いのちについて考える    
 
                                   大 石  邦 子(くにこ)
昭和十七年福島県生まれ。昭和三十六年会津女子高卒。高校卒業後、地元で就職したが、22歳の時、通勤途中でバス事故に遭い、左手と下半身マヒに。医師から不治の宣告を受け、自殺未遂を2回起こす。しかし、右手の動くうちに自分の思いを書き残そうと歌の道へ。以来、歌に打ち込み歌集「冬の紅」は福島県文学賞を受賞。また入院中に知り合った青年との交際記録「この愛なくば」は大竹しのぶ主演でテレビドラマ化され、昭和55年芸術祭大賞を受賞した。他に「この生命あるかぎり」「私のなかの愛と死」歌集「くちなしの花」など。
                               ききて 金 光  寿 郎
 
金光:  福島県大沼郡会津本郷町、会津盆地を流れる大川の西に広がるこの地方は本郷焼きの焼き物の産地としても知られる歴史の古い町です。今日はこの町に住むエッセイストの大石邦子さんをお訪ね致します。大石さんは昭和三十九年の九月、事故に遭い、二十二才で若さで下半身マヒの身体となりました。入院後もマヒの症状は進んで上半身にも広がり、十二年の闘病生活が続きました。その間の心の軌跡を文章に綴り、歌集も発表しておられます。会津本郷の新町(しんちょう)にある大石さんのお宅で大石さんの歌集を繙(ひもと)きながら、お話を伺いました。
大石さんがバス事故に遭われたのが、確か昭和三十九年の東京オリンピックの年の、確か九月のことだったとか、伺っておるんですが、その時の記憶に残っていらっしゃるのは、どういうことでございますか。
 
大石:  そうですね。九月十五、十六とこの町のお祭りで、そして、朝七時二十分のバスに乗って出たんですが、
 
金光:  それは次の十七日の朝ということですね。
大石:  そうです。そしてお祭りの花輪がまだ取り込まれないで各家の軒先にあって、そういう朝靄(もや)の中で、そういう紙のお花を見た。それが最後でしたね。そしてその先で小さな車が飛び出して来て、
 
金光:  バスの前に。
 
大石:  はい。バスが急ブレーキをかけて、
 
金光:  そこまでは覚えていらっしゃいますか。
 
大石:  そこまでしか覚えていないんです。
 
金光:  その後、気付かれたのはどの位後でございますか。
 
大石:  午後か夕方だと思います。ただ、その時、最初に目に飛び込んで来たのが、窓が赤いという。何か私には燃えるように赤く見えたんですけれども、それは異常神経だったと思いますけど、多分夕焼けだと思いますね。
 
金光:  それで気付かれた時はもう左の足がどこか、
 
大石:  もう半身は利かなかったです。左側はもう全然利かなかったです。
 
金光:  で、普通、例えば、脊髄が損傷した方の場合は、その状態で大体後は固定したままで治るという。固まるにしても症状はそんなに変化しない。良くなることはあっても、悪くなることはないと聞いているんですが、大石さんの場合はその後随分症状が動いたようですね。
 
大石:  動きましたね。マヒも随分上がったり、下がったりしましたしね。多分、事故そのものよりも体力が落ちて、その後に起きた余病の方が強かったような気が、私はするんですけどね。意識が無くなったりというのはぶり返しましたものね。
 
金光:  意識が無くなったり、意識が戻ったりというのは続くわけですか。
 
大石:  はい。
 
金光:  繰り返しがあって、マヒの状況もまた随分変化があったようですね。
 
大石:  ありました。顔面まで痺れが上って来た時期もありました。
 
金光:  ずうっと上まで。
 
大石:  はい。ありました。
 
金光:  また、下がったり。
 
大石:  そうですね。で、今の状態で落ち着いたんですけども、
 
金光:  その間、何年も入院なさって、
 
大石:  私は全部で十二年位、トータルですけどね。最初は六年半位、ざあっと続けて、それこそ、ほぼ寝た切りの状態が続きましたね。
 
金光:  大石さんは歌を詠んでいらっしゃるんですが、
 
     昼も夜もうち継ぐ点滴しびれたる
       手首に涙の色して落つる
 
というのがありますね。これはいつ頃の感じでしょうか。
 
大石:  それははじめからずうっと続きましたね。私の手は今入れ墨の如く、いまだに取れない位、注射の針の後が。
 
金光:  ずうっと点滴が続いて、
 
大石:  点滴がもうずうっと続きましたね。何年もね。それに点滴というのは長いでしょう。そうすると、静かにポトポトと落ちていく点滴の薬液のあれが静かに、ほんとに私には涙のように見えました。自分の涙のように見えました。
 
金光:  こういうのもありますね。
 
     物投げて喚(わめ)き疲れてひとりなり
       空し涙の耳に入りくる
 
大石:  そうですね。やはり、どうしていいか分からないと言うか、先ず苦しかったことですね。呼吸が苦しかったこと、
 
金光:  呼吸が苦しいんですか。
 
大石:  それは苦しかったですね。痛いんですしね。
 
金光:  痛みも引かなくて、ずうっと続くんですか。
 
大石:  続きましたね。何年もありましたから。
 
金光:  マヒしているから、痛くないということじゃないんですか。
 
大石:  そうじゃないんですよね。ですから、どこか痛いという、触って感覚が、
 
金光:  ないわけでしょう。
 
大石:  感覚がないのに、痛みというのが突き上げるように、筋肉の奥から突き上げて来るというような、
 
金光:  それは続くわけですか。
 
大石:  続きますよね。そうしますと、ほんとに呼吸はゆっくり出来ないですからね。そして治るんだか、治らないのか分からないし、毎日毎日注射と痛みという、それからものを吐きましたからね。
 
金光:  食べたものが、
 
大石:  食べられないんですよ、最初は。全然、一年位はほとんど自分で食べられませんから。
 
金光:  点滴だけですね。
 
大石:  そうです。ですから、そういう中で追い込まれていくと、何か発狂しそうなような感じで、非常に、患者としては劣等生、ダメ患者の代表的なものでしたからね。ただ、どんなに騒ごうとしても、動くのが右手だけですから、限られているでしょう。自分の手の届く範囲でしか、なんと言うか、大騒ぎが出来ないんですけど、やっぱり時々自分の心が追い詰められていって、コントロール出来なくなってね。右手の届く範囲というのは、吸い飲みなどのある消灯台の上だけですけどね。そんなものを、こう本を投げたり、吸い飲みを投げたり、
 
金光:  それで何か大きな声も、
 
大石:  結局、そんなことをいっくらやったって、むしろ虚しくなっていくだけなんですけども、そういう時代がありました。
 
金光:  こういう歌を作られたのは、じゃ、大分後。痛みの中で歌を作ろうというふうに考えられたわけですか。
 
大石:  私は歌を作り出したのは四年目なんですけども、その頃は、仰向けに寝たっきりで、動くのは右手だけだったんですよ。この右手がだんだん力が無くなっていくんですね。そうしてこうスプーンなんか持っていて、ポトッと落っこったりすると、もう息が止まる位ね。この手が利かなくなったらどうしようと思って、毎日自分の右手の知覚確かめるように、頸動脈、いろいろと感覚を感じるのはこの辺しかないんですよね。自分の手の温かさというのは、どこを触っても感じないわけです。頸動脈をいつもこう触りながら寝ていたんですけど、その時、ある夜、この手の動くうちに、もうこの手が利かなくなったら、私には何もなくなるって。当時動かない身体で動くというのは、右手というのは全身なんですよ。感覚としてね。私の全身なんです。私のこの手がね。この手が利かなくなったら、私はもう何も出来なくなるという思いで、この手のあるうちに、父と母に遺言のつもりで、何か自分がこんな二十代で死んでいく虚しさ。やっぱり無念だったですよ、私。それでその無念さを書き残しておきたいと思ったんですが、長い文章も書けないでしょう。仰向け、寝たっきりでしたから。それで歌なら作れるかも知れない。高校二年の時の教科書に載っていた石川啄木の歌を、瞬間的に、その時思い出したんですね。それがその、
 
     友がみな吾より偉くみゆる日よ
       花を買ひきて妻と親しむ
          (石川啄木)
 
それが歌なら。教科書になっていたのを思い出して。当時の私の心境そのものでしたから。みんな同級生達、綺麗になって、恋人が出来たり、旅行に行ったり、お見合いをしたり、中には結婚する人もありましたね。そういう時にふと啄木の歌を思い出して、これが歌なら私にも作れるかも知れないと思って、まさしくこう指折りながら、
 
金光:  五七五と。
 
大石:  作ったことないですからね。こう折りながら作り出したんですね。
 
金光:  ああ、そうですか。まあ、そうやって次々に歌を作っていらっしゃるんですが、
 
     失禁といへども遂にわが尿(いばり)
       出でしにベッド打ちて泣きしよ
 
というのもありますね。これはそれまでお小水というのは自分では出せなかった。変な言い方ですけれども。
 
大石:  私は歩けなくなったことよりも、手が利かなくなったことよりも悲しかったのは、そのオシッコの感覚がマヒしている、と知らされた時ですよね。私はもう人間でなくなったなあと、その時、そう思っておりましたね。毎日一日六回づつ管でオシッコを取らなければ、生きてゆけない身体だと知らされたんですけどね。私は若かったでしょう。だから、ほんとに人の前で、今の若い人のように開けていませんので、人の前で裸になるなんてこと全くなかったですよ。
 
金光:  それはそうでしょう。
 
大石:  学校の身体測定位しかね。その自分の身体に、毎日毎日管が差されてオシッコが取られるというのは、その度に私は死にたいと思いました。我慢すること、我慢しなければ生きられないわけですけれども、そういう管でオシッコを取ることに慣れるということは、ついつい出来なかったんですからね。それが丁度五年目位ですかね。失禁ですね。要するに、自分の意志でなかったんですけれども、私はもう生きていて、こんなに嬉しかったことは、もう私の人生では未だにないんですよ。オシッコが出たって。私が初めて生きていけると思ったのは、オシッコが出た時ですね。
 
金光:  自分で自覚出来て、それでまあ人間回復と言いますか、これでやっていけると。
 
大石:  生きられると、その時に思ったですね。この時ほど、嬉しかった経験というのはなかったんですね。
金光:  こういうのがありますね。
 
     翔(か)けゆきて雁(かり)を抱けるわが夢の
       醒(さ)めたる後も熱く思へり
 
これはやっぱり、そういう状況になっても動けないのは続くわけで、雁が見えたりすると、やっぱり、
 
大石:  もう翼というのは憧れですよね。鳥の翼というのは、空を飛べるというのは。そうすると、変な感覚になって、やっぱり心が身体から抜け出すんですね。そして時々、こう飛ぶ鳥の、そういう感覚がありまして、常に翼があったらなあと。自分にも翼が、飛びたいという思いがよくありましたから。
 
金光:  そのわが夢というのは、現実の夢でもあるし、それから夜寝た時の夢でもあるわけですか。
 
大石:  それはほんとの夢ですけれどね。
 
金光:  寝た時の夢ですか。
 
大石:  眠っている時に飛んでいる雁の群に自分が飛び立って行って、雁を抱くんですよね。
 
金光:  そうですか。
 
大石:  そういう夢を見たんですけど。多分飛びたかったんだと思いますけどね。
 
金光:  そうですか。
 
大石:  だから、翼への憧れというのは、その頃の歌に、
 
     処女懐胎かなはば吾の名付けむよ
       ひたすらにして「大石翼」
 
という歌があるんですよ。相手がいませんから。大石なんですけど、子供が生まれたら、「翼」と付けたいという思いがありました。
 
金光:  そういう状況が続いていて、この歌なんかになると、随分気持が変わっていらっしゃるなあと思うのは、
 
     わが意志に動く右の手高々と
       青澄む空に向けてふりたり
 
と。これは後になるんですね。
 
大石:  そうですね。車椅子で散歩に出られるようになった。
 
金光:  大分後ですか。
 
大石:  大分後です。六年目くらいかな。その後ですね。今でもそうなんですけど、やっぱり遂、嬉しくなると、空に向かって、手を振りたくなる。右手というのはそれはまさしく私の全身ですから。今でも時々ありますよね。
 
金光:  その頃になって来ると、全身の青空に向けて、ということは、よし、これで行こうと言いますか、何かそういうもう寝たっきりとは随分気分が違って来ていらっしゃるわけですね。
 
大石:  そうですね。まあ、嬉しい時の行為でしたね。嬉しさというのが結構苦しかっただけに、一つ一つが、そういう嬉しいという思いに繋がるものがありましたからね。そういう時に。
 
金光:  まあ、そうやって、そういう非常に苦しい時期を過ごしていらっしゃる。それを自分でどういうふうに、そのままそれを引き受けてしまうわけにはいかない。どうすればいいのか、いろいろお考えになると思うんですが、こういう歌もありますね。
 
     脚に頸に錘を下げて眠る夜は
       親しキリスト啄木のうた
 
やっぱり聖書のイエス様だとか、啄木の歌なんかを、これはある意味では啄木の歌が出て来るところを見ると、まだ割に初期に作られた歌ということでしょうか。
 
大石:  初期ですね。初期と言っても四年位ですが。やっぱり四年目というのが大きな一番症状の悪化した時期ですよね。
 
金光:  そうなんですか。
 
大石:  歌を作るようになった頃というのが、一番、やっぱり追い詰められて、歌が創られ始めましたからね。私は全然イエス様とか、キリスト教とか知らなかったですよ。ただ、私の学校というのは非常に古い県立の学校だったんですが、学校の正門の前に教会、裏門の前も教会でしてね、県立の高校なのに、キリスト教会に挟まれた学校だったんですよ。どの教室からも、どっちかの十字架が見えていたんですね。でも、全然関心もなかったのに、倒れて動けなくなった時に、あの十字架って何だろうと思いだして、磔になって痩せ衰えて力なく、首を垂れて肋骨(あばら)がガリガリで。その身体というのが当時の私の肋骨ガリガリの痩せ衰えた自分の身体に繋がっていて、釘を打たれて十字架に架かっているというのが、どうしてあんなふうに架けられているのか、私には分かりませんでしたけども、ああいう苦しみに遭っている人というのは、あの人なら私の気持ちをいくらかこの今の私のやり切れない苦しみというのも分かって貰えるかなあという単純な思いでしたけれども、凄く気になり出した。
 
金光:  こういう歌もあるんでしょうか、
 
     磔のイエスの釘をぬきし夢
       醒めてしばらく動悸がやまず
 
磔のイエス様の釘が抜かれた夢があるんですか。
 
大石:  掌の釘を必死になって、抜いた瞬間目が覚めて、心臓が止まりそうで、そういう夢を、それも何度か見たんですよ。
 
金光:  そうですか。
 
大石:  だから、多分自分の釘を抜いて貰いたかったんだろうなあって、後から、今は思いますけども、当時は汗だくになって目が覚めるという。手の平の釘をもう必死になって抜く夢だったですけどね。
 
金光:  やっぱり目が覚めた時は、それは、
 
大石:  もう心臓が破れそうにドキドキしていましたね。
 
金光:  まあ、そういうところでだんだんと、そういう磔になったイエス様と自分の状況を重ね合わせて、だんだん親近感をお持ちになると言いますか、ご聖書なんか、その頃からお読みになるようになったんですか。
 
大石:  あまり読まなかったんですけど、何か聖書なんか読みたくないなあというふうな、
 
金光:  そんなに簡単に取り付きやすくはないですから。
 
大石:  でも私にとって、磔になったキリストというのは、もうその頃は一番心に気になって、気になっていた人でした。
 
金光:    汝が胸を枕に呼ばふ空の果て
          モイゼエリアよわがキリストよ
 
という歌がありますね。これはモイゼとか、エリアとか、キリストを我が胸に呼ぼうという、
 
大石:  これは洗礼を受けた後ですね。初めて海を見に連れて行って貰った時に、砂浜に負んぶして下りて貰って、休むところがないものですから、砂浜に腰を下ろして一人で居られないものですから、連れて行ってくれた人に寄り掛かって、そうしたら、空の雲が切れて、そこから束になって光が、光の束というのがあるでしょう。その光が私に向かってこう光の束、その時にああこういうのが旧約聖書にあったなって、エリアとかモイゼとか、そしていまに繋がるキリストという形がつい何となく、
 
金光:  自分にこの光と共に自分に来てくれるというか、そういう感じですね。
 
大石:  こう素直に呼べると言うか、そんな気分が起きたんですね。
 
金光:  そういうふうにキリストとか、エリアとかモイゼとか聖書の中に随分いろんな記述があるわけですけれども、そういうものをご覧になっても、ご自分の身体が自由に動けるようにはならないという現実が残るわけですね。そういう状況を大石さんご自身としては、どういうふうに見方が変わると言いますか、なかなか受け入れたくないという気持がずうっとあるんじゃないかと思いますけど、
 
大石:  そうですね。もう神なんか知らなくとも元気な方が良いと、ずうっと思っていましたしね。神様に誉めて貰わなくたって歩けるとか、手が動く方がいいと思っておりましたけれども、病気というのはほんとに逃げようがない世界ですよ。どんなに逃げたいと思っても、逃げられない。追い詰められて行った中でね。そうすると、人に迷惑になるだけで、私が生きていることで益する人は誰も居なくて、みんな迷惑になって、それでも親や兄弟は励ましてくれているわけですけれども、そういう中で苦しくて、何で生きているのか分からないという時に、生きている意味が全く見い出せなくなるわけですよ。
 
金光:  有名な旧約の中にはヨブという人がいますね。そして随分次から次へ財産は取られ、病気にはなるし、というような、なんでこんなに苦しいことばかり続くのかというような言葉がヨブ記には書かれているわけですけれども、例えばああいうものを読んでも、ヨブと自分を一緒にするなんてことには全然、
 
大石:  全然出来なかったです。ただ一つ苦しい中で分かったことは、そういう苦しみの中にあっても、生きている自分に何か意味を見出したならば生きられる。意味がなければ生きられない。という、状況がもう極限状態にいくとあるんですね。それでも生きていていいという意味が、なにか欲しいわけですよ。そういう状況の私にとっては、時々チラッと聖書の言葉が響いてくることがあって、あ、こんな私でも生きていいと言われている、というふうに思いたい。中で聖書が、やっぱり聖書の言葉が響いて来るようになったんですね。
 
金光:  確かもう自分が生きてしようがないと思われて、生きていても迷惑を掛けるだけだというところで、確か睡眠薬をお飲みになったことございましたですね。
 
大石:  はい。
 
金光:  それでも病院では直ぐ処置されるから、その後はどういうふううにお感じになりましたですか。やっぱり生きなければいけないと直ぐ思いたわけですか。
 
大石:  私はその時に初めて、ほんとに親が生きていることを望んでくれていた、ということ知ったんですよ。それまでは、口ではあんなことを言っているけれども、ほんとはお金ばかりかかり、治る見込みがないのなら死んでくれた方がいいと思っているんじゃないだろうか、という思いがいつもあったんですね。それでいくら優しくされても、素直になれなくて、父や母につらく当たっていたことが長いんですね。でも、その自殺に失敗したと言うか、助けられちゃった時に、またこれは薬物によって焼かれる苦しみというのは、また別なんですよ。もうガソリンを飲み込んで、お腹の中で火を付けられたような感じなんですね。もう内蔵がみな音を立てて燃えて、口からは炎が吹き出すという感じなんですよ。
 
金光:  地獄の業火に焼かれたようなものですね。
 
大石:  薬物に焼かれるというのはそういうものですね。意識が返った時に、目の前に父の顔があって、家の父って、いつも綺麗に白髪を梳(と)かしていて、そういう人だったんですが、落ち窪んだ目をして、髪はボサボサで、その父が朧気な視野の中でぼおっと大きくなって、その父が私の両方のほっぺたをピタピタピタピタ叩きながら「生きなくちゃダメなんだ、ダメなんだ」と。「お父ちゃんの為にも、お母ちゃんの為にも生きなくちゃダメなんだ。分かるか、分かるか」と言いながら、私のほっぺたを両手でピタピタピタピタ叩きながら涙をこぼしたんですよ。私が見た父の涙というのはそれが初めてだったんですね。ああ、こんな私でも、親は一生自分の背に背負っていかなくちゃならないような娘でも生きていて欲しいと、ほんとに思っているんだなあって、その時思ったんですね。こんな思い、誰にも分からない。私の苦しみなんか誰にも分からないと思っていたんだけれども、命ってそういうものではなかったのかも知れないって。で、父とか母とか兄弟とか、爺ちゃん、婆ちゃんも私にはいませんでしたけれども、親友とか恋人とか、そういう命というのは、こうお互いに噛み合いながら、こう深く繋がっていて、その中の一つが傷付くということは、噛み合っている命がみな同時に傷付いてしまうということなのかも知れない。
 
金光:  自分一人のものではなかった、命は。
 
大石:  そういうものだったんだなあって、初めて気付かされたと言うか、私は自分で自殺を計った時に、自分が苦しいから逃げたい気持もありましたけど、私が生きていることで、妹は大学をお金が続かなくて止めざるを得なかったり、母はガンの病み上がりなのに、苦しい中で私に接したりしていたから、そういう中で母ぐらいは、少しは私が居なければ楽になれるんじゃないかなあという気があったんですけれども、その母は私が大量の薬を飲んだという知らせを受けた時、病み上がりだったものですから、心筋梗塞(しんきんこうそく)という症状を起こしちゃってね。既に別の病院に収容されちゃっていたんですよ。そういう父と母の姿を見せられた時に、親って悲しいなあと、その時に思って、親というのは、どんなに出来の悪い子でも、生涯自分の肩に背負っていかなければならないような子でも、生きていて欲しいと思うものなんだなあということを、その時初めて、そういう命の絆みたいな、命が繋がっているという、愛も苦しむんだと。命を結ぶ、愛そのものが苦しみ、愛そのものが悲しむものだったという、愛の概念というのが大きく変わっちゃって、愛と言うと、普通、よく使われる愛するとか、l love you の愛とかという感じて捉えていたけど、愛というものはそういうものではなかったという思いが、
 
金光:  今おっしゃるような愛だとなんか自分に都合のいい時にはスムーズに働くけれども、ちょっと具合が悪くなると、それが愛が憎しみに直ぐ変わるような、そういう感じもありますけれども、そういう我執の匂いが強いのが。しかし、ほんとの命のギリギリのところになると、自分とか、他人とかという区別のないところで繋がっている命で働くわけですね。そこではまだ、先程も言いましたが、その苦難と言うか、自分がこういう苦しみという目に遭うのが、どういう意味がある。それを自分で認めるというか、それはなかなか難しいでしょう。命なんかまだピンとまだ、
 
大石:  全然来ませんでした。今はなんか、「苦しみが苦しみによって救われる」という言葉、ヨブ記の中にありますね。「苦しみは苦しみによって救われる」という言葉はほんとだったと、今は思いますよ。私は。やはり一つ一つが先ず身動きが出来なくなって、寝返りが出来なくて、手も足も自由に動かなかった長い時代がありましたから、先ず寝返りが出来た喜び、畳半分位の世界が、寝返りうてるようになると、畳二枚の世界が広がって来ますよ。これはほんとに自分の世界が倍に広がるわけですから、
 
金光:  それはそうですね。
 
大石:  これは嬉しかったですよね。そして四年半目から、リハビリテーションが始まったんですけど、訓練室のマットの上で初めて寝返りがうてた時というのは、やはりほんとに世界がこんなに広がったって。今度それが出来ると今度は前に這いたいと思うんですよ。前に自分の力で這えれば、世界は前にも広がっていきますからね。
 
金光:  それはそうですね。
 
大石:  そして自分の右腕だけで、身体がグウッと十五センチ前に動いた時のその喜びって、あまりに絶望時代が長かったものですから、寝返りがうてた喜びとか、這うことが出来た、五十センチ這えた。一メートル這えたという、
 
金光:  もの凄く新鮮ですね。
 
大石:  それはまさしく喜び以外の何でもなかったですよ。そういう一つ喜びが、涙が出るような喜びを体験すると、また次のものに向かってやってみようという気が起きて来ましたね。私は長い間仰向けに寝たきりだったでしょう。病室の隅に水道がありましたよ。で、いつかあの水道で、この手を思い切り洗ってみたいという思いが、寝ている私の当時のこの世で最大の願いでしたからね。兎に角、ベットから起き上がれるようにならなくちゃならないし、車椅子に乗れるようにならなくちゃならないですよね。そういうのが一つ一つクリアされていって、初めて水道のところに辿り着いて、水道を自分でこう捻って、手に水道の水が当たって来た時に、もう私はほんとに嬉しかったですもの。自分で最大の願いが叶って、パジャマの胸も膝もビショビショですよね。片手で顔を洗うというのは、先ずこっちの手をこう洗ってやって、そして顔を洗って、もうみんなビショビショでしたけどね。こんなに嬉しいことが、私はもう一つ一つが結構涙が出る位の嬉しさだったですよ。今思うと絶望的なマヒの状態の長い時代がなければ。
 
金光:  それはそうですね。
 
大石:  ない方がいいんですよ。そんな喜びいらないですよ。ほんと言えば。
 
金光:  それはそうですね。
 
大石:  だけど、そういうふうにしか生きられなかったんですよ。でも、普通の人にとって、それは当たり前かも知らないけれども、私にとってはそれは生きる上での一つ一つが大きな力になってきましたから。
 
金光:  兎に角、そういう状況に追い込まれて、自分では厭でも直面せざるを得ないと、直面して一つ一つ新しい世界が開ける度にほんとに喜びを感じた。
 
大石:  喜びですよ。私、元気な頃、涙がこぼれるような喜びなんて、多分一杯あったんだと思いますけど、涙がこぼれるような喜びを体験したということはなかったんですからね。でも、病院に入ってからは、もうほんとに気が弱くなったせいもありますけれども、やっぱり一つ一つが涙が出るような喜びでしたから、喜びの歴史だったと、ある意味でね。
 
金光:  そういう中で苦しい時、嬉しい時、それに対する周りの看護婦さんだとか、いろんな人の反応によって、周りの人の人柄と言いますか、そういうのも元気な頃は気付かなかったようなことが随分感じられるようにおなりになるんではありませんか。
 
大石:  それはほんとに心が弱っている、身体が弱る。身体が弱るということは心も弱りますから、病人というのは身体の一部が病むことではありますけれども、そういう状態というのは心も病みますからね。そういう弱った心には、ほんとに人の一言の優しさ、一言の冷酷さというのが、生き死にのごとく、人その人を生かすも殺しもする位、敏感に反応しますよね。
 
金光:  相手の人が無意識に発言なさっていることでも聞く方には堪(こた)える。
 
大石:  堪えますよね。
 
金光:  この人は私のことがよく分かって下さっているというのがあると有り難いと思われるでしょうし。
 
大石:  生きられますね。
 
金光:  全くこの人はなんていう感じもあるでしょうね。
 
大石:  さっきの歌に、
 
     物投げて喚き疲れてひとりなり
       空し涙の耳に入りくる
 
そういう時期というのがありましてね。桜の季節だったですけども、やはりもうどうしようもなくなって、あらん限りの大声で泣け叫び、物投げつけて大暴れしたことがあるんですよ。病院というのは窓一つ隔てて、外と内側というのは、天と地程もの違いです。当時お花見の時季で、会津には鶴ケ城という城がありまして、当時は私の寝ているところまで、桜並木が続いて、で、お花見の時季はぼんぼりが灯って、みんな枕の外は、お花見見物というふうな長閑な足音なんです。私はもう自分で歩くことは出来ないなあと分かっていた時期でしたからね。ほんとに今までで最大の大暴れですね。物を投げて、看護婦さんが吹っ飛んで来たんですよ。その看護婦さん目がけてものを投げて、看護婦さんは私から投げつけられるものを避けるようにして、よって来ましたけどね。もう何も言わないで私をジッと見つめるだけですね。私は何で怒らないんだ。怒られること分かっているんです。自分のしていること、良いことだと思っていませんから。でも、怒らないんですよ。そのうちに、私は投げるものが無くなって、根も尽きちゃって、涙も。そうしたら、看護婦さんは徐に床に膝をつくと、私の頭を抱き寄せるようにして、涙を拭いてくれたんですよ。怒られるなあと思ったですよ。そうしたら、看護婦さんは、「ちょっとだけ桜を見て来ようか」と言ったんですよ。これはもう全く意外な言葉。私はその時、お花見の人達の足音で自分のヒステリーが誘発されたなんて、今だから考えられるんです。その時、そういうことは思っていませんからね。看護婦さんはそう言って、私を負んぶして、真夜中の細い階段を下りて行ってくれたんですね。私は未だにその看護婦さんの背中の温かさを忘れないですよ。あの時、「こんなことするなら、この病院に居て貰わなくたって、あんた一人ぐらい居なくたって、この病院、少しも困りません」とか言われても仕方がない状況なんですね。また、そういうことを言われている人も沢山あったんですよ。でも、その時に、そう言わずに母親が子供を抱き寄せるように私を抱き寄せて、涙を拭いて、母親が背負うように、私を背負って、夜の階段を下りて行ってくれた看護婦さんの背中を胸に感じながら、私、その時、何であんなことしたんだろうと。あんなことしたって、どうしょうもないんだ。耐える以外ないんだ。看護婦さんに謝ろう。と思ったですね。そしてああ、この人は二十代で二度と治ることのない傷害を負って生きていかなくちゃならない、私のこの心のやり場のなさとか、悲しみとか、切なさを、この人は何も言わないけども、一緒に背負ってくれたんだという思いがして、私、あの看護婦さんに出会っていなかったら、恐らく人生は変わっていたと思います。
 
金光:  もうその看護婦さんの場合はよく気持が分かって下さっていたんですね。
 
大石:  そうですね。やはりその人の心の目の位置まで下りて来てくれていた人だったんだと思いますね。
 
金光:  その時期にそんなことをしても、「あなた無駄よ」とか、そんなことを言われたって受け付けられる状況じゃないわけですね。
 
大石:  そうですね。どうしていいか分からないものを、ありのままに抱き留めてくれた。受け入れて貰えたということは、非常に、逆に反省させられると言うか、
 
金光:  それは甘えてはいけないということは、もう承知の上でやっているわけですから。ただ、そこのところで、そういう優しさがなくて、「あんた、ダメでしょう」と言われたって、それは本人にとってはなんか残酷な、酷いことを言われているような感じに受け取られるだけでしょうね。
 
大石:  そうですね。拒否されたと思うでしょうね。
 
金光:  そういういろんな病人の苦しみだとか、いろんなこういう状況は厭だというようなところを通り過ぎていらっしゃる大石さんのところには、いろんな方から相談があるようですが、例えば、お書きになったものの中に、真夜中に電話がかかって来て、「僕はこれから死にます」という電話もあったそうですね。
 
大石:  ええ、真夜中の電話というのは、よいことではかからないんですよね。私は父の死の知らせも、静岡にいる時に、午前一時に受けているんですよ。突然父が亡くなったという知らせを。そのショックがもう未だにね、夜中の電話というのはね。その時も、夜中の一時過ぎでしたけど、電話がかかって、電話を取りましたら、向こうに誰かがいるんですけど、何も言わないんですよ。ちょっと気持が悪くなって、不気味になって切ろうと思ったら、「僕、これから死ぬんです」と言うんですよ。「ええ!」と思ってね。そうしたら、「僕、死ぬんです」と言うんです。切羽詰まった声なんですね。どうも聞くと、声も幼いんですよ。それで電話というのは一方的でしょう。どこの誰か分からないんですね。「僕、最後まで独りぼっちだった」と言うんですね。それで、「でも、最後に人の声が聞きたくなったから、大石さんの電話を調べて電話をした。それでただ最後に人の声が聞きたかっただけですから、気にしないで下さい」と言うんですよ。丁度、雨だったんですね。声が涙声で、「独りぼっちだった」と言った時に、「気にしないで下さい」と。「多分僕が死んだら、新聞に載るでしょうから」と言って、名前を聞こうと。兎に角、私、「兎に角、死ぬのを一日だけ待って貰えない」と言ったですよ。「あなたに死ぬななんて、私も自分で経験しているしね。死ぬななんて言えないからね。兎に角、一日だけ死ぬのを待って貰えない」って。「あんたも独りぼっちと言うけど、私も独りぼっちだ」と。「でも、もう出会ったんだから、独りぼっちじゃないよ」と言って、「独りぼっちじゃないから、兎に角、死ぬのを一日だけ待って」って、もう兎に角、電話を切られないように、もう何せこの右手の向こうに死にかけている子供がいるという思いね。私、子供を産んでいませんけど、ある程度、歳を取ると、母性本能みたいなもの、やっぱり湧きますよね。何とかして、死なせたくないって。生きたくたって、生きられなかった子供達、いっぱいあるんですよ。私はそういう子いっぱい見て来て、今、その子に、そんなことを言ったってしようもないので言わなかったんですけど、「兎に角、一日だけ死ぬのを待って」と言った時、でもね、やっぱり電話は切れちゃった。その時に、「独りぼっちじゃないよ。あんたも独り、私も独り、独りぼっちと独りぼっちが出会ったんだから、もう独りぼっちじゃないよ」というところまで言ったら、電話が切れたんですよ。そういう電話が結構あるんですよね。その子は今小学校の先生をしておりますものね。
 
金光:  それで思い止まって、
 
大石:  それが、私が衝撃を受けた、最初の電話でした。もう十二、三年経ちますから。それは新聞の連載をしていた時にかかって来た子供でね。それから私は、
 
金光:  独りぼっちではないという言葉が繋ぎ止めたわけでしょうね。
 
大石:  どうでしょうか。それから半年位経った雪の日に、彼は訪ねて来てくれたんですよ。
 
金光:  そうですか。
 
大石:  それから、ずうっと交流してという、
 
金光:  名前は言わないままでしょう。
 
大石:  全然言わないんですよ。
 
金光:  で、半年位経った時に、
 
大石:  訪ねて来たんですよ。
 
金光:  そうなると、もうお話が出来ますしね。
 
大石:  それからはもうほんとに、「私には子供がいないんだからね」とか言いながら、そういう話しを結構素直に聞いてくれて、家庭的に恵まれなくて、ほんとに死ぬつもりだったらしいですけどね。
 
金光:  じゃ、そういうことで、そういう子供さんとの繋がりもあれば、それからよく学校なんかで、今お話なさっていらっしゃいますね。そういう中でもやっぱりいろんな悩んでいる。困っている若い人、いっぱいいらっしゃるようですが、そういう方との繋がりもだんだん出来るでしょうね。
 
大石:  やはり子供も求めているというのが、よく分かります。今、やっぱり子供にもストレスが溜まっていまして、ある時、子供だけが悪くなるということではないように思うんですよ。やっぱり、子供がそうなる背景には、親があって、大人社会があるなあという気がするんですけども。ただ、私は講演頼まれて行って、子供の前で話すんですけどね。頼まれて私が何かを話すんですけど、でも私は逆にいつもそういう子供達から、力を受けて来るという感じがあるんですね。
 
金光:  よく聞く話で、今の若い人、学校なんかで話しする時は、「私語が多くてですね、なかなか聞けませんけれども」ということを講師の方に、「喧しいけれども、宜しく」というような挨拶を受けることが多いという話しを聞くんですが、大石さんの場合は如何ですか。
 
大石:  いつもそう、始まる前には言われますけどね。私は子供に、もし私が講演で騒がれた時が、私が講演を止める潮時だなあと思っているんですけどね。ほんとに未だに十何年経ちますけど、子供に講演で騒がれたという経験がないんですよ。ただ、この前ね、今年の春でしたけれども、ある高校に行きまして、千五百人くらいの大きな学校だったんですがね、第一声話し始めたら、突然右手前方の子供達からもの凄いヤジが出たんですよ。私は初めての経験で、ああ、いよいよ私もこれで講演も潮時かなあと思ったんですが、その時、なんでこんなに私のこと、ヤジったんだろうと思ったんです。そうしたら、私が、「私は高校生の前で話させて頂くのが一番私にとって嬉しいことなんです」と言った瞬間なんですよ。私はその時、〈ああ、この子達は自分達に静かに聞かせる為、聞いて欲しくて、自分達に媚びて、「高校生が好きなんです」なんていうふうに言ったようだなあと取ったんだろう〉と思ったんですよ。でも、兎に角、始まった以上、話さないと終わりませんからね。で、私は、「何故なら」というふうに言葉を続けたんです。「何故なら、私も健康だったらね、みなさん位の子供があったかも知れない。でも、私は結婚することも、子供を産むことも出来なかった。でも、一人でもいいから、皆さんぐらいの子供があったら良かったなあと思うものですから、遂、こういう皆さんの前に立つと、他人事と思えないんだ」と言った。そしたら私語はピタッと止まったんです。そうして、一時間半、全く私語なしだったんですが。その終わったら、それも初めての経験ですけど、一番私をヤジったグループが、突然立ち上がって拍手をしてくれたんですよ。私は立ち上がって拍手を受けたのも初めての経験でした。そのとき突然真ん中辺りの子がタタタッと壇上に駆け上がって来たんですよ。そうしたら、先生方が一斉に顔色を変えて立ち上がってですね、
 
金光:  何するかと思って。
 
大石:  私もなにされるのかと思って、一瞬やっぱり身構えました。そうしたら、その子が突然壇上に駆け上がって来て、私の演台がありまして、この脇に大きな花が飾ってあった。その花の中から、白百合と青い麦の穂と向日葵ですよ。白、黄色、青ですよ。この配色のいい花を無造作に抜き取って、両手に捧げて、私にくれたんですよ。私はこんな花束を生まれてこの方貰ったことがない。こんなに嬉しい出来事、子供からの嬉しい花束を貰ったことがないと思って、私はその子が私に花束をくれたら、恥ずかしそうに下りていこうとしたんですよ。でも、私はその子の手を掴まえて、洋服掴まえて、握手してね、「有り難う、有り難う」と言いながら、私はこの子に出会ったことで、もう一年位は何があっても頑張られるって、その時思ったんですね。で、いつも、〈ああ、私は講演なんて頼まれて人の前で話しさせて頂いているけど、いつも頂くものは、私の方だ。こういう子供達から力を得て、励ましを得て頑張って来れたんだなあ〉って、いつも学校へ行くとそう思うんですよ。帰る車を追って、駆け出して来る子がいたり、教室の窓に電線にツバメが並んでいるように、黒い学生服着た子供達が窓に跨って手を振ってくれたりという光景を見ると、先生に教えられてしている行為じゃないだけに、私は〈こういう子に励まされて、今こうして生きていられる〉と。子供だけじゃありませんけれども、〈いろんな人が目に見える、見えない形で、私を支えてくれているなあ〉って、つくづく思うんですね。だから、〈ああ、死にたいなあ〉と思ったことも何度もあったし、〈なんで自分だけがこんな目に遭わなくちゃならんのか〉と思うこともありましたけども、〈やっぱり生きて良かった〉という思いを、本当に心からそう思うという場面に時々会いますね。
 
金光:  そうやって、お話なんかなさっていらっしゃると、若い人の中には自分もああいうふうになりたいと思う人もいるんじゃないかと思うんですが。何か本をお書きになったものの中に、「私は傷害がないから、ダメだ」というふうに思っている若い人もいらっしゃるそうですね。
 
大石:  「私も、もしも大石さんのように手が動かなかったり、もしも私が大石さんのように脚が利かなかったなら、私も頑張って生きられたかも知らない。でも、今の私には何もない」という。何不自由なく学校に通える毎日というのが、生き生き生きる為の力の源となっていないという、それが今の現実でしょうね。どんなに普通に生きられるということが、普通でないんだということ、それがやっぱり子供達が感覚として分かっていないと言うか。だから、命が非常に軽い時代になってしまったんですよね。
 
金光:  生きているということがどういうことかと言うか、いわば命への問いかけみたいなものが現実の中で働いていないということなんでしょうか。
 
大石:  命への問いかけというのがないままに、知識、物をよく覚えること、良い点数を取ることということに価値が見出されて、生きて来たんですよね。でも、やはり車の両輪のように勉強も大事だけど、しかし、人を思いやる心とか、優しさとか。しかし人間だってそんな完璧な人いないんだから、兎に角、間違ったことをしても、また間違ったことをすることがダメなんでなくて、同じことを繰り返さないということが大事だということを、私、子供達に、その為には苦しみに耐える心、我慢しなくちゃということも、苦しみのない人生なんかないんだから、恋にもやっぱり悩みがあり、苦しみがあるわけですから、そういう苦しみに耐えて生き抜く力を、子供達に植え付けるというのが、親の愛情でないかなあって、この頃はそういう子供達が沢山来るものですから。
 
金光:  有名な言葉がありますね。「艱難は忍耐を目指して」という、ローマ人への手紙ですか。ただ、これも自分が苦しい時に、そんなことを言われたら、全然受け付けられていないでしょうけどね。
 
大石:  そうですね。
 
金光:  ただ、現実にはそういう受け止めないとほんとに前に足を踏み出すことが出来にくいというのも事実でしょうね。
 
大石:  兎に角、今、自分の置かれた状況の中で立ち上がって、一歩でも、二歩でも、三分の一歩でも踏み出して見るということがないと、感動とか、生き甲斐とか喜びというのは、味わえないんじゃないかなあという気がするんですけどね。
 
金光:  そこで、例えば、普通の家庭でもよくお母さんは子供のことを、小さい頃から子供のことを認めて、子供のいう通りにさせてやる。こういうのも優しいと、優しさということになるんじゃないかと思うんですが、それだけじゃ具合が悪い。
 
大石:  いやね、子供の要求というのは、ドンドンドンドン大きくなっていくわけでしょう。小さいうちはお母さんも、どんな子供の要求にも応えられますけど、思春期に至る、ドンドンドンドン子供達の思いが大きくなっていった時に、それが全部親が応えられるか、応えられないですよね。ですから、大きくなった時点で、今まで何でも言いなりになって来た親が、突然、自分が応えられなくなった途端に、「耐えなくちゃ」とか、「我慢が足りない」とか、突然言い出すわけですよ。これは子供だって戸惑いますよね。だから、小さいうちから、「ダメなものはダメ」。我慢しなくちゃならないことは、「我慢しなくちゃならない」ということを小さなうちから教えていかないと、要求が限りなく大きくなった瞬間、応えられないからといって、突然、「耐えなさい」とか、「我慢が足りない」とか言ってみても、もう私は遅いなあという気がするんですけどね。
 
金光:  やっぱりいろいろ相談を受けて、身の上話しなんか聞いている。悩みを聞いていらっしゃると、今、お感じになっているようなことを感じられますか。
 
大石:  私だって、元気だったらダメだったと思いますよ。ただ、私は逃げようがない状況に置かれたから、否応なく耐えなくちゃならなかったし、耐えることを覚えたんですが、今のこれだけ有り余る物の豊かさの中で、やはり子供に苦しい時に耐え忍ぶ力を備えようと思ったら、それこそほんとに親は心して、もう覚悟して子供にぶつかっていかない限りは無理でしょうね。
 
金光:  でも、そういうことを日頃気が付いていると、子供に対する接し方も少しづつ、少しづつでも変わって来ますでしょうね。
 
大石:  そうですね。
 
金光:  大石さん、いろんな方の本をよく読んでいらっしゃるようですが、例えば、有名なフランスのサンテビリベリオの「傷害と力比べをするような時、人間は己を発見する。しかしその傷害にぶつかる為には人間には道具が必要だ」ということを書いて、その道具というのが大石さんの場合は、病気だったのではないかと。
 
大石:  そうですね。私にとっては、まさしく道具がこの障害であり、病気でしたね。
 
金光:  その病気によって、やっぱりご自分の命の意味みたいなものを自然に感じざるを得ないようなことになられたことでしょうか。
 
大石:  そうですね。やっぱりこの病気に、この障害によって鍛えられて、いろいろなことを、人生を教えられて来ましたから。やはり病気がなければ、まあ無い方がいいんですよ。でもね、私もそう思いますけどね。なっちゃったものは仕方がないですし、やはりそれを如何にどう受け入れて、その中でいくらかでも前向きに生きられたら、それでいいかなあと思っているんですけどね。
 
金光:  まあ、そういうふうないろんな相談なんかも受けていらっしゃる。自分自身の生き方みたいなものをだんだんと、いろんなことをお考えになっていらっしゃったわけですけども、やっぱり現実にその脚がご不自由だ、或いは左手がご不自由というのは変わらないわけですね。でも変わらない中で、そういう問題に対する考え方というのはだんだんと変わって来ていらっしゃるように見えるんですが、その辺はどういうふうにお感じになっていらっしゃいますか。
 
大石:  そうですね。ある時期ですね、ふと気が付いたと言うか、私が惨めなのは、酷く惨めだったんですよ。惨めなのは手が利かないのでも、脚が動かないからでもないなあと、ある時、思ったんですね。それはそういう自分を他人と比較して、自分にないものを常に常に数え上げていた。いつもいつも人と比較して自分を考えていた。これが私が惨めだった原因だったのが分かったんですね。それから、どんなに人を羨んでみても、その人の人生を生きられるわけではない。人と比較するのは止めようと思ったんですね。その瞬間といっていいくらいに、私は自分の道が、人と比較しないということが、私に、今の私に出来ることをやって生きていくことだったんですね。そうしたら、私には何にもないものばっかりだったんだけども、人と比較しないというふうに決めたら、私には右手があったと思ったんですね。今まで右手しかなかったんですよ。右手しかなかったと思っていたんですけど、人と比較するのを止めたら、私には右手があった。右手があったら右手で出来ることがあるんじゃないかというふうに。まだ話すことも出来る。目も見える。人と比較しなくなった瞬間に、私の生きる道を、今の私の中で見つけていこうというふうに変わったんですよね。話すことが出来る。本も読むことが出来る。人の話を聞くことも出来るという中で、あ、未だ出来ることがあったって、思ったらほんとにあったんですね。私、自分が人間として、社会の中で生きていく道なんて絶対ないと思っていましたから。
 
金光:  ああ、成る程。比較して見ると、それはマイナス要因が幾らでも数え上げられるんですね。でも、それは脚だけじゃなくて、自分は頭が悪いとかですね。
 
大石:  そこなんですよ。
 
金光:  誰でも同じようなマイナス点数え上げれば切りがない位ありますけれども、しかし、生かされていると言いますか、生きている命の働きがどう出来るかと言うと、これも出来る。これも出来るというふうになる方向が、同じものを見ても見方の見る方向が全然変わって来ますね。
 
大石:  そうですね。あれだけ苦しみながら、死ぬ目をしながらも、死ねずに生かされて来た。生かされ続けたということは、なにか私にも生きていていいという大きな力が働いていて、これからも命のある間は多分生きていていいよという、私にとってはキリストですけども、神によって許されている命なんだろうという思いがあって、それなら、やっぱり命のある間は自分に出来ることを、今の自分に出来ることを、精一杯やっていくということが、自分の苦しみを乗り越えるただ一つの方法かも知れないなあと思っているんですけどね。
 
金光:  こういう歌がありますね。
 
     山も暮れ川も暮れたる暗き果て
       灯火(ともしび)あかるく父母は待つべし
 
これはまあ、恐らく退院してからの歌と思いますけれども、しかしこう全部マイナスも暗くて何も見えない中に、父母の待つ灯火が見えるという、やっぱりそこすらに希望があるわけで、神様は父母と同じだというようなことをおっしゃる方もいられますけども、
 
大石:  それが一番身近な考え方、捉えられますね。私は父も母も亡くなっておりませんから、ほんとに同じように考えられますものね。だから、待っている人がありますから、大丈夫です。
 
金光:  どうも有り難うございました。
 
 
     諦(あきら)むることに慣れつつ手に汲(こ)きし
       みずひきの花夕空に撒(ま)く
 
     車椅子操(く)るを休めて吹かれつつ
       光る穂絮(ほわた)を胸に受けとむ
 
 
     これは、平成九年十一月二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。