宇宙の中のいのち
 
                           大阪大学名誉教授
                           龍谷大学教授   大 峯  顕(あきら)
昭和4年奈良県生まれ。昭和28年京都大学文学部宗教学科卒。昭和34年京都大学大学院文学研究科博士課程修了、文学博士。昭和34年京都大学文学部助手。昭和41年大阪外国語大学教授。昭和48年教授を経て、55年大阪大学教授に就任。平成3年龍谷大学教授。俳句は「青」同人を経て、昭和59年「晨」を創刊し、発行同人となる。毎日俳壇選者。著書に「日本の仏典」「宗教学のすすめ」「ドイツ神秘主義研究」「フィヒテ研究」「花月の思想」「高僧和讃を読む」「親鸞のコスモロジー」「浄土仏教の思想」など。句集「紺碧の鏡」「島道」「月読」「吉野」など。
                           き き て      有 本 忠 雄
 
有本:  吉野川は源の大台ヶ原に発して、紀伊半島を西に下り、紀ノ川となって、紀伊水道に注ぐ大河です。奈良県大淀町は昔から花の名勝吉野に通う往来の要衝として、人々に親しまれて来ました。今日は大阪大学名誉教授で、現在龍谷大学教授の哲学者大峯顕さんを、この大淀町のお寺にお訪ねします。大峯さんは吉野川を見下ろして建つ専立寺(せんりゅうじ)というお寺のご住職をしておられます。どうぞ宜しくお願い致します。
大峯:  宜しくお願い致します。
 
有本:  奈良県大淀町、丁度桜で有名な吉野の入り口ですが、秋の風情もまた格別でございますね。
 
大峯:  そうですね。紅葉も宜しいですね。
 
有本:  先生は京都大学の哲学科で学ばれました。哲学をというのはなんか理由がございますか。
 
大峯:  はい。そうですね。哲学へ入った動機というのは、一つ思い出しますが、やっぱり中学生の頃でしてね、秋の夜ですね、星が非常に綺麗な晩、星空を見ておった時、変な気持ちになったんですね。なんか眩暈を覚えると言いますかね、我々の上にあんなうすい星座があってという、そういうことが、そしてその下にまあ人間の生活があるんだけども、そういう無限の星空として、この自分のここにいる存在、短い存在というものが一体どういう繋がりがあるんだろうかという、そういう気持ちをふと思ったんですね。そういうことはおそらくそれは哲学的な何か問いのようなものだったんだと思います。
 
有本:  京都大学では西谷啓治(けいじ)先生に師事なさるわけですか。
 
大峯:  そうですね。
 
有本:  西田幾多郎博士のお弟子さんで。
 
大峯:  そうです。西谷先生は西田幾多郎先生の高弟ですね。その西谷先生に教えて頂いたということです。私の、ただ一人の先生であったと、そういう感じが致しますね。あの先生にお会い出来なかったら、やっぱり、私の哲学研究もどうなっておったか分からんような気がね。実に掛け替えのない偉大な先生でしたね。
 
有本:  大峯先生も哲学者でいらっしゃるわけですが、真宗のお寺にお生まれということですから、親鸞さんの教えと言いましょうか、真宗学を哲学者のお立場で親鸞聖人の教えを究明なさるというふうなことがございますね。
 
大峯:  そうですね。私の若い頃は主としてヨーロッパの思想研究をしておりました。私はもともとドイツの哲学者のフィヒテという、「ドイツ観念論」と言いますが、フィヒテの人の研究を最初はずうっとやって来たんですが、仏教、浄土真宗にほんとに関心をもって来た、信仰としてはもっと前からですけれども、それの思想としての解明に関心が出てきたのは今から十数年前、五十過ぎてからだろうと思いますが。だんだんとそういうふうになって、最近はむしろヨーロッパのことを研究するよりも、仏教について書いたりする方が多くなりましたですね。
 
有本:  そうですか。現代人はやはり宗教に関心がある、或いは信仰を大変お持ちの方含めて、やはり死ぬことの恐ろしさ、不安。これはみんな持っていると思うんですが、何故その死が怖いのか。説明は出来ないんですが、死の怖さというのは、みんなお持ちだと思うんです。
 
大峯:  これはもういつの時代でも死ぬことを怖くなかった人間はいないだろうと思います。おそらく人間以外の動物でも、死ぬことが楽しいとか嬉しいとかということは、おそらくないので、生き物が持っている、生き物に与えられた本能みたいなもので、死ぬことに対して、やっぱり非常に否定的であると。死に対して自分を守りたいという気持ちは、どの生き物にもあると思いますね。簡単に言えば、〈死にたくないという思いは、全ての生き物に共通している〉んじゃないかと思います。そういう点で、昔の人達も今の人も同じだと思いますが、特に、現代では死にたくないという思いが非常に強烈になっておりますね。昔の人も死にたくはなかったけれども、現代人ほど強烈なことはなかった。だから、そこに現代人の置かれている新しい状況があるわけですね。〈個体というもの〉〈自分の持っている個人というものは、即ちいのちであって、個人が消えることがもう一切が消えることだ〉という。だから、これは非常に怖いんじゃないでしょうか。死後に天国があったり、極楽浄土があったり、或いは死後に地獄があったり、恐ろしいところがあったりするという。そういう観念はほとんど現代人持っていないようですね。そんなこと言ったって、この頃信じませんよ。だから、そうすると、死後は無くなっているわけですね、簡単に言えば。今、火が灯っているこのいのちが、〈小さな個体のいのちがいのちの全て〉で、あと〈それが消えると何にも無くなる〉と。そうすると、現代人にとっては死が、〈死ぬということが一番恐い地獄〉なんですね。死んでから後に地獄があるんじゃなくて、死ぬこと、そのことが非常に恐ろしいことになっている。それは〈いのちというのは個体の中にあるものだけだ〉という具合になってしまったんですね。でもこれは〈いのちのほんとのいのちの見方とは違う〉と思いますね。〈個体主義的ないのちの見方〉で、それがみんな当たり前だという具合になってしまったんですね。けれども、それはやっぱりほんとのいのちの見方ではない。というのは、〈いのちというのは、何も個体の中だけにあるんじゃなくて、私と違う他の動物、一本の草の中にもあれば、一匹の虫の中にもある〉〈いのちは私と他の個体の間にも繋がっているものだ〉と思うんですね。つまり〈個体以上のものがやっぱりいのちの正体〉であって、その〈いのちが我々の場合には個体の中に閉じ込められている〉わけでありますが、〈個体のいのち、どこまでもそれだけを守ろうとするところに、さっき言いました非常に強烈な死に対する恐怖〉と言いますか、〈死にたくない〉という、そういうような思いが出て来たんだと思いますね。それはちょっと病的なものだと思っております。私はね。
 
有本:  その死を恐れている現代人、個体を離れたらそうじゃないんだよというお答えにもなるわけですか。
 
大峯:  個体を離れることは恐ろしいことでもないんだということですね。
 
有本:  ああ、成る程。
 
大峯:  今恐ろしいと思っているんですね。〈死ぬことは自分という個体を失われる〉〈これほど恐ろしいことはない〉。その個体を離れたら、全部なくなるからと思って恐ろしがっているんですけれども。でも、〈個体は、個体の枠の外に出るということは、別に恐ろしいことではないんだよ〉という。〈いのちそのものに帰ることである〉という。そういうことをなんか本当に知れば怖くないんですね。そういうことをほんとに教えてくれるのが、私は〈ほんとの宗教だ〉と思います。仏教は、お釈迦様はそのことを教えられて来た。親鸞聖人もそういうことを教えられて来たわけですね。教義で言うと、なんか特別なことを言っているようで、私共には関係ないと思うけど、教義抜きの言葉で言ったら、個体のいのちを失うことは別になんにもないところへ行くことではないということですね。
 
有本:  先生のお考えの宇宙、或いは宗教のいう宇宙というのはどういう宇宙なんでございますか。
 
大峯:  これはやっぱり今日では、「宇宙」と言えば、やっぱり自然科学、宇宙物理学がいうような〈自然科学的な宇宙〉だと。これはそう思われるのも自然なことで、要するに、〈時間空間というものの物質的なことを言っている〉わけですね。〈物質的なものを宇宙〉と言っておりますが、私だけでなしに、哲学の概念の上で、宇宙という時にはそれも入りますね。自然科学的な物質の体系も入って来ますけども、それはそういうものもその中にあるような、つまり〈歴史も自然も時間も空間もその中にある〉ような、そういう〈無限者のことをこれを宇宙〉というわけです。だから、〈無限のもの〉と言ったらよろしいんですね。こういうことを哲学の世界で言った人は、ヨーロッパでは十九世紀の初めに宗教論を書いたフリードリヒ・シュライエルマッハー博士です。これは近代プロテスタントの祖と言われる。彼が、
 
     宗教は宇宙を感じることだ。
 
と言ったんです。
 
     宇宙という無限者の中に、
     我々は全部無限の働きによって働かれて生きている。
     我々はどんな力のあるものでもないものでも、
     宇宙の働きに任せて来ているんだという。
     そのことを感じることが宗教だ
 
と言ったんです。〈宗教は別に神様がこの世界を創造したことを信じるとか、或いは自分が罪人であって、それを悔い改めて天国に生まれ、そんなことじゃない〉。そういう教義じゃない。キリスト者であろうがなかろうが、無神論者であろうが、唯物論者であろうが、〈全て無限の中にしかおることが出来ない〉。だから、〈全ての有限なものは無限の中に抱かれておる〉という。無限の中に位置しているわけで、その無限者を我々は普段忘れているわけですけれども、ある意味ではしかし直接にみんな知っている筈だと言うんですね。無限の中にあると神は。その無限の「宇宙直観」。「宇宙直観」というのは〈宇宙の方が我々の方に働きかけてあるもの〉〈その我々は全く宇宙に中に出たら、全く無力であり、一人の赤ん坊のような状態として宇宙に抱かれている〉んだという、その〈感じが宗教〉という。「宗教をもっている」というのは、その〈直観をもっている人〉だとこう言っている。そこに私がほぼ使う宇宙も大体シュライエルマッハー氏が言ったような、決して〈自然科学的宇宙でなくて、無限のこと〉ですね。その〈無限の中に我々のいのちがある〉ということを、詩に上手に表現した井上靖さんの詩がありますので、ちょっとそれ引用致しますと、『地中海』という井上さんの詩集の中に出てくる「アスナロウ」という題の詩ですね。これ初めはちょっと説明ですが、
彼は下北半島のアスナロウの林をジープで走ったことがあったと言うんですね。夕方から雪になって、吹雪になったと。同行していた森林管理人がアスナロウという木の交配がこのような吹雪の中で行われるということを教えてくれたというんですね。そこから彼の詩ですが、ちょっと読んで見ます。
 
     私は昼間通り抜けた
     鬱蒼(うっそう)たる大原始林が
     雪に降り込められているさまを
     目に浮かべながら、
     絶えてない解放された思いに打たれた。
     そこでは生と死は
     スポーツのように軽快であった。
     どうしてこのようなことに
     気付かなかったのか。
     太古(たいこ)から死は
     まさしく吹雪のように
     空間を充満して来るものであったし、
     その中に於て、
     生はアスナロウの花粉のように
     烈しく飛び交うもの以外の
     何ものでもなかった筈だ
       (井上靖『アスナロウ』より)
 
こういう詩なんですけれども。ここに私の言う〈宇宙の中における自分の存在の知覚というものが宗教だ〉と。そういうふうに言ったシュライエルマッハー博士の思想がリアルに出ているんじゃないかと思いますね。吹雪の空間、真っ暗な寒中、死以外のなにものでもない。その無限の寒い空間の中に吹雪が飛び交っている。その中にアスナロウの生の証(あかし)が、交配が行われておると。つまり、〈我々の生はいつも死と一緒にあるんだ〉ということですね。そこには少しも深刻ぶったことがない。〈生と死はなんか花粉と吹雪が戯れ合うような、そういう実に軽快なものであった〉と。そんなことを私はどうして今まで気付かずに、死を重苦しいものと考えておったのかと。そういうことを彼はここで言っているわけですね。だから、〈生は死の真っ直中にあるということが、我々の存在が宇宙の中にある〉という。そういうことだと思うんですね。もっと別な例で言うと、例えば、我々は親しい、例えば、自分の妻とか、子供とかが一緒に生きている時は別にそれを感じないが、突然妻に死なれるとか、そういうことが起こって、オロオロする旦那さん、彼は宇宙の中に自分がいるんだということを経験したわけですよ。今まで別に平気でおる時は、それはそうじゃないんだけど、突然愛するものに死なれて、どうしていいか分からんという。その時に初めて、我々はおるところは何かよく分かったような、何もかも全部自分の慣れた、そういう世界じゃなくて、未知の広大な空間の中だということを。やっぱり妻に死なれてオロオロする。どうしていいか分からなくなるような、或いは子供に死なれて、親がそういう非常な悲しみを持つ時に、やっぱりそういう彼の経験が、やっぱり我々の存在を、みなやっぱり無限の中にあるという、そのことだと思うんですね。ちょっと分かり難いかも知りませんけども、そういうことが平生はみんな有限の中におると思っておるわけですよ。だから、〈死が入って来て、初めて我々は有限の中にあるんじゃなくて、無限の中にあるんだ〉ということが分かると思いますね。〈死はやっぱり我々に無限を教える〉わけですね。例えば、死んだ人は生き返ってこないということは、死んだ人は、そういう世界へ行っちゃったということですね。〈時間空間を超えた世界へ行ってしまった〉ということですから。まあそういうわけで、死ということが一番我々を宗教に入り易い。入れるこの一番チャンスなんで、昔からみんなやっぱり肉親との死別を通して、仏教に入るということがあったわけですね。けれども、現代では今言ったことが、暫くの間は、一瞬はそう思っても、また何か宇宙というものが閉じられてしまって、またやっぱり何事もなかったような平素の世界に戻ってしまって、故(もと)の木阿弥(もくあみ)になるということが、ほとんどの場合のようですね。けれども、少なくともそっちの方が何ともないんだということが、やっぱり我々の本当のいのちの姿ではないと思うんです。だから、何とかしてそういう〈無限の中にあるところの私の短いいのち〉だということを気付くような、そういう何か言葉が、今我々はそういう言葉を聞いたり、言ったりすることも必要なんですね。まあそれは本当の宗教の役割なんですけれどもね。でも、近頃は、宗教家の言葉も、今言ったようなことを喚起させる力が、だんだん少なくなってしまっているように思います。〈いのちが無限の中にある〉ということを、言い換えますと、〈私は死んで、私というものを決して終わるものでない〉ということなんですね。そのことを言ったのが、中国の善導(ぜんどう)という中国浄土教のお坊さんですね。善導大師の言葉がありますので、ちょっとそれを引用致しますけれども。これは我々の存在に対する、自己というものの存在に対する非常に深い目覚めのことを書いた文章ですね。我々は自分と呼んでいる。個人と言っている。この個人が、我々が普通思っているような死んで終わりという。生まれて初めて現れて、墓場に行ったら消えてしまうという、そういうものでないということを言った文章ですね。こういう文章です。
 
     一つには、決定(けつじょう)して深く、
     自身は現(げん)にこれ罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫、
     曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没(ぼっ)し、
     つねに流転(るてん)して、出離(しゅつり)の縁あることなしと信ず。
          (善導大師『観経疏』より)
 
「自身」というのは〈自己〉という、〈自分〉と言ってもいいですね。この〈自己の正体は何か〉という。これは人間であるとか、或いは職業を持った社長であるとか、校長であるとか、或いは政治家であるとか、男であるとか、女であるとか、父親であるとか、孫であるとか、そういうことじゃなくて、「罪悪生死の凡夫」罪悪生死の凡夫というのは、〈真理というものに出会うことの出来ない、迷える存在〉ということですね。それは「曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して出離の縁あることなし」ということは、〈永遠の過去から迷いに迷っている〉と言うんですね。〈何回も生まれては死に、死んではまた生まれるという、そういう生死流転を無限に繰り返して来て、今ここにおる。これが自分というものの正体だ〉と。こういう具合に言っているわけです。これを私は〈宇宙の中の自己〉だと言うんです。〈社会の中の自己〉じゃありません。社会の中の自己は生まれて初めて出て、〈死んだらお終い〉ですね。それで終わっちゃう。社会から出ることですから。死ぬということは。だから、社会の中におる間は、それはその社会的連環の中の自分だけが問題になっているわけですね。みなこれは、社会的自己というのは我々が着ている着物みたいなものだと思うんですね。その自己がやっぱり宗教が問題にしている自己なんで、これ仏によって救われる以外にどうにもならない自己ですけれども、善導大師は、いま阿弥陀如来の本願に会うまでは、どれだけ長く迷いに迷って来たことか、ということを言っているわけですね。これはやっぱり宇宙の中の自己のことであって、決して生きている間の社会の連環の中にある自己のことでありません。でもこれ、やっぱり現代は非常に分かり難くなっていると思います。この善導大師の言葉さえ、空想のように聞く人がほとんどですね。ちょっとよく分からんと。何のことを言っているのか、よく分からんという人が非常に多いと思いますが。けど、分からないんじゃなくて、よく仏法というものを探求していったら、そのことが真理だということが必ず分かるわけでありますね。これはいわば宇宙の中にある否定面を言っているわけです。つまり、〈無限の宇宙の中にあって、輪廻(りんね)を繰り返しておる絶望的な存在〉、まあ、宇宙の中を孤独な一人の旅をしている、孤独な魂のことですね。だから、現代の人間はもっと〈安らかに生きるということが出来る為には、その個体主義を突破しなければならない〉んですね。個体主義、いのちが個体の中にあるものだけじゃないと。むしろ個体のいのちは、いのちの海のようなものの中に浮かんでいるんだという、そういういのちの見方の方へ出ることが宗教でありますね。宗教はそういうものであって、特に仏教で「阿弥陀如来」と言っているのは、〈無限のいのち〉のことなんです。無限のいのち、そのもののことなんですよ。「無量寿如来」というのは、これは〈無限のいのち〉ということですね。〈無限のいのちを持った如来〉というふうに解釈しますと、如来と仏といのちが別のようになりますからね。ちょっと分かり難いわけですね。けども、「南無阿弥陀仏」というのは、〈無限のいのち、無限の光〉ということでありますから、〈無限のいのち、そのもののことを仏と、如来〉とこういう具合に言っているわけですね。〈それに生かされている〉ということが分かると言いますかね。それが宗教ですね。だから、〈生きることの原点を個体に置かないで、普遍の方に置く〉。大きな方に置く。大きな方から個体を見ると言いますかね、我々はみな個体から大きなものをどうしても見るわけですが、そうじゃなくて、それは何故かと言いますと、〈個体というものへのしがみつき、執着〉というものがあるからどうしてもそうなるんだけれども、その〈個体に対する執着を捨てられて、大きな方から自分のところを見る〉と。まあこんな譬え、どうか知りませんが、海原と、一つ一つの波頭のようなものとの関係ですね。一つ一つの波なんていうものは海の上でなかったらないわけですね。それは絶えず生まれたり消えたりしているわけで、その一々の波頭(なみがしら)が大きな海の一部だという、そういうふうに見られて来ると言いますか、「南無阿弥陀仏」とか、「帰命無碍光如来(きみょうむげこうにょらい)」とかというのは、みんなそういう〈小さないのちが大きな如来のいのちの中に生かされておる〉という、そのことを言っているわけですね。それはどうしたらそういう立場に出られるか。これは具体的に言ったら、それはやっぱりそういう〈真理を言っている言葉に、つまり仏教を聞かなければなりません〉ね。聞くということは、何も話しを聞くということだけじゃなくて、書かれたものを読むとか、そういういろんな場合があると思いますが、兎に角、何もしないでそういう個体主義を破れるとは私は思いませんがね。何も努力も何もしないで、それが出られると思いません。その為にはやっぱり死にたくないという思いを痛切に持たないと、やっぱりそんな話し聞こうという気にはならないですよね。その為にはやっぱり一番身近には、やっぱり肉親、親しい人の死に出会って、悩み苦しみ悲しむという、そういうことがあって初めて出来るんだと。平和の生活をしておってなかなかそうはならない。そうすると、現代という状況は非常にそれが難しくなっていると言えますね。なかなかやっぱり大きな普遍のいのちに貫かれている私のいのちだという。そういう平和なところへなかなか出にくくなっておるということは事実です。それでも、それにも関わらず、その現代人の考え方は、やっぱり地獄だと私は思っております。
 
有本:  でも一般的には身近な肉親の死とか、親しい人の死というふうなことですと、先程のお話に戻りますが、個体の死ということで、大きないのちというのはどうしても考えられない。ただ、こう悲しむ嘆く、その域から一歩も出られないという。
大峯:  そうです。これは結局、現代人が一緒にそういう状況を変えるわけにはいかないんですね。一人一人の問題ですね。そうでしょう。
 
有本:  問題意識があるかないか。
 
大峯:  それでその問題意識が個人の一人一人の中からしか出て来ないのであって、「みなさん、これからの人間はもう不安で困りますから、みなどうですか、みんなこういう宗教的な考え方をしましょう」なんて言ったって、そんなもの共同で出来るわけないですね。それはやっぱり一人痛切に問題意識を持った個人の中からしか、その転換は出て来ないわけですね。いつも一人一人の求めでありましょう。だから、そういう人は最近増えて来ておりますよ。京都の散髪屋さんが、私が行った時にそういう話し。「何故ですか」と言ったら、「自分の妻の家内のお母さんが八十で亡くなったけども、死ぬことに何の心配もなかった」と。「念仏をいつもしておってね。死ぬということに何の恐れもなかった」と。「信仰というのは凄いもんですね」と言って。その旦那さんは真宗信者でもないんだけれども、そういう場面を見て、「ビックリした」と言っていますから。そういう場合は、〈お婆さんはやっぱり大きないのちの中に自分が生かされておる〉んであって、〈死ぬことによって、自分がなんか消えたりしない〉ということを、ちゃんとやっぱり確信しているわけですね。だから、私の言っているようなことは、決して空想でもなくて、現にそのことをやっぱり経験している人がいるということは、これは仏様の教えが決してウソでないということを証明していると思いますね。だから、そういう一人一人の問題ですね。それがないと何も状況は変わらない。でも一人が変わると、また、それがまた他の人にも伝わるという、そういうことがあると思いますね。だから、私の知っている方の二つほど、例を挙げますと、今言ったような非常に個体を超える枠があって、個体という枠の中へどうしても出られない。それを出ることは非常に難しいと。確かにそうですが、それをやっぱり出た人の例を二人程挙げて見ます。一人は私のこの村の門徒総代をやっておって、今から数年前に六十四で亡くなった、Tさんという人ですが、この人は門徒総代をしておりましたから、お寺にはよく聴聞しておった人です。一生懸命聴聞しておった。それでもやっぱりガンで、「あなたの命はあと三ヶ月だ」と医者の宣告を受けるまでは、やっぱり、「仏様を信じろ」と言われてもなかなか信じられなかった。ご住職がいつも口開いて、「仏様だけが頼りですよ」と。「自分の地位だとか、名誉とか、財力、そんなものはなんの頼りになりませんよ」と、そういう話しはしょっちゅう聞いておって、その通りだと思っておったけれども、それでもなかなかやっぱりそうはなれなかったと。ところが今度初めて医師に、「あなたの命はあと三ヶ月ですよ」と、こういうふうに言われた時に、初めて、〈私は絶望だ〉と思ったと。〈いよいよ儂はお先真っ暗だ〉と。〈お先真っ暗だ〉と思ったというのは、絶望してしまったかと言うと、そうじゃなくて、「ああ、そうだ。お先真っ暗な私だから、阿弥陀様はお前を救うと言っておってくれたんだということが分かった」と、こういう具合に言ったんですよ。その言葉、注意して聞かなければいけないので、普通なら、〈お先真っ暗だけれども、私は死ぬんだけれども、極楽浄土へ生まれるんだ〉という、普通はそう言いますよね。〈死ぬんだけれども、絶望なんだけれども、仏様に助けて貰うんだ〉と。「だけれども」と、こういうふうに言うかも知れません。けど、その人はそうは言わなかったね。「私は絶望だから、仏様に助けて頂くんだ」と。「私はお先真っ暗だから、極楽浄土に参らして貰えるんだ」と。そういうふうに言ったんです。そういう人がいたんです。
 
有本:  信心に目覚めた。
 
大峯:  ええ。その時に、その人は信仰を得たんだね。その時にね。それまではなかなかそこへ行かなかった。つまり観念としては、仏の救済を否定しているわけではないですよ。それを否定した、そんなことはあるかとは言っていないんだけれども。けれども、ほんとの実感と言いますかね、そういうものとしてはなかなか、つまりまだ絶望していなかったからですね。絶望していなくて、どっかに逃げ道があると思っているから、なかなか仏様の救済というものが受け入れられないわけですよ。ところが、今度はいよいよダメだと。あと死ぬほかないと。だから、〈阿弥陀様はお前を助けると、昔からそう言ってくれておったんだ〉と。〈阿弥陀様は昔から言って下さっておったのはこのことだったんだ〉ということが分かったと言って。その人は、だから、ちゃんと、お通夜の晩に娘さんが、「父の遺書です」と言って、それを読んで、村の人に別れを読んで、今言ったようなことをちゃんと書いている。そういう方はまあ珍しいんですけれどもね。全てのこの村の方がそんな信仰を持っているとは思いませんけれども、しかし一人でもそういう人がいるということは、やっぱり親鸞聖人のおっしゃっていることが真理だと。どれだけそれを聞く人が少なくっても、〈一人の人でも、それを知ったら、これが真理だ〉という、そういうことを思うんですね。これは私の知っている人の場合です。もう一つは関東の方で、内科医をしていらっしゃる方です。浄土真宗の信者なんですね。これは珍しいですね。お医者さんで信仰を持っているという人は非常に少ないわけです。その方は女医さんですけれども、浄土真宗の教えを前から聞いていらっしゃる。その病院で出しておるパンフレットがあるんですよ。その中に書かれてある、ある重症患者との対話のことなんですね。その重症患者は八十四歳の、胃ガンが肺へ転移して、もう末期ですね。その方に、その内科医の女医さんが話をするところを書いてあるんです。一週間前は、その患者さんに、その方もTさんですから、ちょっとややこしいんですが、「Tさん、今度はダメかも知れないね」と。そういう具合にお医者さんが言ったんですね。そうしたら、「そう」と言って、寂しげな表情をして、「ああ、やっぱり」というふうな表情をして、悲しそうな顔をしたと。ところがその先生が言うんですね。「ところがTさんね、説法を聞いているとね、あなたも聞かれたように、仮にTさんこれで死んでもね、それでTさんがお終いになるんじゃないよ」と。「お浄土に必ず如来様に迎え取られて、仏様にして頂くんだからね。何にも心配することないんですよ」と、そういう具合に言ったそうです。その時はあんまり患者さんは返事をしなくて、まあそれはその時に終わったと。一週間前の話しね。ところが一週間後容態が急変したと。もうナースが飛んで来て、重症室に入って行ったら、もう全て末期的な症状になっておって、もうダメだという。そういう時に、宮崎さんというお医者さんですけれども、この間の法話の続きをしたと言うんですね。一応処置をしておいてね。「この前も言ったようにね、Tさん、南無阿弥陀仏ということはね、如来様が助けて下さいと言っているあなたの言葉じゃないんですよ」と。「そうじゃなくて、阿弥陀様の方が、あなたに向かって、心配することはないよ。あなたを必ずお浄土に迎え取って仏にするよと言っている。仏様の呼んでいる言葉なんですよ」と。そういう具合に言って、それで、「Tさん、だからね、あなたはいまここでね、仏様に抱っこされているんですよ」と。「何も心配ないのよ。お浄土があって良かったね、Tさん」「私も必ず行きますからね」「お念仏しましょう」と。そういうふうに患者さんに言った。そうしたら、患者さんが、今まで眉間に深い縦皺を寄せて苦痛に堪えておったその方が、突然何とも言えない平和な顔になって、「先生、有り難う」そういう具合に言った。そうしたら、そこで驚くべきことが起こった。一つは、今まで患者さんの世話をしておったナースが、「Tさん、良かったよね」と、こういう具合に。そうして思わず飛んで来て、「Tさん、良かったね。ほんとにお浄土があって良かったよね」。今までそんなことを言わなかった看護婦さんが喜んで涙を流した顔をして、患者さんに言ったと。そういうことを書いてあるんですね。その先生はその次にコメントをして、「人間の限界、科学の限界である。その時に、私と看護婦さんと患者さんは大きな如来のお慈悲の中に包まれておる。三人は裸のいのちを三つそこに並べておった」と書いてあります。これは決してフィクションでも何でもないんであって、私はそういうお医者さんがもっと出て来たらいいと思うんですねよ。
 
有本:  そうですね。
 
大峯:  今お医者さんはほとんど〈個体のいのちしか知っておりません〉よ。その〈個体のいのちを守ることだけが、医者の責務〉であって、〈その個体のいのちが終わる不安というものを持っている患者に安心させる〉ようなそういう言葉を言わないし、もっていないんですよね。けども、その方は両方持っていますね。いわゆる医者としての世の中の生命を維持健康回復させる為の医者としての仕事もしますけどね。今死んでいく人はもうそんな誤魔化しは聞かないんですよ。「頑張りなさい」と言われたって、頑張れないんですよ。私は死と直面しているんだと。この大きな不安をどうしたら救うてくれるかという、その問いを出しても。そのことをよく知って、そのお医者さんはまともに応えています。これは医者としてじゃないです。〈一人の裸の人間として、如来の力の中に生きておる裸の人間〉として語る。そうすると、やっぱり向こうも、それは感応するんですよ。一番いいのは、「私も必ず行くからね」ということですね。そうしたら、ナースさんも感動して、そうして三人そこに〈一つの同じ大きないのちの中にある自分達だ〉という〈世界を共有した〉わけですね。私は感動しましたね。この話しを聞いてね。
 
有本:  もっと具体的に、先生は、「お浄土」と申しましたけれども、お浄土というのは、どんなもの、
 
大峯:  「お浄土」は、私共はお浄土へ行ったことありませんからね。親鸞聖人もお浄土のことは説明していないですね。〈無限、無量光明土〉と。〈無量の光の世界〉だと。或いは〈大きないのちの世界だ〉と。そういう具合にだけ言っておられるわけで。だから、お浄土がどんなところで、というのは、これは行ったことがない我々に分からないし、また言う必要がないんですよね。言う必要がない。〈極楽浄土へ生まれることを信じている〉ということは、〈浄土がどういうところであるかを知っているということじゃない〉んですよ。そんなことは僕には分からない。ただ〈心配ないと言っている如来の言葉を〉〈仏様の言葉を信ずる人が極楽へ行く約束が定まっている〉わけですから、そういう『大無量寿経』とか、或いは『阿弥陀経』にはいろいろ浄土のことを、いろいろな綺麗な花が咲いているとか、綺麗な池があるとか、声のいい迦陵頻迦(かりょうびんが)という鳥が鳴いているとか、そういう『阿弥陀経』にはそういうことが書かれてありますけれども、ああいう感覚的な表象で語られている浄土を、親鸞聖人は一切おっしゃらないんですね。親鸞聖人の浄土というのは、なんかいろんなそんなものがあるじゃなくて、ただ〈無限の光がある〉と、こういう具合に言っていらっしゃる。それはそれでいいのであって、問題は〈その浄土がどういうところであるかじゃなくて、死ぬことは何の心配もない〉という、その〈如来様の言葉を信じ、それに任せる〉ということが大事ですね。〈信心〉というのはそういうのであって、極端に言えば、〈死んだ後に地獄があるか極楽があるか、そんなことはどっちだって、自分は構わん〉と。親鸞聖人の『歎異抄(たんにしょう)』の中にそう書いていますね。念仏したら極楽へ行くと思って念仏しているわけじゃない。或いは念仏したら地獄へ行くかも知れんという恐れを持って念仏しているわけでもない。「私は、「法然上人が念仏しなさい」とおっしゃったから、それを信じてしているだけであって、「自分が地獄にしか生きようのない私だから、如来様の仏の言葉に任せるだけだ」と言っている。だから、親鸞聖人の教えの大事なことは、〈それを任せたら、そこで任せたその時に〉、生きている時ですね、〈生きている時に往生が定まる〉と。
 
有本:  あの世じゃなくて、
 
大峯:  なくて、この今、今定まる。例えば、何月何日にご法話を聞いて、例えばその人が仮に六十歳の時、その話しを聞いて、〈ああ如来に助けて頂くんだと、そういう気持がフト湧いたら、それは信心が定まった〉と。〈その時に往生がまた定まる〉。これがさっきも言いましたけど、親鸞聖人が初めて解明した『浄土経』の一番深い真理ですね。親鸞聖人の前までは、そこまではっきりとは、やっぱり言われていないわけです。それは法然上人もそういうところに生きていらっしゃったけれども、言葉としてそこまではっきりとは言われなかった。「信心の定める時、往生また定まるなり」ということですね。これは『末燈鈔(まっとうしょう)』というお手紙。親鸞聖人の、その『末燈鈬』の第一書簡に書かれてある言葉で、何故こういうことを言わないけないかというと、普通は臨終の時に往生が定まるという、そういう思想が伝統的にあったわけです。源信の『往生要集』にもありますから。その「臨終往生」とか、「来迎往生(らいこうおうじょう)」来迎往生というのは、〈如来様に、仏に死ぬ時に迎えられる〉という、そういうふうな考え方ですね。それを親鸞はやっぱりまだ徹底しない立場だとして批判しているわけですね。その言葉はこういう言葉ですね。
 
     来迎(らいこう)は諸行往生にあり。
     自力(じりき)の行者(ぎょうじゃ)なるがゆえに。
     臨終ということは、諸行往生のひとにいうべし。
     いまだ、真実の信心をえざるがゆえなり。
 
と、一行とばしますが、
 
     真実信心の行人は、
     摂取不捨(せっしゅふしゃ)のゆえに、
     正定聚(しょうじょうじゅ)のくらいに住(じゅう)す。
     このゆえに、臨終まつことなし、
     来迎たのむことなし。
     信心の定まるとき、往生また定まるなり。
     来迎の儀則をまたず。
 
という言葉ですね。どういうことかと言うと、仏様に死ぬ時に、息の止まる時に、一生懸命お念仏をしている人は、その時に仏様に迎えられて、来たり迎えるということですから、〈極楽浄土から、仏様が迎えに来て、そうして、その人を極楽に導く〉と。こういう信仰は、実は自力を持っている人の、〈念仏をする自分の力というものを頼んでいる人の立場だ〉と、こういうわけですね。「諸行往生」というのは、「諸行」というのは、〈人間の行〉をして、〈往生しよう〉ということですね。いま念仏の行をして、これはまだ〈真実の信心を得ない人〉だという。つまり、どういうことかと言うと、〈仏様に自分の全部を任せていない〉というんですね。ところが〈全部任せた真実信心の人は、もう任せたその時に摂取不捨(せっしゅふしゃ)だ〉と。〈如来の光の中に入っているんだ〉と。〈如来のこの救いの中に入った〉という。だから、〈極楽往生が定まっている人〉だと、こういうわけです。
 
有本:  何か私達は現世とこう隔絶した向こうの世界のように捉えますけれども、
 
大峯:  だから、この思想は言い替えますと、極楽浄土が今ここで、〈極楽浄土の光がいままだ極楽に行っていないのに、我々を包んでおる〉ということを言っているわけですね。言い替えますと、我々の方から言ったら、往生が始まっているということですね。スタートはしている。〈仏様を信じた時に浄土へ向かってスタートした〉。まだ着いてはいませんがね。〈着くのはいつかと言うと、それは臨終の時〉だと。〈臨終の時に往生が完成する〉わけですね。そのスタートが大事なんです。親鸞聖人が非常に力を込めて言われたのは、往生の終点のことよりも、むしろ〈往生のスタートを切るという、それが大事だ〉と。だから、〈信心を問うということが一番大事だ〉ということを言われたんですね。これは浄土真宗の特徴ですね。素晴らしいと思いますね、これは。なかなか臨終の時に正念によって、死ぬ時に念仏したらいいんだとみな思っていますが、なかなかそんな状況は、この頃は交通事故とか、病気でもありませんよね。そうすると、念仏もすることも出来ないで終わっちゃう場合が非常に多いわけでしょう。そうすると、「臨終正念」という考え方はちょっと現実に合わないですね。親鸞聖人は今の現代社会の世相を知って、そんなことを言われたわけじゃないと思いますけれども、むしろ今も昔も変わらない〈人間というものは徹底的な無力〉ですね。〈念仏する力なんかはほんとにないのが、我々の人間の現実だ〉ということをよく知っておられますので、先送りして、死ぬ時に迎え取られようなんて、そんな心はダメで、今ここで〈如来様の救いの中に入るということがないと、明日のいのちも分からないんだ〉からというそこですね。この教えは何も禅宗のような人間の力のことを言っているのじゃなくて、無力のことを言っている。立場を、今安心だというところはちょっと禅の悟りのように聞こえますから、念仏じゃなくて禅じゃないかというような人もいるが、そうじゃない。〈徹底的な無力な人間であるからこそ、今救われねばならない〉ということを言っているわけです。そうすると、さっきの極楽浄土の構造というものについて、少なくとも向こうへ行って見て、初めてて出てくる世界だという、そういうものがないんですね。それが無くなった。娑婆と浄土が十万億土の遠い距離隔てられているという、それが『阿弥陀経』にはそういうふうに書いてありますが、そうじゃないんですね。それは人間の力では絶対行けない無量光明土でありながら、〈如来に任せたら、その時に浄土の方がやっぱり私の方へやって来る〉ということですね。往生というものに終点と出発点とを考えて見るとよく分かりますね。出発点がもうこの世であるということですね。だから、普通は死んだ時に出発すると思っているでしょう。よく死んでからお浄土へスタートするとこういう。哲学者のデカルトなんかも、キリスト教ですけど、死ぬ時、どう言ったかと言うと、「さあ、私の魂よ。出発しなければならない」とこういう具合に言ったという。これはやっぱり死んで初めて天国へスタートすると、こういうふうになりますね。けれども、さっき言った親鸞聖人の言葉はお浄土へスタートしているわけです。信心定まった時に。死ぬ時に初めてスタートじゃなくて、死ぬ時はもう着いたわけです。それは、
 
     臨終一念(りんじゅういちねん)の夕(ゆうべ)、大般涅槃(だいはつねはん)を超証(ちょうしょう)す
       (親鸞聖人『顕浄土真実信文類三(けんじょうどしんじつしんもんるいのさん)』)
 
という言葉が親鸞聖人にありますね。『教行信証』にね。これは着いたということ。臨終の時は、「涅槃を証する」ということは、仏になったということ。これは〈往生し、仏になった〉ということですから、死ぬ時に仏になるんですね。〈死ぬ時に極楽へスタートして、それが向こうに着いて仏になるんじゃなくて、死ぬ時にもう仏になる〉というのが親鸞聖人の教えです。それは何故仏になるかと言うと、それは〈スタートしている〉からですね。だから、〈信心がなかったら仏にならない〉わけです。日本人は死んだら、みな人間は仏になるとみな思っておりますが、あれは、「前に信心のある人は」というそういう限定が要りますよね。限定が。確かに〈信心のある人はもう死ぬだけで仏だ〉と言えるわけです。でも、親鸞聖人が大事にされたのは、〈仏になる時よりも、むしろ信心が定まるという時〉を、非常に大事にされたんです。
 
有本:  そうすると、信心が定まってスタートします。そして臨終を迎えて、みな到着点と、到達点。それから、大きないのちの世界に、さらに生まれ変わるというか。
 
大峯:  そこで、だから、〈大きないのちの世界に入る〉わけですが、そこで全てがお終いだと、親鸞は言わないんですね。それが「還相回向(げんそうえこう)」ということです。つまり、〈仏になって極楽浄土へ生まれて、仏になって、個体を突破して、大きな普遍のいのちの中へ入った人は、今度はもう一度個体の世界へ帰って来る〉と。「還相回向」とこういう。だから、私はこれ「還相回向」というのは、〈高次元の個体化〉と思うんですよ。〈菩薩として帰って来る〉と。それは「還相回向」というわけですね。これはだから、ただ、生死流転が目的で帰って来るというただの個体観でなくて、生死流転の中にありながら、生死流転の中にある人を仏にする働きをするわけですから、それを私は〈高次の、高い次元の個体化〉と、そういう具合に言っていいんじゃないかと思うわけですね。そうすると交流が出て来るわけですね。
 
有本:  そうですね。
 
大峯:  個体の世界から、我々のおる世界は個体ばっかりですが、そこから極楽浄土という〈個体がない普遍のいのちの世界へ行く〉。これは「往相回向(おうそうえこう)」と、こういう具合に言う。今度は〈個体を脱出した普遍の世界から、逆に個体の世界に帰って来る〉。それを「還相回向」という。そうすると、極楽浄土と娑婆と、今まで行った切りの世界だったら一方交通でしょう。一度行った人は帰って来ないわけですから、どうも去年、家のおじいさんが極楽へ行った筈だがちっとも音信が来んという。こういう一方交通の世界になっちゃいますけどね。親鸞聖人はそうじゃないんですね。〈極楽浄土へ行った人は娑婆へ帰る〉と。〈娑婆と浄土の間に交流がある〉ということを、親鸞の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の一番冒頭に言っている重要な言葉ですね。
 
     謹んで浄土真宗を案ずるに、
     二種の回向(えこう)あり。
     一つには往相(おうそう)。
     二つには還相(げんそう)なり。
       (親鸞聖人『顕浄土真実教文類一』)
 
と。これは浄土真宗そのものを言っているわけですね。だから、向こうへ行って、休息しておるような、そういう世界じゃないと。〈向こうへ行ったものは、向こうのいのちを捨てて帰って来て、もう一度ここで衆生済度の働きをする〉と。これは私はいのちというのは止まってしまったら、いのちじゃありませんから、当然のことであって、こちらから向こうへ行くだけのいのちは止まってしまうんですね。だから、親鸞聖人のダイナミックな生命観というものが、この言葉に出ているように思うんですね。
 
有本:  最初に死の恐怖、死ぬということは大変怖いことです。現代人はみんな持っている。それは個体のいのちであって、大きないのちに気が付いていない。或いは大きないのちに生かされる要素を持っているのに、それに気が付かないということ。そうすると、それに気が付けば、全く死ぬことは怖いということはなくなりますね。
 
大峯:  無くなると思います。名残惜しいという気持ちはあるかも知れませんよ。やっぱり死ぬことは嬉しくてたまらんということにはならんと思いますが。しかし、少なくとも異常な執着はないでしょうね。死ぬことにね。この世を去ることはちょっと名残惜しいと、親鸞聖人も『歎異抄』の中に、
 
     いまだうまれざる安養(あんにょう)の浄土はこいしからずそうろうこと、
        (親鸞聖人『歎異抄』)
 
という、やっぱりここに居たいと言う。それは煩悩。煩悩があるからね。けれども、何がなんでも、死ぬのは厭だという、そういうことはないんですね。
 
有本:  まあ、一人一人いろんな人間がいて、いろんなことを考える。いろんなことに、或いは執着をしているかも分かりませんが、そういう人をも、先生のおしゃっる宇宙の中のいのちは包み込んでくれるんだということですね。
 
大峯:  そうです。大きないのちを信ずることですね。いのちを信ずることです。
 
有本:  先生は哲学者、或いは宗教者でいらっしゃると同時に、随分若い頃から、俳句をお詠みと伺っておりますけれども、今日の宇宙の中のいのちを表現するような先生の俳句がありましたらご披露頂きましょう。
 
大峯:  今のテーマにちょっと関わりがあると思いますが、
 
     虫の夜の星空に浮く地球かな
 
秋のいろんな鈴虫とか松虫が鳴いている。今よりちょっと早い時季ですけれども、虫がしきりに鳴いている。空はもう満天の星ですね。それを見ておりましたら、ふと自分のこの地球がやっぱりこの星空の真っ直中にある一つの星だったという、そういう思いが痛切に迫ってきたわけですよ。観念としては、勿論前から、そういうことは分かっているんだけれども、あの虫の音を聞いていると、何かフッとこう地球地面から離れちゃって、そうして無限の星空の中にある星の一つだという。だから、地球なんて特別なものじゃないんですね。みな同じものなんですね。宇宙の中ではね。これは自然科学的宇宙だけれども、自分のおるところは特別なところだと思わないことが宗教じゃないんでしょうか。
 
もう一つは、
     人は死に竹は皮脱ぐまひるかな
 
初夏ですね。もう一つは、
 
     禅寺も念仏寺も吹雪きをり
 
余呉での雪の日の俳句です。
 
有本:  ほんとにいろいろと有り難うございました。
 
大峯:  ええ。どう致しまして。
 
 
     これは、平成九年十一月八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。