、やっぱり性欲もちゃんと、私はあったと思うし、普通の人間であっと、そういう面では。
 
金光:  そうすると、禅というのはなんか一休さんの嫌いな取り澄ました、そういう生き方をすることではないわけですね。
 
平野:  そうそうそう。そうなんですよ。人間性はもう死ぬまであったと、こういうことだと思います。
 
金光:  ただ、一面では人間性に引きずられてしまう生き方ではないという、その点もないと、引きずられっぱなしで、破戒坊主だけで終わったでは具合が悪いところがあるんじゃないかと思いますが。
 
平野:  何かものにとわれないという、だから、最後は凄いですよ。亡くなったら直ぐ埋めてしまえと言うんですよ。
 
金光  はあ。
 
平野:  あんなのはちょっと珍しいですよ。
 
金光:  別に法要して、お葬式とか。
 
平野:  とにかく死んだら死骸を直ぐ埋めろと。そういう、実際そうしているんですよ。ああいうところ、普通世間ではあまり知らないですけど、つまりもうとらわれがないという、全ての点に、最後までそれですからね。
 
金光:  だから、いろんな毀誉褒貶(きよほうへん)があるにしても、沢山のお弟子さんがずうっと慕(した)って、しかもこうなるまで、一休さん、一休さんと言われるという、その辺の生き方、人柄にやっぱりあるんでしょうね。
 
平野:  そうですね。はい。
 
金光:  どうもいろいろとありがとうございました。
 
平野:  どうもお粗末でございました。
 
 
     これは、平成九年一月五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。