現代と如来信仰ー清沢満之の生涯と思想ー
 
                          大谷大学教授 安 冨  信 哉(やすとみ しんや)
昭和19年新潟県村上市に生まれ。昭和42年早稲田大学文学部英文学科卒。昭和48年大谷大学大学院文学研究科真宗学専攻博士課程修了。文学博士。大谷大学文学部真宗学科助手、講師、特別研究員、助教授を経て、教授。平成12年同大大学院文学研究部長を兼務。大学院在学中に故金子大栄について学び、清沢満之への崇敬を深めた。著書に「親鸞と危機意識」「清沢満之の生涯と歴史的意義」共著に「親鸞の教え―教行信証「総序」に聞く」他
                          明達寺衆徒(みょうたつじしゅと)   林   暁 宇(はやし ぎょうう)
大正12年北海道浦幌町生まれ。昭和18年北海道庁十勝支庁に勤務。昭和24年暁烏敏を慕い明達寺衆徒となる。昭和45年から小豆島に、55年から札幌に住む。平成10年から石川県鳥越村のケアハウスに入り、平成14年から石川県辰口町鍋谷に住む。小学校を出たころ肺結核を発病。煩悶の中で清沢満之の思想にふれ、その門弟暁烏敏に師事した。念仏者に出会う行脚の旅人と自認する。著書に「死にしなの念仏」「三味線婆ちゃん」「念仏総長暁烏敏」「北の大地に念仏の華ひらく」「それで死んでも悔いはなかろう「ほんとうにしたいことがあったらそれをやれ」ほか
                          ききて    有 本  忠 雄
 
有本:  明治時代にあって、信仰は近代的な個の確立の為に、人間に絶対に欠かせないものと断言したのが、清沢満之(きよざわまんし)(一八六三ー一九0三)でした。今日の主題となります清沢満之は西暦一八六三年、文久(ぶんきゅう)三年に尾張藩士の家に生まれました。満十五歳で真宗大谷派の僧になり、宗門の学校に学びました。その後命じられて東京大学に入学して、宗教哲学を専攻、フェノロサから主にヘーゲル哲学を学び、大学院にまで進みます。明治二十一年宗門から請(こ)われて、京都府の尋常中学校の校長に就任します。満之が二十五歳の時です。満之はその頃から日常墨染めの袈裟を纏い、厳しい戒律の生活を送って、処女作『宗教哲学骸骨(がいこつ)』を発表しております。またその頃満之は生涯の病となった肺結核を発病しています。この病気の体験が満之に決定的な宗教的回心(えしん)をもたらしたと言われます。この後、満之は同志と組んで、雑誌『教界時言』を発刊し、宗門内部の改革を目指してのろしを上げますが、二年で挫折、教団の除名と病気などで苦悩しました。明治三十三年、教団の除名を解かれた満之は、東京に新設された真宗大学に職を得て、本郷の住まいに「浩々洞(こうこうどう)」の名を掲げて、若者達と共同生活を始めました。浩々洞(こうこうどう)から発行された雑誌『精神界』は新しい感覚で仏教を説いて、当時、一世を風靡(ふうび)したと言われています。やがて満之は妻子を病気で喪(うしな)い、自分の肺結核も再発しますが、他力の信念によって、苦悩のうちにも平安な晩年を送りました。明治三十六年、西暦一九0三年、清沢満之は愛知県の自坊で世を去りました。満三十九歳。著書『我が信念』が絶筆となりました。門下から暁烏敏(あけがらすはや)や曽我量深(そがりょうじん)、多田鼎(かなえ)など多くの仏教者が出ています。今日は大谷大学教授の安冨信哉さん、それに明達寺衆徒林暁宇さんにお話を頂くことに致します。お二方宜しくお願い致します。満之の経歴を簡単にお話致しましたけれども、意外に満之をご存知ない方が沢山いらっしゃいますよね。
 
安冨:  満之という方は大きなお仕事をした割には、名前が知られていない人ということが出来るかと思いますね。
 
有本:  安冨先生、清沢満之に出会ったと言いましょうかね、いつ頃なんでございますか。
 
安冨:  そうですね。もう前になりますけれども、もう三十年以上前になりますけれども、私、東京で学生生活を送っておりました時に、住んでいた場所が東本願寺の建てた学生寮であったんですね。それで東本願寺の学生寮であったということで、本郷にあったわけなんです。本郷という場所は昔、清沢満之が若い人達と共同生活を送った場所で、その浩々洞があった場所であったんですね。そんなことから、私達の先輩に当たる方々がよく浩々洞の話をされることがあったわけなんです。その後、私は京都の大谷大学に学ぶようになりまして、それが丁度一九六七年位でございまして、その頃は浩々洞直系の曽我量深とか、金子大栄(だいえい)という碩学(せきがく)の方々が非常に活発に講演やら講義やらなさっておられることで、お話の中に浩々洞やら清沢満之に触れるということがしばしばあったものですから、自然と清沢満之について関心をもつようになりました。また、私が恩師と仰いだ方がやはり清沢満之の研究者でございましたものですから、そんなことから清沢満之の文章を少しずつ読むようになってきたということがあるわけでございます。
 
有本:  安冨さんは新潟県に自坊がお有りで、その自坊もやはり真宗系のお寺ですね。
 
安冨:  そうでございます。真宗のお寺でございます。
 
有本:  林さん、いま安冨さんは「学生時代に」ということなんですが、林さんがそもそも教えに接したと言いましょうか、清沢満之との出会いはどんなことからなんでございますか。
 
林:  一番最初に清沢先生を知りましたのは、今、考えますと、満十七歳の時ですね。私の家は北海道の田舎の百姓でした。小学校を出たまま家にいたんですけれども、十七歳の時に結核になりました。その頃、結核は不治の病といわれていましたので、当然私は二十歳位で自分の一生は終わるものと思った。その時に、「こんなことなら何の為に人間に生まれてきたのか。生まれない方が良かった」。こういうようなことで苦悶する中で、たまたま清沢先生の『絶対他力の大道』と『わが信念』を読みまして、非常に感動を受けたわけです。
 
有本:  ところで、安冨先生、清沢満之の教えの一番核心に触れたというのは、どんなことでございますか。
 
安冨:  そうですね。いま林先生からご自分の結核の体験のお話がございましたけれども、やはりそういう結核に清沢満之自身が若い頃罹りまして、普通ですと、絶望して、自分を見失ってしまうということがあろうかと思いますけれども、そういう中で自分というものを見失わないで、自己を探求していったということがあったわけですね。そして、「自分というものが一体何によって成立するんだ」ということを問うていった。これは日本人としては珍しいタイプの人ではないかなあという気がします。現代風に言えば、「個というものが確立する上において、絶対無限者に帰依するというようなことが絶対不可欠なんだ」ということを言っておりますね。
 
有本:  清沢満之が亡くなって九十六年目ということなんですが、林さんは暁烏敏(あけがらすはや)(一八七七ー一九五四:真宗大学卒。満之の浩々洞同人。のちに明達寺住職。七十六歳で没す)さんのお弟子さんでもいらっしゃるんで、清沢満之から見れば孫弟子ということになりますよね。林さんは一番清沢満之の教えの核心と言いましょうか、どんなところに、
 
林:  先程言いましたように、暁烏先生に出会う前に、結核を患う中で清沢先生の文章に出会いました。それまで私は私の周辺にいる人達の信仰というものは、私の目から見れば、何ら確たる根拠をもたないもので、たまたま信じれる人もあるであろう。けれど、私はそんなものは信じれもしないし、信じれないことをむしろ誇りにすら思っておりました。そして先程言いましたように、二十歳位で自分の命を終えていかねばならないとなった時に、自分の一生というものは、非常に不幸な一生で、しかもそれは免れようのない運命である。そういう不幸の中で命を終えていかんならんということに絶望していた時に、『絶対他力の大道』・『わが信念』を読まして頂きました。そうすると、同じ結核の中で、またさらにいろいろな苦悩の中で、清沢先生が、「如来を信じる」といっておられる。そうして、「私は何故に如来を信じるのか」、或いは、「どのように信じるのか」「私の信念とはどういうことか」ということを、非常に平明に、仏語を用いずに理路整然と私のようなものにでも納得のいく言葉でお書きになっておられて、非常に感銘を受けたわけです。それまで私は、信ずるというのは何ら確たる根拠をもっていないものを、ただいきなり信ずるのだと思っていた時に、清沢先生のような方が、「私の信ずる如来は、私の信ずることの出来る、信ぜざるを得ざるところの本体である」といわれ、そうしてあれほどの学問をされた先生が、その信仰を「私の智慧の究極である」といわれる。それまで信仰などする人は、無学な人で、少し学問でもした人は、そういうものを信じれないのだと、こういうふうに思い込んでいました。ですから、そういうことは非常に驚きでしたね。しかもそういう先生が、
 
     「私は他のことにおいて多少の幸福を得られないことはないが、
     如何なる幸福もこの信念の幸福に勝るものはない」
     「信念の幸福は私の現世における最大幸福である」といわれ、
     「その幸福は、来世をまたず、現世において、既に大なる幸福を与え給う」。
     しかもそれは「私が毎日、毎夜に実験しつつあるところの幸福である」。
            (清沢満之「我が信念」より)
 
こういう言葉で述べられておりました。こういう信仰ならば私も是非求めたい。そうしてこの先生の信ずるところの信念というものを、私が頂くことが出来れば、たとえ二十歳(はたち)で命を終えていこうとも、自分の人生に納得して命を終えていけると、こう思いました。
 
有本:  「結核を病んでいらっしゃった」ということですが、非常に精神的にも研ぎ澄まされた林さんだったと思いますが、安冨さん、いまのお話を伺いますと、二十歳代前半で、満之の教えをそんなふうに受け止める林さんは凄いですね。
 
安冨:  なかなかそういうふうに。普通満之と言っても、そういう体験を経ないとなかなか分かりにくいという面も、確かに身に沁みて分かるということが、なかなかないように思うんですけれども。私はそれと同時に、満之という方は非常に研ぎ澄まされた感性と同時に、深い思索の力をもっていた人でありますので、その思想の方からアプローチ出来るんじゃないかと。『宗教哲学骸骨』という一番初期の彼の処女作に当たる作品がございますけれども、彼は哲学者でございますので、非常に論理的に、そして明晰に思考する人であったわけなんですね。だから、ある意味においては、自分の病とか、そういう苦悩とか、そういうところから近付いていくということが出来るのが一面にあると同時に、いわば思想の面で、つまり仏教という思想、清沢満之の場合には、同時に西洋の思想が入っておりますから、その思想をもって、いわば自己の抱いている考えというものを論理化して、そして公表していくと言いますか、そういう作業ですね、まあ難しい言葉になるかも知りませんけれども、ある意味においては、パトス(pathos)をロゴス(logos)化すると言いましょうか、そういうことをやった人ではないかなあという気が致しますね。
 
有本:  お二方から、「絶対他力」、或いは、「個の確立」というふうなお言葉が出て参りましたけれども、ちょっと言葉は難しいと言いましょうか、もっと噛み砕いて、安冨さんに解説をして頂きたいんですが、その辺如何でしょうか。
 
安冨:  「他力」ということは、清沢満之においては、本当に、「この自分が、自力が破れていく」、いわば、「自己の限界性の自覚」ということがあったわけなんですね。それには彼自身の精神の革命と言いましょうか、大きな心の転換があったわけなんですね。彼は武士の出で、そして仏門に入った人でございます。その為に武士としての一種の正義感というものを強くもっておったわけですね。それで人にものを言うだけでなくして、自分でそれを率先垂範と言いますか、先ず先立ってやってみようということで、禁欲生活に入っていくわけでございます。これはだんだんだんだんと激しさ、厳しさを増していったわけでございます。墨染めの衣に着替えまして、足駄を履いて、そして頭を剃って、それから肉を食べない。妻子を遠ざける。松ヤニをなめる。そば粉を水で捏ねて、それを食べるという、そういうような極端な禁欲生活に入っていくんですね。先ず、自分で実験しなければ気が済まないという、彼の一つの「実証的な精神」だと思います。「近代的な実証精神」と言ってもいいんですけれども、そういう生き方を彼は行っております。それを自分で、「最低限可能の生活」ということで、「ミニマム・ポシブル(Minimum Possible)の実験」と、「この実験ほど面白いことはない」と、こういうふうに言っておるんです。しかし、それが当然のことですけれども、身体に災いをもたらしますね。栄養失調に罹りまして、当時流行性感冒が流行ったそうでございますけれども、その為に結局、肺炎結核というふうなところに結び付いていって、喀血する。教団改革運動というものも失敗する。自分は結核になって、横たわる身になるというようなことで、今までの自負心が打ち砕かれるわけでございますね。自負心が打ち砕かれる中で、いわば人間失格の悲哀をなめるというところに 至ったわけでございます。そういう中で、改めて真宗の教えの流れを汲む者として、「一体、他力とは何か」と、「本当に他力によらなければ生きていけないんだ」ということを身をもって実感したわけですね。そういうところに、仏教の言葉で言えば、「回心(えしん)」と申しますけれども、いわば精神の革命があったと、そういうふうに言って宜しいかと思います。
 
有本:  清沢満之が徹底的に禁欲生活と言うか、その結果が、さらに肺結核を悪くする。トコトン自分を追い詰めて行くというのか、その辺は林さん、
 
林:  エピクテタス(Epiktetos:西暦50ー一三0年頃のストア派の哲学者、言行録「人生談義」がある)の語録に出会われたー
 
安冨:  それは大きいですね。
 
有本:  エピクテタスという人は奴隷であって、自由がない。
 
林:  そうです。そこに清沢先生も非常に心を打たれたんです。誰でも奴隷と言ったら、束縛されているということを、直ちに思うわけです。けれども、エピクテタスはそんな中で、「王君が私の何を束縛することが出来るか。精々で鎖で私の足を繋ぐ程度のことでないか。王君が私から何を奪うことが出来るか。精々で私の首を取る位のことでないか。私の本当の意志、この信念というものを奪うことは出来ない」。
 
こういうことをおっしゃった人なんですね。このことが非常に清沢先生の独立自由という信念を確立する上で、大きな意味、一つの節目というものをもたらしたと思うんです。こういうところから先生は
 
     吾人(ごじん)は吾人(ごじん)の現在の境遇の中において
     満足の見地(けんち)を発得(はっとく)せざるべからざるなり。
     是れ精神主義の活動によらずば、決して達し得られざる所なり。
 
     自分の与えられた境遇に対して、
     啻(ただ)に不満を感ぜざるのみならず、
     如何なる所にも無限の妙致(みょうち)を発見して、
     到る所に充分なる満足を獲得すべきなり。
         (清沢満之「精神主義」より)
 
といわれ、これを「独立自由の大義」とおっしゃっている。こういう考え方、信念というものはエピクテタスとの出会いが大きいと思うんですね。
 
有本:  清沢満之の精神主義というのは、イズム(ism:主義、原理)ではないということですね。
 
安冨:  はい。「モットー」と言った位のところがいいかと思うんですけれども、現在、「精神主義」と言いますと、「精神一倒何事かならざらん」とか、大和魂精神主義みたいな感じになってしまって、非常に肩の張ったものを想像するわけなんですけれども、物質というものに振り回されている自分、物質というのは象徴的な意味であると思いますけれども、さまざまな外のお金だとか、社会的な地位だとか、そういうものに振り回されている自分が、今、「自分として成り立つ為の一番大切な信仰」と言いますか、それを「精神」という名で呼んで、それを第一義とすると。モットーとすると、そういう意味において、「精神主義」という言葉を掲げたわけですね。その後の精神主義という言葉の使い方はどうも問題があったかと思いますけれども。決して頑なな心だけで、何でも片付けてしまおうというふうな主張ではないわけなんですね。
 
林:  鈴木大拙先生が『清沢全集』を発刊される時の推薦の言葉の中に、精神主義ということを先生らしい表現で、「霊性の自覚と独立を宣言した」と書いてあります。
 
安冨:  そういう「独立」と言いますか、それが清沢満之において、一番の要点じゃないかなという気が致します。この明治時代という時代は、独立精神というものが非常に横溢していた時代であって、例えば、清沢さんよりもずっと先になりますけれども、福沢諭吉が、「独立自尊」というようなことをおっしゃっております。「独立精神」と言いますと、主君に仕えるとか、そういう形で、なかなか精神の独立を得られないと。そういう中にあって、「自分が自分というものに責任をもって生きていくんだ」という、そういう独立心というものが起こってきたわけですが、「独立心が成り立つ一番元は何か」ということですね。清沢満之は、「自力による独立でなくて、仏教の他力による独立を地盤にしなければ独立出来ない」と。勿論、独立する為には経済的な独立だとか、いろいろなことがあるかと思いますけれども、清沢自身は結核で倒れておるわけで、収入を得ることが出来ないわけです。そういう中にあって、卑屈にならないで、いわば、「独立の気概をもった」と言いますか、そういうところがやはり清沢満之からの教えられるところでございますね。何といいますか、「凛々しい姿」と言いますか、それがやはり現代においてやはり「他力による独立、信念による独立」と、彼自身は言っております。「信念による独立」というものを果たし遂げたという意味があると思うんですね。
 
有本:  独立のお話で言えば、如来仏、仏様の如来というような時に、私達は偶像としての阿弥陀如来というふうに受け止め勝ちでございますが、清沢満之の如来信仰と言いましょうか、
 
安冨:  そうですね。普通、「如来」と仏教で申します。「如来」という言葉は仏教の基本語でございます。この「如」というのは「真理の概念」ですよね。だから、「一如(いちにょ)」とか、「真如(しんにょ)」とか、或いは、「如如(にょにょ)」なんていうふうに申します。その真理が、この「来(らい)」ですから、「やって来る」という。「真理が到来する」という意味において、「如来」というんですね。清沢満之は若い頃は一貫してそういう仏教語を使うことを避けていたわけですね。出来るだけ仏教の言葉は使わないで、しかも、仏教の精神を表現していこうというのが、彼の大きな一つの主張の元にあったものなんです。その中で最後の『我が信念』という、これは『我かくの如く如来を信ず』というのが、正式なタイトルでございますけれども、それが彼の絶筆でございます。その中で、「如来」という言葉を使うんですね。その「如来」というと、普通は、「阿弥陀如来」とか、「薬師如来」とか、「釈迦如来」というふうにこう付けますね。ところが、清沢満之はそういう上に形容詞を付けないんですね。形容詞と言うと、ちょっと語弊がございますけれども、上に付けない。端的に、「如来」とこういうわけです。それは偶像崇拝とか、或いは人格化を避けたいということがあったかと思うんですね。そういうことにおいて「如」というものに、つまり「真理によるんだ」ということを、「如来によるんだ」と、「到来する真理によるんだ」と。「そこにおいて自己を獲得する」というのが、彼の「如来信仰」と言えるかと思いますね。
 
有本:  林さんも講演活動を続けていらしゃるわけですが、今の如来のお話で言えば、とかく現代人も仏像であるとか、偶像というふうなことで、手を合わせ、ということですね。やっぱり如来の如は真理の、真理なんだというふうなことをお話の中で説いていらっしゃるわけですか。
 
林:  特に清沢先生のお話をしているわけではありませんけれども、何時のまにか自分の話していること、感じていることは、清沢先生が、「独立自由の大義」といわれた、そういう世界から開かれた生活ということになっているようです。私はそれを「単なる論理的な知識でなく、真に自分が実生活の上で頂いていける」ようになりたい。しかしそれは一人で求め得られないから、暁烏先生の所へ行ったわけですが、今考えますと、そこで暁烏先生が、私の具体的な人生と言うか、生活のあり方として示されたのが、清沢先生の精神主義だったのです。先生はまず私に「坊主になれ」と言われました。「私は別に坊さんになりたくて来たのではありません」と言ったんですが、「では何しに来た」といわれましたので、「そういう信 念を得たいと思って来ました」と言いましたら、「その為には君は坊主になる方がいいんだ」と言われました。先生は更にそこで「君は今後、自分がどうやって食っていくかとか、どうやって生活していけるかということは一切考えなくていい。それはちゃんと如来さんがいいようにしてくれる。君が生きていく為に必要なものは必ず如来が与えてくれる。だからこんなことをしておったら食っていけんのではないかとか、生きていくためにはやっぱりお金もかせがなければならんのではないかというようなことは、一切考える必要はない。君はただ自分自身の願いに向かって精進せよ。」と。先生は私の生きていく方向というものを、そういう形で示して下さった。今考えますと、それは全く清沢先生の「精神主義」の教えでありました。
 
有本:  それが林さんの回心(えしん)でもあるわけですね。
 
林:  回心と言えるかどうかはわかりませんけれども、自分の生き方人生の方向というものはこれだということは、その時きまりました。しかし、先生のおっしゃるように、「自分の境遇に対して、不満を感じないのみならず、無限の妙致(みょうち)を発見して、到るところに、充分なる満足を獲得する」と、こういうことになかなかなれない。そこに私の苦悩があったのです。以来そのことがずっと私の人生の課題になったと言うことですね。
 
有本:  「無限の妙致」ですか、
 
林:  はい。
 
有本:  今の林さんのお話を伺っておりますと、清沢満之の「絶対他力の道に説いた自己の主体性の確立」というところにいくと思うんですが、
 
安冨:  そうですね。結核という病に罹りまして、「自己の主体を如何に確立するか」という、それは清沢満之にとっては、命をかけた切実な問いだったわけですね。そういうことから、彼は、『臘扇記(ろうせんき)』という日記の中で、
 
     自己とは何ぞや。是れ人生の根本的問題なり
          (清沢満之の日記 明治三十一年より)
 
と言っておりますね。これはある意味において、悲痛な彼自身の叫びのようにも聞こえると思うんです。いわば自己を見失って終いそうな中にあって、「一体自己とはなんだ」という。その場合の「自己」と申しますのは、単に、「私」というふうなことではないと思うんですね。やはり、「命の中心」と言いますか、「私を本当に私たらしめる、そういうものを自己」。先程の言葉で言えば、「個」と言って良いかと思うんですけれども、そういう「自己、或いは個」という、そういうものを清沢満之自身問うたわけですね。これは清沢満之の個人的な問いでもあると思いますけれども、同時に、これは普遍的な問いであるような気が致しますね。そういう問いを自ら起こす中で、彼は、
 
     自己とは他なし、絶対無限の妙用(みょうゆう)に乗託(じょうたく)して、
     任運(にんうん)に法爾(ほうに)に、此現前(このげんぜん)の境遇に落在(らくざい)せるもの、即ち是(これ)なり
           (清沢満之「絶対他力の大道」より)
 
こういうふうに言っておりますね。この漢文調の難しい言葉でございますけれども、簡単に言いますと、「絶対無限なるものに帰依して、それに心を託することによって、私は苦しい状況の中にあっても、自己を得る」という、いわば、「個として、自分というものは成り立っていくんだ」ということでございます。そういう「自己獲得の道」ですね。これはいわば、「個として成り立たしめるような道」でございますけれども、これを彼は「修養」という言葉で呼んでおります。「修養」という言葉は、現在では何か古めかしい道徳観を示しているような言葉で、そういう印象を与える言葉でございますけれども、明治の時代にはよく使われた言葉でございますね。これは「修身養心」身を修め心を養う、という意味で、よく使われた言葉でございます。清沢自身は「修養」という言葉を何度も使っております。これは彼自身が、いわば、非常に儒教的な背景、武士の出でございますので、それと、エピクテタスはストア派の人でございますので、このストア主義の影響もあったかと思います。そういうところから、修養という言葉を使うということがあるんです。彼においてはどこまでも「自己獲得の道としての修養」なんですね。どこまでも自らを獲得していく為に、いわば、生活化していく、それが修養なんですね。それで彼は、『絶対他力の大道』の中で、修養について、
 
     何をか修養の方法となす。
     曰(いわ)く、須(すべから)く自己を省察すべし、大道を知見(ちけん)すべし、
           (清沢満之「絶対他力之大道」より)
 
という言葉を言っておりますね。そういう意味において、修養の方法として、「自己というものを内観していく」ということと、同時に「大道」「大いなる道」「大いなる道理」、或いは、「大いなる真理」と言ってもいいんでしょうけれども、そういうものに対して、「目を見開いていく」ということであろうかと思うんですね。「修養」と言われるものはそういうものだと思うんですね。
 
有本:  大変自分に厳しいということ、禁欲生活、トコトンやり抜くと言うか、そういうことで清沢満之の思想なり、考え方を見ますと、個というのはよく分かるんですが、社会という集団とか、或いは組織への依存というのか、個の信仰と別なものということ、
 
安冨:  そうですね。私達は一般に、信仰と言われるものが、「ある一つの信仰集団」と言いますか、「宗教集団に入る」というようなことがあると思うんですね。それによって、「安心する」と言うんですか、「自分の居場所を見付ける」ということがあるかと思うんです。一般に、日本でずっと伝統化されてきた宗教的な信仰というものは、いわば、一つの集団とか、共同体とか、そういう中において、自分の居場所を見付けていく。そういう中で、セルフ アイデンティティー(self-identity)という言葉使って良いかどうか分かりませんけれども、「自分の居場所を見いだしていくのが信仰だ」というふうに見られることが多いんじゃないかと思うんです。しかし、それが確かに大切な役割を果たしたということは事実だと思うんですね。何かそういう「信仰集団に入ることによって、自分がそこに安住する場所を見付ける」ということはあるし、そして、これは信仰に限らないで、例えば、会社とか、そういう組織に入っても、その場所にいると安心するということがあると思うんです。ところが、一歩そこから出ますと、また不安になってしまう。そういうことってよくあるんじゃないかと思うんですね。だから、清沢満之がいう信仰というのはどこまでも、いわば、「目覚め」というんでしょうか、だから何かに、集団とか、共同体というものに入って、そこで一つの安心を得るという側面もないわけじゃないけれども、しかし、「どこまでも自己に帰っていく道が、彼における信仰」だったわけですよね。だから、そういう「自己に帰っていくことによって、自分が本来の自己というものによって立っていくんだ」という。そういう意味においては、清沢満之は、いわば自覚というところに、信仰というものを離さないで、「信仰と自覚というものが、彼においては一つだった」と思うんですね。信仰というものと、自覚というものをややもすると違うものに考え勝ちでありますけれども、彼においては、「信仰と自覚というものは一つ」であった。それを彼は「内観主義」という言葉でも呼んでおりますね。
 
有本:  内観は内を観る
 
安冨:  そういうことですね。「内を見つめていく」「自己を省察する」と言いますか、そういう「内観の道、そういうものとしての信仰」と言いますかね。ある意味においては、「仏教の本来に帰った」と言ってもいいと思うんです。仏教というものは、ある意味で「自覚道」「自覚自証の道」と言われます。ややもすると、「他力」と言いますと、「全てお任せで、自分は何にも自己を自覚しないままに、ただ任せてしまう。そういうものが信仰だ」というふうに取られるんですけれども、しかし、「自覚のない信仰というものは、本当の意味での信仰と言えない」。そういうのが近代的でもあるし、同時に仏教自身の目覚めの道というところであるかと思うんですね。
 
有本:  それからもう一つ、私達は今日(こんにち)、『歎異抄(たんにしょう)』を読みますけれども、明治以降、『歎異抄』のブームは、清沢満之がまた世に問うたというふうなことが言いると思うんですが、それと『阿含経(あごんきょう)』も随分なんか勉強されたと言うか、
 
安冨:  そうですね。『宗教哲学骸骨』ということを最初に申しましたけれども、彼が自分の聖典として尊んだのは三つあるんですね。それがまず、『阿含経』なんですね。『阿含経』というのは、仏陀の、釈尊のいわば言行録と言ってもいいと思うんです。それとローマの奴隷であり、かつ哲人であったエピクテタス、その『エピクテタス語録』ですね。それと、『歎異抄』ですね。これを「余の三部経」というふうに呼んでおります。この三つを「自分の聖典なんだ」というふうに言っておりますね。この三つの聖典に共通するのは、「観念的な書物でない」ということなんですね。『阿含経』というのは、釈尊の出家精神というものを表している。そして、釈尊の言行録ですね。経典の中でも古い経典と言われております。そして、従来大乗仏教の中からは、あれは小乗だとおとしめられていたわけなんですが、清沢満之はこれを重く取り上げるんですね。エピクテタスは『エピクテタス語録』でございます。これも言行録でございますね。『歎異抄』は親鸞の言行録。いずれも言行録ですね。しかも面白ことに、いわば阿含経はインドの聖典、東洋の聖典ですね。エピクテタスは西洋の聖典で、『歎異抄』は日本の聖典である。そういう意味において、東洋、西洋、日本という、その中から彼が一番大切にしたものを三つ取りだしたということがございますね。
 
有本:  そうしますと、着地点というのか、足元は一つは日本であり、もう一つはヨーロッパであり、西洋であり、というようなことで、立脚点がきちんと、
 
安冨:  そうですね。これはアメリカのギルバート・ジョンストン(Gilbert Jonston)という、ハーバード大学で清沢満之で学位を一九七二年に取られた方なんです。この方が、「清沢満之は架け橋のような人だ」と言っているんですね。一つは、「西洋と東洋との架け橋」となったというんですね。もう一つは、「禅と真宗との架け橋」になったと。同時に、「伝統と現代の架け橋」になったという。この「三つの架け橋がある」というふうに表現しております。そういう意味においては、広く世界に足をおいて、しかも帰依するところは、しっかりと他力の信念というものに帰依して、立った人であったというふうに見ることが出来るかと思うんです。
 
有本:  林さんは孫弟子という立場で、今、安冨先生がご指摘の「東洋と西洋の架け橋だ」という、西洋というふうなことは教えの中からお感じになりますか。
 
林:  最初、清沢先生が西洋哲学を大学で学ばれた。そういうことが、私が従来もっていた「信仰」というものの概念を破られた一つですね。そういう哲学を学ばれて、そういうものを根底において、その上で、「私の信ずることも出来る。信ぜざるを得ざるところの如来である」と、こういうふうにおっしゃっています。今、安冨先生がおっしゃいましたように、この三つの非常に違った環境の中から生まれた聖典に共通するのは、言行録的な、実生活について述べられている点です。これは清沢先生自身が持っておられた苦悩というものが、信仰というものを、単なる思想や論理というもので満足出来ず、自分自身の具体的な生活における救いというものを、求めずにおられなかった為に、見いだされたものだと思うんですね。暁烏先生の『清沢先生讃仰和讃』で言いますと、清沢先生の信仰は、
 
     病(やまい)も貧(ひん)も不如意なり
     病や貧に苦しむと
     苦しまざるとは自由なり
     自由は人の命なり。
 
ということです。「不如意」とは意の如くならない、自分の思うようにならない。それが具体的に今自分に与えられている生活の事実である。その中で、独立自由の世界を先生は求められたんですね。そういうところから、三つの聖典というものが、「余が三部経」という形になったんだと思います。また「自己と如来」との関わりについては、先程のように、「自己とはなんぞや」という自己の方向からおっしゃっておられると同時に、また反対の「如来」という方面から、「無限他力、何れの処にかある」、こういう問いを出されて、
 
     自分の稟受(ひんじゅ)において之を見る。自分の稟受は無限他力の表顕(ひょうけん)なり
           (清沢満之「絶対他力之大道」より)、
 
と、こういう形で自己と如来の両面からその関係というものを明らかにしておられますね。
 
有本:  限られた時間の中に、清沢満之の深い思想をなかなか説明頂けないんですが、まあ一九九九年、再来年は二十一世紀ということで、丁度百年前に生きた満之の思想なり、教えなりを、現代の私達はどう受け止め、どう活かしていったらいいんだろうということになりますと、安冨先生はどんなことを、
 
安冨:  そうですね。清沢満之の思想というものは、非常にやはり深くて、広さをもって、ある意味において、射程距離が非常に長いような気が致しますね。だから、どれがどうだとちょっと言えないんですけれども、今日のお話の筋から申しますと、やはり自己と言いますか、そこに返るんじゃないかなあという気がするんですね。それでいま林先生がおっしゃいましたように、如来でございますね、清沢満之の言葉に、
 
     我等の大迷(だいめい)は如来を知らざるにあり
         (清沢満之の日記 明治三十六年より)
 
という言葉がございます。『当用日記』という一番最後の亡くなられる三日位前だと思うんですけれども、その中で、「我等の大迷は如来を知らざるにあり」と、
 
有本:  大迷の迷は迷いー
 
安冨:  そうですね。大きな迷い。「私達の迷いというのは如来を知らないからなんだ」ということをおっしゃっておりますね。それで「宗教的真理」という言葉を使っていいと思うんですけれども、「それの目覚めが清沢満之にとっては、われに帰る道であった」というふうにいうことが出来るかと思うんですね。そういう意味において、「自己に帰る道」「自己を回復する道」というふうに言えるんじゃないかと。近代はよく「自己疎外」というふうなことを言われますね。「自己疎外の時代」「自己というものを見失って、物質的なものとか、流行だとか、お金だとか、或いは社会的地位だとか、そういうものに振り回されて、自分を見失ってしまっている」と。そういうもので「自己疎外」ということ。「近代がそういう時代である」ということを言われますけれども、近代の初頭に清沢満之は生きたわけですよね。そうして自己を求めていったわけです。そして、それから百年経ちました。現代も、「空虚な自己の時代」ということが言われておりますね。ある少年が自分のことを「透明な存在」と言っておりますけれども、そういう「透明の自分」と言いますか、「自分というものは、いわば、がらんどうになっている」というようなことが言われております。そう思いますと、この空虚な自己の時代に生きている私達、それにおいて、清沢満之が百年前に、既に自己を問うて、自己というものを回復して、われに帰って、そしてそこに立って、人生を歩んで、四十年の生涯を生ききったということ。これは本当に私達は教えられることが多いんじゃないかなあという気が致します。
 
林:  清沢先生はそのように「我等の大迷は如来を知らざるにあり」とおっしゃいまして、ここから先生における一切の思想が生まれてきているわけです。先生が養子先のお寺へお父さんを伴って行き生活に困窮されていた頃のことですが、ある日奥さんに、「明日炊く米がない。どうしたら良いか」ということを問われた時に、「如来まします、案ずるに及ばぬ」とおっしゃったと言うことです。先生のいわれる如来とはそういう如来なんですね。だからその如来を知らないことが、私共の苦悩の根元であり、迷いの根元であるといわれる。だから、「如来を知れば自己に分限あることを知る」と。
この「分限」ということは、清沢先生の思想・信仰の中で、非常に大事なものです。「自己に許された分限」と言いますか、それと同時に、「自己に許されていない分限」。「自分の努力によってなし得るもの」と、「努力してもどうすることも出来ない」ものとがある。それを明らかにする。「その自己に許されていない分限」は、実は「如来の分限」である。これを先生は「外物(がいぶつ)」「外他の人物」といわれ、他人や財物や外側に求めてはならない。そういう方向では真の自由と満足が得られない。「依頼心は奴隷心なり」といわれる。そして、その「自分の分限外のものに対しては、又、別に如来の妙巧(みょうこう)がある」とおっしゃっていますね。
 
安冨:  やはり、自分を超えた大きなもの、そういう働き、それを人間中心の現代が、何でも人間と、自分で出来ると。こういうものをもって、いわば天にあるもの、まあ全て空気とか、全てそれ自身が、いわば如来なんですね。それを私(わたくし)するという。それは「私達は頂いている」筈なんですけれども、しかし、もう「自分のものだ」というふうに、「自分の所有」のように人間は思ってしまいますよね。それは「如来の分限を侵す」ことですよね。そういうことに、私達がホントに「無自覚になってきていて、人間中心主義と言いますか、そういうものが非常に行き過ぎてきた」というのが、現代というところであるんじゃないでしょうかね。「如来の分限ということにおいて、初めて自己の分限を知る」と。「如来を知ることにおいて、初めて自己を知る」という。「自分」というのは、「自」と「分ける」と書きますよね。「私は頂いたもの」なんですね。自分というのは。この自分の分際のところを忘れてしまうわけなんですね。
 
林:  ある先生が清沢先生の評伝をお書きになられた中で、「こういう優れた思想・信仰であるけれども、残念なことに限界がある。それはインテリー層にしか及ばなかった」ということをおしゃっています。それを読まして頂いた当時は成る程と思っておったんです。
しかし最近になってまた考えてみますと、私の周辺で清沢先生の絶対他力の信仰が自分の人生の指針となって、それに立って生きているという人が沢山あります。じゃ、そういう人は、こういう難しいことを知っているか、と言ったら、系統立てた学問的・思想的には知らない、というべきだと思うんです。
そういうことから考えますと、清沢先生の、命をかけて、身をもって、救いを求められた中で得られた一言一句のもっているいのち、力というものは、一語能く一人の人間の人生を変え、その生涯を支えていくという力になっていることを思うんです。
これは私の身近にいる人のことですけれども、この人は非常に不遇な人生を生きて、親にも死なれ、仕事も上手くいかない。その上三人の子供を残して妻に死なれた後やっと再婚するわけですが、その時、思いがけない、自分から比べたらいい家庭の娘さんを貰うわけです。その時に非常に心配したことは、相手の親が私のような者のところへ大事な可愛い娘をくれて、どんなに心配になるか、ということだったんですが、いつ会っても、安心仕切っている。あの安心というのはどっから来ているんだろうと。こういうことが不思議でならない。ある時にたまたま本の整理をさせられた時に、「お前、何か持って行って読まんか」といわれた。ああ、こういうものを読んでいる人か。ひょっとしたらこの中に鍵があるんじゃないかと思って読んだのが『暁烏敏全集』であった。そしてたまたま清沢先生のお話をされているところを読んだわけですね。すると、そこで先程の、「如来まします、案ずるには及ばぬ」という言葉に出会った。ははあ、これだったんだと。あの安心というのは、それ以外に考えられないと気付いた。以来、その「如来」を知りたくて大嫌いだったお文さんなどを熱心に読むようになり、考えが一転したんです。このように自分の生活に窮したところで、清沢先生の鋭い、的確な一言に出会って、それが自分の生涯の指針になった。こういう事例が、意外に私の周辺には多いのです。
 
有本:  確かに清沢満之の教えが現代に生きている。生かしていかなければいけないことだと思うんですが、どうもいろいろ有り難うございました。
 
 
     これは、平成十一年四月十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。