祖母が話してくれたアイヌの神々

 
                     萱野茂二風谷(にぶたに)アイヌ資料館館長 萱 野(かやの)   茂
一九二六年(大正十五年)北海道二風谷に生まれる。小学校卒業後、造林・測量・炭焼きなどに従事して家計を助ける。アイヌの民具、民話の収集・記録に力を注ぎ、昭和四十七年収集した約二千点の民具で、「二風谷アイヌ文化資料館」を結実させる。その間、金田一京助、知里真志保と知り合い、金田一京助のユカラ研究を手伝う。五三年アイヌ語の散文詩「ウェペケレ集大成」で菊池賞を受賞。五三年北海道文化奨励賞を受賞。五十五年よりアイヌ文化の保存に努める。大学講師、町会議員、国会議員を歴任。主著に「ウエペケル集大成」「アイヌの碑」「アイヌの民具」など多数。
                     き き て          金 光  寿 郎
 
萱野:  近所の婆ちゃんたち、みんないい家庭教師ですよ。やっぱりいいお婆ちゃんと暮らせる子供は、子供の時からものを覚えていくし、事の善悪は全部物語の中で教えられたもんなの。だから、いいお婆ちゃんと暮らせるのは一流の家庭教師がつきっきりみたいですよ。だから、一緒に婆ちゃんと余所へ行く。そして、座った場所から横を向いたり後ろ見たりしてキョロキョロしたら、帰りにウンと怒られた。「男というものは、座ったら座った場所からキョロキョロするもんでない」と言って、半ば叱りながら教えてくれた。アイヌ語の中で、「ガギグゲゴ」の半濁音ってないんですよ。だから、私の名前「しげる」と言えないから、「しめる」「しめる」というの。「はい」と返事すると、居ることを確認したら、ゆっくりゆっくり話を始めるんですね。名前を呼んで、ああ、茂がいたなと分かったら、話を始めるわけです。だから、どの位聞かされたものか。よくお婆ちゃんに聞かされたのを全部は覚えていないけども、
 
     オンネパックルイーネ タラタッワイーサ
     ネータライーネ サケアカラワイーサ 
     ネーサケイーネ チクワイーサ  
     ネオソマイーネ セタエワイーサ
     ネーセタイーネ アライケワイーサ 
     アライケルゥェイーネ パックルエワイーサ
     ネーパックルイーネ 
     トシトアライケワ ラプフアイラプネ 
     アカラワ エピシネレホッ エキムネレホッ 
     アエアッワ クスアンペ アイラプキナネネーッ 
 
     年寄りカラスはどうしたの 俵を取りに行きました
     その俵はどうしたの お酒に醸してしまったよ
     そのお酒はどうしたの みんなで飲んでしまったよ
     飲んだそのお酒はどうしたの うんちになってしまったよ
     そのうんちはどうしたの 犬が食ってしまったよ
     死んだその犬はどうしたの カラスが食ってしまったよ
     そのカラスはどうしたの
     そのカラスを殺し羽を矢羽根に作り
     海岸の方へ六十本 山の方へ六十本
     射飛ばして 生えたのが 矢羽根草だよ
 
と言ってね。もう簡単にそういう話を教えてくれる。それを一回二回でないから覚えちゃうわけです。
 

 
ナレーター:  沙流川(さるがわ)には今年もサケが遡上(そじょう)して来ていました。沙流川流域はアイヌ文化発祥の地と言われているところです。北海道平取(びらとり)町二風谷(にぶたに)は戸数百六十戸、人口五百人足らずの小さな村です。二風谷はアイヌ語で、「深い森」という意味です。北海道の中では雪が少なく暖かい地域で、昔からアイヌの人々の住む里として、有名なところです。森の中に、「萱野茂二風谷アイヌ資料館」があります。ここに萱野さんが四十年かけて集めた、二千点を越すアイヌ民族の資料が、一般の人に公開されています。この日は丁度、東京の高校生が訪れていました。
(萱野館長のご説明)
 
萱野:  お婆ちゃんは話をしてくれる。その話というのは、
 
     アウヌファン アオナハアンヒネ オカアンペネアヒケ 
     アウヌフアナ エアラキンネ ユメノコ
     ネワアオナアナネ エアラキンネ
     イソンクル ネワ ケシトアンコロ
     ユネチキ カムイネチキ
     エアウナルラ ネアエルスイ
     ネコンルスイ ソモキノオカアン
 
     私の母は働き者で 一生懸命いろいろな山菜を
     採って来るし
     私の父は働き者で 狩りの名人で毎日毎日山へ行って
     シカやクマをたくさん運んで来て
     私は何を食べたいとも 何欲しいとも思わずに
     暮らしてきた一人の少年です
 

ナレーター:  資料館のすぐ隣りにある森の空き地で、萱野さんにお話を聞きました。
 

 
金光:  萱野さんは大正の最後の年のお生まれで、此処でお生まれになって、お育ちになった。小さい頃は、〈てかって〉というお婆さんに、アイヌの昔話を随分聞かされた、というふうに伺っているんですが、今いろんな記憶お持ちでしょうけれども、咄嗟に、子供の頃、お聞きになった昔話で、どういうのが思い浮かばれますでしょうか。
 
萱野:  お婆さんはね、昔のアイヌ夫人の風習そのままに、手の甲から肘まで入れ墨して、そして、口の周りに入れ墨をしたお婆さんでね、日本語全く喋れない。「孫よ、行って水を持って来て飲ましてくれ。お前が歳を取ったら、俺が水を飲ます」、アイヌ語でこういう言い方で孫を使うんですよ。だから、孫の使い方も上手だなと思いますね。
 
金光:  まだ電気も、勿論、テレビ、ラジオはない時代ですね。
 
萱野:  全くありません。
 
金光:  そうすると、そういうお話は、お婆さんの口から、或いは、大人の口から聞かれるわけですね。
 
萱野:  そうです。ですから、私が知っているアイヌ語というのは、後から覚えようとしたんでなくて、お婆さんが百歳―昭和二十年まで長生きしてくれた。だから、それまでの間にすっかり覚えたんだね。そういうことでやっぱりお婆さんの寝物語的なことの中で、萱野茂のある意味で、人格形成みたいな―人格なんてまだ言えないちびっ子の時だけれども、そんなことであったかなあと思いますね。
 
金光:  そういう物語は、勿論、口から口へ、口移しに覚えることですね。
 
萱野:  そうです。それは書いたものはなんもありませんからね。お婆ちゃんたちというのもね。
 
金光:  一度ではとても覚えられませんでしょう。
 
萱野:  ええ。一度では覚えられない。だから、もう同じ話を「これでもか、これでもか」という位に聞かせてくれる。それでもう次から次へと覚えてしまう。
 
金光:  お話の中にはそういう木とか水とか、或いは、動物とか、そういうものはやっぱり出てくるわけでしょう。
 
萱野:  出てきます。例えば、物心付いたのは、私、後になって分かったんですけども、昭和五年十二月二十五日にあったイヨマンテ(クマ送り)をイヤに鮮明に覚えていたんでね。昭和七、八年かなあ、と思ったら、後になって、二風谷小学校の記録を見たら、昭和五年十二月二十五日でした。成る程、そうしたら、私はあの時のイヨマンテ(クマ送り)をあんなに覚えている。数え五歳であれだけの記憶があるんだなあと後になって分かりました。
 
金光:  その熊というのも神様のお遣い、或いは、神様そのもの、
 
萱野:  神様そのものですね。やっぱり北海道でいつも同じこと言うんですけど、アイヌでは熊そのものも神様。ということは、山から大きな風呂敷に沢山の肉と熊の胃という胆汁(たんじゅう)の薬を包んで、背負(しょ)ってくれる神様。だから、食べさせてもくれる、着せてもくれる、薬まで。そういう考え方をもっていた。
 
金光:  それで「熊送り」の「送る」というのはどこへ送るんですか。
 
萱野:  二月に降る雨のことを、キムンカムイ ポフライェプ(クマ神の子ども洗いの雨)とアイヌは言うんです。そして、昨日まで腰まであった雪が、大雨一日降ると、一日、二日またグッと寒さが来ます。雪の表面がこんなに薄氷みたいに張るから、アイヌ語で、ウカ(硬雪)と言うんですけどね。その硬い雪の上を歩ける。だから、熊の穴へ行って、親熊は弓で討って獲って、子熊はこの手に入る位のものを生け獲って来て、丸一年養って、神の国へ送り返す。それがイヨマンテ(クマ送り)というわけですよ。
 
金光:  そうですか。そうすると、木も草もそうなんですか。人間の為に勝手に自分が栽培したんだから採るとか、その辺の家にあるから採るというわけにはいかないんですか。
 
萱野:  そんなことではありませんね。例えば、丸木舟を作る為に良い材料を手に入れますね。その時も山へ行って、然るべくお供物(くもつ)を上げて、
 
金光:  山でもあげるわけですか。
 
萱野:  そうです。立木のうちに、それは草や木全部でなくて、丸木舟を造る材料にのみです。立木山で、ある時その木と決めたら、それにちゃんとイナウ(ご幣)というのを立てて、そして、稗や粟を供えて、そこで切り倒して舟にする。そして、まだ丁寧にする場合は、切り倒すと、山の言葉かも知りませんけれども、ソバ粒みたいな三角の部分が出来るんですよ。それに魂が宿っていると信じて、それにお供物を上げて、「これをもって神の国へお帰り下さい。神の国では新たな命が与えられて、一段高い神として遇せられますよ」と、こういうわけです。
 
金光:  そういうのを省略すると、具合が悪いわけですね。
 
萱野:  それは成る可く省略しないようにします。私も丸木舟を何艘か作りましたが、私が山へ行ける場合は自分で行ってするし、行けない場合は、若者たちに、「簡単でいいから、供物を上げて、こういう気持でちゃんとしなさい」と教えているんです。
 
金光:  そういう仕方というのは、これは男性の仕事、大人の仕事なんですか。
 
萱野:  大人の仕事です。
 
金光:  お婆ちゃんもご存じなんですか。
 
萱野:  それはお婆ちゃんが言葉の順序とか教えてくれるけれども、ほんと山へ行ってお祈りするのは男の仕事です。
 
金光:  やっぱり山で、男性はそういう形で木なり、或いは草なり、そういうものをこういうふうに採取したり、頂くんだ、というようなしきたりは、ずっと話として、実際の行動として伝えられるわけですね。
 
萱野:  そうです。例えば、北海道で、ギョウジャニンニク(俗にアイヌネギ)のことを、ここらのアイヌではプクサと言います。道東へ行くと、キトと言い方は少し違うんですけれどね。それを採るのにも、「根こそぎ採るな」と教えます。どういうふうに教えるか、と言ったら、
 
わたしには父がいて母がいて、貧乏な家の一人娘でした。うわさによると、隣村の村おさの妻が病気をしているという話でしたが、ある春のこと亡くなったという話を聞きました。おくやみに行きたいと思いましたが、持って行く供物もないのと、着て行く着物もありません。仕方なしにおくやみにも行かず、畑仕事に行き、お昼に粗末な弁当を広げ食べようとしていると、座っている後ろで人声がします。
誰だろうと振り返ってみると誰もおらず、声の主は萩でした。これ娘よ聞きなさい=A隣村の村おさの妻が死んだ理由は、ギョウジャニンニクを採る時に根こそぎ採って、ギョウジャニンニクの神を殺してしまったのだ。それを怒ったギョウジャニンニクの神が、村おさの妻を病気にして殺した。大急ぎで家へ帰り、乾かしてあるギョウジャニンニクを持って村おさの家の南斜面へ行き、ギョウジャニンニクの魂を返すといいながら撒き散らしなさい。そうすると、村おさの妻は生き返るであろう≠ニ萩の神様が貧乏娘の私に教えてくれました。いわれた通りにすると、村おさの妻が生き返りました。だから、今いるアイヌよ、山菜を採る時に根こそぎ採ってはいけません、と一人の女が語りました。
 
と、こういうふうに話して教えるんですよ。
 
金光:  根こそぎ採ったらいけないんですか。
 
萱野:  根こそぎ採ったらいけません。ギョウジャニンニクは、一年目は爪楊枝位の太さ、六年で漸く人差し指とか中指位の太さになります。だから、根っ子は抜かないで、上だけ切ると、まだちゃんとその太さで太って出てくると教えるの。そうやって、「ギョウジャニンニクを根こそぎ採って、病気になって死んだ」ということを教えられたら恐いからね。何回も何回も聞かされるからね。それはいつの間にやらちゃんと覚えて自然を大事にする。
 
金光:  この近くの沙流(さる)川も、サケが随分昔は上ってきた。サケとか川の神様もやっぱり大事なものなんですか。
 
萱野:  そうです。自然を神と崇(あが)める大きな理由は、魚食べたい時は川へ、小さな網と鈎を持って走る。肉を食べる時は、山へ弓矢を持って走る。そうすると肉を貰える。そういう気持です。ですから、アイヌが考える自然は食料を蓄えてある倉庫です。だから、「自然そのものは大事にしましょう」というふうに、子供の時から教えるんです。
 
金光:  自分の家に蓄えるんじゃなくて、川自体が魚の倉庫だ、と。山自体が肉の倉庫だ、と。
 
萱野:  そうです。そういう気持ですから。
 
金光:  じゃ、その時、要るだけ頂く。
 
萱野:  そうです。必要な量だけ頂く。サケが来るのは八月の中頃から来るんです。八月の中から九月、十月いっぱいです。捕る分はその日に食べる分だけ。そして、十一月になると、産卵を全部終わる。産卵の終わったサケをアイヌ語ではオイシル(尻尾の擦れたもの)と言うんです。もう産卵で尻尾すっかりすり切れて骨だけになっているんですよ。産卵を終わっていると脂気はないけれども、五年十年も貯蔵出来る。蠅が居ないのでウジが湧かない。あそこに干してあるけど、そうやって蓄えて置く。もし、八月、九月の脂のある魚を開いて干したとすれば、それは脂焼けをして、食べても歯や口に粘って美味しくない。だから、自然の摂理に従っていく。脂気のない魚を好きでするんでなくて、「それでないと長持ちしないよ」と、いわば自然がアイヌに教えているんです。
 
金光:  そういうお婆ちゃんはお婆ちゃんで得意の話はあるわけですか。
 
萱野:  ありますね。余所の婆ちゃんが得意とする話もあるの。私が録音を始めて、誰それ婆ちゃんの録音だけでも三十何年やったけれど、一番最初聞いた時は、「舟に乗って行った若者」。今度、聞いた時は、「走る」と言ったけど、やっぱりいろいろ変わるなあと思いながら、同じ婆ちゃんから、同じ話を聞いても、そういう変わりがあったことも気付きました。
 
金光:  でも、その辺の基本的なところは、善いものが栄えて、悪いものはやっつけられるというところは変わらないわけですね。
 
萱野:  そうです。そういうのはちゃんと変わりません。けれども、喋る人はそういうふうに変わるんだね。
 
金光:  よく「チャランケ」という言葉―「談判」「話し合い」と言うんでしょうか―が物語の中に出ているということを聞いたことがあるんですが、やっぱり重要な物語の中での一つなんですか。
 
萱野:  そうです。アイヌ語でウコチャランケという。「ウ」―〈お互い〉、「コ」は〈目的〉、「チャ」は〈言葉〉、「ランケ」は〈降ろす〉―〈お互いが目的に向かって言葉を降ろす〉。だから、一つの問題があったら、やり合うわけです。
 
金光:  そのやり合いも物語の中にちゃんと入るわけですか。
 
萱野:  そうですね。それはあります。具体的に、「こうこう」相手が言って、「こうこう」相手が言ってとか、そういう具体的なことはそう多くはありませんけども、やっぱりウコチャランケのやり方は体力勝負の部分もあって、六日も晩飲まず食わずにやる。
 
金光:  そんなにやる場合も出てくるんですか。
 
萱野:  そういうふうに話の中では出てくる。私の先祖が―それいつの時代かよく分からないけども―この村を通った。そうしたら、昔のアイヌの風習として、見所のある若者はメノコイペカ・アエハム(妻を与えて足を止めさせる)という言葉があって、いい若者だなあ、この若者なら、あの家の村でもピカイチの娘を娶(めと)らせて、この村の村人になって欲しい。そういう時は、お嫁さんを与えて、その村の村人にするんですよ。
 
金光:  それ程、重要なものとして見ていたわけですね。
 
萱野:  見ていた。だから、そうやって、私の先祖はアワアンクルという人なんだけど、余所の村から来て、この村を通りかかって、見込み付けられてメノコイペカ、つまりお嫁さんを与えられて、この村の村人になった、というのが私の先祖なんです。
 
金光:  そうですか。民具採集とか、昔話の録音を始められたというのは、随分後ですね。暫くはそういう話のことなんかは、あまり関心持たないで過ごされたわけですか。
 
萱野:  そうです。大正十五年に生まれて、昭和八年に小学校へ入って、昭和十四年に小学校終わった。小学校を終わったのが十四年の三月二十何日。四月の初めにはもう近くのカンカン沢を歩いて小さな夜具を一組背負って出掛けた。今の皆さんには分かんかも知らんけど、一番小さい地下足袋は九文七分と言うんです。その九文七分の地下足袋を近くの店屋から買って、それを履いて、山付脚絆(やまつききゃはん)というのを付けて仕事に行った。
 
金光:  それは十一か、十二歳かでしょう。
 
萱野:  そうですよ。
 
金光:  身体も小さくて、
 
萱野:  そうです。
 
金光:  それは山仕事で?
 
萱野:  山仕事にも行かされた。それは造林人夫と言って、当時の浦河(うらかわ)営林所の造林人夫です。
 
金光:  造林で、植林したり林の整理をする。
 
萱野:  そうそう。植林したり、植林したものの手入れをしたりね。去年植えた苗木の根を春になったら踏む仕事。
 
金光:  身体小さくてもいいわけですね。
 
萱野:  身体小さくて、丁度いいらしくて。何しろ、この村の小学校―当時、昭和十四年に十四人の卒業生、同級生がいました。そのうち、アイヌの少年五人が一緒に造林に行きました。ですから、もうほんとに大変でした。その造林の仕事でも一日に三百五十本植えるのが仕事なんですよ。朝五時半から晩五時半まで。九時に十五分、お昼に一時間、三時に十五分、それだけが休みなんです。
 
金光:  山でしょう。岩があったり、
 
萱野:  山です。岩があったりする。そして、三百五十本の苗を背負うと、後ろから見たら苗木が歩いているみたい。荷物が歩いているみたい。そんなことで仕事に行っていた。で、測量人夫、造林人夫の労働しながらね。昭和二十年の一月にお婆ちゃんが亡くなりました。
 
金光:  それまでは山で仕事をなさっていたら、昔話どころじゃないですね。
 
萱野:  そうです。でも、幸いなことに、造林人夫の時はお婆ちゃんと一緒でなかったんですけども、炭焼き仕事の時は炭焼き小屋で一緒でした。
 
金光:  ご一緒に暮らしたんですか。
 
萱野:  一緒に暮らして居ました。ここから十キロメートルか十五キロメートル位離れたとこだったんだけども。
 
金光:  その当時は精々ランプですね。電気も勿論ないわけですね。
 
萱野:  勿論、無いです。
 
金光:  声で話は出来る。
 
萱野:  話は勿論出来ます。そうやってお婆ちゃんと一緒で、十九年十二月に帰って来た。二十年にお婆ちゃんが亡くなった。ただ、今までお婆ちゃんとの会話は全部アイヌ語だったのが、ふと話し相手が消えたのと同時に、何となくアイヌから離れました。昭和二十七年、八年までは、村へ入って来る学者が、あまりにもアイヌを大事にしませんでした、ほんとに研究で。
 
金光:  モルモットというか、人間というよりも一種の研究材料みたいに。
 
萱野:  そうです。人間という扱いでなかった。血を採る。そればっかりでない、毛深い様子を見るために、腕まくり、すねまくり。襟足を見ると言って覗き込む。そんなこと平気でする。そして、頭の骨を測る時は山で木を測る輪尺(りんじゃく)で測る。
 
金光:  青年、萱野茂にとっては、とても堪えられない。
 
萱野:  堪えられない。それは自分で一回も採血されたことはないし、一回もそこに行ったことないけどね。そして、目の前、僅か百メートルも離れないところの古墓地を発掘するんですよ。北海道大学の何々博士が、村へ肩で風を切って入って来て、村人を墓堀人夫に使って、墓を掘って、「今日の副葬品は、マキリ(小刀)だから男だ。首飾りだから女性だ」と言っている。そういうことを平気でしている。そんなの見たら、アイヌが厭になって逃げました。昭和二十七年の暮れか、八年の正月だったと思うんだけどね、村へ入って来る学者たちは、入る時は人類学者、民族学者、考古学者の肩書きだが、帰りには骨董屋、経済学者みたいにどんどんあるものを持って行く。背負っていく。それ当然と思っていました。まあ幾らかでも家(うち)の親父がお金を貰ったんだらいいや、という気持だったんだけれども、何代か前から伝わっていた大事なお祈りの道具まで無くなったのに気付いたんです。その時、私は思ったんです。国土を奪われ、言葉を奪われ、生活の名残として残っていたものまで無くなる。これではアイヌの「ア」の字も残らんぞ、と。そういうことに気が付いた。それから考え直して、「よし、これからは俺が買ってやる」、そう思いました。今度、昭和二十八年から物を買い集め始めて、そして三十年、三十五年となりました。そうしたら、昨日行ったとこの婆ちゃんが今日具合が悪くて亡くなった。そういうのを見たり、入院したとなった時、これは大変だ、と思ったんです。
 
金光:  そういう覚えていたお婆ちゃん、年寄りたちが亡くなる。
 
萱野:  亡くなる。それを見ると、あんなにちゃんと喋っていた昔話も、ある日突然、その婆ちゃんと共に消える。「これは何とかしなければ」と思ったんです。テープレコーダー買いました。それを買う以前に、こういうことがありました。昭和二十八年にアイヌのお年寄りたち三人―私の父親は、日本語の名前が清太郎、アイヌ語の名前がアレッアイヌ。もう一人は日本語の名前が一太郎さん、アイヌ語の名前がウパレッテ。もう一人は、日本語の名前が国松さん、アイヌ語の名前がニスッレックル。アイヌ語と日本語の言葉の狭間に生まれ生きた者らしく、二つの名前を持っていました。この人達三人がお酒を呑んで上機嫌になると、「いやぁ俺達三人のうちで、一番先に死ねた者が一番幸せだ」。何故かと言えば、残った二人がアイヌ風の引導を渡し、アイヌ風のお葬式をちゃんとしてくれる。それが三人の口癖なんです。そうしていたら、昭和三十一年に私の父親が重い病気になった。「行って国松さんを呼んで来てくれ」と言われて、私は呼んで来ました。そうしたら、アイヌ語で遺言するんです。「前々からの約束だったんだが、万一の場合、是非アイヌ語での引導渡しをよろしく」と。そうすると、国松さんが「分かったよ」と言う。態度で示すやり方で、肘を脇腹に付けて、両方の手をこう摺り合わせて、指先が手の平から離れない程度に、二、三度摺り合わせて胸を撫で下ろす。これがアイヌの最も大事な挨拶なんです。そうやって、「分かったぞ」と言ってから、私の父親の手を握りしめて、「清太郎、お前ばかり先に死ねて幸せだなあ・・・おれが死ぬとき誰が送ってくれる・・・」、そう言って、ほんとに男泣きに泣いたのを見たんですよ、私は。これはね、言葉というものは民族にとって、これほど大事なものか、と。長生きする自分を儚(はかな)む。そして、先に死んでいくと羨む。こんなことはあってならん、と思いました。それで何とか録音したい、と思っていたんです。ところがそうやって、私の父親が昭和三十一年二月に亡くなって、国松さんが引導を渡し、アイヌ語の墓標を作って全部やってくれました。そして、昭和三十五年の二月に、国松さんが亡くなった。三人目が一番長生きした不幸な男、二谷一太郎さんが引導を渡しすることになった。それで、私は、このようにほんとに三人の会話を聞いて育った、生きた者として、「この言葉大事だ」と思って録音したいと思った。録音したいけどテープレコーダーが無いんですよ。ただ平取町役場の議会事務局にある。それで行って、重さ二十キロ位のテープレコーダー借りて来た。遺族の了解は勿論、一太郎さんの了解を得て、テープレコーダーで録音したんです。これが私の録音テープ第一号なんですよ。
 
金光:  その様子をずうっと録音されたわけですね。
 
萱野:  ずうっとお葬式の様子をね。墓標作りから引導渡しから、棺桶に釘を打つ音まで。遺族の泣く声、家族の泣く音、全部入っている。それが私の録音第一号。それが昭和三十五年二月四日と五日なんです。それで、その年の九月にテープレコーダーを買いました。
 
金光:  その頃高かったでしょう。
 
萱野:  高かったんです。それで、買うお金が無くて、平取町で「世帯更生資金」と言って、このお金を貸して、世帯更生させなければ生活扶助家庭に転落する。私のような貧乏人にだけ貸す制度がありました。五万円借りました。二万九千五百円でテープレコーダーを買いました。今、そのテープレコーダーは今も持っていますよ。それはもう宝物ですよ。そうやってね、その後何台も買い換えてね、今、でっかいテープレコーダーが五、六台あるけどね。
 
金光:  でも、そういうふうに、アイヌ語の研究なさる学者の中には、私なんか知っているのは金田一京助(きんだいちきょうすけ)先生や知里(ちり)真志保(ましほ)先生(幌別生まれのアイヌの方)は、アイヌ語に対して物凄く大事に思っていらっしゃったんでしょう。
 
萱野:  そうです。大正時代にはこの沙流川筋のワカラパというお爺ちゃんから、金田一先生ご自身筆録されました。その中に、登別に生まれた金成(かんなり)まつという入れ墨をしたお婆さんが、ローマ字で筆録したもの―家(うち)の資料館にあるんですけれども―大学ノートに、昭和二年から二十二年までの二十年間、書いて送り続けたのが大学ノートで平らに積んで一メートル二十位あるんです。
 
金光:  そんなにあるんですか。
 
萱野:  そうです。大学ノートで裏表書かれている。で、物語で百話分あるんです。それを金田一先生が九冊だけ読み出して亡くなった。
 
金光:  萱野さんはお手伝いなさったんでしょう?
 
萱野:  そうです。それが昭和三十六年から四十二年まで手伝いました。先生が亡くなった後に、その残りのノートをご子息の春彦先生が、「このユカの続きをすぐ出せるのは、萱野茂さんのほか居ない。萱野さんやってください」ということで、私が貰い受けて、北海道教育委員会から多少の出版費を出してもらって出版したんです。一般市販されていません。二十一冊出しました。今、二十二冊目やっています。
 
金光:  しかし金田一先生は東京に住んでいらっしゃったんでしょう。
 
萱野:  そうです。
 
金光:  こちらへはちょいちょいいらっしゃったにしても、金田一先生は最初は萱野茂という名前はご存じだったんですか。
 
萱野:  いや、知らないです。私が観光アイヌとして、登別で働いていました。そうしたら、その時に観光で働いていた平賀さだもさんと言うお婆ちゃんのところへ、ユカの知らない部分を聞き書きに先生が来られたんです。その時、私が、「邪魔になりませんようにしますので、勉強の様子聞かせて下さい」と言ってお願いしたら、「どうぞ」と言われた。それで一日坐って黙って聞いていた。そうしたら、金田一先生が「これは?」「これは?」と一言一言、平賀さだもさんに聞く。私は黙って聞いて居て、全部分かりました。そして、夜になってから、「もう今日は終わったよ」という時に、「ああ、今日のユカこうでしたね」と粗筋をバアッと言った。そうしたら、金田一先生がメガネを上げたり、下げたりしてね、「ああ、神様はいい人を残して下さいました。僕はほんとにこんなに嬉しいことはない」と。あの女性的な声の京助先生が、柔らかい声で、「これからの仕事、僕の仕事を手伝って下さい」と言って握手を求められたんです。
 
金光:  いま、おっしゃった「ユカ」というのは、何でございますか。
 
萱野:  アイヌの昔話の中で、ウウペケ(民話)というのは、「ウ」は〈互いに〉、「ウエ」は〈それ〉、「ペケ」は〈清らかになる〉、〈僕も、私も、あなたも主役になる〉。カムイユカというのは、サケヘという繰り返し言葉が付いていて、「神様がアイヌに注文を付ける話」が出て来る。
 
金光:  「ユーカラ」とカタカナで書く。あれはアイヌの発音だと「ユカ」、
 
萱野:  ユカ(叙事詩)。ユカというのは珍しい言葉でなくて、イタユカ(喋るのを真似する)。アユカ(歩くのを真似する)。イペユカ(食べるのを真似する)。ユカというのは難しい言葉ではありません。日常かなり出てくる言葉です。それで、ユカというのは、ポンヤウンペという一人の少年を英雄を仕立てて、その少年は成長するに付けて、身体一つで空中に停止したり、身体一つで空を飛ぶことが出来る。身体一つで海に潜ったら魚と一緒に泳ぐことが出来る。戦争して、時には殺されて、切り刻まれても、またちゃんと生き返る。時には、凄い恐ろしい鳥に襲われて、肉は全部食われて、残っているのは目と骨と筋(すじ)だけ。そこへ一人の美女が現れて、クサカラと言うんで、強い息を吹きかける毎に肉が盛り上がって、かさぶたがバラバラ落ちて、アッという間にもとの姿になる。
 
金光:  超人的な英雄物語、叙事詩になっているわけですね。
 
萱野:  それがユカという、
 
金光:  沢山あるわけですね。
 
萱野:  ええ。そのことは、ユカというのは〈真似る〉。例えば、「私がユカした」「あなたが私の真似をした」「次の人が真似をする」ということで、叙事詩とか、叙情詩とか、いろいろな言い方、それは綺麗な訳でいいけども、私が書いた本では、ユーカラと延びないでユカ。イタケユカ、イペユカ、アユカ。ユカと延ばさないのがほんとです。
 

 
アイヌ民族は自然界にはすべて神が存在するという宇宙観から土地の私有観を持たず国家を形成しなかった。明治以降、日本政府は北海道を日本人に払い下げたり国有地にした。その後、残った地をアイヌ民族に払い下げた。しかし農耕の習慣を持たないアイヌの人々は鮭漁さえも禁止され、困窮の生活を強いられることになった。
 

 
萱野:  私、考えているのに、多くの日本人聞いたら耳痛いかも知らないけれども、やっぱり北海道へ、日本人が侵略をして来た。
 
金光:  頼まないのに勝手に押し寄せて来た。
 
萱野:  頼まないのに勝手に押し寄せて来た。今、私の話を聞く人が悪いんではなくて、五代前、六代前の先祖がアイヌをないがしろにした。無視した、と。これは大変悪いことだった。それの最たるものは、百何十年も前に、「サケを捕るな」「木を切るな」「鹿も獲るな」「熊も獲るな」と言って生活権を奪ったことですね。だから、後で、機会があったらサケのことについては、改めて言わねばならんけども、やっぱり主食のサケを奪われたことは致命的だった。
 
金光:  サケが主食、大体主な食べ物だった?
 
萱野:  主食でした。そして、アイヌ語でサケのことはシエペと言う。「シ」というのは〈本当に〉、「エ」は〈食べる〉、「ぺ」は〈物〉です。ですから、主食としていたものを、ある日突然、「お前達、サケ捕ったら逮捕するぞ」と言う。昭和五年か六年、私の生まれて育った家の壁は板壁だったけど、戸は立て付けのある板で、それを開けてお巡りさんが入って来た。子供の頃、恐ろしかったのはお巡りさんと学校の先生です。そのお巡りさんが入って来た。「清太郎、行くか」と恐ろしい顔で言う。私の父親は板の間へほんとに平蜘蛛のように平伏して、「はい、行きます」と言った切り、顔を上げませんでした。両方の目から、板の間へポタポタ涙が落ちる。脇で見ていた私は、「あれ、大人が泣いている」と思いました。その父は若い時は軍隊にも行った五体満足の男だったんですけど、怪我のために右目玉が無くなっていました。この辺りでは俗に「めっこ」と言う。その目玉の無い方からも、涙が出て、「あれ、目玉が無い方からも涙出た」とそう思いました。毎晩こっそりサケを捕って来て、子供達に口止めしながら、食べさせていたサケです。それは密漁して、何回か捕まっても、出頭命令のはがき来ても行かんかったんです。逮捕に来て、平取の方へ連れて行くんです。私は泣きながら父の後を追いかけました。
私は、余所の国歩いて見て、改めて思うことは、主食を奪われた民族に会ったことありません。アメリカ、カナダの先住民族をあっちこっち歩いて見たけど、「主食奪われた」というのはアイヌだけでないかなと思っています。だからいま、そこら辺に沢山サケがくるけど、大っぴらに獲ること全く出来ません。いま北海道ぐるりと廻って、漁業組合で捕っているサケの数は五千万匹から五千三百万匹です。そのうちに、アイヌが捕れるのが、登別アイヌでたった五匹。一人にではありませんよ。「登別アイヌ文化保存会」の会員で、お願いして五匹捕っています。札幌アイヌが数年前まで二十匹でした。この頃、「幾らか増えた」と聞きました。五千万から五千三百万匹も捕れる中で、アイヌが許可証をお願いして、「捕ってもいいよ」というのがたった二十五匹とは何たる酷いことでしょう。このことは声を大にして言いたい。アイヌに限り「どうぞご自由に捕ってください。儀式用であれ、食べる食料であれ、捕りなさい」というふうにして欲しいと。それを強く願っていることです。アイヌはサケが主食。だから言うんです。ある日突然、余所の国から日本へ、言葉も風習も違う人が来て、「お前達、米を食うな!米食ったら逮捕するぞ!そういう法律作られたと同じだよ」そう言い続けています。まあこれを聞いたら、日本人の多くの皆さんは、「アイヌに何と酷いことを」と思う人が居たとしたら、是非一つ世論を盛り上げて、「アイヌにサケぐらい食べさせれや」と。「ただ」とは言わん。金は出してもいいからね。そんなこと思っていますよ。
 
金光:  中国だとか、各地に少数民族の方がいるわけですけれども、先住民族の方はそういう生活の仕方、文化というのはやっぱりそのまま伝統的に、そういう形で続いて生きられるようになっているわけですか。
 
萱野:  そうですね。アラスカへ行って、アラスカの先住民族イヌイット―エスキモーという言い方は今しないけど―そのイヌイットの皆さんは、「鯨も食うだけはいいですよ。いろんな魚も食うだけいいですよ」と言っています。それから、カナダのホワイトホースにも行きました。ホワイトホースを大きな川が流れている。そこの先住民族の家に泊めて貰った。「皆さん、この川は魚来ますか?」「ああ、沢山来るよ」「捕るのは自由ですか?」「ああ、自由ですよ。氷の張った時は別ですけどね」と一言付け加えられました。いや、恥ずかしかったですよ、ほんとに。北海道はサケが沢山来るけど、捕ったら手錠でガチャンでしょう。そんなことを考えると、やっぱり法律なんて、所詮人間が人間のために作ったんだから、先住民族アイヌの為に、是非このことは回復させて欲しいな、と思っていますね。
 
金光:  言葉なんかはなかなか伝えるというのは難しいんでございましょうか。
 
萱野:  そうですね。それで、私は直ぐ近くに保育所を建てたんです。もう二十年も前ですけど。アイヌ語を教えたい、と思ってね。有り金を叩(はた)いて五百万円、当時の金で寄付しました。それを聞いた村の人が全部で五百万円。一千万円背負い込んで、役場が六千五百万円であの保育所を建てた。「アイヌ語を教える」と言ったら、厚生省から、「外国語教えることは日本の法律で禁じられています」と。だから、「外国語を教えてはいけません」。「アイヌ語を教えることはダメだ」と待ったがかかった。もう二十年も前の話です。「アイヌ語を教えるんなら措置費をあげません」と圧力ですよ。それで、措置費がなかったら困るからね。それで怒った馬力で、そこへ三十坪足らずの小さな建物を建てて、そこでアイヌ語を教え始めた。それが震源地になって、北海道中で、今は十四カ所、アイヌ語教室ができました。家(うち)が全て始まりです。私がアイヌ語喋ったの、「一」「二」「三」とあって、いま、「四」を編集中。かなり教材に使ってくれています。アイヌ語教室はそれらを教材に使ってくれている、と思っております。
 
金光:  昔の人が昔話で覚えたような形での伝え方というのは、現在では難しゅうございますか。
 
萱野:  今は難しいね。
 
金光:  でも、生活は共にしている中で、しょっちゅう伝えると、これは覚えるでしょうけども。
 
萱野:  ほんとは、孫が一緒に居れば朝晩聞かそうと思うけど、アイヌ社会の風習として、新婚家庭が出来たら別居させますので、孫も一緒に暮らさないんです。
 
金光:  でも、萱野さんの場合はあのお婆ちゃんと一緒に暮らした、というのは?
 
萱野:  その時は上手く一緒に暮らすこと出来たんですね。
 
金光:  今は難しいわけですか。
 
萱野:  今は難しい。テレビもラジオも何の電気も全部一般的に変わりないわけでね。孫達も遊ぶのは違うわけでしょう。お爺ちゃんの話はあまり聞いてもくれないから。せめて家内に悪戯半分に聞かすけど。アイヌ教室も十何年なるからね。月に二回だけど、家の家内は、「ゆっくり言うんだら聞こえるようになりました」と言っていますよ。だから、若い人達がだんだんね。私が四年前に、『萱野茂アイヌ語辞典』を三省堂から出したんで、それが教材になって、この頃手許へ引き寄せようとしている機運が盛り上がっています。それから、新聞報道の活字を見ても間違いなくなりました。私自身も、昭和二十年から、七、八年、アイヌから逃げたから、アイヌから逃げる気持は誰より先に通って来た。そういう道を踏んできたアイヌ嫌いなアイヌ大好きなの。その気持は誰よりも知っている。だけども、やっぱり民族意識が甦ったその途端、力は倍にも三倍にもなるからね。隠してコソコソ暮らすよりは大事なことだな、と私自身は思いながら。言葉は―共通語は日本語でもいいから、せめて家庭内で、アイヌ語で喋って貰えればなあと、そんなことを思っています。女性は、子供にお乳を与えるばかりでなくて、言葉も一緒に母親は言葉を与える。だから、「アイヌ語の一言でも教えてやってくれ」と言っています。いま、あそこで、「萱野茂育英資金」の中から給料を出して、アイヌ語を勉強しているのが二人おります。だから、これも楽しく続けたいなあと思っています。
 
金光:  これからの時代は、地球自体が、人間と自然というのは非常に仲良くしないと、人間が自然を一方的に利用するような行き方ではやっていけなくなる時代ですから、そういう意味でアイヌの方の生き方というのは非常に参考になるんじゃないかと思いますが。
 
萱野:  その昔はアイヌの村では神社もないし、お寺もありませんでした、その昔は。何を神と考えたかと言えば、山であり、川であり、海であり、その辺の立木なんです。何故かと言えば、魚を食べたければ川へ走る。肉を食べたければ山へ行く。山がもし裸山であれば、これは木もない、草もない、そこでは鳥も獣も住めない。大地を司っているのは立木なんです。シカムイ(樹木の神)というのは、立木が神様なんです。大地を司っている沢山の木があるから、その下に鳥も獣も住める。ということは、取りも直さず、自然そのものは食料を蓄えてある倉庫です。だから、山も川も海も神様扱いです。そこへ食料を蓄えてあるんだよ、と。しかも、先程言ったけれども、サケを捕るのも、産卵の終わったものを捕る、ということは、利息だけ食べている。
 
金光:  元本には手を付けない。
 
萱野:  原資には手を付けない。いま、世界の人口が二、三日前に六十億になったとかということを考えると、そういう利息だけでは食べられないかも知れないけれども、あまりにも日本の現状を見ると、川は一方的に電力会社のものであって、電気のため云々と言って、ダムを造る。上流に腹を空かせて待っている狐にカラスにフクロウに熊にアイヌに、こういうものにサケの一本もやろうとしない。この川の扱い方を見ると、本当に本気で腹が立ってくるんです。だから、山は誰のもの、川も誰のもの、海岸は誰のもの。たまたま海岸で魚を捕って山の方にいる人に供給していた人達に、札束を山のように積んで、その海岸を買ったからという。売ったからと言う。あの辺りも、大いに不満がある。山も川も海も個人の所有でなくて、人類共通の財産の筈なんです。みんなでもう一度立ち止まって、昭和三十年頃まで戻って、原子力発電所も要らないし、これより電気明るくならんでもいいし、そんなこと考えています。
 
金光:  そういう話を聞くに付けてもやっぱりお小さい頃聞かれた、〈てかって〉お婆さんからの物語の意味みたいものを、また改めて、「ああ、こうだったのか」とお気付きになるようなこともございますでしょうね。
 
萱野:  それは、草一本、木一本、みんな魂が宿っている、と。神様というのは、手の届かない存在でなくて、目の高さ、アイヌの為に役にたってくれるから、川も神様、山も神様、鹿も熊も魚も神様です。
 
金光:  生活の中にすうっと入り込んで下さっている。
 
萱野:  入り込んでいるんです。ですから、一方的に取り尽くすんでない。感謝の気持しながらではあるけれども、例えば、川で子供が溺れて死んだら、「川の神様よ、あんたが油断していたからこうだよ。これからそういうことのないように」と厳重に川の神様を叱り飛ばす。山で立木に木登りした子供が落ちて、痛いところ出来たら、「山の神様、あんたが油断していたからこうですよ。これから注意するべし」と厳重に叱り飛ばす。そういうことね、神様ではあっても、絶対的な存在でなくて、目の高さ。役に立つから神様で、御神酒(おみき)もあげる。もう一度見直して、「ほんとは、ほんとはどうなんだ」と。さっきも言った、川は誰のもの。上流にそれを当てにしていた熊とか、そういうものの餌の一つも供給しない。「俺のもんだ」ということを考え直して欲しい、とほんとに思っているのです。
 

 
かつて沙流側川の川水が盛り上がるほど遡上したサケも二風谷ダムの完成で上流にはその姿が見られなくなってしまった。
 

 
萱野:  お婆ちゃんは満足して死んだんでないの。長生きもしたし、孫達に囲まれながら。そして、話し相手の茂がいたから、死ぬまでアイヌ語使って、死ぬまで昔話を孫に伝えてくれた。だから、お婆ちゃんが私に手渡したこの言葉というものは凄いもんだ、と思っていますよ、ほんとに。今はほんとに語り婆はいるけど、それを聞いて、楽しんで聞いてくれる人が少なくなったからなあ。今の様子見ていたら、結構若者達覚えようとして来ているもの。またそういう時代がくるんでないか。
 
 
     これは平成十一年十一月七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。