老いをどう生きるか
 
                         花園大学講師 伊 藤  真 愚(しんぐ)
                         き き て  金 光  寿 郎
 
金光:  今日は「老いをどう生きるか」というテーマで、東洋医学がご専門で、花園大学の講師をなさっていらっしゃいます伊藤真愚さんに、いろいろお話をお伺い致します。伊藤さんは若い頃から鎌倉の円覚寺で、禅の修行をされている居士(こじ)でもあります。どうぞよろしくお願い致します。
 
伊藤:  よろしくどうぞお願い致します。
 
金光:  早速ですが、伊藤さんは最近老年の方の過ごし方で「庵住期(あんじゅうき)」、庵(いおり)に住む期間と言いますか、「庵住期という構想」でのお話をされているようでございますが、これはどういうところから生まれたんでございますか。
 
伊藤:  そうですね。この生まれは京都に花園大学という禅宗の大学がありまして、そこに「東洋医学講座」という講座が設けられました。その一つを担当せよということで、呼び出されまして、大学で沖本克己(おきもとかつみ)先生と、「高齢者問題」について話し合っていたんです。そうしたら昔の『論語』とか古代インドの『マヌ法典』とか、ああ言った生活の知恵と言いますか、そこから何か導き出せないだろうかと、こんなことを考えまして研究会を作り、それで平成五年の七月に旗揚げのシンポジュームをやったと、こういうわけでございます。
 
金光:  『論語』で、歳取ってからの生き方ということになると、有名な「四十にして惑わず、五十にして天命を知る」というのがありますね。
 
     論語
 
     四十而不惑
      (知地命)
     五十而知天命
     六十而耳順
 
伊藤:  そうですね。
 
金光:  あのところも当然関係してくるわけですね。
 
伊藤:  そうですね。『論語』の文は沢山ありますが、その中の「四十にして惑わず」と。この「惑わず」ということなんですが、大概四十にしても惑いますよね。
 
金光:  何に惑わないというんですか。
 
伊藤:  私は「惑わず」という処は何だろうかと思って見たんです。そうしたら学校へも行った、就職もした、結婚もした、そして仕事もバリバリやっておると。そうすると、「この地表面に起こるいろいろなことは、何があっても惑わないで対処出来るというのが、四十歳じゃないか」と。このように考えたわけですね。
 
金光:  というのは、後に「五十にして天命を知る」という言葉がある。そことの繋がりもお考えになったということですね。
 
伊藤:  そうですね。ですから言葉を言い換えまして、私は、「地命を知る」(四十而知地命)と。この地表上に起こるいろいろな命の姿には、私共が惑わずに対処出来る。だから地命を知ることが出来るというのが四十代、そして五十にして天命を知ると。地から天にですね、五十歳でもってガラッと入れ替わっていくという、こういう生き方の中心点を示しているんではないかと思ったわけなんです。
 
金光:  現在の日本だとあんまり「天命を知る」という方は、尊重されていないというような気が何となくするんですが。
 
伊藤:  そうですね。仕事をしていて、もう四十歳から続いたまま五十歳、六十歳も、そのままずっといくというのが普通ですね。だから孔子のこの「天命を知る」ということは随分素晴らしい、そして老いを生きる上に、このダイナミックと言いますか、ガラッと変わっていくという素晴らしさを教えているんじゃないかと思います。
 
金光:  その後、「六十にして耳順う」「七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず」という。老齢の段階に応じての言葉があるわけですが、これは中国での有名な年齢によっての生き方なんですが、先生、インドの方にもそういう分け方が何かあるんだそうですね。
 
伊藤:  そうですね。インドに古代インドから続いている『マヌ法典』という法典に「四住期(しじゅうき)」という考え方がありまして、
 
     四住期
 
     学生(がくしょう)期
     家住(かじゅう)期
     林住(りんじゅう)期
     遊行(ゆぎょう)期
 
金光:  四つの住む。
 
伊藤:  そうですね。「学生期」というのが師に習うと、師から学ぶという。
 
金光:  勉強する、学ぶ期間であると。
 
伊藤:  それで次の「家住期」というのは、結婚して、そして祭祀、つまりお祀りですね。日本で言えば、神棚とか、仏壇とか、又はキリスト教で言えばそういうところにお祀りする。
 
金光:  家族のリーダで、家族を作ってそこでの生活と。
 
伊藤:  そういうことですね。それで妻子を養い、親を養っていくという「家住期」。
 
金光:  「家長期(かちょうき)」とも言うようですが、そういうことでやっぱりさっきの「四十にして惑わず」と同じような感じのところですね。
 
伊藤:  そうですね。
 
金光:  その次に「林住期」というのがありますね。
 
伊藤:  「林住期」というのは、家を離れて、一人でトコトコ林に行って気ままに住み、その精神性を養う期間です。その次が遊行期で、さらに奥深くわけ入り、ブラフマンとの一体化をめざす生き方を示しています。
 
金光:  「四住期」の中の「林住期」のところに、
 
     家住(かじゅう)者(顔に)皺(しわ)より(毛髪)灰色となり、
     その子に子息を見るに至らばその時、
     彼は森林に赴(おもむ)くべし
        (マヌ法典第六章二項)
 
伊藤:  この「その子に子息」という、つまり男の孫が生まれたらということです。息子のお嫁さんが懐妊してだんだんお腹が大きくなってくるのを、そのお爺ちゃんになる人が「よーし人生の大転換期だ」と喜んで見ているという、こういう姿が髣髴(ほうふつ)として浮かんでくるんですね。
 
金光:  それでこれが二項ですね。その次には
 
     耕作によるすべての食物、
     及び彼のすべての財産を捨て
     その妻を子に託し、或いは
     これを伴いて森林に赴くべし
        (マヌ法典第六章三項)
 
伊藤:  これがですね。
 
金光:  これは厳しいですね。
 
伊藤:  ここがなんともいいですね、「或いはこれを伴いて」という、ここのところが非常に含蓄のある言葉であろうと、このように思うんですね。奥さんとの間のところが見事に表現されていると。
 
金光:  嫌と言ったらどうなるんですか。
 
伊藤:  ですから、その時は家において、子供に「自分の家内を頼むぞよ」と子に託していくという。
 
金光:  そうなんですけども、本人も憧れて、脱サラして山の中に入ったけど、どうもやっぱり自分には上手くいかんという、やっぱり森林に入っても上手くいかんという場合もあるわけですね。
 
伊藤:  これが行ったり来たり、行ったり来たりする。いわゆる聖と俗の間を。どっちでも。また体が悪くなったら家に帰ってくる場合もいいわけです。
 
金光:  どっちでも。姥捨(うばす)て山に入ってしまうということではないんですね。
 
伊藤:  そうじゃないんです。これはもう実に行ったり来たり、行ったり来たりする姿というのがいいんじゃないかと。日本の人達はどうも一途(いちず)にやれというふうに決めてしまうタイプが多いんですが。
 
金光:  だから入ってよければそこで入るし、また戻ってもいいと。
 
伊藤:  はい。そうです。
 
金光:  その辺のところをご覧になりながら、先程の『論語』の「五十にして天命を知る。六十にして耳順う」という。それとこれとを何かこれでどうなるんですか。
 
伊藤:  そうですね。これが今、出ておりますが、「天命を知る」と。そして次は「六十にしてその天命の声を心の耳に聴いて順ってやっていけば大丈夫だという確信が持てる六十代」。
 
金光:  成る程。耳が遠くなって聞こえなくて困るというのじゃなくて、天の声だから、いくら耳が遠くても平気だというわけですね。
 
伊藤:  ええ。そうです。これは私も丁度六十になりましたが、確かに「この天命を聞いて生きさえすれば間違いがないという確信が持てる年齢だ」ということを教えているんだと思います。
 
金光:  それで、
 
伊藤:  それには林に赴き一人で静かな時間をもってみること、これはどこにいても一人一人出来ることで、いつでも出来ることで、どんな条件のもとにも出来ることだと思うんですね。「自分の心に一人一人が庵を作ってみよう」と。で「庵に住むという気持になってみよう」ということで「庵住期」という、そういう言葉を創ったわけです。
 
金光:  成る程。それで「庵住期」という。
 
伊藤:  この四つの、五十にして「天命」、六十にして「耳順」。「林住期」、「遊行期」。この四つの考え方をいろいろ合わせて、自分の中に庵を作ってみると。そういう考え方が、とってもいいんじゃないかと思って発想したわけなんです。
 
金光:  ただ今の日本では庵をどっかへ作るというのも大変ですし、現実問題としては、将来はどっかそういうことが出来るかも知りませんが、現実問題としてはなかなかすぐ簡単に出来ないんじゃないかと思いますが。
 
伊藤:  そうですね。私共の「庵住構想研究会」の方へも、そういう問い合わせがあるんです。家の中ではどうも上手くいかないと。そういうヒントが欲しいと。それで私は岐阜県の美濃加茂市に正眼寺(しょうげんじ)という。
 
金光:  有名なお寺ですね。
 
伊藤:  そうです。そこは山川宗玄(そうげん)老師がお出でになって、僧堂があって、それから尼僧堂もあるんです。尼さんの僧堂ですね。その境内で離れたところに正眼短期大学という大学がありまして、日本で一番小さい短期大学なんです。朝に晩に少しづつ坐禅をして、そしてそこで食事作法なんかも、若い学生さん達がきちんとやるんですよ。
 
金光:  それは学校があったりする。そこと先程とのお話との関係はどうなるんです。
 
伊藤:  そこでいろいろな講義を聞いたり、又は多治見瀬戸の美濃地方ですから、陶芸をやったり、茶道をやったりする。私も毎週出ておりますので。
 
金光:  そこでも講師をなさっていらっしゃる。
 
伊藤:  それで「不老長寿の法」とか、それから「坐禅による治療法」とか、色んなことを皆さんと一緒に体験していくということをやっている。そういうところへちょっと来ては、また自分がそれをモデルとして家へ帰ってやるとか、いろいろな形が出来ると思うんですね。
 
金光:  いまそこへ行けば出来るということではないわけですね。出来ればいいなあと思っていらっしゃる。
 
伊藤:  そうですね。はい。でも受け入れる場はあります。で山川宗玄老師の法話を聞いたり、そして講義を聞いたり、出来るという場になっておりますから。個々によって違いますけれども。
 
金光:  しかしそれはたまたまご関係になっている正眼短大なんかにいらっしゃっていて、そこがそういうことが出来るような可能性があるんですけれども、一度に全国というわけにはいかないわけですが。
 
伊藤:  そうですね。
 
金光:  自分で、「じゃ、何とかそういうところへ行かないで今の生活の中で天命を知る方法は」と聞かれたら、どういうふうにお答えになるんですか。
 
伊藤:  それは非常にやさしいです。「天命を知る」というと、大きく見る。皆さんは「私の五十年やって来たことはこういう天命のものにあった」とか、という見方をするんですが、東洋医学の場合ですと、非常に具体的なんです。今どうしたらよいかを具体的に天命に聴いて知る方法をやれると思うんですね。
                   
金光:  それはどういうふうに。
 
伊藤:  例えばですね。
 
金光:  人間をどういうふうにご覧になるわけですか。
伊藤:  この図の中の「四十代までが地の部分」です。先程、話しましたが、「地命からの情報」で四十代までは、地表面中心でぐんぐん生きて来ると。それを今度は五十代になったら、ガラッと変えて、「天命からの情報」を中心に、それを元にして生きていってみようという、ここの大転換ですね。
 
金光:  下の段の「地」の方からの説明をして頂きたいと思うんですが、「栄養」というのは食べる方ですね。
 
伊藤:  「食べ物は食べて体力をつける。仕事は知力と体力でやる」。それによって、「地位とか名誉とかを獲得出来る」。こうした姿で私達は四十代までやってくる。頑張ってくる。
 
金光:  これはいわば娑婆世界といいますか。浮き世の現実のことということですね。
 
伊藤:  そういうことですね。これが「地命からの情報」と捉えて、言い換えてもいいと思います。これは単なる「食べ物の栄養だけではなく」て、「全部自分の家、自分、個人、家族の栄養になって、力になっている」という形が一つあります。もう一つ、「天命からの情報、呼吸」の問題になりますけれども、これは私達は呼吸を止めたらものを考えられません。ですから、呼吸しているからものを考えられるわけです。そして「総合的に判断する」。人生の長い経験を踏まえて判断する。そうしてその中から「いろんな創造的なもの、力が沸き上がってくる」。ということは、「この命というものへの洞察力が深まれば深まるほど、総合判断力や創造性が高まってくる」ということです。
 
金光:  いのちへの洞察力というのはもうちょっと具体的に。
 
伊藤:  はい。例えば、一輪の花を見た時に、その時にこの花に対して自分のいのちとの共鳴と言いますか、「こんな素晴らしい小さな花があったのか」とか、ちいっちゃな子供がいるとよく「目の中に入れても痛くない」という言葉がありますね。あれが見事な表現だと思うんですが、そのように「一つのいのちに対する深い洞察力が深まれば深まるほど出てくるものです。そして、それは寂静力(じゃくじょうりょく)という寂静の静かな世界」に裏付けられているんじゃないかと思います。
 
金光:  そうしますと、寂静というのがないと、頭の中で混乱していると、なかなかそうはいきませんですね。やっぱり呼吸で落ち着いたところでないと、いのちへの洞察力も深まってこなければ、寂静力というのも湧いて、出て来てこないということになるわけですね。
 
伊藤:  そうですね。ですから私は一日の中で境目を取りますと、「寝る時」と、それから「目覚める時」と、この二つを一日の中のポイントにおいているんです。そうしますと、だんだん老いの姿が見えてくる。そして一日というものをどこで区切ればいいのかということも見えてくるんではないかと、このように思うんですね。
 
金光:  そうしますと、「老年の生き方」ということで、「老いをどう生きるか」ということで伺っているわけですが、人生というのは非常に長いわけですが、今のお話ですと、それをむしろ一日というサイクルで考えて見ようと、「一日の過ごし方」ということで考えることが出来るわけですか。
 
伊藤:  東洋医学の哲学は「陰陽論」ですので、「陰と陽、陰と陽」という考えで全部分ける。「死んで生きて、死んで生きて」と。
 
金光:  歳を取ると、もう誰でも嫌でも死ななければいけないという、私は死にませんという人は滅多にいらっしゃいませんですね。
 
伊藤:  そうですね。
 
金光:  そういうところはどういうふうに。
 
伊藤:  ですから、「生きて死んで、生きて死んで」と、輪廻転生(りんねてんしょう)を繰り返していくんだというのが東洋医学の考え方です。それを一日を陰陽論でなぞります。「昼と夜、昼と夜」と過ごしていくというわけですので、その「夜寝る時、これが昼から夜への私達の生活の中での境目」になります。そして「目覚める時というのは、今度は夜から昼への境目」になります。
 
金光:  生と死というものを離さないで繋がっているものとして見るわけですね。
 
伊藤:  はい。そうです。『荘子(そうじ)』の言葉にもありますように、「生や死の徒、死や生の始なり」とあります。
 
金光:  これが「知北遊篇(ちほくゆうへん)」にある
 
     生也死之徒
     死也生之始
       (荘子知北遊篇)
 
生は死の仲間であるということですか。
 
伊藤:  「生也死之徒」、「徒」というのは、道連れであると。一緒であるということです。どちらが始まりかと言うと、「死は生の初め」と。ですから東洋医学では生きているということと、死ぬということのその基本をこの『荘子』の「知北遊篇」から取っております。
 
金光:  はい。これが根本にある。
 
伊藤:  そうです。
 
金光:  そうすると、先程の一日の昼と夜、昼と夜というのも、これと同じような考え方が出来るわけですね。
 
伊藤:  はい。そうですね。「一日の始まり」というのは、これは「何時からだ」と思います。
 
金光:  「何時か」というよりも、「目が覚めた時から」というのが、一日のスタート。
 
伊藤:  大概の方はそのように答えるんですよ。
 
金光:  そうでしょうね。だって「寝ている時は、生きていると言えないんじゃないか」という考えがあるものですから。
 
伊藤:  そうですね。でも今の『荘子』の言葉をこうして見て見ますと、「ああ、違うんだなあ」と、「寝る時が一日の始まりだなあ」ということが考えられるわけですね。
 
金光:  「死は生の初めなりということは、朝、日の出が始まりじゃなく」て、もう一つ前の「眠る時が、朝起きて働く初め」であると。
 
伊藤:  で今この図にありますように二十二時、午後十時からですね。
 
金光:  目覚めが六時とする、バックしてもっと前なんですね。
 
伊藤:  そうですね。そうして午後十時から、これは「陰の時間」なんです。陰陽で言うと。そしてそれは「休息の時間」であると。つまり身体が、今まで一日中疲れたものが休む時間が二時間欲しい。ですから、そういう意味でいわゆる「午後十時というのが、一日の始まり」ではないかと、こういうふうに私は申し上げたいんです。そして「零時からはどんどん今度は流れているものが準備する」。流れているものと言いますと。ホルモンとか、血液とか、リンパ液とかその他体液の流れているものが準備をする時間が零時から。
 
金光:  朝起きて活動するための準備する時間であると。
 
伊藤:  それでずうっと陽気が出て来て、準備完了でパッと目覚めると。こういう「一日の境目」があるんではないかと思うのです。だから、誰でも「健康で一日を過ごしたい」と願っている。それは自分だけの健康でなくて、家族も子供達も孫達も、まだ見えない曾(ひ)孫(まご)達がと。長い年月の中での健康な家風を作っていく為には、「夜十時が一日の始まりだよ、夜十時にみんな床に入るんだ」。こんな気持ちが、私は素晴らしい健康な家風を築いていくんではないかと思っております。
 
金光:  ただいま忙しい社会だから、そんなに夜十時から眠れないと、もっと仕事をしなければいけない。朝もうちょっとゆっくりと思っても、そんなに八時間も眠れないという人もいると思うんですが、その辺のその仕事によっての睡眠時間の取り方みたいな工夫も出来るわけですか。
 
伊藤:  そうですね。夜遅くまで仕事をなさっていらっしゃる方もおいでになるし、夜の仕事の方もいらっしゃいますが、そのリズムの取り方で休息時間を二時間をたっぷり取って、そしてただ「八時間寝ればいい」とか、「六時間寝ればいい」じゃなくて、「準備している時間が、零時から六時まであるんだなあ」ということを知って頂くだけで、その前に休めるのではないかとこのように思うわけです。
 
金光:  そうしますと、先程、「天命を知る」ということをご説明頂いたんですが、普通は現代使われている「天命を知る」というのは、「ある職業に就いてそれをやるというのが天命だ」というふうに考えることが多いと思うんですけれども、もうちょっと違うところまで含まれて考えていらっしゃるわけですね。
 
伊藤:  「五十にして天命を知る」というのは、具体的にそういう方法とか、技術があるんです。これは東洋医学、いずれにしても医学というのは全部具体的にものを考えますが、その具体的な方法として、私は「夜寝る前、就寝時」、それから「目覚める時」、この二つで天命を知るということを体験なさっていったらいいんじゃないかと思っています。
 
金光:  もうちょっと具体的にはどういうことですか。
 
伊藤:  例えばですね、夜寝る時に、「ああ、疲れたなあ」皆さんすうっと寝てしまいます。その時に、寝床にストーンと座る。正座するなり、又は坐禅の経験のある人は座を組むなりして、そしてきちんと坐る。そして大概の方はどうですか。呼吸しているというと、どの辺から空気を吸っているつもりでおいでになります。何かこの辺からと(鼻のあたりをかこむ)。
 
金光:  私の場合は、ずうっと向こうの方まで、足の下の方から頭の天辺の方、全部。
 
伊藤:  いいですね。そういうふうに、なかなか普通はいかないです。鼻のまわりの空気を吸っているような気分で、我々はおりますけれども、そうではなくて、夜ストンと坐り薄暗くしまして、「これから寝るぞ」と思ったら、今日一日のことは全部忘れて、そして今までの地命ですね、「地命ということは地表のライン上のことを全部忘れてしまう」。仕事をしてきたこと。今日いろいろなことがあったことはみんな忘れて、そして高く、天の高いところからですね、高い高いところに清らかな綺麗な明るい世界、そうした自分の理想の世界と言ってもいいと思うんですけど、そう言った天の高いところから、すうっとこう一筋に息を吸い込んで、そして下腹部まで下ろす。で吐く時は、今度はずうっと大地の下の方まで、静かに一杯に下ろしていくというようなつもりで寂然(じゃくねん)と座るんです。静かに、天の高いところから空気を吸って、楽にして、全部力を抜いて、ただ背骨だけは立てて心を下腹部に置くと。これはアンテナの構造なんですね。背骨だけを立てておいて、ずうっっと静かに、二分でも、三分でも気持ちよく全てを忘れて、そして何か又ごちゃごちゃ昼間のことが頭に入ってきそうだったら、もう天の糸をしっかり繋げるつもりで、糸をずうっとこう紡ぐつもりで、油断しないようにしておりまして、そして息を吐く時は静かに地球の中心に向かって下の方へ吐くと、暫く何日かして慣れて来ますと、とっても気持ちよく出来るようになるんです。そしてずうっとしていると、ふうっと眠くなって来ますから、そうしたらそのまま、すうっと布団に入る。そうすると、深い眠りで、とってもいい気持の眠りになります。
 
金光:  そうすると、その時は何にも考えないんですね。
 
伊藤:  何も考えない。でこの時は何も考えないで、どうしても迷っている問題がある、このことをどうしたらいいかと。そうした時には、はじめは今申し上げましたように静かに坐って、それから今度は天に問うわけです。「今こういう問題を抱えているけれども、私に分かり易く教えてくれませんか」っていう形で、謙虚に天に問うて見る。そしてまた同じように暫く答えがあっても良し、答えが無くても良し。そういうつもりで、じっと座っておりますと、フッと分かってきてしまうんです。実に具体的なんです。
 
金光:  意識的に考えるんじゃなくて、中から湧いてくるというか、出て来るわけですね。
 
伊藤:  はい。そうですね。人によっていろいろありますけれども、本当に中から湧いて来るように、そうか私はこうすればいいとはっきりわかります。こういうこの寂静というものは非常に素晴らしくて深い、時代も時間も空間も超えた情報をしっかり持っていて、その人の命に対する全情報がたたみ込まれているんじゃないかと思うんですね。
 
金光:  そして寝ました、休息しました、準備時間も過ぎました。目が覚めました。そうしたらどうするんですか。寝起きの時はどうするんですか。
 
伊藤:  寝起きの時、これがまた、寝起きは直ぐ起きちゃダメなんです。
 
金光:  でも「ぐずぐずしないで、早く起きなさい。学校が始まりますよ」みたいな。
 
伊藤:  そうなんですね。ですからそういう方々は、もっと前に寝る。十時でなくて九時半に寝る。身体が不調な人はもっと早く寝ていくというようにします。そうすると、何日かすれば早く目が覚める。そしてそこからが大事なんですよ。私は「布団を被(かぶ)ってしまいなさい」と言うんです。自分が胎児になったつもりで、ぐずぐずして、気持ちよくうとうとしていると。
 
金光:  「何時までぐずぐずしている」なんて、よく言われる。そうじゃなくて、ぐずぐずするのがいいんですか。
 
伊藤:  そうですね。東洋医学の方では、これを「養生法(ようじょうほう)」と言いまして、百歳の老人もする。寝床の中でやるいろんな運動法があるんですが、それも一つやっては、また微睡(まどろ)む、二つやっては微睡むというスタイルになっています。ですから伝統的に自分が何か運動したかったら、ウーンと伸びをして、又ストンと楽にするとか、そういうふうにして、要は微睡む時間を長く長く。
 
金光:  起きて静座じゃなくて、寝たままでいいんですね。
 
伊藤:  むしろ寝たまま寝床の中でします。
 
金光:  そうしますと、そういうふうに微睡む時間に、準備時間を微睡む時間としてこう考えたり、また寝たり。
 
伊藤:  十分に。あんまり考えないで、その時も気持ちよく、ただこうして微睡んでいると。昼間が近づいて来ると、太陽が昇ってくるというこの力がグングン漲(みなぎ)ってきます。そして今日何をすればいいか、それがフッともう決断出来るという、非常にはっきりしたものです。私は、これが「虫の知らせ」とか言いますね。ああいうものの力強いものであると。これが「天命からの情報」であると思います。
 
金光:  ただもう一眠りと思ったら、八時に出るのが九時まで寝たりということもあるんではないかと。
 
伊藤:  ですから、初めのうちはそういう間違いをしないように、明日休みだという時に、是非ゆっくりして、そんな体験を経て、夜早くお休みになってということをおすすめします。
 
金光:  これはやっぱりそういうリズムが出来ると、そんなに長く一時間も二時間もぐずぐずということじゃなくて済むわけですか。
 
伊藤:  それがそれが、二時間位アッと言う間もなく不思議なもんです。微睡む時間というのは、これを大切に大切に生きていますと、そうすると素晴らしい老いの世界が見えて来るのです。
 
金光:  ほう。
 
伊藤:  老いというのはこの微睡みを、とっても大切にする。
 
金光:  成る程。もう出勤がないか、なくなった人にとっていいわけですか。
 
伊藤:  そうですね。そういう方には是非工夫して頂きたいなと思います。
 
金光:  そうですか。微睡むということはいいことですか。初めて伺いましたですね。そういうふうにやっていると、又いろいろなことが見えてくるという。起きてからの活動も、また変わってくるわけでございますね。
 
伊藤:  それが実に具体的に変わってきます。そして、成る程、こういう形でやっていれば、大丈夫だなというのが、「六十にして耳順う」と、その確信が持てた時を「耳順(みみしたが)う」と表現しているんではないかと思います。
 
金光:  そうですか。ところで食事はどういうふうに。目が覚めました。顔を洗って、ご飯を食べます。
 
伊藤:  食事は、基本的にはお腹が空くまでは食べない。
 
金光:  時間でも食べなくていいんですか。「朝しっかり食べなさい」とよく言われますが。
 
伊藤:  これは、私は「朝しっかり食べなさい」ではなくて、「夕飯は早めに少し食べておきなさい」という。そういうことが基本だろうと思うんです。そうすると、朝「お腹が空いた」と言って起きてくる。そうしたら朝しっかり食べられる。
 
金光:  無理に朝起きて、無理に食べる必要はないと。
 
伊藤:  そうなんですね。
 
金光:  ただし、「朝お腹が空いた状態がいいんだから、夜少しにしなさい」と、そういうことになるわけですね。
 
伊藤:  そういうことです。「朝しっかり」ということは、「夜の方を調節して下さいよ」という教えだろうというふうに解釈しております。で私達は人によって全部胃腸の具合が違いますから食べるということは、原則としてお腹が空いてから食べるといいのです。それも基本的な食事がありまして、基本食というのは非常に簡単なんです。玄米そして梅、昆布そして後お豆腐と。その他に野菜のたっぷり入ったお味噌汁と。こんなような具合です。それが基本食で、それだけ続けていればいいと。その他に例えば、肺が弱い方、それから心臓が不調な方、肝臓が不調な方、それぞれに適合したいいものを食べます。例えば、肝臓でしたらニラを少し、毎食小鉢に一つ位づつ食べると。そして肺だったらタマネギとか長葱。これは生がいいんですけれども。心臓血液の系統でしたら、人参とか。そして腎臓の系統でしたら色の黒いもの、黒胡麻とかこんなものを小鉢に一つ。つまり万遍なく食べるんじゃなくて、その人の弱い部分に適合する食事をちょっと余分に食べていくといいのです。
 
金光:  でもお嫁さんが「そんなの面倒臭くてかなわん」と言う方もいらっしゃると思うんですが。
 
伊藤:  そうですね。食事は、自分でやるというのが原則です。老いの姿になってきたら、自分でもってやってみる。料理というのは総合的な判断力が必要です。そして自分で味をみるという、自分の五感を非常に大切にして感性を磨かないと出来ないことですね。ですからこれは楽しみながら。食欲というのは最後まで残りますから、自分が作ってみるということはとっても大切なことだろうと思うんです。好きなものを作って、そして食べるというのは楽しみですよ。ですからこれだけでなければいけないということではなくて、またその他にお酒が飲める方は酒は百薬の長、微薫にとどむべしといわれています。幽かにこう、「ウーン、いい気持だなあ」という程ですね、そういうふうに飲まれるのがいいんじゃないでしょうか。
 
金光:  食事はそういうことで自分で用意して頂きました。片づけも済みました。さて、何をしようかということになるわけですが、何を、どういうことをすればよろしいでしょうか。
 
伊藤:  当然何をしていてもいいわけなんですけれども、私は、一番大切なことはやっぱり静かにしているということに対して確信を持つ。これでいいんだなあという。
 
金光:  変な言い方ですが、何もしなくてもいいんだなあということですか。
 
伊藤:  これは例えば、日本に修行方法として坐禅がありますね。坐禅というのはこうして座っているだけで、何もしていないわけです。つまり呼吸しているだけですわね。そしてそれが修行の頂点にあるというわけです。で私達は眠る時は何にもしていないわけです。先程言いましたように、眠る時に休息して、着々と元気が付いてくるというわけです。何もしていないということにおいては坐禅も睡眠も同じなんですね。
 
金光:  それはそうです。
 
伊藤:  身体が縦になっている坐禅、身体が横になっている眠り、この「何もしていないというところが私達人間の原点ではないか」と。
 
金光:  ああ、そうですか。「無駄飯食い」なんていうことなんか考えなくていいわけですね。原点だと。
 
伊藤:  いや、もう本当に活動している人も、やらない人も、実はそれが原点にあるということ。それを作り上げた日本の文化というのは凄いと思うんです。寂静という何もしていないというところが凄いんだよということを教えてくれているというわけです。
 
金光:  あれもこれも、「ああ、いっぱい忙しい忙しい」なんかという、こちらが本当の姿ではなくて、静かに何もしないで、ずっと座っている。
 
伊藤:  そして座って座ってとか、眠って眠って眠りきったところで、今度、金光さんだったら、何をします。眠った後は、しっかり眠った後は、
 
金光:  起きて何か好きなことをしなければいけない。目の前にやっぱりしなければいけないことがありますから。
 
伊藤:  そうですよね。その時にしなければいけないじゃなくて、眠って起きて、自分がやると。
 
金光:  いや、仕事が呼んでいるわけですよ。呼ばれているわけですよ。
 
伊藤:  まだその仕事があるうちは結構でございます。休息しきった時には喜んでそれをやっています。十分のいのちの発露として、生き生きそれに取り組んでいくというのが活動ということの原点です。どんなことであろうとも、例えば寝間着一つ着替えることであっても、顔を洗うことであっても、「ああ、俺がやっているんだ」。という「この私が静かに眠って今休みきった、眠り終わったこのいのちが燃え上がって、今これをしているんだ」という喜びが出てくると思うんですね。その喜びの瞬間の世界を観(み)ていくというのが、これが一日の過ごし方の中で一番のポイントになるんじゃないかと思います。例えば自然と言いますね。仏教の方では自然(じねん)と読みます。
 
金光:  そうですね。自分の自(じ)と、然(しか)しの字。
 
伊藤:  然と言う字。これに火篇がくっつくと、火篇に、自然の然で、燃えるですね。
 
金光:  燃えるですね。
 
伊藤:  燃料の燃です。だからいのちというのはその燃えている姿を見ていこうというわけです。だからしっかり休み終わって、「ああ、いい気持だった」と言って太陽にですね、こう自分が太陽に向かって、すうっと太陽の光を受けている時に、その燃えている姿を自分のいのちの姿として燃やしていくと。そうすると身体も日光浴することによって、いろんな活力がキラキラ湧いてくるというわけです。ですからそういう意味で今私がしていること、それはどんな静かなことであっても、例えばお茶一服飲むにしても、その侘(わ)びとか寂(さび)という文化を日本人は作り上げてきた素晴らしさがあると思うんです。あれはそういう意味で、何もしないという静寂の後のいのちが生き生きした姿の侘び寂であったろうと、このように思うんですね。
 
金光:  ただそこで自分でやっているという場合に、「俺が俺が俺が」というエゴの形でやると、これはおかしなことになるんじゃないんですか。
 
 
伊藤:  そうですね。ですから、しっかりと休み終わったところは、喜んで何かしたいという気持ちになるんです。だから「俺が」じゃなくて、もう「私が今喜んでやっている」という世界に浸りきっています。だから人の為とか、世の為とか、他人の為なんていうのは、これっぽっちもないんですね。
 
金光:  要するに、天地の働きとリズムが一緒のところで自分の身体が動く。だから「俺が俺が」とは違うところでの、例えば地球が回転して、太陽が出て来る。そのリズムと自分がこう同じリズムでの動きと、まあそんな感じと言ってもいいのかも知れませんね。
 
伊藤:  そうですね。ですから、喜んでそれをやっているという姿、これを見ると、「ああ、あの方は何か嬉しそうに、何時も何時もやっているね」というふうに見えると思うんです。だから「俺が俺が」とか、突っ張りじゃなくて、みんな若い人達がやっているものも「おお、それもいいじゃないか」「これもいいじゃないか」とみんなよく見えて来る世界じゃないかと思うんですね。
 
金光:  そうすると、その先程からのお話で、その地命を知るという段階は過ぎて、今のは天命を感じるようになったところでの生活ぶりということになるわけですね。
 
伊藤:  そうです。ですから、今までの人生の中で学問して、知力を獲得してきた、運動して体力。そしていろんな知識で仕事をして来て、自分の築き上げてきた人生。五十歳からは、ダイナミックにガラッと言うか、地から天へガラッと展開して、そうして今度は天を自分の精神生活で中心に置き、心の中に庵というものを作って、そしてそれを静かにストーンと楽にして見ると、「ああ、ここが原点だなあ」と味わえます。静寂から動き出す時は生き生き喜んで動くというふうな情況じゃないかと思うんですね。
 
金光:  よく、古典落語なんかで、ご隠居さんのところへ相談に行く。あそこでは滑稽な話が多いんですけれども、やっぱりご隠居さんというのは、やっぱり天命を知っているような状態の人が多かったということなんでしょうか。
 
伊藤:  そうですね。私のところは長野県の伊那ですが、農家が多うございます。そうすると、やっぱりお年寄りは敬っていく。そしてご隠居さんとして、隠居さんは若いものを立てていくといういい世界があります。そういう中で隠居という、こういう文化が日本に昔から伝わっているんではないでしょうか。
 
金光:  ご隠居さんというのは尊重されているわけですね。ご隠居さんがボケてしまっては具合が悪いわけですが、先程からのお話でいくと、ボケというのは、どういうことになるんでしょうか。ボケ防止しながら、そういうところにいくのにはどうすればいいかという。
 
伊藤:  私はヒントを得たのは私共の近所に住んでいる方で九十歳のお年寄りがいる。その方が何時も何時も庭先で草引いているんですね。つまり草取りしていらっしゃる。そして今度、「来年はこういうことが出来ればいいね」「天気がどうだろうか」と、自然の中に入り侵っていると。「来年は、来年は」というそういう感じの喜びと言いますか、希望と言いますか、あるんですね。その辺のところがボケない素晴らしいヒントじゃないかなあ、と思ったんですね。
 
金光:  そうすると、その方は、午前か午後か、そういう一日の中でそういう仕事をなさっていたわけですが、生まれてから死ぬまでの途中ボケという、何時ボケるかは、別として、そういう生涯とですね、一生と一日との対比で、そこのところを考えて下さっているようですが、ちょっとその図を見ながら、そこの説明を聞かせて頂きたいと思います。この図はどういう意味なんでしょうか。
 
伊藤:  これは、外にグウッと大きな山になっているのが書いてありますが、これが私達の身体の一生であるというふうに見たわけですね。
 
金光:  生まれて発達して、それからだんだん衰えてくるというのが、一番外枠なんですね。
 
伊藤:  そうです。そして次の精神的なものはゼロ歳から十五歳まで、とろとろきまして、急に発達して、思春期になると、大きな動きをして、だんだん落ち着いて、そして身体について五十歳くらいですね。
 
金光:  だんだん衰えてくる、そこのところ、分岐点がありますね。
 
伊藤:  これが先程の「五十にして天命を知る」という、ここのところが大きな分岐点になるんじゃないかと。
 
金光:  先ず、一番と書いてある下に下がっている線がありますね。これはどういう意味ですか。
 
伊藤:  今までの生き方と同じで、身体に従って精神がついていると。
 
金光:  そして下に点々点(・・・)とありますね。
 
伊藤:  点々点(・・・)とあるのは、ある時病気をしたと。身体がガクッと衰えたと。そうすると気持まで「ああ、ダメか」と思う。そのままぐずぐずいってしまった状態。そして人格が喪失してしまった状態、人格が無くなってしまった状態。これがボケと言ってもいいと思うんですね。
 
金光:  一度衰えても、また上がって。
 
伊藤:  又、身体が治るとまた、「よし、やるぞ」という気持で元気が出てくる。そしてまた衰えると、またそこでもってというふうに。
 
金光:  落ちる人もいれば、又回復する人もいると、
 
伊藤:  そうです。身体の下に精神を置く形でだんだんと。
 
金光:  この@が一般的な姿ですね。
 
伊藤:  はい。一般的な。これがほとんどの人の生き方ですね。Aの二番目というのは五十歳位から、「よし若さを取り戻そう」というわけで、一生懸命ジョギングしたり、それから身体を鍛えたりとか、そういうことをやるスタイルですね。それでその方も、七十八、八十、八十二、八十三と、こういうふうにいって、何時の日にかは、今度はそういう運動もしなくなる時があるわけです。
 
金光:  こう出来なくなった頃、また下がって来ると。
 
伊藤:  そうですね。下がってくるというふうな生き方があります。
 
金光:  もう一つ、Bというのが。
 
伊藤:  ところがこれは日本の素晴らしい伝統だろうと思うんですけれども、五十歳になった時に、その時に、「よし身体は身体で衰えていくに決まっておる」と。「歳取るんだから、もう身体はそのままうっちゃっておけ」と。そして「自分の気持ちはどこまでもどこまでも天に向かって飛翔(ひしょう)させていく」と。こういう世界があると思うんですね。
 
金光:  これ、Bは天に飛翔(ひしょう)させる、具体的には。例えば、こんなのがあればというのがあれば教えて頂きたいんですが。
 
伊藤:  ええ。例えば、平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)さんという彫刻の有名な方が、あの方が百歳になった時に、その時に三十年分の材料を持って、今度はこれをやる。今度はこれをやるとこういうふうに希望を繋いでいたというそういう素晴らしい話がありますね。ああいう世界はみんなそれぞれがそれぞれの形で持つことが出来るし、また持っていた風景が昔はあったと思うんですね。ですからそういう形で自分の身体は身体、そして心はどこまでも高く、明るく繋げていくんだと。そして俺はこれをやっていこう、あれをやっていこうというところですね。この一生涯だけではなくて二生涯、三生涯と、こう続けていくと、幾転生して高い理想を持っていくという、そういう世界があったように思います。
 
金光:  そうすると、身体は衰えてもボケないで生きて精神は何時までも活躍出来ると。
 
伊藤:  それが大きな魅力だと思います。物忘れしていってモーロクするのはとてもいいのです。あのきんさんぎんさんがいい例です
 
金光:  誰しも、しかしボケたくないと思っている人が多いと思うんですが。
 
伊藤:  ですから、一日の中で工夫してみたんです。私達は一生をそういう長い目で見て果たしてそういうふうな理想を持てばいいのかと、なかなか確信が持てません。でも一日の中でこういうふうにしていけばいいんじゃないか。私は一日の中でボケた状態って、どうなのかなあと考えてみたんです。そうしますと、ボケというのは一生でいうと歳を取ってから、人格が喪失してしまう、これがもっとも私達嫌ですね。一日の中で人格が喪失した状態というのは。
 
金光:  寝た時ですか。
 
伊藤:  ええ。寝た時も、人格が喪失していますね。だけどまだ何と言うんですか、寝る前のところで自分が、
 
金光:  分からなくなる、お酒飲み過ぎたりして。
 
伊藤:  そうです。しかもただ普通の酒じゃなくてドロドロに酔っぱらった時。
 
金光:  もう何をしたか分からないと。
 
伊藤:  そんな経験あります。
 
金光:  あります。あります。よくありました。
 
伊藤:  その時の一杯目はどうでした。
 
金光:  美味しかったです。「これはいいなあ」と。多少明日のことを、その時は考えていても、その中に「ああ、いいや」明日のことも何にも忘れて飲み過ぎ。
 
伊藤:  そうですよね。だから、そうしてお酒をどんどん飲み込んでいって、そしてもう家に帰った時は何が何やら。
 
金光:  全く分かりません。
 
伊藤:  着ているものは泥だらけになるやら、もう何をしゃべったのか。財布のお金は空っぽやら、何が何だかさっぱり分からない。
 
金光:  しかも思いだしても、全く思い出せない、それはまさにボケの状況ですね。
 
伊藤:  ボケは一日の中ではどうも泥酔した時と対比できます、これを私、モデルにしてみたんです。
 
金光:  成る程。
 
伊藤:  そうすると、そこのヒントは今おっしゃったように、「明日は何もない」という、「明日何もない」と思った時に、酒は一杯目が美味しくて。
 
金光:  そうしますと、死んでしまったら、何もないんだと、そこへ繋げて考えることが出来るわけですね。
 
伊藤:  そうですね。だから、何もないか、何かあるのかはそれは抜きにしまして、「明日がある」と思うといいのです。そして「明日があって、明日こうするんだ」と、「明日大切な用事がある」とそう思った時に泥酔しますか。
 
金光:  やっぱり呑めません。
 
伊藤:  呑めませんでしょう。
 
金光:  どうしても気になると呑めませんですね。
 
伊藤:  だから、「明日の一生、次の一生は私にとってとても大事なことである」。そうしてそれを具体的にします。今まで四十歳、五十歳までは自分達が食べる為に生計を立ててきた。ところが、今度はどう死んだらいいか。死んだらどうするのかという「死計」というものも立ててもいいんじゃないかと。
 
金光:  ただ、今は死んだらお終いだから、そっから先はもうしょうがないわと。そうでない人はお浄土にいくとか、或いはいろんなそれぞれの天国へいらっしゃる方もあるし、或いは地獄かと思う方もいらっしゃるかも知りませんが、その程度の人は「無になる」と思われることが多いんじゃないかと思いますが。
 
伊藤:  ですから、そういう方は「無になると決めつけない」で、今度生まれかわるということがあるんだと。あるとすればどういうふうに生きていくかと。
 
金光:  ああ、成る程。
 
伊藤:  そういうふうに、私は考えて見たらいいと思うんです。これ大概の方は分かっているんですよ。例えば、金光さん、今度生まれて来るとしたらですよ。
 
金光:  生まれて来るとしたらですか。
 
伊藤:  はい。生まれて来るとしたら男がいいですか。女がいいですか。
 
金光:  やっぱり男ですね。女の経験ないから。やっぱり男ですね。
 
伊藤:  それで、じゃ、日本人がいいですか。外国人がいいですか。
 
金光:  外国のことは分かりませんから、やっぱり日本人ですね。
 
伊藤:  日本と言っても、広うございます。北海道から沖縄まで、何県がいいです。
 
金光:  やっぱりあんまりあっちこっち行っていますけれども、やっぱり自分が生まれた、    私、岡山ですから、岡山県でいいですね。
 
伊藤:  私はそれを皆さんに勧めまして、こういうですね。
 
金光:  来世ですか。「来世の夢」。
 
伊藤:  そういう夢を描いて見ると、「この世は夢の世界だ」と言いますので、それで私もそうなんですが、男で日本人です。だからこういうちょっと上等のノートを一冊用意して、一ページ目に男とこう書いてみるんです。
金光:  ああ、成る程。
 
伊藤:  大きくね。
 
金光:  俺は男に生まれるんだ。生まれる変われると。
 
伊藤:  どっちでもいいというのは拙いですよ。やっぱり男か、女と決める。自分で。今度は男その次はまた女とかね、自由に決めてみる。そうしてその時に日本人と、じゃ日本人と決めてみる。そうして日本人と大きく書いて、これをこう眺めて見ているわけです。そうすると、いろんなことが思い浮かんで来ます。それこそ夢がどんどんどんどん広がるといいますか、さらに細かくして、そして何県。
金光:  そうか。日本人だとすると、今の日本よりも、この次生まれたら、こういう日本にしたいとか、そういうことが出てくるわけですね。
 
伊藤:  そういうこともどんどん、これが書いて見ると存外難しい。
 
金光:  それはそうですね。
 
伊藤:  例えば、父と書いて見て、父は逞しいひとだとか、頼りになる人だとか、こういうことを自分の思いなりに書いて見る。もっと言うと自分のスタイルから自分の顔も自分で描いて見る。母はどうだ。優しい人がいいとか、そういうふうに、いろんなことをノートにだんだんと歳を重ねるに従って、具体的に書いていって、これをこう眺めておりますと、そうすると、「この次があるとか、ないとかじゃなくて、今この生きている、この時が、とても楽しみになって参ります」。これが私は「ボケ防止の大きなヒント」になるんじゃないかなあと。
 
金光:  私が聞いた話ですけれども、刑務所で死刑の宣告を受けていた人が、「その次の世があるんだ」ということを教戒師さんから聞かれて、それまでは非常に暴れたりされていたのが、もう「この世では自分は失敗だった」と。だけど「次の世があるんだったら、その為に生きよう」ということで、それからこうガラッと生活態度が変わって、それで最後に死刑を執行される時も、その所長さんに「一足お先に失礼します」と。「自分は今、この世で生きている、今の生き方を続けて行きます」と。それがもう本当に自然な形で亡くなって行かれたという話を聞いて、非常に感銘深く伺ったことがあるんですけれども、やっぱりそういう目標があると、将来のことではなくて、現在の生き方が変わってくるということなんですね。
 
伊藤:  そうなんです。ですから、そういう厳しい状況に置かれた方、人生を失敗だと思う方も、何の心配も要らないと。もっと言うと、例えば公民館活動で書道を習っている方が、私のこの話を聞きまして、そして一流の先生について書を、今度は「書家になるんだ」と言って、そして一点から習い始めたなんていう方もいるんです。
 
金光:  じゃ、今はもう相当の年齢でも。だから先はそんなにないにしても、次の世のことを考えると、その為に最高の先生のところで勉強をすると。これは意気込みが違って来ますね。
 
伊藤:  そうすると繋がっていくわけです。そうすると、「死は生の初め」という、先程の『荘子』の言葉ではありませんが、もう始まっていくわけですね。「老後の世界というのは、次の生涯の準備で忙しい」。そうなると今日は「生き生きとして、喜びに満ちている世界になるだろう」と思うんです。
 
金光:  確かにその通りだと思いますが、ところが人間というのは儘ならぬもので、やろうと思っている時に、病気になるようなこともあるわけですね。病気になったらどうすればいいんですか。
 
伊藤:  これは病気というものは、私も東洋医学ということでいろんな方々を診察しており、またそういう方々に東洋医学的な施術をしているんですが、やっぱりみんなそれぞれこう歳をとっていくと、身体は不自由になってくる。不自由になってくるけれども、病気は病気として置いてという形で、自分で意気込みでやっていますね。そして私はこれでいいと、そう思ってやっていらっしゃる方は、やっぱり随分いると思うんですね。よくなくてもいいと思っているというのかな。だから私は病気になった時は「しめた」と、「よし来たか」と、「いよいよ本物が来たか」と。先ず「自分がいい」と思ってやって来た。「良くなくともまあこんなとこよ」と思ってやって来た、やって来たけど、いよいよこれは自分の身体というものが、全部が全部一度にやられるということはありませんから、これもむしろ自然ないい姿です。どこか部分がやられて来た。やられて来た時に「来たか」とまず覚悟します。さてこれが、先程の寝る前の「寂静と、静かに座る」と同じように、先ず安静にストーンと寝るのが第一です。そして静かな場所に心と身体をおいて見ますと、そうすると、色んな今までのことが見えて来る。反省すると言いますか。
 
金光:  今までいいと思っていたのが、病気になったということは、どっかちょっと調子が悪かった、狂っていたんだなあという。
 
伊藤:  そうなんです。それが見えてくる。それはだんだん診察していますと、三代くらい前のお爺さん、両親、そして自分という世界、これが伝わっていると思います。それから今度は、「いやあ、あの時も不節制(ふせっせい)したからなあ」という自分だけの反省もあると思うんです。でもここで大きな力になるのはそういうことが分かると、「自分の子供、孫、曾孫の時代に、その悪い部分を引き継がない」。こういう反省の世界があると思うんです。病気のその気の部分ですね。「病んでいる気の部分とか、心の部分、そういう心の中にある小さな頑(かたくな)な部分、そういったものを、次の世代に引きずっていかない世界が、私はそこに出て来るんではないか」とこのように思っております。
 
金光:  でも自分自身の病気がそれで直ぐ治るかと言うと、必ずしもまあ治る場合もあるかも知りませんけれども。
 
伊藤:  ですから、そうでない場合もあるし、そうである場合もある。だからここでまず「覚悟を決める」と言いますか、「自分でもってそれを受け止めていく」のです。そして「ああ、この病気はどうも、これは今度はお終いだぞ」と、そういうふうに、必ず私は思えると思っております。その時には「よし、これで次の始まりが始まるんだ」と覚悟します。でやっぱり、「そういう死を受け止めていく。そして空腹にしていく。絶食にしていくんです」。そうすると、「枯れるように亡くなっていく」。ところが寿命があるうちはまた食べたくなる。また元気がついてくる。ですから、「自然に枯れるように亡くなる」と言うことと、「不老長寿」ということは一つのことなんですね。
 
金光:  はい、はい。そういう自分で、「もうダメだ」と思ったら、本当にダメになる場合もあるわけですけれども、そういう普通だったらダメだと思うような人が、今おっしゃったようなことで座れる、反省するということで、見事に回復したという例もあるわけですか。
 
伊藤:  それはあります。静かにそういう「寂静という世界」に浸っておりますと、「突然ある時にグウーンとなんとこう全身に受けまして、何か嬉しくて嬉しくて涙がポロポロ出てきてしようがない」と。
 
金光:  それも天命を知る一種ですね。
 
伊藤:  これはそうです。当然大きなその天命を知る具体的な例です。そして涙が溢れて溢れてどうしようもないというそういうことがありました。
 
金光:  それでどうなったんですか。
 
伊藤:  枚方にいるお年寄りのお婆さんがそういう体験を得まして、そうして「涙が出てきて、涙が出てきて、どうしようもない」と。「目医者さんに行った」と言うんですね。「一週間通ったけれども、目医者さんは分からない」と言うんです。そうじゃなくて「持っている一生のいろいろな苦労とか、いろいろな積み重ねのものが、全部こう自然の中に融合して、そして感動の世界で涙が出る。何を聞いても、何をしても溢れて溢れてしようがないという。これでぐんぐんと身体が変わって来たんです」。びっくりする程変わって来ました。
 
金光:  良い方に変わったわけですね。勿論。
 
伊藤:  はい。ガンの再発とか、再再発の方でそういう体験を得られたということも本にもありますが、ほんとに「こういう世界ってあるんだなあ」と思いますね。
 
金光:  その方も相当のお歳の方だということですが、そうしますと、老いたからもうダメだということではなくて、老いは老いの、又いろんな観念的に思っている「歳とったらダメだ」とか、そういうことでない生き方というか、人間の力というのはあるわけですね。
 
伊藤:  ありますね。だから「老いてきて、それから増えてくる能力」というのがあると思います。若いうちは気付かなかったんですが、五十を過ぎて、今のような寂静ということでやっておりますと、「老いてきて、老いて増えて来る能力」というもの、これは「命への洞察力」。それは一輪の花をちょっと見る。そして素晴らしい、「ああっ」と、感動していく世界、そしてまた小さな子を見たら、「孫は目の中に入れても痛くない」なんていう言葉がありますけれども、そのように「いのちへの深い洞察力に感動していくという静かな世界。生き生きして静かな世界」を見つめて欲しいです。
 
     老いて増えてくる能力
 
     1.いのちへの洞察力
     2.総合判断力
     3.言語への味わいの深さ
     4.寂静・寂光の力
     5.徳
 
金光:  それは当然自分の命への洞察力ということにもなるわけですね。
 
伊藤:  そういうことですね。
 
金光:  その次は何でしょう。
 
伊藤:  その次はですね。「総合判断力」と私は言っているんですが、人生長い間体験してきて、そういう「静かな世界から沸き上がって来るものはいろいろないい判断、又は創造力」と言ってもいいんです。「素晴らしいお年寄りの智慧というものが沸き上がってくる」と思いますね。ですから七十、八十で大きな活躍をしていらっしゃる方がいる。そして又「一つの言語への味わい」と言いますか、言葉というものに対する味わいを深めていきます。
 
金光:  これは三番目ということですね。
 
伊藤:  そうですね。この一つの言葉を知識の方便として、若い時はとっとと聞いているんですが、一つ一つの言葉を大切に、「ウーン、成る程なあ」というふうに深さ、この時間をやっぱりもって欲しいと思います。
 
金光:  ということは言葉を通して、その見えるものだけじゃなくて、見えないものまで感じる力も出てくると。
 
伊藤:  普通、観世音菩薩の観の部とか、それから聴聞の聴の字とか言いますね。これが見えないものを見る目。聞こえないものを聞く耳という字です。そして又これらのこの一、二、三という三つのもの、「洞察力」、「判断力」、そして「言語への味わい」。これは全部「寂静とか寂光」というものでまとめられます。これを自分の身体で見つめていくのです。「自分で静かに座っているという、静かに何もしていないという力というものは、凄いものがあるんだ」ということが分かると思うんですね。
 
金光:  それで、そして最後は何でしょう。
 
伊藤:  そして、それらによって出来てくるものがお年寄りの「威厳」であるとか、「徳」であるとかです。そういった姿が周りから尊敬を受けていく。そういう敬老と言いますか、年寄りを敬うという風潮がなくなりましたね。何かこう老廃物とか、廃棄物のようなですね、老というと、老害だとか、老醜だとかいわれますが、よくないイメージじゃないんだと。日本の伝統的な姿というものに年寄りは素晴らしい能力を持っているんだという、こういった世界があり、それはみな寂静から見つめていく。つまり死から生を見つめていくということです。そしていきいきした侘びとか、寂の文化まで作り上げた日本の素晴らしいものがある。これと毎日私達が今関わっているというところが安心出来る世界じゃないでしょうか。
 
金光:  そうしますと、今五つの項目に分けて下さいましたけれども、この五つは相互に関係しているもので、それはその歳をとって、ダメだなんということではない、生き生きした世界がそこにあるということでもあるわけでごいざいますね。今日はどうも有り難うございました。
 
伊藤:  有り難うございました。
 
 
     これは、平成九年二月二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。