いのち無限ー空海に魅せられてー
 
                         哲学者       梅 原 猛(たけし)
大正14年愛知県生まれ。昭和23年京大哲学科卒業。京都帝大入学後、学徒出陣。戦後復学。立命館大学教授を経て、昭和47年京都市立芸術大学教授となり、49年学長に就任。昭和62年に国立国際日本文化研究センターを開設、初代所長となり、平成7年退官。平成9年日本ペンクラブ会長に就任。平成13年開校の市立”ものつくり大学”総長に就任。この間、「隠された十字架・法隆寺論」「水底の歌柿本人麿論」などを通して、文学・歴史・宗教に次々と大胆な仮説を提起し、”梅原古代学”を確立。近年はアイヌ、沖縄の縄文文化の原型をみて、日本文化の深層を探る日本文化論を展開。著書に、「仏像」「地獄の思想」「親鸞―その人を思想」「空海の人生と思想」「日本文化論」法然の哀しみ」「写楽―仮名の悲劇」他多数。
                  国際日本文化研究センター教授   頼 富(よりとみ)  本 宏(もとひろ)
昭和20年生まれ。京大卒業後、種智院大学講師を経て、教授に。文学博士。今春から国際日本文化研究センター教授。密教のマンダラの研究と調査に活躍。
 
ナレーター: 弘法大師空海は西暦七七四年に讃岐で生まれております。父は佐伯氏、母は阿刀(あと)氏の出身と言われております。十五歳の時、都に登りまして、大学に入学致しますが、その頃一人の僧に出合ったのが縁で、空海は仏教の修行を始めております。三十一歳で留学の僧となり、唐の都、長安に渡るわけでございます。その明くる年、空海は青龍寺(せいりゅうじ)の恵果(けいか)というお坊さまに弟子入りを致します。そこで空海は恵果からインド伝来の密教の大法を直に残らず授かる幸運に恵まれたのでございます。長安滞在凡そ二年で、空海は帰国致しますが、やがて時の嵯峨天皇と親しく交流するようになって参ります。当時の中国から新しい仏教と文化を身に付けて帰ったわけですから、天皇も礼を尽くして、空海を迎えたものと思われます。それでやがて天皇から高野山、更に東寺の土地を賜ることになります。空海の真言宗はここに確立致します。五十五歳の時、空海は都に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開き、国民の教育にも強い関心を示します。また、五十七歳の時には、『秘密曼陀羅(ひみつまんだら)十住心論(じゅうじゅうしんろん)』を表して、密教思想の、いわば総仕上げを致します。こうして空海はその生涯を高野山で閉じました。歳は六十二歳でございました。
 
     空海略年譜
 
     西暦七七四年 讃岐多度郡に生まれる
     (宝亀五年) 父佐伯氏、母阿刀氏の三男
     七八八(一五歳)大学に入学
     七九一(一八歳)以後、阿波・土佐・伊予などで「求聞持法」を練行
     八○四(三一歳)福建より入唐、のち長安に入る
     八○五(三二歳) 恵果に師事、のち伝法阿闍梨位の灌頂を受ける
     八○六(三三歳)帰国
     八○九(三六歳)洛北高雄山寺で初めて鎮護国家の修法を行う
     八一六(四三歳)勅許により高野山を賜う
     八二五(五二歳)東寺講堂建立の勅許あり
     八二七(五四歳)大僧都になる
     八二八(五五歳)京に綜芸種智院開設
     八三○(五七歳)「十住心論」を撰進する
     八三五(六二歳)高野山で入滅
          (承和二年)
 

 
頼富:  頼富でございます。今日は今から千二百年程前の平安時代に真言宗を開きました弘法大師空海の思想と哲学について、哲学者の梅原猛(たけし)さんにお話をして頂きます。梅原先生、宜しくお願い致します。さて、先生は少し以前に体調を損なわれたとお伺い致しておりますが、現在如何でございましょうか。お加減は。
 
梅原:  去年の夏、胃ガンの手術をしまして、発見がもう二月(ふたつき)ほど遅かったら、多分ダメだったかというところでした。前にもそういう腸のガンあったんですけど、二回とも私の感で、「ちょっとおかしいぞ」というので、直ぐ医者に診て貰って、手術を受けて、まあ大体死から甦ったんですよ。甦ると余計なものが取れまして、益々元気になってきたということですね。今やっぱり死の入り口まで行ったら、やっぱりこれは空海の思想だと思いますが、生が甦ってきたというふうに思っております。
 
頼富:  そうでございますか。お元気なご様子で安心した次第でございますけれども、梅原先生には各方面でいろいろご発言頂いておりまして、我々も非常に参考にさせて頂いている次第でございます。今日は特に弘法大師空海の思想と哲学について、承りたいと存じている次第でございます。そこで三十年ほど前かと思いますけれども、梅原先生が、ある意味においては、「空海の再発見」ということをなされました。丁度私もその頃学生でありまして、先生の出されました『生命の海・空海』というご本を、非常に感激して読んだ次第でございます。先生、その空海との最初の出会い、或いはきっかけというのは、どういうことだったのでしょうか。
 
梅原:  あなたは京都大学の哲学科に学ばれたけど、京都大学の哲学科は他の大学と違って、哲学というものは、西洋の哲学を学ぶことばかりではないと。やはり日本の思想、特に仏教の思想の研究も必要であるという態度を西田幾太郎とか、和辻哲郎とか、山内得立(やまのうちとくりゅう)という先生はとって来られた。私もそこで学んだので、そういう東洋の思想、仏教に対する関心はあったんですよ。ところがやはりそこで取り上げられる仏教は、主として禅と浄土。大体言ってみると、道元と親鸞という禅と浄土で、大体、仏教というものを理解していこうという態度だったんです。私もそう思って、哲学を学んだんですけれども、もう一つなんか納得出来なかった。それで西洋の哲学でいろいろやって、行き詰まりもあって、ふとした機会に空海の著書に触れた。それは大変驚きだったですね。こういう仏教もあるのかと。禅と浄土だと、どっちかと言うと、坐禅一筋とか、念仏一筋とか、なんか世界の色が墨絵のような色なんですね。ところが空海の著作を読んで、その説を聞くと、絢爛たる色に光り輝いているんですね。そういう仏教が私はあったのかと思いましたね。私は大変ビックリして、日本の思想にこんな素晴らしいものがあると言うんで、それから日本思想の研究に変わったんですよ。だから、空海というのは、私にとって運命の人でして、今の私の基礎を作った大変学恩ある方なんですよ。私もその空海さんで、学者としての人生を変えたという面もあるんですけど、多少空海さんの為にしたんじゃないかと思うんです。それまでは空海、最澄、平安仏教は貴族仏教で祈祷仏教だと。貴族だけに信仰されて、祈祷だけをやっていると。祈祷というのは大体非科学的というふうにされたんです。非科学的な祈祷で、なんか貴族の機嫌を取った仏教だというふうに大体扱われた。教科書にも、「祈祷仏教、貴族仏教」の一言で片付けられていた。これは祈祷仏教ではない。やっぱり大きな哲学が背後にあって、そしてずうっと民衆まで信仰を広げた仏教ではないかということを言い出したわけですよ。それを読まれて、湯川先生なんか非常に共感されまして、それから司馬(しば)さんの『空海の風景』というのも、そのような新しい風潮の中で生まれた作品ではないかと、私はひそかに考えています。
 
頼富:  そうでございますね。先生をはじめ諸先生方のご紹介で、今まで隠れていた空海という方が世に再評価されたということでございますが、それに止まらず、先生は何かある時期に護摩を焚かれたというようなご経験もあるというふうに承っておりますが、そういう実践と言うか、その辺についてはどういうご印象を持たれましたでしょうか。
 
梅原:  それは宮坂宥勝(ゆうしょう)先生が私の一連の発言に対しまして、高野山へ呼んで頂いて、 「仏教の修行を少しした方がいい」と、護摩を焚いたんです。修行は一端を覗いたのみですけど、私は空海及び密教の思想に大変深い影響を受けたというふうに思いますね。
 
頼富:  そうですか。
 
梅原:  隠れてうつというのは、隠れていることでしょう。隠れているけど、なんか生命の根底を明らかにしていく。私の一連の学問的な姿はやっぱり歴史に隠れた真実を明らかにして、ただ推理小説のような明らかにするのではなくて、生命というものを、生命の深い謎を今に問い続けているという。
これは『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』の最初の言葉です。私は大好きな言葉ですね。
 
     生(う)まれ生まれ
     生まれ生まれて
     生(しょう)の始めに暗く
     死に死に死に死んで
     死の終わりに冥(くら)し
       (『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』より)
 
これは空海ほど生死の姿を明らかにした思想家はないんです。にも関わらず、生死というものはまだよく分からないと。深い謎を含んでいるんじゃないかという。これは私は大好きです。私は字が大変下手でして、あんまり下手なんで、「こんな字を書く人ない」という。「個展をやったらどうだ」なんて言ってくれる人がありまして、やって見たら大変人気があるんです。やってみたんですが、それに書く言葉が、
 
        密なるものの
        語る声は静か
 
と。
 
密なるものというのは、真実隠れた。しかも密というのはものが一杯詰まっている。大日如来の影のようなものですね。それが語っているんだけど、今の騒音の中じゃ聞こえない。静かに語って、静かに語った言葉を聞いて、そしてこれからの人類の生き方を考えなさいというような意味でして、私はもう大好き。自分で作った言葉ですけどね。
 
頼富:  それは本当に含蓄のある言葉でございますね。確かに今は目立つものが全てというような感じがしないわけではございませんが。
 
梅原:  私は目立っている活動をしていると思われるか知りませんけど、しかしそういう目立つものではなくて、本当にそういう情報が来ているんですよ。静かな情報が来ているんですけど、それに気が付かない。現代の人間は。そういう意味で、私は密が大好きですね。私の家は和辻哲郎先生が住んでいた家でしてね。三渓園を作った原三渓さんの番頭さんの古郷(ふるごう)さんという人が作ったんですけどね。和辻さんが居たり、その後に岸田劉生(りゅうせい)のお弟子さんの岡崎桃乞という大変変わった絵描きがいた。その後に私が入って、二十五、六年になりますか、その家にも「密語庵」という名前を付けたんですが。
 
頼富:  それは含蓄があると言うか、そうでございますか。
 
梅原:  そして、初孫にも「密太郎」という名前を付けて、今、空海さんの作った学校(洛南高校)で学んでいるんですよ。
 
頼富:  いやいや、空海さんもそれは感激されていらっしゃると思うんですが。今おっしゃいました先生の密教ということ、それから密ということに関しまして、二つの焦点と申しますか、おっしゃったように、「目立つということ、積極性」と、それからもう一方では「神秘性」と言うか、やはり「内なるもの、その深さ」ということをおっしゃいましたけれども、それと、例えば空海の生涯などを結びつけてお考えの場合に、その辺は如何でございましょうか。
 
梅原:  私は、空海はある意味で言うと、天才的な布教者ですね。親鸞とか日蓮というのは、自分の思想を蓄えた人ですね。むしろ布教者の面は後世の人に任せたようなところがあるんです。空海は天才的な思想家であると同時に、天才的な布教者だと。そして彼はいろんなことが出来た。このいろんなことが出来たというのが、現代人にはちょっと抵抗があるんです。だから、昔はそういうある意味でいうと、万能の天才、ルネッサンス的というのは、空海を神として崇拝する理由になっていたんですけど、明治以後、そういうのはちょっといかがわしいんじゃないかというので、一つの、一筋に繋がる道元や親鸞の方がどうも本当の聖者じゃないかという風潮がある。だけど、私は、空海はやっぱり「密」という、やっぱり「事の中心」ですね。この世界の中心の理を把握して、把握すればいろんなことが可能になってくる。みんなその中心から、全部彼の仕事は出ているような気がしますね。だから片一方で、土木の監督が出来た。これはほんとにきっと有能な土木監督だったと思いますね。それから字は素晴らしいですね。勢いがいいんですよね。私達、ちょっと書をやって、研究して見ると、王羲之(おうぎし)の書が大体ずうっと中心で、奈良時代から王羲之に対する崇拝が非常に多いんです。それに対して顔真卿(がんしんけい)の勢いのいい、そして自由な行書、草書でもってきた。あれはやっぱり空海さんが初めだと思いますね。顔真卿というのは、書の名人だとされるんだけど、あれは安禄山(あんろくざん)の乱にいち早く対抗の兵を挙げまして、そして従兄弟をみんな殺されたんですよ。殺された従兄弟の鎮魂が、ああいう崩したウウッと感情の、激情した、そういう書にいち早くも空海は注目して、日本へ持って来ているんです。それから彫刻でも空海作と言いますけど、空海作かどうか知りませんけど、やっぱり空海の指導力で東寺の素晴らしい講堂、東寺講堂が素晴らしい空海の指導の元に作られた。万事非常に天才ですね。それで私は高野山と東寺という二つの中心地というのが如何にも空海らしいと言うんですけどね。
 
 
頼富:  先程のご指摘頂きました空海さんの特色であり、また一面密教の特色でもありますけれども、「非常に積極的な活動、目に見える活動」と、それから「内に持った深さ」と、そういうものを空海さんの生涯の活動で考えてみた場合に、例えばお寺とか、そういう点ではどういうことが言えましょうか。
 
梅原:  真言宗の中心地はやっぱり東寺と高野山であった。これは大変空海という人の人生を考える上で大事なことです。やっぱり都の中に根拠地を持って、そして天皇と結び付いて、そして密教を布教していく。こういう点、『性霊集(しょうりょうしゅう) 』の中の手紙を見ましても、嵯峨天皇に対する手紙を見ましても、実に上手ですね。三本の筆から結構書道の好きな嵯峨天皇の心をつかんでいる。そして宮廷の中に奥深く密教の根拠地を作ったということで、こういう面は大変空海は能力があったと思いますね。それだけなら非常にある意味で宮廷宗教家と言えるけども、そうじゃなくて高野山という大変全くの山の中ですね。鬱蒼たる森、日本の自然の凝縮したような所ですね。それを根拠地にして、最後はやはり高野山で亡くなった。そういう社会性と孤独性というのか、本来から孤独の好きな人間、そしてやっぱり最後は山に帰ってしまおうやという、帰りなんという、そして自然の中に溶け込 もうやという、そういう思想を持ちながら、やはり片一方でいつも社会への働きかけを忘れなかった。だからそういう孤独と社会性というのが、楕円の二つの中心、私もこれも空海さんにならって、国際日本文化研究センターを作ったのは、やはり学問を日本に根付かせようと、本当に日本についての学問を根付かせようという、ひたすらの情熱ですね。それでいろいろ政治家とも近付いた。本来の私の方は空海さんのように、孤独が大好きで、そういう心の形が高野山と東寺という形になったんだと。この点、私もウンと学んだ。
 
頼富:  そうでございますね。先生のおっしゃった空海さんの持つ二つの焦点と言いますか、このうち、一方、とくに世俗での働きが何か誤解を招いたような形で、どうも暫く冷遇されたような気がするわけでございますが、やはりこれからはもう一方の面、そしてこの二つの面が揃っているということが、一番大事じゃないでしょうかね。それと先程も出ましたが、例えば顔真卿の書に注目した。これは決して王羲之の書を完全に否定したわけではないと。空海の書かれたものを見ますと、従来あったもの、或いはいろんな思想を使いながら、それを空海独特の広さと深さで、最大限利用していったというようなことも考えられるんですが、その辺について先生は、
 
梅原:  やっぱり独創的な人だと思いますね。『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』や『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』のような創造の人ですね。仏教の、そういうのはあんまり中国でも体系的な対弁論者は見つからないということなんですけどね。やはり独創的な人間、独創に対する大変思惟を持っていたことです。譬えていうと、あれは『弁顕密二教論(べんけんみつにきょうろん)』でしたか、密教の経説を説明するのに、大日如来の契を使うんですね。その契を使って説明する。その説明をしながら今度は自分が契を作った。そうすると、自分も大日如来、だから空海はみんな全てが大日如来を内包しているんで、自分が大日如来と言い切れるわけです。自分が大日如来の立場で、自分の腕で密教の経説を説明するというのは、私は随分自信だと思うんですね。だから不空から恵果に学んで、「不空の継承者は自分一人だ」というようなことを言っているんで、ちょっとまあまやかしのように思われるところがあるんですけど、やっぱり本当に理解しているのは私一人だという。確か夢に恵果が出て来て、空海に教えを聞くことがあるんですよね。それは大変な自信じゃないかと思うんですね。そういう独創性への自信ですね。これはやはり日本の思想家には珍しい。これこそ今後の思想家としてやっぱり自分の独創性への自信ということは、非常に大事だ。そういうのを持っている数少ない日本の思想家と、私は思っておりますけどね。
 
頼富:  今、先生がおっしゃいましたように、例えば『大日経』というお経を見ましても、その範囲内で表面的に解釈するのではなくて、そこでやはり自分の新しい思想、発想というのを、独創として挿入すると。これは確かに、あまり日本にはなかったかも知りませんね。それと広さ、先生は特に人間の心が段階的に上がっていくとおっしゃいましたが、以前、先生はドイツのヘーゲルと比較されていらっしゃいますね。その辺は如何でございましょうか。
 
梅原:  京大の戦後の哲学ですけど、やっぱりドイツ観念論が中心で、ドイツ観念論を先ずマスターしない限りは、他の哲学をやってもダメだというような空気がありまして、私もカント、ヒィフテ、ヘーゲルなんていうのを、学生時代に難解な辞書を読んだわけですね。そういうのを読んで、日本の思想の研究などに入ったんですけど、ヘーゲルを読んだ人間として、『十住心論』を読んだ時に、「これヘーゲルじゃないか」という。異生羝羊(いしょうていよう)住心、愚童持斎(ぐどうじさい)住心、そういうことは仏教以外のものですね。それから、唯薀無我(ゆいうんむが)住心、抜業因種(ばつごういんしゅ)住心、ここからだんだん仏教界の中に入って、そして小乗仏教から大乗仏教、大乗仏教の唯識中観から華厳、天台、それに密教が最後に出て来たという。ある意味で言うと、仏教思想史の発展ですね。それはやっぱりだんだん心が向上していくと。丁度ヘーゲルの弁正法がだんだんだんだん発展向上して、向上していくという。これに非常に似ている。
 














 

「十住心」のあらまし

一、異生羝羊(いようていよう)住心
二、愚童持斎住心
三、嬰童(ようどう)無畏住心
四、唯蘊(ゆいうん)無我住心
五、抜業(ばつごう)因種住心
六、他縁大乗(たえんだいじょう)住心
七、覚心不生(かくしんふしょう)住心
八、一道(いちどう)無為住心
九、極無自性(ごくむじしょう)住心
十、秘密荘厳住心
(『秘密曼陀羅十住心論』より

 
 
頼富:  人間の心の発達段階というものですね。だから勿論いろんな思想を積み重ねると共に、どうも空海においては、自分一人の中の、やはり思想経歴を兼ねると言いますか、内と外と両方を含んでいるような気が致しますね。
 
梅原:  そうでしょうね。
 
頼富:  そして先程おっしゃいましたように、この最後に密教がくるということなんですが、どうもその辺、前を捨てるということでもないんですが、例えばヘーゲルとの比較の中で空海の言いたかったことは、どういうことなんでしょうか。
 
梅原:  含んでいるでしょうね。これはヘーゲルと同じじゃないですか。違うのは最後の段階ですね。そこがヘーゲルだと絶対精神、それは理論的に明らかにしているわけですね。ところがそれは空海の場合は殆ど語っていないのです。ここは文字や思想だとダメで、それは行じゃないと出来ないんだということです。そう思って、私もちょっと行をやってみたのですが、これはどうもダメでした。
 
頼富:  いやいや。先程、先生、密ということもおっしゃいましたけれども、確かにそうですね。特に仏教の場合は思想哲学であると共に、宗教だということもありますので、先程おっしゃいましたように、表に見えている面と、見えない面と、その辺をうまく総合して、一人の人間の中に完結するということが必要かも知れませんね。
 
梅原:  その段階が密なんで、それはやはり概念的に必ずしも明らかにならない。それは実践によって初めて到達出来る領域だという。それは非常に人間立場を越えて、向こうから大日如来が乗り移ってきて、初めて明らかになる領域だという。そこが大変ヘーゲルと違っていたんですけど、そこがまた私にとっては魅力でした。
 
頼富:  その辺りの接点というのが興味深いですね。
 
梅原:  あなたの方はちょっと行はされたんでしょうがね。
 
頼富:  そういう空海の持つ、非常に思想的に広くて、また情報的にも、ある意味においては緻密である点は評価できます。我々仏教学をやっておりますと、例えば、唯識、すなわち心だけがあるという世界から、それからその心すらも、やはり高い境地から判断すると、それは本体的に存在するのではないという。この段階は、やはりインドなんかではよく言われていたらしいんですけれども、日本とか中国ではあまり知られていない。そういうものを日本に紹介したというのも、やっぱり空海のある意味においては、知的な情報的な面というか、非常に鋭い面であるかと思うんです。この鋭さと共に、まだ他に空海さんの違った面があるのではないか。先程二つの焦点とおっしゃいましたが、思想的にお考え出来るというか、例えば今までの空海解釈で抜けているということになるかも知りませんけれど、先生は最近のお考えも含めまして、この現代社会における密教、或いは空海の思想について、何かご教示頂けましたらと思いますが。
 
梅原:  やっぱり私、密教というものをどう考えたらいいか。これは大乗仏教の発展の末に出てきた仏教だと思います。そこはやはり私は釈迦中心の佛教から、大日中心の仏教になってきた。ということは、人間中心の仏教から自然中心の仏教になったというふうに思っているんですよ。大乗仏教そのものは、歴史的な、前五世紀に生きた、ある人格を持った釈迦というものの崇拝から、だんだん普遍的な釈迦というものに変わってきますね。例えば、『法華経』のように、釈迦はずうっと前から、永遠の昔からここで説法しているんだという、そういう釈迦に普遍的な超越的な性格が強かった。けれど、まだ人間なんです。それが華厳を通じて密教へいきますと、毘留遮那(びるしゃな)と、摩訶毘留遮那、今度は全く自然、自然の大生命を司っている仏になっている。私はこれはやっぱり生命の豊飽(ほうじょう)さ、生命の多様性と、いま新しい科学ではね、生命の多様性というのは大事だと言われている。その生命の豊飽さ、生命の多様性の中心になるような仏になっていく。そこはやっぱり私は大きな違いがあると。この頃やっぱり僕は一番大事なことは生命の豊飽さ、生命の多様性を保証する、そういう宗教と。これは人類にとって一番大事になってきていると思っているんですよ。だから若い時、空海に導かれて、日本研究に入って、その後大変僕は大きな影響を受けた。形なくて、思想の根底で影響を受けているんですよ。だけどまた最近、そういうことを考えると、またやっぱり空海の思想、広くいえば密教の思想は、二十一世紀の人類にとって大変重要な思想じゃないかと、今思っているんですけどね。
 
頼富:  空海の思想ということで、先生が最初に再発見として、問題提起頂いた中で、やはり生命の教えということがあげられます。特に先程お話にございました大日如来という、本来は一つの仏でありますけれども、それはもっと広く深いという視野から、生命というものを捉えてご説明頂いたわけでございます。どうも仏教の中でもそうでございますが、なかなか物事を考える場合に、どうしても分析の方、勿論客観的事実というのも大事なんですけれども、どうしても鉛筆の芯を尖らせていって、鋭く固くはするんですけれども、じゃそれで例えば今の虐(いじ)めの問題とか、それから生命軽視の問題というのが、そういう固く鋭くすることだけによって解決するのかどうかと言いますと、ちょっと私、最近疑問を感じておる次第でございます。そういう中で、先生の空海観なり、或いは今後何かメッセージを頂きたいと思うわけでございますが。
 
梅原:  私は、曼陀羅思想というのは好きなんで、一つの生命は元は一つなんだ。それが実に多様に現れてくると。しかも五彩(白・青・黄・赤・緑)の色をして、絢爛たる生命は多様性をもっていると。これは私大変大好きです。自然はまさに美しくて、多様性を持っているもんだという。空海というのはやっぱりそういう自然の森ですね。もうほんとにいのちがたくさんいる森と、海ですね。海が好きなんでね。いろんなことで、海というの使っておりますね。そして今の空海の八十八カ所。森と海の。森が非常に美しくて深くて、そして海がいい、そういう場所なんですよ。だからやっぱり森と海の思想家ですね。仏教ですね。それを考える時に、私は、どうもやっぱり空海の先駆者は行基菩薩じゃないかと。それまでの仏教は大体都会仏教、それに対して行基は山林修行者なんですよね。そしてもう殆ど中央仏教界では相手にされない。そして民衆のところを巡って、そして行基集団を作って、道を作り橋を架け、そして寺を造り仏を作った。その時仏を何で作ったかと。そうするとそれは木に決まっているんですよね。行基仏という木彫の、殊に白木の木彫ですね。そういう仏がたくさん、特に近畿を中心にして残っているんですよ。それを今までは、行基或いは行基集団のものでなかったというんですけど、私の友人の井上正君が、「これは行基だ」と。「行基そのものが作った。行基の集団が作ったに違いない」と言って、いろいろ非常に実証的な研究をして、新説を出したんですよ。私は井上君と一緒にそれを見に行ったんです。白木の仏で、鼻がこんなに大きかったり、頭が大きかったり、みんな異相している。目が瞑(つぶ)っていたり、異相しているんだけれど、非常に迫力がある。それはそういう思想はやっぱり木に本来の仏が宿っていたと。或いは木はやっぱり神なりと。神と外 来の仏が結び付いた。やはりあそこで日本の仏教が本当に民衆まで広がったと思うんです。それで空海の時代になると、全く仏像は金銅仏や塑像、それから乾湿が殆ど無くなって、殆ど木彫一点張りになる。これはなんか日本の森と仏教が出合ったんだというふうに、どうもそういうように見られるんです。
 
頼富:  もともと森というのは、やはり生命を育む要素が強いところでございますし、今お話にございました行基菩薩、空海との間には約百年ほど年代差があるんですけれども、確かにその頃から仏像というものの捉え方が急速に変わってくる。そしてある意味においては、仏教が学問仏教から庶民の中に入ってきた時代というのも、かなり近いというふうに考えることが出来るでしょうね。もう一つ、今おっしゃった白木というか、素木の仏像、井上先生のお説かと思いますけれども、それに生命が宿ると。これは今でも仏像作る時に、「御素木(みそぎ)」と申しまして、今は「御衣木(おころもぎ)」と書くんですけれども、それにいわゆる生命を入れるということをやるんです。遡って見れば、そういうところに、その頃あたりから、生命を、聖なる仏像の中に込めて表現するという発想が、なんか別の字を当てられたということも考えますと、少し薄らいで忘れられてきたということですね。
 
梅原:  平安初期のいろいろ仏像のあるお寺へ行くと、そういう神木伝説があって、神木がむしろ「仏を掘ってくれ」と言っていたと。それが寄せ木作りになると、それが無くなる。寄せ木作りだともう一木じゃないから、そんなことは言えなくなってくるんですよ。だから平安中期でちょっと変わってくるけど、それまでは木はやっぱり神様が宿っているんだと。そこで仏さんと神さんが仲良くする。神仏混交というのは、最澄、空海の仏教で決定的になるけれど、その思想の根源はやっぱり森。森にいのちがあるという。森と海というのは、やっぱり空海のもの凄く発想・感覚・鋭さですね、森と海を大事にするという。
 
頼富:  先程、ご指摘がございました行基と空海の繋がりでございますけれども、従来、残念ながらあんまり注目されていなかったんですが、最近学問の世界におきましても、これは無視出来ないというようになりました。どうしても行基の時代に、先生がおっしゃいましたように、日本の神と仏教が接近していく。それが密教でいうと、丁度変化観音というか、十一面観音などの、そういういわゆる雑密の時代ではないかと思います。それがなければ、やはり空海さんにも繋がらないんじゃないかというようなご指摘もあるんですが、その辺は如何でございましょうか。
 
梅原:  そうですね。やっぱり今までは町の宗教であったんですね。町の宗教の枠を破ったのは東大寺なんですよ。東大寺というのは、やっぱり建造というのはやはり良弁にしても、行基にしても、山の行者だったんですね。だから紫香楽の郊外で良弁は猟師なんです。良弁の大変な力によって、そして聖武天皇は紫香楽に都を興して、そして紫香楽に東大寺を建てようとしたんだけれども、あんな狭いところへどうしても建てられないので、そして今度は良弁を連れて、奈良へやって来て、東大寺を建てる。東大寺を建てる段階で、行基が入って来たと。行基というのはやっぱりそういう野の宗教から、そういう道を作り、旅の僧だなあ、
 
頼富:  そうですね。後の空海にちょっと似たところがありますね。
 
梅原:  そういうことをしていたんですよ。寺を造った。寺を造っているが、仏を造るのが一番中心で、仏の木造を造った。そして神と仏が混交した。だからあそこで初めて東大寺でやっぱりあれは(宇佐)八幡様が(手向山)八幡宮を造る。神社の中に祀っているんですね。神と仏が初めて、今まで仲が悪かった神と仏が仲良くなった。それが大体木彫の仏という形になる。信仰として、千手観音が大変大事だった。全てのどんな悪い奴も救うという。千手観音が広がって、誰でもやっぱり仏性を持っているんだと。その思想的なチャンピオンが行基だったと思うんですね。行基は本を書かなかった。本より実践。本を書くことは、彼の場合は重視しなかったと思うんです。そうでなくて、民衆救済、実践。その実践のシンボルとして仏を残した。そういうものだと思うんです。やっぱり空海にはどこか、行基が若い時に山林修行したように、なんか行基の面影があるんですよ。そうして行基と同じように森。東大寺に対して割合好意的ですね。東大寺も空海に好意的ですし、空海も東大寺の華厳の方を、天台より上においておるんですね。やっぱりそういうとこがあって、やはり真言密教がずうっと拡がっていったというとこがある。
 
頼富:  都市の宗教の要素も持ちながら、やはり森の宗教、自然の宗教をきちっと踏まえている。この流れがやっぱり大事なんでしょうね。
 
梅原:  そうですね。そういうものだったと、私は思いますね。その辺のことをもう一遍思想的にも、井上説は単なる美術史の学説としても大変面白いけど、同時に井上説で日本文化史全体を考えると非常によく分かってくる。全体の流れが、
 
頼富:  井上先生は外来との接点ということも言っておられますね。
先程先生、森に関して、海に関して、曼陀羅ということをおっしゃったんですけれども、またそれに関して、四国八十八カ所、いわゆる遍路というものが、やはり生命の修行、或いは生命を感得するというか、我々が感じ取らせて頂く。そういう修行の一つのベースじゃないかということを、お話されたんですが、四国で考えますと、やはり四国遍路というのは、一種の曼陀羅というふうに考えられるんじゃないでしょうか。そう致しますと、曼陀羅というものは、いわゆる森の文化ということとも、ある意味においては、結び付くと共に、やっぱり空海さんにおいては、曼陀羅並びに森の文化というのは、決して別のものではないと、そういう発想も今度は必要じゃないかと思われますね。
 
梅原:  日本の仏教の方が、やっぱりこの自然破壊、真っ正面から対決しないといかんと思うんですよ。この間、諫早(いさはや)湾に行って来たんですよ。そうしたら大変凄いものを見たんですよ。例の干拓地ですね。堤防を閉め切って、陸にしてしまったんですね。その広さは山手線の範囲内の三分の二とか、凄いんですよ。見渡す限り。そこに累積たる貝の死骸。だから海の水が来なくて、貝が死んだんですよ。ところがその貝が、誰もいかなる生物家も予測出来ない程、沢山居たんです。貝がうずたかく、死んでしまったけど、ムツゴロウは死んだのも沢山いると思うんだけど、生き残っているのもいるんですよ。それはやっぱり海の水が土に染みついているんで、そしてその水の中で、わずかに死を待っているんだなあ。ムツゴロウやカニが。それを見た時に、私はナチスのガス室を、原爆の図を思い出した。やっぱりこれは大量の殺生だと。殺生というのは、仏教で一番重い罪なんですよ。人間が食べることでもやってはいかんというので、行基菩薩は「猪の頭油をしていた女を池の中に突き落とした」という話がありますけど、今度は食べるものじゃなくて、殆ど農地を拡大する為と言いますけど、殆ど意味のない大量の殺生。これに対して、なんとも怒らないのは、仏教は日本に無くなったんだというふうに思う。やっぱりこれに対して、涙を流し、これに対して憤らないと、行基や空海の精神は、復活しないんじゃないかという、そういう大変な感動を受けて帰って来たんですけどね。
 
頼富:  そうですね。どうもあまりにも人間、特に自分だけを中心ということが、やっぱり思想的にも、それから生き方としても、暫く続き過ぎたといえますね。これは仏教を含め、いろいろ反省しなければいけないと思います。先生が最初に再発見して頂いた空海の意義。それにまた、その後の新しい問題というか、その上に、森に代表される、生命を共に生かすということの意義をお説き頂いたと思いますが。
 
梅原:  だから偉大な思想は、ひとときに感動するんじゃなくて、人間が生きて、歳と共にまた新しい意味を与える。空海の思想は、若い私に感動を与えて、大変私の学問を作って頂いた。今、環境破壊が叫ばれる。そして人間の中心のゴイズムがまかり通っている。「それは危険であるぞ」ということは分かり始めた時に、またやはり、「森と海というものが生命を宿っているんだ。それを大事にしろ」という空海の思想に、やはり大きな私は思想的衝撃を覚えるんですよ。またこれから空海さんから学びたいと思うんですけどね。一つあなたにお願いがあるんですよ。司馬さんの『空海の風景』というのは、よく書けていると思いますけど、一つ不満があるんです。それは司馬さんのせいであるより、空海研究のせいではないかと。空海の沢山作品があるでしょう。それが大体空海の本物と偽物と、偽物が多いわけですね。やっぱり崇拝されたんで、それで空海の作品でないものが、空海の作品に入っている。それで本物と偽物に分けて、そして何時(いつ)作ったかと。あの沢山の作品が何時作られたか、ハッキリ分からないんですね。空海は片一方で非常に政治的な方ですから、なんかやっぱり政治的な目標もあったに違いない。そういう中で、あの一つ一つの作品が書かれていったのか。或いは『性霊集』にある手紙ですね。それはどういう関係でああいう詩が作られていったかということの実証的研究が、ちょっとまだ不十分ですね。後の、例えば道元、或いは法然と比べて、そういう点がまだハッキリしない。最近、私は法然という方に大変興味を持って、法然の伝記や法然思想の全体像を書いているんですね。だから、「法然より空海をやるべきじゃなかったか」というふうに言われます。空海は残念ながら、そういうまだ基礎的な仕事が出来ていないんですよ。それで出来ないんですけど。私共が密教に注目してから三十年経っているんで、
 
頼富:  先生のご著書から出発致して、勉強させて頂いております中で、今お話が出ましたように、空海の広さと包容性と言うのが、非常に大事なことであると共に、それがちょっと誤解を招いて、これまでやや批判的研究というのが、十分に進んでいなかったという嫌いがあったかと思います。ただ今日、先生がいろいろご指摘頂きましたように、もう一度過去の空海さんがどのようなお考えであり、どういう思想的、哲学的意義を持たれたかということをまた整理させて頂きまして、
 
梅原:  特に作品の何時出来たかということをやって頂いて、そうしたら私共またそれを基本にして、空海について、また勉強しょうかという気持になるんですね。何時出来るか分かりませんけど、もしそうだったらあなたと一緒に、
 
頼富:  最近の先生の森の思想というのは、やっぱり現代において、非常に大切なお考えであるかと思いますし、これを宗教のみならず、日本の文化、或いは世界の人々の生き方として、いろいろご教示頂きたいと思う次第でございます。今日は有り難うございました。
 
 
     これは、平成十年六月十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。