逆境をあるがままに生きるー中村久子と歎異抄ー    
 
                       出演 高山市真蓮寺住職 三 島  多 聞(たもん)
                                        中 村  富 子
                                        重 山  文 子
                       き き て           亀 井  鑛(ひろし)
                                    (『同朋新聞』編集委員)
 
ナレーター: 岐阜県高山市、飛騨の小京都と呼ばれる美しい街です。江戸時代に天領(てんりょう)として栄えた高山は、今でも古い街並みを残しています。飛騨地方は真宗どころとも言われ、昔から熱心な信者が多いことで知られています。高山の街には篤い信仰を集める高山別院を初め、数多くの寺院が建ち並んでいます。中村久子(ひさこ)はこの町に生まれ、重い身体の障害を乗り越えて、念仏者としての人生を送った女性です。明治三十年、畳職人の家に生まれた久子は、三歳の時、足の霜焼けが元で、突発性脱疽(だっそ)という病気に罹り、両手両足を失いました。そんな境遇の中で、母、あやが久子を厳しく躾けました。何事も自分で出来るように努力を続けた久子は、やがて一人立ちしたいと願うようになり、二十歳の時、見世物小屋の芸人として働き始めたのです。
 

 
中村久子: 手足が無うても、生かされている以上は、働いていこうというのが、私の願いでございました。とうとう見世物小屋に入ることに決心しました。働くということは何時の時代にも、どんな仕事でも、どんな汚い、人の厭がる仕事でも、働くことが、本当に神聖である。立派なもの、私はそう思いました。見世物小屋で二十三年働いてきたということが、嘘も隠しもなし、そう思いました時、厳しかった母、恐(こわ)かった母こそは、私の為には観世音菩薩であり、如来様の化身(けしん)だったとしての母を思わせて頂くことが出来たのでございます。今は、子供は二人生み育てさせて頂きました。子供を育てさせて頂いたのも親のお陰様、そう思いますと、逆境こそは本当に私の恩寵(おんちょう)だったのでございます。
(昭和四十年、愛知県勝川公民館での講演より)                                

 
ナレーター: 障害者に対する周囲の冷たい視線の中で、それに負けず、人間として生きたいと願う久子は、裁縫、掃除、炊事など、短い手足と口を使って、何でもこなせるようになりました。自立の技を身につけさせる為に、厳しく躾けてくれた母。晩年の久子は母への感謝の気持ちを、さまざまな機会に語り続け、昭和四十三年、七十二歳で亡くなりました。
 

 
亀井:  今年は中村久子さんの生誕百年という年に当たるそうでございまして、地元の高山でもいろいろ催しやら、企画が出ておるということでございますが、中村久子さんという方のご生涯、次女でいらっしゃる富子さんから、いろいろ生前のお母さんを通しての、ご薫陶(くんとう)と申しますか、お話をいろいろ承(うけたまわ)らせて頂きたいと思って、今日はこういう時間を頂いたわけでございますが。
中村:  ありがとうございます。私にとって、母というのは友達でもあり、親でもあり、なんだかんだかわけの分からないと言うんですか、非常に厳しい人でしたけれどね。
 
亀井:  成る程。
 
中村:  自分に凄く厳しかったですね。
 
亀井:  自分にも厳しい。
 
中村:  自分に厳しかったですね。私はとても自分にあんな厳しさは、とてもとても出来ませんですけれどね。何一つするについても、非常に厳しい。だから、手足が無かったせいですかね。いろんなことにこう細かく心配りが出来る人でしたね。私なんかやはり手足があるものはついつい取るものでも、置くものでも、スッスッと出来ますからね。それを母は元の元、取ったら元の場所へきちんと納めること、五月蠅(うるさ)く言われましてね。それと同時に、母は私に願ったことは、「母さんがあなたにものを頼む時は、母さんに出来ないことを頼むんだから、心からちゃんとして欲しい」と言われたんですよね。それは頭では分かっている。でも態度にはなかなか現せなくて、ついついいい加減なことをしてしまって、後で、しまったと思うことが多かったですけどね。
 
亀井:  そのことは私達の場合でも、人からものを頼まれる時には、相手の人が出来ないことを頼むんだから、そのことに対して誠実に応えていかなくてはならないんだよということを、お母さんは教えて下さったということにもなりますね。
 
中村:  それで自分が学校へ一日も行かなかった為に、学校というものに憧れもあったんでしょうかね。それと同時に、勉強を私達にさせたい。小学校だけは、せめてちゃんと行って欲しいという願いがありましたしね。「母さんの先生は本ですよ」と、よく言いましたね。とても本を大事にしましたね。
 
亀井:  成る程。
 
中村:  私は本を粗末にすると、凄く叱られましたし、母はいい本がありますと、必ずお金が許す限り二、三冊求めましたね。同じ本を。一冊は自分の手許に置いて置く。一冊は私達に与えてくれる。後の一冊は皆さんに回覧して頂くと。少なくとも三冊は必要だった。無い時は二冊。そして、送ってこられて、私なんかでも見ながら、「ああ、こんな本送って来た」なんて、パッと目を通しますよね。感銘しないことってありますでしょう。
 
亀井:  そうですね。
 
中村:  いくら、母が勧めてくれたけど、こんな本、何にも感銘しない。なんでと思う。そうすると、暫く経つと、その本を読み返した時に、何故この時に、こんな素晴らしいことがあったのかと思いますでしょう。母がよくね、「本の出会いも人の出会いも同じだ」と申しましたね。人の出会いなんかでも、何十年会って、「今日は」「さようなら」で通る人。たった二秒か三秒でも、火花の散るような心の触れ合いのある方ね。だから、「本というものはね、大切にしなさいよ」と、よく言いましたですね。母はやっぱり、「その日のことはその日のうちに片づけること。何時死ぬか、命が終わるか分からない」。「死ぬ」とは言いませんでしたけど、命が終わるか分からないので、出来るだけのことはしようということでしたけどね。私はとてもダメでしたけどね。一回だけあるんですよ。私自身ね。ある方が、「前の『こころの手足』(昭和四十六年、中村久子没後出版)は字が小さくて読みにくいね」「歳を取ってくると」なんて言います。「今は大きくなりました」と言うたら、「そうですか。読みやすくなりましたか」とおっしゃったので、「じゃ、送りお届けします」と言ったんですけど、なかなか一日二日お届けすること出来なくて、そして、三日目に入った時に、ああ、そうだ、母がその日のことは、と思い出しまして、そのご住職に新しい『こころの手足』の改装版をお送りしたんですよ。そうしたら、喜ばれましてね。お手紙下さって、「とても読みやすくなって有り難かった」。それから、一週間経って、お亡くなりになったんですよ。私、その時本当に良かった、お送りさせて頂いて。母のその言葉がなかったら、まあ、いいわ。いいわでね。高山の内だから、お目にかかることがあるから、持っていけば宜しいわ、というような、自分でも気安さがありましたけど、フッとなんとなく思って、送らなければってね。お送りして良かった。その本を差し上げずに、もしもお亡くなりになったら、
 
亀井:  お母さんがおっしゃった、「何時命が終わるか分からないから」ということが、如実にそこに出て来たわけですね。厳しさ、自分に対する厳しさ。まさにそれを実践していらっしゃったお方ですね。
 
中村:  だから、私なんかはしょっちゅう叱られておりましたしね。
 
亀井:  そうですか。
 
中村:  でも、みんな「ようあんなに叱られて、お母さんそんなに恋しいかな」と言うくらいね、叱られたんですけどね。叱りやすかったのかなあ、と思うんですよ。でも、友達がね、「羨ましい」と言っておりましたね。叱られるということがね。
 
亀井:  成る程ね。
 
中村:  やはり私、母のことで、母が編み物で、鉤針ばっかりですので、「棒針で編んだ軽いチョッキが欲しい」ということで、私編み物が好きだったものですから、チョッキを編んで上げたんです。そうしたら、怒られましてね。「着にくいです。直して下さい」。直して、また送った。その時も、「まだ着にくい。もう一度」。二度送り返された。三度送ったんですよ。三度目も返されたんですよ。
 
亀井:  そうですか。
 
中村:  その時にもの凄い立腹の手紙なんですよ。「こんな着にくいチョッキは要りません。貴方には相手の人のことを思って編むという心がない」と言われましたの。凄い厳しい叱り方で。「もう編んでくれなくても結構です」と言われて。あんまり凄まじい怒り方なもんで、私はその手紙見てね、アッケラカンとして、呆れたと言うんですか。そうしたら、こっちも意地になって、それなら、母の気に入るようなチョッキをなんとしても編むと思ってね、本格的に考えましたね。いろいろとね。母はこうやって仕事をするもんですから、この袖刳(くり)が大きくないとダメなんですね。自分の合わせてこうやってみて、そして、いろいろ考えて編みまして、それを送りまして、最後送った時に、四回目の時に、母は初めて礼を言ってくれました。
 
亀井:  ほう。今の編み直したのを頂いたんで。
 
中村:  はい。「有り難う」と言って、「何度も何度も編み直させて、ほんとに今度のは着やすくて、心を込めて相手の身を思い計って、編んでくれた」と。「貴方に厳しく言ったのは、人に物を差し上げる時、ものをして上げる時、相手の方が何を望んでいるか。何が一番大切かということを知って欲しかった」と。
 
亀井:  そういうところにお母さんの。
 
中村:  「有り難う」と言ってね。
 
亀井:  教育者としての。
 
中村:  教育者なんて。私、それ見て、良かったと思いましてね。死ぬまでそのチョッキ着てくれました。だから、人様に今でも物を差し上げる時とか、何かする時は相手のことを考えてしなければいけないなあと。
 
亀井:  そういうところに娘さんの富子さんとお母さんとの、ほんとに心と心の触れ合いが、裸同士の付き合いと言いますか、親子の心の通い合いがあるような感じが致します。
 

 
ナレーター: 昭和四十年九月五日、久子は母の恩を尊ぶ為、飛騨国分寺の境内に母の愛を表す悲母観音像を建立して、開眼法要を営みました。久子は幼い頃から厳しかった母に、成人した後も母としての愛を感じることが出来ませんでした。しかし、一人の女性との出会いは、母の自分に対する本当の愛に気付かせるきっかけになったのです。
 

 
亀井:  お母さんが晩年に悲母観音を国分寺の境内にお建てになった。
 
中村:  あれは母にとっては、母親というものは恐い人でしたね。懐かしくもなんでもなかった。成る可くなら離れていたい。そういう母親だったのが、座古(ざこ)先生(明治十一年神戸に生まれる。十八歳の時、リウマチに罹り重度障害者となる。キリスト教徒となり、神戸女学院購買部で働きながら自立する。その生き方は中村久子さんに感動を与えた)にお目にかかったり、いろいろなことがあって、親の有り難さ。座古先生の特に寝たきりの生活の中でも、私をこれまで生んで、この歳まで生かさせて頂いたのは、親が育てて下さったからだ。その思いを語られたことが、大きく母を転換させました。それから、その日から、母は母親というものは、この世で一番懐かしく大事な人に思いまして、自分の間違った母親の思いが消えたんですね。そのお話を、昭和三十七年に、NHKで三回に亘って放送しました。
 
亀井:  ラジオで。
 
中村:  はい。全国から、「素晴らしいお母様ですね。そのお母様の為にせめてお花の一輪でも、お線香の一本でも」と言って、浄財が寄せられましてね。それをずっと貯めておりまして、何に使おうかなあということで、自分の印税だの、講演料を割きまして、いろいろ考えた揚げ句、観音様を、悲母観音を、母の心をその中にしてということで、真蓮寺の先代に、お願いしてあの悲母観音を建立したんですけどね。中には、「自分の母を観音様に祀るなんて」「人に拝ませるなんて」というようなお叱りも受けましたし、「思い上がりも甚だしい」と言われたんです。母の心は決してそうじゃなくて、
 
亀井:  そうじゃないんですね。
 
中村:  世の中の母の心を、その観音様に、中に込めて、皆さんに、皆さんの母を偲んで欲しいという思いで造ったんですよね。
 
亀井:  やはり、私達は一番母親、親と言っても、特に母親を通して、何か自分というものが照らされる。自分というものを知らされる。自分の得手勝手さとか、自分中心さというものを知らされるということが、母を通して実感されるということはございますね。そういう意味で、母親を仰ぐ。母を仰ぐということは、私達にとっても大切なことだということでございましょうね。
 
中村:  でも、母はそれから、あと三年、足掛け三年目に亡くなりました。私ね、その時に思ったんですが、母という人の凄さというのは、自分がこの世の中でやらなければならないこと、全部やり終えて死んでいきましたね。
 
亀井:  ほんとですね。
 
中村:  だから、見事だなあ、と思いましたしね。私はとてもそんなことは出来ないし、座古先生の法要もちゃんと済ませていきましたし。
 
亀井:  そうですか。
 
中村:  四十二年に済ませて、四十三年に亡くなりましたのでね。
 
亀井:  どうもいろいろ有り難うございました。
 
中村:  いえいえ。勝手なお喋り致しました。
 

     尊さは母と呼ばれて生きとおし
 

 
亀井:  今日は、中村久子さんのお生まれになった釜鳴家(かまなりけ)のお手次(てつぎ)のお寺の、真蓮寺(しんれんじ)の今のご住職の三島多聞さんにお出で頂きました。三島さんは久子さんの顕彰会の事務局を引き受けて、精力的に久子さんを世界の宗教者として顕彰していきたいという意気込みで、いろいろ各方面にご尽瘁(じんすい)頂いているということでございます。もう一方、重山文子さんにお出で頂きました。この方は中村久子さんと同郷の高山にお生まれになって、中村久子さんと同じ浄土真宗の教えに出会われて、ご自身の生活を真宗によって、生きていらっしゃるという、ご自身の生活を通しながら、中村久子さんの教えというものを語って頂こうと、こんなようなことでお出で頂きました。どうも有り難うございました。で最初に、久子さんの内面的なと申しますか、心の歩みというようなところがですね、どんなところから歩み始まったかというようなことを、三島さんどんなふうに、
 
三島:  彼女の人生をずっと読まして頂いて感じるのは、久子さんが十歳の時からでないかとこう思います。
 
亀井:  小さい時ですね。
 
三島:  十歳で、そんな目覚めのようなことがあるかと、こう普通思いますけれど、久子さんの場合は、ご存じの如く、両手足がないという。で久子さん自身も語っておられますが、「ちょっと晩生(おくて)であった」と、自分で言っておられます。だから、小学校へ入れないのは、何で自分は小学校へ入れないのか。両手両足が生えたら、小学校へ行けるから、まあ、もうじき両手両足が生えて来るんだろうというような、
 
亀井:  そういう儚い願いを、
 
三島:  おぼこい発想で。それが十歳の頃、それまでは食べさせて頂くとか、自分で茶碗の方に口を持って行って食べていた。それを近所の子が見て、「手で食べないのは、犬や猫や」と。その時に、初めて自分に両手両足がないということを気が付いた。で彼女の動機は、私は犬や猫ではないんだ。人間なんだ。然るに、犬猫のようにしか食事をしていないという悲しみが、彼女の生きるスタートであったと、こう思いますね。で、結局、一過性の怒りとか悲しみじゃなくて、彼女は一年間かかって、両腕に包帯を巻き、こちらに箸を挟み、こちらには茶碗の滑り止めにして、こう食事をするようになった。私は両手両足ないけれども、皆さんと同じように、両腕を使って、ちゃんと椀を口まで持って行って、食事出来ると。私は人間の仲間入りが出来たと。それを見て、母親は厳しい仕付けを開始していくわけですけど。
 
亀井:  ああ、そうですか。
 
三島:  それまでは、婆ちゃん子であったということですね。これを見た母親が、この者は何か課題を与え、躾をするならば、必ずやり遂げるに違いないという、お母さんの信念のようなものがそこで芽生えたんかなあ。そこから徹底した厳しさを押しつけていった。
 
亀井:  それは久子さんの目覚めであると同時に、お母さんの目覚めでもあったわけですね。
 
三島:  そうそう。両々相俟ったと思うんですね。久子さんにとっても、私はやれば出来る。それが出来た。出来るというのは、私はこれで、茶碗で、両腕でご飯が食べられるようになったというのではなくて、人間の仲間入りが出来たという。スタートは私は人間になろう、なり続けようというのが、彼女の根本的なスタートじゃなかったかなあと、こう思いますね。それは晩年、今度は精神的な面で、悩んでいくのも、そこら辺から、大きく起因していると、僕は思っておりますね。
 
亀井:  まさに、そこにですね、犬や猫とは違う。人間として生きるということの大きな自覚と申しますか、「人身(にんじん)受け難し」という言葉を、『三帰依文(さんきえもん)』で、私達、仏法聴聞する一番最初に称えますけど、まさに、中村久子さんは自分自身の現実の身体の上に、十歳の時に実感されたということがあるわけですね。
 
三島:  それの、「人身受け難し、仏法聞き難し」というのは、それは今度は精神的な相当な歩みをへて、気が付いていくわけですけど。彼女が昭和二十三年、二十四年頃ですか、『生きる力を求めて』(中村久子、五十五歳の時の著作)という、今絶版になっていますけど、本を出された。その時の序文に、『横川法語』を出されて、「畜生に生まれずに人間に生まれたことは返す返すも有り難いことである」という、その言葉を引文して、序文を作っている。だから、彼女が人間に生まれた、また、人間になろうとした歩みが、彼女の人生を貫いたテーマですわ。だから、『歎異抄(たんにしょう)』に出会えたと思いますね。如何に私は人間になろうか。物理的には人間の仲間入り出来たけれど、出来て見てみた世界は、心スカッとした世界ではなくて、両手両足ない故に、又まさに妬み、嫉妬、悲しみ、苦しみというものを味わっていった。人間になったんだけど、人間になったということは、一体具体的にどういうことなのか。そのことによって彼女は悩んだですね。
 
亀井:  そういうような歩みの一番最初の大きな関と申しますか、関門を十歳の時に体験していらっしゃる。これから苦難の生活が続くわけですけれども、人間としての健常者とか、身障者というような区別を乗り越えた人間の根元的な一つの壁に突き当たられて、それを又乗り越えて行かれる。
 
三島:  そうそう。
 
亀井:  それはどういう時であったわけですか。
 
三島:  彼女が出来なかったことは二つある。それは大正時代ですから、娘時代は。日本髪を結ぶことが出来ない。後ろ手に帯を結ぶことが出来ない。いわゆる、手の届かないことは出来ないわけで。我々も手の届かないことは出来ませんね。そういう意味では、彼女はその二つ以外は何でも出来たんですから、普通、我々と全然かわらんのですわ。その時に彼女の頭の中には、両手両足があるとか無いとかという、そういう無いから出来ないとかというような苦しみは、或る程度物理的にはクリアしている。
 
亀井:  成る程。殆ど出来る。
 
三島:  で、彼女がそれからの一つのきっかけとしては、見世物芸人として独立していく。そのど出発に、沖 六鳳という書道家の先生(沖 六鳳:書道家、中村久子の書道の師であり、人生の師でもあった)に出会って、「精神一到何事不成」(精神一到何事か成らざらん)という言葉と「蓮の花になれ」ということが、また彼女が中味を見ていく大きなスタートになっていくと。
 
亀井:  きっかけにいくわけですね。
 
三島:  それが一つの大きなきっかけだと思います。それから、もう一つ座古(ざこ)愛子という人に出会っていきます。
 
亀井:  彼女も重い身障の身であったわけですね。
 
三島:  そうそう。それこそ、全然ベットの上から動くことが出来ない。寝たきり。その中にあって自分で学校の販売部を担当したり、或いは、キリスト教徒でありますが、笑顔を持って学習会を開いたりしておられる。彼女はその当時、中村久子さんは再婚で、三人目の方と再婚されていて、それには先妻に二人の子供がいる。自分には二人の子供がいる。一遍に四人の子供を。しかも久子さんの気質としては、手作りのものをおくらんならんということで、そういうことの中に主人は飲むわ、打つわ、買うわ、全然、金は入れてくれないわ。そういうことで、経済的な苦しみやら、嫉妬やら、苦になっている。そういうさなかに、座古愛子という人に出会って、あ、こういう生き方があったんだなあという、具体的な見本を目(ま)の辺りにしたというのが、大きなきっかけですね。その時、久子さんはキリスト教の聖書を学んだり、いろいろ学んではおられますね。で『歎異抄』というものに、たまたまでしょうね、出会って、おそらくその前に、久子さんは仏教徒の家に生まれたし、『歎異抄』とのご縁はあったと思うんですけれども、それは頭でこなしてしまうものではないということを『歎異抄』で知っておられるので、彼女が行き詰まったというのは、何というかなあ、自らのはからいでやってもやっても、それが良くなるというよりは、そのところにいつの間にか立って良しとする心が、次から次へと出て来るんだなあ。その中に、「いずれの行もおよびがたき身」という、そういう身を『歎異抄』に発見した。それを誤魔化さずに生き続けている親鸞聖人を見て、そこに、まさに自分を二重写しにした感動があったと、こう思いますね。こういう生き方、だから、中村久子さんは宗教というものを、ただ無い物ねだりするとか、棚から牡丹餅式の信仰には、彼女は絶対に入りませんでした。
 
亀井:  それはしかし大事なことですね。私達は宗教と言うと、直ぐ何か依頼心と言いますか、「神頼み」てな言葉が、「苦しい時の神頼み」ということがありますけれども、何か願い事叶えて貰う。おねだりする。あてごと頼みするというようなことが信仰心だ、というふうに単純に受け止めてしまっておりますけれども、ただ単純というより横着な心なんですね。
 
三島:  横着なんです。久子さんにとっては、そういうものは宗教ではないのだと。宗教というものは、自分の生き方をはっきり見せてくれるのが、本当の宗教だと。こういうわけですね。その中にあって、『歎異抄』の中の親鸞聖人は、その煩悩にまみれながら、その中に光っていく歩み。そこにね、私の歩むべき先達として、親鸞聖人がおられた。だから、「貴方の宗教は何ですか」と、中村久子さんにインタビューすると、久子さんは、「私は仏教です」とか、「真宗です」とか、そういうふうに答えないで、「私は親鸞聖人を信仰しています」と、こういう言い方ですわ。それはただ、その善知識頼みではなくって、親鸞聖人が念仏を頂いているように、私は念仏を頂いているんだという。そこですな。で、そういうことが「真宗」なんだと、こう裏では言っている。そして、仏法をご縁にして、そのままで助かっていく世界を見つけてきた。彼女にとって両手両足のない身体が、いわゆる現実そのものを代表している、その両手両足ない身が、彼女の中に、ああしたらいいな、こうしたらいいなと思うことが、それは嘘なんだ。そんなことはないんだと、彼女の身体が、現実が、その心の我が儘を否定して来た部分がありますね。だから、彼女が最終的に念仏の教えに出会った時に、そこまで私を運んでくれたのは、ごまかしのきかない私の身体であったということがある。だから、私を救ってくれたのは両手両足のない、この身体であった、と言い切れる部分もそこにはある。いろいろあろうかと思いますけれどね。両手両足のないことが私の善知識。私を助けてくれたのは、両手両足のない、この身体であったというのは、違ったアングルから言いますと、罪業(ざいごう)という意味からもあります。
 
亀井:  そうですね。両面がありますね。
 
三島:  両面いろいろありますね。
 
亀井:  身障者なればこそ、という受け止め方が久子さんに出て来るわけですね。
 
三島:  そして、両手両足のないことは彼女の罪ではないんですけど、そのことによって、父を苦しめ、母を悲しめ、親戚中に迷惑をかけ、大事な一人の弟とは生き別れになる。そして、そういうありとあらゆる差別を受けたりする。そういう差別を受けるということでも、私が受けて被害者というよりも、差別させるような存在として、私があると。そこにね、両手両足のないままに多くの罪を犯しているということに出会っていくんだなあ。親鸞聖人を通して。そうでないうちは、「なんで私ばっかりこうなる」「何故私を差別するの」「平等じゃないの」という言い回しのところに座っていたんだけど。
 
亀井:  「どうして私ばっかりこんな目に」「どうしてこんな目に遭わされならんのか」「一体どれだけ悪いことをやったのか」という言葉の出て来る元には、罪業感の何にもない私。善人の私。
 
三島:  善人の私。正義に立っている私。やって来たところの私がある。随って、無碍なく差別されたり、うわさなどされること自体が、我慢ならん話。
 
亀井:  「私のようなものがどうしてそんな目に遭うんですか」という、これは私達が一つの行き詰まりの状態になると必ず出るセリフですね。
 
三島:  そうそう。
 

 
ナレーター: 久子は二十四歳の時、雑誌の懸賞作文、「前半生を語る」に応募して、一等に輝き、努力精進の人として、人々に知られるようになりました。「中村久子後援会」も作られ、有名になるにつれ、芸人生活を止めて、社会活動家の道を望むようになります。しかし、生活の為には、芸人を止めることは出来ず、世間から称賛される自分と、見世物芸人としての自分との隔たりに苦しみました。その頃、久子は『歎異抄』に出会ったのです。
 

 
亀井:  あの頃、丁度、具体的に、「中村久子後援会」と言ったようなものが組織されて。
 
三島:  そうそう。ヘレン・ケラー女史に会った前後ですね。
 
亀井:  ああ、成る程。
 
三島:  その時には、彼女はそういう生活をしたかったし、先ず芸人生活をやめたかった。あれは辛い生活であるし、何時までも、このままでは魂が磨けないということがあったでしょうな。これと訣別して、そしていわばもっと素晴らしい人達に出会って、より自分に磨きをかけていこう、より高めていこう。そうして後援者がおれば、それに対して、私が頑張ってきた世界も知らせてやろう、というとこに立ったんだなあ。
 
亀井:  今の場所でない、別のもっといい場所を願ったわけですね。
 
三島:  その中でやっぱり行き詰まっていく。
 
亀井:  当然行き詰まるわけですね。それは選(え)り好みですからね。
 
三島:  で自分が頑張って来た。頑張って来た、やって来たというその自信は、その自信の中味そのものが、いわゆる煩悩であると。
 
亀井:  そのことがね。もっと綺麗なりっぱな人達とお付き合いが出来て、自分が磨かれる場所が欲しいというのが、煩悩であると。
 
三島:  それが煩悩である。自己中心的なものの考え方、煩悩であると。
 
亀井:  得手勝手なんですね。
 
三島:  それで苦しんだんです。どこへ行ってみようもないところで、『歎異抄』に出会ったんだなあ。善人の私に立つから、そうなるんだというわけだなあ。それは身を引き受けていない証拠だと、こういうわけだ。
 
亀井:  『歎異抄』から、言わせるわけですね。
 
三島:  身を引き受けてみたら、そうしたら何も突っ張って生きなければならん、肩肘張って生きなければならない自分でない自分を発見した。現実を引き受けてこそということを、『歎異抄』に学ぶんですなあ。現実を引き受けて生きて来た者に、現実を引き受けてこそという、さらにこう突き放された時に、彼女はいま言われたそこに気付くわけですね。私はやって来た、頑張って来たというのは、私が高見に立ち、正義に立っているからということを学ぶんです。『歎異抄』から。身を引き受けるという、ほんとに引き受けたら、愚痴の世界ではない。引き受けたら、このままが私。自慢すべき私ではない。そういうことを『歎異抄』に学ぶんですね。だから、安心を求めて、平和を求めて、彼女は努力して来た。頑張ってきた。それがコロッとひっくり返りまして、安心して努力し、精進できることを喜んだ。だから、生活それ自体の内容は変わらん。全然変わらんのだけれども、幸せを、平和を求めて頑張るというのではなくて、平和を頂き、安心を頂いて、私はいま両手両足ないけれども、頑張れるということは有り難いという世界に躍り出たのは、『歎異抄』に出会ったからや。
 

 
ナレーター: 何時まで経っても、芸人生活から抜け出すことの出来ない苦しみ。自分で選んだわけではない。逆境を、自分のものとして受け容れることの出来ない苦しみ。そうした苦しみから、久子を解き放ってくれたのが、『歎異抄』だったのでした。昭和二十四年、久子、五十二歳の時、自伝『無形の手と足』の中で、次のように書いています。
 
与えられた境遇より他に、如何とも出来ぬ私でした。それより他に致し方のない自分なのでした。自己をはっきりと見せて下さった。そして、自分の行くべき道を法の光に照らして下さった親鸞様。爾来(じらい)、私の崇拝の的は人間親鸞様であります。業(ごう)のある間、何十年でも見世物芸人でいいではないか。やめろと、仏様がおっしゃるときが来たら、やめさせてもらえばよい。来なかったら業の尽きるまで芸人でいよう。こうした決心がついたら、煮えたぎっていた坩堝(るつぼ)は坩堝(るつぼ)のまま坩堝(るつぼ)でなくなりました。
 

 
三島:  「人間に生まれたことは、返す返すも有り難い」と言いながら、それに付け加えて、譬え障害者であろうと、健常者であろうと、人間に生まれたということと、そして生きようとする、道を求めようとする、その魂を貰っているということが、二重の喜びであると。だから、彼女はその魂の中に人間の証明というかなあ、それを念仏をご縁にして見つけた、こう言っていいと思いますね。
 
亀井:  『歎異抄』の具体的にどこだということは言い難いかも知れません。全体にそういう精神が漲っているのが『歎異抄』でございましょうけれども、敢えて、言葉で申しますならば、第二章の、「いづれの行も及び難き身なれば」という。
 
三島:  そうそう。
 
亀井:  ああいうお言葉。
 
三島:  あの言葉、私達はね、何にもやらないところに座って居て、「そうだ、そうだ」「いづれの行もおよび難き身」だなんて、言うんだけれども、両手両足のない人が、何もかもこなして、尚且つ、「いづれの行もおよび難き身なれば」というのは、この心の中の宇宙三千大千世界を飛び回るような心の問題で言っておられると思いますね。久子さんにして。久子さん所有の聖典のなかに『歎異抄』があるんですが、そこに、「いづれの行もおよび難き身なれば」というところに、パッと赤線引いてありますわ。
 
亀井:  成る程。
 
三島:  だから、彼女が求めたのは、この如何なる身が、本当の人間としての身であるのか。それは十歳からのテーマです。それを精神的に、正義に立たないところに、自分のところ、努力してきたところに、胡座(あぐら)をかかない精神に発見した。ほっとけば、いつの間にか胡座をかいてしまう。そういう意味では、努力し、頑張るというそのこと自体が、突っ張りであり、欲であり、煩悩である。胡座をかかない精神でやる努力は喜びの努力だと。
 
亀井:  成る程。『歎異抄』の第三章にですね、「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて」という言葉もございますが、まさにそういう言葉から、久子さんはそういういい子になっていこうとする自分に気付かされたということなんでございましょうね。
 
三島:  久子さんが言われるのは、宗教とは、今言われる言葉で言いますと、いい子になっていこうとする、そういう自分が間違いなんだよという、煩悩なんだということを見させ知らせて下さること自体を気付くことが宗教だと。
 
亀井:  成る程。
 
三島:  もう少し奥がある。気付いたからくらいのことではダメなんだ。気付いたということ、そのことを気付いたという、そういう人間の生業(なりわい)を知らさせて貰うという。私は煩悩具足の凡夫だということを分かった。気が付くこと自体、そのこと自体が、私の上で起こっていることを喜ぶと。そこに手も足もある世界が開かれてくる。久子さんはお母さんの私を躾けてくれた深い感情と二重写しにしておられますね。だから、久子さんは常に母を語った。母を語ったのは、そのまま、かの久子さんを生かしておるところの阿弥陀様の念仏を語っておることと同じことですわ。
 
亀井:  成る程。単なる個人的な考えではない。
 
三島:  ただ一人の母を語ったんではない。
 
亀井:  成る程。
 
三島:  母を語ったその中には、尽きることのない恩徳を感じているのは、御仏の大悲が、母にまでなって、私を育てて下さったということがあるものですから、母を語ることは、彼女の信仰を語ることなんや。
 
亀井:  「如来大悲の恩徳」「師主知識の恩徳」というものを、具体的に母を通して感じて、
 
三島:  母を一つに。母を一つに集約して語った。だから、それが悲母観音までなったのではないか。だから、一個人の母を建てておるのではない。
 
亀井:  そうですね。当然そうなんでしょうね。重山さんもいろいろ地元で、仏法を学んで頂いて、今日まで来て頂いておるわけですけれども、重山さんもお母さんとの思い出がいろいろあるというお話でした。重山さんの今日までの歩みの中で、特に、大きく自分がこう自分自身に気付かされたと申しますか、そのことをちょっとお話頂きますか。
 
重山:  暫く前にはなるんですけれども、東京に十年位いたんです。一人の生活をその時にしていたんですけど、母が入院しなければならないような病気になったということで、連絡があったものですから、それで高山に帰ってまいりました。仕事もそのままにして。
 
亀井:  直ぐ戻るつもりで。
 
重山:  勿論、そうだったんです。勿論と言うか、でもね、今回は、おそらく最後になるだろうというのがありましたから、どの位とか、そんなこと何にも考えないで、兎に角、仕事、そのままにして出て来ました。出て来たと言うか、帰って来たんですね。それで病院へ、取り敢えず入院しまして、点滴など治療をいろいろ先生にやって頂いている間に状態はよくなって来たんです。その時、ほんとは喜ぶべきことなのに、私はその時どういうことを思ったかと言うと、私はこのままいったら、どうなるのかなあと。私自身がどうなるのかなあと思ったんです。それで今までに母から頂いた恩とか、そういうものに報いる為に、ほんとは帰る気持にもなったんでしょうけれども、そんなのはどっかへ吹っ飛んでしまって、それで私自身はこのままいったら、どうなるのかなあと。
 
亀井:  何時まで引っ張られるか分からんと思われた。
 
重山:  そうです。出来れば逃げたいような気持が、正直あったと思うんです。そのことで、暫く苦しんでおったんですけれども、やっぱり自分自身を救ってくれたのは、母だったと思うんです。もうすっかり力無く、ベットに横たわっている母というものは、私をそこから逃げさすことはさせませんでした。それで、もうやっぱり私はここを逃げるわけにはいかんと、そういうことで、荷物それこそ背中に背負ったら、気が楽になって、それで東京へ帰るということも諦められましたし。
 
亀井:  成る程。弱りに弱られたお母さんの姿を、目の辺りにした時に、何かこう自責と言いますか、
 
重山:  そうですね。それとやっぱり自分自身がそういう母さえも置いて逃げて行こうとしている自分というものを見せられたからだと思います。私達の事実というものは、道理の中に運ばれておるということにも関わらず、自分の思いで、自分のエゴでどうにかしようとしているわけでしょう。
 
亀井:  道理をへし曲げてね。
 
重山:  そうです。そういう自分というものが、地獄一定(いちじょう)の自分でしかないと。そういう言葉がやっぱり『歎異抄』の中にあって、ああ、もうこれはやっぱり嘘がないと。嘘がなく、自分自身が見抜かれたと。
 
亀井:  そういう非情な、自己中心な自分の姿を、お母さんの姿から改めて、ヒシヒシと思い知らされたということですね。
 
重山:  はい。そういうことだったのです。
 
亀井:  そこに中村久子さんがですね、目の前に与えられた状況というものを、そのままに受けていくということが、腹がくくれたならば、何とかして抜け出したい。自分の思い通りにしたい。ああしたい、こうしたいというような燃えるような思い。坩堝(るつぼ)という表現で、中村久子さんはおっしゃっておりますけれども、「坩堝を坩堝だったと知らされた時には、煩悩だったと知らされた時には、坩堝のまま坩堝が坩堝でなくなりました」という。私達にとって、非常に示唆の深い言葉が文章に綴られてありますけれども、まさに重山さんの坩堝を、お母さんの瀕死のお姿から、実感させられたということなんですね。
 
重山:  そうだと思います。それで、そうやって、腹くくって終えば、後は気が楽で、それで母と、結局、亡くなるまで一年間だったんですけれども、それこそ、私が看病するとか、そういう気持ではなくって、場所が病室というところですけれども、二人の生活だったように思います。勿論、家の姉妹とか、周囲で私を支えて下さった方は、あることは間違いないんですけれども、普通の生活が出来たように思っています。
 
亀井:  何と言いますか、後ろ髪引かれる思いもなく、ただ二人の親子の、母娘の生活をですね。
 
重山:  普通の生活ですね。ですから、看病している生活とか、そういうものでなくって、ごく当たり前の生活が出来たように、今思いますけど。
 
亀井:  何かそこに、お母さんからの心の開けと申しますか、転回と申しますか、そんなようなことを、病室の現場で実地に教育を受けたというような感じが致しますね。
 
重山:  それとやっぱり、それまでの私というものを育ててくれた母の汗と言いますか、そういうものがやっぱり伝わって来たんではないかと思うんです。それが無かったら、とてもやっぱり私が一年間、一緒にいて生活するということは、おそらく出来なかったと思います。
 
亀井:  『歎異抄』という書物は、私自身のそういう嘘で絡めた生活というものを、全部見破って下さっておったんだというような、中村久子さんもやはりそういう心の転回があったんでしょうね。後援会で、行き詰まって挫折を感じていらっしゃった時に、『歎異抄』に出会って、全部、自分のよりよくなろうというような、上方志向と申しますか、上を向いて、ありもしないものを、あてごと頼みして、注文や要求ばかりしておるお前の姿でないか、エゴイズムでないか。
 
三島:  そうそう。
 
亀井:  との受け止め方が久子さんに出て来るわけですね。
 
三島:  そうそう。
 

 
ナレーター: 自分の身にふりかかる全ての運命を、仏からの授かりものとして受け入れ、安心の境地に達した久子は、その後全国を回り、人々に母の恩を語り続けながら、念仏一筋の人生を送りました。その傍らには何時も夫敏雄と、次女富子の姿がありました。
 
     ある ある ある
 
     さわやかな
     秋の朝
     「タオル 取ってちょうだい」
     「おーい」と答える
     良人(おっと)がある
 
     「ハーイ」という
     娘がおる
 
     歯をみがく
     義歯(いれば)の取り外し
     かおを洗う
     短いけれど
     指のない
 
     まるい
     つよい手が
     何でもしてくれる
 
     断端(だんたん)に骨のない
     やわらかい腕もある
     何でもしてくれる
     短い手もある
 
     ある ある ある
 
     みんなある
     さわやかな
     秋の朝
 
久子の晩年の心境が語られた詩です。『歎異抄』に出会う前の心にあった坩堝のような苦しみから解放され、秋の空の高見へと突き抜けていくような澄み切った輝きに満ちています。
 

 
三島:  『歎異抄』から学んだ世界は、彼女が、日頃の生活が、ガラッと変わったわけではなくて、さらに倍して努力したんだ、彼女は。それは安心して喜んで出来る努力と、突っ張りながら、「何故報われないの」と言って、努力するのとは天地の差ですわ。同じ生活でありながら、そこに悩み、なんというかな、突っ張る、苦しむ、そういう努力のありようではなくて、こうさせて貰えるということは有り難いことだという形の努力ですね。同じ、ここのものをここに持っていくのにも、愚痴りながらやるのか、させて頂くというのか、同じことをやりながらでも、喜びが違う。
 
亀井:  成る程。そこに、明治の念仏者の清沢満之(まんし)の言葉で、普通我々は、「人事を尽くして天命を待つ」というけれども、そうでなくて、仏法の立場で受け止めるならば、「天命に安んじて人事を尽くす」という方が望ましいというような言い方の文章がありますね。それを今おっしゃって下さったんですね。
 
三島:  久子さんはズバリそうだったんです。だから、坩堝(るつぼ)が坩堝のまま坩堝でなくなるというのは、そういうことだと、こう思いますね。何もかも。何も変わらんけれども、それを受けて立てれる。喜びで受けて立てるか、いやいや立つのか。いやいや立つという言い方はおかしいけどね、いやいやするのか、それを喜んで受けて立てるのか、その力は仏様ですよ。だから、久子さんはよく生かされているという言葉を使いますが、私達は生かされているというのは、そうだそうだ、太陽も水も人の親切もあるからというふうに取りますけれど、久子さんの場合は、私を生かしておって下さる方があるお陰様で、生かされて頂いているのですと。だから、生かさせて頂いておる背景がある。それは如来阿弥陀の、阿弥陀の本願、大悲。そして、そのまま受けて生きた親鸞聖人その人や。その人に付いていく。絶対の自信ですわ。久子さんにとってはね。
 
亀井:  坩堝がなくなるわけじゃない。坩堝が坩堝のままでということですね。
 
三島:  だから、それ自体。これ自体。このままで満足の世界やなあ。彼女が十歳の時から人間を求めて来て、「本当の人間とは何か」と言ったら、このままをこのままで完全に生きて生き切るというところに、彼女の親鸞聖人を通して見つけた人間なんやなあ。それを地で行ったと、こう言っていいと思いますね。
 
亀井:  『歎異抄』の中の言葉で言いますと、
 
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常(かたくむじょう)の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします
 
「念仏のみぞまことにておわします」という言葉を、中村久子さんは、「唯佛是心」という言葉で、ああいう字にも書いていらっしゃる。あの言葉の前に、「煩悩具足の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」という、そういう前提があっての「唯佛是心」ですね。それだけの世界を包んだ言葉だと思うんですけれども。「心」の字が少し違いますね。(註、聖徳太子の言葉「世間虚仮、唯仏是真」とある)
三島:  そこが久子さんの一つ捻ったところだと思いますね。
 
亀井:  成る程。
 
三島:  真ん中の軸が、「ただ念仏のみぞまことにておわします」という『歎異抄』の言葉です。両脇の軸が、久子さんがその言葉の了解でないだろうかなあとこう思いますね。
 
亀井:  成る程。
 
三島:  「心に沁みるお念仏」(三幅かかっているうちの一幅)と。私の心は煩悩だらけだけど、それは全て南無阿弥陀仏によって支えられ、光っておる。力を得ておる。その意味で、ただ念仏が、そのままが私の心ですと。私の心は、自我の心でなくて、その自我が念仏に出会って、光っておる。喜べておる。そういう心であるということですね。久子さんに両手両足が生えて、別な人生ではないんです。両手両足のない状態は、全然変わらない。やってしてみることも全然変わらない。ただ、喜べて出来るか、愚痴ってやるだけの違い。生き方の問題です。それを親鸞聖人から学んだと、こういうわけです。それが生かされているという言葉にもなり、彼女はジッとしておられなんだんでしょうな。傷害のある人達やら、苦しんでいる人達に自分の体験を話すということは、そのまま仏様のお使いしているように思われたんではないか。
 
亀井:  それが又、久子さんの、「ある ある ある」という詩にも表現されて来ておるところでございましょうね。
 
三島:  「あるあるある」、私達は、「ないないない」と久子さんを見るんだけど、ない久子さんは、「あるあるある」と。こういうところに、彼女はその両手両足という有無、あるなしでない。私はほんとの人間としての真心に出会った。御仏の真心に出会って、私という心に出会えた。全私というものがここに、完全なものとしてあるという、そのあるにかかっていると思うね。ただ単に手があるとか、無いとかということではなく。
 
亀井:  私達にとって、決して、その身障者というような方でなくて、同じ人間として、かく生きねばならんという深いものを残して下さった先達、善知識でないかということを思うわけでございますが、今日はそのことを、非常に具体的に詳しくお話を頂きました。よく納得が出来ました。大変有り難うございました。
 
三島: 重山: どうも有り難うございました。失礼致しました。
 
 
     これは、平成九年六月二十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。