達磨さんお地蔵さん −わたしの仏画三昧−
 
                           宋吉寺住職  西 川  玄 苔(げんたい)
                         き き て  金 光  寿 郎
 
金光:  愛知県東加茂郡足助町(あすけちょう )。名古屋から東へ四十キロあまり離れた山間に香嵐渓(こうらんけい )の名で知られた景勝の地があります。足助川が巴川(ともえがわ)と合流する付近には、古い町並みや、美しい自然が残り、特に紅葉の名所として、秋には殊の外賑わいを見せます。その香嵐渓を巴川の上流へ四キロ程遡ったところに、竹林禅苑と呼ばれる坐禅の道場があります。名古屋市内にある宋吉寺(そうきちじ)というお寺のご住職西川玄苔さんが空き家となった家を買い取って作ったものです。西川さんは大正十二年のお生まれ。この道場で参禅会が開かれる時には、名古屋から通って来ます。坐禅の指導の他、西川さんのもう一つの楽しみは仏画を描くことです。仏画には絵に相応しい言葉も書き添えられます。参禅道場に隣り合う小さなお部屋で絵を見せて頂きながらお話を伺います。
 

金光:  「何事もなきぞ」達磨さんですね。「何事もなきぞ」というのは。
 
西川  慈雲尊者(じうんそんじゃ)がよくこの言葉を書かれまして、非常に私も好きで。これは面白い話があるんですが、私が達磨を描きまして、「何事もなきぞ」というのを、ある方に上げたんです。そうしたら、女の方でしたが、「家(うち)は事があって仕方がない」と言われましたね。
金光:  次から次へと。
 
西川:  それで、私が「世の中は事ばっかりでしょう」と。しかし本当の宗教の世界は、ずうっと心の一番の奧へ入りますからね。それが「何事もない」世界なんです。それはちょっと仏教の心理学で説明すると、上の方に眼、耳、鼻、舌、身、と言って、眼や耳や鼻や舌、
 
金光:  こう書いて下さっているものがありますので、それをちょっと見ながら。


                          
金光:  これですと。
 
西川:  「眼耳鼻舌身」。これは普通肉体といいますが。
 
金光:  そうですね。
 
西川:  肉体の。
 
金光:  眼で見たり、耳で聞いたり、鼻で嗅いだりということですね。舌で味わったり。
 
西川:  そうそう。これに全部眼識耳識という意識があるんですけれども、その奥にもう一つ第六識と申しまして、普通の意識ですね。これがあるんです。
 
金光:  意識迄で六識ですね。
 
西川:  意識が第六識ですね。これは普通「心」と言っておりますね。これで日常生活をしているわけです。
 
金光:  我々の日常生活は大体あれこれ計算したり、損した、得したなんとかいうのは意識段階ですね。
 
西川:  普通、我々の生活は第五識と六識でやっておるんです。その奥にマナ識というのがあるんですね。これは七識と申しますが、これが自我の意識です。
 
金光:  これは先程までの意識という言葉を使うと、意識出来ることなんですか。
 
西川:  それは奥の方にあって、ここから無意識の世界ですね。マナ識というのは、無意識に自我意識があるんですね。
 
金光:  自分にとって損だとか、これをやったら得だとか、自分中心に考える。
 
西川:  全てのことを自分中心に。で大体我々これは自分だ自分だと思い込んでおるんですね。これは大体マナ識の作用なんです。ここから出て来る奴で現在意識を行っておるんですね。
 
金光:  はい。
 
西川:  それでほとんどやっているので、それでマナ識は自己中心の意識ですから。それでお互いにみんな自我中心で、一人でに動き合っておるわけですね。
 
金光:  そうすると、眼で仮にみた場合に、或いは自分にとって都合がいいとか、都合が悪いとか、咄嗟に判断しますね。そういうのはマナ識の働きであると。
 
西川:  マナ識から出て来る意識で働いているわけですね。ですから、事が起こって当然ですわね。それは全部それぞれの色眼鏡で見たり、感じたりして話しておりますから。
 
金光:  自分は自分でそういうふうに判断する。他の人は他の人で自分中心で判断する。そういうのがぶっつかり合うと、事が起きると。
 
西川:  事が起こるんですね。家庭の中でも社会、国家全部、事が起こって当然なんですわね。しかしそれでは仏教では救えがないわけですね。それが我々の仏教の方では、坐禅したり御念仏申したりする。これは全部坐禅でも三昧(ざんまい)ですね。御念仏でも念仏三昧と申しますがね。三昧の世界に入りますと、ずうっと奥の、もう一つ奥へ行くとアラヤ識というのがあるんですね。蔵(くら)の意識と申しまして、これは目で見たり、耳で聴いたり、或いは心で思ったりすることも、全部この蔵の中に入るんです。
 
金光:  溜めてあるわけですね。
 
西川:  蔵で、これはあらゆる業をそこへ溜めていくというか、それは過去久遠の昔からのことが全部蔵の中に入っている。人間以前の我々が猿だった時とか、或いはいろいろな魚だった時の行ったやつも全部入っているんです。
 
金光:  遺伝子がもっていることが、全部アラヤ識の中に入るわけですね。
 
西川:  我々のアラヤ識の中には、生命の歴史が全部入っているんです。そこから種が出て来て、それでマナ識という自我意識を通過して出て来るんです。これですから、ややこしいわけですわね。
 
金光:  ただ、それは先程お話によると、意識出来ないわけですね。アラヤ識というのは。
 
西川:  アラヤ識までは無意識の世界ですから、奥の方で。だからユング(Carl Gustav Jung:スイスの心理学者・精神医学者)なんかは、「集合的無意識」ということを、この頃の心理学の人は言われるようになりましたですがね。
 
金光:  もう一つ奥もあるわけですか。
 
西川:  そして、ずうっと深く三昧に入る時に、アマラ識という第九意識ですね。これは非常に「自性清浄」と申しまして、澄み切った綺麗なものです。それを私はこういうものを文鎮として使っておるんですが、こういうように無色透明の綺麗なものが、一番奥にあるんです。これは存在の根底にあるんですね。これは人間だけじゃないんです。ありとあらゆるものの存在の根底は、こういう綺麗なアマラ識。それを「法性」とか、或いは「仏性」とか、「仏心」とか申しますですね。
 
金光:  そういう世界は科学の実験みたいに、こうやればこうなるに決まっているというふうに、実験出来るようなことではなくて、昔から仏教を非常に修行を積んだ人なんかが、どう考えても、普通の意識の奥にこういうものがあるに違いないと。そういう体験の世界で、だんだんと、〈こういう世界が確かにあるなあ〉と気付かれた結果がそういう形になっているということでございましょうね。
 
西川:  それが面白いことに、これは非常に分かり易い例があるんです。私は坐禅の会を名古屋の方の宋吉寺(そうきちじ)でやっておりますが、その時に、最近はクーラ入れまして、昔は夏の暑い時は全部開けっ放してやっています。朝早う、六時から開けっ放して坐禅しておる。そうしますと、この頃やらんようになられましたが、近所の人でちょっと歳を食ったお婆さんで、昔、三味線やったことがある、その人が寝れんのでしょうな、朝早う起きて来て、三味線持って来て、「月が出た出た・・・」とやる。
 
金光:  朝早くやるんですか。
 
西川:  こっち坐禅しておるでしょう。何となしにおかしいんです。ずうっと坐禅をしておりますと、何ともなくなって来るんです。三味線の音が初め苦になるんですが、苦にならない。そのうちに普通の通る人の声とか、鳥の声とか、いろんなものの声がなんとも普通になってしまうんです。普通ですと、三味線の音を聞いておると、動揺したり、喜んだりするのに、坐禅自体が三昧ですから、ずうっと三昧(ざんまい)の中に入りますと、全部同じになってしまうんです。
 
金光:  ほうほう。
 
西川:  アマラ識が坐禅をやっている時に現成(げんじょう)してくるんですね。道元禅師はそれを「現(げん)成公案(じょうこうあん)」と言って、ずうっと現成して来るんです。「公案」というのは一番、結局、アマラ識これを言うんです。本当の意味の根元的なものが、上にずうっと、これはやっておればそうなっていっちゃうんですね。坐禅して三昧になるんでなくして、坐禅自体がもう三昧なんです。ずうっとこうアマラ識の第九識が上に出てくる。
 
金光:  そうすると、その場合には人が外で話をしようが、三味線を弾こうが「何事もなきぞ」と。そういうことに繋がるわけでしょうかね。
 
西川:  馬鹿と言われようと、誉められようと、誹られようと、全く無関係の世界。いわゆる自分の一番の根元的な無色透明のものがこう出てくる。その世界が、「何事もなきぞ」。
 
金光:  達磨さんが梁(りょう)の武帝(ぶてい)に聞かれた時、「不識(ふしき)、知らず」とか、「廓然無聖(かくねんむしょう)」とか、「広々として、何にもないんだ」というようなことを言われたというのは、平らな言葉で言うと、「何事もなきぞ」。何も知らんということではないんですね。
 
西川:  「何も知らん」ということでなしに、結局、とらわれない。無関係なんです。そのまま、誉められようが、誹られようが、そんなこと無関係なんです。それが我々の一番の根元的な生命の、それは人間だけではなしに、一切万物が全部そうなんです。一切万物はほとんどアマラ識ですね。こっちの方が余分な自我意識をそう排除しませんから。むしろ無意識的な、これで生きておるから。
 
金光:  全ての存在はそういうところで生かされて、生きているということを、この絵では表現されようとなさったと、そういうことですね。
 
西川:  そういうことです。
 

金光:  今度はお地蔵さんですね。「大いなるお慈悲一つの身となりて 過ごす月日は尊かりけり」と。
 
西川:  これは私は非常に面白いと思いまして。いろんな方に「絵を描く」と言いましたら、「お地蔵さんを描いてくれ」という人は非常に多いんです。
 
金光:  そう。
 
西川:  それだけお地蔵さんというのは、皆さんが非常に求めてみえる。で、お地蔵さんを描きまして感じることは、いろいろな姿で描けるんです。踊っているお地蔵さんとか、それから風呂に入っているお地蔵さんとか、お婆ちゃんを負んぶしたとか、舟漕いでいるとか、どんなお地蔵さんでも描けるんですね。
 
金光:  お地蔵さんはお釈迦さんが亡くなられて、弥勒さんが未来に出てこられる。その途中の仏さんということですね。
西川:  そうです。お釈迦様がとう利天(とうりてん)へ上られて、お釈迦様のお母さんのマヤ夫人に説法された。その時にお地蔵さんが各地にみえるお地蔵さんの分身が全部集まられまして、それで集まられたお地蔵さんが、一つのお地蔵さんになられるんです。そのお地蔵さんの頭を三遍なぜられて、お釈迦様以後の仏は、それから出ないんですが、それから五十六億七千万年後、弥勒仏が出る時代までを無仏の世界。仏のない無仏の世界と言います。その無仏の世界を「お地蔵さんよ、貴方のお力、威人力で娑婆世界、南閻浮提(なんえんぶだい)の人々は非常に剛彊(ごうきょう)の衆生だ」と。「我(が)が非常に強い」と。(註: 「とう利天」の「とう」の漢字は、立心偏に刀と書く)
 
金光:  成る程。
 
西川:  「我が強くて、非常にそれでそれで悩みが深い。迷っているから、えらいけれども、皆を救ってやって貰えんか」と。お地蔵さんは「はい。承知しました」と言って、それで、それからお地蔵さんは、あらゆる変化身(へんげしん)、形を変えまして、それは『地蔵経』の中にもいろんなところに出ているんですが。姿形はあらゆるものに変えて、しかも僧形(そうぎょう)ですね、坊さんの姿している。これは沢山な菩薩の中でお地蔵さんだけです、僧形が。普通の坊さんと間違えてしまう。人間と同じような。本当は何も飾りもなんにもない。それで非常に普通の当たり前の姿をして、何とでも出てくる。だから全国のお地蔵さんには「化粧地蔵」とか、それから「酒飲み地蔵」もあるし、面白いのになると、「愚痴聞き地蔵」どんな愚痴でも聞く。それから入学式の時何か「学問の地蔵」とか、どんな地蔵でもあるんです。
 
金光:  悩める人のどんなところでも姿を現すと。
 
西川:  結局、その人に成りきられるわけですね。それで皆さんが非常に近づいて、それで辻、辻に、「辻地蔵」と立ちまして、まあおそらく、あらゆる仏様の中で、「辻地蔵」や「石地蔵」をいれると、一番多いんじゃないでしょうかね。
 
金光:  そうですね。お地蔵さんは多いんですね。
 
西川:  そんだけ衆生に親しいんですね。ということは、それだけ衆生の悩みの中に飛び込んで、それでそれを救済すると。そこで救済ということを、皆さん方は仏教の救いというものを間違いられるんですけれども。救いというと、貧乏なのはお金を貰えるとか、学校の通らん者は通るとか、これを救いだと思っている。
 
金光:  成績が悪くても合格させて下さい。
 
西川:  それは違うんですね。お地蔵さんの本当の、それは『地蔵本願経』や『十王経』や。『十王経』もお地蔵さんのお経ですけれども、閻魔(えんま)さんが地蔵菩薩の化身ですわね。それを読みますと、『地蔵経』の中にも出ておるんですが、これはマヤ夫人が地蔵菩薩に聞かれるんですが、「衆生の悩みというものはどういうものだ」というと、お地蔵さんが、「それは非常に、その我を中心として、それで勝手気ままなことをやっている」と、「それで十悪道」「五逆十悪罪」になると。「そこから堕ちるところが地獄だ」と言っている。地獄のさまを徹頭徹尾書いてあるんですね。『十王本願経』の中に。
 
金光:  そういうことを書くということと、救うということの関係はどういうことなんでしょうか。
 
西川:  そこは非常に肝心なところで、もう酷い地獄の様(さま)が、例えば、鉄の鷹なんかが目を突くとか、嘘を言っている奴は舌を抜くとか、食べるものは火になって燃えるとか、手を切られちゃうとかね。
 
金光:  よく昔の『地獄図絵』とかありましたね。地獄の話ではよくそういうのがありますね。
 
西川:  それが全部出ておるんです。だからそれはどういうことかと言うと、いわゆる我々は我欲(がよく)ですね。「我(が)を中心として生きているから、こういうふうに苦しむぞ」と。苦しむ姿を。それで『地蔵本願経』でも、『十王経』でも、何時も言われておるのは、「自業自得」だと。「儂(わし)が苦しめわせん」と。閻魔大王でも、鬼でも、「儂がお前を苦しめるんではなしに、お前が蒔いた種で、お前自身が苦しむんだ」ということを説かれるんですね。
 
金光:  そうすると、死んだ後で、地獄でそういう目に遭うという感じにはなっていますけれども、それはこの世のことと繋がっているわけですね。
 
西川:  実はこの世の我々の人間のナマの事実ですね。ナマの事実はそういう苦しみを持って生きているわけです。これは自分のことを言っては申し訳ないんですが、私が軍隊に入っておりました時に、大演習に出るんです。その時に、終戦ちょっと前の軍隊ですから、食料が非常に不足しておるんですね。そうすると、演習に出て、一つの飯盒(はんごう)で四人が食べ合うんです。そうするとその飯盒を火で炊いて、御飯を食べる。それを四人で分け合うんです。
 
金光:  あれは四合から五合位炊けますね。
 
西川:  確か。それをパッと取り合うんです。炊いたヤツを。
 
金光:  平等に分け合うんじゃなくて。
 
西川:  早く欲しいんです。もう非常に腹が空いて。その時、私自身も頭ではそんな〈坊主だから人に譲らなければいかん〉ということは分かっておるんですよ。十分。それが無意識的にパッと出てしまうんです。
 
金光:  はい。
 
西川:  その時に、〈はあ、人間はとことん迄堕ちると我が〉ですね。〈我が身可愛さというものが出て来るもんだなあ〉。いわゆる人間のナマというものは、いくら上手に頭で理解しても、ナマはそういう我が身可愛さのナマの事実が出て来るんですね。
 
金光:  そうしますと、それはマナ識の働きが諸(もろ)に出て来るということですね。
 
西川:  そうそう。マナ識が、マナ識はなくなりませんから。絶対あるんですから。それが諸に出て来て、そしてそれが人間の行動に移るんですね。人間社会には、戦争と平和と申しますけれども、どんだけ平和を叫んでも、戦争、苦しみがあるんです。
 
金光:  その時は食べて、やっぱりお腹がひもじさがなくなると、〈ああ、よかった〉という、それも一種の救いと。それを救いと言ってしまうと、それはお地蔵さんの救いとは。
 
西川:  普通はその程度を救いだと思いますがね。貧乏な人はお金が入るとかね。しかしそれでは結局、この『十王経』に説いてありますし、閻魔大王(えんまだいおう)のところへ行くと浄玻璃(じょうはり)の鏡があるんです。浄玻璃(じょうはり)の鏡に来た人、罪人が、「儂はそう悪いことをやったことはない」と。「こんな酷い鬼にやられる筈はない」ということを言うと、閻魔大王が浄玻璃の鏡に見せるんです。「こういうことをやったろう」。「こういうことを言ったろう」。もう一つ、「こういうことをお前は思ったろう」と。思いが出てくるんです。その思いが明らかに出てくるんですね。そうすると、我を中心して思ったこと、言ったこと、やったこと全部、それは「お前の罪で、それが全部お前のところへかかってくるぞ」ということを、徹底して教えられるんですね。初めて罪人が、〈はあ、そんなに罪が深い。儂は何だ〉と。こうなる。それが救いなんです。それがどうして救いになるかというと、〈本当に儂は悪い奴だったなあ〉という頭が下がるんです。その頭が下がった時に、本当の無色透明の仏心というものの閃きを感ずるんですね。そうしますと、初めて仏様はあるかないか思いませんが、〈本当に悪かった〉と思う時に、仏の存在を、その時に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」、「南無」の一念が出てくる。頼む一念が。〈ああ、私は本当にこうも悪いとは思わなんだのに〉〈はあ、それが思いまで、それが罪の材料〉と説いてあるんですよ。〈お前達は小因大果(しょういんだいか)ということを知らんだろう〉。小さな種が大きく実がなる。柿の実でも種は小さい。しかし繁茂して、こう下がる実がなる。小さな種が大きな実になる。罪もその通りだと。
 
金光:  成る程。因果を小さな原因が大きな結果になると。
 
西川:  ちょっとした思いでも、悪い思い、〈あんなもの死んだらいい〉とか、〈欲しいな〉と思った奴が、種は小さいが、それがそのまま育っていくと、大きな結果になって、それが苦しみになってくるということが説かれているんですね。
 
金光:  お地蔵さんという方は、よく賽の河原で石を積んでいる子供達をして助けて下さるというふうな形で聞いている。普通はそういう形で聞いておりますが、今のお話を聞いておりますと、例えば、阿弥陀仏が救って下さるような、その説き方の内容と非常によく似ていますね。
 
西川:  全く。結局、仏教には「願いの宗教」と、さっき言った「三昧の宗教」と。本当は分けれないいんですよ。
 
金光:  そうですね。
 
西川:  分けれないけれども、一応はその禅の方は「三昧の宗教」。それから浄土系統は「願いの宗教」となっておりますが。結局、「三昧の宗教」は自分自身でずうっと深く入るが、「願いの宗教」は「対話の宗教」ですね、仏と。それは二つあるんです。禅宗でも、それから念仏の方でも念仏三昧がありますね。二つあるんだけれども、特色として、いわゆる黙って三昧に入るのと、仏と対話するというのとありまして、お地蔵さんなんかは、いわゆる「対話の宗教」で、そして罪深さを徹頭徹尾知らされた時に、本当に頭が下がる。「南無」と下がると、〈ああ、悪かった。どうぞ助けて下さい〉という、本当にえらい時は、そうなるんですわ。「溺れるものは藁でも掴む」と言うて、人間とは弱いものですから、本当にえらくなると、〈はあ、どうぞ助けてくれ〉という「南無」の一念が出てくる。その時に初めて、今まで傲慢で生きておった人間が、非常に謙虚な、ほんとに頭の下がった、その頭の下がった時に、不思議に何やら、〈ああ、そうか私は悪い奴だなあ〉となった時に安らかなものが得られるですね。
 
金光:  その時にお地蔵さんが姿を現して下さるという。
 
西川:  そうそう。その時にお地蔵さんをお詣りしている人は、「南無お地蔵さん」とか、阿弥陀さんなら、「南無阿弥陀仏」とか、観音さんなら、「観音様」という奴が出てくる。これが信心の世界、姿ですね。それがこの「大いなるお慈悲一つの身となりて」という。
 
金光:  その「南無」という言葉が出た時に、「お慈悲一つの身に」。
 
西川:  こちらが喜びが出て来るんですね。本当に頭が下がった時に。だからいわゆる本当の懺悔(さんげ)の、徹底して頭が下がらなければ、仏に遇えないです。まだ自分に知恵があるとか、何か自分で能力があるという時に、仏は用事がないんです。しかしそうでない人生のナマは徹頭徹尾酷い目に会うんですわ。あって当たり前ですわ。みんな種を蒔いているから。
 
金光:  そうすると、お地蔵さんという方は優しい方で、いろんな形に姿を変えて助けて下さるということは、何にもしなくても、困っていたらお金を下さったり、直ぐその合格させて下さるというところでの救いではなくて、自分自身、「お前はどういうことをしたか」という、いわば苦しみの根っ子を見つめさして、そこで生き方を気付かせて下さる。
 
金光:  本当に根っ子を気付いて、結局、マナ識です。さっき言った。あらゆるアラヤ識が出てくる種を全部マナ識でやりますから。そして〈はあ、悪いこと〉、しかもそれは今(こん)生(じょう)だけじゃないですね。その種を全部自我で、過去世からのいろんな業をマナ識でやって、そして流転輪廻(るてんりんね)にしていく。その時に頭が下がった時に〈どうぞ〉、結局、マナ識の頭が下がるんです。自我が屈服するんです。自我が屈服した時に、アマラ識、最後の綺麗な奴がすうっと浮かぶ、綺麗な心になる。人間の綺麗な心は、徹頭徹尾頭が下がって、仏様に〈兎に角悪うございました〉と。仏様だけじゃないんですわ。ありとあらゆる人に〈悪かった〉と思った時に、清浄なアマラ識がずうっと出てくる。それが仏に遇った時です。信心獲得(きゃくとく)の時ですね。それを「大いなるお慈悲一つの身となりて」という信心歓喜(しんじんかんぎ)の姿です。過ごす月日は、それで一遍片づくかと言うと、人間はいかんですわ。マナ識があるから。どうしても自我の働きをする。そのたんびに「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、悪かった悪かった、南無阿弥陀仏」と。毎日に懺悔(さんげ)と歓喜(かんぎ)、いわゆる嬉し恥ずかし、恥ずかし嬉しでね。恥ずかしいけど、嬉しい、嬉しいが恥ずかしいという、これが繰り返すんですね。
 
金光:  でも、そこで「お慈悲一つの身となりて」ということに気付くと、お地蔵さんのお顔というのは、何時もしかめ面のお地蔵さんというのはあんまり見たことはありませんが、やっぱり顔が綻(ほころ)びてくる。
 
西川:  喜びの。
 
金光:  有り難いという感じになると。
 
西川:  喜びの姿が出て来ますね。しかしその反面に何時も私はこれをおいて、自分の中にどんなことをやっても、何を言っても何を思っても、全部浄玻璃(じょうはり)の鏡に映るぞよというのが、これを見ていかんと、取り違えてしまうんですね。
 

 
金光:  今度は梅に雪、雪中の梅ということですね。
 
西川:  そうです。
 
金光:  それで「月に添い 花に伴う人心 心の外(ほか)の御法(みのり)ならねば」。慈雲尊者の「忍(にん)の歌」。忍(しのぶ)の忍(にん)ですね。これちょっと歌の意味、難しいようですが、どういうことでしょうか。
 
西川:  これは我々は、月に添いて、お月さんを見て、「いいお月さんだ」と、「いい月だなあ」と。それから欠けたような曇ったようになると、「何だ今日の月は」と、こういうふうに、その月の変化によって、こちらが心が、「ああだ、こうだ」と言います。心も変わります。花でもいい花を見ると、〈ああ、美しいなあ〉と思いますし、散りかけて、枯れかけてくると、〈ああ、哀れだなあ〉という。これは月や花だけでなしに、あらゆるものに対して、我々の心が喜んだり、悲しんだり、腹を立てたり、全部そう動いているわけですね。それが人心(ひとごころ)というんですね。人心というものは一番最初に言いましたように、五識と六識、それにマナ識が入って、「いい」とか、「悪いんだ」とか、「面白い」とか、「楽しい」とか、ばっかり言っているのが、人心ですね。
 
金光:  そうですね。
 
西川:  しかし「心の外(ほか)の御法(みのり)ならねば」という、もっとずうっと奥へいくと、先程申しましたアマラ識の方へいきますと、それは全部「自性清浄」の、本当の心から現れているものなんです。たとえ、マナ識であろうが、アラヤ識であろうが、我々の現在に活躍する意識でも、一番の根元は「自性清浄の心」から出ていると。丁度、上の方の花や枝や実を見て、「ああだ、こうだ」と我々言いますけれども、しかしずうっと奥へいくと、根っ子ですね。根っ子は大地の中にずうっと張りまして、存在の根元に。存在の根元は、先程申しました「自性清浄」の非常に綺麗なものだと。だからそのことが本当に理解出来るのが、これは仏教の方ではこれは「無生法忍(むしょうほうにん)」と言って、無という字に、生ずる。
 
金光:  無という字に、生まれる。
 
西川:  そうですね。法(ほう)の忍(にん)と言って。ただ忍ということは耐え忍(しの)ぶということではなくて、一番の存在の根元のアマラ識の世界ですね。我々の。これは道元禅師では坐禅のことを「自己の正体」と申しますね。「自己の正体」のところへいけば、全部がそのまま〈美しい〉と見ても、〈嫌だなあ〉と見ても、或いは〈面白い〉と見ても、〈腹を立てて〉も、実はそれは全部素晴らしい、本当の本来の心から出ておるものだと。ただ出ているけれども、こういう我々の閻魔さんの浄玻璃の鏡に映ると、〈面白くないな〉と思うと、面白くない色に染まるわけです。〈楽しいなあ〉というと、楽しい色に変化する。本来は綺麗だけれども、綺麗なものを色とりどりに勝手になっちゃうんですね。
 
金光:  そうしますと、人心はそういうものであるけれども、その心の外の御法があるわけではないから、その心の奥をよく見なさいと。
 
西川:  そうそう。それが仏教のいう本当の安心立命(あんじんりゅうみょう)ですね。仏教はそこまでいかせる。どの宗旨でもそうですね。禅だとか、念仏とか、真言とか、元へいけば全部そこへ帰らせる。結局、そこまで行かなきゃ人間の根元的救いはないんです。
 
金光:  そうでないと、頭でマナ識のところから出てくる意識で〈こうかも知れない〉〈こうすればいいんじゃないか〉〈ああではないか〉なんていろいろ考える。考える程こんがらがったり同じことを堂々巡りしたりというような状況が続くわけですが、そこよりも。
 
西川:  もう一つ奥へ行くと一切万物と、天地と同根、万物一体の世界に入っちゃいますから、その世界は永遠であり、絶対であり、無限ですから。
 
金光:  そうすると、同じ心という言葉を使いましても、その場合の心というのは、意識を心と言っているような心とは違うわけでございますね。
 
西川:  違います。この頃の方々はよう生命(せいめい)という言葉を使います。生命でも科学でいう生命ではなくしてね。
 
金光:  いのちとか言う。
 
西川:  いのちでも、宮沢賢治なんか、「無色の透明なるエネルギー」とか言っておりますね。そういうものですね。だから結局、本当の芸術家でも、科学者でも、そういう、私はある本を読んだ時に、「ビッグバン(Big Bang:宇宙創成時の大爆発)以前は無だ」という人もありますね。もっと言うと、「愛だ」と言っておった人があるんですね。私はこれは本当だと思うんです。愛から宇宙が出来てきた。これは神から出てきたと一緒ですわね。それを人生は「仁者寿なり」という。孔子様は、孔子様の教えの元は仁ですから。仁は根元的な愛ですわね。仏教でいう自性清浄心、アマラ識ですわ。そこまで帰らないと、本当の人間の救い、安定というものはないわけです。
 
金光:  仁の人は、仁者は寿(ことぶき)というのは、命長し。というのは、長生きしますよというのでなくて、永遠の生命であると。長命の寿ではないんですね。
 
西川:  丁度、キリスト教でいう永遠の生命と得たという永遠の生命なんです。
 
金光:  そこのところを慈雲尊者は忍という字で表していらっしゃる。
 
西川:  そうです。忍という字で。忍という本当の意味は「無生法忍(むしょうほうにん)」の忍(にん)で、これが本当の忍だぞと。耐え忍ぶのではないと。だから耐え忍ぶということもないんですわね。
 
金光:  自然のそのままの姿であると。しかしそれが人間として生きて、働いている時には、先程のように、〈ああ、すまなかった〉〈ああ、有り難い〉。そういう活動にも繋がるということですね。
 
西川:  そうなると、一番多くの、結局、頭が下がるわけですからね。全てのものに不可思議なものに、不可思議なもので生きておるんですからね。それに頭が下がりますから。そうすると、〈ああ、有り難いな〉。どんなものにも。それであって、自分がポッと腹を立てる時に、〈ああ、すまなんだなあ〉という懺悔が直ぐ起こるんですね。懺悔というものは自分で勝手に悪かったというのじゃなしに、懺悔せしめられるんですね。奥の方の存在の根元から、頭を下げさせられるんです。結局、南無させられるんですね。
 
金光:  一番最初にお書き頂いた達磨さんの場合は、「儂は知らん」というので、懺悔とか、そういうものと関係がないのかと思ったら、そうじゃないわけですか。
 
西川:  そうじゃないですね。これは達磨さんの法門が、「少室法門(しょうしつほうもん)」というのは、達磨さんが少さい部屋というか、「少室」というところで見えたですからね。嵩山(すうざん)の。そこで「少室法門」というのがある。そこの中に、やっぱりその懺悔の怨訴(えんそ)の、報怨行というのがあるんです。これは悪かった、怨み、怨みの世界に対して頭を下げる。恨まれるというのは怨まれるだけの種があるから、それで怨まれるんだと。
 
金光:  達磨さんにそういうのがあるんですか。
 
西川:  大事な法門として出ているんです。
 
金光:  ほう。
 
西川:  「報怨行」と言って。怨訴と、怨で怨む訴えの報を受けるのを報怨行という。それは頭下げる。「どんなことを言われても、頭を下げなさい」と。それは「お前が蒔いた種だから」。それで「甘受しなさい」という言葉があるんです。甘んじてそれを受けなさい。それを達磨さんが説いたんです。
 
金光:  「儂は知らん」じゃないんですね。全然違うわけですね。達磨さんについては、私、以前、玉城康四郎(たまきこうしろう)先生から『洛陽伽藍記(らくようがらんき)』という本がありまして、洛陽のことを書いた本だそうですが、達磨さんが「最晩年に念仏三昧で過ごしている」という、そういう記事があるんだということを伺ったことがあるんですが。
 
西川:  成る程。
 
金光:  一般には禅と念仏は違うというふうに思われていますし、何か達磨さんがお念仏三昧というと、ちょっと何かそぐわないような気がしますが、西川玄苔老師さんはその坐禅をなさりながら、しかも念仏の方とも、随分親しく法を聞かれたということでございますが、禅と念仏との関係はどういうふうに受け取ったらよろしいですか。
 
西川:  これは私自身が坐禅だけやっておりました、最初。しかしそれで非常に坐禅をやっている時はすうっと澄み切るんですよ。これはそれで解決しちゃうんですね。しかし日常生活に入りますと、先程申しました上の「眼、耳、鼻、舌、身、意、意識、マナ識」が非常に活躍するんですよ。これは〈たまらんな〉〈何というなさけないものだ〉と思って、また坐禅に入る。また澄み切るでしょう。また日常に返ると、またぐちゃぐちゃになる。〈これはほんとでないな〉と思いまして、丁度その頃、沢木老師が因幡(いなば)の源左(げんざ)さんという真宗の妙好人(みょうこうにん)の話をされまして、非常に感動しまして、それから私、『妙好人伝』のいろんな本を読まさせて頂いて、そして兎に角、いろんな、それから曽我量深(そがりょうじん)先生とか、金子大栄(だいえい)先生とか、そういうご大徳(だいとく)の本を読まさせて頂くと、一番私が感動したのは、『歎異抄(たんにしょう)』ですが、「地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」という。これは禅の方ではあまり聞かなかったんですよ。しかし、〈ああ、これが日常生活の我(が)のフラフラするんだなあ〉と。これはどうしても、親鸞聖人のご信心を聞かなければいかんなと思いまして、そうして中村久子(ひさこ)という先生に。
 
金光:  両手、両足がない方ですね。
 
西川:  先生のご紹介で、甲斐和里子(かいわりこ)という先生に遇いに行ったんです。いわゆる宗教と人生とが一致しないんです。バラバラなんです。それで甲斐和里子先生のところへ行きましたら、甲斐先生がお念仏の話をされまして、御念仏の話をされた時に、耳が遠いですから、
 
金光:  お幾つくらいの時ですか。
 
西川:  九十二、三の時です。甲斐先生がね。耳が遠いから、私、筆談でいきました。
 
金光:  質問は文字書いて。
 
西川:  「こういうふうに、禅しているが、宗教と人生との組み合わせがいかんから」と言ったら、そうしたらその時、先生がお話しして、お話の中で、途中で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と大きな声で。耳が聞こえないから。それでポッと「南無阿弥陀仏」が移ってしまったんです。
 
金光:  ご本人はそんな大きな声で、お念仏を称えているとは、おそらく意識なさらないで、話の合間に関係なく出るわけですね。
 
西川:  それがパッと移りまして、それから、私は念仏が出るようになっちゃったんです。ひとりでに出るようになったんです。
 
金光:  それまでは、しかし念仏を称えようとか、考えていらっしゃらなかったでしょう。
 
西川:  それまでは、南無観世音菩薩は称えておった。本尊様が観音様だから。で念仏出て、今でも念仏止まりません。それで親鸞聖人のいう「賜りたる信心」。〈はあ、賜ったものだなあ〉ということは、だから阿弥陀様がついて下さったんですね。
 
金光:  その時は、しかし「念仏とはこういうものですよ」とか、「宗教はこう」です。「人生はこうです」なんて、別にそういうお話を。
 
西川:  そこまでは分からなかったんです。
 
金光:  いや、甲斐先生がお話を理路整然と話されたということではないんですね。
 
西川:  ではないんですね。それからその時に『自照(じしょう)』という雑誌を頂きまして、その中に白井成允(しげのぶ)先生の文が出ている。これが何だか私、響いたんです。どうしても白井先生に会いたい、会いたいと。白井先生のところへ行って、いわゆる念仏のお念仏のおいわれお聞きして、罪業深重(ざいごうじんじゅう)に、どうしようもないものに、「南無阿弥陀仏」と働きかけてみえるということを聞きまして、初めて、いわゆる本当にナマにこう、その時に、ちょっと話が長くなりますが、頂く、〈本当に南無阿弥陀仏の時に、全法界が、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・・〉ということを感じましたね。〈南無阿弥陀仏の中に、私は生かされているんだなあ〉という、どうせんでも、即坐禅が、それまでの坐禅は無色透明になろう。綺麗になろう。坐禅を手段にしておったんです。初めてそうなって坐禅をしたら、坐禅自体が三昧だと。三昧になるのではなかったんだと。間違った坐禅をやっておったということも解ったんです。だから全ての法門は、法自体が、法が働いてくるんですね。それだから、全部念仏でも、みな法の働きですから。
 
金光:  甲斐先生の念仏が移ったというのは、それはその法の働きが伝わったということでしょう。
 
西川:  結局、甲斐先生のご信心、ご信心は南無阿弥陀仏、それ自体ですから。南無阿弥陀仏自体が、甲斐先生が南無阿弥陀仏になってみえるからね。ご信心が、主体になってくる。南無阿弥陀仏が凄い響きになって、私の方へ没入して来たんですね。
 
金光:  それと同じようなことが、「坐禅が坐禅をする」みたいなことをよくおっしゃっていたようですが。
 
西川:  坐禅が坐禅する。だから私、沢木老師についておっても、本当の坐禅ではなかったんです。〈何とか無色透明になろう〉〈三昧になろう〉〈何とかしようという坐禅〉。それが初めてほんとのお念仏を頂いてから、〈何だ、このままでよかった〉〈坐禅は坐禅で坐禅すればよかった〉と。本当に只管打坐(しかんたざ)に。求める只管打坐でなく坐禅が坐禅を坐禅している。念仏が念仏を念仏しているという主体が転換したんです。
 
金光:  そういうところで達磨さんという方はこういう、お地蔵さんはこういう働きの方、そういうものを筆と墨で表現しようと。むしろ、そちらの方が描いて下さいという、そういうことになるんでしょうかね。
 
西川:  有り難いことに、描きますと、これは私のへたな画でも法が法を画く。描いたものが説法を行ってくる。法が行ってくるんです。それは有り難いですよ。画が、法が法を説いていて下さる。
 
金光:  どうも今日はありがとうございました。
 
西川:  どうも恐れ入りました。
 
 
     これは、平成九年三月九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」に放映されたものである。