恵みをよろこぶー斎藤政二(まさじ)の短歌からー
 
                      龍谷大学教授・浄泉寺住職 朝 枝(あさえだ)  善 照(ぜんしょう)
昭和十九年生まれ。龍谷大学博士課程修了後、各大学講師をへて教授に就任。ハワイ大学、ワシントン・リー大学客員教授などもつとめた。全国の妙好人伝に関する研究、著作などで知られる。
                      き き て        有 本  忠 雄
 
有本:  広島県の北にある芸北町に、今から十数年前、篤信な念仏信者、斎藤政二(昭和五十九年没)さんがいらっしゃいました。今日はその斎藤さんの信仰深い歌を中心に、龍谷大学教授で浄泉寺(じょうせんじ)住職の朝枝善照さんにお話頂きます。先生、よろしくどうぞ。
 
朝枝:  どうも。
 
有本:  この浄泉寺は広島県と島根県の県境、島根県の瑞穂(みずほ)町にございますが、随分山深いところにあるお寺でございますね。
 
朝枝:  はい。現在は高速道が出来まして、便利になりましたけれども、歩いて往来をされる時代は大変であったと思います。
 
有本:  本当に「三方山(さんぽうやま)」という言い方もございますけれども、三百六十度どこを見ても山々山という感じの里でございますね。
 
朝枝:  はい。中国山地は同じような高原が続きますけれども、山砂鉄の産地でございますから、たたら産業、或いは銅山、大森の銀山、古くから鉱山としては非常に栄えていた地域でございますから、このような山の中でも寺を建てることが出来たんだと思っております。
 
有本:  そうしますと、お寺の歴史と言いましょうか、どの位になるんですか。
 
朝枝:  大体、蓮如(れんにょ)上人の時代に伝道が開始されまして、五百年以上は続いております。
 
有本:  そうですか。先生はこの浄泉寺でお生まれですね。
 
朝枝:  はい。今、私で丁度十九代目になっております。
 
有本:  四人兄弟のご長男ということですから、生まれながらにして、この浄泉寺の跡継ぎさんということでしょうけれども、お父様はやはり期待なさって、小さい頃、住職になる為の教育と言いましょうか、お受けになりました。
 
朝枝:  いや、あまり父が指導したという記憶はないんですが、この地域は非常に念仏の篤信(とくしん)な方が多いので、そういうご門徒の方に教育されたような感じが致します。
 
有本:  門徒の方々が将来の住職さんになる善照先生ということで期待をなさって、いろいろ教育もなさったと。
 
朝枝:  そうですね。それと真宗のお寺はお聴聞(ちょうもん)が月に一回はございますので、各地からいろんな明師が来られまして、ご法話をなさいます。まあ先代の住職、父がお招きしていました先生は、浜田の川上清吉という非常に篤信な先生、或いは広島の寺町の徳応寺の藤秀?(ふじしゅうすい)という先生がこられました。それと戦争中には瀬戸の島に疎開をしておられました足利浄円先生、このご三人の方にたびたびお越し頂きまして、この地域の説法をなさって、この篤信な同行が随分育ったんではないかなあと。そういう人をお招きすることが、父が私に教育をする一つの形を変えた教育ではなかったかなあと、今、気が付くようなわけです。
 
有本:  中学、高校と浜田でお過ごしで、その後は、当然と言いましょうか、龍谷大学にお進みになる。龍谷大学は真宗の宗門校ではあるんですが、先生がご専攻、勉強なさったのは、
 
朝枝:  私は仏教学科に入りまして、三回生からは古代史をやろうということで、浜田高等学校の時に、図書館に先輩である川上清吉先生、或いは歴史家として、非常に「明治維新の研究」を致しました服部之総(しそう)、こういう方々の書籍が全部揃っておりまして、それを図書館で読むことが出来ました。そういう体験から大学で歴史をやってみようと。服部之総先生の影響が、非常に強かったと思いますけれども。それと修行するのは、昔から「守(しゅ)・破(は)・離(り)」と申しまして、最初は師匠の言い付けを守ってみると、そしてちょっとその教えに疑問を持ち、そして離れてまた考える、と言いますけれども、二葉憲香先生のところには、海外からも随分研究者が来られましたので、私達は海外の研究者では、ロバート・ベラーという人が、随分人気がありまして、そのご門下のロジャーズ・マイナー先生、これは蓮如の研究をなさったんですが、蓮如(れんにょ)上人の研究家、それから親鸞聖人の研究でハーバード大学で博士号を取られたアルフレッド・ブルーム、ハワイ大の先生、こういう方は研究室によく来られましたので、そういう海外の研究者も我々の時代は憧れて、よく本を読んだものでございます。昨年、ハーバードの教授として、この市木(いちぎ)にも来られたハロルド・ボライソ博士がおられまして、そういう海外の方が日本文化を研究する為に足を運んで来て下さると、そういうご縁も非常にあります。
 
有本:  海外の方々が、研究者が京都、奈良、鎌倉などの有名寺院にお出でになるということはよく伺いますけれども、この瑞穂町の先生の寺坊に、ということは、そういう意味では外国人の方々にもっともっと日本の仏教を肌で感じて頂く為にはいいことですね。
 
朝枝:  今はそういう文章の上からだけではなくて、地域で実際にどういう人が、「妙好 人」と呼ばれて、生活していたのかということを、アメリカの方は足を運んでみるという、非常にフロンティア スピリットと言いますか、我々は書斎で学びますが、そこはちょっと違いますね。研究の方法がですね。
 
有本:  今、「妙好人(みょうこうにん)」という言葉がでましたけれども、「妙好人」というのは、篤信の念仏者と言って宜しいわけですね。
 
朝枝:  はい。親鸞聖人が『正信偈(しょうしんげ)』の中で、そのような篤信の方を名付けて「是人名分陀利華(ぜにんみょうふんだりけ)」、「分陀利華」のような人だと。「分陀利華」というのが中国で、「蓮(はす)」「蓮(はちす)」と訳されましたので、善導(ぜんどう)大師が最初に使われたんでございますけれども、「妙好華(みょうこうげ)」、そして「妙好人」、こういう言葉は親鸞聖人の時代からあるんですが、私の所の寺の十一代の住職になりました仰誓(ごうせい)という人が、江戸時代の中頃の人ですが、大和の清九郎(せいくろう)さんに会いまして、素晴らしい篤信者だと。その伝記を自分で纏(まと)めまして、後、いろいろな各地の篤信の方を九人、合計十人親しく聞く妙好人で、『親聞(しんもん)妙好人伝』というものに纏めて、それを御法話の時に、たとえ話として、こういう方がおられたという形で紹介する。それをお弟子さんからお弟子さんへというふうに、ずうっと書写して伝わっていったと。それが纏まったものが後に『妙好人伝』という本になって、上下二巻出版されまして、その本が広く読まれるようになっていくと、浄土真宗の篤信者の方を「妙好人」というふうにだんだん限定されてきまして、鈴木大拙先生がコロンビア大学で浅原才市(さいち)という方を紹介された時に、「生ける妙好人」「生きている妙好人」、そういう英語にしないで紹介されたものですから、もうアメリカでも、「妙好人」というそのままの単語で、浄土真宗の篤信の方を意味するようになっておりまして、才市さんはもっとも有名な方で、多くの妙好人めぐりという方が最近この市木(いちぎ)に来られますが、ここで『妙好人伝』が編集されたという由来を頼って、それと仰誓師のお墓に参拝していかれるという方が来られるようになったんではないかなあと思います。
 
有本:  妙好人をそもそもこの世に紹介したのは仰誓和上という、
 
朝枝:  結果的には、『妙好人伝』に纏めましたので、そういう出発の一つの「妙好人」という概念と言いますか、考え方を作られた方というふうに、鈴木大拙先生も言っておられます。
 
有本:  まあ二百年前からということですが、明治、大正、昭和、そして平成とですね、先生は今度斎藤政二翁の歌を中心に、現代の妙好人をお纏めになったんですが、そもそも斎藤政二翁、政二翁と言っても、実際には六十半ばでお亡くなりの方のようですが、最初にお会いになったのはいつ頃なんですか。
 
朝枝:  お寺の総代さんですから、子供の時から知ってはいましたが、静かな、あまり話をされない方でございますから、親しく付き合ったということではないんですけれども、この地方は報恩講で一軒一軒お勤めをして廻りますので、斎藤政二さんのお宅にも、年に一度はお参りしていました。そういう点では、随分三十年以上は交流があったわけでございます。
 
有本:  報恩講というのは、例えば京都で言えば東西両本願寺で、親鸞聖人の恩徳を偲ぶ法会(ほうえ)でございますか、あれをそれぞれの地方でも、
 
朝枝:  一軒一軒ご門徒の、一年に一回お勤めになりますので、大体三時間位づつ、一日に四軒、当時は廻っておりましたですが、『正信偈』を読みまして、あと三十分位ご法話をして、周りの人が集まってお斎(とき)を頂いて、大体三時間位、仏事をして、次の家に廻るという形です。
 
有本:  そうですか。斎藤政二さんのお宅で報恩講があったのは、昭和何年頃なんですか。
 
朝枝:  毎年ずうっと廻っておりましたが、最後にお目にかかったのは、五十六、七年頃でございます。
 
有本:  そうですか。物静かな、どちらかと言えば無口な方という印象。その頃から歌をお作りになる、或いは写経をなさっているというようなことはご存じだったんですか。
 
朝枝:  いや、立派な方であるということは、私なりに理解しておりましたし、思慮深い方だとは思っておりましたが、このように非常に深い信仰を湛(たた)えて、さらに歌、或いは写経をなさっておるというふうなことは全く存じませんでした。
 
有本:  そうしますと、歌、その他は斎藤政二さんが亡くなられてから。
 
朝枝:  ええ。奥さんが後にお部屋を片付けておられた時に、キチッと整理して、『教行信証』『浄土三部経』『正信偈』、そういうものもちゃんと自分で和綴じの本にされて、箱に入れて、表紙も付けて、日々書いておられた日記のような、或いは所感を『観想録』、それが全部いっぱいになりましたら、『遊心録』という二冊目のノートに。あと、『正信偈』とか、いろいろなお経を日課のように写経しておられたものが、随分沢山出て参りまして、奥さんもビックリしたと言っておられました。
 
有本:  家族の方もご存じなかった。
 
朝枝:  はい。なかったようでございます。
 
有本:  そうですか。二冊のノートに纏めていらっしゃった。
 
朝枝:  あと、沢山お経でございますから、それを全部表紙を付けて、和綴じにして、それが残されていたんです。
 
有本:  そうですか。先生は、『いま照らされしわれ』という本に、斎藤政二さんの歌を中心にお書きになっていらっしゃいますけれども、亡くなられて、二冊のノートを拝見し、これは是非紹介して、ご本に、広く世間の方々に、というのは、やっぱりノートを拝見して、歌に感動なさったという、
 
朝枝:  そうですね。このまま放っておけば埋もれてしまう。歌の部分だけでも世の方々にご紹介したいなあと。それまでにも、各地、芸北からこの瑞穂町を廻っておりまして、非常に篤信なお方が多いということは分かっているんですが、歌が残っていたりする例は、稀でありまして、或いはその書いたものがありますと、よく分かりますので、たまたま斎藤さんが残された歌は、世の方々に紹介する一つのきっかけになるのではないかなあと。そう思って編集してみたんです。
 
有本:  そうですか。斎藤さん、どんなふうに皆さんに映っていらっしゃったでしょうかね。
 
朝枝:  斎藤さんは戦前の方でございますから、教育はですね。小さい時からよく勉強が出来て、そしてスポーツも出来て、戦前ですから、剣術、剣道の選手で、出征なさった時には近衛(このえ)兵(へい)として、三年間東京に行っておられて、帰られてからも地域の中心の方で、この地方はスキーが盛んでございますから、今でも芸北国際やミズノハイランドなどの大型スキー場が十箇所位ございますが、スキーの選手もされたり、ハイカラな面もあったと思います。無口な点ではあまり自己主張なさる方ではなくて、むしろ率先して地域のリーダになるというタイプの青年だったと思います。
 
有本:  当時、近衛兵ですから、選ばれた方々で、皇居を中心に天皇をお守りする兵隊さんということでしょうから、ほんとに選ばれた方々のお一人だったわけですね。
 
朝枝:  そうだと思いますね。学力優秀、体力も質実剛健という模範青年であったと思いますね。
 
有本:  まあ、そう言った物静かな方という印象なんですが、風貌と言いましょうか、容貌は如何でございますか。
 
朝枝:  そうですね。いま思い出しますと、古武士のような眉毛の、キリッとしたお顔で、いい声で、非常にいい声で笑っておられたことを、今思い出しますけれども、立 派な、やはりそういう思索をなさっておられたからか表情が、今でも思い出すの は、非常に立派な方だったという感じが致します。
 
有本:  広島県の芸北町のご出身ですから、篤農家と言いましょうか、農家でいらっしゃったでしょうかね。
 
朝枝:  農家を中心に山林が多いですから、山の管理、植林、そういうことをなさって、あの地方の名門でございますので、そういう自分の家を守って、早くご両親を亡くされましたので、家を中心に造林をするとか、そういう家業をなさっていたと思います。
 
有本:  先生がお書きになったご本を拝見しますと、ガンの発病を契機に、病室でどうやらしたためたのが発端のようですね。
 
朝枝:  そうですね。昭和五十五年の一月から、『観想録』が書かれておりますけれども、昭和五十四年に加計(かけ)の町立病院でガンの手術を受けられて、麻酔が切れて、蘇生(そせい)と言いますか、我にかえった時に、フッと心に浮かんだのが、最初だと思うんですが。その時にこれは漢詩のような形で書いておられますが、訳して申しますと、
 
     空城(そらじょう)の美しき山々に抱かれて六十年。
     わが生涯を悔いることなく過し、
     日々西方極楽浄土の世界に帰るべきを思い、
     世の人びとさまざまのご縁に謝すべきのみ
 
こういう言葉が浮かんだようで、私、最初にこのノートの中で、この文章に出会いました時に、ビックリ致しまして、こういう思いで、この方は六十年生きておられたのかと。私は気が付きませんでしたから。そして普通そういうガンになり、或いは手術をして、初めて我にかえるということもあるんでしょうが、斎藤さんの場合、私に強く感じられましたのは、それまで六十年間、長い聞法(もんぽう)の生活があって、そして初めて、本当にそうだなあと実感されたのが、長い聞法があって実感された。病気になったから、慌ててお寺に聞法に参られたんではなくて、長い聞法の時代が、手術を契機にして、逆に強く思い起こして、感じられて、西方極楽浄土の世界に帰るべき、ということに実感を持たれたというところに、私はビックリ致しまして、後の歌をずうっと読んで見たわけなんです。
 
有本:  そのガンの手術をお受けになって、それから先程の報恩講の時は、一時、退院なさった時に、先生はお会いになっているわけですね。
 
朝枝:  ええ。ガンということは、現在とちょっと違って、あまり告知もしませんし、周りの人も、それに触れませんので、そういう病気とは知らずに、血色もよく、お元気で報恩講には周りの方が、七、八人は呼ばれて来られますので、お客さんにご接待なさって、お客さんがいろいろと話をされるのを聞いておられると。いつもの調子であります。私もお客さん、参詣のお同行が私に尋ねられたら、それについてお話をすると。斎藤さんの家に居ながら斎藤さんとはあまりお話をしないで、お客さんと。それが普通多いわけですから、まったくその時も気が付きませんで、お元気な様子で、その日は終わったわけなんです。
 
有本:  そうですか。これを拝見いたしますと、四、五年ということですね。
 
朝枝:  はい。非常に中味の濃い時間をお過ごしになったような感じが致します。そういう点では、ガンということを宣告されて、逆にその病気に感謝しておられますような感じも致しますので、それを機縁に自分はまた聞法出来、日々を喜んで過ごせるという感じが歌に出ている部分もありますので、ただ、病気になったという悲しみだけではなかったような感じが致します。
 
有本:  その聞法で言えば、小さい頃から仏の教え、阿弥陀様の教えを身体で受け止めていた斎藤さんだからこそ、そういう僅か数年ですが、パッーと、うなりの如く歌になった、ということなんですね。
 
朝枝:  と、思いますね。浅原才市(あさはらさいち)さん、浜田の有福(ありふく)の善太郎(ぜんたろう)さん、随分山陰には源左(げんざ)さんとか、有名な名の出た妙好人と言われる方がおられますけれども、いろいろと研究して見ますと、一人そういう方がある場合には、その地域に同じような深い信仰を頂いておられる方が、二、三十人はお同行、お友達が居られます。ですから空城という斎藤さんの周辺も、歌は作られませんけれども、同じような深い浄土真宗のお念仏を喜ばれるお同行は、まあ二、三十人は今でもおられますし、各地にそういう方が今も生活をしておられて、それを山陰の「土徳(どとく)」という、その代表が才市さんであったんではないかという気が致します。
 
有本:  成る程ね。それでは先生がお出しになりました、『いま照らされしわれ』というご本の中から、斎藤さんのガン発病から、お亡くなりになる迄の数年間の歌などをご紹介頂きたいと思うんですが。
 
朝枝:  「入院中の歌十四首」という中で、一、二ご紹介させて頂きますならば、
 
     桜咲き人は生々(しょうしょう)の春なれど
       病(や)む吾(われ)は日をもだえつつ
 
もう一首、
 
     苦しさにみだれる吾のかなしさよ
       常に護(まも)れる仏をぞわすれ
 
こういう歌が含まれておりまして、手術の後、蘇生後は、非常に感謝の心持ちでおられたんですが、だんだん体力が回復してきて、そしてそれ迄はお元気な方でございましたから、不自由なことがあると、まわりの人は元気で、春だと言って、桜を見ているのに、自分はなんで苦しいのだろうか。或いは苦しさ、痛みがあったのかも分かりませんが、ついこう吾を忘れてしまう。しかしこの忘れている自分も、常に如来様は見続けて頂いている。それをも忘れてしまう程、自分の苦しみがあるけれども、それは忘れてはいかんなあという形で、反省をしながら、また如来様を苦しさの中に、逆に喜ばれるというふうな、これが一年位経たれた時のものでございましょうか。それからプツッと三年間ノートには歌がないんです。そしていろいろな思い出が書いてあるんですが、三年ぶりにポツッとノートに書いてありましたのが、昭和五十七年に、
 
     おかされしふかき病の身となりて
       よりおおいなる仏をぞ観(み)る
 
こういう歌がポツッとノートに書いてありました。ここまで来ますと、身体もかなり回復なさって、気持も落ち着かれて、そして病をジッと見つめると。そしてむしろ病になって初めて、大いなる仏様の、如来様のお救いの実感が、自分にもあるなあという思いが、三年ぶりに一首の歌に纏まったのかなあと。こういう歌を見ますと、「深き病の身」ということを、前向きに受け止められているという。浄土真宗は「勇(いさ)みの念仏」と。前に前に進む。励ましながら、人生を送るんだという「勇みの念仏」と申しますが、そういう言葉を使ってありませんけれども、歌の中に伺える心持ちは、本当に浄土真宗の念仏に生かされて、前向きに生きておられるなあということが感じられて、非常に素晴らしい歌だなあと思いました。
 
有本:  お念仏を日一日一日、深く味わっていらっしゃる様子が、この歌から、ということですね。
 
朝枝:  それから歌を作り出されて、写経も、今度は写経という形で、朝早く起きて、たまたまノートに、
 
     正信偈(しょうしんげ)今日もくれゆくたどたどしきや
       吾がみずぐきのあと
 
こういう歌がございまして、ここから写経が始まったなあと。『正信偈』も写経しますと、時間がかかりますので、根を詰めて、お書きになって、後で見たら、字が拙劣でたどたどしいなあと感じられたんでしょうが、随分の量を、始められた五十七年から後の出発が窺(うかが)える歌でありましたので、ここにちょっと採録しておいたんです。あと、小さい時にご両親が亡くなられて、叔父さんに養育されたので、親に対する思いというものは、歳と共に深まっていったような感じが致します。それを歌の中に見ますと、
 
     うみの親おさなきときに逝(い)きませり
       六十路(むそじ)をこえてきく西の親
 
小さい時から、ご両親を追慕なさったと思いますけれども、六十歳を越えて、だんだん老境に入るに従って、親を亡くしたと思ったけれども、西方極楽、西に自分を待ち続けている親がいた。それは如来様のことなんですが、そういう西の親というふうな思いで、実の親と如来様をダブらせた形になっていますけれども、そういう形で、浄土を思い描かれるという斎藤さんの境地は、非常に安らかな日々を送られているなあという感じが致しました。それからこの月日がまた過ぎていきますと、いよいよお聴聞が深まっていったんでございましょう。
 
     限りある病となりてあきらめる
       限りなき法(のり)よばれ悦(よろこ)ぶ
 
これは浄土真宗のお念仏を、非常に深いところで受け止めておられるなあと感じましたのは、人生というものは、斎藤さんの場合、六十過ぎの時期でございますけれども、いつかはこの世が終わるという限りはあるけれども、それをガンということで宣告されて見ると、その限りある人生であるけれども、自分がいま出遇っておる如来様の教えは、無量寿、無量光で限りなきお念仏なんだと。そういう如来の大悲、いつも呼ばれ続けているこの如来様の教えに遇(あ)うことが出来た。それを呼ばれ悦(よろこ)ぶ。真宗では教義的には昔から、「二種深信(にしゅじんしん)」と申しますけれども、如来様からの呼びかけ、そしてそれに凡夫(ぼんぶ)の私の側から、また対応するという、そういう信仰の構造、これを「二種深信」と申しますが、そういう難しい言葉でなくて、呼ばれ悦ぶ。呼ばれていることを悦ぶという、サラリと難しい教義もよくこなされる、と言いますか、味わって歌にしておられる。こういう境地は病気を一つの機縁にして、それまでの長いお聴聞の過ぎた日々が凝縮されて、パッと一度に花開く感じで歌になっている。それも明日も明後日もあるというのではなくて、やはりいつかは寿命は尽きるということを、日々思いながら生活しておられますから、限りなき法(のり)にあった悦びも、またそれだけ、禅で申します「泥多ければ仏大」という、そういう限りが刻々と迫る。それ故に限りなき法に遇う悦びも、また一方大きいものがあったなあという感じが致しました。
 
有本:  頭でこういうことだよと、とかく考えがちですが、今のお話を伺いますと、斎藤政二さんはまさに往相(おうそう)回向(えこう)を、この身でというか、身体全体で受け止めて、こういう歌になったという感じも致しますね。
 
朝枝:  それは一朝一夕に出来るものではなく、長い間の聞法、そして周辺の人達との語らいといいますか、法に遇(あ)った悦びを語り合う中から、だんだん生まれてきた思いだと思います。そういう点で、ご家族のお方、或いは子供さん、お孫さん、いろんな人に呼び掛けておられる歌が沢山出てまいりますけれども、奥さんのことを歌われた歌は、何首かございますが、一、二ご紹介致しますと、五十七年一月二十日、これは御正忌(ごしょうき)という、浄土真宗では、非常にご開山親鸞聖人のお聴聞が勤まる時なんでございます、
 
     白雪の道ふみ分ける妻ありき
       法の灯(ひ)したい急ぐ冬空
 
これは空城も一月になりますと、随分雪が降る地域でございます。そういう雪の道を、私はこれは夜ご参詣になったのかなあと思ってみたり、或いは念仏の灯火(ともしび)を目指して、奥さんが急いで冬空の中を一山越えてお寺にご参詣になりますので、奥さんが出掛けられるのを見送りながら、お聴聞して帰ってくれたら、自分もまたそのお聴聞を聞けるなあという喜びもあったと思いますし、そして自分と同じ浄土真宗のみ教えに、妻も熱心にお寺に参詣しようと、いま急いでおるなあということも、逆に、一人で喜ぶことが、二人と思うべしではございませんが、斎藤さんにとっては、ご家族がまたお念仏の法を喜ばれる方ですから、それが非常に心の安らぎでもあったような感じが致します。
 
有本:  斎藤政二さんのほんとにこの履歴書の一ページと言いましょうか、一行を拝見するような感じも致しますね。
 
朝枝:  そういう歌を通じて、政二さんのありし日の姿、生活ぶりがよく伺える点では、ほんとに文字も心の動きがやはり出るんでしょうか。ノートを見ました時に、
 
     ガンなりと抱(いだ)かれて今まかせけり
       手術台親と二人の心安さよ
 
こういう歌がありまして、歌とすれば、どうも語調も悪いし、調っていないような感じがするんですが、自分が「ガンなりと」と書いておられる字が、多少震っているような感じが、私も見まして、ガンという、当時は今よりもっと命に関わる病気ということで、二回目の手術でございますから、もう転移しておるのかと思われたのかなあと思うんですが、その前後で、
 
     限りなき身(み)となるおしえ限りある
       人の世に在り今照されし居(お)る
 
こういう歌がございまして、私がこの本を纏める時に、最初、考えました題が、「安芸(あき)の妙好人ー斎藤政二小伝」と。広島ですから安芸の妙好人斎藤政二、小さい伝記ですね。という題で印刷しようと思ったんですが、校正を続けておりますと、考えて見ると、斎藤さんは広島の方であるけれども、これを読む方は広島だけではなくて、全国におられる筈だから、別に安芸というふうに小さい地域を限定しなくても、法にあった喜びというのは、非常に普遍性があるんだから、一般的に、そこでこの歌から、ああこれを題にしようと思って、「いま照らされしわれ」というふうな題を付けて、そして副題として、「安芸の妙好人斎藤政二小伝」というふうに致しましたのも、非常に広がりのある世界でございますから、別に芸北とか、広島とか、拘らなくても、そしてその周辺の人は、ほんとに私が今でも思い出しても、個人的な名前で、ほんとにみな覚えているような栃藪みさおさんとか、清丘一男さんとか、ずうっとこういう人が、同じような深い信仰を持っておられる方が多かったと。ですからあまり安芸と拘らなくても、全国という感じで、「いま照らされしわれ」というのは、どなたもそういう思いだったなあという感じで、題を急遽変えて作ったんでございます。そういう点では、戦争には行かれましたし、広島というのは原子爆弾の洗礼を受けた地でございますから、非常に年齢とすれば、お年寄りなんですが、核兵器に対する思いは強いものがありまして、ノートを見ておりましたら、新聞やテレビを見ておられたんでございましょう。
 
     光にも聖(ひじり)の光十二あり
       いとかなしきや広島の光
 
こういう核兵器反対について、詠われた歌が、何首かずうっと連ねてございました。考えて見ますと、仏教の仏様の十二光仏(じゅうにこうぶつ)とか、いろいろと光に譬えて申しますが、同じ光でも、原子爆弾の光は、しかもそれは広島に落ちたわけですから、斎藤さんにとっては戦争の思い出と、そして人類は二度とそういう核兵器を使用してはいけないという思いが、最後まで強く、そういう点では、妙好人、或いは真宗の念仏者と言われる時に、従来、あまり文字を知らないとか、世間に関心を持たないとか、非常に超世俗的な、一風変わった方というイメージが、ある部分では強くありますが、斎藤さんのような方を見ておりますと、非常に冷静に、社会的な判断力もあり、そして学識もあり、深い信仰を湛(たた)えて、ものの善し悪しと言いますか、我々が二十一世紀を目指して生きる時に、どのような生き方をすべ きかというふうな目標と言いますか、生き方について、いろいろと感じられます。歌をこうして読んでいましても、現在高齢化社会で、生涯教育というふうなことも言われますが、斎藤さんのような、たまたま病気になられましたけれども、強く生きていくという真宗の教えが、非常にいい意味で、模範的に現れている、そういう社会的な関心がこういう歌にも伺えると思って、私は取り上げておきました。そういう点では近代化社会というのは、都会に人が集まって、大きな街が出来ていけば、そこに生活するのは一つの憧れでございます。しかし、例えばニューヨークの方々に老後のことを聞くと、自然の多いテキサスの方に行って、農業して住みたいというふうなアメリカの人がたくさんおられます。日本ではまだ都会に住むことが憧れという人がありますけれども、斎藤さんは、
 
     政治には取り残されし我が里も
       過密なりけり親のよび声
 
こういう歌を作っておられまして、非常に風刺的な部分もございますが、物が豊かになり、或いは近代化される。それも一つの生き方かも知らないけれども、空城は、如来様の呼び声は、「過疎過密」と言いますと、過疎地もございますが、如来の呼び声は過密だ、という思いを、実際に感じておられたと思います。日々の生活は生き生きとしておられましたですから。そういう如来様の呼び声を十分に自分は感じて、満足した人生を送っておると。こういうこの思いはもう一度我々が次の世紀を迎える時には、味わってみなければいけない思いだろうなあという感じが致しました。そういういろいろな歌を作られて、社会のことも詠われ、身体も元気に回復されて、余裕が出来た頃には、私の方の寺にも何度か参詣されて、元気になっておられる。そういう参詣された時に、お帰りになられて、歌が何首かございまして、その中の一つに、
 
     浄泉寺磯七(いそしち)泣きし山門や
       弥陀はたちてぞ吾を迎へり
 
これはお寺の報恩講あたりに、磯七さんが長いこと、このお寺の十二代の履善(りぜん)和上のところに、六キロ位向こうから毎日毎日通っていまして、三十日位した時に、ある得るものがあって、それを朝早くここに来まして、履善(りぜん)さんにお話されたら、その時に、「あんたは一晩思案し、或いは三十日思案して得たものがあると言って、喜んでおるかも分からんけれども、そんなものを当てにすると、大怪我をする。何故ならば、如来様、法蔵菩薩は五劫(ごこう)の間、大変長い時間を思惟(しゅい)されて、やっと成就された。たった一晩や、三十日の聴聞で頂いたと思っちゃ、それは間違いですよ」というふうなことを諭されて、それで、「そうであった」と、さめざめと山門で泣き崩れたという有名な逸話がございまして、それを斎藤さんがお聴聞で、よくご講師さまが話されますので、それを聞かれまして、こういう歌ができたのでありましょう。斎藤さんの亡くなられた後に、いつともなく、斎藤さんの歌の碑を、これだけあるなら建てようということになりました時に、この歌を、私の方の丁度山門の見える場所に建てておこうということで、山門を入ればこの碑が見えるような位置に、磯七さんも偲んで、これがあれば石州(せきしゅう)の門徒さんはこの歌を見られると、いろんなドラマと言いますか、エピソードを思いだされますので、この歌を選んだのです。ほんとにそんなに頼まないのに、碑を建てる費用はアッという間に集まりまして、そのうえ、剰りましたので、もう一基、斎藤さんのお生まれになった家の前に、記念の、「いまてらされしわれ」という頌徳碑(しょうとくひ)を作らせて頂いたんですが。そういう亡くなられた後のことを思いましても、随分周りの人から尊敬され、慕われておられたということが、よく私にも分かりまして、私が一人ノートを見て、感激しただけではなかったなあという気が致しました。晩年、非常に日々ある意味では家族の方からも手厚い看護を受けられながら、幸せにお過ごしになって、亡くなられたあと、斎藤さんの後を受けておられる方は、義明さんは学校の先生をしておられましたんですが、丁寧なお手紙を京都に頂きまして、「五十九年五月十八日に亡くなりました」と。「最後の歌が五十八年 の暮れのもので、
 
     さんさんと慈光(じこう)輝く白い道
       しんらんさまと進むうれしき
 
こういう辞世の歌がありました」と、お知らせ頂きました。それで浄土真宗の場合でも、「二河(にが)白道(びゃくどう)の道」と言いますから、そういうお話も聞いておられまして、自分の行く手を、慈悲の光が輝いておると。こういうふうに死をもう乗り越えて、むしろ死というものよりも、親鸞様と共にお浄土に自分は往かして頂くという、幸せ感というものが感じられます、こういう歌を残して、この世の人生を終わるというのは、本当に素晴らしいことだなあと、そういう思いがありまして、この小さい本を綴じさせて頂いたわけなんでございます。
 
有本:  今、ご紹介頂いた歌碑は境内にございますね。この寺は数百年の歴史があって、非常に学僧、勉強を深く修(おさ)められた方々がいらっしゃる。これは浄土真宗で、「石州学派」というどうやら一派のようでございますね。
 
朝枝:  江戸時代に非常に宗学、学問を研鑽することが深まりまして、今のように京都に直接行って学ぶわけにいきませんので、富山とか、九州とか、堺とか、各地に優れた指導者がおられて、そこに学寮と申しまして、全寮制で、周辺の非常に優秀な子供さんを預かって、八つから十九才位まで、大体、年齢の幅は随分ございますが、修学を学ぶわけです。そういう十学派ございまして、全国に。「地方学林」というふうに言えば、地方学林ですが、石見(いわみ)の国でございますから、その学派を「石州学派(せきしゅうがくは)」と。別名「敬虔学派」ともいわれるんです。非常に信仰心が篤いということで、石州学派は世に知られて、それの最初の開設者が十一代の実成院仰誓(じつじょういんごうせい)という方が、当時門主が法如(ほうにょ)上人でございますが、法如上人が仰誓師に、「石州に行って、教学を振興して欲しい」という依頼をされまして、本山からこちらに来られまして、で、来られた次の年くらいから、この周辺の子供さんを集めて、全寮制の教育機関ですね、当時の。作って、そこで修業して、立派に成長された方を、また周辺の寺に入寺して頂いて、その周辺を教化して頂く。それが積もり積もって、石見石州門徒、或いは広島も近いですから、安芸門徒と、北部の。そういう人達の広い層を支える教化者と言いますか、宗教家、住職ですね、それをここで教育をしました。ですから教育の内容も、漢学の素養、そして真宗学も両方学ばせて教育しました。たまたま私の方に仰誓和上が功存(こうぞん)上人の歌を感激されたんでございましょう、軸に書かれて、その下に自分が蓮の花を添えられたものが寺宝として伝わっております。その歌は、
 
     けふまでもこの露の身は消(きえ)なくに
       このはちす葉の数(かず)にいるかも
               (功存上人)
 
この歌は仰誓和上の若い時に功存上人の歌に遇(あ)われたようで、非常に求道(ぐどう)の心が全面に出ておりますが、そういう非常に求道心のおありであった仰誓師が京都から来られて、そして周りの優秀な子供さんを教育されて、その蓄積が結果的に源左さんであったり、才市さんであったり、善太郎さんであったり、磯七さんであったり、或いは政二さんであったり、秀浦健一さんであったりというふうに、時代を超えて、次々と妙好人が生まれてくる一つの大きな土壌をこの仰誓師がお作りになったような感じが致します。
 
有本:  仰誓師は蓮如上人の、
 
朝枝:  九代目の孫ということですね。
 
有本:  血が繋がっているという、
 
朝枝:  市木に来られまして、当時とすれば、このことが非常に多くの方に尊敬を受けられる一つの機縁にはなったんではないかなあと思います。私が感じますのは、日本はある部分では、常にアメリカをモデルにして展開してまいりまして、先程申しましたハーバード大学のハロルド・ボライソという先生が市木に来られましたが、この先生は「江戸時代の幕藩体制の研究」をなさるんですが、江戸時代の幕藩体制の中で、庶民はどのように生きていたのか。その一つのモデルとして、浄土真宗の妙好人というのは、ロバート・ベラー博士も研究したように注目されているわけです。海外で妙好人というのは、ドイツでも研究され、真宗の教義は難しいけれども、妙好人の伝記、逸話は分かり易いと。そしてキリスト教とも違うということがよく分かると。そういう点で、ボライソ先生あたりが注目して、ボライソ先生は『小林一茶のお父さんを見送る日記』がございます。あれと市木で書かれた『睦丸命終の記』という本と比較してみたいということで、この現地に足を運んでおられます。その先生なんかの研究、態度を見ておりますと、次の時代にどのように生きていくのか。そして生死(しょうじ)、死というものですね、どのように見つめていくのか。これは臓器移植であるとか、脳死の問題とか、アメリカ社会が直面している問題がたくさんあって、じゃ、東洋の叡智(えいち)である仏教、或いは真宗は、死ということに対して、どのような対応をしていたのかと。そういう関心がおありのようなんです。それは私達も同じ条件に晒されていますので、やはり斎藤さんあたりを見ましても、手術された時には非常に精神的な動揺もあったでしょうが、その後、軽やかに、元気よく生き抜いてこられ、そしてその写経であってみたり、歌を作られる、自然に生かされて、政治から取り残されたと言われるけれども、念仏は過密であると。こういう生き方ですね。いわゆる物質でなくて、心の豊かさ。死というものを現代医学をこう利用しながらも、それを乗り越えていくと。ボライソさんあたりが注目されるのも、そういう「勇みの念仏」と言いますか、キリスト教にもそういう生き方があるのかも分かりませんが、仏教徒の生き方をみていると、何か現代のアメリカの持っておる終末を迎えるターミナル・ケアにヒントがあるのではないかというふうな意図で研究をなさっておられます。そういう点で、私達もあまりにも当たり前過ぎて、昔からずうっと阿弥陀如来様はお仏壇におられるわけですから、見慣れていますが、こうして斎藤さんの歌をずうっと順を追って見ますと、病気になられたのは、一つの機縁ですが、それ以後、更に信仰も深まり、そして前向きに生きていかれます。こういう力は、斎藤さんは如来様から自分は賜って、そして両親が早く亡くなったのも、悲しかったけれども、六十過ぎて気が付けば、西に親はちゃんと待っていてくれるんだと。こういうまた安心感ですね。こういう心の安らぎ。これはこれからの日本人にはもう一度思い起こさないと、或いはいつでもどこでもみてござる、と昔から言います、そういう偉大なる、大いなる力に包まれて、お互いがいるんだという心を思い起こさないと、どうしても個人個人の猜疑心ばかりが前に出ますと、生活自体が物を食べることから始めて、常に猜疑心で生きていくという、そういうストレスがまた病気になるという原因になりますので、許されながら生かして頂いておるんだという、斎藤さんのこういう思いが新しい表現で、また次の世代に伝える努力を私達もしなければいけないなあと。こういう歌に出会った時に、つくづく思い知らされておるようなことでございます。
 
有本:  貴重なお話をどうも有り難うございました。
 
 
     これは、平成十年十一月八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。