寛容への道
 
                         京都大学名誉教授 上 山  春 平(うえやま しゅんぺい)
大正10年和歌山県生まれ。昭和18年京都帝国大学文学部哲学科卒。大学卒業後、海軍予備士官として第二次大戦に従軍。戦後一貫して”国家とは何か”というテーマにこり、京都大学人文科学研究所助教授、教授、所長を経て、59年定年退官。名誉教授。昭和61年〜平成3年京都国立博物館館長、4年〜10年京都市立美術大学学長歴任。著書に「歴史と価値」「仏教思想の遍歴」「神々の体系」「埋もれた巨像」「空海」「上山春平著作集」「天皇制の深層」ほか。
                         き き て    有 本  忠 雄
 
有本:  京都の太秦(うずまさ)にやって参りました。今、JR嵯峨野線の電車が私の側を嵐山に向かって走りすぎました。私の行く手に、昔から仲野親王陵と呼ばれる古い古墳が見えて来ました。この古墳の辺(ほとり)は閑静な住宅街が広がっています。今日はここ太秦にお住まいの哲学者上山春平さんを、自宅にお訪ねし、お話を伺うことに致します。
 

有本:  上山春平さんは元京都大学教授退官後、京都国立博物館館長や、京都市立芸術大学学長などを経て来られました。先生宜しくお願い致します。
 
上山:  こちらこそ。
 
有本:  先生はご自宅では、和服姿が多いんでございますか。
上山:  まあ、本を読んだりする時は、こんな普段着で、羽織など着ていませんが。
 
有本:  去年の三月に、京都市立芸術大学の学長をお辞めになったということで、この一年、割合自由な時間がお有りになるのかなあと想像しておりましたけれども、毎日随分お忙しいようですね。
 
上山:  それ程でもないんです。前に比べたら、大分暇ですけどね。それでもさまざまな理事会とか、学会の基調講演とか、そういうことで時々引っぱり出されています。
 
有本:  先生のご経歴を拝見致しますと、旧制高校が台湾の台北(たいほく)高校、
 
上山:  はい。台北です。
 
有本:  ほう。お生まれも台湾なんですか。
 
上山:  はい。そうして向こうの中学、台北一中というところを出て、それから台北高校へ行きました。
 
有本:  先生は台北高校の頃に随分悩まれて、今で言うノイローゼ症状というふうなことを、ご本で拝見致しましたけれども、今、考えますと、ノイローゼの原因というのは何なんでした。
 
上山:  元々、そういう素質があるのかも知れませんけれども、当時、十七、八ですか、その年頃というのは、不安定な人が多いですね。僕はたまたま絵を描いて居て、日展の植民地版みたいな、「台展」というのがあったんですが、それに入ったりして、まあ、ああいうところではそれなりに非常に名誉のことだった。それでいい気になったりしたところもあったし、まあちょっと哲学を囓っていて、その論文が学校の方の懸賞論文みたいなもので、入ったりですね。その他ちょっといい気になることもあって。しかし、それと同時にだんだん学校をサボったりしていくと、出席日数が足りなくて、一年留年したり、そういうことで生活が乱れはじめる。それに、戦争が迫っておりましたからね。満州事変とか支那事変とか。そういう雰囲気も背景にあったんでしょうか。兎も角、非常な精神的な動揺の中に、渦巻きの中に入ってしまった。泥沼の底にだんだん入っていくようで、どうにもならなかったということがありますね。
 
有本:  京都大学の哲学科にお進みになるわけですが、やはりそういう精神状態がアンバランスでも、哲学は勉強しようというようなことは、
 
上山:  ええ。もう哲学だけはどうしてもしたかったんですね。学校をサボったりしたのも、ちょっと深入り過ぎたこともあると思うんですが、その頃は哲学と言いましても、ドストエフスキー(ロシアの小説家)とか、ニーチェ(ドイツの哲学者)とか、そういうものを読み過ぎたり、自分流に、勝手に。しかも一方では世界の構造みたいなものを知りたいという、文学的では得られないようなもの、それが当時、西田幾多郎(きたろう)先生の『善の研究』というのが、これは誰でも高校生は読んだんです。そこの第二編という辺りは、「実在」というものを論じているんです。その「実在」というのは、「自然」と「精神」と「神」という三つの実在について、自分の意識の問題から、ずうっと展開していくんです。これは非常に僕にとっては魅力的でしたね。ところがそういう構築となると、構築の論理ではカント(ドイツの哲学者)というのは非常にガッチリした目標を与えてくれているように思 って、そっちへ深入りしていったんです。さっきの懸賞論文なんかも、カントのことを書いたんです。だから、絵の世界で自己陶酔しているのと、それからまた哲学的な構築をやるということで、これも自己陶酔している。そういうことで、堅実な日常の勉強というものを放り出してしまったわけです。それがそういう不安定に入っていく大きな糸口でした。
 
有本:  高校の後半はそう致しますと、ごく普通の学生に戻ろうというのか、
 
上山:  それはちょっと恥ずかしいことですが、まあどうしようもなくなって、自殺を試みたんです。首吊りですけどね。それは、私の『空海』(朝日選書)という著書の中で、空海の伝記に事寄せて、「自分は何故空海と縁が出来たか」という糸口として、その自殺の体験というものを話したことがあるんです。首吊りやって失敗しましてね。一回目は綱が切れて失敗して、もう一回やろうと思う。二回目にしくじった時に、非常な喜びが湧いてきたんですよ。その時に、一日一日を、兎も角、精一杯普通に、正常に暮らして行こうと決心しました。それはそれ迄に道元のものとか、いろんなもので、一日一日足元を見て、しっかり生きるということの意味は感じていましたからね。それをやってみようと。もう絵の深入りしたり、哲学でいろいろ考えすぎたりすることを止めて、やるべきことを一日一日キチッとやって、ともかく高等学校を卒業するという、非常につまらんと申しますか、当時では軽蔑仕切っていた目標を自分に課したわけです。
 
有本:  じゃ、京大に進学なさってからは、割合、安定と言いますか、落ち着いていらっしゃったんですか。
 
上山:  京大に入った時は、兎も角、自分がやりたい哲学の世界の入り口に入れたわけですから、もうこれは先ずキチッと講義を受けて、一回生の間にとれる単位はすべて取ってしまおうということで、本当に情けない話ですが、哲学科に入っていながら、非哲学的な学問の仕方をしていたんですね。
 
有本:  下宿が銀閣寺のお近くだったようですね。
 
上山:  ええ。その頃、あのあたりではよく学生に下宿をさせてくれたんですよ。あるとき、散歩がてらに、木立にかこまれた雰囲気が気に入っていた銀閣寺の裏の別荘風の邸宅をたずねました。すると白髪のお年寄りの方が出て来られました。その方は京大の英文の先生をしておられた島文次郎先生でした。私が京大の哲学科の学生だと申し上げると、「君、何をしようとしているの」と申されますので、「シンボリズムの問題を取り上げたいと思っている」と言ったんです。そうしたら、驚いたような顔をされて、「実は、僕もシンボリズムが好きでね」といって、身を乗り出すようにして、いろいろとお話をして下さいました。そういうことで、その日のうちに話がまとまりまして、私は島先生のお宅に下宿させて頂くことになったんです。
 
有本:  先生のお書きになったものを拝見しますと、大変空海に惹かれて、空海は若き青年の頃に悩んだと。で、真言を唱えながら暮らされたと。で、上山先生も空海に倣って、「真言を唱えながら、大文字山を登ってみよう」というふうなくだりがございますけれども、最初は全くそんなことではなかった、
 
上山:  なかったんです。本屋に行きましたら、『三教指帰(さんごうしいき)』(空海の最初の著作)という本があった。「指帰(しいき)」というのは、模範として従うこと、三教というのは、「儒教」と「道教」と「仏教」です。その優劣を論ずるようなそういう本だったんですね。それが、文庫本であったんです。それを読んだのが空海との最初の出会いでした。
 
有本:  『三教指帰』の中に、先生が修行なさった真言を唱えるというようなことを、若い頃の空海もやったということですか。
 
上山:  はい。その序文に、空海が書いているわけです。空海の二十四歳の時ですね。空海という人は四国の讃岐の豪族の出身です。昔の国造の家系だったのでしょうね。母方の叔父さんが当時の皇太子の家庭教師をしていたものですから、そういう伝(つて)を辿って都にやって来て、都の大学にはいる。当時の大学は都にしかありません。地方には国学しかないんですが。空海みたいな地方の豪族は地方の役人の家柄になっていたわけですね。そういう人は中央の大学には普通入らないんです。空海は十八で都の大学に入った。ところがどうも大学は面白くなかったらしい。叔父さんに特別の教育を受けて、大変よく出来たので、つまらなかったんだと思います。しかもあまり出来ないような藤原氏出身の人なんか、卒業すると、自分より遙かに上に行きますからね。そういういろんなことで悩まれたのか、学校を飛び出して仏道の修行をした。『三教指帰』の序文には、そういうことが書いてあるんです。「僕は十八で大学に入ったけれども、ある時に、ある僧侶から、ある教えを受けて、その教えに従って、行(ぎょう)をやってみたいと思った」と。その行というのが、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」という。これは虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の信仰ですね。阿弥陀信仰、浄土信仰で、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と言いますね。「南無(なむ)」というのは帰依(きえ)するということで、「南無阿弥陀仏」で阿弥陀様に帰依し奉るということになる。それと同じように、「南無虚空蔵菩薩」と称えるんですね。
 
有本:  先生のお話を伺って、先生の左手の方に、その真言が書かれておりますけれども、それを先生は称えながら、山を登って太子堂へ。上の一番登り切った太子堂で、
 
上山:  まだ続けるわけです。
 
有本:  弘法大師空海は百万遍というようなことで、先生も百万遍を成し遂げようということで、
 
上山:  そう決意したんです。せっかく入りにくい大学に入ったのに、それを飛び出したというのはよっぽどのことなんです。『三教指帰』を見ると、儒教の大先生の説を道教の先生が否定して、道教の先生の説をみすぼらしい仏教の修行僧が論破するという形なんです。その修行僧には「仮名乞児(かめいこつじ)」、つまり仮の名前の乞食をしている児(こ)というふうな名前が与えられています。自分の自画像としての一面がある。それで、「自分は何故そういう流浪(るろう)の僧侶になったか」という理由を示しているんですね。空海の親たちは、空海が大学を立派に卒業して、出世して貰いたいと思っていたにちがいない。ところが、空海はそういう道を放棄して、流浪の僧侶を選んだ。その為には、ある意味で、日常とは違う体験をされた。それが虚空蔵信仰だったのだ。私は自分流にそう解釈したんですよ。私が空海の『三教指帰』に出会ったとき、精神が弱り切っていましたから、藁にも縋りたい気持で、虚空蔵 の真言にすがりついたのです。これを、自分も、毎朝暗いうちに起きて、大文字山のお堂に通いながら称えようというふうに決心したわけです。
 
有本:  今からもう六十年位前になりますけれども、具体的にはもう暗い朝に起きて。それでなんかお数珠もあるんだそうですね。
 
上山:  はい。今日持って来ておりますけれども、
 
有本:  ちょっと見せて頂きましょうか。
 
上山:  その時に使った数珠(じゅず)です。今、数珠というのは、非常に退化して、小さくなったものがよく見かけられますが、本当は真言など勘定する為の、
 
有本:  百八の珠があるわけですね。
 
上山:  ええ。数える道具なんですね。だから「数珠(かずたま)」と書くわけです。陀羅尼(だらに)(真言)を繰(く)る時には、私は山に登る時から、数え始めるんですが、この大きい珠から始めて、隣りにあるのが一つですね。「なうぼう、あぎやしやぎやらばや、おん、ありきやまりぼり、そわか」という虚空蔵さんの陀羅尼を唱えると、一つこう前に進むんですね。そしてその次ぎに、「なうぼう、あぎやしやぎやらばや、おん、ありきやまりぼり、そわか」ととなえると、もう一つ前へすすむ。
 
有本:  それを一日三千回を目標になさった。
 
上山:  そうです。
 
有本:  始めて効果が出てきたと言うか、精神共に元気におなりになったのは、どれ位ですか。
 
上山:  あまり意識していませんけどね。兎も角、百万遍やろうと思って、一日三千見当で、ずうっとやっていくわけです。よっぽどの時でないと休まなかったですからね。大体半年過ぎる頃には、一日のうちで、その時間が一番楽しいと思うようになりました。
 
有本:  「行法(ぎょうぼう)」と言うんですか、それについて、東寺の学僧の方にご縁があて、教えて頂いたように伺っておりますけれども、
 
上山:  東寺は空海が国から預かって、専門の真言僧侶を育てた場所ですね。その東寺の僧職を兼ねていたと思いますが、東寺のそばに種智院(しゅちいん)大学というのがあります。それの前身の真言の僧侶を養成するところ、そこのずっと教授をしておられた方で、当時大僧上だった長谷宝秀(はせほうしゅう)という方が居られて、私が下宿させて頂いていた島文次郎先生が、その方と懇意だったんですね。島先生は若い時から、かなり広く活動していた方だし、長谷先生も英語が得意で、翻訳なんかもしておられる方で、『弘法大師全集』の編纂をやっておられたり、大変な学僧だったんです。私はさきに申したような経緯で、青年空海を救った虚空蔵求聞持法を、何とかしてやってみたいと思って、いろいろ方法を捜してみたんですが、真言密教というのは、閉鎖的なところがありますし、特に、その行(ぎょう)はかなり重い行でして、一応得度(とくど)を受けたり、「加(け)行(ぎょう)」と言いまして、プロの僧侶としての基本的な基礎教養がないと、授けないという約束になっているようなんですね。ところが何とかそれを受けたいと思って、そういうことを島先生の茶の間でぼやいていたわけです。すると、島先生が、「それじゃ、東寺の長谷君にちょっとお願いしてみようか」と言って、紹介して下さった。そこで東寺の近くの長谷先生のお宅を訪れて、いろいろ経緯を話しますと、「まあ、君がそれだけ熱心なんだったら、僕はあまり行は詳しくないんだけれど、一つ教えてあげよう」ということで、日を指定してくださったので、その日にお宅へ参りますと、壇にお花とか、いろいろ飾りまして、行法を端からずうっと教えて下さった。帰りにはその行法の次第を書いたものを渡して、「これを写して来たまえ」と言って、貸してくれました。
 
有本:  その真言のお陰と言うか、お元気になられた。
 
上山:  ええ。ひどく元気になりました。毎朝大文字山に登るだけでも、本当は良かったんだと思うんですがね。それでもしかし百万遍を途切れ無しにやる、という縛りがありますからね。ただの山登りじゃなかったんです。非常に気力が満ちてきまして、身体もよくなってきたわけです。それと同時に山の中に入りますと、季節というのがほんとに肌を通じて語りかけてくるんです。そういう経験というのは下宿でだらだら寝起きしている学生生活では、絶対に味わえないわけですね。これはいろんな意味で、僕にとって新しい経験でした。
 
有本:  そんなことがありまして、先生は京都大学を卒業なさるわけですが、戦争中ですから、繰り上げ卒業ということで、
 
上山:  半年繰り上げでしたね。
 
有本:  当時、太平洋戦争中ですから、京大は卒業なさって、軍隊ということなんですね。
 
上山:  はい。昭和十八年の九月に卒業して、十月に海軍に入りました。
 
有本:  海軍ですか。先生は海軍では人間魚雷、
 
上山:  はい。航海専門の学校を出て、その後配属されたところは人間魚雷の部隊でしたね。
 
有本:  勿論、今、お元気ですから、犠牲にはならなかったわけですが、戦友なり、学友なりで命を落とした方、沢山いらっしゃるわけですね。
 
上山:  多いですね。
 
有本:  で、戦後は和歌山県の田辺高校の先生をなさいますね。
 
上山:  はい。和歌山県の有田郡が郷里なものですから、両親も台湾からそちらに引き上げて来ました。私は軍隊から帰って京大の大学院に残っていたんですが、両親を扶養する為に、どこかに就職せんならんなあ、と思っていましたら、私の親戚に北山茂夫という人がいまして、歴史家としてよく知られている方ですが、その人が、当時、田辺の中学に居まして、「僕のところに来ないか」と言ってくれましたので、旧制最後の田辺中学に就職しました。
 
有本:  何を教えられたわけですか。
 
上山:  社会科の時事問題を担当しました。時事問題というものが新しく入ってきて、みんなやったことがないものですから、新人の私におしつけたのです。
 
有本:  教材は何をお使いになりました。
 
上山:  教科書はないので、新聞の全国紙四紙、それにニューヨーク・タイムズとニューズ・ウィークを加えて切り抜き帳をつくりました。
 
有本:  それから愛知県の学芸大学へ、
 
上山:  六年程おりました。
 
有本:  そうですか。京都大学にいらっしゃったのは、何年頃になるんですか。
 
上山:  昭和二十三年に岡崎に移りまして、それから二十九年までおりました。
 
有本:  京大は人文科学研究所の助教授に迎えられた、
 
上山:  はい。人文科学研究所におられた鶴見俊輔さんが東京の方に転出されましたので、その後任として呼んで頂きました。
 
有本:  それから、先生はなんと言っても、やはり日本の仏教について大変造詣が深くいらっしゃいまして、まあ日本の仏教学者と言ってもいい位の上山先生ですが、その仏教の勉強しょう、研究しようというのは、どういうことなんですか。
 
上山:  正直に申しまして、仏教は素人です。研究テーマではありません。学問としてはやっていないんですね。先程お話しました、二十歳前後の精神的な混迷から、空海によって救って貰ったという思いがあるんです。空海が、「虚空蔵求聞持法」をやったことによって、何か突き抜けたんじゃないかと、私なりに解釈して、それを真似しようとした。そうしたら、これはもう予想した以上に、自分にとっては有り難い結果になった。それから、空海という人物に非常に興味を持つようになったんですね。ところが先程言った『三教指帰』という二十四歳の時の処女作ですね。それだけでも物凄く難しい。その文章そのものが、非常な学殖のある文章で、先ず漢文を読むのが大変なんですね。しかも彼の思想は密教です。インドで生まれた仏教が、原始仏教から大乗仏教を経て、密教に極まるんです。だから仏教というものが、インドで極点まで行ったところ、それが中国を介して空海が唐に行って持ってきたわけですね。仏教の行き着く先みたいなところなんで、ある意味で非常に難しいですね。その空海の著書の中に、晩年に纏めた『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』というのがあります。それは人間の精神が安住する段階が十あるということですね。初めは、とくに努力をしない自然の状態。それからちょっと道徳的になる、儒教にあたる段階。それから、道教みたいな世俗を超えた世界、その次の第四段目から仏教にはいる。そのうち最初の二段階が小乗仏教、あと残り五段階が大乗仏教で、大乗の最終段階が真言密教です。その十段階の中の、仏教の部分について、自分なりに勉強してみることによって、空海の仏教思想の成り立ちが理解出来るんじゃないか。そう考えて始めたのが仏教との幅広いおつきあいでした。そのいとぐちは、自分を救ってくれた空海の思想を理解したいということですから、まあ、信仰と言ったらいいのかなあと思うのです。
 
有本:  空海の思想に出会って、やはり日本仏教なり、お釈迦様のルーツまで辿らなければいけないということで、先生、今日まで仏教をずうっと、
 
上山:  ええ。空海の思想を知りたいという一念で、そんなことになりました。ところで、還暦のころに、「空海の伝記を書かないか」という話がありましたので、還暦祝いに、さきほど話に出ました『空海』(朝日選書)を書き上げたのですが、空海の伝記は神秘化されていますから、正味のところをえぐり出していこうと思うと、物凄い努力がいるんです。その時に虚空蔵求聞法を授けていただいた長谷宝秀先生の編纂された『弘法大師全集』に大変助けられました。あの方は空海の作品一つ一つにコメントを付けているんです。それが漢文なので、あまり読まれていないようなのですが、虚構と真実のふるい分けについて、鋭い問題提起が随処にあって、たいへん刺激をうけました。
 
有本:  まあ、空海と言う天才。それから同時代で言えば、比叡山を開いた最澄(さいちょう)(伝教大師:七六七ー八二二)、
 
上山:  最澄がおりますね。
 
有本:  その他比叡山から沢山のお祖師さんが出ていますね。
 
上山:  そうそう。日蓮、法然、親鸞、道元など。
 
有本:  ですから、インドから中国大陸に、そして朝鮮半島を経て、日本に来た仏教が、日本に花開いたと言うか、日本の国民に定着をしたというか、どういうふうにお考えになりますか。
 
上山:  難しい問題ですね。今の日本にあるさまざまな仏教宗派のなかで、非常に多くの信徒を抱えているのは鎌倉仏教ですね。その中で浄土真宗というのは、とくに大きいですね。そこの大変優れた僧侶の方々、これを例えば、タイとか、ビルマのように、お釈迦さんが定めたといわれる戒律を基本にした元々の姿に近い仏教を信じている僧侶たちと意見を交流させたら、向こうの人は呆れると思います。というのは、お釈迦様が仏教の教えの一番基本として示したと考えられる「戒律」と「瞑想」、それから悟りの智慧、なかでも戒律が非常に大事なんです。ところが日本の仏教は殆ど無戒に等しい。特に浄土真宗の場合はね。だから、そういうものを仏教と呼ぶことに、向こうの方々は疑問を示すかも知れませんね。それ程変わってしまっているんです。しかし、その元々の発祥の地であるインドには、もう仏教はゼロに等しいですね。中国も確かにインドの仏教、サンスクリットで書かれた文献を漢文に置き換えて、日本はそこから恩恵を受けたんですが、ここも少しは残っておりますが、仏教が生きているとは言いにくい状態になっている。それから朝鮮半島とか、ベトナムにも、中国を介してむかしはかなり普及したんですが、いまでは大へん衰えてしまっているのではないでしょうか。そうすると、日本だけにはかなりお寺もありますし、僧侶の方もいる。それから日本人の九割方が仏教のどこかの宗派に属していることに、形の上でなっている。そういう意味から見たら、日本に残っていると言えるでしょうけども、果たして仏教の思想というのは、どの程度日本の皆さんに伝えられているかというと、それは多少疑問があるんじゃないでしょうか。
 
有本:  確かにおっしゃるようなこともあると思いますが、まあ日本の仏教が我々に受け入れられるところがあったというのは、先生のおっしゃる戒律、その他を、まあ非常に戒律は大事なことなんだけど、それに拘るとなかなか一般市民はついていけない。だから割合緩(ゆる)くと言うんですか、見たいなところが、もしかしたら日本に、いま仏教が定着している一つの原因ではなかろうかと、
 
上山:  おっしゃる通りだと思います。そういう意味で、大きなエポックを作ったのは、伝教大師(でんぎょうだいし)最澄さん(七六七―八二二)だと思います。簡略に申し上げれば、僧侶の守るべき戒律というのは、「二百五十戒」と言いまして、二百五十の細かいディテールがあるんです。それを習得して、それを守るというのが、プロの僧侶の資格だったわけですね。そういう資格審査を行う施設としては、東大寺に戒壇院(かいだんいん)というのが今も残っている。しかし最澄さんは、そういう二百五十戒を全部やるということを基本にしないで、「大乗戒」に焦点をしぼった。それは煎じ詰めていくと十戒になり、その十戒のうちで一番大事にされるのは、自分のことを褒めて、人を貶(けな)すこと、怒ること、それから、惜しむこと、などです。「貶してはいけない」「怒ってはいけない」「惜しんではいけない」。これは凄いことなんです。なかなか出来ないですよ。直ぐ怒って終いますしね。それらが中心のような戒律ですね。それは「梵網戒(ぼんもうかい)」と言って、「梵網経」というお経がよりどころとされているんです。戒律をそこに絞り込んだこと、それが最澄のオリジナリティではないかと思います。これは中国やなんかには見られません。みんな二百五十の「具足戒(ぐそくかい)」という、普通の「小乗戒」とも呼ばれておりますが、それと「大乗戒」をあわせ行うということなんですが、切り捨ててしまったんですね。二百五十戒を。さらに戒律に厳しかった法然さんが、戒律を守るということよりも、阿弥陀(あみだ)さんが救って下さると信じて念仏を唱えることを一番の基本において、戒律などというものは、それに比べるとあまり大事でない、そういう位置付けをした。そして、親鸞さんの教えでは、もともと戒律を守れないようなものこそ救って下さるのが阿弥陀さんだという形が、非常に色濃く出て来ますね。そういうところにきたことによって、日本に仏教が定着するということがあったかも知りません。
 
有本:  そういう日本人に定着した仏教の、今のお話を伺いますと、やはり「認める」というのか、「寛容の精神」と言うんでしょうか、そんな気が致しますが、この二十一世紀目前にして、まあ確かに大戦争は無くなりました。しかし、民族も違えば、国も違うというようなことで、小さな争いというのか、大きく争いになる火種は、一杯地球上のあちこちにありますね。そうしますと、この二十一世紀、そういう「日本的な仏教の寛容さを日本から外国へ発信することは出来ないのか」と思うんですが如何でしょうか。
 
上山:  近頃ね、アメリカの政治学者でハ ーバード大学の国際政治学の教授で、ハンチントン(Huntington Sumuel:一九二六ー)という人が、『文明の衝突(THE CLASH OF CIVILIZATIONS AND THE REMAKING OF WORLD ORDER)』という本を出されましたね。これが今いろんな意味で話題を呼んでおります。この本によりますと、今の世界には、主要な文明が九つある。先ず、「ウエスタン」西欧文明。それから、「ラテンアメリカン」中南米文明。これはキリスト教を共有している点で、西欧文明に割と近いと思うんです。それから、「アフリカン」。これも植民地時代にキリスト教が浸透している。次は「イスラミック」。僕らから見たら、イスラムのコーランと、キリスト教のバイブルとは、親戚筋だと思うんだけど、かえってその間に酷い対立があると見ている。それから、「シニック」というのは中国文明です。それから、「ヒンズー」これはインド文明ですね。この文明を特徴づける本来の宗教はバラモン教で、これを否定する形で仏教が出て来ましたけれども、これが滅びて、バラモン教の復活みたいな形で、ヒンズー教が出て来ていますね。しかし、インドにはイスラムとヒンズーとが混じっています。次ぎに、「オーソドックス」。これはロシア正教のことです。これもキリスト教ですが、カトリックやプロテスタントとは違うとして、この人は捉えている。今のオーソドックスと言うか、ロシアとカトリックとがプロテスタントとの境にいろいろないざこざが起こった。それからロシア正教とイスラムの間で今のユーゴなんかの争いみたいなものが起こっていると見ていますね。それから、「ブッディスト」つまり仏教文明というのが、タイだとか、ビルマとか、チベットとか、蒙古。日本は入っていない。
 
有本:  入っていないんですか。
 
上山:  その「ジャパニーズ」、すなわち日本文明というのを別枠にしています。チベットとか、モンゴルというのは密教です。タイとか、ビルマとかは小乗仏教ですね。これは非常にハッキリした教条を持っています。日本の場合は寛容過ぎてとらえ所がない。彼が言うのには、これから文明を共有するところは統合していくだろう。そうやって統合が進んでいくなかで、どことも文明を共有していない日本は取り残されるんじゃないかということを言っていますね。
 
有本:  しかし、どことも共有はしていないけれども、日本特有の文明ということで、ハンチントンさんは位置付けているわけですね。
 
上山:  はい。そうなんです。
 
有本:  そうすると、日本の文明の中の日本仏教も、確かに「寛容」、或いは「非常に戒律には甘い」というふうな指摘はあるにしても、この二十一世紀、そういうことで日本が貢献出来るところはないんでしょうか。
 
上山:  僕はこう思うんですけどね。ハンチントンが挙げているようなイスラミックだとか、ウエスタンとか、ヒンズーとかというのは、中国も含めて、巨大な地域を覆うようなしっかりした古典を持っておりますね。ヒンズーだったら、『ヴェーダ』というものを持っておるし、中国は『四書五経』というものを持っている。それからウエスタンは『バイブル』やギリシャ・ラテンの古典群。日本文明を代表する古典を一つ示せ、と言われると、それはとても難しいでしょう。『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を挙げるわけにもいかんし、空海の『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』を挙げるわけにもいかない。要するに、そういう点では、私は、「日本はネガの文明だ」と思うんです。
 
有本:  ネガ?
 
上山:  というのは、
 
有本:  消極的な、
 
上山:  はい。ウエスタンとかイスラミックとかヒンズーとかは、それぞれがポジの文明ですね。ハッキリこれだという主張がある。日本はそういうものをハッキリ持たないけれども、いろんなものに対する共感の歴史を持っている。中国的なものへも最大限に関心を持ってきた。それからインドから渡って来た仏教にも関心を持ってきた。それから明治以後は、西洋文明に対して全面的に傾倒してきた。今もそれは続いている。そういう意味で、受け入れて、自分の中で育てるという女性的性格がいちじるしい。そういう意味で「ネガの文明」と言ってみたのです。
 
有本:  成る程。その否定的に捉えるんじゃなくて、ネガの文明を逆に積極的に前面に押し出すと、
 
上山:  ポジはポジと戦う。ウエスタンはイスラムと喧嘩しかないんですね。とくに近頃の喧嘩は短絡的で、ハラハラする。日本などは戦争を仕掛けたということで大きく罪を背負ってしまった。そういう罪を裁いた国としてはあるまじき軽率さで、闘いを挑んでいますね。ところが、日本はこういう時に一番の保守政党でさえ、まだ「後方支援をやっていいかどうか」という論議をするという、こんなこと世界中にない。その珍しさを変えたいという主張が出ていますけれども、簡単に変えるのは、戦後一貫してつみあげてきた平和の伝統と蓄積を失うことだと思います。ネガの文明を背景にした世界平和の唯一の拠り所と言うか、それを大切にしたい。たとえば、イスラエル文明にはそれなりの良いところがあるに違いない。悪いところはいろいろとあるでしょうけど、同時に、イスラムの文明を身に付けている人が、非常に大切にしているところを、こちらが理解するだけの可能性はある。何故かと言うと、自分がそれに対立するカードを持っていませんからね。だから、そのことによって、その人達と共に、その人達の美点は一緒に褒めることは出来る。しかし、欠点が見えてきたとしたら、一緒に悲しむことも出来る。ハンチントンが挙げているさまざまな文明に対して、そういう態度を取っていくことで、これからの世界平和の中で大事なカードを握ることが出来るんじゃないかなあ。これは非常に空想的ですけどね。日本仏教の成り立ち、生い立ちをずうっと見ていくと、空海あたりから日本のペースが始まるんですが、まあ親鸞さんに至って極まるのかなあという感じを持っています。そこまでいくと、戒律は全部無くなって、人間はダメな奴だから、阿弥陀さんにお願いする以外にないところまでいってしまった。これはある意味で、戒律を全然守れないという自覚が、かえってそういう一つの安心感の居所を掴んだという面白い結論だと思うんですね。
 
有本:  日本は日本特有の文明と友好位置付けですが、ヨーロッパに目を向けますと、EUがスタート致しますし、それから今年からは、例の統一通貨というようなことで、もう西欧の文明圏は一つの国境を取り払って、新しい国作りと言うか、新しい文明作りがスタートしているわけですから、先生が今、「空想的なこと」とおっしゃいましたけれども、壮大な実験ではあるんですけど、そういう試みが、今進められているということも注目しなければいけませんね。
 
上山:  これはハンチントンも言っているように、今のヨーロッパでの統合というのは、文明を共通にした国々の統合なんですね。それは出来るんですが、日本は文明を共有する国がない。それだけに、ハンチントンが、ウエスタンの敵としているイスラムとか、中国。ヨーロッパの同盟のように強固のものでなくとも、こういうところと、それぞれ橋渡しをしていけるという、ポテンシャルは残されている、と思うんですね。文明を共通にした諸国の統合というのとは、違う何らかの道を、どうしても捜していかなければならない。それから日本の文明は独立の文明と言っても、他がポジの文明であるのに対して、ネガの文明だという捉え方ですね。対等にポジの文明の一つとして、日本を捉えていって、そこに色を付けていくというよりも、いろんな文明に対する「共感」と「理解」の能力を具えた、そういう文明のあり方というものが、日本の永年の伝統に相応しいんじゃないかなあと思うんです。
 
有本:  「共感」と「理解」と言えば、やはり敵をと言うか、相手を非難する前に、相手の良さを認めた上で、もし意見があればということですね。どうも敵対すると、もう相手の悪いところだけを指摘をするという。
 
上山:  はい。そのためには、日本自身の文明の個性についての自覚というものがいると思います。これは余所のものを受け入れながら、非常に独自な性格の、つまりパッシブで女性的ではあるんですが、例えば、『源氏物語』、これはどこへ出しても恥ずかしくない、個性のある一つの古典としてあるわけですね。ところが『源氏物語』というのは、文学作品ですから、「ドグマ(dogma)」とか、「理論」とかというものはないわけです。「感覚」があるだけですね。しかし、そういう感覚が、どういう役割を持つのかということについての自覚、それから、先程言ったような、仏教の日本的な個性についての自覚、そういうものがないと。先程、「ネガの文明」と言いましたけれども、文字通りのゼロというふうな自己意識になってくると、これは非常に安定感がなくなると思います。その為には自己の、自分のもっている古典の理解と同時に、例えば、『コーラン』とか、『バイブル』とか、それから中国の古典とかというものに対して、これからの若い世代が深い理解力をもつとか、他の文明が大事にしているものを、こちらが理解しているということが、こちらのもっている独特な曖昧なものに対する共感を誘え込むんじゃないか。私は、『源氏物語』の英訳者のアーサ・ウエーリ(Arthur Waley)という人が、一九二九年、昭和四年に、『The originality of Japanese civilization 』という小さいパンフレットを出しています。これは『源氏物語』を中心にして、「日本文明のオリジナリティはどこにあるか」ということを言っているんですがね。その頃は、「日本文明」という言葉は、大へん珍しかったのではないでしょうか。ところが、最近になって、アイゼンスタット(S.N. Eisenstadt)という、これはイスラエルのヘブライ大学の教授で、大変国際的に有名な社会学者ですが、『Japanese Civilization』というごっつい本を書かれたんですね。ここには、日本の文明の弱いとこと、強いとこ、両方取り混ぜながら、非常な個性のある文明だという捉え方をしている。私としては、日本人自身が自分の個性を捉えることによって、他の文明に対する偏見のない対応の仕方というものをもって欲しいなあと思いますね。
 
有本:  短い時間の中に、日本人の文明論までお聞かせ頂きまして、本当に有り難うござ いました。お忙しい中、時間を割いて頂きまして、本当に有り難うございました。
 
上山:  どうも有り難うございました。
 
 
     これは、平成十一年十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時間」で放映されたものである。