自分に問う
 
                              東福寺管長 福 島  慶 道(けいどう)
昭和8年神戸市生まれ。大谷大学卒、大谷大学大学院博士課程修了。太平洋戦争末期から戦後にかけて肉親を失い、昭和22年14歳で出家し、宝福寺で修業。36年から南禅寺僧堂で修業を積む。46年宝福寺副住職。柴山全慶・南禅寺派管長の推挙で、48年米国クレアモント大学で禅を講義して以来、外国人指導の構想をあたため、58年同大に禅門を開いた。55年東福寺僧堂師家を経て、平成3年東福寺派管長に就任。著書に「禅の無の宗教」「フリーマインド(無心のすすめ)」「無心のさと」など。
 
                             き き て 有 本  忠 雄
    
有本:  自分とは一体なんだろう。皆さんは平生ふとそんなことを思ってみることがおありではないでしょうか。私達は日頃家事とか仕事とかに紛れて、それ以上自分に突き詰めて問うことをつい忘れています。そこで今日は、「自分に自分を問う」、または、「自分に自分を問い詰める姿勢の大切さ」について東福寺管長で師家(しけ)の福島慶道さんにお話頂きます。どうぞよろしくお願い致します。
福島:  どうぞよろしくお願いします。
 
有本:  今日は、「自分に問う」というテーマなんでございますが、今は管長さんとお師家さんというお立場で日々大変お忙しいんでございましょうが。
 
福島:  いやいや大変なことです。管長さんは昭和八年神戸のお生まれということですが、今度誕生日がきますと六十五歳。
福島:  そうです。
 
有本:  六十も半ば。ご経歴を拝見致しますと、昭和二十二年に出家(しゅっけ)なさっているわけですね。ということは十四歳で、
 
福島:  そうです。
 
有本:  今で言えば中学生。
 
福島:  中学二年ですね。
 
有本:  ほう。お生まれはごく一般家庭の。
 
福島:  ええ。神戸の在家(ざいけ)の生まれで。
 
有本:  それがなんで十四歳で出家得度(とくど)なんでございますか。
 
福島:  簡単に言いますと、小学校六年の時に学童疎開で、後に自分が入門する岡山の宝福寺(ほうふくじ)に六ヶ月ご厄介になりましてね。それで小学校六年でありますから、昭和二十年三月に卒業で、まだ戦争は終わっていなかったんでありますが、岡山から神戸に帰って来て、中学校を受けると。その後私は一人の姉を、これは空襲直後に、空襲がなければ姉は死んでいなかったと思うんですが、空襲で姉を亡くして、そして終戦になって翌年に今度は母代わりであった祖母を亡くすわけです。それで何故かその時に、あれは中学校の漢文の先生が教えてくれておったんでありますが、「一子出家(いっししゅっけ)すれば九族天(きゅうぞくてん)に生(しょう)ず」という。これはその段階では全く分かりませんでしたが、実は禅問答の一つでもあるんですけどね。それを教科書になくて、黒板に書いて教えてくれておった言葉を、ふと思い出しまして、それでこれはもう自分は出家をして、そして祖母と姉の霊を弔おうということで、岡山の宝福寺の岡田老師に相談に上がったということなんですね。
 
有本:  高校までは地元ですが、大学は大谷大学に進んだわけですね。
 
福島:  大谷大学は東本願寺の真宗系の大学でありますが、「大谷大学へ行け」と薦めて下さったのは柴山全慶(しばやまぜんけい)老師なんであります。
 
有本:  南禅寺(なんぜんじ)の、当時のお師家さんですね。
 
福島:  そうです。丁度私が高校三年の時に、柴山老師が宝福寺に講演でお越しになって、その時に岡田老師が柴山老師に、「来年進学する小僧がおるんだが、仏教の勉強をさせたいのだが、どこが良いだろう」と、こう相談してくれましたら、柴山老師が、「自分も今出講しておるが、大谷大学にしなさい」と。その時柴山老師が、「大谷大学は鈴木大拙(たいせつ)先生の大学でしてね」と。今そういうことでアメリカへ行くという仕事もしていますが、なんだか大谷大学に行っておって良かったなあと思うようなことがあります。それで高校時分に十分時間がなくて、勉強が出来なかったという反動で、大学では非常に学問が面白くなりまして、それで師匠が、「早く専門道場へ行け」と言われたんですが、特にお願いして、大学に進学をさせて貰った。その時に師匠との約束がありまして、「それじゃ、大学へは修士課程が二年、博士課程が三年、大学院に五年おったら、それから後は専門道場へ行けよ」という、はっきり約束をしました。私は高校三年の時に、柴山全慶老師にお会いして、それまでは岡田老師が、私にとっては唯一優れた禅僧であったわけでありますが、その岡田老師が非常に尊敬なさる柴山老師にお目にかかったら、全く岡田老師とはタイプの違うお師家さんでありまして、その頃から将来自分は修行にいく時には、柴山全慶老師の元で修行させて頂こうと、こう決めておりましたから、大学院を終わりまして、南禅寺の専門道場へ入るということになりました。
 
有本 そうですか。管長さんであると同時に、お師家さんでもいらっしゃるわけですが、この東福寺のお師家さんに迎えられたのが、昭和五十五年でございましたか。
 
福島:  はい。
 
有本:  私達は「お師家さん、お師家さん」と、こうお呼びするんですが、この師家の資格というのはどんなものなんですか。
 
福島:  これは先ず専門道場でお師匠さんに付いて修行をするということが必要条件として要るわけですね。臨済宗(りんざいしゅう)の方では禅問答ということをしますが、禅問答は伝統的には千七百、それでいわゆる sub-questions を入れますと、三千からになるわけでありますが、それを専門道場で終わるということが、先ず第一の条件なんです。これは個人差がありますが、大体十年から十五年かかるわけですね。そしてそこで直ぐ師匠は修行が終わったからと言って、師家にはしないわけで、それからは師匠の元を離れまして、どっかの寺の和尚になるか、副住職になるかして、さらに自分で境地を磨いていくという修行をします。専門用語ではこれを「悟後(ごご)の修行(しゅぎょう)」と、「悟りの後の修行」と。つまり特別の修行ということですね。これは非常に大事で、柴山老師は、「悟後の修行」のことを非常に喧(やかま)しく言われた人であります。その師匠の元を離れて、道場を離れて、「修行は何が目的だ」と言ったら、「人格形成だ」と。「宗教的人格を形成せないかん」「それがないものがどうして師家になれるか」と、こういうことであります。だから「悟後の修行で宗教的人格を作りあげて、それで初めて一人の師家が出来る」と。だから〈道場で最初の修行が必要条件〉であれば、〈悟後の修行は十分条件〉と言いますかね。必要十分条件を満たして、一人の師家が出来上がる、ということですね。実際には、私は柴山老師の元での修行が終わりまして、岡山の宝福寺の副住職で戻ります。副住職を八年務めてから、東福寺の師家に迎えられたんでありますけど、八年が自分にとっては悟後の修行の時間であったと考えるわけであります。一般の人は「師家(しけ)」では分からないことがあるんですね。師家というのはどういうことかなあとか。これは「師匠」の「師」という字と、「家」という字を書いて、「しか」と読まずに、「しけ」と読むんでありますが、つまりそういうことで、修行を終わったものが専門道場の、つまり雲水を指導するお師匠さんになる。それが師家という職業でありましてね。こうして道場ではもう二十四時間、共同生活で修行僧を教育していくわけであります。世間に出てお話をしたりということもよくあります。これは岡田老師もそうであったし、柴山老師もそうでありましたから、教えに倣(なら)って、自分も機会があれば、そういうことをしておるんでありますがね。
 
有本:  二十一世紀目前にしておりますが、現代人をご覧になりまして、「自己を見つめ る」その点で言えば、管長さんの目からはどんなふうに、現代が、或いは現代人が映るんでございますか。「自分は何なんだろう」と。現代という忙しさもございましょうし、或いは「暇もありませんよ」と、或いは、「そんなことを今更」、いろんなことをおっしゃる方がいらっしゃるんでしょうけど、ほんとに必死で、自分に自分を問う姿勢が現代人にはないということでしょうか。
 
福島:  特に現代人を見ますと、これは例のイギリスの歴史学者トインビー(Arnold Joseph Toynbee:イギリスの歴史家。独自の史観で世界諸文明の興亡の一般法則を体系づけた。主著「歴史の研究」。1889ー1975)が言ったことでありますが、「現代人 は何でも知っておるが、自己を知らない」と。これは、蓋し名言ですよね。その「自己とは一体何だ」ということを、一度は問うてみなければいかんと思いますね。特に戦後日本が急速に経済成長をしまして、それで非常に豊かになった。そういうことが一番根本原因かも分からないですね。どう言いますか、生まれたらそこに豊かな国、日本があったということで、「自己を問う」とかというような方向でなくても、大体みんなと同じようなことをしておればいけるぞと、いうような安易な気持ちがあって、自己を厳しく見つめるんだとか、というような努力が減ってきたと考えられると思いますね。そういうことが、例えば現代の日本を考えると、あり余るものの中で、心は虚しく病気だというように言われる。そういう〈自己喪失の現代人がある〉と言わねばならんと思いますね。それから自己喪失でありますから、つまり、〈没個性と言いますか、個性が無くなってきておるというようなことがあって、人がやるから自分もやるよ〉というようなところがある。だから〈主体性を失っておる〉というようなことがあると思いますね。
 
有本:  二月の初旬からアメリカへいらっしゃる。ですからこの放送の段階ではアメリカにいらっしゃるわけですが、外国の方、或いはアメリカ人と接して、アメリカ人なり、外国人が自己を問うという点で言えば如何なんでございますか。
 
福島:  一九八九年から毎年アメリカへ行く。行く大学も非常に増えまして、今年、実は二ヶ月で二十の大学を廻って来るわけであります。私はアメリカ人が非常に〈日本仏教と言うと禅〉というふうに思ってしまっている人がおるんであります。この「自己を問う」ということは、やはり禅に関心を持っておるアメリカ人は、なかなかそれは日本人が驚く程、自己を見つめようと思っておる。だからそういう点では、禅に、初めは本を読むというようなところから始まるんでありますが、坐禅をし出す。そして五年も十年も坐禅したものは、禅問答をしたがるということであります。非常に熱心で、年一回のアメリカでの坐禅会だけでは満足出来ずに、道場の一週間の大接心(だいせっしん)という修行に、アメリカから飛行機で飛んで来て、参加なさるという人もおるわけであります。ですからアメリカ人全体の傾向としてはまだまだ分からないことがありますが、少なくとも、仏教、特に禅に興味を覚え、その修行をしている人達は非常に鋭く自己を見つめておると、こういうことが言います。宗教学の学生さんが四回生になって、もう卒業していくという間際のことなんでありますが、私の公開講演の後の質問で、彼は熱心な学生でありましたが、一番に手を挙げまして、その質問は「何故人間に宗教が必要ですか」と。これは私は彼をよく知っていましたから、誤解せずに済むんでありますが、あまり知らなかったら、「宗教学で四年もきた学生が、卒業する間際に、何ということを聞くか」と言いたくなるような問いなんでありますが、彼は既に自分なりに結論を持っておって、カソリックの神父になるということを決めておった男でありますから、人間にとって宗教が必要だということは十分解っておるんですが、それを卒業に当たって、私に問うて見たかったのだと思いますね。そういうわけで、私は先ず聴衆に、「この問いは非常にいい問いだ。人生のどっかで人間というのは この問いを持たねばならない。そしてその問いを持つことによって、自分と宗教との接点が出来るんだ」と。こういう問いが出てくるというのは、彼が真剣に、「自己は如何にあるべきか」それを考えておったからですね。
 
有本:  成る程。
 
福島:  そしてこれは答えの方が実は極めて簡単で、「何故人間に宗教が必要だか」と言えば、「人間はそもそも反宗教的だからだ」と。だからそれがなかなか気が付いていないということは、自己を見る目がないということですね。何らかのきっかけで見つめるということ、自己に問うということをすれば、「そんな反宗教的な人間ではいかんじゃないか」ということに気が付くということもあるわけですけどね。これは世の東西を問わず、人間にとって極めて大事な問いでありますね。
 
有本:  仏教全体の中で、自己を見つめる、そういう教え、聖句みたいなものはあるんでございますか。
 
福島:  それは『法句経(ほっくきょう)』にいいのがありますね。
 
     おのれこそ
     おのれのよるべ
     おのれを措(お)きて
     誰(たれ)によるべぞ
     よくととのえし
     おのれにこそ
     まことえがたき
     よるべをぞ獲(え)ん
        (『法句経』一六0)
 
こういう一句があります。これは〈自分を頼りにせよ〉と。こういうことですね。禅でも臨済禅師(りんざいぜんじ)の言葉に、
 
     處作主(ずいしょにしゅとなれば) 立處皆真(りっしょみなしんなり)
 
という言葉がありますが、「随(ずいしょ)というのは、〈どこでも〉ということでありますが、同時に〈随時〉でもありまして、〈いつでも〉と、こう言うんであります。〈いつでも主体性を持て〉と。問題は「主体たる自分は何だ」ということが、仏教も、禅も教えたいところであります。まさにこの『法句経』はそういうことで、〈自分をこそ頼りにせないけないぞ〉と。こういうことですね。それでこの中では、「よく調えし己にこそ」と。「よく調える」と言う。つまり〈調整の出来た自分〉と言うことですね。これが現代人はどうでしょうね。乗っておる車の調整は毎日でもやるけれども、その運転をする自分自身の調整は、していないじゃないかと。例えば飲酒運転なんかは、その典型的な例でありますね。「よく調えし己」というところは、非常に大事でありますね。私は中国に古い考え方で、「性善説」〈人間は本来善だよ〉と。「性悪説」〈人間は本来悪だよ〉という、二つの説がありますが、どちらとも、私は真理だと思うんです。人間というのは〈一個の自分の中に、善い自分と、悪い自分が同居している〉と、こう思って貰ったらいいですね。善い自分と悪い自分が同居しておると言うと、それじゃ五十、五十で、半分は悪い自分だからちょっと悪いことをやってもいいのかというような考えを持つとすれば、それは極めて次元の低い話でありましてね。気を付けないと、悪い自分が頭を擡(もた)げるということで、結局善い自分を中心にして、だから、「よるべになるべき、よく調えられた己」というのは、〈善い自分〉ということですね。〈善い自分が悪い自分をちゃんとコントロールしていけるという生き方をしなければならん〉。だからお経はなかなかいいことを教えてくれておると、こう思うんですね。
 
有本:  自分を調整、調整した自分ということですね。
 
福島:  近代というのは、私は〈人間尊重〉ということなり、それから〈自我の確立〉というようなことを、非常に喧しく言うてきましたね。これは近代史等の特徴だと言ってもいいんですが、「人間とは何か」とか、「自分とは何か」とか、そういう基本的な解明のない限り、実は〈人間尊重〉を言うても、〈自我の確立〉を言うても、何か無意味な気がするわけであります。ですからこの『法句経』の教える、「よく調えられた自分、調整された自分」、〈一体どうだ〉と、そのところを〈よく自分に問うて、先ず自分が調整出来るのかどうか〉と、問わなければいかんし、そして〈調整していくんだが、調整した自分は善い自分だが、善い自分とは一体何か〉ということを見極めないかんと思います。仏教というのは、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の教えというので、仏教です。同時にその内容は、〈みんなが仏さんでありますよ。仏さんになれますよ〉ということを教えておる宗教だというので、仏教なんですね。これは長い仏教の伝統の中で、定着してしまったところなんですが、「仏になる」とこういいますと、〈死んで仏になる〉と思っておる人が多いんですね。
 
有本:  そうですね。
 
福島:  そうじゃなしに、勿論仏教を信じておる仏教徒は、〈死んだらみんな仏〉なんでありますが、〈生きとるうちにこそ仏〉にならなければいかん。だから〈死んでなる仏、死物〉に対して、〈生きておる間になる仏、生仏(しょうぶつ)〉これこそ仏教は第一に説きたいわけでありますね。その「仏さんというのは一体何だ」と。「仏」という言葉では、若い人が〈古くさい〉とこう思ってしまいますので、もっと現代人に向くように説明するとすれば、まさにこの『法句経』の、「よく調えし自分、よりよき自分」それが済むと、〈完成された人格者。それが仏〉ということの内容なわけで、その点については禅は禅で、また教えがあるということになってきますがね。
 
有本:  具体的には、僧堂で沢山の雲水さんに自己を説いていらっしゃると思うんですが、じゃ、禅では自己をどんなふうに具体的に説いていらっしゃるわけですか。
 
福島:  これも一つ分かり易いと言うか、適切な教えを例に出しますと、『無門(むもん)関(かん)』(宋の無門慧開が古人の公案四十八則を指評したもの)という基本的な語録がありましてね。その中に二十三則でありますが、六祖、慧能(えのう)(慧能大鑑(えのうだいかん)禅師)さんの物語でありますが、これは六祖というのは、達磨(だるま)さんから六代目の慧能(えのう)さんという禅僧なんでありますが、お師匠さんは五祖、弘忍(ぐにん)(弘忍大満(ぐにんだいまん)禅師)という人でありますが、それで五祖弘忍の門下には大勢の優れた弟子がおるんでありますが、実は五祖弘忍があるテストをしまして、それに見事に慧能は通りまして、慧能はその段階ではまだ剃髪をしていない。髪を伸ばしておる。これは「行者(あんじゃ)」と言いますけどね。行者なんでありますが、お師匠の弘忍は慧能の力を認めて、法の象徴である「衣鉢(いはつ)」衣(ころも)と鉢(はつ)ですね。托鉢の時に使う鉢。それを慧能に渡すわけであります。そして他の先輩が沢山おりますから、「これを持って郷里の広東(かんとん)の方へ、南 の方へ帰れ」と言って、五祖弘忍がそっと逃がしてやるわけですね。その先輩の中に明上座(みょうじょうざ)(神秀大師(じんしゅうだいし))という人がおりまして、この人は元武将(ぶしょう)だったという剛(ごう)の者なんでありますが、その明上座が我々の法の象徴である衣鉢をあんな行者如き者に取られてなるものかというので、追っかけたという話があるんです。それがいわゆる大?嶺(だいゆれい)と言いまして、それを越すともう河南(かなん)になると言う嶺(みね)がありますが、そこで明上座が追い付きまして、それで「衣鉢を返せ」ということを言うんであります。六祖慧能は衣鉢を岩の上に置いて、「持っていきたければ、持っていけ」と言うんでありますが、実は手がだせなかったわけです。明上座がね。明上座も真剣に修行しておりましたから、分かるところがあるんでしょうけど、その時に明上座が六祖慧能に、「自分はこんな形の衣鉢だけを追ってきたんじゃないんだ」と。つまり、「法の神髄を求めておるんだ」ということで、六祖への教えを 乞うわけでありますね。まだ行者であった慧能さん、つまり六祖にまだなっていないわけでありますが、その慧能さんがそこで一つの教えを説くんであります。ですからこれは六祖慧能の最初の説法と言えるわけでありますけどね。それは有名な下りでありまして、
 
     不思善(ふしぜん)、不思悪(ふしあく)
     正与(しょうよも)の時、
     那箇(なこ)か是(こ)れ
     明上座(みょうじょうざ)が本来の面目(めんもく)
        (『無門関』第二十三則)
 
こう言うんですね。「不思善、不思悪」〈善も思うな、悪も思うな〉。その時に「明上座、お前さん自身の本来の面目、真実の自己とは一体何だ」と、こういう説法です。成る程、表現は問いの形になっておりますけど、これは見事な説法。問いの形の見事な説法でありまして、明上座は実はこの一句で、大悟徹底(たいごてってい)しておりますね。それではこの六祖の一句のどこが眼目だと言えば、「不思善、不思悪」というところ。〈善も思うな、悪も思うな〉と言うところですね。これは禅という宗教は〈二元を超える、超二元(ちょうにげん)を教える宗教だ〉と、こう言ってもいいんですね。普通我々は知性を頼りに生きて来ておるわけでありますが、〈知性的に理解するものは、みな二元的対立概念〉なんですね。そして現実のありようを考えても、みんな二元的対立なんであります。ここにいう「善」と「悪」もそうでありますが、もっと具体的なところでは、「暑い」と「寒い」があります。「強い」と「弱い」 があります。「大きい」と「小さい」があります。「愛」と「憎しみ」があります。それから「肯定」と「否定」があると、こう言ってもいいですし、「有」と「無」と、つまり「存在」と「非存在」があると言っても。それから、「自」と「他」。「自分」と「他人」。これは「自」と「他」であって、自分と他人という単なる人間関係だけでなしに、私が一杯のお茶を飲むとしたら、その時「自分」と「湯飲み」、〈湯飲みは他〉になるわけでありますね。そういうことで「自」と「他」という対立がある。それから「生」と「死」という対立がある。みんな現実の世界は、二元的対立で成立をしておる。それを〈超えろ〉と、禅は教えるんです。これは禅の難しい部分だと言えば、難しい部分でありますが、これを理解して貰えると、難しいと思われておる禅が、非常に分かり易くなるんであります。
 
有本:  今のご説明で二元的「善」と「悪」、或いは「高い」と「低い」、「善い」と「悪い」というふうなことで言えば、二元的に考えることは、ごく一般的で、悪いことでも何でもない。しかし、そこに止(とど)まっていてはいけない。それを超える超二元(ちょうにげん)ということなんですかね。
 
福島:  はい。それとやっぱり、成る程現代人は随分知性化していまして、現代人はおしなべて知性人だと、こう言ってもいいわけでありますが、二元的な対立の理解で止まればいいんでありますが、「自」と「他」がいい例でありまして、つい自分に都合のいいように、解釈というものが出来てきて、そこに「執着」が生まれるんですね。だからその〈執着を取りたい〉んですよ。禅という宗教は。だから「二元の対立を超えろ」ということは、実は〈無執着の生き方をせよ〉と。最終的にはね。そういうことまで説きたいわけであります。これは少し説明を入れますと、二元的なさまざまな対立の中で、根元的なものはと、こう言えば、今言う、〈「自」と「他」。それから「生」と「死」〉ということでありますね。ですから〈自分を無にしていけば、もうそこで「自」と「他」の対立は無くなってしまいます〉。だからここで〈自分を無にする〉という考え方が出てくるんでありますが、これがまさに〈禅の根本的な教え〉でありまして、ですから禅は「無の宗教だ」と言われるんでありますが、それは〈自分を無にするということを教える宗教だ〉と、こういうことであって、六祖慧能さんのこの「不思善不思悪」ということは、実は〈自分を無にせよ〉と、〈無の自分になれ〉ということを教えておるということです。ですから「不思善不思悪」は、まさに簡単明瞭な一句でありますけど、それで禅の根本的な教えを説いておったと。だから明上座がその一句で大悟(たいご)するということになると、こういうことでありますね。ですからここで考え方としては、〈超二元ということから、自分が無になる〉という考え方に進むわけでありますが、同時に私は、宗教というのはどの宗教でも、実は〈それを信ずるものに一つの生き方を教えるもの〉でないといかんと。これは仏教も当然そうでありまして ね。そういう点ではもう一つの二元的な対立の根元である「生」と「死」ということもよく考えてみなければいかんと、こう思うんですね。これは実は「生と死」を一つのテーマにして、まだ一時間話さなければいかんという程の大きなテーマだと思いますが、今簡単に言いますと、「生」と「死」という対立も超二元という考え方からしたら、「超えなさい」と言うんですね。それはつまり〈生死(しょうじ)の対立のない生き方をせよ〉ということでありますから、これを仏教者は「無生死の生き方」とか、「生死のない生き方」とか、そういうことを言いますが、つまりこれは〈生きる時には精一杯生きよぞ〉と。〈死ぬ時には精一杯死のうぞ〉という教えなんですね。それは自分が生と死を超えた立場におりますから、〈生きる時には精一杯生きよう。死ぬ時には精一杯死のう〉。これは禅では特に「無心(むしん)」という表現を使って、「無心の生(しょう)、生きること」。「無心の死ぬこと」というような言い方もするんでありますけどもね。精一杯生きることです。これは、そして同じ対立でも、暑い寒いは、丁度日本だったら四季ある国で、三ヶ月寒くて、三ヶ月暑いと。言ってみたら、fifty fifty ですね。ところが生と死は fifty fifty といきませんよね。
 
有本:  そうですね。
 
福島:  だからと言って、死がないというわけじゃない。今生きておるということは、やがて死ぬわけでありますけれども、現実には〈全部生〉なんですよ。〈生きる〉です。仮に人生百としますと、99.999 まで生ですよ。最後の 0.001 が死なんです。だから〈死というのは人生の最後の訪れる一点であって、ほんとは死のことを考える必要ない〉んです。増して死は向こうからやって来るわけでありまして、どんな予約も効きませんしね。そういうことである日突然死の方が向こうからやって来るんでありまして、そのことは〈向こう任せ〉にしておいたらいいんですよ。だから〈死に出会う一瞬まで、生を精一杯に生きる〉ということであればいいと。こういうことで、ですから〈生き死ぬを超えて生きなさいよ〉と教える禅は、実は〈無心の生(しょう)を生きよ〉と。〈無心の死を死んでいこう〉と言うんでありますが、実は〈生きる方が中心であって、死ぬ覚悟はいらんわけで、むしろ生きる覚悟こそ持っておらねばならん〉と。〈精一杯生きた者が、実は死が訪れた時に精一杯死んでいける〉んです。それが本当の大往生だと思いますね。だから実は「生き死に」という対立を取り出して、そこで「生き死に」を超えた生き方をしようぞということを、このように考えますと、禅がどのような生死観(しょうじかん)を持っておるか、どのような人生観を持っておるか、ということが明白に分かるわけです。
 
有本:  成る程。
 
福島:  兎に角、精一杯生きようと、こういうことですね。だから道場ではよく修行僧に「坐禅をする時には、精一杯坐禅をやりなさい」。つまり、「坐禅三昧(ざんまい)になりなさい」。「食事をする時には、食事三昧になりなさい」「托鉢に出たら、托鉢三昧に なりなさい」ということを言うんでありますが、つまり〈徹底せよ〉と、こういうことなんですね。一時一生で、いま自分が何をやるかということに徹底して打ち込んでいくということが出来ればいいと、こういうことですね。これはそういうものを全部総合しても分かるんですが、〈自分が無になるというのは、そういう生き方が出来るか出来ないか〉ということなんですね。人間というのは極めてエゴイスチック(egoistic)な生き物でありましてね。エゴが強いんですよ。仏教ではこれを「我見(がけん)」、「我」の「見る」と書いて、「我見」と言いますが、或いは「我執(がしゅう)」と言いますね。「執着(しゅうじゃく)」の「執」で。つまり「我見」「我執」というの は、「自分が」「私が」「我が」と、こう言って、地球が自分中心で回っておるかのように思う人間が、時には「私はそうでないですよ」と、こう言うけれども、無意識のうちにそうなっておる人だって多いわけでありましてね。先程言いました、「人間はそもそも反宗教的だよ」と。反宗教的な内容は、そういう〈エゴの一杯ある人間。我見の強い人間。我執の強い人間〉それが反宗教的なんです。〈自分が無になるというのは、そのエゴを切ること。我見を切ること。我執を切ること〉。しかもそれを先程言われた徹底的にやろう、ということなんですね。ですから「無の自分」ということは、仏教には「無我(むが)」という教えがありますが、これは〈自分が無くなってしまうということではなしに、生きておる間は自分はあるわけで、その自分を無の状態にして置く〉ということ。「無我」は「無の我(われ)」とこう呼んだら分かり易いと思いますね。それから特に禅は「無心(むしん)」を使って、「無の自分」というのは〈無心の自己だ〉という教えをするわけでありますね。そういうことで、「無心」の説明が要るわけでありますが、やっぱり幾ら無心を説いても、頭で無心を考えておるんではいかんのですね。無心になるということがないといかん。これは特に禅は何も知性的な追求を否定するわけでもありません。学問もしっかりやらすわけでありますが、道場では実は学的な追求をやらさずに、「成る」という体験の修行をやらすわけでありますがね。「成る」ということが大事なんです。禅の文献の中で、「見る」とか、「聞く」とか、「知る」とかという表現が出てきたら、「成る」と読んだら、非常に禅が理解し易い。成るんですよ。例えば、山を見て、「ああ美しい」と言うんですが、実は「美しい」と言うている 時には、〈自分は山になっておらなければいかん〉。そういう〈成るという体験の重要さ〉でありますが、「無心の自己」というのは、単に概念でなしに、自分が無心の自己になっていくという重要な部分があるんですがね。一つ例を出しますと、「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」という言葉がありますね。「見性」というのは「性を見る」と書いてありまして、「性とは何だ」と言えば、〈自分の本性(ほんしょう)〉。これは「仏性(ぶっしょう)」とも言いますが、〈自分はそもそも仏性ある仏さんだよという本性〉ですね。それを「見る」と書いてあるわけですが、この「見る」は「成る」でないといかん。だから、「仏性を見る」「仏さんとしての本性を見る」ということは、「仏さんとしての本性に成る」ということでありますから、「見性は仏さんに成る」。つまり、「見性成仏」と、二つの字句を合わせますけれども、実は「見性」と「成仏」は一つのことだと、こういうことでありますね。「成る」ということは非常に大事です。禅僧は、だから修行の初めから、そういうことを修行僧に教えるわけであります。山を眺めて、「ああ、美しい山だ」と言う時には、山になっておるんであります。それが禅体験でしょうね。ところがアメリカでもその話をすると、哲学をしっかりやっておる学生さんは、「そこのところがわからん」と。「君はどう理解するんだ」と、こう言ったら、「いや、山を見る自分、つまり主体性があって、見られる客体があって、見る行為があって、美しいという感動が成立する」と。それは全く禅ではないんですね。日本語だったら、冗談にでもなるような話で、「それは全然禅ではないよ」と、こう言いたくなるところでありますがね。実はそうではなしに、山を見て、「ああ、美しい山だなあ」と言う時には、〈自分と山とが一体になっておる〉わけで。それはどこまでも〈自分の方が元であって、自分が山になっておる〉わけでありますね。この体験を、実は禅は非常に大事にするわけであります。
 
有本:  山と一体になっている時は、まさに無の自己。
 
福島:  そうですよ。だからその禅想観では、「無い自分が山を見ておる」とか、「無い自分が山になった」とか、論理的には可笑しいことを言うておる。だから哲学者は困ると思いますけれども、禅僧はそれで納得がいくわけで、〈自分が無だから、山になれる〉と。川の側を歩いて、せせらぎを聞いておれば、自分が川になっておる、ということです。
 
有本:  先程、雲水さんから入れて頂いたこのお茶を頂戴しますと、水道の水では無いだろうし、程良くこの温度も、「美味しいお茶だなあ」と、ほんとに思うんですね。この美味しいお茶を頂戴した時は、まさに有本という個人はどっかに行って、無の境地と言うか、この美味しいということに、頂いたお茶は美味しいということに、大きな意味があるんですね。
 
福島:  そこのところをちょっと説明させて貰うと、有本が無くなるんじゃないんです。有本はどこまでもないといかんのです。
 
有本:  ああ、そうですか。
 
福島:  ところが有本がお茶になっておるわけで。
 
有本:  ああ、成る程。
 
福島:  そういうことでいいんじゃありませんか。
 
有本:  私が眺めている山が、
 
福島:  有本が山になるんです。ところがさっきの哲学青年の理解のように、〈有本という自分があって、見られる山があって〉と、そういう〈対立観念のある間は、成れない〉ということです。
 
有本:  まだまだ修行が足りません。
 
福島:  いやいや、そんなことありませんけども、empty mind という訳があるように、「無心は空っぽの心だ」ということは、これは当たっておるんです。〈自分の心が空っぽだから、何にでも自由に対応出来る〉〈何でも自由に受け入れる〉と。そういう〈自由さ〉が出来てくるんです。この「自由」が禅語なんです。元々は、いわゆる中国一般で使われた漢語でしょうけどもね。確か『後漢書(ごかんじょ)』から出てくると思うんですが、随(ずい)、唐(とう)を通ることによって禅僧が頻(しき)りにこの「自由」という表現を使って、遂に禅語となってしまうわけでありますね。だから、そもそも中国の言葉である「自由」を、我々日本人が送り仮名を付けて読むとすれば、「自(みすか)らに由(よ)る」、または「自(みすか)ら由(よ)る」と、読んだらいい。「由る」は、先程の『法句経』じゃありませんが、「よるべにする」ということですね。「寄り掛かる」「依存する」ということであります。だから、「自分に依存する」「自分に寄り掛かる」ということなんですね。ここで誤解があってはいかんのは、これが「禅語ですよ」「仏教 用語ですよ」、広く言えば「仏教用語ですよ」という大前提があるわけで、それでは、「どういう自分に寄り掛かるか」と言えば、それが〈無の自分〉なんです。〈エゴのない自分〉なんです。〈無心の自己〉なんです。だからほんとに〈自由性が出てくる〉わけであって、そういう点では、実は禅が説く理想の生き方というのは、「無心の自己の自由なひぐらし」とこう言えばいい。「無心の自己の自由なひぐらし」。それが禅の説く理想的な生き方であって、禅は悟りを説きますが、つまりそういう〈無心の自己の自由なひぐらし。それがそのまま悟りの生活だ〉と、こういうことになるわけですね。だから「自分のエゴを切っていく」「我を押さえていく」というと、消極的なように思いますけれども、そうじゃないんです。実は〈自分の我を押さえれば押さえる程、何にでも自由に対応出来るという積極性が出てくる〉わけでありますね。ここで、一つ言うて置かねばならんのは、「無の自己を 自覚するか、しないか」。だから〈自分が無になる〉ということ。〈無の自分になる〉ということは、実は頭で考えるだけでなしに、〈自分は無の自己になったぞ。無の自己で生きるぞと、いう自覚〉でありましてね。だから、そういう点では、禅を含んで仏教は、「覚悟(かくご)」という言葉、あれは仏教用語ですけども、〈自覚を説く宗教〉でもあるんですよ。そこで、〈自覚だから当然成るという体験が問題〉になってきますね。〈人がなんぼ成っても、それは人の自覚であり、人の体験〉でありましてね。「体験」というのは極めて「自分的な」ものですね。「自分が成るか、成ならんか」と。「自分が体験するか、しないか」でありまして。それが言うてみたら、〈修行の内容〉でもあるわけです。「修行」とは「自覚をするか、しないか」ということですね。しかしこれとしては、修行僧達に修行という表現でいいんでありますが、一般の人には、何だか修行という言葉を使っていますと、「いやいや、それはお坊さんの専売特許だ」ぐらいに、思ってしまわれる人がおるんですがね。「修行」は努力という意味ですよ。だから一般の人だって、そういうことで、自分のエゴを殺していこうと、〈エゴを切っていこうという努力〉を、やっぱり続けて貰わないかん。しかもそれは一大の課題かも分かりませんね。
 
有本:  そうですね。今おっしゃるように専門道場で坐禅をしながら、お師家さんに指導して頂く。「やっぱり高次元のもので、我々とは違うんだよ」「超二元などと言っても、我々はちょっと理解し得ないし、あれはやっぱり専門の道場で」というふうなことを、私も言いたくなりますし、世間の方も、これは今おっしゃるように大変な誤解である。努力だと。
 
福島:  誤解ですね。努力ですね。そういう点では、私はアメリカでの指導をしておりまして、感じるんですが、日本というのは、つまり日本の禅の社会を考えますと、禅寺があって、多くの禅僧がおって、そしてその禅を信ずる在家の人がおって、というような構成になっておりますね。ところがそこで在家の人達は、「いやい や、悟るということは、お坊さんが特別にやることで、特別な世界だ」と、こう思ってしまう誤解が生まれたわけであります。アメリカの禅の society を考えますと、別に禅寺があったわけじゃないでしょう。やっと禅センターがあるだけですね。それから禅僧がおったわけじゃありませんね。みんな言うてみたら、在家の人でしょう。ですからそういう点では、その誤解が少なくって、むしろ逆に、日本のお坊さんが悟ったんだから、私も悟れる。私も悟れる、というように理解してくれておるという点もありますね。それから、今言われるように、自分が無になっていくという努力をしておると、自分のエゴを切っていくという、自分の我見を押さえていくという努力なんで、精神的な努力ということ。これが不思議なことに、〈自分のエゴをドンドンドンドン切っていきますと、今度は心の深いところから、周りの人のことを思わずにはおれない、という気分が湧いてくる〉と言った表現がいいと思うんですがね。それを仏教では「慈悲(じひ)」と言いますね。「慈悲心(じひしん)」と言いますね。よく言えば、「宗教的な愛」でしょうね。これはだから理屈としては説明がつかんので、理屈で言うんなら、これは〈不思議の世界だというより仕方がない〉んですね。私は宗教というのは、ある部分不思議なところがあっていいと思う。体験的には、その不思議なところが、〈説明はつかんけれども、こう自分は体験したというところがある〉わけで、〈自分が無になってみたら、「ああ、そうか」と、心の底からこういう慈悲心が湧いてきたじゃないかと、いうところを体験する〉わけでありましてね。だから自己に問うわけでありますが、自分はどういう自分でいったらいいかと。無の自分にならないかん、自分のエゴを押さえねばいかん、という努力を続けておれば、非常にそういう〈慈悲心が湧いてきて、それは言うてみたら、宗教的な自分になっていっておる〉という。「宗教的な人格」というのは、そこを言うわけでありまして、これは非常に大事でしょうね。そうして、ちょっと日本と世界ということを考えれば、日本は非常に豊かになりまして、何だか日本だけ良かったらいいや、というような考えもあるんでありますが、どうしてもこれは周りのことを思わねばならんと。自分の国だけが平和で繁栄して、それでいいよということではなしに、世界のどの国もが、平和で繁栄するようにと、こういう願いを持たねばいかんというのが、二十一世紀だと思いますがね。それに向かって禅も含んで、仏教は実はそこにあるものは慈悲心ですよと。これは私はどの宗教でも、最終的には宗教的な愛の世界へでなければいかんと。慈悲心が湧いてこなければいかんと。それがないとウソでありまして、だから逆な言い方をしたら、〈宗教的な愛を、慈悲を最終目的にしないものは、本物の宗教じゃない〉と。こういう言い方も出来るわけでありますね。先程も言いました臨済禅師の言葉で、
 
     處作主(ずいしょにしゅとなれば) 立處皆真(りっしょみなしんなり)
 
というのは、〈何時でもどこでも、自分が主体性を持てば、主人公になれば、立てば立ったところ、坐れば坐ったところ、いつでもどこでも、全てのものが真実に輝く〉という教えなんでありますけれどもね。まさに「自己に問う」ということは、自分が主人公になっていくということなんですね。そこで少し勉強しておいて貰わないかんのは、〈主人公になるからと言って、勝手気ままな行為じゃない〉。主人公の内容は、主体性の内容は、〈無の自分〉ということですね。〈エゴのない自分〉ということだから、周りとも、実は上手くいく主人公。〈勝手気ままな主人公じゃなしに、周りからも愛される主人公だ〉と、こういうことですね。
 
有本:  みな禅寺にお邪魔致しますと、よく玄関によく「照顧脚下(しょうこきゃっか)」という四つの文字を拝見致しまして、これは勿論「足下をしっかり見なさい」ということは、無の自己に如何に早く到達をするかという、そういう問いでも、なるやに、今、ふと思ったんでありますが。
 
福島:  全くそうでありまして、「照顧脚下(しょうこきゃっか)」というのは、禅語の一つでありますが、これは鎌倉時代の三光国師(さんこうこくし)(孤峰覚明(こほうかくみょう))という方の言葉なんですね。その三光国師さんに、一人の修行僧が、「如何なるか是れ祖師西来意(せいらいい)」と、こういう問いを出すんです。「祖師」というのは達磨さんのこと。「西来意」というのは西の方、インドから中国へ来た意志は、意味は何かと。こういう問いなんです。それはつまり「禅とは何か」ということなんでありますね。それに対して、三光国師がただ一言、「照顧脚下」とこう答える。つまりそれは表現から言えば、自分の足下でありますが、「それは自己を見よ」ということでありまして、つまり禅が尤も言いたいのは〈自分を先ず見なければいかんじゃないか〉。そうして〈自分をエゴのない無の自己へ改革していかなければならんじゃないか〉と。こういうことであります。だから「随所に主となる」という言葉も大事でありますが、「照顧脚下」というのは、現代人が大いに勉強して貰わないかん警鐘のような一句であるかも分かりませんね。そういうことで、この「照顧脚下」の教えというのは、ある意味では、現代人に共通した課題であるかも分からないと思います。ただ現代日本人が二十一世紀に向かって、この辺で一回じっくり腰を据えて、そして「照顧脚下する」と。真剣に「自己に問う」ということを、やって頂きたいと、我々禅僧はそう願うわけです。
 
有本:  どうも有り難うございました。
 
福島:  有り難うございました。
 
 
     これは、平成十年二月八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。