再び生きる力を
 
                                作 家 柳田 邦男(くにお)
                                ききて 迫田 朋子
 
ナレーター: ノンフィクション作家の柳田邦男さん。三十年以上に亘って、 事故や災害、医療などの分野で、人間の生と死を見つめる作品 を書き続けてきました。柳田さんの人生に大きな転機となる出 来事が起こったのは、九年前のことです。長く心の病に苦しん でいた二十五歳の息子・洋二郎さんが、自ら死を選び、搬送さ れた病院で、脳死と宣告されました。洋二郎さんが脳死となり、 亡くなるまでの十一日間を綴った作品『犠牲 サクリファイス』、 それは深い喪失の悲しみの中で、父親として、息子の生と死と 向き合い、その意味を深く問い直すものでした。
 

 
迫田:  洋二郎さんが亡くなられたのは、一九九三年でしたですよね。その後、本に書か れたり、それからいろいろなところでお話されたりしていらっしゃいますけれど、 そういうことをお話されたりすることには、もう抵抗はなくていらっしゃるんで すか。
柳田:  いやいや、まだ抵抗は大きいですね。なかなか話せないですね。 ですから、講演なんかで、喪失体験者─子ども亡くされたり、 連れ合いを亡くされたり、という、そういう人を中心とした集 まりの会などでは、まあ割合と率直に話せますけれど、どこへ 行っても、簡単にするという心境ではないですね。やはり話す となると、自分の心の中である緊張感がでるし、なんかこみ上 げてくるものというのは、何年経っても変わらないからね。私 は本を書いたということで、世間的には、「強いね」とか、「よ くそこまで書きますね」と言われるけど、実はそんな生やさしいことではなくっ て、本を書いたというのは、殆どワン・ステップ─序の口というのかな、それで 終わったわけでもないし、その後も引きずっているものがたくさんあってね。最 近よく世の中で、「癒し」という言葉が使われたり、或いは、「癒す」とか、「癒さ れる」とか。でも、その子どもを亡くした場合に、そんな癒しというのは生やさ しいものではないんだろうと思うんですよね。ただ、日常何気なく生きることは できるけれど、仕事もできるけれど、心の中のどっかに、なんかそういう生きて いる自分に耐えられない気持とか、或いは、子どもに対する贖罪(しょくざい)みたいな気持と か、そういうのが、どっかに影を潜めていて、それが出てくるんですね。
 
迫田:  洋二郎さんに関わることですと、どんなことを一番想い出されるんですか?
 
柳田:  それは、その時さまざまですよ。幼かった頃、一緒に遊んだ頃、 旅行した頃とか。でも、やっぱり最後、心を病んで、一人で籠 もっていたり、一人で本を読んでいたり、或いは精神科に通っ たり、自分も一緒に行ったりとかね、そういう時のシーンがフ ッと目の前に立ちはだかるように浮かんでくる。だから、「喪 失体験者の会」「生と死を考える会」とか、「ホスピスを作る 会」とか、さまざまなそういう「生き方、死に方の問題を考え る会」なんかですと、それぞれの体験の共通性があったりして、 割と率直に喋れるんだけれど、ただ、率直に喋れば喋るほど、その時に突然こみ あげてくるある情景があったり、息子が何かをしている姿が見えたりして、喋っ ているうちに、涙がこみあげてきて、堪らなくなるようなことがあるんんですよ。 でも、昔と、子どもを亡くしてからと、なんか自分でも変わったなと思うのは、 そういう自分の感情に対して割合と素直になったというのかな・・・笑う時は笑 い、泣きたい時は泣く、というような。だから、そういう時には、つまり、「感情 に対する素直さというのは、ほんとは人間生きていくうえで大事なんじゃないか なあ」というふうに話題をもっていくんですよね。そうすることによって、喋っ ている自分に逃げ道を作っていくというのか、言葉が詰まって出てこないのを、 なんとか通路を見つけなくちゃいけなくて、話をそういうふうにもっていく。そ ういうことって多いですね。
 

 
ナレーター: 洋二郎さんが亡くなるまでの十一日間。柳 田さんは、物言わず、横たわる息子の傍らで 過ごしました。洋二郎さんが書き続けていた 日記を手掛かりに、心の病に苦しみ、死を選 ばざるを得なかった胸のうちを必死で読み取 ろうとする時間。柳田さんは、温もりのある 洋二郎さんの手を握り、さまざまな思い出を 耳元で語り掛けたと言います。そんななか、 柳田さんが病室を訪れる度に、洋二郎さんの血圧が上がるという、不思議な出来 事が起こりました。脳死を宣告された洋二郎さんが、身体全体で語り掛けてくる。 柳田さんには、無言でありながら、洋二郎さんと深い対話を交わしているという 実感がありました。
 

 
柳田:  洋二郎が、自ら生命(いのち)を絶って、救命センターでもう植物状態避けられないという 状態になり、それがあれよあれよという間に脳死になり、十一日間で旅立って逝 った。その十一日間に、何を僕はそこでしたのか、或いは考えたのか、というと、 〈洋二郎はいったい何を考え、どんな人生観で、何を悩み、何を苦しんでいたの か〉と必死になって、十冊以上の大学ノートにビッシリ書いた日記、或いはそれ 以前に書いたエッセイみたいな、自分の密かに書いた文章とか、そういうものを 読んで、彼の人生観や、或いは生きる苦しみや、友だち関係、さまざまなことを、 こっちは理解しようと思って、読みながら、洋二郎と、「そうだったのか」とか、 いろんな会話をする。そして、洋二郎が、まだそんなことになる前に、読んだ本 の内容を僕と議論したり、或いはテレビ番組を見た後で話し合ったりとか、或い は彼が亡くなる少し前に、自分はもう世の中に出られない、何にも出来ないから、 せめてというんで、骨髄バンクのドナー登録したりとか、いろんなことが想い出 されて、言葉や行動や、その中からまたいまこの時代になって、そのもつ意味を 考えたりして、際限なく洋二郎とそういう会話をして、じゃ、何をしてやれるの か、何をしてやれるのか。精一杯に救命の措置をするのは当然にしても、それが もう今の医学ではどうしようもないところにきてしまった。でも、どうするのか。 じゃ、骨髄のドナーになれないなら、何が出来るのか。そこで、当時は脳死移植 というのは無い時代だったんで、心臓が止まって、亡くなった後、では、腎臓を 腎臓病の人に提供してやろう。そんなことを考えて、そういうドナーの手続きし たりとか、いろんなことを必死になってやり、その中でまた、温もりのある洋二 郎が語り掛けてくるものが一杯いっぱいあってね。だけど、その十一日間の無言 の会話というものは、もうそれ以前の僕と、それ以後の僕を、深いところで変え てしまうぐらい貴重なものであったし、もの凄くインパクトが大きくて、そこか ら逃げられないような、しかし、逃げる気持も勿論ない。真っ正面から向き合っ ていかなければいかんなという、そういう気持にさせましたよ。
 
迫田:  その辺のご自身の気持というものは、どんなふうだったんでしょう?
 
柳田:  人がどんなふうにものを感じたり、考えたり、或いは、動かされたりするかとい うのは、いろんな形があると思うんだけれど、その中で一番強いのは、「腑(はらわた)を抉(えぐ) られる」という表現がありますけれど、身体の奥底が揺さぶられるような、そう いう感情体験ね。単なる感情というと、ちょっと表面的な感じがするでしょう。 だが、感情というよりも、なんか情動とでも言ったほうがいいのかも知れない。 全身で感じるのと、考えるというのが、もう一体化して、何かどうしようもない。 そこで爆発するような、或いは破裂するような自分の中で動くものがある。洋二 郎が、脳死状態になって、目の前にいて、何にも話さないけれど、呼吸はしてい る。温もりはある。肌はピンク色で綺麗で、髭も伸びる。その前に居て、こう理 屈で、「脳死状態である。脳死はもう人の死だ」とかと言われても、或いは、自分 でも理論的にはまあほぼそういうものでないかも知れないと、それまでは思って いたけれど、実際自分の息子が、今目の前で脳死状態になって。しかし、温もり があり、手を握り、語り掛けると、何か無言の、そこで応えが返ってきたりする。 それは科学的にいえば、何も喋っていないんじゃないかとか、或いは何の表情も 見せていないじゃないかというかも知れないけれど、親として、或いは人生を共 有したそういう者として、息子の顔や肌や手を見ていて、そういう時に、もの凄 い、秒というのか、或いはスピードというのか、それで会話をしているんですよ ね。そして、その会話をしている自分の中では、理屈を考えているんじゃなくっ て、もう理屈なんか飛び越えて、まさに腑(はらわた)がえぐられるような、こみあげてく るものがあったり、抑えきれないものがあったり、そして、それが後で考えてみ ると、生きているって、そういうことなんかなあ、と。つまり一人だけで無人島 にいる生き方でなくって、大事な家族なり、息子なり、それと一緒に生きている。 その一緒にいるからこそ、こちらにもいろんな感情が起こったり、会話が生じた りする。そういう時には、論理的にこれがこうだからこうなるとか、それは理屈 は合わないとかということではなくって、その瞬間瞬間がもうすべて生きている。 自分であり、生きている息子なんですね。或いは二人の関係性なんですね。だか ら、「瞬間の真実」というのはあるんだなあ。そういう言葉で表現するのは後にな ってから、いろいろ頭を整理して、「瞬間の真実」なんていう言葉を使うんだけれ ど、でもほんとに「瞬間の真実」というものは、そこにあるんだなあと思うんで すね。何か証明したり、或いは理屈付けたり、或いは、同じことが他の人にも起 こるから、それは真実だとか、ということではなくって、別にそんな一般的にみ んなの中に起こらなくてもいい。自分の中で今起こっていることだけでいい。だ けど、それは自分にとってはもの凄く重要な、人生で決定的な、何かそんなもの が起こる。そういうもの。言いようがないんですけど、「瞬間の真実」とでも言お うかな、と思うんですけどね。

 
ナレーター: それまで、ノンフィクションの分野で、多くの著作を発表し てきた柳田さんは、客観的な事実を積み重ねることで、事件や 事故の実像を浮かび上がらせるという姿勢を貫いていました。 NHKの記者時代、柳田さんは、現場に何度も足を運びました。 それは憶測や思い込みを排し、科学的な調査やデータの収集に よって、事故の真相に迫りたいという思いからでした。柳田さ んの処女作となった『マッハの恐怖』。相次いだ航空機事故の 原因を究明するこの作品の冒頭には、一瞬にして多くの生命が 失われた事故現場に立った柳田さんが、感情を激しく揺さぶら れながらも、事実の記録に徹しよう、と決意したことが記され ています。科学的な専門知識にも踏み込んで、事実を解明して いくという姿勢は、その後も柳田さんの著作を貫くものとなり ます。
 

 
柳田:  僕自身がそういうふうになるように、つまり冷静的、客観的に 自分を見られるようにしなきゃ、ということを、若い時から訓 練してきたような気がするんですよ。ただ、感情に走るとか、 感情のままに身を任せるとか、それだけではダメだって。まだ 高校生、大学生の頃というのは、社会問題に目を向けて、何か 社会の改革とか、世の中どうしょうかという、そういうことに 走ろうとする自分がいて、そういう時に、例えば政治の腐敗に 怒るとか、世の不公平に怒るとか、そういうことに対して、た だ感情的にデモをして汗をかけばいいのか、叫べばいいのかと いうと、いや、そんなことだけでうまく変わらない。自分はも っと地道に何か仕事に取り組むなり、学問をするなり、しっか りしなきゃダメだよというふうに、自分に言い聞かせる自分と いうのは、その頃から既にあったように思うんですね。でもね、 振り返ってみると、高校、大学どころか、もっと幼い頃から自 分にそういうのがあったかも知れないな、と思いますね。もと もと子どもの頃、もの凄く泣き虫だったんですね。風邪を引い て熱を出しては泣きね。もっと幼い時は、わけもなくバスに乗るのが恐くて泣い て泣いて、家族でみんなで町に出るのを中止にしたことがあったとかね。とにか く泣き虫なんですね。悲しい話があるとすぐ泣いてしまうみた いな。で、姉が二人いて、そんな泣き虫の僕に対して、「男の くせに」というんで、年中冷やかされたんですね。悔しくて悔 しくて、なんとか泣かないでいられる自分というものになりた い。強い自分になりたい、なんていうことが、幼い子どもの心 の中で、凄く重要な、いうならば課題みたいになっていたのね。 そういうところが、自分が本来もっている泣き虫の自分なり、 或いは物事にぴんぴん感じちゃう自分と、それに打ち勝って、 客観的、冷静になろうとする自分とが、育った根っ子なんかも知れない。
 
迫田:  両方ある自分のうちの、強くありたいという、ご自分の方が強く出て、ずーっと ジャーナリストとして活動されてきた、ということなんですね。
 
柳田:  それを目指したんですね。そうは成りきれなかったですけどね。やっぱり流れて くる涙はどうしようもないことはありまして、事件を追うような取材だと、被害 者とか、亡くなった人とか、そういう家族の話を聞けば、もうそれはやっぱり涙 を流さざるを得ないような場面というのはありますけどね。でも、その中でもな んとかこれを冷静に社会的な意味付けや道付けをしながら、レポートしなければ いかんとかね。そういうのが絶えず働いていたんですね。だから、後で気が付け ば、そういう悲しい話でも、自分とある距離を置いて対象化して見ちゃうという、 そういう癖を訓練するような意味で、一所懸命自分に言い聞かせていたところが ありますよね。ですから、作家活動を始めて、かなりの期間、事実の時代という のは、自分をキーワードにすると同時に、表現活動の中でも、「事実、事実」とい うことを凄く強調していましたけれどね。それは洋二郎の死後かなり変わりまし たけども。
 
迫田:  洋二郎さんはそこのところにかなり反発を感じていたということもあるんでしょ うか。
 
柳田:  そうですね。親父が何事につけ、物事を対象化して冷静に見ようとする。それを 堪らない気持で見ていたんですね。「我と我が身に引き受けて考えたことあるのか よ」みたいなことを、こう言われたことありますしね。それは自分の心の中では いつも自分の問題と重ねているように思いながらも、でも、子どもの目から見る と、実際自分が心の病気になり、辛い日々を送っている。そういう時に見ると、 やっぱり親父というのは、自分がいて、世界が対象としてあって、或いは苦しん でいる人が向こう側にいて、それを書いている、というふうに写ったんでしょう ね。それは厳しい問いだったですよね。
 
迫田:  その脳死状態の間にそういうことを洋二郎さんの方から問い掛けられたことを次 々に想い出す?
 
柳田:  そうですね。よく「走馬燈のように、過去が想い出される」と言いますけれど、 そういうのともちょっと違う。そんなふうにロマンチックじゃない。実に混沌と して、脈絡なく、いろんな場面やいろんな言葉が浮かんできて、そして、その浮 かんだ言葉なり、場面なり、一つひとつが自分にとって凄く重要なんですよ。ズ ンズン胸を突いてくる。例えば、親子ですから、喧嘩もする。息子がいろんな言 葉を投げかけてくる。一番きつかったのは、「親父は作家だろう」と。「作家だっ たらそんな世のこと、他人様のこと、他人事のように書くんじゃなくて、自分の 中の地獄を書け」ってなことを問い詰めてくるわけですよ。自分の中の地獄、こ の家の中の地獄、そういうのを真っ正面から向き合って書いたらどうか。それ凄 くきついですよ。そういうことって書けないから、必死になって形を変えて、な んか三人称に置き換えたりして、或いは、世の中のいろんな闘病を書いたりとか、 災害とか、悲惨な事件とか、そういうものを被害者を通して、なんか自分の心の 中にある、言いようのない、何か表現したいことを書いていくとかね。そうやっ て自分の中の気持なり、自分が直面している問題を、生(なま)では書けないようなこと を、必死になって社会的なものを置き換えて書いている。それはほんとに心患っ て、精神科に通い、ほんとに生命とつばぜり合いするような形で生きている息子 にとっては、生温くて、他人事で、ほんとに親父は自分で苦しんでいるのかよ、 というようなことを投げかけてくる。そこから僕は逃げられなくなっちゃうわけ ですよね。比較的病気をしているとは言え、まさか生命を絶つようなことはない だろうと思っていた時に聞いたその重みと、実際にいま目の前で、自ら生命を絶 って、脳死状態になって、もうほんとに時間との鬩(せめ)ぎ合いの中で、いまそこで、 人工的であれ息づいている。そこから投げかけてくる言葉。それは単なる僕が記 憶が甦って、そういう言葉を想い出す、というんじゃなくて、ほんとにそこでい まもっともっと鋭く深く問い詰める形で聞こえてくるんですよね。
 
迫田:  それは厳しいですよ。つまり親父は取り繕(つくろ)っているだけだ、というようなことを 言っているのと等しいですよね。
 
柳田:  そうです。僕の全人生を否定されるような、或いは今まで書いてきた本、或いは 作家活動、表現活動、そういうものを根底から何か崩される感じ。生きているこ とを否定されるくらいな、そういうきつさがありますよね。
 
迫田:  科学的な事実みたいなものですね。さっき「瞬間の真実」とおっしゃいましたけ ど、それはやっぱり全然違うものだということを、その十一年間のことで、実感 として分かったということなんでしょうか。
 
柳田:  そうですね。分かったというよりも、何か動かしがたい体験になってしまった、 と言ったほうがいいかなあ。だから、脳死に対する考え方とか、人の死に対する 考え方というのも劇的に変わりましたよね。単に人間の生命現象としての生命を 見るんじゃなくて、人間の心とか、魂とか、或いは愛する者同士の関係の中での 生命とかね。そういうふうに科学では証明出来ない。或いは科学で証拠付けるこ とが出来ないけれど、生きている人間にとっては、もの凄く大事な側面ですね。 ですから、脳死というものを科学的に考えたら、例えば、脳は人間の一番大事な 中枢機能を果たすところだから、そこが機能を停止したら、既にその人の人格は なく、死んだことにしようというのが、脳死論の基本的な考えだけれど、「いや違 う。それだけが人間の生命か?」って、すぐ問い返したくなる。生きている人間 の生命というのは、それで割り切れないものがある、と。魂という言葉は、もの 凄く僕はそれ以後、生きていく上で大事になりましたし、魂を語らないと、人間 の一番大事な部分は語れない、というふうに思うようになったですね。
 
迫田:  それは洋二郎さんの魂というのを、どういうふうに感じられたんですか?
 
柳田:  「これが魂です」とか、「これは洋二郎の心の中です」とかって、見せることが出 来なくて、今の僕らの考え方というのは、凄く科学に毒されていると思うんです。 科学は大事ですよ。迷信とか非科学的なこと、というのは、避けなければいけな いんだけれど、でも、科学だけで、僕らの問題、生きている問題を説明出来るか、 というと、そうじゃなくって、僕の例で言えば、洋二郎が死んで、遺体を引き取 ってきた時に、洋二郎が好きだったタルコフスキー(旧ソ連の亡命映画作家)の 映画、「サクリファイス」が、偶然だけれど、衛星放送で放送されて終わろうとし ていた。で、洋二郎が大好きだった、何度も見ていたその「サクリファイス」と いう映画が、何で洋二郎が亡くなって、そして、腎臓を人のために提供して、連 れて帰った。その遺体を安置した時に放送され、しかも、「憐れみ給え、わが神よ」 というバッハの有名な「マタイ受難曲」のアリアがエンデング音楽として流れて くるのか、科学的には何の因果律ないですけれど、でも、その体験というのは、 生きていく僕にとっては、もの凄い、何か身が震えるような洋二郎との触れ合い だし、魂の触れ合いだし、生きていく力に繋がっていくものなんですね。特に人 間対人間の関係、家族とか恋人とか、親友とか、この愛し合う関係、共有し合う 関係、その中では科学では説明出来ないボヤッとしたものがあるわけですよね。 そのボヤッとしたところを切り捨てるのが科学だ、というのに気が付いたわけで す。そのボヤッとしているところこそ大事であって、そこにこそ、ほんとに魂と いうのがあるんだということを。科学は見えないじゃないか、証明出来ないじゃ ないか、実験で説明出来ないじゃないか、ということで切り捨てていくわけです。 で、科学が考える生命というのは、肉体を細かく切り刻んでいって、細胞や遺伝 子までいって、そして、生命というのを考えるわけだけれど、そこからは魂が出 てこないのね。生き甲斐だとか、愛し合うこととか、或いはその支え合うだとか、 そういうものは、そういう生命の捉え方から出てこない。
 

 
ナレーター: 一九九三年八月、洋二郎さんは旅立ちました。十一日間の看取りを終えた柳田 さんは虚脱状態となり、何も手につかない日々を送りました。病室で洋二郎さん から突き付けられた重い問い。混沌とした悲しみと止むことのない悔いの想いの 中、柳田さんは洋二郎さんの生と死の意味を考え続けました。それはいっこうに 出口の見出せない辛い日々でした。
 

 
柳田:  やはり自分の子どもが死んでしまう。しかも、自ら生命を絶つというような、そ んなことがあると、これは人間の一生の中で最大の事件ですよね。おそらく国家 が転覆するよりも、もっと重大な事件だと思うんです。一人の人間にとってね。 だから、洋二郎が死んだ後、暫くこう世の中が静止画像になっちゃったんですね。 色がなくて、ストップ・モーションかけられたような。特に辛かったのは、駅に 出ると、私は東京郊外の多摩市に住んでいましたけれど、そういう郊外の私鉄の 駅に出ると、大学がいくつかあるんで、若者で混雑している。そういう若者たち の顔を見るのが辛かった。自分の息子と比較して、何でこんなにみんな笑ってい られるんだ。何でこんなに元気ではしゃいでいるんだ、と。その反動として、ま あ自己防衛的に、無意識のうちになるんだろうと思うんだけど、見える情景が全 部灰色で、ストップ・モーションをかけられたように、温もりも生命もない。た だ平面的な、機械的無機質な風景になって、それでも、しない、というか、或い はそういうふうに自分の心の中で、風景を見ないと、堪らない。逃げ出したくな るような、走り出したくなるような、意図的にそうしているんじゃなくて、そう なってしまうんですね。そんな日が過ぎていく中で、でも、何か自分を立て直さ なきゃ、という気持も当然起こってきて、どうすればいいんだろう、って。雑誌 の座談会の話があって、それで、「出て見ます」と、言ったら、二ヶ月位経ってか らですね。でも、辛かったですね。三人位の座談会だったんですが、他の出席者 の方は何事もなかったように愉快に喋ったり、世の中を俯瞰(ふかん)したりする。どうし てこの人はこんなに他人事みたいに世の中のことを話すんだろうというような思 いが、頭の中で駆け巡って、なかなかそういう波に乗っていけない。まだまだ自 分は回復していない。自分はなんか変だ変だと思いながら、その座談会に出てい る。そういう中で、半年ほどして、フッと年が変わった時、年末が過ぎて、年が 変わったということも微妙に影響したんだろうと思うんですけれど、無性に洋二 郎のことを書きたくなる。書かないではいられなくなった。書くというのはやっ ぱり整理しなければ文章にならないから、もう頭の中はグチャグチャで混沌とし ているけれど、書くとなったら、年月を追ったり、時間を追ったりして、整理し ていく。その整理作業が頭の中で起こってくると、だんだん落ち着きが出てきた ような気がしてね。むしろ自分を立て直す上では、書いた方がいいんだろうな、 って、必死になって自分に言い聞かせるようにして、それから一月から二月に掛 けて、準備したり書いたりしましたね。まあそれが気持の混沌としたものを、本 格的に整理して再出発する最初だったと思うんだけど。その時にはもう事件を客 観冷静に見るというよりは、これ以外これ以上の我が身のことはないから、ほん とにその中へ自分がのめり込んだ当事者として、もうほんとに思い入れを全部放 り込むような形で書きましたけどね。勿論、脳死の状態などというものを書いて いく時には、少しは客観的な医学的な話とか説明とか書いていくわけだけど、で も、書いている中で、自分がドンドン気付いていくわけです。これは科学的、客 観的に解説したって、全然重要度が違う事件の問題だとか、大事なことはその科 学的な根拠とか何かでなくって、今そこで立ち会った自分の心の中で起こった問 題であり、この事態をどう自分の感情が受け止めているのかとか、自分の感情が どう動いているのか。それが凄く大事だし、一番大事なんだということを、書き ながらそれがドンドン自分に跳ね返ってくるものを感じた。そういうものだった ですね。でも、最初に雑誌に書いたんですよね。雑誌に書いて、それを暫くして 単行本に纏める時に、また自分の中で新しいものがドンドン湧いてくるんです。 それはどういうことかというと、書いた文章がまだまだ十分表現しきれていなく て、一応雑誌に載ったものをずっとゲラで組んでみたけれど、ドンドンドンドン 文章を変えたり、加筆したりして、そのゲラ刷りが真っ赤にびっしりになってい く。その作業はおそらく後で振り返ってみると、僕の心の中で、整理する作業と いうのは、もう際限なく深みに入っていって、そして、自分の中で混沌としてい たものの大事な部分に気が付いたり、或いは、いろいろと気付かなかったものを 発見したりとか、洋二郎の意味をさらに考えたりとか、そういう僕の心の中や頭 の中で起こっていることのプロセスが、赤字でドンドンドンドン書き込んでいっ た作業なんだろうと思うんですね。それは何か事件を突き放して書くレポートで はなくって、自分の心の中を掘り起こしたり、もっともっと深く見つめたりする 作業、それだったと思いますよね。読者からの手紙なんかを見ますと、「よく書い た」とか、「よくこんなに冷静に書ける」とかというふうに、おっしゃる方は少な くなかったんですけれど、僕の心の中では決して冷静でも客観的でもなくって、 ほんとにそれまでの僕の書き方の客観性から比べたら、遙かに自分の感情、或い はセンチメントというものを大事にして、それがむしろ判断の中心軸になったく らい、そこを大事にして書いていったということだろうと思うんですよね。その 作業をしないとおそらく僕はその先へ進めなかっただろうと思いますよ。
 
迫田:  事実を追求していくんではなくって、さっきおっしゃっていた意味と言いますか、 生きた意味とか、生きる意味とか、そういうことを書くというだったわけですか。
 
柳田:  そうです。だって、一人の青年が二十五年間生きて、僕が生きた人生より遙か短 い。その彼だってこの世に生きた意味があるじゃないか。いったいそれはどんな 意味なんだ、っていうのを、親としては考えざるを得ない。その意味を、僕が考 えずして誰が考えるのか。僕に迫っているのは、洋二郎が、二十五年しか生きな かったけれど、〈俺にはどんな意味だったのか。分かっているのかよ〉というの を、問い詰めているように、僕は受け取ったんですね。だから、彼が生きた意味 というものを、まさに書こうとしたのが究極の目的だったと思うし、そのことを 問い続けるのが、その後の僕のものを書く仕事でもあったと思うんですけれどね。 だから、一方ではその子どもをこんなところへ追い込んでしまったという、親と しての反省とか、責任感とか、罪悪感とか、そういうものを抱きながら、しかし、 一方では、その分だけ子どもの生きた意味を考えなければいかん。そのこと自体 が僕の生きている意味でもあるんだけれど、そういう作業をした。その第一歩が、 『サクリファイス』という本だったわけですけどね。でも、それで終わるわけじ ゃなくって、或いはそれで完結するわけじゃなくって、それは出発点であってね、 そこから先の僕の生き方が、その考えた意味をキチッと実現していく、受け継い でいく、という、そういうことなんだろうと思うんですけどね。
 
迫田:  先生が書かれたことによって、ご自身の発見とか、或いは何か整理された後の、 この先の生き方とか、見えてきたものがお有りだったんですか。
 
柳田:  ハッキリと地図が見えたわけでも、進路が見えたわけでもなくって、自分の中の ものを書くと、なんか一つ階段の踊り場まで辿り着いたような気がするんですよ ね。或いは田舎の駅で汽車が停まってしまって、なんかエンジンが故障して動か ない。だけれど、なんか暫く休んでいたら、何故か知らんが動き出して、また次 の駅に向かって発車した。その発車したという感じね。これからどこへ行ったら いいのか分からない。前へ行ったらいいのか、後ろに行ったらいいのか分からな い。そんな時に、なんか、あ、このまま進めばいいんだ、というようなことで、 汽笛を鳴らして発車する。そんな気持になるのかなあと思いますね。なんかハッ キリと、その航路図が見えたりするというよりは、とにかくもう一度出発しょう、 というような気持。
 
迫田:  その発車する力を与えてくれたものは何ですか?
 
柳田:  これは僕も何回も考えましたね。そこまで考えないと、なんか自分が見えてこな い。そうすると、どうしても自分が、生き方や考え方の根源みたいなことを、生 まれ育ちの中で、どこで形成されたのかまで考えますよね。僕にとって、凄く大 事な体験が、洋二郎が闘病中にあったんですよ。それは洋二郎を診ていてくれた 精神科の先生が、若い方だったんですけど、「お父さんも少し自分を見つめなさ い」って。その一つの方法として、内観という、その仏教系のね。自分を見つめ 直す修行があるんですよね。それを、「おやりなさい」と勧めてくれたんです。な んで息子が心患っているのに、父親が修行しなければいけないのか。割りとまだ 科学的、合理的な考えが強かった段階なものだから、躊躇(ためら)ったんですけどね。で も、やっぱりそれは我が子のため、何か役に立つならば、やってみようと思って、 それで内観を一週間受けました。森の中の研修所だったんですけどね。そこで麦 飯しか食べないようなところで、朝五時に起きて、掃除をして、六時から半畳位 の狭さの衝立の中に籠もって、自分の生まれ育ちを、根源から探り出す。母親と の関係とか、家族との関係、幼い頃からどんなことが起こったのか、どういうふ うに自分は恩恵を受けて育ったのか。そういう中から、自分の 心の持ち方、或いは出来事に対する自分の反応の仕方というの が、原点みたいなものが見えてくると、やっぱり母親の存在と いうのは、圧倒的に多い。恐ろしく多い、大きい。そして、僕 が非常に幸運だったな、と思うのは、母親のいいところをいっ ぱいもらった。私の母は、四十一歳の時に、夫を亡くして、そ の時には、子どもたちが、一番上が二十二歳で、一番下の僕が 十歳だったんですけど、ティーン・エージャばっかりだったん ですね。それでも動転しないで、子どもたちの中心的な存在で、かと言って、ゴ ッド・マザーでもない。何か柔らかく、優しく、温かく、経済的困窮があっても あたふたしない。パニックにもならないで、手内職をやり、野菜作りの野良仕事 をやり、淡々と生きていて、そういう母親の生き方とか、それからいい意味での 楽観主義というのかな─栃木県の田舎で育ったものだから、福島弁に近い言葉な んですけどね、「仕方なかんべさー」とか、「なんとかなるべさー」とかって、そ れが口癖だったんです。それは単に諦めじゃなくって、いい意味での楽観主義だ ったし、いい意味で自分の心の安定を作っていく、なんか処世術みたいなものだ ったんだろうと思うんですね。そういう母親の姿というのが、僕の心や感じ方や、 生き方や、そこに計り知れないほど染み付いている。そういう発見があったです ね。でも、それは、ただ母親が優しかったとか、何とかじゃなくって、その時に まあ昔のことですから、子どもが多くて、兄姉が六人。一人は父親が亡くなる直 前に胸を患って死にましたけれど、残された五人の兄姉が、母親を中心にして、 割りとそれぞれが自立的で、余計な負担を家計にかけないようにしようとかとい うのは、ティーン・エージャなりに考えて、淡々と働くことが当然のように考え る。うまく兄姉関係が成り立っていたということも大事ですよね。そういう中で 自分なりに自立的な生き方、母親の手内職手伝って、自分の本代くらいは稼ぐと か、そういうそのすべてが、その後に繋がっていくんだろうなあと思いますね。
 
迫田:  逆に、そういうふうにお考えになると、今後はご自身の子育てが問われてきます ね。
 
柳田:  その通りです。だから、洋二郎のベッドサイドで、自分に突き付けられたものと いうものを、本当に自分の子育ての歴史を辿った時に、自分が母親にもらったも のの何十分の一をやっただろうか。何をやっただろうか。それは厳しい問いです よね。殆どそれは失敗だった。自分に刃を突き付けられるようなぐらいの思いだ ったですね。その思いは今でも変わらないです。失敗だった、失敗だった、と。 一方では、人間というのはのっぴきならない事情の中で生きているんだから、そ んなにギリギリ自分を責めたって始まらないよ、という、そういう考えがないわ けでもない。私、他人に対してはそういうことを言いますけど、自分に対しては なかなか言えない。やっぱりどこかで自分を責め続けている。でも、両方の気持 の揺れ動きの中で、ずっと時間が過ぎていって、そして今でも時々、お前は何を やったんだ。そういう責める気持が、堪らないぐらい浮かんで くることがありますよね。でも、一遍、『サクリファイス』と いう本を書いて、そして、その後もそういうさまざまな葛藤が あっても、そのことはもう自分の中で解決していこうというふ うな、決心みたいなものがあります。もう一遍『サクリファイ ス』のような形を、続き書いて乗り越えようというよりも、な んか途中で停まっていた駅はもう出発して、今動いている汽車 に乗っている。そのことを大事にしていこう、と。だから、よ くね、大事な人を亡くした人たちのこじんまりとした集まりの 中で、みんなほんとに率直に自分をさらけだして語り合う時に、 みなさん、それぞれ共通するのは、周りの人から、よく「もう 死んだ子どものことなど忘れて、これからもっと前向きで生き なきゃ」とかね、そういうことを言われたりする。でも、そん なに忘れられるものではない。生涯これを背負っていくような 悲しみとか、或いは申し訳なさとか、そういうものは消えない んだけれど、それは消さなくとも生きられる。背負っていても 生きられる。そういう道をさがせた時に、辛い気持と葛藤しな がらでも生きられる。そういう気持になれた時に、おそらくそれがほんとの意味 での癒しなんかもしれないなあ、って。癒しというのは、気持ちよくなったり、 心地よくなったり、忘れたりすることではなくって、真っ正面から、悲しい事実 や厳しい事実に向かい合っていても生きられる。或いは、逆にそういうものを大 事にして、時には糧にするような意味で、それをしっかりと背負って生きられる。 それが癒しなのかな、ということね。「死」って凄い力をもっているな、って。「死 というのは決して終わりじゃなくって、なんか後を生きる人に対して、もの凄い 大きな力、影響力をもっていて、それを真っ正面から受けた時に、残された者は まったく能天気に生きるのとは違う、内面的な、大事な財産をこう貰うような、 そういう生き方が出来るし、ドンドンそれが膨らんでいくんじゃないか」と思い ますよね。
 
     これは、平成十四年四月七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。