明治のキリスト者ー新井奥邃(あらい おうすい)の場合ー
 
                         横浜上星川教会牧師 太 田  愛 人(あいと)
昭和3年盛岡市生まれ。東京神学大学大学院修士課程修了。山歩きがしたいばかりに志願して、長野県の日本基督教団大町教会の牧師を18年間務めた後、野尻湖に近い相原の信濃村伝道所に3年半勤務。のち横浜上星川牧師などを務め引退。自然との交歓を謳い、山麓に住む人とその生活を綴ったエッセイが多数ある。著書に「明治キリスト教の流域」「聖書の大地を行く」「大地からの贈り物」「辺境の食事」など。エッセイスト。牧師。
                         き き て     金 光  寿 郎
 
金光:   今日は横浜の上星川(かみほしかわ)教会牧師の太田愛人さんにお越し頂いて、幕末に生まれて明治、大正の時代に大変ユニークな活躍をしました新井奥邃(あらいおうすい)というキリスト者について、お話をお伺い頂きます。どうそよろしくお願い致します。
 
太田:   はい。こちらこそ。
 
金光:   新井奥邃というお名前はあんまり耳にしない名前なんですが、太田先生は随分以前からこの方のことをお調べになっていらっしゃるというふうに聞いておりますが、きっかけはどういうところから、研究され始めたんでございましょうか。
 
太田:   私は明治のキリスト教史を勉強をしております。高山のような人物が明治期に大変生まれておりますね。その影響力も大変強く、社会の変革期には必ず宗教の中で思い掛けない新しい宗教が生まれる。これは定説です。同時に大変宗教によって個性の強い人物が浮かび出て来る。明治という時代は興味深い時代です。しかし、私の興味はむしろ高山よりも、地下水の人物、あまり見えないが影響力の大きい特に下流に、後世にお いて大きな影響を及ぼす、そういう人物に惹かれて参りまして、その中で、特に新井奥邃について、深い関心を持つようになりました。実はきっかけは大変不思議な縁なんです。新井奥邃自体が三人の優れた先達に出会うことによって、生涯が大きく変わりましたけれども、実は私も新井奥邃に関して言えば同じで、三十年以上前に、大町にお りました頃、『安曇野(あずみの)』をお書きになる臼井(うすい)(よし)(み)氏が取材に見えられまして、一晩お話 し合ったことがあるんです。やはりそこでは新井奥邃が大変重要な人物として、臼井さんも挙げておられました。それから山に遊びにいらっしゃいました布施(ふせ)(てい)(じ)(ろう)さんという方がいらっしゃいまして、この方とも話し合っておりましたら、布施さんは洋画家なんですが、お父様、お母様は新井奥邃の薫陶を受けた方なんです。それでいろいろお聞きしました。今度は野尻湖の近く、柏原に移りますと、野尻湖の畔に住んでおりまし た永島吉太郎という方がいらっしゃいます。大学の教授なんですけれども、洋画家として大変著名な方なんです。永島さんと話しておりましたら、いよいよ新井奥邃の本格 的な出会いということになりましてね。ご存じのようにこの新井奥邃の残した『奥邃廣録』五巻、これは永島さんのお父さんが私財を提供して作りあげたという、非常に貴 重な書物なんです。これが昭和五年頃出されたんですが、初版が三百部です。こうなりますと、読む人が非常に少ない。まして出回る頻度がない。幾ら古本屋を探してもこれには会わないという不思議な書物なんです。名前は知って、仕事は知っておりますけれども、実際文章に触れたことがなかったわけです。これはちょっと困ったなあと思って、横浜に出て参りましたところ、当時既にお亡くなりになっておりました、私の師匠筋の小塩力先生の小塩力文庫の中に『奥邃廣録』が入っていたんです。それでご令息の小塩節さんからお借りして読みました。まあ全部で三千ページ近い文章なんです。初めはやっぱり漢学者でいらっしゃいますから、少々難解な文章だったんですけれども、読んでいくうちに、だんだんだんだん引き込まれて、その文章の風格リズムがだんだん身体に慣れてくるんです。それで影響を受けるようになりました。
 
金光:   じゃ、太田さんご自身も非常に長い時間をかけて味わっていらっしゃったわけですが、一般にはあまり知られていない方ですので、ちょっと年譜を用意しましたので、それを見ながら、どういうご経歴で、どういう方かというのを、これからだんだんと話をして 頂きたいと思いますが。百年以上、一八四六年、弘化三年に仙台に生まれていらっし ゃいますが、仙台生まれ、仙台のどういうところにお生まれになったんですか。
 
     1846(弘化3) 5月    仙台生まれ
     1866(慶応2) 8月    江戸遊学
     1868(慶応4) 3月    仙台へ
     1868(慶応4) 9月    脱藩、函館へ
          (明治に改元)
     1869(明治2)        房州から仙台へ
     1870(明治3) 1月    函館でキリストを研究
     1870(明治3) 10月   東京へ
     1870(明治3) 12月3日  横浜出帆
     1870(明治3) 12月27日 サンフランシスコ着
     1871(明治4) 春     ニューヨーク、ハリスの許に
     1875(明治8)        加州、サンタローザへ
     1899(明治32)8月    帰朝(54歳)
     1908(明治36)12月   巣鴨に謙話舎落成(57歳)
     1906(明治39)      ハリス没(60歳)
     1922(大正11)6月16日  長逝(74歳)
 
太田:   ご両親までは商家だったんです。仙台藩の経済的な苦境に際して千両とか、かなり高額のお金を寄付したりして、士分に取り立てられて、武士として奥邃は育ったわけで す。
 
金光:   江戸へ遊学とありますが。
 
太田:   はい。最初「養賢堂(ようけんどう)」という仙台学の藩校で勉強しておりました。秀才の誉れ高く、これはやはり「江戸へ出て修学せよ」ということで、「昌平黌」(しょうへいこう)に行くんです。偶然、あとで一緒に船で渡った仲間の木村熊二(くまじ)とか、大儀見元一郎(おおぎみもといちろう)という人々も「昌平黌」で学んでいた。
 
金光:   船でというのは、横浜を出る時の話ですね。
 
太田:   そうです。明治三年の話です。「昌平黌」で勉強していて、安井息軒(やすいそっけん)の許で学んだという経歴もありますね。
 
金光:   そうですか。
 
太田:   要するに、キリスト教は真っ向から反対なんですね。
 
金光:   その時はね。ところがだんだん世は騒然としていて、江戸遊学を止めて、仙台へ帰るわ けですね。
 
太田:   そうです。「帰って来い」ということになるんです。その才能を見込まれまして、戊(ぼ)(しん)戦争の最中で、奥羽列藩同盟の連絡係として、活躍するわけです。戦前の言葉では賊軍になるか、ならないかという境目で、ここで随分活躍するんですが、奥邃はやはり脱藩致しまして、函館に行くんです。
 
金光:   ということは、函館ということは五稜郭(ごりょうかく)
 
太田:   榎木武揚(えのきたけあき)と行動を共にする。江戸から来た幕臣と一緒に立て籠もる。そういう時代だったんですね。
 
金光:   一応、じゃ、五稜郭に立て籠もって、
 
太田:   そうです。それで出来るならば、奥羽から兵を呼んで、ここで一戦をやろうというわけです。要するに、幕臣の許で共に過ごした武士(さむらい)なんですね。
 
金光:   成る程。それで「房州」とあるのは、千葉の方へは、要するに五稜郭の方まで、官軍がいると真っ直ぐ陸路はなかなか行けないということで、
 
太田:   外国船に乗る。ラッコを取る為の船だったんです。
 
金光:   外国の船に乗って、仙台の方へ行こうとしたわけですね。
 
太田:   そうしたら、「君たちが着いたら打ち首だよ」と言われるんです。それで至急逃れなければならないというので、房州沖で小舟に乗って、密かに房州の海岸に辿り着くんです。文字通り波乱万丈ですね。
 
金光:   そうですね。それから仙台へ帰って来て、
 
太田:   やはりお尋ね者ですね。
 
金光:   もうその時はお尋ね者ですか。
 
太田:   そうしてもう一度函館に帰るんですね。
 
金光:   また、函館に行くわけですね。
 
太田:   そうです。兵募集というのは不可能であるということになる。しかしここで大切なことは先程も出会いということを申し上げましたが、函館で最初に行った時に、ニコライに出会うんですね。
 
金光:   有名な、
 
太田:   ギリシャ正教の
 
金光:   ニコライ堂のニコライさんですね。
 
太田:   はい。そうです。
 
金光:   函館で出会うんですか。
 
太田:   はい。一八六一年から、ニコライが布教しておりました。沢辺琢磨、これは土佐の藩士で、撃剣(げっけん)の名人と出会ったんですが、斬り殺そうと思って来るんです。ところが、「君はキリスト教、耶蘇教を知っているのか」と言ったところが、「知らない」と言う。「知らないで切り倒すというのは可笑しい」と言う。「先ず学んで、それでダメだったら切 りなさい」と答える。ニコライも相当の人物なんです。死を怖れず、毅然としているん です。それで沢辺琢磨はすっかり打たれて、逆にキリスト教になってしまうんです。それでこのニコライの門下になり漢訳聖書を学ぶわけです。二度目に行った時はもうニコ ライがロシアへ帰っていなかった。しかし彼は仙台藩士を呼び集めて、キリスト教を勉強し合うんです。ですから、その仲間で、六人位ギリシャ正教の神父が出ているんです。
 
金光:   函館で勉強した。
 
太田:   そうです。
 
金光:   その仲間で、
 
太田:   そうなんです。ですから日本のキリスト教師でプロテスタント、カトリックだけが研究されていますけれども、大切なことは北方のキリスト教、即ち、ギリシャ正教、この影響下が北海道、東北、関東に及んでいる。この事実を私共は案外見過ごしているんです。
 
金光:   正教会の方はあんまり知られていないんですね。
 
太田:   そうなんです。しかし、この影響力は今でも奥羽地方、北海道に強いんですね。
 
金光:   それで函館でキリスト教の勉強していた彼が、その後どうなるんですか。新井奥邃は、
 
太田:   失意の中にあったんですけれども、そのままですと、おそらくロシアへ留学したんじゃないかと思うんです。大切なことは新島襄(にいじまじょう)も函館から密航でアメリカに渡ったということです。函館中心のグループがあり、私は、「函館バンド」と呼んでいます。それで悶々としていた時に、彼の友人に金成善左衛門という方がおりまして、彼が東京で森有礼(もりありのり)に出会って、「今、アメリカへ行く留学生を選んでいるんだ」と言いました。金成は 私は武の方だけれども、文に優れた人物がいるからということで、奥邃を紹介するん です。
 
金光:   でも、まだお尋ね者でしょう。
 
太田:   お尋ね者です。それでまた至急江戸に、
 
金光:   それで東京に、
 
太田:   出るんです。そうすると、この森有礼と対面するんです。これは私に言わせれば、二人目の偉大なる出会いです。ここでキリスト教の素地が少しある、それから漢学の非常に優れた才能を持っているし、人物が非常にいいということが分かる。森有礼は一歳か二歳か、年下ですが。しかし彼は既にイギリス留学をやっておりますので、知識は非常に豊富に持っている。政府でもかなり重要な地位に就いているということで、人物を見込んで、「よし、これなら宜しい」ということで連れて行くことを決心するんですね。
 
金光:   偉いものですね。お尋ね者を連れて行くということを決心したんですね。
 
太田:   森有礼の慧眼(けいがん)と申しますか、人物を見る目というのは、非常に優れているということは奥邃だけじゃなくて、木村熊二、大儀見元一郎の場合にも言えるんです。
 
金光:   やっぱり敵方。
 
太田:   敵方なんです。森は薩摩ですからね。ところが森にとって非常に痛ましい事件があった んです。それは横山姓を名乗っていた兄が江戸へ出て来て割腹するんですね。
 
金光:   それは何でですか。
 
太田:   薩長連合で官軍と称して、江戸へ出て来て、戊辰(ぼしん)戦争で東北を攻めるんです。敗者に対して勝者なんですよ。ところが勝者達が江戸においてやっている行状ということは、 非常に荒(すさ)んだ行状ですね。遊郭には行く。酒は呑む。空威張りをする。
 
金光:   最初の理想とは全然違うではないかと。
 
太田:   違う。これを非常に憂えて、横山が割腹するんです。非常に兄を慕っていた森が、これは薩長閥だけで、日本を治めることはいけない。もっと優れた人材が居て、もっと霊的な、精神的な、学問的な継承をしなくちゃいけないということで、グレート・リパブリック号という船に乗るんです。この中に三人が乗るんです。ほかにその中に乗った人は、例えば西園寺公望(さいおんじきんもち)
 
金光:   あの元勲(げんくん)の、
 
太田:   元勲。伏見宮(ふしのみや)。こういう人がいるんです。それから東大教授になるような人間が、その中にいるわけです。外山正一(とやま まさかず)、矢田部良吉(やたべりょうきち)とか。ところがこの三人を森が自分の選考で乗せるんです。その一人が新井奥邃なんです。ですからその前に身分をしっかりして おかなければいけないというので、仙台藩に出向いて、脱藩の取り消しを二度までお願いして許可を得るんです。
 
金光:   ほう。
 
太田:   他の木村と大儀見は勝海舟が後ろにおりますので、その推薦で乗せるんです。他の人はみんな仕事、或いは目的があるんですが、この三人だけは自分の学び得なかったことをやらせようと思って連れて行く。こういう経緯(いきさつ)があるんです。
 
金光:   随分時間がかかって、その年の暮れに、確かさっきの年譜ですと、十二月にサンフランシスコに着いていますが、その後、「ニューヨークのハリスの許に」とありますが、これはどういう、ハリスという方は、
 
太田:   実は森のイギリスに留学の目的は、(これは薩摩藩から行ったんですけれども)海軍のことを勉強しに行くんですが、海軍はそっちのけなんですね。教育なんです。日本を教育によって変えなければならないという信念を持っておりましたので、教科書を集める、それから教育事情を調べるということで、ロシアまで行っているんです。そして日本に帰って来てから、教育、宗教、そうしたことに集中していく。汚(けが)れた魂を洗濯するという。そういう一つの目的があって、彼はイギリスからアメリカに渡るんです。その際にオリファントというイギリス人と同行するんです。オリファントは既に幕末に江戸に来 て。
 
金光:   来たことがあるんですか。
 
太田:   ええ。英国の領事館に居たんです。その時に水戸藩の藩士に襲われるんです。それで 焼け出される。その際に傷を負っているんです。本来なら、日本人憎しなんです。これがやはり宗教的な人間でありますから、いや、日本をこれからこういう欠けたところをもっと満たしていかなければならないというので、森に目を付けて一緒にアメリカに渡り、そしてトマス・レイク・ハリスの許に行くんです。
 
金光:   オリファントという人が、ハリスという人を知っていたわけで、
 
太田:   ええ。知っているんです。そしてここで奥さんと一緒に修行するんです。一種のコミュニティですね。働きながら、祈りながら、学びながら。それで森はいつまでも居たいんですけれども、日本で森を必要としていた。特に伊藤博文(いとうひろふみ)が森を重要視していた。森は廃刀令、これをいち早く明治二年頃言うわけです。それで袋叩きに遭うんです。「武士(さむらい)の魂の刀を廃止するということは何事か」ということで、彼は吊し上げを食って、とうとう薩摩に行かざるを得ない事件があったんです。「なに、刀なんというものは人肉切りなんだ」「包丁なんだ」と言うんですから、保守派には随分ねらわれるんです。 それだけ非常に、
 
金光:   大英断ですね。
 
太田:   大英断なんです。それを教育の方にもやろうと。
 
金光:   その森有礼がハリスのところへ、じゃ、新井奥邃を紹介した。
 
太田:   紹介した。
 
金光:   行きなさいと。
 
太田:   ただ、英語は全然ダメなんです。しかし語学は達者だという、漢学の筋の良さを見込まれていくもんですから、まさに漢学の知識が英学に適用されて、非常に英語に熟達していく。森は自分が出来ないで、日本に帰った残念さがありますので、自分の代わりにハリスの許で勉強して貰おうと思って、新井奥邃を連れていくんです。
 
金光:   さっきもちょっとおっしゃいましたが、ハリスという人はニューヨークから、その後カリフォルニアに行っていますね。
 
太田:   そうなんです。ニューヨークへ行くまでも、二、三回変わるんですけれども、カリフォルニアへ行って、サンタローザというところに住む。結局そこで何をしていたかと。やはりコミュニティですね。そこで一緒に勉強し、また働き、それから印刷をする。そして情報を少し流す。それからハリスは大変やり手な人間ですから、自活しなくてはなりませんので、自分達が働いて産業を興して自活していこうという。そういうこともあったんです。
 
金光:   自活しながら、ある程度余裕があると、それを販売する。しかも印刷し、しかも祈りの生活もする。
 
太田:   そうなんです。
 
金光:   そういう共同生活ということですね。
 
太田:   そうです。
 
金光:   長くいたわけですね。
 
太田:   随分長いんです。途中でハリスが別れてニューヨークへ帰ってしまうんです。これはちょっと経済問題もあった。やりすぎのこともあったものでしょうから、どうも上手くいかないので、そこで別れて出て行くと。しかし奥邃は残るんです。そこで自分の勉強をする。それから産業として何をしたかというと、葡萄の栽培に大変適していたので、(今でもカリフォルニア・ワインというのがありますけれども)葡萄が大変よく出来た。それでワインを作ろうとして、ワインの醸造までやる。そういうことをして、そこにずっと定住して、十九世紀末のギリギリまで滞在する。
 
金光:   三十年近くいるわけですね。
 
太田:   先程、申しました木村、大儀見は十三年もいるんですよ。
 
金光:   そうですか。
 
太田:   みんな一種のお尋ね者ですからね。うっかり帰られないということもあったんじゃないかと思います。しかし帰って見ると文明開化で、自分達を受け入れる余地が出来てきた。
 
金光:   それで帰ってからは、どういう生活を新井奥邃はしていたんですか。
 
太田:   新井奥邃が帰った時はトランク一つと、こうもり傘。まさにイエスが弟子達を派遣する時に、「下着を二枚持つな」「財布を持つな」「杖を持つな」あれとそっくりなんです。自分の身内、甥のところへ行ったら、甥が台湾へ行ったあと。それで仙台の伝(つて)を求めてお医者さんのところに居候(いそうろう)をする。随分辛い目に遭ったようです。しかし奥邃のキャ リアを聞いて、そんなことよりもアメリカをよく知っている者、英語に達者な者、こう した人を登用するルートがあるから、どうかということを言われる。例えば本多庸一(ほんだよういち)というようなクリスチャンが言うんですね。みんなそれを断るんです。木村熊二もそ うなんです。
 
金光:   やっぱり全部断る。
 
太田:   ええ。木村の場合なんかはもっと強烈で、「薩長(さっちょう)政府にどうして私が仕えることが出来ようか」と。「渇(かっ)しても盗泉(とうせん)を飲まず」という。とうとう小諸まで行ってしまう。幸いに木村の場合と違って、平沼延次郎というアメリカで世話をした者と出会う。
 
金光:   新井奥邃がですね。
 
太田:   平沼がアメリカでお世話になったが、何とか恩返しをしたいというので、建物を作るんです。
 
金光:   そうですか。
 
太田:   それが「謙話舎(けんわしゃ)」という建物。
 
金光:   帰って四年目位ですね。謙話舎が出来て、
 
太田:   そうなんです。巣鴨(すがも)に謙話舎が落成する。
 
金光:   これはどういうもの、謙話舎というのは。一種の塾みたいな感じなんでしょうか。
 
太田:   塾みたいなものですね。最初はサンタローザと同じように畑を耕して、自活して、志ある者を集めて、学習をしようとした。生活を一緒にしようというところだったらしいんですね。奥邃も洋服姿で、鍬を振るうというようなこともあったようですけれども、だんだん住宅が密集して参ります。働くのは歳も歳ですから、ちょっと辛くなってくる。そういうことで一種の塾がそこで自ずから形成される。ところがやはり学識を知って是非教えを乞うという人が少しずつやってくると。中でも巖本善治(いわもとよしはる)という、これは先程申しました木村熊二の後を受け継いで、明治女学校を盛り立てた人物ですけれども、明治女学校に来て話をして欲しいと。男で優れたものを預かって欲しいとも言われる。それから『女学雑誌』という大変優れた雑誌を出していますが、これは若松賤子(わかまつしずこ)、奥さんです、彼の文章なんかを載せる。こういう願いを持っていくわけです。それで奥邃も明治女学校の為に講話の時間を設けて貰って、そこで話すという時間もあったんです。百歳近くまでお書きになった野上弥生子(のがみやえこ)さんの『森』という小説の中にも奥邃のことが出 て参ります。
 
金光:   その新井奥邃という人は知る人ぞ知るという方だったようですけれども、その写真も無ければ肖像画もないんですね。
 
太田:   ええ。徹底した自己規制の厳しい方で写真はダメ。それから写真家がいたんです。非常に優れた。何とか写そうと思ってお願いするんですが、許可せず。それからお弟子さんの中に柳敬助(やなぎけいすけ)という非常に優れた洋画家がおりまして、「是非肖像画を描かせて欲しい」と言うんですけれども、これもダメ。柳さんのご子息が鎌倉におられまして、親しくしておりますけれども、そのことをおっしゃっていました。
 
金光:   それからお墓もダメなんですってね。
 
太田:   そうなんです。これぐらい徹底する人物も珍しいですね。ですから、私が、「地下水の如く」というのは、実はそういう意味もあります。
 
金光:   だからそういう意味で、普通ですとこの辺りで、或いは最初の辺りで、写真か肖像画を紹介するんですが、何もないものですから、書き残された遺墨語が少し残っておりますので、遺墨の一つを紹介させて頂きますが、
 
直前勇往勿左勿右(ちょくぜんゆうおう ひだりすることなかれ みぎすることなかれ)
 
しかも内容も勇ましいですね。字も良い字ですね。
 
太田:   私、これ見て感ずるんですが、日本の明治のキリスト教は仏教からキリスト者になるケースが多かったんですが、もう一つが儒学の世界からキリスト教になるケースとして、奥邃を考えてもいいんじゃないかと。奥邃の文章を読んでおりますと、儒学が使った手法ですね。例えばこの漢字を書いて、その後ろに括弧()をして、そのコメントを、注解として、小さい字で二行書くんです。そういうケースを自分のパンフレットに印刷しているんです。あれは全く儒学の手法を使って、キリスト教の真髄を伝えるケースも残っているんですね。
 
金光:  新井奥邃という人は表に出て、講演会とか、そういうことはなさらないで、それで謙話舎の人達、或いは話を教えて貰えに来る人には話をされて、そういうものが残っている、ということでございますね。
 
太田:   そうなんですね。例えば対比されるのは内村鑑三(うちむらかんぞう)です、内村は比較的「自分の先輩 だ」と言って、大変尊敬しておりましたけれども、付き合いは長くなかったんです。内村の場合、やはり聖書講義ということをやったんです。講堂に人を集めて講演会もしばしばやっております。正宗白鳥(まさむねはくちょう)なんか、それを随分追っかけるみたいにして、聞き回ったということがあります。奥邃の場合、一般講座、一般講義、そういうことは全然ないんです。例えばある宮様から、「話を聞きたいから来て欲しい」という言葉をかけられるんですね。普通なら喜んで行くんですが、「話を聞きたいなら、こちらへ来る方が筋だろう」と断ってしまうんです。それ位一つの筋を通す人物と言えるわけです。
 
金光:   やっぱりご自分が、そういうキリスト教の教えを身に受ける過程で、そういう講話なんかじゃダメだと。そういう形でないところで、本当のところを掴まないとダメだというようなお考えだっただろうと思いますが、じゃ、新井奥邃という方の思想を、これからどういう点が特徴があるのか。その辺を言葉を紹介しながら、それじゃ、お伺いしたいと思いますが。やっぱり普通の方と違うのは、神様のことを紹介するのに「ちちうえ」、「ちちははかみ」とか、そういう、ここにも文字も出ていますが、いろんな表現があるようで すけれども、
 
 それちちうえは ちちははかみ
 ゆいつしそんのみかみ
 すなわち おとこ すなわ ちおんな
 いつにしてに しかして ににしていつ
 じざいなり
      (手控書)
 
これ面白いですね。それ「ちちはは」と。あんな字は漢字にあるんでしょうか。
 
太田:   無いんですね。それからもう一つは父の一方をずうっと延ばして、しんにゅうみたいにして、その上に母を載せる。そういう漢字も作るんです。
 
金光:   それこそ自在なりですね。
 
太田:   それで、「ちちはは」というふうに読ます。私共は父母(ふぼ)と読むんですけれども、そうじゃなくて、「ちちはは」と読ますと。ここではもう一つは、「ちちははかみ」と読ます。神の背後にこうした「ちちはは」という漢字を当てはめる発想なんです。ですからこれ初めて読んだ方は何だろうと。下手をすれば、これは異端じゃないかと誤解される筋もあるんです。しかし書物を通じて分かるのはキリスト教の異端的なものは全然伝えていない。「イエスの出生」、それから「謙虚な生涯」「苦難」「十字架」「復活」、そういうことはキチッと信じています。ただ、神の表現だけがこういう文字になっているんです。これでちょっと奥邃に近付き難いという方が出てくるんです。折角、稀覯本(きこうぼん)が手に入った。しかし読んで見ると、なお分からないという、そういうことになりますと、ちょっと残念です。幸いにして、『奥邃廣録』は数年前に復刻版で出まして、我々がお金を出せば買えるようになりましたけれ ども、開いて見ると、こういうものが出てくるから、どうなのかと。
 
金光:   でも彼は普通の神という言葉だけではなくて、「ちちははみかみ」とか、「ははちちみかみ」とか、そういう表現によって、何とか伝えようというふうに考えられたと思いますので、いろんな表現があるようですが、同じ「ちちははかみ」でも、こういう次のような書き方もあるので、
 

 ちちははみかみ すなわち ははちちみかみは
 いつにして ににして ににしていつにいます
 父神は 主タラセラレザル所ナシ
 しかるを しかして とくに(ニ)主 (タリ給フ)干外勢(ニ)矣。
 母神同(ジク)無不為主也((主タラセラレザル所ナシ))
 然(ヲ)(シテ)(ニ)主 (タリ給フ)干内実(ニ)矣。
 惟一(ノ)神也。
       (大和会誌中)
 
ちちははみかみ すなわち ははちちみかみは」そこでそこまではお一人のことですね。み神は一にして、二にして、二にして一にいます。大和(たいわ)(かい)というところで紹介された言葉だというんですが、「ちちははみかみ すなわち ははちちみかみは」という、「一にして二にして、二にして一にいます」という。
 
太田:   これ読んだだけではちょっと誤解されます。実は、『奥邃廣録』はこういう漢文も入っておりますけれども、普通の読みやすい文章になっております。中には漢文だけの文章も入っております。それで彼は漢文を使って何を表現したかったのかと言うと、要するに最初の行にありますように、父母(ちちはは)が上下(うえした)があります。次に母が上で父が下に。これは今の言葉で言えば、全く同等同権だという。それからそれを説明する為に一にして二、二にして一。これは分かつことは出来ない。デバイン出来ないんだよという、そういうことです。ですからこれを読んでおりますと、キリスト教の神をどういうふうに表現しているのか、ということが分かります。昔から神様の表現というもの、或いは表象というものを聖書に書かれております。キリスト教、ユダヤ教もそうですけれども、見えない神を拝む。神は見えざるもの。こういう教義ですから、見えない神をどう表現するか、どう普通の人に説明するかということで、いろいろ説明が加えられております。例えばヨハネ福音書では、「父は農夫なり」。「お百姓さんだよ」という。そして「イエスキリストはブドウの木である」と。そして「弟子達はその枝である」こういう表現があります。神である農夫が木を養う。それでイエスが木であって、弟子達が枝、我々は葡萄の房であると。そうすると生命の一つの繋がりが出て来る。或いは羊飼い、という表現もございますね。ですから、いろいろな象徴があります。これが例えば西洋のカテドラルの窓に木を表象するようなガラスが填め込まれる。ステンドグラスで神を教えるという伝統もあります。ただ神を父とすることは旧約聖書からずうっとありまして、要するに父権、或いはお父様が一番力を持つ。それから父祖ですね。こういう父、男の父が一番力を持つという伝統が、どこの世界でもずうっと続いてまいります。ですからキリスト教、特に新約聖書になりましても神を表象する場合、お父さん、父ということが先ず説明に出て来て、そこから子というイエスの立場がハッキリしてくるわけですね。有名な主の祈りの冒頭に「天に在す吾らの父よ」。ギリシャ語の原文では一番最初に父が出て参ります。それから有名な『ルカ福音書』の十五章に放蕩息子の話が出てまいりますけれども、これはジイドだとか、リルケとかいろんな人がこれを捩(もじ)って作品を作り、菊池寛の『父帰る』も、これが元じゃないかという説があります。これもやっぱり父が待っていて、子が帰って来る。ですから父子の関係で神と信徒も説明されていた。これは何かと申しますと、やはり父の持っている性格というのは大変強い。厳格である、こうした一面がございますね。それに対してやはり母のような優しさ、そうしたものも神は持っているのではないか。そこから母というものが生み出されたのではないか。先程の字に出て参りましたが、外的、内的ということですね。
 
金光:   外勢とか、内実と言っておりますね。外側と内と、内と外ということが書かれてありますね。
 
太田:   他の箇所には父の神は厳律(げんりつ)、厳しい律。
 
金光:   法律の律。厳律を遵守(じゅんしゅ)す。それから、「母神を愛して全く己をその懐に失うにあり」と。要するに懐に失うにある。優しさ、慈しみですね。
 
太田:   内実の方は懐に抱いて下さるということですね。だからこの両面を神様は持っていらっしゃるんだとうこと。
 
金光:   しかも最後に唯一の神、
 
太田:   そうなんです。
 
金光:   唯一の神であるということ。
 
太田:   これは女神(めがみ)じゃないんだ、唯一の神であると。それから一方では二にして一。ですからよく当時の宗教として、例えばエペソなんかに女神があって、乳房(ちぶさ)を沢山持っている。それを増殖、増やす神としては拝むという習慣があったんですが、そういう類では全くないということですね。
 
金光:   これはやっぱり新井奥邃という人が自分がこう受け取ったキリスト教、本当の神の愛というものは、厳しいだけの神様ではないということですね。それはイエスキリストについても同じような表現があるわけですね。他のところではイエス・キリストの表現を耶蘇士(エイサス)、耶蘇阿(エスア)というような、やはり耶蘇士(エイサス)だけじゃなくて、両方書いてあります。
 
     耶蘇士(エイサス)ー耶蘇阿(エスア)ハ初ヨリ
     二ー而ー一生也。
     然リ而シテ出御(しゅつぎょ)ナル二ー而一ノ
     神霊基督士(クリスト)ー基督阿(クリストア)ト其
     内部ニ於テ始ヨリ又二ー而ー一ニ
     在(いま)ス。是レ奥義ノ奥義也
         (手控書)
 
これは奥義の奥義であると。
 
太田:   分かつことはこれは出来ない。しかし私は敢えてここで耶蘇士、耶蘇阿と言うんだと。「阿」というのは女性形なんですね。耶蘇士は男性形。それから基督士(クリスト)、これは武士(さむらい) の、武士(ぶし)の士ですね。男性形ですね。基督阿これは女性形ですね。これはお母さんの性格もお父さんの性格も持って、兼ね備えているんだ。しかもそれが別々じゃないんだ。
 
金光:   分かち難いものである。そのことが分かるということを、本当の奥義の奥義であるという。大事なところであると。
 
太田:   そうなんですね。私、これ見て、ハッと思ったんです。私は盛岡の人間で、盛岡中学の大先輩に石川啄木(たくぼく)がいます。啄木がこういう歌を詠んでいるんですよ、
 
     父のごと秋はいかめし母のごと
       秋はなつかし家もたぬ子に
 
金光:   秋というのは春夏秋の秋ですね。
 
太田:   オータム。啄木は東京に出てきて、貧乏しているんですけれど、やっぱり故郷の秋が懐かしいんですね。ところが秋はお父さんの厳(きび)しい面、厳(いか)めしい性格を持っている。また一方においては秋は懐かしい。
 
金光:   小春日和なんか見ると懐かしく感じる。
 
太田:   喜びに満ちているんだ。だから秋というのは二つ性格を持っていることを啄木は歌で詠んでいる。ああ、これは奥邃じゃないかと思ったんです。別に二人の関係はないんです。やはり神の中にこうした両面があったんだということを考えさせられましたね。
 
金光:   やっぱりそのことを言葉でなんとか表現しようというところが、ああいう表現になったと。これは英語でもそういう表現があるんですね。
 
太田:   そうなんです。
 
金光:   三十年近く居た方でありますから、
 
太田:   非常に優れた英語ですね。
 
金光:   O GOD the One-in-Twain the Two-in-One!
 
一にして二にして一という、こういう訳をしているわけですね。
 
太田:   これはアメリカにいる時分に書いたんです。お祈りの言葉なんです。ですからこの思想、この信仰は日本に来て考えついたんじゃなくて、漢学で生み出したのではなくて、英文で生み出した。そうして見ると、奥邃の思想というものは、奥邃が師事した三人目に出会った人、ハリスから由来しているのではないか。ハリス自体もこうした表現をしているということです。ハリスはどこからそれを得たのかとなりますと、まだ遡っていかなければなりませんが、これを言ったら時間が経ちますので、やはりそうしたルーツを探ることが、これから奥邃研究において課せられているんじゃないか。
 
金光:   ただ、その新井奥邃という方の残されたものから伺うと、「誰々はこう言いました」。例えば、「ハリスという人はこう言ったから」というような説明はまずないですね。
 
太田:   全くないです。パウロでも少ないんですね。『新約聖書』も精々、福音書のイエスぐらいに限られておりますね。ですから福音書の読み方というのは如何に的確か、凄いかということが分かります。
 
金光:   それが一般の人に話をする時には、日本で昔から言われていた「道」というような言葉を使ったり、いろんな自在な言葉が出ているわけですが、具体的な表現、例えば「道」という言葉を使って、じゃ、そういうものをどういうふうに表現しているか。その一例として『真有実用』の文章の冒頭のところだと思いますが、
 
     道ハ、自然ノ真主(しんしゅ)ニシテ、
     実(まこと)ニ宇宙ノ元帥(げんすい)タリ。
     苟(いや)シクモ是レ道ニ由(よ)ラズンバ、
     自然無ク自由無キナリ。
        (『真有実用』)
 
太田:   我々はこれを読んで「元帥」という言葉に出会いますと、戦争中の元帥を思い出すんですけれども、元々あるんです。
 
金光:   漢学、儒教では昔から中国ではあるんですね。元々あるわけで、それを軍隊が利用したということですから。
 
太田:   非常に英文に堪能な方であったということが分かりますし、それから漢学にも通じている。それで道というのは昔から「いう」言葉にも適用されているんです。漢字として。ここで思ったんですが、英文のフラグメントなんかを読んでおりますと、どうも「道」、或いは「父」「父よ」というのは、英文を読みますともっと滑らかなんです。ここでは漢字でゴツゴツしていないんですね、英文の場合は。これを読んでおりますと、ちょっと、どこかで見たことがあるなあと思うと、それは高村光太郎の有名な『道程(どうてい)』なんです。
 
金光:   道の程と書く、道程ですね。
 
太田:   私の前に道はないと。後から道が出来ると。「ああ、父よ」というのはまさにこれなんです。ほう。面白いもんだなあと思っていたら、高村光太郎がこの新井奥邃の『読者録』という本を何十回読んでいるというんですね。それは柳さんからお借りしたというんですけれども、ボロボロになる位、読んでいるというんですね。そうすると高村光太郎の思索の中にも、かなりこうしたものが生きているんじゃないかということは感じさせられました。高村光太郎が花巻の奥で、山小屋で六十歳から七年間、掘建(ほったて)小屋で生活するんですけれども、終戦後、二、三年経ってから盛岡へ出て来て、詩の朗読をやったことがあるんですよ。私、その席に居て聞いたんです。ですからその『道程』のこととか、高村光太郎の山小屋の一人暮らしとか、ああいうことを考えて見ると、やはりこれは奥邃が何らかの形で光太郎の生活の中に生きているんじゃないかということを直感的に察知しました。
 
金光:   その『道程』の「道」なんですけれども、新井奥邃という方は随分道についていろんな表現をされていますが、例えば、
 
     嗚呼(ああ)、道の動くや誠にして善(よ)
     静かなり。静かにして善く動く。
     動いて撓(たわ)まず。其の静は其の動
     を貫き、其の動は其の静に存す、
     体(たい)まどかにして用聞く。
     惟真人(ただしんじん)に於て実(じつ)に全し。
     乃ち貴紳(きしん)の生命たり
        (光爛(こうらん)之観)
 
『光爛之観』の文章ですけれども。やっぱり二にして、先ず一にして二、区分けして、こうだと決めるんじゃなくて、本当に生きて働いている、
 
太田:   私の中に凝結しているという。なんか禅宗の言葉みたいですけども、別に禅宗の影響はないんですね。
 
金光:   そうですね。しかもそれは、「惟真人(ただしんじん)に於て実(じつ)に全し」。
 
太田:   そうなんです。
 
金光:   これがほんとに誠にして、よく静かで、しかも静かで、よく動いて、しかもその動くのと、静とがバラバラでないという、その辺のところが「真人にして実に全し」、
 
太田:   それが「実(み)」が出て参りますが、『新約聖書』に、「木はその実(み)で知られる」という、イエスの言葉があるんですが。何の木か分からないけれども、実(み)が実(みの)る時に初めてその木が何の木であるかということが分かる。
 
金光:   成る程。実(じつ)というより実(み)に全し。
 
太田:   ええ。ですから人間の行動、生き方、そういうことで信ずる宗教が分かると、こういうことですね。ですから最初に申し上げましたような地下水ということと、相通ずるものが出てくるわけで、自ずから自分の行動、生き方に信ずるものが滲み出てくる。そういうことでしょうね。
 
金光:   これはしかし彼の日常、あんまり人前で話しなかった。何かいうのも、そういうところで全く出来るんじゃなくて、日常生活の中に自然に出てくる。しかも面白いのは、そのあんまり難しいことを日常の規則なんかでおっしゃっていないようですね。
 
太田:   大変簡単なんですね。
 
金光:   言葉としては非常に簡単なようでございますね。例えばそういう真人になる為の大事なことは何かと。三つの大事なことということで、
 
     三要事
 
     曰く怒を除く也。
     曰く慾を去る也。
     曰く神に事(つか)ふる也。
     此を人の三要事と為す。
          (大和)
 
言葉だけは非常に易しいんですね。但し実行するとなると、大変難しいことですが、
 
太田:   この怒りの真っ直中に居た人間というのが、鉱毒事件で活躍しておりました田中正造(しょうぞう)ですね。政府に対する怒り。議会の中で怒るんですね。農民はこういうふうに死ぬんだとか、苦しんでいるんだと。何故鉱毒事件を放置して置くのかという、身体を張って、遂に直訴までやっているんですね。
 
金光:   でも、田中正造は新井奥邃のところへしょっちゅう来ていたと言うんでしょう。
 
太田:   行くんですね。汚い恰好して行くらしいんですけれども、不思議な魅力に惹かれていく。そうするとあんまりものは言わない。しかしそこで座して、或いは『論語』、それから 『聖書』の説き証しを開く、そこで非常に心が晴れていくんです。それからもう一つ大切なことは、身を清めよということで、風呂に入ることを奨めているんですね。ですか ら正造さん、大変汚い恰好して行くと、「まあ風呂に入れ」と。要するに清められて、 教えを受けて一晩そこで寝ていく。そうすると翌朝は非常に晴れ晴れとして出て行く。こういう一つの側面が田中正造の中にあったんです。
 
金光:   これは怒りを除くというようなことだけから見ると、「何だ、怒っているじゃないか」ということになるかも知れませんが、この三つが別々でなくて、怒りを除くことと、欲を去ることが神に仕えることと一体でないといかんという、そういう考えがあるわけでしょう。
 
太田:   そうですね。田中正造の対照的な立場にあった古河は鉱毒を流す。しかし収益はドンドンドンドン増す。日清戦争の後、日露戦争ですから、銅が必要です。国家的にもその事業が拡大されていく。すればする程農民が飢えていく。そういうことが社会問題になって、内村鑑三、田村直臣(なおみ)、山室軍平(やまむろぐんぺい)が鉱毒問題に立ち上がるわけです。しかし木 下尚江(なおえ)の痛烈な演説を聞いて、古河の奥さんが投身自殺をするというような痛ましい事件もあるんです。その事件だけ不思議に取り上げて、『奥邃廣録』の中に書き込んで いるんです。これは如何に奥邃自体が大きなショックを受けたかということがよく分か るんです。ですから如何に権力があっても、ビクともしない。拮抗する。そういう中に私はなにか奥羽列藩同盟以来の敗者の立場にあった新井奥邃の心意気というようなものを感じさせられるんです。
 
金光:   やっぱりそこには、要するにこの世のことだけではなくて、神に仕えるという根本の姿勢が決まっているから、そういうことが権勢にも近付かないし、自分の思っているところを実行していくという、そういう力強さというのが生活の中で実践出来るていたということなんですね。
 
太田:   大声では語らない。沢山は書かないと。少しずつ語っているんです。例えば明治天皇が亡くなられ、大正天皇が即位すると、そして乃木大将が自刀する。こういう事件があるんです。例えばそういう時、どういうふうな反応を奥邃自身がするかと言うと、こういうことを言っているんですね。
 
     公侯伯子男、各々断然爵位を返上し、
     再び青年に更生して、自余の民人と
     等しく新帝に奉ぜんと欲する心ありや否や。
 
と言うんです。
 
金光:   伯爵だとか侯爵だとか、そういうのを全部返上してしまえと。
 
太田:   そう、明治の元勲がお手盛りで侯爵だ伯爵だとやっていると。そういう時代じゃないんだと。自刀の気持ちがあるならば、それを賛美するなら君達は全部それを返上して、明治維新当時の青年に立ち返れと。
 
金光:   成る程。
 
太田:   こういうことをズバッと言い遂げるのですね。要するにこの思想の中に、やはり人間みな同じだ、福沢諭吉じゃないんですけども、みな同等なんだ。その同等が上下の隔てがない。それから男女の隔てがない。こういうことを主張し始めるわけですね。しかしこれは漢学者にとっては大変な勇気のいることで、西洋の影響を受けた人間なら言えるんですけれども、漢学の世界に育ったものは、やはり「長幼序あり」で、「男女七歳に して云々」がありますしね。いろいろそういう上下男女の差というものは厳しいんです が、それを全部取り払って、男女同権、それから上下無しと。そして人間は同じなんだと。これを彼が貫くわけです。
 
金光:   それもしかしやはり神に仕えるというところから出ているということでしょうかね。しかもその神に仕えるということで、さっき「欲を殺し、怒りを滅ぼす」という言葉がありましたが、それ以上に大切なことは神に仕えることだということで、具体的にその「務めの尤も大なるものは」というふうに書いてあるものがあるんですが、
 
 
務の尤も大なるものは、有神なる
無我に至る事なり。 (有神無我は何ぞや。自身に深く問ふ。)
乃ち無我にして父母大神に仕へ
奉る事。永遠の生命は乃ち
是れ也。若し夫れ父母神に
仕へ奉らざる者は皆死物。
生命其中に無し。
(欲怒の段誠に関する十言)
 
厳しいですね。だからその鉱毒事件なんかも、これはその父母神に仕へ奉っていないではないかと。
 
太田:   そうです。
 
金光:   死物であると。生きていても金儲けてもしようがないではないかと。
 
太田:   そうなんですね。
 
金光:   生命その中に無し、ということを実践するとなると、みんなに言わないで実践するとなると、非常に静かですけれども、非常に強いところが出てくるわけですね。
 
太田:   木下尚江(なおえ)みたいに真っ向から批判する人物もおりますし、彼みたいに、古河に対して忠言する人間もおります。ですからこういうふうになりますと、むしろこの儒者的なキリスト者という一面も出て参ります。内村鑑三が、「私は牧師と呼ばれるよりも儒者的なキリスト者と呼ばれたい」と書いているんです。だから相通ずるものが出てくるわけです。
 
金光:   それでいながら、謙話舎の規則なんかをみると、非常に平明な言葉で、何が大事かと言うと、『謙話舎当用新規則』というのは、
 
     謙話舎当用新規則
     一、火の用心を厳にする事。
     二、舎員は静黙を守る事。
     三、舎員の起床を午前五時となす。
        (但、より早きは随意の事)
 
これは難しいことは、
 
太田:   実行は難しいですけども、
 
金光:   言葉として、火の用心がトップにきているというのは、
 
太田:   これはアメリカ時代に葡萄酒醸造所が火事に遭って丸焼けになったんです。そういう痛ましい事件があったという背景があります。まあそれで彼が帰って来たんじゃないかという説もあります。それからもう一つは現代どう理解するかということがあります。丁度彼が帰って来たのは二十世紀の一年前なんですね。
 
金光:   そうですね。
 
太田:   丁度今二十世紀の世紀末になっていますけれども、やはりこういう時代に奥邃が考えていたことは非常に先駆的な仕事であった。ある意味では予見的な仕事であったと言えます。
 
金光:   母的なものを強調されたのは、この間亡くなられた遠藤周作さんも同じことを、
 
太田:   おっしゃっているんですね。偶然ですね。私、ある宣教師と親しくしていましたんですが、アメリカでも遠藤周作の『イエスの生涯』を訳され、それを読んでいたら、やっぱりこういう母的なものがあるじゃないか、と彼が言っていました。それから最近の訳では、ファーザーという訳の代わりにぺアレント、両親。
 
金光:   そういう英訳で。そうですか。
 
太田:   フェミニズムも大分強くなって参りましたけれども、こうした思想も奥邃が一つの先駆的な仕事をやっていたんじゃないかということが考えられます。
 
金光:   若い頃、儒教を叩き込まれて、非常に身についている人が、しかもそういう優しい母的な面も強調して、日本に当時なかったものを出されたというのは、非常に面白いですね。
 
太田:   不思議なことに、宮沢賢治だとか、新井奥邃だとか、或いは江渡(えど)狄嶺(てきれい)、これは新井奥邃に大変師事していたんですけれども、安藤昌益(しょうえき)だとか、こういう人物が奥羽地方から出て来たということは、やはり興味深いですね。
 
金光:   そうですね。一度は負けた感じですけれども、むしろ深い生き方をなさった方が多かった。その一つの例として新井奥邃という方がいらっしゃったということで、どうも有り難うございました。
 
 
     これは、平成十年二月一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。