人の知恵仏の知恵
 
                         金沢・専称寺 高光 かちよ
                         き き て  金光 寿 郎
 
金光:  石川県金沢市、天候不順だった夏も過ぎて、九月を迎えると秋の気配が濃くなり始めました。今日は市内の北間町にある専称寺に高光かちよさんをお訪ねします。昭和の初めに住職高光大船(一八七九ー一九五一)さんの長男で、画家の高光一也さんのもとに嫁いできたかちよさんは、二人が留守がちなお寺を守って、悩み事や信仰の相談に訪れる人々の応対を、一人で引き受ける日が続き、やがて信心の目が開けました。ご高齢の現在もお元気で暮らしておられます。
 

 
金光:  専称寺の裏にこういうところがあるというのは全く知らなかったんですが、
 
高光:  そうですね。あんまり日が経っていないんです、まだ。
 
金光:  そうですか。木は随分大きいございますね。
 
高光:  これは小さいのはもどかしいからと、主人が大きいのをみんな植えたんです。
 
金光:  じゃ、まだお元気な頃。あ、そうですか。
 
高光:  だから大きくなって林になってしまったんです。
 
金光:  この記念館なんかは割に新しいようでございますが。
 
高光:  これは大分木を植えたと同時くらいに建てたんです。
 
金光:  そうですか。今は記念館とか、
 
高光:  倉庫にしたんですけれどね。絵はみんな美術館に収めたものですから、これが空いてしまって、まあ主人の宝物みたいなものを片付けてあったんですけど。
 
金光:  それを最近こういう記念館の形に。
 
高光:  はい。
 
金光:  それじゃ、お話はそちらの中へ入って、また聞かせて頂きましょう。
 

 
金光:  いつお会いしましても、あんまりお変わりになっていらっしゃらないんですが、今年でお幾つでいらっしゃいますか。
 
高光:  九十二です。
 
金光:  と、言いますと、お生まれは、
 
高光:  明治三十九年です。
金光:  お元気でいらっしゃいますね。それでここの金沢の北間の専称寺さんにお出でになったのはいつ頃のことでございますか。
 
高光:  昭和八年です。
 
金光:  そうしますと、その頃は高光大船先生もお元気ですし、勿論ご主人であった大船先生の息子さんの一也さんがまだお若い頃ということですね。その頃仙台の方から東京へ出ていらっしゃって、で、こちらへいらっしゃったわけですが、この土地にはお馴染みはお有りだったんですか。
 
高光:  一人もないんです。こちらに参りましたのは、主人の最初の奥さんが私のお友達だったんです。ところがお産の時に子癇(しかん)という病気で亡くなったんです。その時に葬式に参りましたのが縁なんです。
 
金光:  それでこちらの高光さんのお宅は大家族だったと伺いますが、そういう中へいきなり入られると、やっぱりストレスと言いますか、心労、気遣い、いろいろございましたでしょうね。
 
高光:  そうですね。何も知らないで参りましたから、無勢に多勢じゃ私はとても叶わないと思って、一切を習うことにしたんです。習って、そしていくわと思って。ところがたかが人間ですからね、ちょっと詰まるところがあるんです。それで主人にちょっと愚図ることがあったんです。そうしたら、主人が曰く、聞くだけ聞いて、「フウン」と言って、「それ誰のこと言うてんのや」。それで「ああ、そうか。 これは私の思いを言うている」。
 
金光:  「誰々さんがこういうことをして」というようなことを、
 
高光:  自分の困ることを言うているわけなんです。
 
金光:  そういうことだから、私が困っているということを、愚痴をちょっとこぼすみたいな感じだったら、「それは誰のことを言っているのか」と言われるわけですね。
 
高光:  はい。
 
金光:  考えてみたら、
 
高光:  自分のことなんです。
 
金光:  考えてみたら、自分の思い、心の中の、
 
高光:  思いだけを言うている。「ああ、そうか。馬鹿馬鹿しい」。それっきりまあ言うたことありませんし、言う必要もございませんでした。
 
金光:  だけど、やっぱり事実はなかなか変わらないんじゃないんですか。
 
高光:  変わらないけれども、それを自分で自分を処置していくより道がないんです。処置していくというと、おいそれたことですけど、私が生まれた時に人間の思いですね。八万四千と言いますね。それと仏さん、例えばここはお寺ですから、仏でも、真理でもなんでもいいんですけれども、仏様と云います。その二つがここに入って生まれてきたのが人間だなあと思って。それで愚痴言うたり、困ったりするのが人間なんです。
 
金光:  人間の方が喋っている。
 
高光:  それを黙って聞いて下さるのが仏様なんです。だけども、おおかた人間ですわね。ひぐらしは。
 
金光:  愚痴を言うのも人間だし、
 
高光:  そうです。
 
金光:  じゃ、受け取って貰えないのなら、言うのを止めたということにして、自分の腹のうちに収めてしまっているだけだと、やっぱり苦しいですわね。
 
高光:  思っているのが自分です。その時に自分で、それこそヒラリと仏さんの智慧を自分の中にあるから、話にいうと、使わせて貰うということになりますけれども、そういう言葉じゃない。こう瞬間のうちに変わっていくんですね。
 
金光:  ある事態が起こった時に、こういうことも出来るし、こういうことも出来るし、腹を立てることも出来るけれども、そちらでない、こういうことをすればいいというようなことがパッと気が付いてくるということですね。
 
高光:  そうなんです。人間ですから、八万四千もある。それを使いこなせんということはないと思うんです。
 
金光:  その悲しいこともあれば、腹立たしいこともあれば、苦しいこともあれば、いろいろあると、
 
高光:  それは十分に自分で使っているんです。中に困ることがあると、困らんでもいいよという、そういう答えが出てくるんですね。
 
金光:  現実ではなかなか、じゃ、こう行けば困らなくていいんだというのを見付けるのも難しい。
 
高光:  そうです。ちょっと時間のかかることもありますし、スーッといくこともあるんです。だから、いろいろと自分のことですけれども、時間のかかることもありますし、スーッといくこともあります。
 
金光:  例えば、何か自分が腹が立つようなことがあった時は、それはそれで一応受け止めておくと。受け入れます。で、受け入れたところで、さて、じゃ、どうしようかということで、新しい別なところを一歩踏み出す。具体的にはそういう形になるんでしょうか。
 
高光:  ただ、人間は私一人一人だということが分からないと、いろいろと批判するということは相手のことを、
 
金光:  周りにいろいろな方がいらしゃいますよね。
 
高光:  それは自分が自分の目で見て、あんなことして、こんなことしてと、まあ、子供の場合でもそうですね。そうじゃない、子供は子供、私は私で、これはどうしようもないものだという、まあ一番困ることは、親が子供に、子供のレールがありますね、一生の。それで親のレールと子供のレールを自分の方へ合わそうとするんです。
 
金光:  それがあってうまくいかないという現実が、
 
高光:  それは、ああ、そうか。子供は子供の一生があるんだわ。親が干渉すべきことじゃないわ、というところで、レール二本でいけるわけなんですけど、
 
金光:  子供と自分を、子供は子供だと切り離すという、一応子供は子供なんだというところで見直すということなんですね。
 
高光:  だから子供も一人の人間と考えるわけです。だけどもいつも人間の親が子供に困っているわけです。
 
金光:  親子の場合はそういうことです。嫁姑も同じことなんですか。
 
高光:  同じことです。だから私はよい子を差し上げずに貰うんですから、ほんとに有り難く頂戴すればいいんですけれども、その嫁というのは意地悪い者で、丁度ダンスでいうとスロー、クイックみたいなもので、姑がクイックだったら、嫁はスローなんですよ。だから初めから合うわけがないんです。
 
金光:  成る程。合うわけがないと。
 
高光:  だから合うわけのないものを合わそうと思って、陰口を言うたり、いろんなことをしますでしょう。それは合うわけがないから、合わさんでいけばいいんです。
 
金光:  ほう。合わさなかったら、しかし、
 
高光:  それを認めていくんです。
 
金光:  相手は自分と違うけれども、それはそういう人なんだと、
 
高光:  嫁の一生は認めていくんです。だって、嫁もどうしようもないんでしょう。そう生まれてきたから、
 
金光:  ただ、あの嫁がちょっとこうしてくれたらと、つい思うのが普通じゃないかと思いますが、そこのところが問題だということになるわけですね。
 
高光:  そうなんです。だけども、そういうことを言うておれば、嫁の一生を私が左右しようと思うんですから、出来るわけがないものをしようと思うから摩擦が起こるんで、それを止めるわけなんです。
 
金光:  同じ家の中で生活していても、相手は相手で、どうぞと。自分は自分でという。一種の冷たい関係というような、今のお話だけ伺うと、なんだ非常に冷たいんじゃないかという気がしないでもないですけど、そうじゃないですか。
 
高光:  そうです。冷たいというより、逆に考えれば、こういう姑であって欲しいと思っているでしょう、嫁は。だけど私がそういうふうになれっこないですから、だからお互いさまだと思うんです。
 
金光:  そういう意味ではお互いに、平等に、違ったところで一緒に生活します。
 
高光:  そうです。違わんと言ったら、ウソなんです。
 
金光:  それをご主人との関係でも同じこと、
 
高光:  同じことです。
 
金光:  子供さんとも同じこと、
 
高光:  同じことです。だから主人との関係は、主人は男性でしょう。私は女性ですし、そして男性という性、そのものが分かりませんので、それを男性の主人に習うんです。男という者はこういうものかなあと思って、
 
金光:  それで以前お話を伺った時に、「ご主人を点数付けられたら、何点ですか」と言ったら、零点の時もあるし、百点の時もあるとおっしゃったのは、そういうことなんですか。
 
高光:  そうなんです。だからみんなゼロから百点まで付けた。ですから何点という点数は、私の場合はないんです。
 
金光:  ああ、成る程。前もって頭で大体この辺というのは全くなく、常に新しいわけですか。
 
高光:  そうなんです。
 
金光:  日々新しい出来事に出合って、ああ、今日はこういうことだけれども、じゃ、ずうっとそうかというと、そうでもない。
 
高光:  ある時はそういう素直な場合もありますし、「え、クソッ!」と思うことがあるん ですよ。
 
金光:  それはそうですよね。ちゃんと人間の条件をもっていらっしゃるわけだから。
 
高光:  そうです。だから人間の条件は人間の条件として、その条件によって智慧が出てくるわけなんです。
 
金光:  その智慧が智慧をどうやって見付けるかという、そこのところがやっぱり聞きたいということが多いと思うんですが。
 
高光:  そういう智慧が自分にあるということは、それが智慧であるということを知らないでこちらへ参りましたんです。
 
金光:  じゃ、最初からそういうことが分かっていらっしゃったわけじゃないんですね。
 
高光:  ないんです。ただ何か人間の生きていく道というものがあるだろうと、それで私は父が田舎の顔でお酒を呑むと、それもまあしょっちゅう呑めない。祭りなんかの招待で万障繰り合わせて行って、呑んで来る。その酒のうえとは言いながら、あんまり母親に絡んでいくんですね。
 
金光:  酔っぱらって絡むと、あまりいいものじゃないですね。
 
高光:  それでまだ小さい頃の、小学校の頃から、それを見ているのがとても堪らないんですね。だけども人間てなんでこんなのかと、父親を下等な人間に見ているんです。私はあんな人間だけにはなりとうない。それでああいう人間にならないのにはどうしたらいいかということがスタートなんです。
 
金光:  こういうことはしないようにしましょう。これも止めて私はこういういいことをしましょうとか、そういう方向へいらっしゃるわけですね。
 
高光:  そうなんです。ところが算術みたいに答えが出てこないんですよ。やっぱり横町に行きますから。それでこの横町に走る心をどうしたらいいのかと。今度は家を離れて、私は明治の生まれで、ほんとに小学校だけしか出ていないんです。
 
金光:  家を出られて看護婦さんになられますわね。
 
高光:  はい。そこでまた共同生活のトラブルが、
 
金光:  いろんな人間関係があるわけですね。
 
高光:  はい。それでそこがスタートみたいなものですね。たかが十五やそこいらの子供ですから、それで考えると、自分の思ったことを相手に当てはめるわけなんです。そうして、なっておらんとか、口には出しませんけれども、心の中ではそう思っている。
 
金光:  相手を批判して、あれがなければ、あの人もいいんだけれどもとか、いろんなことを考えますわね。
 
高光:  そういうことです。
 
金光:  そう考えていると、やっぱり面白くないですね。
 
高光:  それじゃと言って、考えてみると、面白くないのが誰かというと、自分の思いなんですね。それで思いというものが、これは全部私を支配しているんだ、相手ではないわ、と思ったんですけれども、思いをどうすればいいかということは、幾ら考えても出てこないんです。
 
金光:  さっきからおっしゃっている人間の智慧だけだと、どうしようもないという、そこのとこですね。
 
高光:  ある時、私、病院を出まして、そして派出看護婦というのに、東京都へ行っておりました。その前にやっぱり自分で困ったことが出来まして、どうすればいいかというのは自分の問題ですから、どうしようどうしようと思っていた時に、フッと気が付いたのは、ああ、そうか、来るものは受ければいいんだわと。
 
金光:  ああ、逃げよう逃げようとすると、かえって混乱を、
 
高光:  来るものは受くべきものだと。そうしましたら随分と楽になったんです。逃げないで受けることにしたんです。それから大分自分が変わりまして、それでどういうところへ行っても、その智慧を使わして貰うわけなんです。
 
金光:  兎に角、受け止めるんだと。
 
高光:  はい。人の心には扉しめれませんし、だから自分がそれを受けて、自分で消化していくんだと思いまして。あの頃は、昭和の初めですから、東京で看護婦を雇うと言っても、金持ちでないと雇いません。
 
金光:  派出看護婦さんと言いますと、いろんな家庭にいきなり入られるわけですね。
 
高光:  そうです。
 
金光:  そういう家庭、家庭の家風みたいなものがあるでしょうし、そこでうまく上手にやることは、これ、なかなか難しいんじゃないかと思いますが、
 
高光:  そうです。どうせ自分がそこの家を嫌いだと言って、変わったところで、また違った家へいかなければならないものですから、ここで務まらない者は、どこへ行っても務まらないわと思って。そうすると、私というものは務める方法を知らないからやなあと思って。それで大抵、派出先から動かないで、自分を試していくんです。
 
金光:  じゃ、こうすればここは通り過ぎると言いますか、
 
高光:  だから人に要求をせずに、自分を変えていくんです。自分を変えるのはわけないんですよね。相手を変えようと思ったら、そういうわけにいきませんから。そしてずうっとそういうところを務めてきたわけなんです。
 
金光:  今の人からいうと、いい積もりで結婚したら、新婚旅行に行ったら、全く見込み違いだったから、もう成田で別れましょうとかですね、自分を変えるんじゃなくて、相手が変わってくれないとダメだというので、離婚するようなケースが、随分多いとか聞きますけれども、その辺は随分違いますね。
 
高光:  そうです。だけども、そういう人はいつまで経っても自分を変えることを知らないんです。
 
金光:  それは個性だから、大事だとかというふうに思っている人も多いんですが、その辺はどうなんですか。
 
高光:  性格の不一致と言いますでしょう。ところが性格というものは、一人一人、何万人おろうが、何千万人おろうが、全部違うんです。だから性格というものは、これは天性から与えられたもので、変えるわけにいかないんです、自分で。ただ変えるわけにはいかないけれども、自分に降りかかった人間の条件ですね、それは変えることが出来るんです。
 
金光:  成る程。性格は変えようがないにしても、その相手が何を考えているか、それを自分がどう受けるか、その自分の受け方を変えるということなんですね。
 
高光:  そうなんです。自分が合わしていく方法を考えるわけです。
 
金光:  それは性格が変わるということではないんですね。
 
高光:  ないんです。私の個性は依然として変わらないんです。
 
金光:  そういう段階を経験されて、こちらの高光家に入られた。ここのお寺、高光大船、高光一也、有名な先生方ですが、そういうような人の中に入って、どういうふうに変わったんでしょうか。
 
高光:  私は人間ですわね。そして父が坊さんということで、坊さんて何でも分かっているものだと思って、
 
金光:  人生のことは分かった人だと思っていらっしゃった。
高光:  そうなんです。ところが一緒に生活してみると、全くその当時の私からみると、なっとらんと言いたいですね。それでおかしいなあと思って、自分で考えて、自分は人間だと思っているでしょう。父は特別な人だと思っている。それで、ああ、そうか、父も人間だわ。私と同じ人間なんだわ。ああいう振る舞いするのは、あの父にあたわった当たり前のことなんだわと思って、それで解消したんです。
 
金光:  人間として生まれてくる時には、生まれようと思って、自分で生まれたわけではなくて、人間として、身体も心も与えられた、作られたものとして生まれてきておると、
 
高光:  そうなんです。
 
金光:  自分もそうだし、有名な大船先生もそういうことで作られているんだと、そこでは同じだと、
 
高光:  同じだと。だから人間なら、まあ当たり前だと思って、
 
金光:  でも日頃、「自分は模範的な人間ではないけれども、こういう人間でも救われたという手本にはなれる」とか、なんかそういう意味のことをおっしゃったそうですね。
 
高光:  父は決して、「自分が人の手本になるような人間ではない」と。「ほんとにこんな人間でも救われる人間やという、その見本になれる」と言うんです。
 
金光:  救われる人間の見本になれる。
 
高光:  だから、天と地ほど違うんです。普通の坊さんとは。
 
金光:  「人の手本になるような人間じゃないけれども、そういう人間でも救われる見本になれる」と。
 
高光:  はい。「見本にはなれる」というんです。
 
金光:  やっぱりそういうのは、日々一緒に生活なさっていると、ああ、成る程、そういう生活だということ。それはだんだんと分かってくるものですか。
 
高光:  自分が分からないと、そのことも分かりませんわ。
 
金光:  ああ、成る程。自分が分かってくると、それが分かってくるということ。
 
高光:  自分も見本になればいいんですから。だけども、なかなか人間て、見本になりたがりませんわね。
 
金光:  それは、でも救われた生活というのは、なんか逆なように見えますから、なりたいと思う人は結構いるんじゃないかと思いますが、なかなかそう簡単にいかない。
 
高光:  そうです。どうせ自分の人生じゃないんですから、私はこうして生かさせて貰っていますけれども、自分の思うようにならないんですわ。だからこれは与えられたさだめを生きているだけなんだなあと思って、そこへかえってくるから。
 
金光:  こういうことをおっしゃっていますね。前にお書きになったものの中に、「思うようにいかないのが、我等の人生で、思うようにいったら、それは仏様の人生だ」と。「だから思うようにしたかったら、仏様の人生に乗り換えることです」というようなことをおっしゃっていますね。「自分の人生でない」というのは、要するに自分の思うように出来る人生ではないと。
 
高光:  そうです。どれだけ思っても、自分の人生と思っても、思うようにはなりません。
 
金光:  それは思いというのは、普通は思いが自分であり、思いが現実だと思いますけれども、単なる思いであって、ということなんですね。
 
高光:  そして、思いも変えればいいんです。くだらんことを思っているよりも、あ、これはくだらんことやなあと思って、変えればいいんですよ。
 
金光:  そこのところでパッと変えられるといいんですね。それが例えば、昔貧乏だった頃、お店のショーウインドーのブラウスが欲しいと思って、お金がなかったら、あ、預けておこうと思われたというのは、そういうことなんですか。
 
高光:  買えないわと思ったら惨めですよ。
 
金光:  そうです。欲しいという気持はあるわけでしょう。
 
高光:  そう。
 
金光:  無くなるわけじゃないでしょう。
 
高光:  そうです。欲しい気持はあるけれども、買えないわと思ったら、惨めですから、ああ、そうか、あそこへ預けておくわ。そしてまたお金が出来たら買いに来ればいいんだわと思って、そして自分で惨めな思いをせんでもいいわけですわね。それが結局、日常の仏様の智慧なんです。だから仏さんの智慧というのは、いつでもどんな場合でも働いているんです。だから最初に仏さんの智慧をいつ見え出すかということが問題なんです。で、私はよく雨が降っても風が吹いても、吹雪いても、おばあさん、この先の須崎というところのおばあさんがお父さんのお詣りに来るわけなんです。そして、「おらが来るんでないわ。仏さんがおらを連れて来るんだわ」と言うて。そして、「このおらの身体というのは、これお厨子だ」というんです。
 
金光:  生きた身体がお厨子だと。
 
高光:  その「お厨子の中に仏さんと自分と入っている。それを背負って歩いてくるから、仏さんが私と一緒に歩いているんだ。どこへ行くにも仏さんと一緒だ」と言って。「だから一人半分でも怖いことも何もない」と言うんです。そういうおばあさんがいつも時々来るんです。そしてそのおばあさんがこういうことも言っているんですわ。家の養子じゃないかと思うんです。「おばばらのいっているところ、暗いところで白粉付けて、紅つけて踊っているんやそうや。そういうところやそうや」と言ったんですと。そうしたらすかさず、「ああ、そうや。ほんとにそういうところや。心の中が真っ黒なのに、それをいい格好しようと思って、ああもし、こうもし、見せておるのがおらの姿や。だから暗いところで踊っておるのもその通りや」。それから養子さまは何も言わなかった、と。そういうおばあさんでも、と言ったら失礼ですけど、困って、困り抜いて、終局が仏さんを見え出したんでしょう。
 
金光:  その場合の仏さんというのは、先程からの言葉でいうと、人間の智慧がうまくいかなくて、行き詰まったようなところで、もう一つ違う智慧が出て来たという、その働きそのものを仏さんとおっしゃっているわけですね。
 
高光:  そうです。だから仏さんというのは、色もなければ、形もないんですわ。それで、「こういうものですよ」と言うて、お見せすることが出来ないんです。だからどうしようもないんです。
 
金光:  でも、現実に気が付くと、そこに私だけのものということじゃないわけですね。
 
高光:  そうです。
 
金光:  幾ら取り出しても、深い井戸から涌き出る泉みたいなもので、幾らでも出て来る。
 
高光:  そうです。これは他の品物でしたら、売り切れとか、品切れとかとなりますけれども、この仏様の智慧は何千、何万件あっても、決して品切れにはならないんです。いつでも用意してあるんです。だけれども、人間の煩悩が欲しがらないんですよ。
 
金光:  あると便利で、こんなに幾ら使ってもなくならないものだから、欲しがる筈が欲しがらないんですか。
 
高光:  それが欲しがる方法を知らないということは、要するに、自分におる智慧ですね。生活の智慧が見え出せないからなんです。
 
金光:  先程のおばあさんの話というと、真っ暗な中でよく見せようと思ったりして、踊っているということに気が付かない人なんですね。
 
高光:  そうなんです。
 
金光:  それに気が付くということは、もう一つ違った光があたっているということになるでしょうか。でも朝から晩まで仏様の智慧の中で生きていけるからというと、そうもいかないでしょう。
 
高光:  そうじゃないんです。まあちょっと困った時に出て下さるだけなんです。後はもう、
 
金光:  じゃ、勿体ないから、偶に困った時に出て来て、助けて下さると。しょっちゅう表に出て来るということじゃないと。
 
高光:  ないんです。いらっしゃるんだけれども、困った時でないと、おることを認めないんです、人間が。
 
金光:  だから、お厨子の中には自分と仏さんと両方いるという表現になるわけで、日頃は自分の方が表に出ているわけですね。
 
高光:  自分が勝手にやっているだけなんです。
 
金光:  先程は兎に角、与えられたものは受け取るということをおっしゃいましたですね。その与えられたものを受け取ってみると、そこに困ったら困ったで、もう一つ違った智慧があることにも気が付くということですね。
 
高光:  そういうことです。自分が困ったのは何故かというて、自分に疑問を持つわけですね。だからすべてが自分一人なんですから、問題のすべては。
 
金光:  問題は自分一人だけれども、その自分一人を見つめていると、自分を取り巻くいろんなものとの関係がよく見えてくる。
 
高光:  そうです。相手が全部いろんなものを教えてくれるわけですね。だからある意味ではお師匠さんですわ。
 
金光:  周りのいろんなことが。じゃ、自分も可愛がってくれる人だけがお師匠さんだけじゃなくて、自分に悪態を付くことも、憎らしい人もお師匠さんということになるわけですか。
 
高光:  そうです。父のいう話ですけど、「人間というもの、仏教というのは手の合わせ難いところに、手を合わす教えだ」ということなんです。
 
金光:  これは大変難しいというか、憎たらしい人に会いたくないと思っている人に会った時は、こんちくしょう!と思うところがあると思うんですが、そういう人に手を合わせる。
 
高光:  「手を合わすのが教えだ」というんです。だからそういう手を合わすことが出来れば何にでも合わされるんですから。
 
金光:  それはそうですね。それは性格を変えることとは全然違うことなんでしょう。
 
高光:  性格は変えることではないんです。智慧です。
 
金光:  でも、憎たらしい人を好きになるわけではないんでしょう。
 
高光:  そうではないんです。憎たらしいままに、別にそれでいいと思っている。
 
金光:  それは相手をどうこうする問題ではなくて、こっちの自分の問題、
 
高光:  そうなんです。本人は思った方が困るんでしょう。
 
金光:  困っているんです。
 
高光:  だけども、そういうこともあるということを承知なんですから、別に直す必要もありませんし、自分で、無論相手の別の身体をとやかくいう必要もありません。
 
金光:  相手をそのままにしておいて、
 
高光:  自分の腹立たしい心を自分が直していくだけなんです。直すというより、止めていくんです。
 
金光:  腹立たしい心だけではなくて、他のいろんな心を、智慧があるわけで、その智慧の方を働かすという。これはしかし現場で実地訓練しないと、実地の練習をしないと、頭で憎たらしい人にも手を合わせる教えだと聞いていても、
 
高光:  だって、しょっちゅう、そういう目に遭うじゃありませんか。
 
金光:  遭います。それもやっぱりその途端にやっぱり腹立たしい思いというか、
 
高光:  相手を求めんでも、家の中にいても、奥さんに気にいらなければ、「え、クソ!」と思う。子供が思うように勉強してくれないと、「え、クソ!」と思うでしょう。幾らでもそういうものに手を合わす機会がわざわざ好まんでも、その辺に転がっているんですよ。
 
金光:  今の子供が勉強しない時に、どうやって手を合わせるんですか。自分の子供が勉強しない。あの子さえ勉強してくれたら、私は楽になる。
 
高光:  そういう思いを持っている親がなんとけしからんものやらなあと、それを教えてくれたのは、子供でしょう。それで子供に手を合わされるわけです。
 
金光:  自分にそういう心が湧いたのは、子供がいたから、その子供が教えてくれた。
 
高光:  教えてくれるんで、自分に子供が居なかったら、そういう気が付かない。ですからそれで幾ら手を合わすことは日常茶飯事なんです。
 
金光:  確か、大船先生の言葉に、「鉄砲というのは外の的を打つんだけども、仏法というのは自分を打つんだ」というようなことをおっしゃっていましたですね。今のもそれに当たるわけですね。普通は鉄砲と同じで、相手が勉強してくれる。相手が自分が思うようにしてくれたらと思うんだけれども、そうじゃなくて、自分の心を、その関連で、例えば若い頃、こういう立派な人間になりたいと思って、ずうっと来られたという時期がありましたですね、高光さんの場合に。それがその受け取るんだと、自分の与えられたさだめと言いますか、そういうものを受け入れるという姿勢になると、しかも相手に働きかけるよりは、自分の心の中に道を、智慧を見え出すということになると、あんまり向上心というか、そういうものはなくなってくるんじゃないかと思いますが、その辺はどうでしょうか。
 
高光:  いや、向上心を持っているばっかりに、みんな向上心に向こうていきますわね。どなたでも、そうだろうと思います。しかしくつわを並べて、そういうところへ行っても到着する人は殆どいなんだろうと思います。だからそれよりも、ああ、そうか、競争のないところへ行こうと。そして逆に、そうすれば自分一人でしょう。それと、字一つ読めん人間でも、兎に角、人間であるからには助かるというのですから。そうすれば人間が、結局最低になればいいんだなあと。
 
金光:  人間というのは人間の智慧のところは最低でいいと。
 
高光:  と、いうてそれじゃ、いつも最低になっているかと言ったら、いつも最低にいないで上がっているんです。
 
金光:  大体上がっていますね。
 
高光:  それでことに遭うと下がらざるを得ないのが、人間の始末なんです。
 
金光:  今の最低にいる時には、その時は一番仏様の智慧に気付き易い時、
 
高光:  そういうことです。仏さんと一緒に暮らしている。
 
金光:  気が付かないで、自分一人でキリキリ舞いして、いろいろ困ったりなんなりしているのは、大体高いところにいるから、そういうことなんで、
 
高光:  高いところにいるからです。一番低いところにいても、自分がそう劣等感を持たなくても別にいいんですわ。一番低いところが人間の平均なんですから。家の父は家に講習会なんてあると、
 
金光:  大船先生ですね。
 
高光:  あると、家によって来る人が、貧乏人とか、病人とか、恋愛に破綻したとか、そういう破綻者だけなんです。それを非常に父は喜ぶんですわ。
 
金光:  ああ、そうですか。お金には縁がないんですね。しかしそれは、
 
高光:  ほんとにないです。
 
金光:  でも、やっぱり仏様の智慧を伝えたいという先生にとっては、それが非常に嬉しいと言うか。
 
高光:  そうなんです。お金にはもう一生の間、貧乏して暮らした人なんです。
 
金光:  でも、そういうところで、そういうお寺にいらっしゃって、大船先生とか、一也先生が留守になさる、講演なんかに出かけている時に、そういう困った人、失恋した人だとか、或いはお金がなくて困っている人なんかが訪ねて見えます。
 
高光:  その時に応対の出来ないと困るなあと思ったのが、そもそもに、分からなくちゃならんことだなあと思って、
 
金光:  その前にですね、兎に角、出合ったこれを受け取るんだと、そのまま受け取らなくちゃしようがないと思っていらっしゃっても、そういうことだけじゃ、いろんな問題を持ってきた人になかなか応対出来難いところがあるわけですね。
 
高光:  そうです。
 
金光:  あなた受けたりしなさいよ。失恋しなさいよというわけにはいかないでしょう。
 
高光:  受け取るものがこれじゃないかということを突き詰めて、そこまで持っていくんです。
 
金光:  相手の人の話を聞いて、
 
高光:  聞いて、そしてどうしても、今あんたの受け取るべき問題がこれじゃないかというところまで、追い詰めていくんです。そして、大抵そこまで追い詰めると、「ああ」と言って溜息付くんです。「分かりました」と言って。
 
金光:  そうですか。
 
高光:  「それじゃ、あんた、それの分からせて貰ろうたのが、あの仏様や。あの仏様にお礼言うて来なさいね」と言うと、「有り難う」と言って、行きますわ。だけれども、なかなか強情でお金があったり、地位があったりすると、なかなか折れませんわ。
 
金光:  ということは、お金があると、頼りにするものが別にあるわけですね。
 
高光:  そうなんです。だから、ある時に、九州の病院を経営している未亡人ですね。子供さんが、男の子供さんで、みなさんお医者さんだったそうです。それでそういうお医者さんの家に、誰でも片付いたらいいなと思うお嬢さんがおったわけなんです。時々どういう関係で遊びに行っているか分かりませんけれども、それでそのお嫁さんになるべき人が、里にお母さんが猫を可愛がっておることを知って、そしてお嫁さんもさるものです。猫を可愛がっていた。そういうので縁があって、そこの長男に片付いたわけです。ところが人間がいつも可愛がってばかりもおりませんわね。そしてお母さんの、陰から見ていたんでしょうけれども、見ようと思って見ていたわけではない。そしてその可愛がっている猫を足で蹴飛ばしたんですね。
 
金光:  ムシャクシャしている時に。それを見付けられた。
 
高光:  見付けた。そうしたらお母さんになるそのお姑さんが合点がいかないんですね。
 
金光:  違う筈だと。
 
高光:  こんな嫁を貰ったんじゃない。優しい嫁を貰ったんだ。さあ、どうしてくれると言うんですがね。それでキリキリ舞いしておって、家を訪ねて来たんです。その時の話に、「あなた、だけども、あんたがご存じなくとも、お嫁さんには可愛がる心もあるし、足で蹴飛ばすような残酷の心もあるんだ。そのある心をどうする」って言うんですけどね。「あなたにもそういう心が両方あるんだ。だから優しい嫁さんだけ欲しくて、蹴飛ばすお嫁さんはいらんというのは、あんたもそういう心があるじゃないか」と。
 
金光:  両方一緒に人間というものはあるものだと、
 
高光:  だから、「お互い様だ」と言うんです。「それがみんなにあるんだから、しようがないじゃありませんか。だからお嫁さんにだけあるんじゃない。あんただけにないんじゃない。全部人間にはそういう心があるんだから、貰ったらどうや」というけれども、どうしてもお金があるし、地位もあるものですから、とうとう「はい、そうですか」は言わずに行ったんですけれども、人間にはやっぱりいろんな心があるんですからね。それを使いこなしていけばいいんですよ。だけれども、人間て普通はなんか知らんけれども、ボサッとしているものなんです。いつも自分というものを振り返るなんて、そんな器用なこと出来ませんし。ある時、東京へ行ってタクシーに乗ったことがあります。それでタクシーに乗って行き先を告げても返事もしなかったんです。
 
金光:  運転手さんが、
 
高光:  はい。運転手さんが。ああ、ご機嫌の悪い運転手さんだなあと思っていたら、いきなり、「わしら、お客さんかて、荷物並みや」というんです、私にね。それから、ああ、と思ったんですけれども、ああ、そうか、荷物になればいいんだわと、ヒラリと荷物に変わったんです。そして、「運転手さん、この荷物大分古いから壊れんように運んでね」と言って、黙っていました。それからいろんな話を私にしてくれるんです。丁度、方南町から大山町までだったから、近いから降りて、その時に、「お客さん、気を付けて帰って下さいね」と言うんです。今度お客さんにしてくれたんです。私も、「運転手さん、あんたも大分血の気の多い人みたいやなあ。気を付けて運転してね」と言って、そこで何にもなく別れたんです。だから自分がそこに馬鹿だと言われたら、馬鹿になればいいし、荷物とはそれでも予想しなかったんですが。だけど、あ、荷物か。荷物にならなくちゃならない場合があるんだなあと思って、そういうことがありました。
 
金光:  先程の猫のお嫁さんの場合ですね。両方の心があるんだということを認めると、その時の姑さんの方は兎に角蹴飛ばした方ばっかり、ずうっと考えているわけですけれども、人間には両方あるんだというふうに見ると、また違った自分の心も出てくるんでしょうけどね。
 
高光:  そしてそういうのを引きずっている長い間の心が、自分が困っているんですね。
 
金光:  その思いに掴まってしまっているということですね。
 
高光:  そうです。それがどれだけ経つか分かりません問題を、また現実に持ってくるんでしょう。だから考えれば馬鹿みたいなものですけれども、それでもやっぱり執着するんですね。
 
金光:  事実が、現実が先にあって、それによって引き起こされた思いをずうっと引きずっているとうまくいかないと言いますか、仏さんの智慧はその時その時で新しいことを、ちゃんと教えて下さるように出来ていると、
 
高光:  そうです。だから自分というものがしょっちゅう空になっているというわけにいきませんけども。だから自分の思いを虚しくしている場合は、例えば運転手さんに荷物と言っても、ああ、そうか、荷物になればいいんだというふうにですね、人間の心なんていうものは人間でおったのじゃ、どうしようもないんですけれども、仏さんと一緒ですから、そして私は生活の智慧だと思っているんです。
 
金光:  ヒラリと荷物にもなることが出来るわけですね。そうなると運転手さんも変わってくれる。
 
高光:  はい。自分が変われば相手が変わるんですよ。だから普通のトラブルでも、自分が変わってしまえばいいんですけれども、なかなか変わる心がないと変われませんでね。
 
金光:  しかし例えばですね、お嫁さん、或いは子供でもなんでもいいんですが、その子供のあることが気になると、ところがそういう気になることを気にかけないで、
 
高光:  気に掛けないと言ったらウソですよ。
 
金光:  というわけにはいかないんですね。やっぱり気にはなるんだ。
 
高光:  気には掛けるけれども、仕方がないんです。
 
金光:  要するに、気にはするけれども、そればっかり考えるんじゃなくて、
 
高光:  角度を変えていけばいいんですわ。
 
金光:  言葉を変えると、何にも我が無くなるんでじゃなくて、自分の中にいろんなものがあるので、いろんな智慧があるので、こちらで言ったら、苦があってもあんまり苦にしないでいけるということですかね。
 
高光:  そうです。我は死ななくちゃ身体から出ていきませんね。厄介ものでも、それは持っていなくちゃならないものが人間だと思うんです。私なんかこういうふうに生きて来られたということは、高光に来ていなかったら、やっぱり折角自分が、例えば、ああ、務めることの知らない、務め方が知らなかったからだなあと思うことなんかでも、全部自分の智慧で分かったように思っていくんじゃないかと。それである意味じゃ自己流になっていきますわね。それでこれくらいのことを分からないかなんて、それを子供にも当てはめるんじゃないかと思うんですけれども。そうじゃない、そういうのは智慧として与えられてあるものだということ。やはりここへ来て仏さんの教えを聞かなかったら、私は今日の私はなかったと思います。
 
金光:  そういうふうに智慧を見付けさせられるようなさだめと言いますか、そういうところに置かれていたという表現も出来るわけですかね。自分の努力というのはそこでは、どういうことになるんでしょうか。
 
高光:  別に努力したとかしないとかというんじゃなしに、そう思っていくだけなんです。
 
金光:  成る程。努力してなんとかというのは、それは人間の智慧の中だから、そういうところじゃないと。
 
高光:  そうです。努力もあるんだから、すればいいんです。だから私は十二分に何でも使っているわけです。この歳になると、いろんなことを経験させて貰って、それでほんとうに有り難いと。
 
金光:  歳を取ると身体はどうしても若い時みたいに動かなくなったりしますね。それで若い頃、自由に出来ていたことが自由に出来なくなったりします。そうすると、不自由だというんですけれども、やっぱり不自由さというのを気にしているところから、ほんとに不自由で困ると。
 
高光:  やっぱり不自由という中に自由があるんですからね。
 
金光:  やっぱりこれも別々のものではなくて、
 
高光:  なくて、一つなんです。丁度、そうですね、私が長い間政治が悪い、教育が悪いと思って、なるだけいい社会になること願って来ていましたけれども、なかなか人間の力では、そしていつまで経っても争いは絶えませんしね。そこで自分を、自分のこの生の身体を自分ですべてをあたわったものを受け取って、そしていくより仕方がないと思っています。丁度針に糸を通して、縫っていきます。そうすると、一方の糸がずうっと縫っていくのが人生と一緒で、人間にはプラス、マイナスがあって、一つになるんです。
 
金光:  表に出たり、裏に出たり、それでいろんなものが一つになる。
 
高光:  それをどうしても離すことが出来ないんですわ。裏と表、自由と不自由、相反したものは一つの糸のように繋がっているんです。
 
金光:  それじゃ、憎たらしいと思うのと、非常に愛しいと思うのは、これも裏腹である。
 
高光:  裏腹なんです。だからそれを歩いて来たのが人間の私なんですわ。だからどうしても嫌いなものでも離すことが出来ない。だから離すことの出来ないものなら、貰っていけばいいわけですから。
 
金光:  そういうものだと思って、自分で、
 
高光:  両極端が一つになっているんですから、それを離すことは出来ないんです。
 
金光:  両方あるのが本当の現実である。
 
高光:  そうです。それがそういう人間に生まれついたんだから、どうしようもないんです。
 
金光:  生まれた時に、自分は自分で設計したわけじゃないわけです。与えられたものを、ちゃんとそれは頂きますと、
 
高光:  そうです。その与えられたレールに乗って、死ぬ日はいつかは分かりませんけれども、死ぬまで、そのレールを走っているわけなんです。
 
金光:  ただ、その与えられた条件というのは、普通、思いが気付いて、いろいろ思っているよりも、もっともっと随分、殊に仏様の与えて下さる智慧というのは、無限に広がりがあります。
 
高光:  そうです。そしてその智慧を頂戴すると、兎に角、頂戴しない自分とは違った、それこそ楽と言えば可笑しいんですけどね。
 
金光:  そうすると、若い時には若い時、或いは歳を取ったら歳を取って、身体の条件が違って来ても、そこはそこでまた、
 
高光:  そうです。若い時は若い時の条件がありますし、身体の条件もありますし、男は男、女は女で違うんですよ。だから同じにってわけには、この世はいかないんじゃないでしょうか。
 
金光:  という事実を、現実をよく見て、そこで生きて働く智慧によって、生かして頂くと、
 
高光:  そうなんです。だから結局、あんまり摩擦の起きることはないんですけどね。摩擦の起きそうな時には、智慧が働いてくれれば、スウッと擦れ違っていけるものですからね。
 
金光:  というのは、九十二年以上の生活の中で、日々感じていらっしゃるということでございますね。
 
高光:  今となれば、やっぱり身体も十分じゃございませんし、みなさんのお世話になっているだけですから、まあ有り難うより他ありません。
 
金光:  どうも有り難うございました。
 
高光:  いえ、いえ。有り難うございました。
 
 
     これは、平成十年九月二十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。