いのちを見つめて
 
                   聖路加国際病院
                   小児総合医療センター長 細 谷  亮 太(ほそや りょうた)
一九四八年山形県河北町の開業医の家庭に生まれる。東北大学医学部卒、聖路加国際病院小児科を経て、一九七七年アメリカのテキサス大学総合がん研究所、M・D・アンダーソン病院小児科にクリニカルフェローとして勤務。一九八○年、聖路加国際病院に復職し、現在小児科部長。三十三年にわたって小児ガンの治療を手がけている。著書に「川の見える病院から」「小児病棟の四季」「ぼくのいのち」「君と白血病」ほか
                   ききて(ディレクター) 浅 井  靖 子
 
細谷:  ちっちゃい時からいろんなものを、例えばトンボの尻尾をもいだり、それからカエルのお腹の中に空気を入れたり、というような、とんでもないことをいっぱいしていましたけど、でも実際そんなことをして、カエルが死んだり、トンボが死んだりしても、そういのちが私によって一つ消えた、というようなことは感じませんでしたよね。そのうちにだんだん対象となるものが大きくなっていって、それで犬とかペットとか、そういうようなものが亡くなっていく時に、自分なりに、これは大変だ、と思ったり、それから悲しくなったり、泣いたり、というようなことをしていたんですけど、人間のいのちが消えていくというのは、それとはまったく違う重みがありますからね。だから、医者になって、最初に患者さんに亡くなられた時のショックというか、こういうふうにいのちというのは消えるんだ、って思ったのは、今までも忘れられないぐらいに大きな衝撃だったですよ。
 

 
ナレーター:  今年一月、小児科医療の充実を目指してオープンした聖路加国際病院小児総合医療センターです。
 
細谷:  はい。お大事に。
 
子供の母: ありがとうございました。
 
ナレーター:  小児科部長の細谷亮太さんは、白血病など小児ガンの治療を専門としています。一九八○年アメリカの進んだ医療を学んで帰国、日本の臨床をリードしてきました。この日は健康な子供たちの検診を担当していました。
 
細谷:  こんにちわ。漸く一歳ね。いつ誕生日でしたっけ。
 
子供の母: 二十六日です。
 
細谷:  はい。おめでとうございました。特別な誕生日だもんね。こういうふうにニコニコしてくれる人は大丈夫だね。
 
ナレーター:  細谷さんが小児科医となった三十年あまり前、小児ガンは治すことが難しい病気でした。しかし現在はおよそ八割は治せる時代へ、と変わっています。細谷さんは健康な子供たちと同じように、辛い治療を受ける病気の子供たちも、豊かに成長していけるよう心と体を注意深く見つめる医療を実践してきました。
副院長としての仕事もこなしながら、検診や一般外来、専門の血液外来や入院患者のケアなど、細谷さんの毎日は多忙です。漸く仕事が一段落した夜、病気を治せない時代に、小児ガン専門医としてのキャリアをスタートされた細谷さんに、その歩みを伺いました。
 

 
細谷:  細谷先生は、小児科医になられて、今年で三十?
 
細谷:  三十三年になるんですかね。
 
細谷:  その治らない時代というのを最初の頃体験されていて、「今治る時代がやってきている」というのは、今思うと、どのように思われるんですか?
 
細谷:  最初の頃は「治らない病気だ」と思いながら治療していましたよね。それが今まで三十三年やっているうちに、徐々に治るような感じになってきて、「治る」というふうに、僕がちょうどアメリカから戻ってきた八十年代の前半の頃に言ったら、いろんな人から、「治るというふうに軽々しく口にしてはいけない」というお叱りを受けたりしたんですけど、アメリカでは「治る」というふうに言っていたんです。でも日本はまだまだでした。その当時、情報の伝搬というのは、今とはまったく違いましたからね。だから、治るということ自体も、私たちも実感としては感じませんでしたし、「治らない病気があって、人間は生命(いのち)を落とすんだ」ということを、しっかり最初の頃にインプットしたというか、「そういうものなんだな」と思う時期があって、それで治るようになる喜びを一番感じられたのは、私たちの年代で医師をやっていた者が一番感じたと思うんです。特に小児の悪性腫瘍を専門にやっていて、とても幸運だった、というふうに思います。
 
細谷:  「幸運だった」というのは、「治すようになることが出来たから幸運」ということですか?
 
細谷:  それもあるし、「治るんだ」というようなことからスタートしていない分だけ、「危ないな」というような、常にまだトラウマ(個人にとって心理的に大きな打撃を与え、その影響が長く残るような体験。精神的外傷。外傷体験)になっていますよね。「ちょっとしたことでいのちというのは亡くなるんだ」というような思いが、ほんとに切実に骨身に沁みるほどに、インプットしてありますから。だから治療している途中でも、ハラハラドキドキしながら治っていく過程を見ている、というようなことがあるんで、注意深く患者さんを診れるというようなことも一つですし、もう一つは、さっき申し上げたように治った時の嬉しさというのは格別ですよね。
 
細谷:  はじめて受け持たれた患者さんが亡くなられた時のご様子は?
 
細谷:  彩(あや)ちゃんという子だったんですけど、もう末期ガンの子で、治らないということは分かっていたんですけども、僕のボスの西村先生(西村昴三(こうぞう):当時小児科医長)という先生が直接の主治医でいらっしゃったんで、その先生から「ダメです」というようなことはご家族にもお話がしてあったんですが、それでもまだもう少し大丈夫だろうというふうに、僕なんか思いながら、毎日毎日ドキドキしながら、一生懸命やれるだけのことはやっていたんです。もうちょっと頑張れるんじゃないか、と思っているような状況で、もう草臥れた、というような雰囲気で、スーッと逝かれちゃったんですよね。僕は、聴診器で心臓の鼓動を聞きながら、胸に当てていたわけですけど、ちょうど当てているような時に、ドキドキがだんだん遅くなっていって、コトンとかいうふうに止まるんですよ。止まって、もう人工呼吸とか心臓マッサージをしても仕方がないというようなことだったんですけど、でもその当時、やっぱりやらずにはいられないような雰囲気で、心臓の上を、心臓マッサージをどんどんやって、息を吹き込んだりしましたけども、全然ダメでしたね。今はちょっとその当時と、「一生」に対する考え方というのが、ちょっと変わってきたようにも思うんですけど、その当時はもっともっと長く、何で生きられないだろう、というのを、二十四、五歳の私は、一生懸命思いました。治せるものだったら、なんとか治してあげたい、というふうに思いましたしね。
 
細谷:  そもそも小児科のお医者さんになろう、というふうに思われたのは、どういうことだったんでしょう?
 
細谷:  いろいろ考えに考えて、というわけではなくて、僕が子どもの頃はベン・ケーシーとか、みんな医者ものが全盛だった時代で、主人公は外科医が多かったんですね。外科になろうかな、と思ったんですけど、残念ながら、外科の先生たちが大酒飲みばっかりでして、アルコールを飲むという実力がない私にとっては難しいと思って、で内科系を選んだんです。おじいさん、おばあさんの気持はなかなか分からないというか、共感するのは難しいと思ったんですね。小学生の頃に自分がどんなことを思っていたか、幼稚園の時にどんなことを思っていたか、というのは、記憶を辿れば割と簡単に思い出せるんですね。だから、小児科のほうがずっと相手の気持になって一緒に暮らすことができる、というふうに思って小児科を選んだんですね。
 
細谷:  「相手の気持になって一緒に暮らせる」というのは、先生にとっては、お医者さんにとって大事なこと?
 
細谷:  大事なことだと思っていたんです、不思議なことにね。多分、僕が悪性腫瘍を自分のスペシャリティというか、専門として選ぶ時にも、どの子供たちのことを一番親身になって、その人の気持ちになって世話することができるか、というふうに思った時に、悪性腫瘍を選んだような気がするんですよ。だから、小児科を選んだ時にもそうだったですし、それから小児の悪性腫瘍を専門にしようと思った時にも、同じような選択の基準で選んだような気がしますね。
 

 
ナレーター:  一九七二年、東北大学を卒業した細谷さんが、研修医となった聖路加国際病院。明治三十五年に、アメリカ人宣教師のルドルフ・トイスラーが開いた病院です。トイスラーが掲げた創立の理念、「苦しむ人が救われ、神の愛を実感できる場所であるように」という言葉に従って、病院には、「自分が他人(ひと)にして貰いたいと思うことを他人(ひと)のためにする」というキリスト教の精神が息づいていました。子どもに遊び場が用意されていた小児病棟。細谷さんは、病気の子どもの心やその家族をも丸ごと支えようとする全人的な医療を目指す場で、最初のトレーニングを受けました。当時の小児科医長だった西村昴三(こうぞう)さんは、アメリカで小児ガン治療のパイオニアに学んだ日本の小児ガン専門医の草分けでした。此処での毎日が、細谷さんの医師としての基盤となりました。
 

 
細谷:  その古い病院で、僕は最初の医者のキャリアを始めたんですけど、僕は自分でも大好きな建物だったし、それから作りそのものが、今の病院とは、現代の建築とはちょっとちょっと違っていて、広い廊下があって、個室のドアのノブが、何かトレーなんかを持ったり、いろんなものを持っている医者とか看護士さんが、簡単に腕で動かせるような大きなノブだったんですよ。その大きなノブが廊下に張り出さないように、廊下からグッと箱形にこう切ってあって、ドアが深いところにあって、ノブは外側に出ていないというような、患者さんにとっても優しい感じで作ってあった病院だったし、それから階段も、低めの階段がずっと踊り場をいくつも使って、一階二階三階というふうに、病棟を結んでいる階段が、とても優しい階段でしたからね。そんなんで、作った人のスピリットとか使っていたスピリットが、ずっと籠(こ)もっているというような感じがしていましたし、今も懐かしく想い出しますね。
 
細谷:  その当時というのは、先生が来られた病院の雰囲気というのはどういう感じだったんでしょう。それも小児科はどちらかというと、やはり小児ガンを専門とするような環境でしたでしょうか?
 
細谷:  そうですね。山本(山本高治郎:当時の小児科医長)先生と西村先生という両方の、とても有名な小児科の先生がおられて、それで山本先生のほうは新生児とか育児とか母乳とか、あと心臓―川崎病を一番最初に川崎先生と一緒に見付けられたような先生だったんで、そんな一般的な広いカバーをしておられる。西村先生はアメリカ風の実際的な、プラグマティズム(pragmatism:実用主義)というか、実利的でした。山本先生は、『星の王子さま』を、ご自分で訳されたりしておられましたから、すごくロマンチックな感じの先生で、両方ともそれぞれがとても魅力的というか、アトラクティブ(attractive)でした、僕にとってはですね。
細谷:  当時は、「悪性腫瘍だ」というふうになると、やはり子どもさんたちは、ほぼ全員亡くなるというか、そういう時代?
 
細谷:  一番最初、僕が医者になった時にはね、そうでしたね。だから、西村先生の、お父さんやお母さんに対する説明も、「気の毒だけど、治らないと思って下さい。だけども、交通事故と比べると、さようなら≠キる時間が、随分あるというようなところを評価して、それでいい時間を過ごすことが大事だと思いますよ」というようなお話でしたから。人間の力ではどうしようもないことがあるんだ、ということを感じているという雰囲気は、今よりもずっと強く、そういう先生方は持っていらっしゃったように思いますね。僕は、どっちかというと、ドライとウエットに分けたら、ウエットのほうなんで、とても入れ込んで、それで患者さんが亡くなられるとガッカリして、というようなことをご覧になって、西村先生が言ってくださったんだと思うんですけど、「プロフェッショナル・アティチュード(professional attitude:プロとしての態度)というのがあって、病院であったことは病院で完結させて、それで自分のプライベートな生活にまで持ち込まないほうがいい」というようなことをおっしゃってくださったことがあるんですね。プロフェッショナル・アティチュードというのは、その当時西村先生がアメリカで教育を受けられた当時の一つの原則だったんだと思うんですけど、それが長くこういう仕事を続けるためには重要な態度であって、そういうことを守らないと、途中で燃え尽きたり、ダメになったりする、というようなことを、お話なさったことがあるんですよ。僕も、「なるほど」とその時は思ったんです。でも自分ではやっぱりできなかったんですよね。それはもう質(たち)だと思いますけど。
 
細谷:  それだけやはり状況が重いというか、患者さんはたくさん亡くなられることの重さが重い、ということの裏返しなんでしょうか。
 
細谷:  そうだと思いますね。私たちが、今までずっと抱えてきた亡くなられた子供たちの数と、僕らの前の世代の先生がお持ちになっている亡くなられた子どもの数は、比較にならないほど、昔のほうが多いわけですから。例えば、消化不良とか赤痢とか疫痢とか、そういう病気で、子供たちが簡単に亡くなっていった時代を過ごしてこられた先生たちは、やっぱりそれはプロフェッショナル・アティチュードというのが、必要だったのかも知れませんよね。
 
細谷:  先生としてもそのたくさん子供たちを送るというのは、今思えば、どういうご体験だった、というふうに思われますか。
 
細谷:  今の僕のベースは、やっぱり最初の治らなかった時代になんとかして治そうと思っていた時代の気持と、それからいろんな人間―患者さんもそうですし、患者さんのお父さんとか、お母さんとのお付き合いとか、というようなことがベースになって、私の医者としての基礎というのができあがっているように思いますから、その子たちが教えてくれたたくさんのことというのは、私にとってはほんとに宝物のような気がしますね。
 
細谷:  例えばどんなことがあるんですか?
 
細谷:  私がアメリカに行く年に亡くなった女の子がいて、たまたま一年ぐらい前に、僕の外来に「風邪だ」と言って来た子だったんですね。「風邪だ」と思って、胸の写真を撮ったら、肺炎だったんですよ。風邪がこじれて肺炎ですね。そして、その子が薬局の前でお薬を貰おうとしていた頃に、血液の検査結果が出て、「白血球に変な白血球が混じっていて、白血病らしい」ということを検査室から言って来られて、それで急遽呼び戻されて診断された子なんです。容子(ようこ)ちゃんという子だったんですけど、治りにくい白血病で、一年ぐらいの経過で亡くなってしまったんです。その子は、僕がアメリカに行くために病院を辞めるという日に亡くなったんですよ。随分経った時のご法事の時に―七回忌か十三回忌か忘れてしまいましたけど、その時にお母さんが、「細谷先生が家(うち)の容子のベッドサイドでお仕事したり、ご本を読んでくれたりしながら、随分長くいてくれたことがあったでしょう」というふうにお話して下さったんですね。容子ちゃんはナースステーションからずっと外れのお部屋にいたんですよ。その晩は僕がたまたま当直で救急室から戻ってきた時にまだ起きていたから、いろんな話をしながら、ご本を読んであげたりしたんですね。そうしたらスッと寝たんで、もうすぐ寝るんだなとか思いながら、自分の当直室へ戻ろうかと思ったんですけど、でもなんかもう少しいてあげようかな、寝ているんだけど、と思って、持っていた仕事を、そこでカルテを書いたりなんかしながら暫くいたんですよ。小一時間いたのかな。暇な日だったんですね。当直でも呼ばれないで。で、随分経ってからのご法事の時に、「容子がいろんな人を試してみたんだけど、寝たふりをして、スッと帰る人と、寝たふりをしてもずっといてくれる人がいた。ずっといてくれる人の中で、一番長くいたのは細谷先生だった」というのを、お母さんに話していたんですね。僕はそんな話は全然知らなかったんだけど、でも長くいた晩のことは自分で覚えていたんで、随分亡くなってから、時間が経って、容子ちゃんがお母さんの口を借りて、僕のほうにそんなことを言ってくれた、と思いました。で、私の気持の中では、容子ちゃんは亡くなった時のまんまで、七歳でいるわけですよね。ちっちゃいまんまの容子ちゃんが、私にいろんなことを話をしてくれる、というようなことなんかがあって、それは私の中でも、特にこうしてあげて良かったな、って思えることの一つで、亡くなった患者さんが随分後になって送って寄越した「ありがとう」のサインとしてはね。後になって言われた「ありがとう」が、とても重いですよね。だから、余計あの時にベッドサイドにいてあげて良かったな、と思いますね。
 

 
ナレーター:  一九六○年代後半から七十年代、アメリカでは、小児ガンの治療が飛躍的に進歩し、治すことも可能な時代を迎えていました。細谷さんは、その治療法を学ぶため、アメリカの病院に移ります。日本を離れる時、病棟に残した一冊のノート、アメリカで出版された本を自ら翻訳したものでした。既に病気の告知が行われていたアメリカでは、白血病を子どもにも分かるように説明し、痛い検査や辛い治療が何故必要なのか。どのように行われるのか、を易しく書いた本が登場していました。病気とともに生きることを手助けするこの本を、細谷さんは病棟の医療者のために残しました。
 
白血病というのはへんてこな病気だよね。先生たちだって全部分かっているわけじゃない。でもね、この本は今分かっていることを、全部君に教えてくれる筈だ。君が白血病だと分かったら、時々血液検査する。たまには君の先生に頼んで、顕微鏡を覗かせて貰ったらどうだい。君の検査成績を聞いてみたっていいんだよ。白血病の原因は? この質問に答えることができる人は誰もいない。はっきりしたものが見つかれば話せると思うけど。よく覚えておかなくちゃいけない。君が白血病になったのは、誰のせいでもないし、誰にもどうしようもなかったんだ。
 
細谷さんが目指したのは、アメリカテキサス州ヒューストンにあるテキサス大学総合癌研究所のM・D・アンダーソン病院でした。癌の治療法を次々に確立していた先端のガン専門病院です。世界中から患者や医師が集まるこの病院で、細谷さんは小児ガン治療の最前線の臨床と研究に携わりました。日系二世のワタル・ストー博士は、アメリカではじめて小児悪性腫瘍学の教科書を著した小児ガン治療の第一人者でした。戦後の広島で被爆者の治療にも係わった経験を持つ博士の傍で、細谷さんは専門医としてのトレーニングを受けました。
 

 
細谷:  アメリカでは随分前から治っていたんだな、というふうに思いましたね、まず最初にね。外来に子どもを連れたお母さんなんかがいて、お母さんが白血病だったとか、その白血病の治療を受けて治って、お産をしているようなお母さんがいたりしていてて、ビックリしたのを覚えています。それで、そういう治療の進歩も日本とは懸け離れていましたし、それから物の豊かさが―その当時日本は、お手洗いにもペーパータオルなんかなかったですから―いくらでもペーパータオルとか、あとはトータルケアというか、医療テーマがきちんとできていて、それぞれが対等の立場で、いろんな主張をしながら、患者さんのケアに係わっているというのが、とてもインプレッシブ(impressive)というか、印象的でした。小児ガンの専門家になるためには、向こうのローテーション・プログラムというのは、例えば骨腫瘍を四ヶ月、白血病を四ヶ月とか、それから脳腫瘍を四ヶ月というふうに期間を決めて専門の外来を回るんですね。その時に、一人でその外来を切り盛りするんですけど、その外来付きの看護婦さんというのがいるんですよ、また専門で。例えば脳腫瘍専門の看護婦さん―その看護婦さんは、ずっとそこにいるんですね。そこに私たちみたいなフェロー(fellow)と呼ばれる若い医者が回っていくわけです。回っていった時に、患者さんについての情報とか、この患者さんのお家はここにあって、こんなふうな人たちだから、みたいなことを全部教えてくれるのは看護婦さんだったんですね。こちらが落ち込んで、いろんなことでガッカリしていても、慰めてくれたりするのも、看護婦さんだったりして、看護婦さんって、こんなふうに頼りになる人だ、というのをはじめて向こうへ行って感じました。日本では、行く前は怒られてばっかりいましたしね。「こんなことしたの誰?」というようなことがしょっちゅうありまして、若い医者でしたから。いろんなヘマをしては怒られて、というような感じだったんだけど、アメリカへ行って、一対一で対等で働く。一緒に働くのが、これほど心強いことで、違った職種の人がいろんな意味で助け合うというのがすごく大事なんだ、というのは、アメリカに行ったお陰で実感することができたように思いますね。
 
細谷:  それはお医者さま、それから看護士さん、それから神父?
 
細谷:  「チャイルド・ライフ・スペシャリスト」というような―今、「チャイルド・ライフ・スペシャリスト」と言いますけれども、前は、「チャイルド・ライフ・ワーカー」とか、そんな名前が付いていましたけど。
 
細谷:  それは生活全般の?
 
細谷:  保育士さんみたいな人たちですね。後は小児心理の人とか、それから学校の先生もいらっしゃいましたし、アメリカに行く前から、聖路加病院にはケースワーカーはいらっしゃいましたし、小児心理の人もいらっしゃいましたし、それから保育士さんたちもいらっしゃったんです。だけど、働き方がちょっと違いました。保育士さんは保育士さんの仕事をしているし、それからケース・ワーカーはケース・ワーカーの仕事をしている、というような感じだったんですけど、アメリカへ行って実際働いてみると、お互いがお互いをちゃんと尊敬し合いながら、患者さんを真ん中に置いて、みんなで協力しながら看る、というようなことが伝わってくるようなケアの仕方をしていましたから。それはとても大きな収穫だった、と思いますね。
 
細谷:  その時、出会った恩師というか、先生は?
 
細谷:  ストーという先生が、一番よくお世話をしてくださったんです。上葉(うえば)腫瘍という腎臓にできる悪性腫瘍があるんですけど、それの全国研究グループみたいなのを作りあげて、治る病気にした、という非常に大きな業績の持ち主なんです。なんとか治すんだ、という強い意志を常にお持ちでした。それは治らないから仕方がないというか、人間の力ではどうしようもないことがある、というのとはまた逆の、どうしようもないことがある、ということを持ちながらも、何とか治さないといけない、というような思いも、持ち続けないといけないですよね、その悪性腫瘍を専門にしている医者としては。ターミナルケア(終末期ケア)というか、緩和医療をやろうと思うようになっても、まだ治るんじゃないか。これは緩和医療に真っ直ぐ持っていったんでは、治そうと思っていた人たちに申し訳ないし、治るかも知れない人にとってはもっと申し訳ない、というふうに思う気持というのを、しっかり植え付けられたのは、そのM・D・アンダーソン病院にいた時にドクター・ストーから習ったことだ、と思いますね。それで、治そうとしている人が、「治せる」って思った子が治らなくなったりするわけですよね。そういう時に、英語で、「ちくしょう!」と言ったり、それから「またか!」というようなことを呟いたりするというようなとこのすぐ傍にいたわけで、良いことがあった時に、大喜びして大騒ぎするというふうなタイプの先生ではなかったんですよ。静かな先生でしたから。静かでいつもニコニコしているような先生だったんで、そういう人だから、余計うまくいかなかった時に、「ちくしょう!」とかというようなことを言っているのは、こちらにとっては衝撃がありましたね。もう一人ドクター・サリバン(マーガレット・P・サリバン博士)という女医さんがいたんですけど、悪性リンパ腫の治療ではほんとに有名な方だったんですけど、その先生が、とても気の毒な場面に出逢った時に、涙を浮かべて泣いていらっしゃったんですね。だから、そういうのを見ると、自分が今まで、「この野郎!」と思ったり、ガッカリして泣いたり、可哀想だと思って泣いたりするようなことというのは、こんな偉い人たちでもやっぱりそんなことがあるだ、って思いましたから、自信を持って、喜んだり悲しんだりしてもいいんだな、って、それもアメリカで安心させて貰ったことの一つかも知れませんね。
 

 
ナレーター:  一九八○年、アメリカで学んだガンの科学療法の成果を手に、細谷さんは聖路加国際病院に復職します。そして、アメリカで体験したチーム医療導入に取り組みました。現在三十六床の小児科病棟。責任者の細谷さんは、時間が許す限り、朝晩病棟を回ります。病棟を支えるスタッフたちと作り上げたのは、さまざまな専門家が連携して、一人の子どもの心と体を見守る医療でした。帰国後暫くして、細谷さんは、残した翻訳ノート『君と白血病』を出版します。子どもにも告知をし、十分な説明をしながら闘病をサポートするアメリカの医療を経験、慎重に考えたうえでの決断でした。長くて辛い治療を必要とする小児ガン。治療の成果があがる一方で、その病気の体験が、子供たちや家族にとって、トラウマにならぬように、細心の注意を払う医療が必要です。そして、治すことが難しくなったとしても、最後まで子供たちとともにいることができるよう、細谷さんは在宅でのターミナル医療をも実現しました。
 

 
細谷:  アメリカに一九七七年の暮れに行ったんですけど、一九七七年、七八年というのは、子供たちにちゃんとほんとのことを伝えないといけない、と。子供たちにも子供たちの権利があるんだし、ちゃんと「分かりました」というサインをしてもらって治療すべきだ、というようなことが、アメリカの場合は法律で決まっちゃったんですね。それでみんなそういうことをしていたんですよ。日本では、まだまだそんな時代でない状況から、僕はアメリカに行きましたので、最初は戸惑いましたけど、でも話をするということがこういうことなんだ、というのを学びながらトレーニングを受けたわけで、帰って来る時に、ドクター・ストーから、「日本に帰ったら、細谷はちゃんと患者さんに病気の話をして、OKをとってから治療をする、ということをしないといけないよ。それがあなたの宿題だ」というふうに言われて、戻って来たんですけど、戻って来てみたら、まだまだそんな状況ではないんですよね。一九八四年ぐらいですかね―四、五年経った頃に、そろそろちょっと冒険だけど、お父さんとお母さんには読んで貰っても良いかも知れないというふうに思って『君と白血病』を出版したんですね。そうしたら、その当時はまだ世の中はそうなっていなくて、随分たくさん偉い先生からお叱りのお手紙とか電話を頂いて、僕もアメリカに行かなかったら同じような感覚を持っていたんだろうな、と思いながら、ご意見をお聞きしていたんですけど、暫くして、二年ぐらいしたら、「家の子に話をしてください」という話がくるようになっていましたから。最初は恐かったですから、いろんな人の協力を得て、心理テストとか、そういうのも不必要なぐらいにいっぱいやって、決して悪い影響を及ぼすものではない、ということを確かめたんですね、その二例で。それで、たまたま十歳の、両方とも女の子でしたけどね。話をしてみたら、別に日本人の子供たちだって、アメリカの子供たちと同じように、ちゃんと話を聞くことができるし、受け容れることができるということを感じましたね。子供たちと付き合う時に、嘘を一つつくと、その嘘をカバーするためにもう一つ嘘を付かなければやれなくなって、嘘でいっぱい固めているうちに、一人だけに嘘をついているんだったらいいですけど、何人もいるわけですから、そうするとボロが出て、信用して貰えなくなっちゃうんですよね。子供たちのコミュニケーションの中でも、「先生がいうのは嘘だから」みたいなことになっちゃ、ほんとに困っちゃうということで、ほんとのことをキチッと伝える。嘘は言わない、というのが、子どもと付き合う時の根本的な原則ですよね。だけど、知っていることを全部言って、向こうがもの凄く怖がってしまうようなことをいう必要はないと思いますけどね。幸せなことに、どの小児ガンも、引っくるめて言って、八割ぐらいは治るようになってきていますからね。だから、最初は、「頑張って治療して治しましょう」というふうなことが言えるわけですよ。ほんとのことを話することも、そんなに大きなエネルギーが要ることではなくなってきていると思いますね。治らなくなった子に、「自分は治らないのか?}というようなことを訊かれるほうがもっと大変ですよ。
 
細谷:  そういう場合もあるわけですか。
 
細谷:  そういう場合もありますよね。ストレートに訊かれるというのは、とても大変なことで、二十歳ぐらいの、それも女の子だったんですけど、「多分もう難しいかも知れない」ということで、大学病院のほうから、「あとはいい時間を作るように、外泊を多くしてやってください」って、お引き受けした患者さんだったんです。でも、まだ治せるかも知れない、という見込みがあったんですよ。それで、本人にも話をして、「頑張って治してみようよ」と言うんで、トライしてみたんですけど、やっぱり治らなかった。「病気になった時に、肺に水が溜まってきたらもうお終いだから」というふうに言われていた女の子だったんですけど、肺に水が溜まってきてしまったんですね。お母さんが、「それを言ったら、あなたはダメ≠ニいうのと同じだから、それだけは言わないでほしい」というふうに、僕のほうに言ってこられて、言わなかったんですよ。モゴモゴしていたんだ、と思います。そうしたら、彼女のほうから、「この間まではものすごく説明が分かり易かったけど、ここにきて、どうもすっきりしない。何か隠しているというようなことがあるんじゃないですか」というふうに言ってきて、「ちゃんと言って貰わないと、自分は今後の自分の時間というのを計画的に使いたいと思っているから」というふうに言われて、お母さんに事情を説明して、了解してもらったうえでお話をしたんですね。そうしたら、「もう治らないのか」というから、「治らないと思うけど」と言ったら、「どのくらい生きれるのか」という話までなって、「急に悪くなれば、一週間ぐらいで分からなくなっちゃう、ということがあるかも知れないし、うまくいけば、半年とか、それぐらいグズグズ今と同じような状況で、ある程度の生活ができるかもしれない」とかいう話をしたんです。結局、そういう話をしてから、どの位経ちましたかね、一月(ひとつき)か二月(ふたつき)で亡くなったんですけど、お家で亡くなったんですよね、その子はね。「チャプレン(病院付きの牧師)を連れて来てほしい」と言われて、チャプレンを連れて、僕は行ったんですね。
 
細谷:  最後に「チャプレンを連れて来てほしい」というのは、チャプレンにどうしてもらおうと?
 
細谷:  チャプレンに、「もう頑張らなくていいよ≠ニ言ってもらうために連れて来てほしい」と言ったみたいなんですね、その子は。「細谷先生に言っても、もういいよ≠ニいうのは、なかなか言いにくいと思うから、チャプレンに来て貰った」というふうに言いましたから、その女の子が。それでチャプレンに、「もういいよね」というふうに言ってもらいたかった。「頑張ったから、もういいでしょう」と言ったら、チャプレンが、「もういいよ」と言ったんですよ。お父さんはたまたま単身赴任でシベリアでお仕事をなさっていたんで、お母さんとお兄さんご夫婦がいらっしゃった。あとその子のフィアンセというか、そういう男の子がいて、みんなで見守りながら、最終的には、「ちょっと苦しくないようにしてほしい」とか、「治らなくてもいいけど、辛くないように、苦しくないようにしてくれる約束だったんじゃないか」みたいな、
 
細谷:  それは、「どれくらい生きられるのか」と言われた時に、先生が話した?
 
細谷:  そう言われた時に、僕が、「治すのは難しいけど、苦しくないように、辛くないようにするよ」というような約束をしたんですね。そうしたら、「痛くはないけど、けっこう怠(だる)くて辛い」と言うんですよ。だから、「寝せてほしい」と言うんで、寝かせてあげたんですけど、暫く経つと目が覚める。「まだ先生たちがいる」とかいうふうなことを、何回か言いながら。でも、お父さんと電話で話をしたりしたんですよね。お嫁に行くみたいなご挨拶を、「また生まれてきたら、お父さんの子に生まれるから」みたいな話をして、結局いろんな人に、「さようなら」を言って、亡くなったんですけど、すごいな、と思いましたね。人間って、こんなことができるんだ、と思って。
 

ナレーター:  小児病棟で出会い、ともに過ごしたたくさんの子供たち。その中で、細谷さんがこの三十三年で見送った子どもは、数百人になる、と言います。あまりに重い、一つ一つのいのちの記憶。細谷さんは、子供たちとの想い出を、エッセイや絵本に表すことで、漸く心の整理をしてきました。
 

 
細谷:  朝、自動車に乗って病院に来ようと思ってエンジンをかけた途端に、その朝の光の中で、「行きたくない」と思って、涙が出てきたりとか、そういうことというのは、やっぱり今まで何回もありましたね。
 
細谷:  その亡くなるお子さんがいたりとか、或いは厳しい状況におかれているお子さんたちがいたり?
 
細谷:  そうですね。その直接的に、この子がいるから、大変だから行きたくない、というんじゃなくて、亡くなった子供たちが、フッときて、それでその子供たちのことを思い出したりすると、「ああぁ・・」とかね、急に悲しくなったりとかいうようなことってあるんですね。思っていることって。思っているだけだと、気持の中でグルグル回って、さきに進まない、ということがありますけれども、原稿用紙で原稿を書くんですけど、原稿用紙に向かって、何かを書き始めると、気持が進みますよね。物語れるというか、腑に落ちるところまで考えが進むというか、「こういうふうだから、こうなんだ」みたいな気分になることがあって、それは一つの解決策かも知れませんね。言葉で話するのはなかなかもの凄く難しいですけどね。でも生まれてから五年とか六年とか七年とか生きている間に、その子は、その子なりにいろんなことを考えて、それで亡くなる時には、亡くなるというようなことを、本人の意識として感じたか分かりませんけど、魂としては感じてですね、それで天国に逝ったわけですよね。亡くなるというようなことがあって。それは私たちが七十年とか八十年とか生きて、それで生まれて死んでいくというのと、そう大きな違いはないのかな、と思うようなことが、時々あるんですね。僕が一番最初に、「あなたは白血病なんだよ」というようなことをいった子が、二人いるんです。その子から今日電話がかかって来て、たまたま一年ぶりなんですけど、「そろそろ一年経つから、外来に行こうと思うけど」という電話がきたんですね。その子は、一九八六年に十歳でしたから、今はそれから十九年経っていますから、二十九歳ぐらいになっているわけですね。二十九歳の子が、もうすぐ外来に現れるわけですけど、その二十九歳になった子と、もう一人お話をした十歳の女の子がいるんですね。一九九二年に亡くなりましたから、八十六年に十歳だから、十六歳ですかね。十六歳で亡くなって、もうこの世の中にいないその女の子と、二十九歳の元気でいる女の子が、対等に私の中でいるわけですよね。そういうことが時々頭の中でありますよね―頭というか気持というか。
 
細谷:  今すごく「死を忘れようとする時代」というか、死というもの自体をできるだけ見ないようにしようという時代ですよね。
細谷:  いのちを考える時に、やっぱり考えることのきっかけになるのは、「死ぬ」とか、「死」ということだと思うんですよね。僕は子どもの頃に、大変なことをしたと思ったことがあって、それは雀をパチンコで撃って、たまたま紛(まぐ)れ当たりで当たって、死んじゃったことがあって、痙攣しながら血を流して、手の平の中で冷たくなっていくというか、硬くなっていく雀を見ていて、とても申し訳ないと思ったんですよ。その体験がやっぱり生きていることというのは、死ぬということの対極にある、というふううに思ったんですけど、対極にあるということは、決して違うことではなくて、
 
細谷:  遠いところ?
 
細谷:  遠いところではないんですよね。グルッと回ってまた戻るみたいな、リングみたいな感じで、「死ぬこと」と「生きること」って、やっぱり死ぬことを考えれば、生きることというのがよく分かるし、そういうふうに「いのちの儚(はかな)さ」というのを認識しておくことがとても重要だって、子どもの時に、多分深く感じたんだ、と思うんですけど、これは後で大きくなってから、シュバイツア(フランスの哲学者・神学者。一九一三年医者及び伝道師としてアフリカへ渡り、黒人の医療伝道に従事:1875-1965)の自伝なんかを読むと、シュバイツアは殺さなかったんですよ。小鳥を撃ちに行った友だちを、撃とうをしたところを突き飛ばした、という話があって、やっぱり偉い人は違う、と思ったんです。僕はちゃんと撃っちゃった。で、実際に死んでいく雀を見ながら、ほんとに大変なことをした、というふうに思って。人のいのちとかが、自分のしたことで亡くなる、ということはとても大変なことだというふうに思ったし、殺しちゃいけないというふうに思いましたね。でも、「そういう体験がとても重要だ」って、シュバイツアは言っています。
 
細谷:  それは医師のために、医師としての資質として、ということですか。
 
細谷:  ではなくて、「人間が人間としての一番大事な、殺さない≠ニいう倫理観を得るためには、いのちの儚さ≠ニかいうのを、体験として感じることが必要だ」というふうに言っているんですね。それは、僕はつくづく、自分はこういう仕事をするようになりましたけど、ちっちゃい時に、雀に死なれたという体験をしたということが、その後の積み重ねにとても大きな影響を与えたと思って、あの雀に感謝しないといけないんだ、と思っています。だから、「今死ぬことを思わない時代になってきている」とおっしゃいましたけど、身の回りに死はいっぱいあるんですよね。誰が殺された、彼が殺された、と。でもそれは他人事であって、自分のこととして感じられないような死がいっぱいある。もっと小さい時から 今まで生きてきた中で、「死ぬこと」とか「いのち」というのをグッと引きつけた体験があれば、今のニュースを聞いていても、一々心が痛むと思うんですけど、それがないと、やっぱり乾いた感じでしか聞こえないと思うし、そういう時代はやっぱりまずいと思いますよね。よく言われることだけど、真っ黒というのは、その下塗りに赤いのを入れてから、黒いのを塗ったほうが、黒がほんとに黒く見える、と言われますね。逆に、赤も黒の上に赤を塗ったほうが、赤がほんとの意味で赤く見える、というようなことをいいますけど、そういう表裏一体みたいな、生きているということのベースに、やっぱり死ぬというようなことがあって、はじめて生きることが輝いてくる、というふうに思いますね。
 
細谷:  生死を越えたいのちみたいなものを実感されることというのは、あるでしょうか?
 
細谷:  生きている人も、死ぬる人も、ゴチャゴチャにしながら、私の中にいる、というようなことというのがありますね。それで僕がもし死んだら、私のことを覚えててくれる人が、きっと私のことも同じように、ゴチャゴチャの中の一人にして入れておいてくれるんじゃないか、というふうに思いますけどね。
 
     これは、平成十七年十月二十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである