流木にいのちを託すー高瀬省三・最期の日々ー
 
                              語 り 斎 藤  季 夫
 
語り:  一枚の記念写真があります。時は平成十四年八月二十一日深夜です。場所は、東京・新宿のギャラリー。日本画家・高瀬省三(たかせしょうぞう)、六十歳。生涯二度目の個展の会場です。展覧会のオープン前夜、展示の飾り付けを手伝った仲間と一緒に撮ったスナップです。展示された作品は絵ではありませんでした。海岸に流れ着いた流木に手を加えた造形でした。画家・高瀬省三さんはこの個展の一年前、平成十三年に、末期の肝臓癌と大動脈瘤を告知されていました。手術をすれば一年、手術をしなければ半年の余命という宣告でした。高瀬さんは医師の勧める手術を断りました。自分の意志で自由に生きることを決意した高瀬さんは、この個展を終わらせ、その直後に亡くなりました。亡くなるまでの半年あまりの間、高瀬さんが、時間を惜しんで制作したのが、流木の造形だったのです。人は自分のいのちの残り時間が少ないと知った時、何を考え、何をするのか。高瀬省三さんを、亡くなる直前に周りで支えた家族や友人たちの証言を通して、画家が残したメッセージとその思いを考えてみたいと思いました。
 

 
斎藤:  昨日の雨も上がって、春の終わりの眩しい光が、今日は照りつけてきています。少し冷たい風ですけれども、気持ちよく吹き抜けていきます。波もまことに穏やか。此処は神奈川県大磯の海岸です。高瀬さんの家は当時此処からこちらの方に歩いて七、八分のところにありました。高瀬さんは、朝夕、この浜辺を散歩しては、こういうふうに打ち上げられている流木を拾って、それを、『風の化石』と名付けました。高瀬省三さんの作品集『風の化石』の中に、こういう文章があります。
 
いつの日か、私も風の化石となる
稲穂を渡り、山を越え、海に出る
何万回となく地球を巡り
ふとした弾みで
宇宙に飛び出さないとも限らない



 
展覧会と同じ時期に出版された高瀬さんの最初で最後の作品集『風の化石』。末期の癌を告知され、しかし医療の手を断った高瀬さんが、朝夕散歩した大磯の海岸で拾った流木の作品です。本が企画され、できあがるまでにかかったのは、半年という大変に短い時間でした。それはまさに高瀬さんに残された短い時間との競争でした。高瀬省三さんと流木の作品を、作品集のために去年の春から夏にかけて撮影したのは、フリーカメラマンの坂本真典(さかもとまさふみ)さんでした。
 

 
坂本: 末期の肝臓癌と聞いたんですけども、ぜんぜん元気で、もう病気だなんて思えなかったです。ちょうどこんな太陽でしたね、海を撮った時も。
 
斎藤:  この浜辺もよく一緒に歩かれたんですか。
 
坂本:  浜辺を歩いたのは三回位ですね。あの本に載っているモノクロページの写真はですね、あれは六、七人で来たんですけども、彼は此処に出た瞬間、独りになった。もう勝手に歩き出して、独りの世界に入り込んじゃった。周囲がぜんぜん見えなく、それで海を眺め、空を見、砂を触ったり、石を拾ったり、そんな感じでした。僕は、その姿を─詩を書かれていますが、あんな感じで撮ったというだけで。まったく自分の世界に入り込んで、独りで立って。あの詩のような感じですね、もうこの世界の中に入り込んで。 
 
斎藤:  あの中のどういう部分ですか、特に。
 
坂本:  「宇宙に飛び出す」というような表現なかなかあまりしないですね。此処には居るんですけれども、多分もう此処に居ないような、そんな感じでしたね。

 

 
語り:  高瀬省三さんは、日本画家として活躍してきました。子どもの時から音楽や絵が好きだった高瀬さんは、本格的に絵を描き始めたのは遅く、三十歳半ばを過ぎてからでした。高瀬さんは、東京・日本橋の老舗(しにせ)の帯問屋の家に生まれました。大学を卒業後は、一時高校の社会科の教師をしたり、山小屋で働いたりもしました。絵を描き始めたのは、奥さん・久子さんの日本画家の兄に導かれたことでした。以後、授業のかたわら絵筆を握り続けました。神奈川県大和(やまと)市に、奥さんの久子さんを訪ねました。癌を告知された時、しかも残された時間が短いと知らされた時、高瀬省三さんはそれをどう受け止めたのか。奥さんに伺いたいと思いました。
 

 
斎藤:  ごめんください。駅からほんのすぐですね。
 
久子:  ええ。近いです。
 
斎藤:  失礼します。
 
久子:  どうぞ。

 

 
語り:  高瀬さんが亡くなって半年、今年になって奥さんの久子さんは、長年住んだ大磯から此処へ引っ越してきました。亡くなった夫との思い出の詰まった家に住み続けることに堪えられなかったのです。
 

 
久子:  そうですね。これはまさにほんとに自然体で、こういう人でした。
 
斎藤:  少し体調が悪くて入院されたんですか。
 
久子:  でなくて、たまたま健康診断というので、検査しましたら、病院から電話かかってきて、「ちょっと大変なんですよ」という感じで。先生は、「本人に知らせましょうか。どうしましょうか」とおっしゃったんです。「家はなんでも隠し事なく、何でも話し合う。昔からのそうですから、主人もハッキリ言ってもらった方がいいから」って。で、息子とも相談しまして、「隠されるというのは、絶対嫌がるよね、お父さんは」という感じで。「一緒に聞きましょうか」と言ったら、「うん」というので、一緒に行って。
斎藤:  先生はどう説明なさったんですか。
 
久子:  まあデータを見せられましてね。それで、「すぐ手術をしなくちゃいけない。ちょっと大変ですよ」という感じで。でも後からまた家に電話がありまして、「手術をしなければ半年、手術をしても一年かちょっと。そのことをご主人にも言っていいんですか」って、先生がおっしゃったんです。で、またそこで、「もうハッキリ真実を言って、また説明して頂いてけっこうです」と言って。またもう一度病院に行って。その間入院していたんですけどね。検査をそのまま続けて。で、もう病院では、「すぐ手術をしましょう」という感じで、体勢準備を調えていたんですけど、主人が、「ちょっと待って下さい」という感じで。結果的に、「退院する」と言って、「手術は受けない」と。
 
斎藤:  それは何か理由があるんですか。自分で何か治せる体力があるということでしょうか。
 
久子:  そうですね。具合が悪くて病院で診て頂いたわけでなくて、たまたま健康診断で、とってもこの五年間位、調子も良かったし、実際に最終的な検査の時もほんとに元気でしたから、自分ではそういう気持があったんだ、と思うんですね。
 
斎藤:  どういう気持?
 
久子:  何とか自分自身でストレスをなくしたり、ほんとにそれじゃ仕事も止めて、好きな絵一筋に。歳もちょうど六十だし、それ一筋にしようと決めた。やっとそこで決心したんでしょうね。科学的なデータとしては、そういうふうに出ているんですから、ショックはショックでしょうけど、何と言うんでしょうね、自力で何とか、と思ったんだと思うんですね。
 
斎藤:  悩みとか苦しみとか、告知されたことよりも、
 
久子:  そうですね。もう自由になったってという、その解放感の喜びの方がいっぱい聞きました。「嬉しいよ、楽しいよ」っていう。
 

 
語り:  末期癌を宣告された高瀬さんは、医師に勧められた手術を断り、残された時間を自分の好きなことに使う決断をしたのです。
 

斎藤:  今、私の手元にありますのは、奥様から拝借してきた高瀬さんの手帳です。検査で入院していた頃ですから、二○○一年(平成十三年)のその頃の日々の覚え書きと言いますか、メモが書き記されている手帳です。平成十三年の八月二十三日、この日は検査で入院していて、その検査を終えて退院した日です。高瀬さんはその日を、「解放記念日」と名付けています。その日のメモを読んでみます。




 
八月二十三日、木曜日。
本日を「解放記念日」とする。原始への旅に自分を解き放つのだ! 夜勤明けの看護婦が心配そうに、「お大事になさってくださいね」と、昨夜ほとんど眠れなかったことを知っているのだ。実際にはその意味がまったく逆なのだ。
 
故人のこういう手帳の中味を、いろいろ考えてみるというのは失礼かも知りませんけれども、その意味がまったく逆というのは、看護婦さんは、高瀬さんが自分の病状を心配して眠れなかったのではないかと、そういうふうに気遣ってくれたのではないか。でも高瀬さんとしては、検査を終えて、そして自分は医療の手を煩わさずに暮らしていこうという、そういう決心で自分を解き放つ。そういう心の安らぎとまで言えるかどうか分かりませんが、そういう気持で眠れなかった、という。そういう逆ということではないか、と。でも解放といいましても、重い病を知らされての解放ということですから、決してそれは心が安らかな解放ではなかったということではないか、とそういうふうに想像します。別のノートに高瀬さんはこういうことを書いています。
 
病気であるという事実を目の当たりに突き付けられて、これまでのように自分自身を誤魔化せないということを認めざるを得ない。これによって、死に対する葛藤の大部分が終わった。


 

 
語り:  末期の癌が分かったのは平成十三年。病院から家に戻った高瀬さんは、午前中は近くの神社の境内で読書、午後は砂浜に出て海を眺めるという毎日を過ごしました。その年が明けて、翌十四年、高瀬さんは、流木の作品に集中するようになりました。高瀬省三さんの流木による最初の作品「風の化石」です。これに続いて三十点を越える作品を、高瀬さんはわずか半年の間に次々と作りました。高瀬さんは、この作品に寄せてこう書いています。
 
「風の化石」これが出発点だった。嵐の後、流れ着いた木を持ち帰り、ずーっと眺めていた時には、アザラシに見えていたのだが、それがある時、向きをちょっと変えて見ると、ふと目や顔が浮かび上がった。流木そのものを生かすため、最小限にしか手を加えていないが、見る角度によってさまざまな表情を見せてくれる。
 



 
坂本:  彼は初めて彫刻をやるわけですから。それまでは絵の方ですから。発病してから、作り始めたんですから、ほんとだったら、彼が、「後何ヶ月」と言われたら、今までやってきた絵を完成させるものですよ。彼が彫刻を始めたのは、絵を描いているよりも、ノミを振るっている方が。そうでないと部屋にジッといたらやり切れないですよ。半年であれだけのエネルギーはできないですよ。そういうきっかけでないと。それで最後、作品を作るのを急いだんだと思うんですよ。それに合わせるように、僕は、六回ほど作品の撮影に来たんですけど。
斎藤:  そういう場合、カメラマンというのは、どういう気持、というのは可笑しいんですけれども、写そうとするんですか? 高瀬さんの気持を写すんですか? 勿論、作品を写すんだけれども。
 
坂本:  作品を写すんですけれども、作品は物ですけども、物じゃないんですね。高瀬さんを撮っているようなものです。物として撮れば、それは次々に単に撮っていけばいいことなんですけども、高瀬さんの思いを感じながら撮るというのは、やっぱり作品を物として撮るんじゃなくて、彼自身を撮るんだ、と思いますね。
 

 
語り:  高瀬省三さんの文章から、
 
流木を手にした時、作りたいものが見えてくるのが面白かった。でも中には、あんまり良くて、長いこと手が付けられないこともある。それでもいつの間にかたくさんの造形物がうまれていた。私の性分に合っていたのだろう。
 

 
久子:  物を作る人間として、素材があって、もうそうしたら、もうワアーッとイメージが湧いたんだと思いますよ。だから私が、「これ何にする木、これ何にする木」と訊くと、「これはこう」とパッと決まっていまして。時々覗くと、夢中ですから、「楽しそうね!」というと、「楽しいよ!」。もうそれはほんとに幸せな時だったと思いますね。ただ一度何の話だか忘れたんですけど、何かちょっと意見が珍しく食い違った時だった、と思うんですけど、具体的に何だか忘れたんですけど、「もう僕は君たちとは立っている所が違うんだから」と言ったんです。で、ハッとしまして、私も病気を忘れるほど元気でしたからね、全然。その時、ほんとに現実に引き戻されたぐらい、ハッとしましたね、その言葉は。その時に何か彼の深い孤独を見たような感じはちょっとしましたね。


 

 
斎藤:  これも高瀬さんの作品です。椅子です。背もたれのところも流木ですし、これは長いですね。ちょうど大人の背丈より少し短い位の長さでしょうかね。長い間波に荒らされたのでしょうか、すべすべしています。この脚も流木ですね。坐ってみます。ちょうど一人で坐るのにですね、脚もしっかりしています。高瀬さんは、まったく治療しないで暮らしていこうと決意した頃の思いと言いますか、それをこういうノートに書き留めています。いろいろなものが書いてあります。例えば、作品の構想であるとか、これはカラスのスケッチですね。「貝になっていく私」。これから作ろうとしている作品の何か考えでしょうか。こういう図だけじゃなくて、メモがたくさんあります。「努力」という字。こちら側には「矛盾」。「こうありたい自分」「実際の自分」「あるがままのもの」「不安の衝動」矢印(→)をして、「何かになりたい」。この日は左側のページに、「恐怖」。こういう字が一番最初に書いてあります。「恐怖はあらゆる種類の逃げ道を求める」。このページの一番下に、「この病は癒えないのではないかという恐怖がある」。この字と字の間に、どういう思いが込められていたのかということを、見ながら考えてしまいます。で、このノートの中にこういう少し長い文章が綴られています。
自然はドラマティックである。刻々と変化し、停滞することがない。ある時は優しく、ある時は荒々しく、ある時は明るくまた暗い。それらはまた静止してしまった様な時もある。それは大気を流れる風が止まった時、朝夕の光りと影が複雑に入り交じった時、大地からのエネルギーを植物が吸い取り、また再び戻す。自然は「愛」に満ち溢れている。生きとし生けるものは、すべて止むことのない愛の交換の中で、よりよく生きるべし。 死ぬるは自然との合体であり、愛の合体である。そよと吹く風の中に、命の一部を残し原子に戻る。人間の作る都会は不自然である。都会での優しさは真実ではない。それは巧みに仕組まれた虚偽の商品である。都会にはまた本当の荒々しさもない。生と死の本当の姿を見ることはできない。自然の中では荒々しさも、また美しいのに、都会の中ではどんどん見にくい姿に変貌する。そこには愛の合体がない。
 

語り:  カメラマン・坂本真典さんにとって、去年の春から夏にかけての高瀬さんの作品の撮影は、忘れられない仕事でした。作品と出合い、感動した坂本さんは、高瀬さんに残された短い時間が尽きるまでに、その作品のすべてを撮ろうと決心しました。一年を坂本さんはもう一度高瀬さんの流木の作品を撮りたいと思ったのでした。



 

坂本:  こういう自然光で拘って撮ったのは、高瀬さんが居間や仕事場で作る時の同じ光で撮ろうと思ったんです。カメラマンが照明をして、また別のライティングでやると、彼の思いが伝わらないんじゃないか、と。まったく大磯で撮った時は、彼の仕事場のその時のその光で撮ったんです。高瀬さんの作品の場合は、どこも表現しようと思ったんです。例えば此処にピントが合って、こっちは合わないというんじゃなくて、何か伝えればいいんですけども、そうすると曖昧になります。それ嫌ったんです。
斎藤:  何故ですか?
 
坂本:  それは全部凝視しようと思ったんです。目を避けないで、顔だけ合わせておく感じじゃなくて、もう顔から足の先まで、ピントを合わせて、ギリギリまで絞って撮ったんです。彼も時間がないという思いで、今までの自分の人生をそこに凝縮するようなエネルギーがあったですね。それが我々が感動して、全部撮りたいという思いにさせたんだと思います。単なるこういう切れっぱしじゃないです。
 
 
語り:  高瀬省三作品集『風の化石』を担当した出版編集者は、中川美智子さんでした。遺書になるかも知れない本が、「なんとか間に合って一冊になりますように」と祈った、と言います。




 

 
中川:  もう仕事も全部止めて、好きなことだけするという。病院にも行かない。好きなことって何だろうと思っていたら、「流木で作り出した」ということを夫人から聞いていたんですね。で、「好きなことだけしていれば、病気も自分の治癒力を信じているから、病気も負けてどっかへ行っちゃうんじゃないか」ということも、冗談で言っていましたし、「自分の中の自己治癒力を、僕は信じているから」と言った時に、「それは何ですか?」と、根ほり葉ほり聞くという感じも全然なく、「あ、そういうものは彼の中にあるだろうなあ」って、素直に思えたんですよ。これはだから気持の強さだ、と思うんですね。自分の気持の強さで、自分の体内に起こっている異常も克服できる、という。普通に考えたらあり得ないかも知れないんですけども、彼がそう思うことは、素直にそう思っていた。「そうだろうなあ」って。その奇蹟を私もなんか信じられたんですね。それは人間だからそんな完璧に強い人なんている筈ないですけども。表にはそういうのを見せまいという、そういう美学を強く持っていたんじゃないかなあ、と。若い時から見ていて、そう思うんですね。「勁(けい)」の字の強さってあるでしょう。「強(きょう)」じゃなくって。あの男性には珍しい人だというふうに。その印象が三十数年変わらないんですよね。
 
 
語り:  作品集の校訂、ブックデザインを担当したのは、クラフト・エヴィング商会の名で活躍している吉田篤弘(あつひろ)・浩美(ひろみ)さん夫妻でした。二人は、「この本は構えずに自然に作りたい。海と風が作った本のようにしたい」と考えた、と言います。
 

 
篤弘:  とてもそういう人だと思いますね。だから高瀬さんはほんとにまったく普通に自然にしていらっしゃるので、僕らの方がなんか変化してしまったら、高瀬さんが折角そうされていることが全部台無しになってしまう、と思ったので、僕らも自然にするべきだということだったと思いますね。まったく自然でしたね。
 
浩美:  だから分からないですけども。高瀬さん自身も、自分が病気は治ると信じていらっしゃったと思いますし、だから凄く自然に生きられているなあというふうに思いましたけども。
 
篤弘:  ただ一つだけ作業中に困ったなあ、と思うことがあったんですけど、それは最後にレイアウトをしていく時に、写真を一枚一枚トリミングをしているんですけれども、実際に写真を投影して、それを夜中に一人でやっていたんです。真っ暗な部屋で、一人でその作業をしていたら、恐いような気がしたんですね、突然。それで呼んだんです。「ちょっと来て」と呼んで、一緒に見て貰って、「なんか凄く僕には恐く感じられるんだけども、どう思う」って訊いたら、彼女も、「ほんとだ」という感じで。でも、これは恐いものでもあるのかも知らないと、その時初めて思ったんです。僕らは高瀬さんの飄々とした感じに惑わされていたのか。本当の奥のところにあるものまで、もしかすると見ていなかったのかも知らないという。その作業をしている時に、初めてそう気付いた。それは正直言って、確かにそうなんですね。改めてそれをほんとに考えてみようとしたんですが、分からないということが、何より高瀬さんの素晴らしかったところじゃないかな、と。ほんとに感じさせなかった、という。
 
 
語り:  作品の写真集で、偶然、高瀬さんの作品を知り、その魅力に惹かれて個展の会場へ足を運んだ人がいます。建築士の藤森照信(ふじもりてるのぶ)さんです。




 

 
藤森:  展覧会があるというものですから、行ったら、そんなに人は居なかったけど、ほどほど居て、高瀬さんもおられたんですね、そこで初めて。その段階では高瀬さんは病気だということを知らなかったんです。作品集に別に書いていないしね。自然の中で打ち捨てられているものがありますよね。そういうものの中になんか形がこう見てですね、その形を子どもはそういうことをやるんですけどねちょっと凹んでいると、口だとかそういう状態で最初に発見したに違いないですが、どんどん成長してカラスになったり、ライオンになったり、トンボのような人間になったり、そういう打ち捨てられた木材が形に成長しているという、その過程が感じられるんですよね。そういう彫刻って見たことがないものですから、大変驚いたんです。そういう自然の木の中に、何か聖なるものがあるという感覚というのは、日本人にはずーっとあって、古い古代なんかで、例えば立木に仏さんを彫ったり、それは立木の中に仏さんがいるから、それを出してあげるんだ、みたいな、ずーっとあるんですよね。表現すると、人為でやるわけですね。人間の意識でやっているんですけども。人為ではないところが半分入ったようなことの大事さみたいなことを、最後に行き着いたんじゃないか、と思いましたけどね。だって自分で絵を描くというのは全部自分でやるわけですけども。ところが海岸に転がっている木、木片なんかに何かを見ちゃうわけですね。それは別に人間が表現したものでなくて、自然が作ったものの中に、人間がただ、いわば人間が発見するだけなんですよね。なかなか発見するだけにしても、彼がちょっと手を入れてこう伸ばしていくわけです。そこが人為になるんですが、なんか人為でないところと人為のなんかその辺の一緒になっていることの重要さみたいなのを、彼は気付いたんではないか、と思いますけどね、最後にね。



 
語り:  画家・高瀬省三。一九九四年の作。「一本の茎(くき)」。この絵は、詩人・茨木のり子さんの詩集の挿画です。以来、高瀬さんの作品は、その人柄と作品を愛した茨木さんの作品集の表紙を飾ってきました。茨木さんは、流木の作品から、高瀬さんの手でいのちを与えられた流木たちの喜びや安堵の気持が伝わってくる、と言います。
 




 
茨木:  考えようによっては、いのちの最後のこの打ち上げ花火みたいな、そういうものとして作品集はあるような気がします。何でもない流木ですね。その流れ寄った木。普通だったらそれは浜辺で集められて、薪にされるようなものだった、と思うんですね。それにフッと息を吹きかけた、と言いますか、その流木の中から、なんか生なるものを導き出したというかなあ。それが短期間にワアッとなさったわけですから、なんか不思議な気がしますね。物というものに魔法をかけると、それは美術品になるんじゃないかなあ、という気が致しますね。解けない魔法ですね。生き物というのは、最後は完成完成と向かうものじゃないか。最後のところで、自分の持てるものを全部こう出し切って、もう精一杯生きればそれも良しというかなあ、覚悟は定まっていらっしゃった方でしたね。
 

 
斎藤:  茨木のりさんの話を伺っていますと、高瀬さんの生き方というのが、茨木のり子さんの詩の中の一遍とこう重なり合う気がしてきます。その詩は「倚(よ)りかからず」という詩です。この詩集の表紙の絵。これも高瀬さんの作品です。
 
     「倚りかからず」
 
     もはや
     できあいの思想には倚りかかりたくない
     もはや
     できあいの宗教には倚りかかりたくない
     もはや
     できあいの学問には倚りかかりたくない
     もはや
     いかなる権威にも倚りかかりたくはない
     ながく生きて
     心底学んだのはそれぐらい
     じぶんの耳目
     自分の二本足のみで立っていて
     なに不都合のことやある
     倚りかかるとすれば
     それは
     椅子の背もたれだけ
 
高瀬さんは、最後になってこういう文章を残しています。
 
去年の夏(平成十三年)、私は検査のため一週間ほど病院で過ごした。その折り息子が差し入れてくれた本、若くして急逝した星野道夫(みちお)(一九九六年取材先のカムチャッカで熊に襲われ急逝)の『イニュニックーアラスカの原野を旅するー』生命の中に、こんな文章があった。
 
ストーブの炎を見つめていると木の燃焼とは不思議だなあと思う。二酸化炭素と水素を大地に放出し、熱のほんのわずかな灰を残しながら長い時を生きた木は、いったいどこへいってしまうのだろう。むかし山に行った親友を荼毘(だび)に伏しながら、夕暮れの空に舞う火の粉を不思議な気持で見つめていたのを思い出す。あの時もほんのわずかな灰しか残らなかった。生命とはいったいどこからやってきて、どこへ行ってしまうものなのか。あらゆる生命は、目に見えぬ糸で繋がりながら、それは一つの同じ生命体なのだろうか。木も人もそこから生まれでる、その時その時の束の間の表現に過ぎないのかも知れない。遠い昔、山男を自認していた私も、またストーブの炎を見ているのが好きだった。朝になってストーブを開けると、完全に燃焼した薪は白い灰と化し、昨夜のあの妖しげな炎の揺らめきは、夢であったのかと思わせる。生まれ生きていることの不思議、死んでいくことの不思議を感じたものである。時を経て、ある決断を迫られていた私が、病院のベッドで考えていたこともまた同じであった。生命とはどこからやってきて、どこへいってしまうものなのか。
 

 
語り:  自分の中にある力を信じて精一杯生きる。残りの短い時間の中に、自ら人生を凝縮させようとした高瀬さん。最後に行き着いた流木の造形は、高瀬さんの生きる証でした。
 

 
坂本:  あれだけ宣告されて、死に対する恐怖はないというのは、僕は嘘だと思うんですよ。それは特に奥さんと息子さんには見にくい姿を見せたくないという、そういう意志が末期の癌でも、苦痛がぜんぜんなかったんじゃないか、と思いますけどね。精神的にはほんと迷いはあったと思いますよ。特に独りになって。夜独りになると起き出して作品を作り出すというのは、多分それと闘っていたんじゃないか、と思うんです。迷いを見せないその意志の強さ。僕なんか特に弱い方ですから、それをやり遂げて、というか、それを見せないで亡くなって逝った。そういう姿勢を学びたいですね。
 
斎藤:  ほんとは、何か心の中で、迷いがたくさんあったでしょうにね。
 
坂本:  人間ならそうだと思いますけどね。それを見せずに。格好いいですよ。死に方、というのは。
 

 
斎藤:  個展の会期の後半から、高瀬さんの体調は優れなくなりました。
 
十二日
腸の動き不活発。パン少々、ブドウ少々。
 
十三日
腹部張り増。多尿。ブドウ少々。煎茶。ヨウカン少々。煎餅。
 
そして、九月十三日の記述の最後に、こういう歌が書かれています。
 
ぶ太い蜂の羽音楽しむ
  自宅療養の窓
 
このメモは、平成十四年九月十四日で途切れています。最後の文章、
 
平成十四年九月十四日、土曜日。
久しぶりに椅子にて昼過ごす。
 

 
久子:  いろんなことを教わったんですけど、何でも一生懸命に燃えて、取り組むと言うんですか。ですから、夕焼けが綺麗だったりすると、「夕焼けが綺麗だから散歩行こう」と言うんですよ。よく私なんか夕飯の仕度なんかしていると、「あ、ちょっと夕飯の仕度しているから」とかいうと、「今その時しかないよ。ご飯なんかどうでもいいよ」とかいう感じで、「夕焼けのほうが大事だよ」というような感じで連れ出されたり。最初の頃は渋々出たこともありますけれども。「もぉー」なんと思ってね。後半はもうほんとに彼の気持も生活もよく分かりましたし、実際にほんとにそうですし、海に行きますと、もう素晴らしい夕焼けなど見れましたし、そういう意味で、ほんとに常にその時その時に一番大事なことというか、そういうことに没頭するというか、そういうことにかけては天下一品だったなあ、と。遊ぶ時も一生懸命遊ぶし、生活も一生懸命でしたし、願わくばもうちょっと時間を頂けて、もっともっと作品を作って貰いたかった。ただそれだけですね。





 

 
斎藤:  ほんの半年前に癌で亡くなった高瀬省三さんの人生を巡って、何人かの方にお会いしてお話を聞きました。お話を伺ったのは、高瀬さんの六十年の人生のうち、亡くなるまでのわずか半年の間だけのことですが、みなさんの話を聞きながら、さまざまなことを考えました。そしてもう一度、生前の高瀬さんが暮らした場所で、その同じ風を受け、同じ空気を吸ってみようとやってきました。高瀬さんは、作品集の中でこう書いています。
 
流木はそれ自体、実に優れた造形物だが、少しずつ手を加えていくと、それまでとはまったく異なる表情を見せてくれる。岩に絵を描いた古代人の驚きと喜びに共感できる一瞬だ。
 
高瀬さんは流木を介して、遠く時空を超えた古代の人とも感情をともにすることができると言います。長い時間をかけ、長い旅路を辿った流木。その中に時間と空間を凝縮させた流木。人生の最後に出合った流木に高瀬さんは、人間の力を超えたものへの思いを託したのでしょうか。人間はふとした弾みで時空を超えられるかも知れない。

 
     これは、平成十五年五月二十五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである