仏法は無名有実
 
                          印 刷 業  田 中  玉 栄(たまえ)
                          き き て  金 光(かなみつ)  寿 郎
                     
金光:  今日は福井県の永平寺町で、印刷業を営んでおいでになります田中玉栄(たまえ)さんにお越し頂いて、「仏法は無名有実」という題で、お話を聞かせて頂きます。どうぞ宜しくお願い致します。田中さんはもう五十年前位に、仏法に関心をお持ちになったということですが、どういうご縁から、そういうことになったのか、先ずその辺のところからお話を聞かせて頂けませんでしょうか。
 
田中:  そうですね。昭和二十一年になると思いますが、数え年ですと十七歳でございました。旧制中学の四年生の時に、肺浸潤(はいしんじゅん)になりまして、それは冬でございましたので、三学期を一学期休みまして、自宅から三十キロ程、山の方へ入りましたところに、大野という町がございまして、そこが母親の里の家がございますので、その伯父さんの紹介で中村さんというお医者さんを紹介して頂いて、栄養剤を打って頂くことになりました。その中村先生の相向かいに釜田恒明(かまだこうみょう)という先生が住んでいらっしゃいまして、中村先生も釜田先生も韓国から引き上げてお出でになっておられまして、中村先生が私を釜田先生に引き合わせて下さったわけでございます。
 
金光:  中村先生はお医者さんで、釜田先生はお坊さんでいらっしゃったわけですか。
 
田中:  そうでございます。釜田先生は後で分かりましたんですが、金子大栄(だいえい)先生のご門下でございまして、その当時は三十歳位のお若い歳頃でございました。その時、私にメモを書いて下さいまして、そのメモには、「何を頼りに生きているのか」「人間とは何か」「永遠と死について」というようなことが書かれてあったと記憶しております。
 
金光:  二十一年と言うと、敗戦直後で、物は乏しいですし、しかも学校を休学されて、何時復学出来るか分からないというようなことになって来ると、ちょっと人生設計、どうなるものかという悩みに直面されたわけですね。
 
田中:  そういうことでございます。それで釜田先生はその時に、「『歎異抄(たんにしょう)』と、金子先生のご本を読むように」と、こうおっしゃって下さいました。それで一週間に一回通院しまして、春になりまして、少し元気になりましたので、また四月から四年に復学しました。学校のほうは去年一遍習ったことですから、そんなに努力しなくとも、ビリのところで付いて行けましたので、残った時間は福井市内の古本屋を回りまして、いろんな人生に関した本を探し出しては読みました。その中で今でも印象に残っておりますのは、『倉田百三(ももぞう)選集』なんかも出ておりましたし、照峰馨山(てるみねけいざん)という方の『転身の一路』とか、清水精一という方の『大地に生きる』というような本もございましたし、『新約聖書』が沢山発売されましたので、それも買って読まして頂きました。その『新約聖書』のことばの中に、「ヨハネのことば」として、
 
     わが後に来たるものは、
     われより勝れたり、
     われより前(さき)にありし故なり
       (『ヨハネ伝福音書』第一章十五節)
 
というようなことばがございまして、
 
金光:  文語体の聖書ですね。
 
田中:  あ、そうでございます、はい。それで後から来るのに先に来ているという不思議なことだなあと、そういう感じがしたものでございます。
 
金光:  その辺の疑問、「後から来た人が、先にありし故」なんていうのは、普通に考えたんじゃ分からないわけですね。これもやっぱり宗教の世界に繋がる表現だと思いますけれども、その時には、直ぐには分からない。また疑問を深めて、いわば道を求められたということですね。
 
田中:  はい。それから金子先生のご本もいろいろ読まして頂きましたけれども、どうしてもいま一つ解りませんでした。私は福井市から三十分程離れた処から、電車通学でございましたので、その電車の中で、時々雲水さんを見かけまして、今私のおります処とは谷間は違いますけれども、別な処の奥のほうに永平寺がございまして、そこの雲水さんが時々電車の中に見られたわけでございますね。それであの人達は何をしているのかと思いまして聞いてみますと、坐禅をしておると。坐禅というものはどういうものか、自分も出来たらして見たいなあと思うようになったわけでございます。けれども、その頃はまだ永平寺には在家者(ざいけもの)を受け容れてくれる施設はございませんでした。そのうちに隣町に松岡町という処がございまして、天竜寺(てんりゅうじ)という寺で同じ系統の曹洞宗のお寺でございますが、そこへ連れて行って下さる方があって、そこへまいりました。そこの方丈さんは細川靠山(こうざん)というお方でございました。それで、「坐禅をしたいと言うても、どこかの小僧にならないと永平寺へは入れないのだ」と言われたものですから、「それじゃここの小僧にして頂けませんか」と、咄嗟に言ってしまったわけでございます。
 
金光:  学校は卒業されているわけですか。その時は。
 
田中:  いえ、まだ在学中でございましたけれども、それが春近くだったものですから、退学届けを出しまして、そしてそこの小僧になったわけで、今から考えますと登校拒否の走りでございました。それでその寺に入りまして、初めはお勤めやら、そういうものを習いましたけれども、天竜寺は松岡町の殿様の菩提所で、その殿様を祀る開基堂がございまして、その開基堂は土蔵で、非常に静かな処で、こっそり覗いて見ると、明かりも程々に入っていますし、真ん中に台がございまして、奥にお像があるだけでございますから、坐るにはもってこいの場所でございました。黙って忍び込んでは坐っておったこともございます。たまたまその年の六月でしたか、福井の大地震がございまして、その日の午後は丁度家族と共に境内の草むしりをしておりましたので、犠牲者は出なかったわけでございますけれども、寺は傾きましたし、その開基堂も、他の土蔵なんかも全部潰れてしまいました。その寺の前に学校がございまして、二、三回揺れたかと思ったら、ドッと倒れて子供さんが沢山亡くなられて、悲惨な思いを致しました。そんなことを目(ま)の当たりに見まして、人間の無常さと言いますか、そういうものをつくづく感じたわけでございます。秋になりまして、お師匠さんが、「小(お)浜(ばま)の発心寺(ほっしんじ)の原田祖岳(そがく)老師のところへ接心(せっしん)に行かないか」と言われましたので、何も知らずに言われた通りに法衣(ころも)一枚で、朝早く出て、午後着いたんですけれども、前の日までに行きました。それから一週間坐禅させて頂いたんですが、坐蒲一つも持って行きませんでしたので、座布団を二つに折って、畳の上に直かに坐るようながむしゃらなものでございました。その時に、二つ印象に残ったことがございまして、一つは原田老師の提唱でございますけれども、『臨済録(りんざいろく)』だったと思いますが、臨済和尚のお弟子に、定(じょう)という雲水さんがおられて、定(さだま)るという字でございますけれども、定さんが先輩の雲水さんに促されて、臨済和尚の処へ「仏法とはどういうものか聞きに行ってみないか」と、誘われたわけでございますね。そうしまして定さんはその通りお師匠さんに質問したわけでございます。そうしたら臨済和尚はいきなり坐っていたところから下りて来て、定さんの胸ぐらを掴んで、ほっぺたを一叩きして、パッと押し倒して、サッと自分の椅子に帰ってしまわれたと。定さんは何が何だか分からないので起きるには起きたんですけれども、呆然と突っ立っておりました。そのところを「佇(ちょ)立(りつ)」と書いてございまして、佇(たたず)み立つと書いてございますが、呆然と立っておったわけですね。そうしたら傍らにおった先輩が「定さん、用事は済んだ。なぜ礼拝(らいはい)しないんですか」と、こう言われたんですね。それで気が付いて、定さんが礼拝したわけでございますけれど、「礼拝するに当たって忽然として大悟(だいご)す」と、こう出てございますので、そこのところを原田老師が提唱なさって、「この佇立というところが大事なんだぞ」と、こうおっしゃいました。それが一つ印象に残りました。それから、一週間目の夜でございましたが、ある居士さんが見性されたということで、原田老師がその方を従えて、堂内を一巡されたわけでございます。その時の居士さんの姿が、合掌しながら頭を低く低く下げて、腰を九十度に折って、頭が上がらないというような感じで最敬礼のような姿で、ずうっとついて行かれましたので、それを見て非常に感動致しました。しかし、私はそういう居士さんの心境は分かりませんでしたので、上げ面して見ておりましたけれども、兎に角、それで一週間が済みまして、正式の掛塔(かた)ではございませんでしたので、一週間が済んで帰って来たわけでございます。
 
金光:  それで地震の後でお寺もそういう形ですと、もう小僧生活を続けられたわけじゃないわけですね。
 
田中:  竹藪に戸板を張って、戸板やら、トタン板で天井を作って、家族の方も住んでおられるような仕末でございましたので、私の居るところもございませんので、又自宅に帰っておりました。たまたま年が明けまして、二月二十日頃だったと思いますけれども、在所にお説教がございまして、誘って下さる方があったので、お参りしました。その時の御講師さんは甚野諦観(じんのたいかん)という先生でございまして、本願寺派の布教使さんでいらっしゃいました。話は解らなかったんですけれども、話が一区切りつきますと、「なんまんだぶつ(南無阿弥陀仏)、なんまんだぶつ(南無阿弥陀仏)」と、力強いお念仏を申されるわけでございます。それで非常に不思議に思いまして、解らない話ですけれども、念仏に惹かれたような形で、午後のお話もお聞きしまして、夜のお話もお伺い致しました。それで夜のお話が済んだのは九時頃でございましょうかね。「ちょっとお訊ねしたいことがありますので」と申し込みましたら、先生が出てこられまして、それで「倉田百三さんの本によりますと、人間は罪を作らなくては生きていけないと、こう書いてございますが」と申しましたら、「その通りだ」とおっしゃって、「ところで、君は善人か、悪人か、どちらかね」とこう言われるんですね。それでちょっと考えまして、善人とも言われず、悪人とも言い切れないし、差し引き悪人かなあ、とこう思いましたもので、「まあ、悪人でございましょう」と、こう言いましたら、「まあとは何事や」と。「善人なら善人、悪人なら悪人に決まっておる」と、こう言われました。そう言われますと、もうこれは悪人に決まってございます。ところが悪人でございますと、頭が下がりませんです。それで行き詰まってしまいまして、他に二言、三言いろいろお訊ねしたんですけれども、結局、回り回って、そこへ問題が落ちて来るものですから、どうしようもなくて、行き詰まってしまいまして、後にはもう押し黙って、座っているだけでございました。まあ、そのうち目を瞑(つむ)って考えるともなしに考えるような時間になりましたですけれども、目を瞑(つむ)って、ジッとしている間に、だんだん目先が真っ暗になりまして、身体は汗ばんで来て、硬直したような形になって来まして、御同行(おどうぎょう)の方が入れ替わり立ち替わりいろいろ話して下さるのですけれども、とても耳に入るようなものではございませんでした。そうこうしておりますうちに、何か大きい声が聞こえたような気がしまして、その時に、後頭部を光の刃(やいば)で切られたような感じがしたかと思いましたら、そのまま我を忘れてバッタリと前につんのめって、倒れてしまったわけでございます。でその後は、申しわけなかった、済まなかったなあという気持ちになって、涙に掻(か)きくれておったわけでございますね。そして、まあ、どれだけ時間が経ったのか、自分には分からなかったのですけれども、落ち着きましたので、そっと目を開けて見ましたところが、自分の周りの畳とか、襖、建具、みな非常に煌(こう)々(こう)と光っておるわけでございます。明るく見えてね。それで不思議なこともあるものだなあと思いつつ静かに立って囲炉裏の方へ行きましたら、御同行(おどうぎょう)の方がまだ居られて、「ああ、気がつきましたか」というような話でございました。それがまあ三時近くでございまして、朝にはちょっと時間がありますので、夜道を帰って一休みして、またお参りしたわけでございますけれども、夜道が少しも暗くないんでございますね。それから、朝のお話にお参りしましたところが、今度は、昨日解らなかった話がすっかり解るわけでございます。そして昨日は後ろの方で聞いておりましたんですけれども、今日は高座の下で聞いておりました。そんなことがありまして、それから先生と一緒に、その先生がいらっしゃるお説教のお家をずっと一緒に付いて廻りました。滋賀県とか、京都府、奈良県、それから先生のお家は愛知県の岡崎にございましたので、その辺りまでもお供させて頂きました。そして秋近くまで、そういうことがございまして、何時までもそうしておるわけにもいきませんので、翌年の春頃から福井新聞の校正部に務めさせて貰うことになりました。勤務しながら、いろんな仏書を読まして頂いたんですけれども、『安心決定鈔(あんじんけつじょうしょう)』なんかは楽しく読まして頂いたものの一つでございます。そのうちに『信者めぐり』という本がございまして、
 
金光:  今も出ておりますね。
 
田中:  三田(さんた)源七さんという方の本でございますが、これに初めのほうでございますけれども、三田青年が美濃のおゆきさんという方を訪ねて、法話を聞かして貰ったけれども、一晩泊めてお話を伺ったんですけれども、解らなかったと。それで明くる日お暇(いとま)をして出掛けたところが、ちょっと呼び返されて、何事かと思って帰って来ましたら、「貴方は今から法を求めて行かれるけれども、これで得たなあと思うものがあったら、その時は親鸞聖人とお別れですよ。元の通りで帰って来られたら、ご誓願通りですよ」とこう書かれてございます。三田青年もその時は何の事か分からなかったけれども、言葉だけ残して下さってあるんですけれども、そこを読みました時に、これはどういうことかなあと思いました。
 
金光:  成る程。そういう「得たと知ったらお別れだという、本来の道がはずれてしまいますよ」と、言われると、これはやっぱり、〈あれ〉と思いますんでしょうね。
 
田中:  自分は安心出来たつもりでいるんだけれども、「それはダメなんだ」と、こう言われたのと同じですから。それがまた悩みになりまして、甚野先生にお手紙を出して、お聞きしたんですけれども、「御文章をしっかり読みなさい」と言われるだけでございまして、御文章の中に直接それに答えて貰えるような箇所も見当たらなくて、非常に心の底にわだかまりとなって残っておりました。そのうちに、知らぬ間に腎臓病になっておりまして、これでまた二年ほど職場を辞めて療養しました。そんなことも重なりましたもので、二度目の死ぬか生きるかと、そんな感じをもったわけでございます。
 
金光:  それが治られて、その後、また禅宗のお坊さん、澤木興道老師にお目にかかっていらっしゃいますね。
 
田中:  療養しておりますうちに、お陰様といいますか、元気になりまして、二十六歳の時でございますか、自分はやはり活字に関する仕事がしたいと思いましたもので、さっきの大野市の伯父さんの世話で印刷店に務めさせて頂くことになりました。それは春でございましたけれども、夏の八月十四、五日頃かと思いますが、何気なく新聞を見ましたところが、大野に澤木興道老師が今年もいらっしゃったということが書かれてございましたので、こんな処に澤木老師がいらっしゃるかなあと、初めは不思議に思いましたんですけれども、ともかくそのお寺に聞いて見ましたところが、「来年もまた来られるよ」ということでございましたので、それは庵寺でございましたけれども、何でもそこの老庵主(あんじゅ)さんが若い時に名古屋の尼学林(にがくりん)に居た時に、澤木老師のお袈裟の講義をお聞きになったそうでございまして、そういうご縁から、北陸を廻られる時に、是非とも、寄って欲しいということで、そこへ寄られるようになったわけでございますね。そして、その夜は別の曹洞宗のお寺でご法話がございました。その翌年、つまり私にしてみますと、数えの二十七歳でございましたけれども、八月十二日に願成寺(がんじょうじ)というお寺で午後に澤木老師に初めてお会いすることが出来まして、その時にさっきの問題がございましたもので、「禅には悟りということを聞いてございますが」と、質問しました。そうしたところが、「悟りはある。しかし悟るとのぼせる。のぼせの下がったのが仏法である」と、こうおっしゃいましたので、成る程と思いました。そして、その晩はお話をお伺いしました。そんなことでもう八月十二日は必ず老師にお会いさせて頂きました。それで二、三年後かと思うんですけれども、その時は「人生は無目的である」というお話をなさいました。「どうあらねばならんと、決まったものはないんだ」と、こうおっしゃいましたですね。それが何故かその言葉が私には良い方に響いたんでございますね。それ以来、今までもっていました問題が無くなったと言いますかね、肩の荷がおりたような気が致しました。
 
金光:  それから、「これで得たと思っていかん」とか、じゃ、「思わないということは、どうすればいいのか」とか、そういうことが全然気にならなくなった。
 
田中:  そうです。そういう問題は全部私のほうから持ち出したものですから。考えて見ますと。私のほうから持ち出したものは悪いことは言うに及ばず、善いことでも善くないんですよね。仏法から見ますと。だから、何を持ち出しても、結局、私ごとですから、仏道というのはそういう私ごとには用事のない世界だからと。そういうことがこの人生無目的という言葉から、私に響いたと言いますか、聞こえて来たんですね。だから、もう持っているまま有りつぶれたような形になりまして、問題にならなくなったわけでございます。
老師のことで思い出がありますのは、ある時、お帰りになる日が非常に雨が降りまして、福井にも水害がございましたけれども、朝ちょっと大野駅に早く着きましたもので、駅長さんが自分の控室へ老師さんを案内されて、休んで頂いておりました。その時に、雨を聞きながら老師さんが、道元禅師のお言葉ですけれども、
 
     仏法において未だあきらめ知らざることの千万ありと雖も、
     なお仏法において一切邪見を起こさざりしを喜ぶ。
     まさにこれ正法によりて、正信をとるなり
         (『御遺言記録』)
 
と、こういう具合に独り言のように呟いておられました。
 
金光:  「正信をとる」とはどういう字を書きますか。
 
田中:  正しい信(しん)、信(まこと)の信(しん)です。
 
金光:  信心(しんじん)の信ですね。
 
田中:  そうでございます。それを八十歳に近い老師が雨を聞いておられながら、私に向かってではないんですけれども、独り言のように呟いておられましたのを聞きまして、私、何となく荘厳なと言いますか、そういう気持ちに打たれたものでございます。それから後は何回か安泰寺にも参禅させて頂きました。務めの身でしたから、長い休暇は頂けませんでしたけれども、三日四日位で毎年休みを頂いて。
 
金光:  最後まで澤木老師がお過ごしになっていた京都の安泰寺でございますね。
 
田中:  そうでございます。晩年は二年程ですかね、お休みになって居られましたですから、もう参ることはございませんでしたけれども。
 
金光:  確か昭和四十年頃、老師さん、お亡くなりになられましたですね。
 
田中:  四十年の十二月に亡くなられましたですね。それから二年程は心寂しい時間がありましたけれども、まあ、返ってそれが今まで教えて頂いたことを振り返って、噛み締めるいい時間でもございました。それから昭和四十二年になってからですかね、三十八になっておりまして、米沢先生を自宅にお訪ねして。
 
金光:  福井に住んでいらっしゃったお医者さんの米沢英雄先生ですね。
 
田中:  そうでございます。米沢先生のお名前は前から聞いてはおったんですけれども、それは二十歳過ぎ位でございました。『若き求道者の手記(長谷川次郎氏)』という本が発行されました。それを福井市のある本屋へ注文致しましたところが、米沢先生もそこへ出入りなされておられたわけですね。それで、「若い人でこんな本を読むのはどなたや」とおっしゃったと言うので、本屋さんが又それを私に聞かして下さいまして、米沢英雄先生という方が福井にいらっしゃるということを聞いてはおりましたですけれども、直接、お会いしましたのは、ずっと後でございまして、それから先生が亡くなられましたのは、平成三年でございましたけれども、その年までずっと出来るだけのご縁を賜って参りました。まあ、講演会も何回か協賛して下さる方があったので、お話の会をさせて頂くことが出来ました。
 
金光:  米沢先生もお若い頃は道元禅師のお書きになったものなんかに関心をもっていらっしゃって、それから親鸞聖人の教えのほうに行かれたとか、私もこの時間にも何回かお話を伺ったことがあるものですから。確かそんなことをおっしゃっていらっしゃったと思いますが。
 
田中:  まあ、そういうことで米沢先生が亡くなられましてからは、現在は最初にお会いさせて頂きました釜田恒明先生が月に一回福井県の金津(かなづ)という町にお話会に来てお出でになりますので、そこへお伺いして先生のお話を承っている次第でございますけれども。
 
金光:  今のお話をザッと聞かして頂いたところから考えますと、随分長い間、いろんな昔の方のお書きになったもの、或いはいろんな方の話されたこと、そういうのを克明に自分の歩まれた道に照らし合わせてと言いますか、ご自分の味わいだけじゃなくて、そこの世界をもっといろんな形で述べられていることに関心を持って、これまで、それこそ五十年歩んで来られたわけでございますが、これから少しご自分の歩まれた道と似たような、そういう言葉、感銘を受けられたような言葉、そういう言葉を紹介して頂きながら、改めてお話を少し伺いたいと思います。最初にご用意頂いたのが、道元禅師の、『正法眼蔵』の「唯仏与仏」の中からですね、
 
     みずからをしらん事をもとむるは、
     いけるもののさだまれる心なり。
         (『正法眼蔵』唯仏与仏)
 
これはいつ頃お読みになったんですか。
 
田中:  『正法眼蔵』は中年になってから、解らないなりに読まして頂きまして、特に、「唯仏与仏」とか、「生死」の巻というのは和文でございますので、解らんなりに読まして貰いました。その中の一節でございまして、誰でも自分自身を探す為に生まれて来たと言うんでしょうかね。それが解らないので、或いは出世して見たり、或いは財産を溜めて見たりとか、権力に取り付いて見たりとか、家庭を持って見たりとか、そういうことをみな、私も同じでございますけれども、そういう道を辿っておりますけれども、それは要するに、道草でございまして、その底にみな自分自身を求めているわけでございますね。何故そういうことが言えるかと申しますと、「自分自身に会うまでは、ほんとに人間は落ち着くことが出来ないように出来ているんだ」と、米沢先生もそうおっしゃっておられましたし、お釈迦様が出家されたのはそれが証拠であると。お釈迦様は富も権力も家庭も、これなしというものなかった方でございますけれども、それでも尚、心に満たされないものがあった。それは何であるかと言うと、本当の自分というものは何であったかということ、そういう問題であったろうと、そういうことでございますので、道元禅師のこの言葉を読みました時に、ああ、道元禅師もやはり同じことであったのかなあと思って、何か近く感ずるようになったわけでございます。
 
金光:  道元禅師は七百年位昔の方でございますが、現代でも私達と同じ空気を吸っていらっしゃった同じ時代の方でも、その辺のところを表現されている方があちこちにいらっしゃるわけですが、次はそれでは陶芸の河井寛次郎(かんじろう)先生の言葉ですね、
 
     此世は自分をさがしに来たところ、
     此世は自分を見に来たところ
        (河井寛次郎・『いのちの窓』)
 
田中:  これもさっきの道元さんの世界と同じことをおっしゃっておられるのだろうと思います。先程、申しましたように、「自分が自分に出会うまでは本当に落ち着くことは出来ないんだ」と、米沢先生がおっしゃいましたように、そういうことであれば、自分の姿はどういうものであったか。これであったと、そういうことでもございませんですけれども、その辺りはまた別の問題がございますけれども、
 
金光:  そうですね。その美濃のおゆきさんじゃございませんけれども、自分はこういうものだと思って、これでいいと思ったら、もう少しおかしくなるみたいなところがあるということでございますか。
 
田中:  そういうことですけれども、兎に角、納まるところはそういうところであるわけですね。
 
金光:  それがそういうふうに自分を探して、自分を見ることが出来るというところからですね、一番若い頃、新約聖書の言葉で引っかかっていらっしゃいましたね。
 
     わが後に来る者は、われより勝れたり
     われより前(さき)にありし故なり
        (『ヨハネ伝福音書』第一章十五節)
 
という『ヨハネ伝福音書』の冒頭のほうにある言葉ですね。これはどういうふうに受け取っていらっしゃいますか。
 
田中:  これは聖書の言葉ですから、聖書のほうではご専門の解釈があられるわけでしょうけれども、私がいま単純に思いますのは、要するに、私の思いよりも先に手垢の付かない事実があると、こういうことだと思います。
 
金光:  これはおそらくイエスキリストのことを述べられているということで、普通はキリストという方は神の御子(みこ)であって、それが人間イエスとして、姿を現されているという、そのイエス様が間もなくいらっしゃるという、それをふまえての言葉というのが普通の解釈でないかと思うんでございますね。
 
田中:  そういうことでございますね。私、大野におりました時に高崎東源(とうげん)という和尚さんがおられまして、その方のお師匠さんが井上義衍(ぎえん)老師という方でございました。高崎和尚さんが非常に私を可愛がって下さって、ある時、井上老師がその寺へ寄られたことがございまして、私を暫くの時間でしたけれども、老師さんに引き合わせて下さいました。その時に、老師さんが、「私は一つことしか知らないのだ」とおっしゃいまして、こういう具合に、パンと手を叩かれて、「これで仏法は済んでおる」と、こうおっしゃいました。〈はて?〉と思いましたですね。しかし、考えて見ますと、対面する時に、もう既に老師はそこにいらっしゃるし、手を叩けば音が出るような仕掛けがありますわね。音が出れば聞こえる耳がこちらにありますね。こういう働きと言いますか、そういうものは人間の作ったものではございません。何時そういう場面が、どこで出来るかも分かりませんし、こういうところを手垢の付かない事実と、こう申すわけでございます。それを記録として取って置くことも出来ませんよね。記憶は残りますけれども。だから、思いというものはありますけれども、思いの先にいきなり手垢の付かない事実があると。これはその時ばかりでなくて、万事今もその通りでございます。だから、これをいま読んでみますと、やはり私の思いの先に、常に手垢の付かない、知って知らない事実があると。そういう具合に私には思えるわけでございます。
 
金光:  その辺のところになりますと、いろんな昔の方の記録、或いはそのエピソードの中に随分出ているようでございまして、次に選んで頂いたのは、
 
     一撃(いちげき)に所知(しょち)を忘(ぼう)じ
     更に修治(しゅうじ)を仮(か)らず
        (香厳智閑(きょうげんちかん))
 
という香厳智閑という有名な「香厳撃竹」という、お掃除している時に石が竹に当たって、その時に気付かれたという有名なエピソードでございますが、これは文字としては、どういうふうにとればよろしいでしょうか。
 
田中:  私達の常識というのは、生まれてから後にと言いますか、付いたものでございますね。私は単純に〈ものごころ〉と言うておりますんですけれども、生まれた時は自分が生まれたとも、自分は男であるとも、女であるとも何とも意識しませんですね。「不知もっとも親切」という言葉もございまして、知らないということが一番いいことである、本当だと、こういう言葉でございますね。しかし一旦知った以上、知ったというところの根がどこかで切れないと、未だ知らざる世界の素顔を垣間見ることが出来ないという悲しい存在でございますから、それで何かのきっかけでものごころが切れますと、そのものごころ以前の知らざる体(てい)の、つまり手垢の付かない事実がパッと開けるわけでございますね。そのところを智閑(ちかん)禅師が、
 
     一撃(いちげき)に所知(しょち)を忘(ぼう)じ
     更に修治(しゅうじ)を仮(か)らず
        (香厳智閑(きょうげんちかん))
 
所知というのがものごころでございまして、それが根切れすると、後は足し前することも要らないし、差し引くことも要らないし、丁度丁度の世界が広がっていると。元からある世界でございますから、そういうことでございまして、「必要にして充分」という言葉もございますが、そういう世界でございましょうね。これは誰でも簡単に出来ると言えば、出来るものでございまして、さっき私がダブった学年のことを話ましたけれども、二度目は楽でございますね。最初やったことを覚えているわけですから、誰でも知らざる世界から、生まれて来ているわけでございますので、生まれた時は何も知らない。その世界を知るだけですから、誰でも出来るわけでございまして、誰でも簡単に分かる筈のものでございますから、別に転機だなんと言いましても、難しいものではございませんので、そのように思います。
 
金光:  確かにおっしゃる通りなんでしょうけれども、さてそれではなんて考えると、難しくなるところがあるようでございますが、これはやっぱりキリスト教とか、仏教とか、仏教だけということでもないようでございますね。次に選んで頂いたのは中世のエックハルトという人の言葉ですね。
 
     神すら見失われた
     ところに神はまします
        (エックハルト)
 
田中:  これはさっきの香厳さんの詩と同じでございましょう。これは若い時に、ダイジェスト版を読んだだけでございますが、西洋の方でもこういう世界をやはり見た方がいらっしゃるんだなあと思って、非常に印象に残っておりましたです。
 
金光:  自分が居て、神様がいらっしゃって、造物主で、その方が操り人形じゃないんですけれども、人形を操っているみたいなところの話とは違うということですね。
 
田中:  そうですね。まあ、普通は向こうに何かがあり、こちらにわれがあるというのでございますが、こちらにわれがないというのが、元々でございますので、向こうにもものがないのが当然でございますね。そういうことを見た人が西洋の人の中にもおったということで、何か共感を感ずるものがございました。
 
金光:  その辺のところの表現というのはいろんな形で出て来るわけでございますが、次に選んで下さったのは藤原正遠(しょうおん)さんの歌ですね、
 
     煩悩をわがものとする卑下慢(ひげまん)に
       永(なが)くとどまりみ仏を見ず
          (藤原正遠)
 
これはどういうことなんでございましょうか。
 
田中:  これは真宗のお方は何時も聞いている言葉でございますが、煩悩とか、無明(むみょう)とか、そういうものは全部私(わたし)持ち。それから、知慧とか、光明は向こう持ちと。
 
金光:  仏様のものだと。
 
田中:  そうです。そういう具合に二つに分けて見るわけですね。それが習慣になっておりますので、その習慣がある間は一体にならないと言いますか、安心が出来ないわけでございますので、藤原先生も長いこと、そういうことであったと、この歌でおっしゃっておられますので。持ち物と言えば、全部向こう持ちであったということで、こういう歌が創られたんだろうと思いますですね。
 
金光:  そうすると、人間が、自分が何かを思って、善いとか悪いとか思っているのは、全部手垢でありますと。先程の言葉を拝借すると、その手垢の付かない世界が全部、本来は手垢の付かない世界であると、そういうことにもなるわけでございましょうね。
 
田中:  そうでございますね。向こうから見たら、全部光明でございますので、人間が卑下を起こして、自分可愛いと言いますか、自分正しいとか、そういうものが自分をガードしているわけですけれども、そういう癖は生まれてから、後に付いたものですから。生まれる時にはと、申してもいいのですが、生まれる先でもいいんですけれども、そういうようなものは一切なかったということでございますから、光が生まれているわけでございますね。だからそのことに藤原正遠さんも漸く気が付かれたと。その時のことをお書きになっているんだと思いますね。
 
金光:  いま向こうからとか、或いはこちら側とかという言葉をお使いになりましたけれども、しかしそこのところの言葉も非常に解釈によると、人間的につい考えてしまうようなところもあるわけですけれども、次に選んで下さったのは、
 
     見ルヤ君
     問ヒモ 答ヘモ
     絶ユル世ノ
     輝キヲ
       (柳 宗悦(むねよし))
 
柳宗悦先生の偈ですね。これはどういうことでございましょう。
 
田中:  柳宗悦先生は富山県の城端町(じょうはなちょう)の城端別院と言いますか、善徳寺(ぜんとくじ)に暫く滞在されたことがございまして、ある朝、本堂のお勤めに出られて、『大(だい)無量(むりょう)壽経(じゅきょう)』を開かれたところが、『大無量壽経』には如来の誓いと言いますか、真(まこと)が書かれてございます。ずうっと読んでいかれたところが、四つ目の願いの願文を読まれた時に、「ハタと思い当たるところがあった」と、こう書かれてございます。ハタと思い当たるところの、その時のことが、問いも答えも必要でなくなって、消えてしまった世界だと。そういう私のほうから出たものが消えてしまえば、後は向こうからの輝きばかりでございますので、「そういう世界をあなたも見られたか」と、こういう具合にこうおっしゃっておられるわけでございます。素晴らしい世界があるよと、そういうことでございますね。
 
金光:  そうですね。「見ルヤ君」というのは、「貴方も見られたか」と、そういうことなんでしょうね。それから、そこのところと後はみんな同じような消息になるわけですけれども。次は、
 
     廻心(えしん)(一念発起)は
     案内板の現在地
 
これはどなたの言葉なんでございますか。
 
田中:  これは最近フッと思ったことでございまして。
 
金光:  案内板には現在地とかありますね。
 
田中:  そうでございますね。
 
金光:  それが無いと何が何やら役に立たないところがあります。
 
田中:  単なる図面でございまして、役に立たないわけですね。案内板の現在地と、今現に見ている周辺の、何と言いますか状況を照らし合わせて見ると、図面の中の町並みが立体的に見えて来るわけでございますね。そうしますと、もう安心して町中へ入っていけるわけでございます。先が見えないとオドオドするわけでございますね。町中へ一歩踏み込んで行きますと、もはや現在地には用がないわけでございまして、後は町の風景の目に映るままに進んで行けばいいわけでございますね。
 
金光:  そうしますと、言葉を換えると、先程からのお話で自分というものが分かると、そこで安心して歩いて行けると、そういうことにもなるわけですね。
 
田中:  そういうことですね。庄松(しょうまつ)さんの言葉ですけれども、真宗の方でしたから、一念発起ということを、
 
     一念はあって困る。
     無ければならん
        (庄松)    
 
と、こうおっしゃったと言うんですね。「あって困る」というのは、また一つのポイントでございますけれどもね。
 
金光:  その辺、またこう違った表現があるわけですが、面白いのはですね、
 
     金屑(きんせつ)、珍宝なりといえども
       目に在りては病となる
          (興善惟寛(こうぜんいかん))
 
という方の言葉ということですが、非常にいい言葉でも使い方によっては誤解を生むことにもなるわけでしょうし、この場合は。
 
田中:  金粉というのは、この場合、安心出来たとか、分かったとか、知ったとかというようなことでございましょうね。金粉でも目に入るとゴミというのと同じですね。知った、分かった、安心出来た、喜んだというようなことを宗教の世界では結構なものとされておりますけれども、そういうものも結局は、私持ちでございまして、善いことも流れるけれども、悪いことも常に流れているということであれば、安心も流れるわけでございます。悟りも流れるわけでございますね。そんなことで残るものがあるなら、どうもそれはほんとうじゃないという、そういう感じでございますね。
 
金光:  今の言葉も面白い言葉ですが、次の言葉も非常に面白い言葉で、澤木興道老師の言葉ですが、
 
     道は無名有実
     世間は有名無実
      (澤木興道)
 
有名無実とよく言いますけれども、仏道というものは無名有実であると。今日の題名もこの言葉を拝借して、「仏法は無名有実」ということにさせて頂いておりますが。
 
田中:  これは澤木老師ばかりでなくて、聖徳太子のお言葉もございますが、「形あるものに本物はない」と、老師もおっしゃいましたけれども、別にそういうことばかりでもないんですけれども、これと言うて名の付いたもの、名付けたものは自分がこう握っているわけですから、そういうことでは流れている姿ではないということでございますので、本来は「如来は一文不知」であるという言葉もございますが、知らないというところが一番無事なんでございますね。だからそういうことを老師さんもおっしゃっておられたんだろうと思うのでございます。
 
金光:  道は無名有実、世間は有名無実というのは、言い得て妙というところが、澤木興道老師らしい表現だと思いますが、でも人間というのはともすれば何とかこう掴みたいとか、これさえあれば安心と言うか、その形のあるものにそれを握りたいというところがあるわけで、そこのところをよく気を付けなさいよと言われたことだろうと思います。
 
田中:  そうでございますね。
 
金光:  いろいろまだ長い間の印象に残ったお言葉があると思いますが、今日はこの辺で、どうも有り難うございました。
 
田中:  どうも。
 
 
     これは、平成九年六月一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。