心をむすぶー演劇から仏法を学ぶー
 
                       岐阜円成寺住職
                       劇団「はぐるま」代表 小 林  宏 昭(こうしょう)
                       き き て      亀 井  鑛
                                  (同朋新聞編集委員)
 
ナレーター: 岐阜市の西部、静かな田園地帯の一角に円成寺(えんじょうじ)があります。円成寺は室町時代から天台宗の寺として、地元の人々から篤い信仰を受けてきました。その後、蓮如の布教によって、浄土真宗の寺に変わりました。現在門徒の数は八十軒あまりです。円成寺の住職、小林宏昭(こうしょう)さん、七十一歳。小林さんはこの寺の住職になって二十九年になります。小林さんは昭和二年、この寺の三男として生まれました。その後多感な少年時代の小林さんに仏の道を教えてくれたのは、住職だった父よりも、むしろ祖母のれいさんでした。れいさんは、「人様のお陰で生かさせて頂いているのだぞ」と、いつも言い続けて、小林さんを厳しく育てました。昭和二十年、空襲で寺の本堂から庫裏まで全て焼け落ちてしまいました。その時、地域の人々の信仰を集めていた阿弥陀如来像を、当時七十二歳の祖母、れいさんが必死で担ぎ出し、焼失を免れたこともありました。常に感謝の気持と人々への思いの大切さを、祖母から学んだ小林さん、円成寺二十代目の住職を継いだのは四十二歳の時でした。
 

 
亀井:  今日は小林さんからこのお寺でお話を承るわけでございますけれども、小林さんはこのお寺でお生まれになり、お育ちになったということで、お寺に生まれたということが、小林さんの人となりの原点に、どんな影響感化があるかということから伺いたいと思うんでございますけれども。
小林:  あまりお寺に生まれて良かったとは思わなかったんですけれども、お寺に生まれて良かったと思うことも、また一方ではあって、それはある歳になってから、「ああ、そうだったなあ」と思うんですけれども。
 
亀井:  どんなことでございますか。
 
小林:  例えば、やっぱり人間というのは出会いがあると同時に、小さい時はみんな出会いばかりであったのが普通ですけれども、私は小さい時から、「別れというのは早くからあるんだ」ということを先ず知ったということですね。お葬式があって、お礼参りに来られるのを見るだけですけれども、いかにも悲しそうにお寺に参って、私のおばあちゃんと話をしていかれるのを見ると、「ああ、人間というのはこうして別れていかなくちゃいけないんだなあ」ということを小さい時から知りまして、人間を見る目がそれで違ってきたんじゃないかなあと思います。
 
亀井:  人間にはそういう「苦しみ、悲しみ、別れ」というようなことがいつも付いて回るのだということを、思い知らされて、育てられたということですね。
 
小林:  そうですね。それからお寺というのは、私のおばあちゃんというのは非常に村の方から愛された方ですので、いわゆるいろんな話を、愚痴を話したり、嫁さんの悪口を言ったり、姑さんの悪口を言ったり、そういうことが一杯ごちょごちょある。人間というのはこういうものだということを、先ず早くからこれも知ることが出来たです。それからまた昔この辺りというのは水がよくのりましたし、お百姓だけで、ほんとに純粋なお百姓だけで。丁度面白いんですけれども、この下の河渡(ごうど)というのは川で桑名との間の商売なんかする。ここはほんとに田圃で地球をつつくだけのお仕事で、
 
亀井:  ちょっと違うだけで繁盛も違う。
 
小林:  全然違う。「町や町やで」という。この辺はほんとの田舎でしたから、田舎のほんとに素朴な貧しい生活と共に、寺は生きているんだということを。やっぱり町の人とは違った生き方というものを、私は小さい時からしてきたということが、逆にいろんな意味で、私の人生観というものの中にいろんな影響を与えてきたんじゃないかと思います。
 
亀井:  そういう悩みや愚痴を、その人の身になって聞き取っていくような聞き上手と申しましょうか、そういうようなことが、
 
小林:  そうです。それは坊さんの非常に大事な仕事だというふうに、私は小さい時から思いました。
 
亀井:  それと今の悲しみ苦しみ、それから別れというようなことも、人間には付いて回るんだということを、骨身に沁みて頷(うなず)かされたということなどがあるわけですね。今、おばあちゃんのお話がちょっと出ましたけれども、
 
小林:  私のおばあちゃんというのは、私にとって大切な人でした。私は兄弟三人おりましたけど、お寺としては貧乏な寺で、父も母も京都の本山に務めておりましたものですから、いわゆる「一人だけおいて行け」と、おばあちゃんが言いましたものですから、私だけがここに住んで。今は田舎の子もみんな町の子みたいな顔をしておりますけれども、あの頃はほんとに町の子と田舎の子とは全く違って、貧しい、草鞋を履いて走り回っているような生活。京都から弟が革靴を履いて帰ってくると、ビックリして、「どこの人か知らん」と思ったりしたんですが。おばあちゃんはほんとにしっかりした人で、空襲で焼けた時、七十二歳でした。この近くでもお寺焼けていますけれども、お寺焼けると本堂から庫裏からみんな焼けるんですが、ご本尊から過去帳からみんな焼いてしまったんです。ここだけは御宮殿(ごくうでん)の上へ飛び上がって、小さいそのおばあちゃんが阿弥陀様を抱き抱えて、そして裏の藪へ持って行って、また七条からも過去帳やいろんなものを殆ど出した、偉いおばあちゃんなんです。おばあちゃんが私に、「いいか、お仏飯(ぶっぱん)で育っておるんだぞ、お仏飯で育ったということを忘れちゃいかんぞ」と、いつも言いました。
 
亀井:  「お仏飯」というのは、仏様にお供えするご飯。
 
小林:  そうですね。「お供えする」お仏飯と呼ぶんですけれども、「お仏飯で育っているんだ」「みなさんの力で育っているんだ」ということを、常に私に言いました。母は養子娘でして、母はわりに間に合わない人間だから、おばあちゃんがよく言いましたが、「いいか、言われぬ前にやれ、言われてからやるやる奴は一生損する。言われてもやらぬ奴はどうしょうもない」「言われる前にやれ」と。小さい時のことですが、母は、「布団上げよ、布団あげよ」と、いつも言いつける。私が布団上げようと思う時に言われると、「今、上げようと思っているんや!」と、腹たてるんですけど、おばあちゃんはさっさと、自分で上げるもんだから、おばあちゃんに上げてもらったらいかんと、自分で上げるんです。やっぱり、「人間と言うのは背中見て育つ」と言いますけれども、おばあちゃんの背中を見て、私は育ったような思いがするんですね。
 
亀井:  今の、「お仏飯を頂く身の上だということを忘れずに」と、おばあちゃんがいつもおっしゃったということは、お寺に生まれられた方は、お檀家の方々からお米を上げて来る、それを頂くという、お仏飯ということになるわけでしょうけれども、仏様から頂いたもの、仏力によって授かったもの、如来回向(にょらいえこう)とか、そういうようなことになってきますと、
 
小林:  全てやっぱり仏様から授かったものだという、
 
亀井:  それは何もお寺のものばかりでなくて、一般在家の者も、生きるものは全て如来から、ご回向に与(あず)かったものを頂いて生きていくのだということが、そのお言葉の中に込められてあるわけですね。
 
小林:  今、そういう「お陰で頂ける」という考え方がだんだん無くなっていくような気がするんですね。
 
亀井:  「自分が稼いだ金で買って、俺が食べるんだから、当然で、何も他人からとやかく言われることがあるか」というのが、私達の常識的な受け止めですけれども、
 
小林:  そうです。そういう点で、「買ってくる」という考え方が、知らぬうちにそういうふうな考え方を作ってしまった。妙な話ですけれども、おばあちゃんの頃は、お茶から茄子(なすび)から何でも作るということが常識だったんですね。秋になると、「芋だ、白菜だ」というふうにですね。春には柿を包むとか、いろんなことを季節によって、おばあちゃんがたったと動くと、私が付いて回るんですが、自然から恵まれて、自分で働いているんだけれども、恵まれているという喜びというのを感じたですね。今の子供はそれを感じていないんじゃないかなあ。
 
亀井:  そうですね。それは今の日本の生活様式、日本だけではないかも知れませんけれども、消えていっているものですね。物を作ると申しますか、恵まれた喜び、恵まれた有り難さ、
 
小林:  自然から恵まれた喜びというものは、茄子でも早くちぎろうとすると、「まだあかん、まだあかん」と言って、自分で作った茄子ですから、少しでも大きくして、おばあちゃんはちぎるのかと思うけれども、そういうふうに自分が作ったという喜びというのは、本当にあの当時の人々は持っていましたですね。
 
亀井:  作ったと同時に、それは賜った、授かった、恵まれたということなんですね。
 
小林:  そうですね。
 
亀井:  それを、「お仏飯」という言い方で、おばあちゃんはおっしゃって下さった。
 
小林:  そうです。分かち合って、「何々が出来た、何々が出来たで」と言って、茄子であろうと、里芋、人参、大根であろうと、「二本、三本」と、村の人が持って来られるんですね。そうすると、おばあちゃんが嬉しそうにそれを受け取って、おばあちゃんと喋っていくのが楽しい。そういう人間関係というのはやっぱり貧しい農村の生活に合ったよさじゃないかなあと、
 
亀井:  貧しさにこそ、恵みとか、賜るとかいう喜び、有り難さというものがまたあるわけですね。
 
小林:  それでなかなかおばああちゃんは、そういう意味で、村では信頼がありましたから、国防婦人会の会長をやったり、いろんなことをやっておりましたけれども、そんな会長という面影は全然なくて、まあ一番いい話が、おばあちゃんが亡くなった時に、「あ、円成寺ももうあかん、火が消えたようなもんじゃ。おばあちゃんが死んだで」と、言って、
 
亀井:  そういう存在だったんですね。
 
小林:  忘れませんけれども、そう言って、
 
亀井:  そういうような幼少時代を送られて、小林さんは龍谷大学へ進まれた。
 

ナレーター: 昭和二十年、小林さんは龍谷大学に入学し、仏教の勉強の傍ら、戦後の自由な解放感の中で、演劇活動に熱中しました。大学卒業後、寺の跡取りとして、岐阜に戻った小林さん、しかし直ぐに寺を継ぐのではなく、高等学校で社会科の教師となりました。
 

 
小林:  私は戦後丁度、一九四五年に龍谷大学へ入ったんですが、敗戦の年なんで、もう薯しか食うものがないような時代でしたけれども、解放感は実に、ほんとにあんな解放的な時代はなかったんじゃないかと思うくらいの、
 
亀井:  そうでしょうね。
 
小林:  それで小説を初め書いておったんですが、小説は誰も読んでくれません。同人雑誌をやっても。それで演劇だと見ている人が、良いとか悪いとか反応があるというので、演劇が面白いというわけで、それで演劇をやり始めたんです。学生運動はやる、デモはやる、もう何でもやれる時代と言いますか、デモなんかにも出たりしますと、父から電報が入りまして、「セントウニタツナ チチ」ということで、
 
亀井:  そういう時代でしたね。
 
小林:  だから、何でもやりたいことをする、何でもするというような時代でしたから、演劇というのに本当にもう夢中になりました。
 
亀井:  ところがそれがお寺へ戻られることになった。
 
小林:  兄が死んで、居りませんので、
 
亀井:  戦争で亡くなられたわけですね。
 
小林:  芝居はやりたかったんですが、「何考えている。出ていくんなら、パンツも脱いで行け」と言って、母から叱られまして、結果的に跡取り。何とも言えない重い気持ちで岐阜に帰って来たわけです。
 
亀井:  お寺を継がれたわけですね。
 
小林:  はい。
 
亀井:  お寺へ戻られてから高校の先生をなさった。
 
小林:  直ぐ、岐阜高校の教師になりました。まだいい時で、最初から岐阜の周辺で教師をやれたわけです。教師をやってみて、やっぱり私は相手が人間であるということで、いい仕事だとしみじみ思いました。やっぱり書物が相手だとか、事務が相手だとか、お金が相手だとかという仕事ではなしに、一日一日変化する人間が相手で、ほんとに当時はまだ進学学校という意識がなかったものですから、クラスも纏まっていました。面白んいですが、私だけ十年間務めましたけれども、綽名(あだな)がないんです。「小林さん、小林さん」というのが、私の愛称でした。職員室でも、「あのなあ、小林さん、おれなあ」と言って来る。「それが先生に対する言葉か!」と言って、隣の先生が叱ったことがあるんで、ビックリしたんですけれども。いわゆるそういう兄貴のような気分でおってくれたものですから、
 
亀井:  そういうような生徒の気持ちを汲み取っていくということについて、隣の先生は威たけだかに怒鳴られるんですけれども、小林さんの教師観と言いますか、教育観と言うと、どんなところに、
 
小林:  やっぱり、生徒というのは、それぞれみんな未来をもって生きているわけで、「教育というのは教師と共に未来を語り合うこと」という有名な言葉があります。未来を語り合ってあげる為には、いろんな未来が一杯ある筈です。四十人の生徒であったら、四十人の役割を果たさなくちゃいけないということになると、私はやっぱり上から教えてやるというようことではなくて、いろんな未来について一緒に悩んでやるというのが教育でなければならないというふうに思っておりました。ということは一流意識があってはいけないという考えが、私の中にありました。だから二流の人間だ。私は二流の人間だという時に、初めて生徒は小林さんとなら話せる。悩みもみんな持って来れる。悩みの多いのは二流の方が多いという、ちょっと変ですけれども、
 
亀井:  分かりますね。
 
小林:  だから、そういう意味で、常に悩み多い生徒と共通の地盤を作らなければいけない。逆に言って、親鸞聖人は、「愚禿(ぐとく)」とおっしゃったそうですけれども、あの人は自信のある愚禿でしょうけれども、私なんかはそんな親鸞聖人のような偉い人じゃありませんので、ほんとに彼が今悩んでいることを、共に悩み、それを受け入れる 立場でものが言えなくてはいけない。こう私は考えて、二流意識を常に持ち続けなければならないと思ったんです。
 
亀井:  二流意識というのはエリートコースの反対ということですね。
 
小林:  はい。エリートというのはやっぱり悩みがないんじゃないかという気がするんです。
 
亀井:  高いところへ行っちゃうわけですね。上から人を見下ろすような、
 
小林:  上へ上へ行けばいい。上に行けるという思いがありますけれども。私は進学学校を十年で辞めた理由も、進学学校のしめつけが非常に厳しくなって、生徒でもこの授業は大学受験にとって損か得か。「そんなものは教育じゃない」と私言うん ですけれども、そういう考え方で出て来るようになったものですから、実業高校へ行った方がいいというふうに思ったんです。逆に言ったら、実業高校の方がいろんな悩みを持っているだろうし、或いは地方の高校の方が悩み、私も地方の中学を出ているものですから、やっぱりそういう意味では、悩んでいる人間と共に悩んでやれる教師でなければならないと思いました。
 

 
ナレーター: 小林さんには「こばやし ひろし」という名で、演出家としての顔があります。小林さんは昭和二十九年、地元の人々とアマチュア劇団「はぐるま」を作りました。以来、手掛けた作品は三十本以上、公演回数は百回を越えました。地域の人々に何時でも寺へ来て芝居を見て欲しいと考える小林さんは、本堂を改築して小さな劇場になるようにしました。阿弥陀如来を移動すると、そこは六メートル四方の広さの舞台に早変わりします。公演が近付くと毎週四回、夜七時過ぎから、ここで芝居の稽古が行われます。四十四年前、十四人でスタートした劇団員の数は、今では八十人、サラリーマン、教師、主婦、そして店の経営者など。年齢は十八歳から七十一歳までさまざまです。劇団員は全員が役者であると同時に、衣装小道具大道具掛かりと、何でもやりながら芝居を支えます。これまで岐阜を中心に活動を続けてきた劇団「はぐるま」、五月上旬、小林さんが脚色、演出する芝居、「新島の飛騨んじい」を東京で初めて公演しました。遠く離れた新島の人々が小林さんを説得し、東京での公演を実現させたのです。当日は新島の人達、五百人が、船で七時間かけてやって来ました。「新島の飛騨んじい」は農村一揆の罪に問われて島に流された父親を看病する為、荒海を越え、新島に渡った息子と、それを迎えた新島の人達の温かい心の絆を描いた作品です。「新島の飛騨んじい」は今までに二回の公演を行ってきました。しかし今回は新島の人達が鑑賞するとあって、いつになく緊張する小林さんの姿が舞台の袖にありました。
 

 
亀井:  今もちょっと見せて頂きましたんですけれども、ここの今お話を承っておりますご本堂が、そのまま劇場仕立てになっていく、様変わりしていくということでございますね。
 
小林:  はい。昔はお寺というのは、やっぱり娯楽の少ない時代はお説教が娯楽だった筈なんで、だから現代も娯楽がお寺にはないというのはいけない。お寺は集まる場でなくちゃいけない。蓮如さんが「平座」と言われたんですが、この下陣(げじん)にいっぱい人が集まって貰いたいということで。そうしたら門徒総代が「何考えておるの、あんた。カラオケ道場を作るわけじゃないぞ」と言われたけれども、作ったら割に評判が良くて、
 
亀井:  はい。そうですか。
 
小林:  ここでお芝居をやりましたら、お説教だとお金が要りませんけれど、お芝居だと千五百円から二千円取るんですが、満員になりまして、札止めになります。お説教だと札止めになりませんので、やはり人気があるんだなあと思っております。この地域の高等学校が、「体育館でやるよりも此処の方がいい」と言って、やってくれました。
 
亀井:  お寺にわざわざ舞台を移して、
 
小林:  みんな仏様の前で芝居するのは若い人は、「しづらい」とみんな言っておりまし たけれども。幼稚園が発表会をやったり、
 
亀井:  それもありますでしょうね。随分それでは地域で活用されているわけですね。演劇というのは小林さんの持論でいきますと、「金儲けとは違う、プロとは違うんだ」というようなことを、
 
小林:  私はお寺がそうですし、お寺もボランティアでなければいけない。金儲けのお寺なんて、ちょっと私はお寺のイメージから離れてしまうんです。だから、日本の演劇状況の中では、食う為に一生懸命になるような演劇ではいけないので、感動して貰うというのは、これはボランティアでなければいけない。心と人間の生き方をどうやって評価するかというと、それは、「金でなんぼですよ」なんていうものじゃない。だからそういう意味では、私はお寺はお布施の精神、我々も本当にみなさんと共に生かされて頂いておるという関係でやるんだから、演劇も同じようにそういう形でやりたい。
 
亀井:  ボランティアで、
 
小林:  はい。ボランティアでやりたいという、
 
亀井:  そういう話を伺っておりますと、人間の営みというものは、あらゆるものが、反面にやはりボランティア性というものがなくちゃならんということも、今、フッと思わされたんでございますけれども、どうでございましょう。
 
小林:  私はほんと言って、人間というのはやっぱり人間と人間が助け合うという。そして共に生きているんだという思い。だから、「いくらで俺を買ってくれるか」という関係でない時に、本当の心の触れ合いが出てくるんじゃないかなあと思います。特に演劇は感動させる為に、いいものを作る為に、劇団員全部が全部、必死にならなくちゃいけません。劇団を応援しているある会社の社長が、劇団の仕込みの働きぶりを見て、「こんだけみんなが無償で働いてくれるんやったら、うちの会社に務めてくれたら、倍、俺は給料を払ってやるぞ」と言っていました。
 
亀井:  なんか分かるような気が致しますね。
 
小林:  それでやっぱりボランティアだから、もう夢中になって汗水たらすんですね。この前も、「月の岬」というお芝居やったんですけれども、着替えがパッと早くしなくちゃいけないんです。着替えを早くさせる為には、紐から帯から、パッと順序がなければ、何度やっても着替えが早くならないので、着付け教室へ通って、
 
亀井:  舞台の早変わりですね。
 
小林:  はい。その着付け教室へ通って、一生懸命それを学んだ。和服に替えるんですけれども。それは公演が済んで初めて知ったんです。それくらい私が劇団の為に役に立つというのは、裏で着替えさせる役の人がそれだけ夢中になるんですから、
 
亀井:  着付け教室まで通って、言われもしないのに、言い付けられもしないのに教室へ通って、着付けの勉強をしたということですね。
 
小林:  だから、感動しました。本当に裏も表も本当に夢中になって、初めて演劇が出来る。「東京の劇団にないぞ。こういう集団は」と言って、
 
亀井:  そんなところにも、元を糺せば、こちらのおばあちゃまが貧しい地域の中で、村の人達の悩みや愚痴や苦しみを相手の身になって聞いて上げるという、そういうことをいつもいつも小林さんに言い聞かせていらっしゃったことから出てきておるということもあるかも知りませんですね。
 
小林:  それでおばあちゃんのことは、劇団でもよく云っているんです。「言われる前にやれ、言われてやる奴は一生損する。おれのおばあちゃんはそう言って、おれを教育してくれたのだぞ」と。もうこの頃ではほんとにみんな言われる前にやりますから。会社の社長じゃないけれども、「こんだけ動いてくれるなら、俺、給料倍出す」と、
 
亀井:  「言われる前にすることはする。言い付けられたことだけで終わるんじゃないんだ」と言う、そこにボランティア精神、ボランティア性というのがありますね。そういうような演劇、プロとしての演劇の営みでなくて、人々との出会い、若い方々が演劇をしていく中で、非常に大きな人間的な展開を遂げられたというようなこともございますか。
 
小林:  はい。これはいっぱいあります。例えば、拒食症になった子がいたんです。入院しておりまして、拒食症と言って、食事を取らなくなるんですね。痩せたい為に。それでその子が劇団へ入ってきた時にはほんとにガタガタに痩せて、それが劇団に入って芝居に夢中になり始めたら、食べるようになったんです。食べたらブクブク膨れて、その子は、「大将、大将」と言われて、女の子でしたけれども、肥えるのが苦にならなくなったんですね。それが今度は好きな人が出来て結婚したんです。そうして子供が生まれたら、普通の身体になってしまったんです。「大将、ふくれたり、肥えたりして」と言ったんですけれども、不思議だなあと思いました。それから、高校時代不良でどうしようもない。卒業しても、「こんなものは役にたたん」と、あるスポーツ店の親父さんが言っておられたんですけれども、それが芝居を始めましたら、夢中になり、まともになったんです。親から感謝されたのは初めてです。まあ大抵演劇をやると親が文句言うんです。「早く止めさせて貰えないかしら」と。それが「劇団へ入れて貰ったお陰で、まあほんとにまともになれたわなあ」と、初めて親から感謝されたのです。だから、本人に「親から、おい、感謝されたぞ」と言って。この頃は応援する親もいますが、今から二十年前はもうとってもとっても、劇団へ入って喜ぶような親はいませんでしたから。
 
亀井:  五十年前には小林さんご自身もお父さんから反対されたということを書いていらっしゃる。
 
小林:  「恥ずかしい。人様に言えん」と、父が言っておりましたから。
 
亀井:  そういうような劇団の方々との渾然一体となったお仕事の繰り返し、継続の積み上げの中で、やはりお寺に生まれられた小林さんとして、仏教をテーマにしたお芝居、或いはミュージカルを創られた、「ブッダ」というミュージカルがありましたですね。
 
小林:  ブッダというのは私やっぱり宗教的というよりも、ブッダの生き方みたいなものが、現代の悩みと繋がるという思いがありましたもので、私が、「書きたい」と言ったら、劇団員は非常に素直に受け入れて、書き上げましたら、みんな喜んでくれたんですね。
 

 
亀井:  今、VTRでミュージカル、「ブッダ」の一場面を見せて頂きましたんですけれども、あのようなお釈迦様が非常にとらわれのない、拘りのない、広い心で平等精神と申しましょうか、人々を包み込んでいく。ああいうところにやはり現代の若い人達もまた共感と感銘を覚えたということがあるんでございましょうか。
 
小林:  そうだと思います。生活は豊かに、精神的に飢餓状況と言いますか、人間不信と言いますか、そういうものがあるんだなあと改めて思いました。
 
亀井:  そうですね。
 
小林:  インドの階級制度みたいなものは、多くの日本人は知らないけれども、やっぱり奴隷という、スードラというのは奴隷だということだけは、舞台で分かるものですから、その階級というものを否定したブッダというもの、全ての人間が、いわゆる人間であるということで、そのスードラたちが感動する。「私も人間ですか」、「人間だよ」という、それで最後法悦の歌になるんですが、「あの場面がほんとうに何度歌っておっても涙ぐむ思いがする」ということをよく劇団員が言いましたけれども、
 
亀井:  つまりそれは最前申されました、「二流」というところに座りを置くということを、またブッダも全ての人々を包み込んでいくという精神がそこにあるわけですね。
 
小林:  だから、描き方によっては、仏教というのは、ブッダというのはやっぱり身近になるんだなあということをヒシヒシ感じました。
 
亀井:  今の悟り済ませた高貴な尊いお方としてのブッダでなくて、人間的な悩み、私達がいつも持っている苦しみや悲しみや不安というようなものを共有するような存在してのブッダですね。それに今の演劇をする若い人達も共感したということでございますね。
 
小林:  そういうことだと思うんです。
 
亀井:  そういうようないろんな演劇活動を「はぐるま」を通して、小林さんを中心に、こうしてきて下さっておるわけですけれども、ここ十年位でございますか、中国との関わりが非常に深くなってきておりますね。それはどういうようなきっかけからでございますか。
 
小林:  一つは私基本的には兄だと思います。兄は割に戦争に対して、不信感を持ちながら死んでいきました。私がシンガポール陥落して、提灯行列して帰ってきた時に、「日本が勝てると思うか、お前は。これからの戦争は鉄の消耗戦だぞ」と言うもので、「日本が勝っとるんやないか!」と言いましたら、兄は、「鉄の生産額がアメリカは六千万トンで、日本の鉄の生産額は七百万トンだぞ。これで勝てるか!」と言って、プイッと部屋の中に入ってしまいました。私はビックリして、「何言ってる。大和魂がある!」と、言ったことを覚えておりますけれども。負けるということを知っていて、死んだ兄は可哀想だったなあと。あの戦争で亡くなりましたけれども。
 
亀井:  中国で、
 
小林:  はい。それで中国との関係が深くなったのは一九六五年に、訪中日本新劇団として中国へ行きまして、それでまあ友好人士というか、日中友好の為になる人というか、非常に向こうでは大事にされるようになりまして、それから中国へ度々行くようになりました。いろんな中国では思いがありますけれども、
 
亀井:  お兄さんの亡くなられたところをお訪ねになったとか、
 
小林:  当時、四十七回忌か、四十三回忌なんか知らない、偶然、中国におりまして、「あ、兄貴が死んだところを一遍見たいなあ」と思いまして、兄貴が死んだ所へ行きまして、戦病死ですから、毛さんという、八十位の方が案内してくれました。北京政府からのちゃんと言付けというか、文章がありますので、湖南省も大事にしてくれた。湖南省なんですけれども、新市鎮という所です。田舎なんです。「野戦病院」と言いますから、野戦病院だと思いましたら、普通の農家を接収して、そこが野戦病院になったわけです。「あれが野戦 病院だ」と言われたから、びっくりしました。農家ですので、当然、中に主人がおるわけですね。それで、「こういう日中友好の人が、ここで兄さんが亡くなったから来られた」。中から主人が出て来ましたので、私はニコニコして、手を出して握手しようとしても、全然手を出さないんですね。
 
亀井:  ほう。
 
小林:  そうしたら、後ろからおばあちゃんが出て来て、何か喋ったと思いましたら、通訳が、「私の両親は日本兵に殺されて、私の姉は死んだ」と言ったんです。私はビックリして「赦して下さい!」と言って、思わずひれ伏すように頭を下げたのです。それがシーンとして、二分か三分でしょうけど、十分にも感じるんです。白々しいと言うか、しらっとした空気が流れている中で、堪らなくなりまして、村の人達がみんな見ている。また「赦して下さい!」と言ったら、おばあちゃんが何か言ったらしくて、「済んだことだと言ってますよ」と、通訳に言われたものですから、毛さんに、「もうもう結構です。どうか赦して下さい」と言って、そこを去りました。私はあらためて中国人に、「親が殺された」と目の前で言われた時には、堪らない思いがしました。私の手を握る気にならないのは当然だと思いました。中国人の傷というのは、「日中友好、日中友好」と政府の間は言いますけれども、民衆の間では、まだ癒えていない人がいっぱいおります。この痛み、この苦しみ辛さというものを、分かち合う気持にならない限り、日本人がいけないなあ。殴った方は忘れるけれども、殴られた方はなかなか忘れないと思うんです。
 
亀井:  痛みが消えないわけですね。
 
小林:  「仏の慈悲」という言葉がありますけれども、慈悲というのは悲しみを分かち合うこと。「頑張れよ」という激励ではない。ほんとに苦しみを分かち合って、悲しみを分かち合って、初めて連帯というのは生まれるんだ。そういう意味では、「慈悲」という言葉は非常に素晴らしい、いい言葉だと思いますけれども。
 
亀井:  その悲しみを分かち合うということ、苦しみを分かち合うということは、ただ単に「気の毒だ、可哀想だ」ということではなくて、私にもまたその責任があるのだと、責任を引き受けて、詫びていく心、頭が下がる心、そういうところに本当の相手と一つになっていく慈悲心と申しましょうか、そういうものが開かれてくる。
 
小林:  相手の悲しみを共に悲しむと、相手の心はほぐれる筈ですね。だからやっぱり本当の意味での連帯友好というのは、これからしていかなければならないとするならば、やっぱり仏教の慈悲の心をもう一度見直さなければいけないんじゃないかなあとしみじみ思います。
 
亀井:  慈悲の心というものが私達に開かれてくる。その一番の元になる原形質というのが、仏教で言われる「回心懺悔(えしんさんげ)」と言われるんでしょうか、責任を私もまた共同して、悪かった、申し訳なかったと、同じ日本人同士として、頭が下がっていくということなんでしょうね。慈悲心の原形質と言ったようなことが、
 
小林:  そして、四苦八苦である人間の苦しみは、私も一緒に背負っていきますという思いが、伝えなければならない。私はそういう意味で、中国の作品を書きたいなあと。
 
亀井:  随分その後沢山立て続けにと申しますか、矢継ぎ早に中国関係の、戦争関係の作品を書いて下さっておりますね。
 
小林:  「カンナの咲き乱れるはて」というのは、ここの本堂でもやりましたけれども、もう本当に寺田の方がみんな涙しておられました。最初これを書いた時に、「戦争、そんなもの誰も見いへんよ」と言って、劇団員が言いましたけれども、「見んでもやるんや」と言い、上演したら感動を呼び起こしまして、八十七年、九十二年、九十五年、九十七年と、四回、地方劇団で一つの作品を四回も続けて、再演、再々演という形でやれるなんていうのは考えてもいませんでした。やっぱりやれば日本人の心に、我々の過去を見つめ直して、未来というものをもう一度見なければならないという思いが伝わるんだということを思いました。
 
亀井:  そういうところに演劇というものの大きな感化力と言いますか、影響力がございますね。そんなことをいろいろ伺っておりますと、ほんとに劇団「はぐるま」のお仕事というのは、そのまま演劇の道が仏法の道に繋がっていく。「仏道即演劇道」というようなことも言えるのではないかと思えるんでございますけれども、
 
小林:  やっぱり私は、最初に、「ボランティア」と言いましたけれども、坊さんもボランティアでなければならない。「僧にあらず、俗にあらず(非僧非俗)」でありまして、それで私は劇団の者、或いは私の教え子もみんなそうですけれども、「共に僧にあらず、俗にあらず」という関係で、生かさせて頂いてきたが為につくった人間関係、これが私の一つの創造の根源であり、エネルギーになっていると思うんです。
 
亀井:  つまり、「僧にあらず、俗にあらず」というのは、エリートコースを歩むものでもないし、プロでもないし、二流の、アマチュアの、田舎の地域の中で埋もれて生きていくもの、しかもそこにいきいきと輝かしい道を歩む者、これを、「僧にあらず、俗にあらず」という言い方で親鸞が言うわけですね。
 
小林:  はい。ほんとに今おっしゃった通りでありまして、私は村の人々と話していても、「ああ、芝居やっていて良かったなあ」「人間関係をつくることが、肉体表現が豊かになった」と言うか、演劇をやってきて、逆に村の人々と繋がって、肉体表現が豊かになったか知りませんけれども、そういう意味において、「芝居っ気」というのが、私は身に付いたと言いますか、
 
亀井:  「芝居っ気」というと、あんまり良い言葉に使われておらないみたいですけれども、そういう意味でなくて、
 
小林:  はい。やっぱり坊さんというのは、「芝居っ気」がないと、「演出家であるとともに、俳優でなければならない」というのは、私よく言うんですけれども、よく感情同化する力がないといけない。
 
亀井:  感情同化する、
 
小林:  お鈴を叩くにも叩き方があって、やっぱり、「あ、成る程、という思いが感じるように叩かなければならん」と言って、私はよく笑うんですけれども、
 
亀井:  つまり相手と一つになって、
 
小林:  そうです。
 
亀井:  つまり、「芝居っ気」というのは、意識的につくりすました作為というようなことでなくて、相手と一つになって生きよう。限りなく自分というものを大きく、拡大同化していくような、
 
小林:  共通の舞台と関係が、共通の場になる。だから、舞台だけでは芝居出来ないんです。お客さんがパッと載ってくれると、初めて舞台が生きて来る。だから、お客さんと一緒になった時に、即ち、同行(どうぎょう)と一緒になった時に、本当に生きていくんだと。
 
亀井:  それがおっしゃる意味の本当の「芝居っ気」なんですね。
 
小林:  はい。
 
亀井:  成る程。
 
小林:  だから私はそういう意味では、「芝居っ気を豊かに出来たことは、両方ともよかったなあ」と、
 
亀井:  舞台と観客席とが、自他一如になっていくような世界ですね。
 
小林:  そうです。益々これから心と心を繋ぐ仕事が、何よりも大事な時代に入ってきております。それで私は文化というのは、演劇であろうと、宗教であろうと、そうですけど、心と心を繋ぐ。トルストイが『芸術とはなんぞや』という本の中に、「芸術は人と人を繋ぐ媒体である」ということを言っていますが。文章で人を繋ぐ時には文学になります。絵で繋ぐ時は絵画になります。やっぱり舞台で繋げばいわゆる演劇になるわけです。人と人を繋ぐ媒体ということが、何よりも大事な、だから仏によって人と人の心を繋ぐのはこれ宗教ですけれども、そういう意味で、改めて私は人間と人間の繋がり、コミュニティをどうやって強めていくかということが、大事な時代だというふうに思います。
 
亀井:  人間ですものね。人でなくて、人と人の間ということこそに、いのちというものの営みがあるんでしょうから。そういうような今日までの歩みをお聞かせ頂きまして、これからの小林さん、或いは円成寺というお寺、そして劇団「はぐるま」、渾然一体となって、これからはどのような方向へ進んでいかれるということでございますか。
 
小林:  先ず地域の文化を創るわけですから、先ずパブリック シアターというものが、今非常に今大事に。心と心を繋ぐ為には、公共性の強いものが文化に求められる時代になってきましたから、それで私はその役割を下から、東京の人を呼んで来てやるんではなしに、下から創る。いわゆる全国でここしかない。パブリック シアターは我々が自分で作って見せるという思いが一つあります。それからもう一つは、来月「不断煩悩得涅槃」をやるわけですけど、
 
亀井:  「不断煩悩得涅槃」というのは、
 
小林:  「煩悩を断たずして、涅槃を得る」というわけですけれども、
 
亀井:  親鸞聖人の『正信偈』のお言葉ですね。
 
小林:  そんな題を付けたら、「みんなお客は来るか」と言うていましたが、逆に言った ら、「なんやなんや。これ面白そうだ」と言って、お客さんが申し込みが多いそうですけども、
 
亀井:  一人芝居?
 
小林:  一人芝居です。ここで是非やりたいと思っております。それからいろいろ、私も歳ですので、劇団員が、「いや、親鸞の若い頃の悩みをやっぱり普遍化することも、小林さん必要だぞ」と言いますので、「みんな知っておるじゃないか」と、
 
亀井:  最近、オペラの『蓮如(れんにょ)』の台本もお書きになった、
 
小林:  『蓮如』を書きましたけれども、これは来年上演されるそうですけれども、私はやっぱり活字というのは、やっぱり全国的にある程度売れないと一定の影響力がないんですけれども、演劇は百人なら百人、千人なら千人という地域の人に、直に訴えることが出来るから、私は地域文化としては、非常に強いジャンルの文化だというふうに思って、今まで続けてきたわけです。
 
亀井:  特に岐阜という限られた場所を拠点にしての演劇活動、そんなようなところに、小林さんの仏道を下敷きにしたと言うか、それを基本にした演劇道というようなものの大きな今日までの歩みがあるわけでございますけれども、そこにお話の中で、演劇は「宗教と同じボランティアでなくてはならない。そして二流というところにいつも座りを置いて、人の悩み苦しみに同じていくという姿勢を持たなくてはならない。甘んじて地方の中でそれを文化を確立していくのだ」という、そういういろんなテーマがあるわけでございますけれども、
 
小林:  上から流れてくる文化でなしに、方言で、「わっちなも」(岐阜の方言で「私なあ」という意味)という関係の中で生まれてくる文化が、非常に光り輝く時代がくるだろうと、私は思っております。それは逆に、このお寺で育てられて、そういう親しみを持って見て頂けるお陰だと思っております。
 
亀井:  そんなところに親鸞のいう、「石瓦つぶての如くなる我ら」の文化というものがあるわけですね。どうも今日はいろいろと本当に多彩なお話をお聞かせ賜りまして有り難うございました。
 
 
     これは、平成十年五月三十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。