自己の発見
 
                          太陽保育園理事長 平 井  謙 次(けんじ)
1934(昭和9)年和歌山県湯浅町生まれ。心臓病とともに暮らす心臓病の大家。30歳ごろより断食、坐禅、ヨガ、食養など東洋的な思想を学ぶ。太陽保育園創設、太陽ヨガアシュラム、「もとはこちら会」を主宰。著書に「太陽を食べる子供たち」「結局は自分」「もとはこちら」「自己を生かす道」。平成17年逝去。
 
                          き き て    金 光  寿 郎
 

 
金光:  紀伊半島の北西部、紀ノ川河口に広がる和歌山市、今日は市内北部の土入(どうにゅう)というところにある太陽保育園に、理事長の平井謙次さんをお訪ねします。保育園に近付くと朝早くから、園児達の元気な声が聞こえてきました。保育園の子供達は真冬も上半身裸です。身体を鍛え、過保護で失ったものを取り戻す、逞しく育てたいという方針に基づいています。
 

園児達:  先生、おはようございます。
 
園長:  はい。おはようございます。みんなお元気ですか。
 
園児達:  はーい。
 
園長:  ああ、よかった。それでは元気で頑張りましょう。
 
園児達:  はーい。
 
園長:  わかりましたか。
 
園児達:  わかりました。
 

 
金光:  朝の体操の後、年長・年中組は園の外へ飛び出して、元気にマラソン。年少組は園内を回ります。乾布摩擦も皮膚を鍛える大切な習慣です。冬も冷水浴を続けて、園児達は四季を通じて水に親しんでいます。昭和九年生まれの平井さんは、小さい時はお元気だったのですが、十三才の時のリウマチ熱から心臓病を患い、健康な命のあり方について、さまざまな努力と思索を重ねてきました。保育園から数キロ離れたご自宅の、若い時、師事された禅僧、目黒絶海老師の書が掛けられたお部屋でお話を伺いました。
 

金光:  今日は、「自己の発見」というようなことで、いろいろお聞かせ頂きたいんでございますが、昔、お釈迦さんは、「自分を頼りにしなさい」ということと、同時に、「法を頼りにしなさい」という言葉をおっしゃっています。それから、自己については、道元さまの場合は、「仏道とは自己を習うなり」というのはいいんですが、「自己を忘るるなり」と。「自己を習うとは、自己を忘るるなり」というようなこともおっしゃっていまして、素人だと、「自己というのは、どの自己を、どういうふうに考えたらいいのか」と思うんですが、平井先生の場合は、ある時に、坐禅をなさっていて、「あ、本当の自分というのは、こういうものだったか」ということにお気付きになったというふうに伺っているんですが、ちょっとその時の話から、お聞かせ頂けませんでしょうか。
 
平井:  私は和歌山県由良町に開山(かいさん)興国寺(こうこくじ)という妙心寺派のお寺があるんですが、そこで見性(けんしょう)らしいことを体験したわけです。お寺というのはご承知の通り、朝とか夕方、鐘を打ちますね。その時丁度夕食の合図がありまして、でも私はその時は丁度断食をしておりましたので、食事はいりませんから、廊下で坐禅らしいことをしておったわけです。そうしたら、老師がズウッと来まして、私のところを通り過ぎながら、「おい、平井君、あの鐘の音、どこへ行ったか」。こう聞かれたんです。突然に聞かれたんで、「ええッ」と言って、とっさに返事に困ったわけですね。そうしたら、ニャッと笑って、過ぎ去って行ってしまうと思ったんです。ところがまた戻って来まして、「あの鐘の音、どっから来たか」と、
 
金光:  ほう。
 
平井:  こう言われたんですよ。
 
金光:  鐘が鳴って、それで、消えたところを通り過ぎられて、「どこへ行ったか」ですか。それでバックされて、「どこから来たか」と。要するに、その時は鐘はとっくに鳴ってしまっているわけですね。
 
平井:  耳の世界では過ぎ去っていますね。
 
金光:  聞かれてから、それで「さっき鳴った鐘はどこへ行ったのかなあ」とじっくりと、ゆっくりと考えているというような次元の話じゃございませんね。
 
平井:  そうですね。もう反射的ですね。反射的に「あっ、そうか!」と。
 
金光:  鐘が鳴って、自分がここに坐っているなんていうことではなくて、
 
平井:  そうそう、自分が坐っていると同時に、自分の身体が坐っているに過ぎないんですね。〈自分の所有物であるところの自分ではなしに、所有している方の自分〉を垣間見たわけですね。平たく言えば、皆さん、誰でも〈ほんとの自己と言うものを、知っておるけど知らん〉のです。例えば、「私の身体」と 言いますね。「私の心」で考えたらとか、「私の魂」がどうのこうのと言いますね。それらは皆私の所有物なんです。これ、私の時計でしょう。私の身体でしょう。私の心。それは〈みな私の所有物〉なんです。〈私そのものというのではないんです〉ね。「ほんとの私というのは、私の私」。一口では言いきれませんが、私の場合は、「自分の心」「自分の身体」、こういうものを「自分だ」と思っておったのですが、それらは、「自分の所有物に過ぎなかった」と。その瞬間にそれが分かった。
 
金光:  で、その時に気が付かれた、私の所有物でない方からみた「ない方の自分」ですね―、
 
平井:  「ない方」というように分けるとね。分けられんものですから。「ない方の自分」と言葉では言いますが、対立しているんじゃないんですね。〈皆を包み込んでしま っている、その何とも言えない自分〉ですね。それは本当に鳴り通しの、〈耳に聞 こえようが、聞こえまいが、ずうっと鳴り通しの鐘の音。これ則ち本当の自分〉 なんですね。そういうものを垣間見ましてね。
 
金光:  しかしそれは「鐘の音」の話ですけれども、「人間の自分」と思っているものも同じことですね。「お前はどこから来たか」と言われて、「どこへ行くのか」という質問と同じだという。
 
平井:  ええ、一緒なんです。鳴る前の鐘の音とは、生まれる前の自分のことですね。「生まれる前にお前は何だったか」と。「父母未生以前の面目は如何」と言われますね。〈父母未生以前、鳴る前の自分〉というものを見たように思うんです。そして、鳴り終わった鐘の音とは、死んだ肉体衣を脱いだ自分ということですね。
 
金光:  それでそのことに気付くと、その後の生き方とか、そういうものに変わりが出て来るものなんですか。
 
平井:  私は心臓病で重症なんですが、見性したからと言って、病気が治るとか、治らんとか、形の上で、どうこうというようなことはありませんが、病気の仕方が違って来ます。もうほんとに病気三昧になれるんですね。
 
金光:  ほう。
 
平井:  早く治さないかんとか、そういうものではなしに、病気の仕方受け取り方が変わりますね。病気しようが、元気であろうが、〈永久(とわ)無限の病気も健康も超えてしまった自分だということが分かる〉わけですから、当然、〈恐怖心なんて無くなって終います〉ね。
 
金光:  今のお話でも、その時、坐禅をなさっていたということでしたが、その後は、じゃ、もうこれで坐禅なんかしなくて、もう生活を普通に。坐禅なんか止めていいや、というような感じには、全くならないわけですね。
 
平井:  それは、そうじゃない。そこから入り口なんです。ここが入り口だなあという、入り口の大分手前に立った状態ですよ。
 
金光:  そうですか。「あ、こういう道があるんだ」と。
 
平井:  そうそう。「その入り口はここだ」というような状態ですね。そこから入ったら、本当の広大無辺と言うか、もうほんとに広々とした、しかも、ハッキリしている一本の道があります。
 
金光:  そうしますと、その後の日常の生活で、それまでとガラッと変わったというようなことは何かございましたか。
 
平井:  形の上では変わりませんね。会社へ行くなら、ずうっと会社へ行きますし、形の上では何も変わりません。何が変わるかというと、物の考え方が変わります。何事においても「肯定的な考え方」、或いは、「感謝をする」という、そういうことが自然に起きてくる。「肯定的な考え方」ということ自身が「感謝」なんですね。それからそういう世界を見てから、〈起こってくることは、全部必然によって、必要があって起こって来ている。必要のないことは起こって来ない。必要があって、理由があって起こって来ては消えて行く〉んだと。
 
金光:  それは自分が、気付いていること、気付かないこと、含めてそういうことですね。
 
平井:  そうです。意識、無意識を含めて。とにかく偶然という事は、絶対ない。だから起こって来たことを、どう受け取っていくかということです。「どう勉強していくんよ、お前さん」「どんな勉強していくんよ」と。下 へ下がるような勉強も出来れば、また上へ上がっていくような勉強も出来る。どんな勉強も出来る。
 
金光:  無限ということは、上がることも出来るし、下がることも出来る。右へいくことも出来るし、左へいくことも出来る。それからその道がどっちに行く道かというその判断の基準というものは、自然に出て来るものですか。
 
平井:  そうですね。自ずと分かります。「何故分かるか」と言いますと、結局〈落ち着きが出来てくる〉んですね。〈恐怖心というのが無くなる。だから落ち着き、平静な状態になる〉。心が平静になると、考え方が平静なんです。それまで自分なんか心臓病で、いつ止まるか分からないと。「今日は晩に死ねへんかなあ」と、七転八倒。恐怖心の固まりでしたから。しかしそんなもの、この肉体の衣が生きようが死のうが、それは一応は一大事に違いありませんが、大した問題じゃない。自然現象だと。生まれてくるのも自然なら、死に去りゆくということも自然なんだと。自然現象なんですね。
 
金光:  そうやって、何がどうなっても驚かないという一面が出来て来ますと、例えば、ご自身の心臓の具合がよくない場合でも、それはそれで平静に対処出来るようになるわけですか。
 
平井:  今、私は平静に対処しております。ところで全国の皆さん黙って聞いて下さい。いまここに私マイクを付けていますね。このマイクを通じて、私の命の音が皆さんに伝わっています。どういう音かというと、不整脈で、金属音の「カチカチ」という音、ずうっと聞こえている筈です。これは私の心臓の音なんです。チタニュームの弁が二つ入っておりますので。ものすごい不整脈です。しかも今日は金光さんの前へ来て、私、上がっていますので、
 
金光:  何をおっしゃいますか(笑い)。
 
平井:  多少早いかと思います。でもこれは生きている証拠なんです。これを普通の状態であると、「止まらへんか」そういう恐怖心に駆られますね。ところがこの心臓、動いている間は生きているんだと。まあ、神さんが丁度いいように、不整脈で、「カチカチ」と言うたり、「カチー、カチー」と言うたり、いろいろと計算をして下さって、丁度いい打ち方をやって下さっている。これは有り難い。止まったらどうなるの。止まったら死んだら宜しい。生きている間は、これは動いるんだと。ところで人間というのは、死を想像することは出来ても、死を体験することは出来ませんね。私、死を体験してみようと思うんです。毎日思っているんですよ。だから、この心臓の「カチカチ」という音は、いま私が生きている証拠です。こういうふうに考えられるわけですね。
 
金光:  それで、心臓の場合もそういうふうに受け取られる。それから、目の前に毎日いろいろな出来事がやって来るわけですが、それを全部「有り難いと思う」、或いは、「当たり前と思う」と、おっしゃいましたけれども、やっぱり、「自分にこんなことが起こってくるなんて不公平だ」と、つい思ったりですね、「なんで神様、もうちょっと違うふうにして下さらないのか」みたいな、そういうふうに思うことはないんですか。
 
平井:  それは愚痴ですね。
 
金光:  あはは・・・明らかに愚痴ですね。それは現実の真実を見ていないということなんでしょうか。
 
平井:  そうそう。どんな事であっても、それも神さんは丁度いいことを与え続けて下さっておるわけです。因果律どおりのこと。それを全部感謝して受け取れる人というのは誰もいないです。
 
金光:  ご自身はどういうふうに、
    
平井:  私は、「したいなあ」と思っておるだけです。
 
金光:  「したいなあ」と。
 
平井:  そうそう。そんなこと、生きている生身の人間が、全部感謝出来るなんて、ありえない。全感謝というのは、一個の目標なんです。そういうふうな方向に向かって生きたら、人生だんだん楽しくなってくるよ、ということであって、「全感謝」「オール感謝」というようなことは、実際、形の上では出来ないんじゃないかなあと。私もそう思っても、まあ十パーセントか十五パーセント位しか出来ないです。でもそういうふうな方向に行ったら幸せだ、とこう思いますね。
 
金光:  感謝出来ないような現実があっても、そこで、もう一度見直して、「ああ、そうか、自分はこういうことがまちがっていたんだ」とか、「自分はこうすれば良かったんだ」とか、そういうふうに新しく目を開かれていくというか、そういう日々が続くわけでございますか。
 
平井:  そうですね。〈自分の体験することは一切、もうほんとに全てのことが、因果律という自然の法則通りの事が、必然によって起こってくる〉。〈必然というのは自然現象〉です。〈自然現象とは、神様が必要があって、理由があって、目的があって、それを現されているわけですから、自分にとっては、当たり前のこと〉なんです。〈必然に因らないで起こってくるということは、何にもありません〉。起こって来ることは、必然ばっかりなんです。それが一つ。それから、〈その起こって来たことの原因は自分にある。自分が全ての原因者だと。自分の体験したことに対する責任者は自分である〉ということ。この二つの点、原因と結果というものの関係を、徹底究明して頂きますと、人生必ず変わりますね。
 
金光:  「必然である」ということは、これは割に納得し易い。要するに、全ての条件がそういうふうになっているから、いまこういう状況になったんだと。それから、次のことが物凄く難しいと思うのは、「その原因が自分にある」ということ。その時の自分というものをどう考えるのか。「ああ、そうだった」「自分に原因があったんだ」と素直に思えると、全部が氷解するだろうとは思うんですが、
 
平井:  そうですね。〈神仏と自分が同根同一体である〉ということが分かれば、〈原因は全部自分にあるということが分かる〉わけですが、普通はそうはなかなか思えませんね。しかしこの二点が分かりますと、過去の自分のした事が、今このような結果を引き起こしたのだと分かるわけですから、「正しい反省」「お詫び」「懺悔」が起こってくる筈なんです。これが起こってこないようなことでは、絶対に感謝の道へ至りません。それらが起こって来ましたら、今度は、体験した事は、全部将来に生かせるということですから、「肯定的思考」になってきます。だから、感謝というところに展開していけるわけですね。そして正しい訂正ということが起こってくる。
 
金光:  ところで本来の自己というものに、最初にお気付きになった頃は、まだ保育園はやっていらっしゃらなかったと思いますが、それが保育園というようなお仕事をなさろうと思われたのは、自分の、「ああ、こうだったのか」と思われたことと、どう結び付いてくるでしょうか。
 
平井:  元々、私が病身でございましたので、健康ということには非常に貧乏な状態ですね。だから、子供達に健康をプレゼントして、ということから始まったわけですね。私は病気でありますが、今のこういう現代医学という素晴らしい医学だけでも生きられません。いわゆる現代医学以外にも素晴らしい幾つもの健康法があります。その健康法の一つは「食べる健康法」。口へ物を入れる健康法ですね。それから、「姿勢による健康法」、
 
金光:  「姿、形を正しくする」とか、そういう姿勢のことですね。
 
平井:  そうです。それから、「呼吸法による健康法」。「皮膚を鍛える健康法」。「心の健康法」。大体この五つに分かれると思うんです。太陽保育園では、その五つとも全部やっております。
 
金光:  例えば、「食べる健康法」というのは、「断食なさっていた」と、最初の頃、ちょっとおっしゃっていましたけれども、食べないことも、食べる健康法の一つなんですか。
 
平井:  そうですね。先ず、食べる健康法をやる前に、今までの間違った食生活をお詫びするということで、断食をやって、大掃除をしたらいいですね。
 
金光:  「断食する」ことによって、「身体の掃除が出来る」わけですか。
 
平井:  そうそう。大掃除をして、そして命の働きをちゃんとしてやると、「自分にとっ て、何が正しい食事か」ということが自分で分かります。そして、物を食べるという事の本当の意味も分かってくる。太陽保育園では玄米、豆類、野菜、果物、海草、小魚というような物を主体に、自然食でやっております。太陽の園児の中には誰一人として、肥満体の者はおりません。それから痩せすぎの者もいないです。みんな中肉なんです。それから、「呼吸法」、
 
金光:  呼吸はどういうふうに、
 
平井:  空気を食べるんですね。空気を食べておるわけです、我々ね。空気というのは一番栄養があるわけです。だって、五分間空気が無かったら死んで終います。
 
金光:  それはそうですね。
 
平井:  それを如何に食べるかと。私の場合は、心臓病で、心臓が普通の人の約六倍、胸の内、もう殆ど六十パーセント位が心臓になっております。食道もこう曲がっている状態です。しかし呼吸をちゃんとすることで、空気を効果的に、能率的に食べられるわけですね。どういうことかというと、呼吸には三つの呼吸があります。「吐く呼吸」「吸う呼吸」、それから、「止める呼吸」。止めるという呼吸は食生活で言えば、断食と一緒なんですね。「止めるという呼吸」をちゃんとやることによって、空気を効果的に、能率的に使える身体になるわけです。
 
金光:  ということは、例えば、吐き出しますね。吐き出したところで、暫くストップするということですか。
 
平井:  いえ、吸うたところで。吸ったあと少しだけ吐き出して、そこで暫く止めるわけです。
 
金光:  吸ったところで、
 
平井:  食べる。しかしこの呼吸法にしても、短い時間ではとてもお話出来ませんが、私の場合は八百CC位しか肺活量がありません。普通の人の半分以下です。ところが二階や三階へタッと上がれますよ、走って。
 
金光:  それは日頃からそういう呼吸をなさっていることの結果ということですか。
 
平井:  そうですね。空気を効果的に、能率的に活用出来る身体になっているわけですね。
 
金光:  それから、「姿勢」ということをおっしゃいましたね。
 
平井:  そうそう。
 
金光:  「姿勢の健康法」というのはどういうふうに、
 
平井:  整える。「整体」と言いますか、身体の状態を、
 
金光:  「整頓」の「整」ですか。
 
平井:  そうです。「整理」の「整」ね。正しく、こういうふうに。歪みを正してちゃんとなるように。兎に角、「整体」ですね。それから、「皮膚を鍛える」。
 
金光:  これはどういうふうに、
 
平井:  私の場合は、今朝からも、朝早う起きて、水風呂へ入って、
 
金光:  水風呂に。水のままですか。
 
平井:  そうです。冷やこい。気持いいですよ。
 
金光:  ほう。
 
平井:  それから、真冬のこの時期に冷やこいのが気持いいということは、私の身体はこの重病の心臓病を持ちながら、陽性の身体だということなんです。普通は病気を持つということは、陰性の身体なんですね。ところが私は水風呂、水浴ということを何十年もやっておりますので、陽性になっておる。水というのは陰性です。陰性が気持いいということは、私は陽性なんです。だから、病気と同居出来るんです。でも一般の方は真似せんでおいて下さい。思い付きでやられて、心臓が止まってしまったと、
 
金光:  それはそうですね。
 
平井:  止まったらあかん。止めんと、如何にして動かすかということが問題なんです。
 
金光:  それは長年の間に、少しずつ、そういうふうに皮膚を慣らして、訓練していらっしゃるから、そういうことが冬でも出来るということですね。
 
平井:  私の場合、水風呂、水浴ということを、最初に挑戦した時は、今から、これから水をかぶる、水を使って水浴しようと思っただけでも、胸が悪くて、吐きそうだったです。ところが男一匹、毎日ちょっとでも、やると決めた以上は、やらなければ男がすたると、
 
金光:  やっぱりそういう覚悟で最初は、
 
平井:  毎日一秒でも二秒でもの気持で続けたんです。
 
金光:  あ、無理に長くというんじゃなくて、やっぱり最初は辛くて、ちょっとでもという感じで続けて、
 
平井:  そうそう。続けるということが大事なんです。「継続は力なり」。これ「一分も二分もやる」と言うても、三日坊主ですよ。一滴でもいい。水と同和しようと。同化しようということでやったわけです。
 
金光:  普通のお風呂の方はどうなんですか。
 
平井:  お風呂もいいんです。
 
金光:  お風呂もまた良しですか。
 
平井:  お湯も良し、水も良し。太陽保育園の子は冬でも毎日、園で冷水浴をしています。そしてお家へ帰って、お風呂にも入る。お母さんが園児に、「あんた、お風呂の加減、どう」って聞くらしいですね。そうしたら、「丁度いいよ」と言うんで、お母 さんが入って行ったら、水だったと。
 
金光:  子供さんは平気なんですね。
 
平井:  子供は水も平気、湯も平気なんです。どちらも「丁度いいよ」なんですね。
 
金光:  「食」がありましたね。それから、「呼吸」があって、「姿勢」があって、「皮膚」があって、今度は、「心の健康」ですか。
 
平井:  「心の健康」がこれが一番大事ですね。この五つの健康法の八十パーセントは心の問題なんです。健康な心の状態とはどういう状態かと言いますと、最終的には、さっきからもちょっと話に出ていますが、「全感謝」ということです。全感謝に至るということが、「人間として、いと高き幸福」なんです。これに目標を持っていかなければいかんですね。
 
金光:  世界のことを、どうこうというよりも、先ず身近な自分のところでそれを実行していくということなんですか。スタートとしては。全感謝の生活をしようというのは。
 
平井:  「全感謝に至る方向」に向こうと思ったら、先ず〈起こってくることは全部必然である。自然現象である〉ということに気付くこと。それから自分の身辺の上に現れてくることは、生理的なもの、運命的なもの、全部含めて、気に入ることであろうが、気にいらんことであろうが、大きなことであろうが、小さいことであろうが、また意識的、無意識的の別なく、積極的、消極的の別なく、全部自分が求めて得た結果であるということを識ること。「自分にとって都合のいいことは自分がその原因者だ」けれども、「都合の悪いことは人が原因や」というようなことは絶対にありません。全部自分によって起こると。この二点の立脚地点に立つ為に、人間は修行というものをするわけです。この二点をクリア出来たら、出来た程度に応じて、「反省、お詫び、懺悔」ということをやれます。そうしたら、〈将来に向かって、訂正〉ということが起こってきます。人間はどこまで行っても完全ではないから、常に反省し訂正し、向上して行く必要がある。
 
金光:  自分の生き方を直すということが、
 
平井:  そうそう。訂正が起こってくる。そして自分の身辺に起こってくることは、全て自分の為になることだなあ。自分を救済する為に、自分が招いたことであるなあということに気付いてきましたら、感謝に至る道なんですね。感謝に至る道、蓬莱山の山頂というのは、感謝に至りきった姿なんです。ところがみんな途中なんです。途中でちょっと上がって、ちょっと上がったところから、また下がって。上がる道は、ほんとに無限、無数の道があって試行錯誤しながら、みんな上がっておるわけです。
 
金光:  新聞なんかを見ると、やっぱり皆、他人事として見ますね。そうじゃなくて、先ず、自分の足元、自分の生きている、この自分の生活を、どう見るか、そしてこの自分自身をどう見るかというところを、毎日の生活の中で、キッチリ押さえて置かないといけないということになりますね。
 
平井:  〈人の姿を見ているんじゃないんです。他人を通して、自分の姿を毎日見ている〉んです。
 
金光:  それが、「あれは彼奴のあれがやっている」、或いは、「他人のことだ」と、つい思いがちですが。
 
平井:  よくよく考えて、よくよくやっていきますとね、これは〈自分の姿を自分が見ているんだ〉ということに気付いてきますね。「自他一如」なんです。肉体の自分だけが自分だと思っているうちは、こういう世界はなかなか分かりませんね。
 
金光:  そうすると、それは最初の「鐘の音が自分と同じだ」というのと、同じようなところへ繋がるわけですね。
 
平井:  そうですね。みな土台になっているものは一緒ですから。土台になっているものが、もし金光先生のと私のが違ったら、そうはいきませんけれども。一緒ですから。金光先生の姿を見ているように見えますが、それは〈私が私の姿を見ている〉んです。
 
金光:  でも、「他の人を見て、それが自分を見ているんだ」というふうに、そこまで分かるというのは、これはなかなか大変でございますね。
 
平井:  大変だから、修行なんですね。でも、皆自分です。全部自分のことですし、自分の姿です。
 
金光:  「自分、自分」と言いながら、随分いろんな自分があるわけですけれども、先生は「自分」というものをどういうふうに。言葉に成りにくいところがあるかも知れませんけれども、どうお考えになっていらっしゃいますか。
 
平井:  先ず狭い意味での自分ですが、例えばこの鉛筆でも、右があるということは、左があるということですね。左があるので、右がある。
 
金光:  そうです。
 
平井:  そうですね。それからこの紙一枚でも、表があれば、裏がある。裏があるということは表があるということです。表があるということは裏があるということですね。そうしたら、「目に見えるものがある」ということは、「目に見えないものがある」ということなんですね。目に見える自分というものは、今、これ私、この私、目に見えますね。その目に見える自分があるということは、目に見えない自分がどっかにあるんですね。「どこにあるか」と言うたら、自分の目より近く、鼻より近いところ。目に見えない自分がある。〈目に見える自分と、同居している〉。
 
金光:  その通りですね。
 
平井:  ここのところをしっかり掴まんと、目に見える肉体自分だけが自分だと思ってしまう。これは唯物論ですね。死んだらお終い、というような刹那的な生き方になりますね。せめて、「目に見える自分」「目に見えない自分」、この両面を理解することが必要です。
 
金光:  そうですね。見えないけれども、掴まえられないけれども、確かにそういう自分はあるということですね。
 
平井:  そうそう。そうしてその目に見えない自分は宝庫なんです。
 
金光:  宝の蔵ですか。
 
平井:  そうそう。これにはいろんなものが入っておる。「どれだけ入っているか」と言ったら、例えば字引にはほんとにいろんなものが入っていますね。そのように〈目に見えない自分のレベルのところには、一杯のものがある〉と思います。だからその中の何をどう使って目に見える世界に、どういう花を咲かせるかということが問題なんです。それと一つの法則があります。「思ったことを思われ る」「したことをされる」「言ったことを言われる」。これ因果律と。
 
金光:  相対、バランスが取れているわけですね。そうしますと、因果律による必然によって、現在の状況があるということ。それからそれがたとえ意識出来る自分では、直ぐ納得出来ないにしても、よくよく見えない自分という、もう一つの宝庫の方を見ていると、気が付けば、気が付く程、「そうだ」と。「自分がこういう状況になっているのはまことに必然であった」ということに、自ずから気が付いてくるということですか。
 
平井:  そうそう。そして、〈その目に見えない自分が、「縁」というものを呼んできて、この現実の世界で「果」というものを結ぶわけです。「結果」ですね。我々、肉体を通して見聞きしていることは、全部これ結果〉なんです。
 
金光:  そうです。今という結果を見ているということですね。
 
平井:  そうです。〈原因という世界は目に見えない世界〉なんです。〈その目に見えない世界の、原因となる自分が、縁というものを呼んでくる。縁には目に見える縁もありますし、目に見えない縁もある〉。そして「縁」というのは、一人歩きして勝手にやってくるんじゃないんです。〈原因の自分が縁を呼んできて、そして原因にふさわしい果を結ぶ〉わけです。〈その果を我々は体験し続けている〉わけですね。だから「自分」というものは、先ず現実的にこういう「目に見える自分」が一つですね。それから、「目に見えないが表に対しての裏的な自分」というもの、これが二つめですね。それから三つめは、私がお寺で聞いた鐘の音であるところの「永久(とわ)無限の自分」ですね。しかしこれら三つがこう別々にあるというんじゃないんですね。もうほんとに目よりも近く、鼻よりも近いところにあるわけですね。〈そういう自分というものを全部含めて自分〉と、こういうふうにもし理解が 出来れば、非常によく分かって頂けると思うわけですけどね。
 
金光:  で、その「心の健康法」というものは、そういう本当の自分というのが、こうだということに気が付けば、気が付くほど、「心の歪(ゆが)み」と言いますか、「歪(ひず)み」みたいなものにも、自然に気が付いて、気が付くと自然にそれを治す方向に進むことが出来るということになるわけですか。
 
平井:  そうですね。結局、〈本当の鐘の音、裏を超え、表を超えたところの本当の自分〉というものを発見することが、我々人間として生まれてきた第一義の、一番大切なことではないかなあと。それから、「神の子の人間」と言いますか、至らぬ自分ですね。プラスを出したり、マイナスを出したり、失敗したり、成功したりしながら、毎日を送っていく自分というものですね。だからプラスとマイナスの両方を持ちながら、出来るだけプラスのものを形の世界に出していく工夫をする。これは現世利益(りやく)的なことですね。これも非常に大事なことですね。現世利益だけが、人生の目的になったりすると、ちょっとややこしくなりますけれども、肝心のことをしっかり押さえておいて、「本当の自分とは一体何者か」ということを、日頃の生活で研鑽しながら、尚、出来るだけ健康で、出来るだけ幸せで、出来るだけ繁栄をして、という世界を相求めていくということも大事なことじゃないかなあと。
 
金光:  で、そこのところで、生活の中で「心の健康」とか、「身体の健康」など、昔から伝わってきているいろいろな健康法を自分で試して、いろいろな訓練をされて、いろいろ試みるという方向にも繋がっていくわけですね。
 
平井:  「食べる健康法」「呼吸の健康法」とか、い ろいろ言いましたが、それらは肉体的な形の上での健康法ですね。それらの健康法をやることによって、「心の健康法」が十分、更に大きくできると。やはり心の健康というのが、一番大事なことですね。どれだけ形の健康法をやっても、心が不健康な状態では幸せにはなれません。
 
金光:  その辺のところを日頃感じていらっしゃって、それで太陽保育園というものを作ろうと、先生の場合そういう方向へ向いていったということなんですか。
 
平井:  今、子供は可哀想です。家に帰って、例えば、食事生活で言えば、何かお母さんが作ってくれたものがある。それを、「もう僕、これ嫌いだ」と言うたら、次の物が出てくるんです。「これも嫌いだ」と言ったら、また次のものが出てくる。それが幸せのように思っているんです。これは幻ですね。可哀想ですね。「これいらなんだら、あれ」「あれいらなんだら、それ」というようなことは、ちょっとみたら幸福のように思うんです。ところがこれは不幸なんです。物凄く不幸なんです。何故か。〈その子供は体は大きくなる、大きくなっていくが心が育たたない〉んです。育(はぐく)まれていないんです。「心が育まれるということは、どういうことか」と言うと、〈毎日の生活に、何か節を作る。何かちょっと辛いこと、苦しいことが生活の中に同居している。それを体験をして、忍耐し、工夫し、努力して、その苦しい事、辛い事を正面から受け取り、克服していく〉ということが本当の幸せなんです。それで節が出来てくる。それから「これしかないんや」「これもないんよ」と。みんな一個のものを分け合うて食べると、一個のものが二個にも三個にも、十個にもなるんですよ。分け合うということ、喜びを分かち合うという素晴らしいことも体験していく。これも大切な節です。
 
金光:  竹でも節がないと直ぐ倒れますね。竹の節のように生活の中でも節がないと。
 
平井:  そうそう。それといろんなことに満たされているということは目標を持てない。例えば、お腹いつも大きい人は、何か食べたいというような欲望起こってこないでしょう。それが「幸福か不幸か」と言ったら、不幸なんです。何を食べても美味しくないんですよ。私は、「朝から保育園では出来るだけハングリーにしてやれ」と。そうしたら子供達は、「ああ、美味しい」「美味しい」ということを体験出来る。本当の味というものが分かる。美味しい、何でも美味しくなる。これは人生の大きな喜びですよ。ハングリーというものを作ってやるとね。
 
金光:  それはしかしどうやってお腹を空かせるんですか。与える時間をずらすとか、与えないとか、
 
平井:  与える時間をずらすとか、或いはハードに、
 
金光:  運動をさせて、
 
平井:  鼓笛(こてき)をやるとか。日々目標を持っていますね。その目標に向かって、みんな力を合わせて頑張っておるわけですね。その「目標を持つということは、どういうことか」と言うと、〈現実との差、これがハングリー〉なんです。本当のハングリーというものを体験させて、そのハングリーをみんなで頑張って克服していくと。
 
金光:  一年中全員裸ですよね、子供さん。要するに普通の学校だと、家庭だと温々(ぬくぬく)しているのが保育園へ来ると、兎に角、裸で、
 
平井:  上半身、
 
金光:  上半身裸で、しかも雪の中で。ここに写真がありますけれども、これはでの雪合戦の写真ですね。
 
平井:  そう。これは大寒の頃に高野山に雪が降りますと、 こういう姿で。これで大体氷点下五度位ですね。その中で平気で裸になって雪を楽しむ。まるで砂遊びでもしているような。それからこの裸に雪をかけてやるんですよ。雪をかけたら何と言うと思いますか。
 
金光:  「冷たい」と言うでしょう。
 
平井:  そんなこと言わない。「痛い」と言う。「痛いよ!」。そしてそれが二、三分経つと、体温でその雪が解けて、湯気が身体からホアッと。それはほんとに拝みたい気持になりますね。湯気が出て、オーラと言うか、後光(ごこう)と言うか。寒さを忘れて無心になって雪遊びをしている。こんな体験ね、今無いんです。皆大事にされすぎて体も心もひよわになってしまっている。
 
金光:  そうですね。外だけ裸で雪合戦じゃなくて、部屋の中で食事するのも勿論ずうっと裸なんですね。
 
平井:  そうそう。それから高野山へはバスで行くんですが、バスは暖房はしません。
 
金光:  暖房無しですか。
 
平井:  暖房無しで、窓も開け放して上がって行く。
 
金光:  そして裸ですか。
 
平井:  そうそう。
 
金光:  ほう。
 
平井:  そうでないと、バスから降りた時に、差が大きすぎて、
 
金光:  成る程。
 
平井:  これはほんとにいい体験ですよ。子供達にとっては。
 
金光:  日々そういう色いろな節を作って、現実に子供達に生き生きした希望を持たせ、目標を持たせるような生活を与えていらっしゃるということですね。
 
平井:  だから、ほんとに「ハングリー」と言っても、「お腹が空いた」と言うそんなんじゃなしに、はっきりした具体的な目標を持って、現実を認識するということは、一個のハングリーですから、そういうことを常に生活の中でやりながら、毎日節を作る。毎日多少の苦しみ、多少の辛さ。その辛さ、苦しみというものがあればこそ、ほんとの楽しみ、嬉しさ、喜びというものを、ほんとのものを味わえるんじゃないかなあと、このように私は常々思っておるんです。
金光:  今のお話は子供さんだけじゃなくて、私達大人もその通りだ、私達もそういうふうに生きなければいけないなと思いながら伺いました。どうも有り難うございました。
 
平井:  どうも有り難うございました。
 
 
     これは、平成十一年一月三十一日に、NHKの教育テレビの
     「こころの時代」に放映されたものである。