人間をどう理解するかー心の教育をめぐってー
 
                     東京教区カトリック司祭
                     〈NGO〉芝の会顧問   粕 谷 甲 一 (かすや こういち)
                     き  き  て         金 光  寿 郎
 
金光:  現在、心の教育ということが問題になっておりますが、今日は心の問題という観点から、「人間をどう理解すればいいか」というテーマで、皆さんとご一緒に考えて参りたいと思います。スタジオにはカトリック司祭の粕谷甲一さんをお迎えしております。粕谷さんは長年海外青年協力隊のご指導をされたり、清泉女子大学の先生をなさって来た一方では、ベトナム難民の救済をなさったり、現在もNGOの芝の会の顧問として、ベトナムのストリート チルドレン(street children)の救済活動を続けている方でございます。どうぞよろしくお願い致します。現在、いろんなドキッとさせられるような変な事件が、随分日本では続いているわけでございますが、神父さんの目から現代の日本人の心の問題をどういうふうに見ていらっしゃいますでしょうか。
 
粕谷:  はい。いろんなことが起こっていると思うのですが、私の見ている狭い範囲で申しますと、暗い話とか、悲しい話が非常に多いのですよね。だから、そういうところから入るんじゃなくって、そういう日本の現実の中にも、凄く明るい良い話もあると。その例を一つお話して、それから入って行きたいと思いますが、よろしゅうございましょうか。
 
金光:  はい。どうぞ。
 
粕谷:  その良い話と言いますのは、二年前に私が手に入れた小さな雑誌に出ていたんですね。それは北海道のある養護施設の中三の少女が書いた文章なんですが、中三の少年でなく、少女の方ですね。こういう文章なんですね。
 
私が三歳の時、お母さんに置いていかれた。お婆ちゃんの家の前でタクシーから降ろされた。お母さんは「暫く待っていなさい」と優しく言って、乗って行ってしまった。でも、その時は別に悲しくはなかった。だって、あんなに優しいお母さんが、私達を置いて行くなんて、とても思いなかったから。
 
四人置いて行ってしまって、離婚協議中にお母さんは姿を消してしまったわけです。そして、その子供四人はお婆ちゃんの元に預けられて、
 
私が小学校一年の時に初めて、お母さんが手紙が届いた。洋服とか本が入っていて嬉しかった。でも、お母さんの顔は少ししか覚えていなかった。お母さんは迎えに来るのかなあと思っていたけれども、お婆ちゃんから、「もう、お母さん、迎えに来ない」と、ハッキリと聞かされた時は、心の中に積み上げて来た積み木がガチャンと壊れたような気がした。
 
このお婆ちゃんはですね、孫四人をとても養い切れないので、養護施設に入れたんですね。で、中三になって、こう書いているんですね。
 
もし、お母さんに新しい子供が出来たら、私達の分まで大切に大切に育てて欲しい。お母さんは二回も同じことをする人じゃないよね。お母さんは、私達を忘れたわけじゃないよね。一生、お母さんに会いなくていいからさ。時々、私達のことも思い出して、新しい子供が生まれたら、私達の分まで精一杯可愛がってやって下さい。それだけが私の今の願いです。
 
そういう文章を書いているんです。この文章の中に、二つのキーポイントがあると思うんです。一つは、〈お母さんは二度と同じことをしないよね〉と、念をおしている。それは別に法律違反とか、そういうことじゃなくって、人間の法則と言うんでしょうか、人間の道理と言うんでしょうかね。〈これを破ると、お母さん、ダメよ。これを全うしてね〉という強い促しは、お母さんに〈ドキンと効いた〉と思うんですね。それは〈筋を通すという、そういういわば道義とか、人間の生き方の根本を指している〉と思うんです。もう一つは、〈思いやり〉ということであって、〈自分達はとっても辛い思いしたから、もうこういう思いを他の子供にはさせないで欲しい〉と。だから、お母さん帰って来て欲しいという気持は、勿論あるわけだけど、〈私達のことはいいから、新しい家の子供を精一杯可愛がって欲しい〉というのは、ほんとに私(わたくし)のない、selflessな、綺麗な心の表現であって、そこにあるのは、〈愛と言うか、思いやりと言うか、エゴイズムというものは綺麗に洗い取られた美しい心〉だと思うんですね。問題はこういう綺麗な心を乱す力がある。それをどうやって乗り越えていくか、その乱れを癒やして、そういう子供の願いを、この子が全う出来るように。で、日本社会も、そういう子が育つように、どうしたらいいかというのが、心の教育の根本で、宗教というのも、そういうところに、本来しっかり根を下ろすべきだと思います。これが第一点ですね。そこで、中三の少年のことが、もう随分新聞に出ておりますけれども。
 
金光:  あの、今度は神戸の。
 
粕谷:  神戸の問題ですね。あれが新聞に出た時に、ある新聞の一面はこの少年のことで一杯書いてありまして、非常に厳しい表現で、悪の固まりみたいな断罪文なんですね。他の面で、大人の非常に問題のある行動を大らかに書いているわけですよね。その二つを見ますと、さっきの中三少女の二点と、非常にこう重なるんですけど。先ず、中三少年を申しますと、義務教育の現実に対して、もうやりきれん。生活は困らん。親もいる。学校もある。だけど、この道を辿れば、結局、自分はどうなるんだろうかと。親の期待するような人生というのは、結局、まあ、自分のお父さんみたいになることだろうかと。比べてみたんですが、小学校の子が創った川柳に、
 
     親を見りゃ 僕の将来知れた者    
 
とあったんですね。つまり、現実路線というものに、自分が乗って行けば、一体どうなるんだろうかと言うと、あんまり希望がないと。そうすると、アニメとかですね、映像の社会の〈仮想現実〉の中に、いわばときめき=Aある興奮状態を求めて没入していく。そうすると、魔王が出て来て、大軍を成敗するとかですね、まあ、興奮を覚えるわけですよ。それは仮想現実です。それを自分の現実に降ろしたい思えば、例えば、糊の中に蚊を入れるとか、オタマジャクシを入れるとか、生命を絶つという、一つの「超越」に参加するようなときめき≠ェあるんですね。魔王の力を味わったようなですね、それがどんどんエスカレートしていくと、とうとう人間まで殺してしまったという、それは人間としての基本線を破った。つまり、〈お母さん、二度とああいうことしないでね〉という法を破ったわけですね。もう一つは、全然この子に〈思いやり〉がないわけですよ。エゴだけですね。だから、〈エゴだけを生きるということは、結局、周りを生き地獄にしてしまう〉という、それを示しています。ところがその新聞の他の面に出ている大人世界の描写を見ますと、大人の、例えば、不倫という行為が、今の社会じゃ大人同士の合意なんだから、やり切れない人間同士が、その辺のところに息抜きを求める。双方とも自分の家庭を壊さないように注意しながら、それから、仕事もちゃんとやりながら、しかしそこにはときめき≠ェない。人生の本当の喜びはない。それを別のところに、そういう場所を求めていくという、いわば〈ときめき至上主義〉みたいなものですね。そこにやっぱり〈人間の道というのを、全く無視する〉わけです。それをいくと、どうなるかと言うと、結局、〈自分自身の崩壊、自分の魂を壊してしまう〉という、「お母さん、二度としないでね」と言った、あの線に乗るというふうに、私、見えてしようがないわけです。もう一つの方は、やっぱり〈愛がない〉と。つまり、〈欲の奴隷になってしまって、周りを生き地獄にしてしまう〉。そういうふうな生き方を大人がやっていて、そういう大人が今度、子供をただ極悪人のように批判するのはおかしいではないかと思う。そういう大人の生き方をマスコミが讃え、お金の力でそれがまかり通っているという、そういう状態をなんとかしなければ、子供の教育も出来ないんじゃないか。そうしますと、中三少年のことも、大人世界のことも含めて、やっぱり〈人間の中に含んでいる復元力〉と言うんでしょうか、それを我々が希望を持つ。日本のこういう現実の中にも、ああいう中三少女のような、人間がいるという、そこに希望を託して、そういう方向にこの現実をどう向けられるのか、その辺が心の教育の基本線じゃないかと思ったわけです。
 
金光:  他の養護施設の園長さんと言いますか、そこの方にも聞いたんですが、今は離婚による家庭破壊の結果、養護施設に来る人が随分増えて、戦後のように、孤児になって来るというのと事情が随分違って、豊かさの中の家庭崩壊の影響をもろに被った子供さんが、多いということを聞いてビックリしたんですが、しかし、そういう中でも、最初に紹介して下さった中学校三年生のお嬢さんみたいに、非常にしっかりした生き方が出来ている人もいるわけですが、これはしかし、一方、家庭が揃っている方が上手く行かなくてですね、そういう中で、非常にしっかりした生き方をしているという、これはどこから来ているんでしょうか。
 
粕谷:  こういう面があると思いますね。そういうお母さんの出来事の為に、小さい子供四人が放り出されるわけですね。四人が支え合っていかなければ生きていけないわけですよね。そうして、その貧しいお婆ちゃんに支えられなければ生きていけないわけですよね。そこで〈我慢するとか、支え合うとか、そういう思いやり〉を学んだと思うんですよね。同時に、やはり人間には、ある〈生き方の原則〉みたいなものがあって、それを破るとこんなことが起こるという、つまり、生き地獄を生み出したのは、ただ、原子爆弾だけじゃなくて、そういう〈人間の原則を破った時に、周りが生き地獄になっていく〉ということを、身を持って感じているからね。表現は非常に素朴だけども、そういう筋道を心得ていて、かえって恵まれて見える方が、そういう点について無知で終わってしまうということがあると思いますね。
 
金光:  〈思いやり〉ということでございますが、例えば、その中三の少女のお母さんの場合も、子供達のこともさることながら、自分はもう一人の男性に対する愛がもっとも大事だと思ったと。やっぱりそこには男性に対する愛情と言いますか、そういうものが私にはあるんだと。愛が全てだと。例えば、そういう考え方、まあ、具体的には分かりませんけれども、そういう考え方も不倫の問題なんかの場合には、当然あるだろうと思うんですが。そういう愛なんていうのは、これは愛という点から見ると、どういうことになるんでございましょうか。
 
粕谷:  要するに、そういう生き方は〈ときめき主義〉というんでしょうか。つまり、人間には〈人間の法則〉というものがあって、〈それを破ると、本人自身が内的矛盾に堕ちて来る。充たせば充たすほど飢えて来る〉という、そういう人間の中の動物に支配されてしまう。そういう〈基本構造というものを認めるか、認めないか。その辺で宗教は出て来る〉と思うんです。人間はどういうふうに創られているのかとかですね。その辺の基本原則というものを破れば、破った本人が内的に崩れて来る。別な例を出せば、拳闘のボディー ブロー(body blow)みたいなもんであって、別にボディー ブロー受けたから、血を出すわけじゃないけど、だんだん効いてくるわけですよ。効いてきたと思った時、倒れている。そういうふうに、やはり人間には精神的にも、そういう構造があって、それを破ると周りを苦しめるのみならず、本人自身がだんだん参って来る。そういう人間の構造を認めるか、認めないかですよね。
 
金光:  もうどうせ人生は短いんだから、太く短く、好きなことをやって、好きなことをして死んでしまっていいんじゃないかというような、非常に短い視野での考え方というのが、現実にもあるようですね。これだと、やっぱりその行為自体、自分自身を傷つけるような結果が生まれ易いということでございましょうか。
 
粕谷:  そうです。〈エゴイズム(egoism)〉ということでしょうね。自分のことしか考えていない人は、自分自身を、また一番傷つけてしまう結果になってしまう。その辺の人間の仕組みと言うんでしょうか。その辺をどう見るかでしょうね。
 
金光:  そうしますと、神戸の中三の男の子のしたことに対することと、それから、大人の子供を捨てて相手の男の人のところへ走ったお母さんのしたことと、中には非常に共通項があるということ、
 
粕谷:  と思います。はい。〈仮想現実〉と言うんでしょうか。また、そういうのが、非常に社会にもて囃されるのは、実際にはそういうことの出来ない人が、大部分だと思うんですよ。そういう映像とか、書物読んで、そこで映像の中に自分自身のときめき≠、淡くも楽しむ以外に道がない。その裏には、そういうことについての倫理的な感度、〈いけないことだ〉という感度が薄れて来るわけですよね。そういう中で教育された子供はどうなるかです。その辺の日本の社会の流れというものを、僕はあちこち旅行する時によく感じました。街角のおじさん、おばさん、普通の人が、「これじゃ日本はダメになる」と、よく言いました。いわゆる識者とか、偉い人じゃなくて、日本の現実に生きている親達が、自分の子供を見て、これで一体どうなんだろうかと、非常に不安を感じているのですね。
 
金光:  一面では、戦後の教育の中で、日本人というのは、「個人の確立が足らない」と。「自分の意見をハッキリ出しなさい」と。で、「自分のしたいことを堂々と言えばいいじゃないですか」と。その〈自己主張〉と言いますか、そういうものが今まで足らなさ過ぎたんだから、自分の本当にしたいことをこうやるところに、本当の人間の成長があるというような考え方が結構あるんじゃないかと思いますが。こういう自分が決めて、自分が行動するという考え方については、どういうふうにお考えでしょうか。
 
粕谷:  それは非常にいい面があると思うんですね。それで参考になったのは、アメリカの例なんですけれども、一九六0から七0年頃、日本は六十年安保、七十年安保で大変な騒ぎがありましたですよね。アメリカではその間、戦勝国ですから、別に外国の支援を必要としないんだけど、むしろ、内面的に大きな変革が起こったのは、アメリカは戦争に勝ち、アメリカを支配していた基本原則は絶対正しいと思っていたわけですよ。その基本原則というのは、伝統的なアメリカ社会が持っていたもので、独立宣言とか、国家、それから、教育、それからもう一つのキリスト教の教会とその教えですよね。ですから、その国家と教会、学校とキリスト教というようなものが、自明的なものとして通っていたわけです。ところが果たしてそうなんだろうかとなった時、アメリカは大きな変化が起こって、〈大切なことは自分で決めることなんだ〉と。〈self-decision 自分が決めることなんだ〉と。それを決める支えになるのは、〈自分が発見する self-discover〉。教会が示した、親が示したんじゃなくて、自分が示したことを、自分が決める。〈自分がやって見て、体験してする。やって見てよかった feeling right〉とね、そういう self-discover 。そして feeling right というのを足掛かりにして、自分が決めるという、そういう process を絶対化したわけですね。その絶対化の中に問題があり、自分で決めるのはいいんですね。
 
金光:  そこはいいですよね。
 
粕谷:  そこまではいいんですよ。ただ、問題は、その時に何をベースに決めるか。伝統社会が示したものは全部御破算にするのか、自分の新しい人生は全部、自己流にやっていかなければならないのかですね。それをやって見て、どうなったかと言いますと、例えば、teen-ager の男の子が女の子を見て、 self-discover 自分が発見したと。デートしてみた。feeling right よかったというわけですね。後はself-decision ですね。教会が何いうか、親がなにいうか、学校が何というか、そんなことは知っちゃいない。そういう方向に行った時に、どうなったかと言いますと、三十年経ったら、〈家庭は崩壊し、非行少年が町に溢れていた〉わけですよね。理屈はいろいろあるだろうけども、これじゃいかんということで、戻りつつありますよね。日本の場合は、そこが自分が決めるということが大切だというのはいいんですよね。そこまでいいんですよ。その場合に、何が善いか悪いかを決める時に、戦前のものは全部悪くて、戦後は全部良いとかですね、また逆の場合もあるでしょうね。自分自身が発見するという時も、伝統の中に良きものは受け取って、良くないものは拒否すると。ですから、〈伝統プラス(+)創造的〉に、〈伝統に則りながら、新しいものを創っていく〉という、その部分が狂ったんじゃないか。そうしますと、何もかも、自分が経験で決めていくというのはおかしい。卑近な例で言えば、例えば、歯を磨くなんてことですね。あれ親に「磨きなさい」と言われて、磨き出すわけですよ。やって見たら、良かったわけですね。feeling right やって見たらですね。そういうふうに、何もかも自分で発見するわけじゃなくって、伝統的な人間社会の経験が、これやるべきだということによって、人間が沢山やっているわけであって、そういうものがいろんな部分に出て来るわけですよね。私がある時、地方都市のシスターの経営する学校に招かれて話に行ったんですね。駅を下りて、タクシーを拾ったんですね。そうしましたら、運転手さんが女性だったんです。「あの学校へ行ってくれ」と言ったら、そのドライバーさんが「あの学校ですか」というわけですね。「あれは私が出た学校だ」と言うんですね。そうして、「あそこの校長のシスターは恐かった。その前に立つと足がガタガタ振るえて恐かった」と言うんですね。「ところが、私、結婚して、子供二人出来た時に、夫が死んでしまってね。途方にくれた時に、その校長が来てくれて一緒に泣いてくれた」と言うんですよ。「とっても優しい人だ。そうして自分はこれからどうやって子供を育てようかと思った時に、何の技術もない。いろんな甘い良い声もかかった」というわけですね。「その時に思い出したのは、校長、シアターの言葉で、「世の中にはね、していいことと、していけないことがありますよ」と。「どっちを取るかという時は、十字架がある方を、厳しい方を選びなさい、と言われた」と言うんですよ。「で、自分でいろいろ考えて、タクシードライバーになった」と言うんです。十年前ですから、そんなにそういう人いなかったわけですね。そうして、「その選択正しかったと思う」し、こう言ったんですね。「二人の子供に対して、自分はいろいろ言う」というんですね。「今の学校はね、して良いこと、して悪いことは教えない」と言うんです。「そうすると、自分が懸命になって、それを教えているとね、そうすると、気が付くとね、あの恐ろしいシスターが自分にしたことを、自分が今やっている」と言うんですね。
 
金光:  子供に。
 
粕谷:  「そのことによって、今、私達一家はね、やっぱり幸せだ」と言うんですよ。だから、〈何も規制的な規範をガミガミやって、罰則で律するような教育は、決していいと言いません〉よね、決して言いませんよね。だけどやっぱり、〈して良いこと、していけないことの原則〉は、やっぱり〈幼い頃の教育の時に、学校と家庭が一致して、ピシッと教える〉ことは、 self-decision というものを破壊することじゃなくて、むしろ、〈心棒を与えることだ〉ということですよね。
 
金光:  前に伺った話で、アメリカで子供が自分で決心して、これは良いと知って、何か自転車を持って来たという話をなさったですね。
 
粕谷:  それはアメリカでなくて日本なんですよ。
 
金光:  日本なんですか。
 
粕谷:  ある知人の家に行きましたら、お父さんが言ったんですね。「いや、昨日、変なことがあった」と。「家へ帰って来たら、家の前にピカピカした自転車が置いてあった」と言うんです。小学校の子供に、「どうしたんだ」と聞いたら、「学校の帰りに、ある家の前へ行ったら、これ置いてあった」と。「気に入った」というわけですね。 self-discover ですね。「乗って見た。とっても良かった」feeling right ですよ。「持って来た」というわけですね。だから、〈盗んだなんて考えていない〉んですね。お父さん、ビックリして、その子供を連れて、自転車を持って返しに行ったそうですね。ですから、 self-discover 自分で発見すること、やって見て良かったと思うこと feeling right。ただ、self-decision だけだと。盗んじゃいけないということが、すっ飛んでいるわけですよ。するとやっぱり、人間は盗んじゃいけないとか、ウソを教えちゃいけないとか、殺しちゃいけないとか、それに纏わる細則はありますけど、そういうことはゆっくり話せばいいんで、原則的にいけないことがある。不倫もそこに入ると思いますね。その辺のところをビシッと社会全体として、保てない限りは、やっぱし神戸の少年事件は、これからも起こると思います。
 
金光:  そういう〈してはいけない〉ということは、人間のいろんなこれまでの営みの中で、やっぱりこういうふうにしないと、社会がおかしくなるよ。家庭がおかしくなるよ。自分自身がおかしくなるよ。だから、こうしなさいという形の積み上げの中から生まれて来たものというふうに考えられるでしょうか。
 
粕谷:  まあ、そうでしょうね。いろんな言い方があると思いますけど、やっぱり自然と言うんでしょうか、人間はいろんな色が違い、風俗習慣が違っても、やっぱり人間の人間の自然性というものがあって、その中に刻み込まれた基本的な部分は、時代によって表現が変わっても、変わらない部分が入っている。それを大切にするということが、人間を大切にすることであって、それを無視して、めいめい勝手にやり出せば、個人も傷付くし、社会全体も傷付く。それがその辺の筋道ですね。それをどうやって決めるか。それが大問題ですよね。
 
金光:  まあ、最近ですと、その自己決定で、さっきおっしゃった feeling right とか、そういうのに関連して、例えば、日本でも援助交際の問題なんかありますね。本人達はお金がないし、遊びたいし、それによって自分達もときめき≠感じたりですね、それで楽しく遊べればいいではないかと。自分で発見して、自分で正しいと思って、ときめき≠感じるみたいな、その辺だったら、援助交際がいかんということにはならないと思うんですけれども、やっぱりそこのところで、先程から、おっしゃっている、してはいけないという線が越えられている危険さ、これについて気が付いていらっしゃらないということなんでしょうね。
 
粕谷:  その点については、こう思うんですね。援助交際の例をとれば、ああいうことをすれば、〈やっている当人自身の一番中核を破壊する、魂を壊す〉と言うんでしょうかね。それは本人の一生の大変な不幸を生む。それはいわばボディー ブローが、深く入っているわけだから、やった時はまだ立っているかも知れないけど、時が経てばだんだんフラフラして来て、ぶっ倒れるようなダメージを受けているんだということです。そういうことをした人は、大人はですよ、金の力でそういうことをするというのは、どんなに酷いことか、そういうことについての〈ドキンとする感度〉ですよね。そこでそれは絶対いかんと言うと、絶対という言葉を使おうと思えば、相対的な人間の枠を超えるわけです。そこで神様が出て来るんですね。その神様と道徳とはどういう関係があるかなんて、難しい議論をすることなしに、一体、神様というのを、どういうふうに考えるかという点について、ちょっと触れてもいいですか。
 
金光:  どうぞどうぞ。やっぱり一番大事なところだと思いますので。
 
粕谷:  僕はテレビの水戸黄門が好きなんですよね。最後の結末は同じで、副将軍の紋章を出すとみんなその前にひれ伏すわけですね。水戸黄門のいうことは、「お前等のやった悪行は、お天道(てんとう)様がみんな見ておられたことに気が付かなかったか」というわけです。そうすると、みんな悪代官を含めて地面に頭擦り付けて、「分かった」と認めるわけですね。僕は、「お天道様が見ていたことに気がつかなかったか」という言葉は、「お天道様は何か」なんて難しい議論を抜きにして、誰にも分かると思うんです。それは悪代官も分かったろうけど、そのテレビを見ている何万の人達も、あの水戸黄門の言葉に対して、誰も異議を感じないと思うんですよね。お天道見ていると。そうしますと、お天道様という内容は分からなくても、人間の自然ですよね。人間の心の中には、そういうお天道様をなんか理解する力があり、それを経験しているという、それが一つですね。それから、我々の子供達の時は、こういうことを言われましたね。「ウソをつくと地獄で閻魔さんに舌を抜かれる」というわけですよ。その時でも、地獄があるかないかなんて、どうでもいいんですよ。閻魔さんもどうでもいいんですよ。ただ、〈自分が自由意志を持って、悪いことをすると、その結果が自分に返って来る。そして、ドキンとする〉んですね。だから、「閻魔さんに舌を抜かれるぞ」と言われた時に、〈何故ドキンとするかと言うと、身に覚えがあるから〉なんですね。そうしますと、やっぱり〈人間の心の中には、人が見ていようと、見ていまいと、お天道様の前にやったことついては、言い逃れ出来ないような責任を問われる時が来る〉という、そういう感じるものを持っているわけですね。それから、もう一つこういうことがあったですね。僕はこういう神父の格好をして、ある一膳飯やと言うか、一杯飲み屋に行ったんですね。ママさんが僕に言うんですね。「あんたどこに住んでいるの」と。「この裏の修道院だ」と。「あんたキリストさんか」と言うんですよ。そしてこう言ったんですね。「私には仏さんもキリストさんも分からないけども、今の日本は、神様なしには生きていけないね」。つまり、このママさんが、「神様なしには生きていけないね」と、言った。その神様が何かということですよね。彼女は決してウソを言っていないんですよ。自分なりの信条を持っているわけですよね。だから、このママさんは神様何かなんて難しい宗教論争はしたことはないだろうけど、神様を知っているんですよね。そうしますと、飛躍しますけど、西田幾多郎という哲学者がいますよね。あの方が晩年の宗教論の中の終章にこう書いているんですね。
 
「神は我等の自己に、心霊上の事実として現れるものである。」つまり神は我々の心の中に、奥底の事実として、理屈じゃなくて、現れているものだ。
 
と。このママさん、まさに西田幾多郎説を実践しているんですね。だから、学者というのは、大体易しいことを難しくいうわけです。このママさんは西田幾多郎さんの宗教論ズバリを言ったと思うんですね。それから、もう一つ、これはある時読んだ禅の歌なんですけどね、
 
     闇の夜に鳴かぬカラスの声聞けば
       生まれぬ前の親ぞ恋しき
 
と言うんです。
 
金光:  「闇の夜」ですね、「闇の夜に鳴かぬカラスの」鳴かないわけですね。「声を聞けば 生まれぬ前の親ぞ恋しき」ですか。
 
粕谷:  闇だから、真っ暗でしょう。カラス真っ黒でしょう。見えないですよね。鳴かない、聞こえないんですよね。つまり、五感の領域では全く捉えないということですね。親は子供を生んで親になるわけですよね。ただ、「生まれぬ前の」これも時間を超えているわけですよ。みんなの心の中に、何か瞼の母を慕うように、なんかそういう〈魂の奥底に自分の存在の根元〉見たいなものですね。なにかと言われると、返答に窮するわけですよ。闇夜のカラス見たいなもので、表現のしようがないわけですよ。
 
金光:  ときめき≠ヘ五感ですけれども、ときめき∴ネ前、ときめき≠超えた世界の話、
 
粕谷:  魂、この奥底にあるんですね。そこで瞼の母に出会うことは、〈ときめき≠カゃなくて、安らぎ〉なんですよね。〈決定的な安らぎ〉なんですね。それを人間は求めているわけです。だから、そういう決定的な安らぎを蹴っ飛ばして、一時のときめき≠ノいくということは、愚かなんですね。そこに人間の迷いがあるわけですよ。そこに闇の夜があるんですね。それから、こういうこともよく感ずるんですね。よく、「神も仏もあるものか」と言うでしょう。
 
金光:  こんな目に、私が、自分が遭うなんて、
 
粕谷:  それは「神も仏もない」ということを言っているんじゃなくて、例えば、聖書を出しますと、マタイ伝二十七章四十五節に、こういう言葉があるんですね。イエスの最後の言葉なんですよ。
 
     私の神よ、私の神よ、どうして私を見捨て給うたのか
 
と、言うんですね。それは「神も仏もあるものか」ということですよ。
 
金光:  十字架の上のお言葉ですね。
 
粕谷:  つまり、人間の頭の方では、つまり知慧の方では取り付く島がないわけです。しかし、それが完全につぶされた時に、逆に心の中の方では、一番鮮明に、「あなたは」と呼んでいるわけですよ。なんで私をお捨てになったのか、という、その叫びの中に、人間の、結局、相対界を出られない人間の痛みを表現して、その意味で、キリスト教徒と呼ばれる人達はキリストの死の中に、相対者が持っている痛みを見ているのです。どんなにジタバタしても、絶対に到達出来ない「絶対」に突破する相対者の道を表現しているわけですね。
 
金光:  そうですね。今日の言葉で言うと、もう自力の限界をそこで超えた、超えることですね。
 
粕谷:  そこで「神」と出会うのです。
 
金光:  超えることですね。
 
粕谷:  超越ですね。だから、超越に到達しないと、相対者の人間は満足出来ないという、その矛盾部分ですね。そこに〈人間は人間でありながら、人間を超えたものによって満たされる〉ということですね。
 
金光:  本当の安らぎというのはそこへ、
 
粕谷:  それを求めてね。だから、例えば子供がアニメを見て、そして閻魔様がバッタバッタ人を殺すのを見て、すごいなあと思うわけですよね。やって見たいと思って、小動物を捕まえて、猫まで殺して〈人間の分際を超えたこと〉をしたいんですよ。超越に対しての一つの子供のチャレンジですね。そうすると、〈自分は神様になりたいという、そういう傲慢〉なんですね。〈自分を神様にしてしまう〉という、〈そこに誘惑の一番根元がある〉と思うんです。〈闇の力〉というのがあると思うんですね。
 
金光:  ただ、魔王にはならないにしても、私達の子供の頃考えてみても、チャンバラを見ると、そのチャンバラの主人公になったようなつもりになったり、一種のそういうものになりたいという憧れは、これは誰にでもあるんじゃないかと思いますがね。それ自体はいかんということではないわけですね。
 
粕谷:  どうやって満たすかですよね。どうやって満たすか。例えば、有名な原罪の話がありますね。アダムとエバは幸せだったのに、リンゴがピカッと光ったわけですよ。食べるに美味しそうに見えたというわけですね。つまりリンゴのピカリがときめき≠ネんですよ。そんなものなくたって、人間幸せになるのに、そのピカリにやられちゃったんですね。飛び付くわけですよ。そうすると、足下をグジャグジャにしてしまう。そうすると、気が付いて見たら、神様の前に身を隠すわけですよね。
 
金光:  疚(やま)しさという安らぎがないわけですね。何を代償にして、そのときめき≠満たしたか。そうすると、それは決して利口な取引じゃないんですよね。さっきから話題になっている本当の安らぎ≠ゥら、遠のいて行っているということですね。
 
粕谷:  そういうことですね。もう一つ、三年前にスイスのチューリッヒというところへ行きました時に、その近くに有名なユングという心理学者の研究所があるんですね。かねがねこの方を尊敬しておりましたので、研究所へ行ったんですね。そうしたら、研究所の直ぐ離れたところにユングさんの生家があって、その入り口に彼が非常に好んだという言葉が入口に書いてあると聞いたものですから、見に行ったんですね。本当に古ぼけた木造の家でして、もう三年経っていますから、今はないかも知れませんけども、古ぼけた家の玄関に、ラテン語で書いた言葉があったんですね。それを日本語に訳しますと、こういう言葉なんですね。
 
     呼ばれている神様も
     呼ばれていない神様も
     神様はそこに来ておられる
 
と言うんですよ。何を言っているかと言いますと、呼ばれている神様、例えば、三位(さんみ)一体の神様とか、アラーとか、八百万(やおろず)の神、いろんな呼び方があるでしょう。いわゆる何教の信者、名前を付けて呼んでおります。それが呼ばれている神様です。しかし、さっきのママさんみたいに、「私は仏さんも、キリストも分からないけど、今の日本は神様なしに生きて行けない」と言った時は、その神様は名前がないわけです。だから、名前なしに呼んでいるわけですよ。だから、そういうふうに名付けで呼んでいる人にも、名無しに呼んでいる人にも、神様はその心にもう来ているというわけですね。ここに来ているというわけですよね。その神様が決定的な救い主であって、その神様が心の中におるべき位置づけを得た時に、その人の心は平和に満たされている。しかし、人間には迷いがあり、闇があり、狂いが来るわけですよ。それを癒やさなければならないわけですよね。そこにユングさんのカウンセリングだとか、〈心の治療〉があるわけですね。〈治療というのは人間が人為的に治すことじゃなくて、復元力〉ですよね。そこに戻すことですよね。だから、カウンセラーに要求されるには、selfless な心ですよね。〈神様が治すんであって、自分が治すんじゃない〉〈その神様の復元力を目の前の人の心の中にどうやって生かすか〉ですよね。それに時間とか、忍耐とかですね。何よりも神様が治すんであって、自分はただ、脇役で本人と神様との間の復元力の脇役という気持です。そういうふうに見て行きますと、私が思うのは、今の日本にはそういう意味でも神様を沢山の人は求めていると思うんです。沢山求めていると思うんですね。
 
金光:  このままじゃ、困る困ると思っている方は沢山いらっしゃると思うんです。
 
粕谷:  そうです。それはむしろ学者とか、偉い人じゃなくて、巷(ちまた)の普通の人ですよ。その人は自分の人生の体感の中から、何とかしなければならないと。それを心の教育と呼ぶならば、それは今の緊急課題です。そうしますと、私はキリスト教徒として赤面しますのは、さっきの中三少女を考えて見ても、彼女はクリスチャンじゃないですよ。聖書も読んでいない。教会にも行かないですよね。だけど、〈自分が自分の母親から受けたダメージを理由にして、母親を呪うとか、母親を恨むんじゃなくて、その傷口をバネにしてね、母を恕(ゆる)している〉わけでしょう。
 
金光:  そうですね。
 
粕谷:  〈恕すだけじゃなくて、お母さんのこれからの幸せを祈っている〉わけですよね。その祈りは自分の元に母親が返って来ないことを前提するわけですよ。それはイエスキリストと同じなんですね。つまり、〈人間の罪によって傷付いた被害者が、加害者の罪をその傷口によって恕しながら、更にその完成を望む〉という、そういうことをキリスト教徒でない中三少女がやっていると知れば、キリスト教徒は赤面しますよ。
 
金光:  お母さんから被害を受けている子供が、「お母さんが悪かった。だから」と言うんじゃなくて、お母さんの幸せを考えているという、これはほんとに素晴らしいですね。
 
粕谷:  素晴らしい。神様はそこに生きているということです。
 
金光:  普通はそうで無くても、〈自分が悪かった〉のではなくて、これをしたのは「あの人が悪かった」「あの人がこういうことをしなかったら自分はこうならなかった」「これは社会が悪いんだ」とか、要するに、〈自分の問題としないで、自分以外のものの責任にする傾向というのが、非常に強い〉ような気がするんですが、そこのとこと、先程からのお話との繋がりと言うか、これはどう考えたら宜しいんでしょうか。
 
粕谷:  そうですね。今の日本を見ていますと、
 
金光:  神様が悪いんだというわけにはいかないわけですね。
 
粕谷:  そうですね。人間はやっぱり自由を与えられたから、つまり、ちょっとそれは飛躍するんですけど、神様が人間の自由を取ってしまって、人間がみんな天国へ行ったとしますでしょう。その時は天国に並んでいるのは操り人形なんですね。〈人間は自分の力で、自分の自由意志決定で自分で歩んで行く先を決めるという、その人格の一番中枢部〉ですよね。つまり、〈自由という問題〉ですね。それを取らないで人間を救おうとした時に、神様の苦心があったと思うんです。その〈自由をどう使うか〉ですよ。そうすると、今の日本を見ますと、例えば、お役人のトップとか、銀行とか、証券会社のトップクラスですね、その人達がいろんなことやっておりますでしょう。同じように子供が、例えばバイク盗んだりするわけですよね。それはみんな、結局、〈誰でも閻魔様と言えば、ドキンとしなければならない、そのドキンが、非常に弱くなった〉んですね。〈ドキンという、人間の自然の中に刻み込まれている、そういう基本的原則に対する感度〉というのが弱まったわけですよ。それを強めなければならないわけですよ。そうすると、中三少女のお母さんに、「お母さん、二度としないようにね」というのは、〈お母さん、ドキンとしたでしょうと。それを忘れないで〉ということですね。そうすると、結局、〈心の教育というのは、思いやりということ〉と、〈人間の原則に対する感度〉ですよね。それは学問とか、なんとかじゃないと思うんです。人間の持っている基本的な感度であって、それを〈どうやって、もっとっもっと、いきいきとするか〉。その為には僕は宗教家というのは凄く責任があると思うんです。凄くあると思うんですよ。つまり、宗教評論をやっているんじゃなくて、こういう現実に対して責任がある。そうすると、宗教家の危ないのは、集団化するでしょう。そうすると、その〈宗教集団というのは、宗派エゴとか、教団エゴのとりこ〉になり易い。そうすると、〈神様、仏様を理由にして、ドキンを麻痺させてしまう〉んですよ。そうすると、一番そういう点で鋭敏でなければならない部分が、曇って来れば、やっぱりそれは周りに対して、非常に悪い影響を与えますよね。
 
金光:  歴史的にいろんな出来事を見ておりますと、宗教が決して人類にいい結果を与えていないというのは、そういう集団エゴ、ドキンとしなくなった人達の集団になってしますところから生まれて来る点があるようですね。
 
粕谷:  そうです。だから、集団というのは恐いんです。とっても恐いんですね。
 
金光:  でも、じゃ、具体的に遠くても、ときめき≠ニいうものはいいものですから、ときめき≠ェ危ないんだと、ときめき≠セけじゃダメですよと。ドキンとする気持を強くする感度を強くするには、これはどういうふうにすればよろしいでしょうかね。
 
粕谷:  どうしたらよろしいんでしょうね。
 
金光:  やっぱり、昔からのいろんな、それこそ聖書にしても、人類を導いて来たような、いろんな教典、聖典というものがあるわけですけれども、あまりにも自分個人の小さな、〈自分個人だけの自己発見とか、自己決定だけですと、非常に間違った道へ行く可能性もある〉ということですから、そういう非常に長い間、大事にされて来た〈人類の叡智と言ったようなものを、もう一度見直す〉みたいなところも一つの大きな柱になるかも知れませんですね。
 
粕谷:  そうですね。僕、個人について言えば、例えば、ベトナムに行きますよね。そうして、貧しい子供に会いますよね。子供は何も罪もないのに、非常に苦しい状態にある。だけど、その子が惨めったらしくないんですね。生き生きしているんですよ。だから、〈可哀想な子を救って上げるというのではなくて、あんなに素晴らしい子がいるんだから、そこから学ぶ〉わけですよね。だから、ほっといてはいけないという、そういう子供に接することによって、ドキンという感度を、僕のドキン感度は強まるんですよ。
 
金光:  成る程。
 
粕谷:  ですから、みんなどっかへ行きなさいというのは現実性がありませんよね。日本の国内にも沢山あると思うんです。いろんな問題がね。やっぱりそういうものに触れて、出会って、それと自分の現在の生活と照らし合わせた時に、やっぱりなんかドキンとする部分を感じて、これじゃいけないんじゃないかとか、非常に不十分だけど、せめてこれくらいのことは、しなければならないんじゃないかというようなことを、実行をしていくと、やっぱり、そこになにかが出て来るんじゃないでしょうか。
 
金光:  成る程。むしろ、大上段に振りかぶって、というよりも、むしろ個々の人のドキンという、その感度を研ぎ澄ますと、
 
粕谷:  そうです。
 
金光:  これはいけないかなあ、ということがあると、そこで立ち止まって考えて見ると、むしろそういう姿勢の方が大事なのかも知りませんね。
 
粕谷:  そう思います。だから、町角のおじさん、おばさん、坊ちゃん、嬢ちゃんがですね、何かそういうことをやって見て、その時に心に起こる反応が、その方がただ自分が美味しいものを食べることよりも楽しいんだという、そういう体験をすると、またやりたくなりますよね。そういう積み上げが、やっぱり心の教育というものをベースです。ボランティアの運動が日本にあちこち大分沸いて来たんじゃないかと思うんですよ。
 
金光:  そうですね。
 
粕谷:  そういう芽を大切にしなければならないと思うわけです。
 
金光:  先程の、大人の世界の話の中には、不倫の状況のことなんかも出ておりましたけれども、聖書の中にも、いわば現在の言葉で言うと、不倫の現場を見つかってと言いますか、裁かれるところが出て来ますね。
 
粕谷:  そうですね。
 
金光:  あれはどういうふうに読めば宜しいんでしょうか。
 
粕谷:  それはですね、ヨハネ伝八章なんですね。一節から十一節までありまして、読みませんけれども、内容は大分、みなさん知っていらっしゃると思うんですけど、姦通の現場を捕られて来た女が連れて来られたわけですね。おっかない法律とかなんかを楯に取る人が取り囲んでいるわけですよね。
 
金光:  その当時は見つかると、どうなるわけですか。
 
粕谷:  現場を捕まると、石殺しに遭うわけですよね。そういう厳しい社会の中で、現行犯で捕まったわけですよ。それを捕まえて来て、イエスに連れてくるわけです。その目的は、「此奴を石殺しにせよ」と言えば、「日頃罪人赦せとか、愛を説いているのに」となるわけでしょう。もし逆に、「赦せ」と言ったら、「お前、日頃自分が来たのは、律法を排する為だでなくて、完成するためにきた」といっているではないか。「モーセはそういう現行犯は石殺しにせよと言っているじゃないか。それを無視するのか」となり、どっちへ転んでも、絶好のイエスをやっつけるチャンスです。その時に、イエスのとった態度というのは、両極端を排するんですね。一つは、「よし、分かった。おれも石を投げる」という。もう一つは、両手を広げて庇うんです。しかし、彼は地面に向かって字を書いているわけですよね。周りの恐いおじさん達はカッカ来るわけです。「なにやっているんだ」というわけですよ。そうすると、あんまり、わあわあ言うから、イエスはちょっと顔を上げて、「お前達の中で罪の覚えのない人間だけが、先ず、石を投げなさい」というわけですね。また、下に字を書いているわけですね。そうすると、みんな、「先ず」と言われたら、先頭切ってこう投げる勇気がないんですね。みんな身に覚えがあるからね。そうしたら、そのうちに、聖書によれば、「年長者から一人、また一人去って行った」と書いてあるんですね。これはどういう意味だと分からないんだけど、こういう説明があるんですね。年長者が、「お前、何を書いているんだ」と。覗き込んだと言うんです。その時、かつて不倫の罪を犯した相手の女性の名前をイエスは書いたと、いうんです。ドキンとして、その年長者は石を落として、そっと行ってしまった。次の人は、「何であの爺さん行っちゃったのか」というわけで、行って覗き込んだわけですね。また、書かれたわけですよ。また、ドキンとして行ってしまったわけです。このようにしてこわい人達はみんな居なくなってしまった。そして、最後にイエスが彼女に対して、「お前を石殺しにしようと思う人々はどうしたのか」と。「誰も罪に定めなかったのか」と聞いたら、彼女は、「はい、主よ、誰も」と応えた。と、イエスは、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない」と。ここで大切なのはこういう点なんですね。二つの極端を排するんです。一つはみんな考えてごらん。みんな身に覚えがあるだろう。みんなやっぱり弱いんだと。だから、いたけだかに人に石を投げる身分じゃないだろうと、反省させる部分です。もう一つはいきなり手を広げて庇うんじゃなくて、相当長い時間、彼女はほんとに、今やられるか、今やられるかという恐怖のどん底にいたわけで、その時の幅をそばにいて共に忍んだのです。
 
金光:  もう、懲り懲り。
 
粕谷:  もうこんな恐ろしい思いは二度としたくない。その思いをさせるわけですよね。そして、もう二度としてはいけないよ。
 
金光:  成る程。
 
粕谷:  ということは、中三少女と同じなんですね。「お母さん、二度としないよね」という。「決してしてはダメだよ」という。それをただ言葉じゃなくて、その身を摘まされるような苦しい体験をさせた上で、もう身に沁みて分かったろうと。こういうこと絶対してはいけないよという、それを本人は教えているわけでしょう。この二つの面ですよね。
 
金光:  ユダヤ教は、非常に厳しいと。それで石を持って打ち殺すというたら、残酷なことも行われるんだと。しかし、イエス様は優しく、そういうのは止めさして、解放して上げたと。みんな悪いことはしているんだから、まあまあそんなことをしないでというところで理解していると、とんでもないことになりますね。
 
粕谷:  お涙頂戴なんですよね。そういう社会は、やっぱりダメですよね。やっぱり筋を通さなければならない。しかし、思うようにならない。中三少女の言葉は素晴らしいんですね。両方持っておりますでしょう。「お母さん、もう二度としないよね」。この場合は女性に対して、〈二度としてはダメだよ〉という、厳しい貫く面があるわけですよね。だけど、中三少女は、〈私のところに戻らなくていいよと。向こうの子供を大事にして欲しいよ〉という〈思いやり〉がありますよね。この場合も、思いやりがありますよね。だから、庇ってやったわけですよ。で、和解出来たわけですよね。その和解がなければ、その場だけ守ってやっても、憎しみが残りますよね。ですから、人間の内面的な和解というものと、それから、原則を守らせるということの調和ですよね。そこに神業がある。そういうふうに、我々は見るんですね。それは言うのは易しいけれども、実際上難しい。
 
金光:  そういうふうに、じゃ、具体的にこれを越えちゃいけないと。それが例えば、日本の場合も、戦争に負けて、敗戦という出来事があります。それで、そうすると負けて、しかも、侵略戦争をしたと。そういうのは全部昔の悪いことがそうさせたんだから、昔のことは悪いんだと。もう全くの断絶から新しくスタートして来たというような感じがあるわけですけれども。と、言って、新しい規範はどっかにあるかと言うと、どうもそういうものがないから、もたもた、先ずときめき=Aそれでいいではないですか、というような程度のところで、うろうろしているのが、どうも現実ではないかと思うんですが、そこで問題になるのは、ときめき≠ェ、いわば闇の力と言いますか、自己崩壊へいく力だというのを見抜く目がないという、その力が養われていないという現実があるわけですね。
 
粕谷:  感度が足らないんでしょうね。それはやっぱり豊かになってしまって、もうそういう楽しいことを、みんな追っかけ追っかけ、そして実は追っかけ回されている。その中に一番中心の、人間の感度が鈍くなってしまった。
 
金光:  人間というのは、そういう感度が非常に鈍くなっている。人間というよりも、自分の感度はどうなのかということを考えて見る。そこのところがどうもこれからのスタートになる一番の早道かも知れませんですね。
 
粕谷:  そうですね。だから、昔は貧乏だった時は、食べることに追いまくられたわけですよね。それもある意味では、感度を鈍らせるわけですよ。豊かになり過ぎても感度を鈍らせるんですね。だから、どういう時代でも〈目覚めて祈れ〉という、自分の内面の中枢感度を磨きながら、豊かになったら豊の中に、貧しいなら貧しい中に、人間の本質な部分が、どうやって全うされるのか、そういうのを求めていくところに、人間の本質があって、そういうことは宗教者は、こういう時代には声高に言わなければならないですね。それを恐れてはならないと思うんですね。今の時代というのは、宗教者は勇気を出して、言うべきことを言わなければいけない時代だと思います。
 
金光:  ただ、その場合に、一種の大きな声で喋るというのと、それから、大事なことを静かに説くというのと、なかなかその辺の難しさがありますね。
 
粕谷:  全くその通りですね。何か我田引水的にね。まさにさっきの集団の暴力みたいなね、そういうのは大きな過ちですよね。また、片隅に小さくなって、祈っているだけではなくて、やっぱり、風当たりが強くても、言わなければならないことは、どんな非難を受けても堂々と言う勇気をね。
 
金光:  むしろ、そういう新しい本当の安らぎの世界があるということを気がついていない人がいるとすると、こういう世界があるんですよ。どうぞ気が付いて下さるということは、これは教えてあげるのが、本当の思いやりということになるわけでしょうね。
 
粕谷:  勿論、そうだと思いますね。そういう中で、これから日本はどうなっていくかということを、心の教育という問題を巡って、我々みんなが考えていかなければならないと思います。
 
金光:  そうですね。どうもいろいろと有り難うございました。
 
 
     これは、平成九年九月十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。