空と浄土
 
                          京都大学名誉教授 梶 山  雄 一(かじやま ゆういち)
大正14年、静岡生まれ。昭和19年京都大学に入学。のち学徒出陣。戦後復学し仏教学を専攻。昭和23年京都大学文学部卒。昭和31年京都大学文学部助手。36年助教授。46年教授を経て、退官後、仏教大学教授。平成9年に創価大学国際仏教学高等研究所の所長に就任した。共編に「輪廻の思想」「浄土仏教の思想」など。
                          き き て    有 本  忠 雄
 
有本:  よく仏教の教えの根底に、「空の思想がある」とか、「極楽浄土の建設は仏の本願である」とか申します。皆さんはこの「空」であるとか、「浄土」ということについて、深くお考えになったことがおありでしょうか。今日は空と浄土の深い意味について、京都大学名誉教授梶山雄一さんにお話を伺うことに致します。先生、よろしくお願い致します。先生は大正末期、静岡市の生まれだそうですね。
 
梶山:  そうでございます。
有本:  小さい時から富士山をご覧になりながら、大きくおなりになったんでしょうか。
 
梶山:  まあ、富士山は晴れてさえいれば、静岡からまともに見えますものですから、毎日晴れている限りは見てまいりました。
 
有本:  京都大学の哲学科に入学なさるのは、昭和で言えば、何年ですか。
 
梶山:  十九年の九月になります。丁度戦争の末期でしたので、旧制の高等学校の三年の期間が二年半に短縮されまして、それで十九年の九月に京大に入ったんです。
 
有本:  そうですか。太平洋戦争の末期、学生の身で軍隊に取られた。
 
梶山:  そういうことでございます。十八年から学徒出陣と申しまして、理科系の学生は良かったんですが、文化系の学生は二十歳(はたち)過ぎた人は、みな兵隊に取られたわけです。
 
有本:  戦争中、生死(しょうじ)、死や生を真剣に考える時代でもあったと思いますが、やはり学問の道でいくならば、哲学を勉強してみたい、仏教も勉強して見たいということがおありだったでしょうか。
 
梶本: ええ。私は元々中学時代からは、行く行くは小説を書いて、文学者になろうと思っていたんです。しかし、戦争は始まっていたんですが、高等学校へ入った頃からは、直ぐに兵隊に行って戦死するに違いない、と。これは私だけではありません。その当時の高校や大学の学生はみんなそう思っていたんです。けれど、それでどうせ死ぬんならもう少し直接自分の死に関する学問をやった方がいいと思いまして、京都大学に縁があって、哲学科の仏教学をやろうということに決めたわけでございます。
 
有本:  そうですか。恩師はどなたになるんでございますか。
 
梶本: 入った時は、久松真一(ひさまつしんいち)(昭和五十五年に没した哲学者。京都大学教授などを歴任)という先生で、禅の大家としても有名ですし、或いは、お茶とか、能とか、そういう芸術の面でも非常に傑出した先生でした。禅の方でも、実際、妙心寺などで坐禅をしておられたんですが、かなり高いところまでいっておられた方です。そして、しかも在家で一生通して、お坊さんにはならなかった。しかも、独身で、最後まで独身を通された方です。
 
有本:  卒業後は母校にお残りになって、ずうっと京都大学の教授ということですが、京都大学を定年退官後、仏教大学に迎えられますね。
 
梶本: はい。仏教大学へ行きまして、丁度、正規には七年、あと嘱託教授というのが二年ありましたから、九年間、ずうっと大学におりました。
 
有本:  先生のような有能な学者先生は引っ張りだこだと思うんですが、仏教大学を又退職された後、今、東京の研究所にいらっしゃるんですよね。
 
梶山:  丁度、丸二年前ですが、仏教大学を辞める頃になりまして、創価大学が国際仏教学研究所という仏教学の研究所を作りたいということで、私に話がありまして、私は企画を頼まれたんだと思って、企画だけ作って出したんですが、実際には、「私に来てくれ」ということで、所長として、研究所に行くことになって、今二年経ったところでございます。
 
有本:  その所長さんでどんなことをスタッフの方と研究していらっしゃるんですか。
 
梶山:  スタッフにはあと二人、優秀な湯山明(ゆやまあきら)先生と、辛嶋静志(からしませいし)先生がおられるんです。三人とも初期の大乗仏教の研究をしよう、と。中でも、法華経を中心にして研究をしていこうということで、みんなそれぞれやっているわけです。時には、共同研究みたいなものもするわけです。
 
有本:  そうですか。さて、今日は最初にも申し上げましたように、「空と浄土」についてお話を伺うわけですが、私、或いは一般の方も、空という思想と浄土と思想は別な思想であるやに、どうも受け止め勝ちなんですが、その辺、梶山先生に今日はじっくりとお話を伺いたいと思いますが。
 
梶山:  糸口として、例えば、江戸時代におりました鈴木正三(しょうさん)(江戸前期の仮名草子作者。三河の人。幕臣だったが出家して正三(しょうさん)と称し、武士道精神を加味した一流の禅をとなえ、二王禅と名付けた)という人から話をしてまいりましょう。この人も禅浄(ぜんじょう)雙修(そうしゅう)と申しますが、禅と浄土とを並んで、修めた人、修行した人という。これは中国にも禅と浄土とを一緒にやっていた人は、例えば、雲棲?宏(うんせいしこう)という人がいました。日本では鈴木正三が有名でございますが、この人が臨終の時になって、息子を呼びつけまして、「夢じゃさ」という言い方をする。「夢じゃさ」と息子に言うんです。そうすると、息子の方は、「まことにこの世というものは、夢のようなものでございます」と、父親に対して応えるわけですね。そうすると、正三の方は、「違う。そうじゃないんだ。ただ夢じゃさ」と言って死んでいくわけです。その場合、その息子の方は、父親が臨終に言ったことは、この世というものは夢のように儚いものだ、と。だから、「夢のようだ」と言ったんだと 思ったんです。しかし、正三はそんなことを言っていないんですね。「人生は夢そのものである」と。だから、「夢のようなものだと、付け加えるのは全く自分の考えていることと違うんだ」と言って、それで、「ただ夢じゃさ」という形で、息子を訂正して死んで逝ったわけでございます。ここでも「夢じゃさ」という、この夢というのは『般若経』の中に表れます「十の喩え」、「十の比喩(ひゆ)」というのがございまして、十全部いうわけにはいきませんが、「夢」であるとか、「幻」であるとか、「陽焔(かげろう)」であるとか、或いは「電影(でんげい)」雷の光であるとか、「響(やまびこ)」であるとか、そういうようなものが人生を現すものだという譬えがございます。その最初に出てくるのが夢であります。譬えと言っても、そういうように、「儚いものだ、ということではございません。人生にしてもなんにしても、あらゆるものは、実は夢なんだ」と。「夢そのものであり、幻そのものであるんだ」という意味で使っているわけですね。
五世紀から六世紀にかけて曇鸞(どんらん)という偉い学者がおりました。この人はインドの世親(せしん)(四00ー四八0年ころのインドの仏教学者)の書いた『無量寿経論』に注釈を書きまして、『浄土論註』と申しておりますが、大変有名な、そして重要な浄土教の学者であったわけです。この人が、「我々が念仏をして、浄土に生まれるとか、この世で死んで浄土に生まれる」というようなことを言うんだけど、「生まれる人も、それから生まれて浄土にいる人も、実は実際にいるじゃないんだ」と。「それは仮の名ばかりの人間である。浄土というのも実は仮の名ばかりのものである」ということをいうわけなんです。ちょっと驚くようなことを言っているんですが、実は仏教では、この仮の名ばかりというのは「仮(け)名(みょう)」という。それは「実体がない。仮に作られた名ばかりのものである」という意味で使われる言葉なんです。ですから、曇鸞は、「穢土(えど)」穢土というのはこの世ですが、「この世の仮名(けみょう)の人、名ばかりの人が、浄土に行って、仮の浄土の仮名(けみょう)人、浄土の名ばかりの人間になるんだ」と。「実際、そこに人間とか、死ぬとか、生きるとか、生まれるとか、いうようなことも、何か実体的にあるわけじゃないんだ」ということを申しておるわけです。これをちょっと聞きますと、「それじゃ、浄土もないのか。ここで念仏している人間もないのか。浄土に生まれた、生まれるということも生まれた人も無いのか」というふうに、驚く方もおられるとは思うんですけれども、実はそういうことを曇鸞が申しましたのは、その曇鸞に先立つ二世紀から三世紀のインドに現れました龍樹(りゅうじゅ)(一五0ー二五0年ころのインドの仏教学者。空の思想を理論的に解説した)という、Nãgãrjuna(ナーガールジュナ)という名前ですが、中国、日本では龍樹(りゅうじゅ)と呼んでいます。この龍樹という人は空の思想を大成した人なんです。その人の思想を受けて、曇鸞が今申したようなことをいうわけであります。それで、曇鸞が言いますのは、「仮に私がこの世で死んで浄土に生まれたとして、それは縁起であって、別に生まれた私が、この世にいた私と同一でもない」。「もし、この世の私が浄土の私になったとすれば、それは同じじゃないか」とおっしゃるかも知れませんが、「そこには同一の関係というのはないんだ」と。「何故ならば、もし同一であったならば、原因と結果。この世の私と浄土の私というものとは同じものになってしまって、そこに私がこの世で念仏して、浄土に生まれたんだ、という因果関係は成り立たないじゃないか」と。「そうか、と言って、じゃ、この世で念仏している私が、全く浄土に生まれた私とは違うんだ、というかと言うと、そうでもない」と。もし全く別だったら、例えば、壷というものは布のような、布切れから出来たと、そんなことはあり得ないですね。「一つの結果が全く性質の違った原因から生まれる。別なものから生まれるということは出来ない」。そうしますと、その因果関係一般を考えた場合は、「原因と結果というものは同一とも言えない。同じだったら、原因結果と分けていうことは出来ません」。違ったんだったならば、この壷は布から出来るということも言えるわけですね。だから、「違ってもいない」と。つまり、「そこには同一の関係も別異、違った、違っているという関係もない、因果関係というものはそういうものだ」ということを、龍樹という人は言っているわけですね。「縁起(えんぎ)」と仏教で申しますけれど、「その縁起ということは、その原因と結果との間に同一関係もないし、別異な、違ったものという関係もないんだ」ということを言っているんです。その考えを曇鸞は引き継いでいるわけですね。
 
有本:  先程、正三が臨終の時に、「夢」と言ったエピソードをご紹介頂きましたけれど も、禅と念仏に生きた鈴木正三が、死を迎えて、「夢じゃ」と言ったというのは、今の曇鸞の例や、龍樹の例を実践したというのか、それを正三は受け止めて、生涯の言葉が出て来た、と言っていいんでしょうか。
 
梶山:  そうだと思いますね。正三にとっても、龍樹や曇鸞と同じように、「この世は夢 だ」と。「夢のようだ」と言うんじゃなしに、「夢であり、幻である」ということなんですね。私共は、「自分も、それから自分の周りのものも、みんな事実としてあるんだ」と思っているんですが、果たしてほんとにそうなのか、どうかということですね。そういうものを、「全てのものは、実は本質が空なものであり、そして全てが仮名(けみょう)だ」と。「仮に名付けられた」、言い換えれば、「言葉だけのもの、概念だけのものを、我々がかってに実体があるんだ、と思っているに過ぎないんだ」と。そういうことを言いましたのが、『般若経』であり、龍樹の思想であったわけなんです。その考え方が鈴木正三にも曇鸞にも、或いは、その後の法然や親鸞というような人にも受け継がれて、「浄土教というものの中にも、そういう空の思想が流れているんだ」ということを申し上げたいと思うわけであります。「空」と言いますと、「何も無いんだ」というふうに思ってしまわれると困るわけです。「実体がないのが空だ」と。或いは、「名ばかりのものとか、概念に過ぎないんだ」ということを申しましたが、先ず実体がないという時の「実体というのは何か」ということですね。これは哲学の用語を借りて申しますと、
 







 

「実体がある」とは

*他のものに依存しないで自立的
*変化しない。
*永続的、永久的。
*単一のもの。

 
 
「他のものに頼らないで、自分だけで存在しているもの、自立的なもの」が一つの条件です。それから、「絶対に変化しないもの」が実体のもう一つの本質でございます。それから、「どこまでも永続的、永く永久に存在し続けるもの」が三つ目の条件です。それから実体というものは、「単一のものでないと具合が悪い」。いろいろな複合物、いろいろなものが寄せ集まり、部分となって出来上がったものは実体ではないという。だから、言い換えますと、「自立的で、変化しないで、そして、永続的で単一なもの」というのが、「仏教が考えている実体というもの」なんです。ところが、そういう「実体をもったもの、実体というようなものはどこにもないんだ」というのが、「空の思想」ということになるわけです。具体的に例を挙げますと、その実体というのは、どんなものかという時に、私達が思い付くものというのは、先ず一神教の神ですね。それは仏教にはございませんが、或いは東洋の思想の中にはないものですが、西方ではこの世界、或いは宇宙というものを創造した唯一な神、ただ一人の神、というものを挙げるわけです。しかし、そういう神が生まれたり死んだり変わったりする、ということは誰も考えない。ですから、そういう形の一神教の神というものは、実体としての神と考えられているわけです。それからまた個人について言いますと、みんな仏教では、「無我、霊魂というものはない」「自我というものはない」ということを言うんですが、世間では、「人間には霊魂がある」「魂がある」と考えている。この魂というものは普通の人が考えましても、私が死んだからと言って、私の魂が無くなってしまうわけではない。「魂は、霊魂は永遠不滅のものだ」と考えている。そして、「それは変化もしないし、単一なものである」というふうに考えているわけですが、「仏教ではそういうものはない」と言うんです。だから、「神とか魂というものは、実体として世間では考えている」わけです。それからまた、仏教でよく言いますのは、空間とか時間という、時間や空間は、これはアインシュタイン以来、大分変わってきていますけれども、ニュートンなどは「時間とか空間というものは、永久に変化しない実体としてあるんだ」という考え方をしていたわけですし、一般の人々もそうでした。それからまた十九世紀までは、物理学者、科学者でも、「あらゆる物質の要素として、原子というものがある」と。「原子というものは絶対に壊れない。そして不滅で永久に存在する」と考えていた。この原子というものも、実体の例として挙げられていたわけです。ところが、「そういうものは存在しないんだ」と。「みんなが実体として考えているものはどこにもないんだ」というふう に、仏教は否定しているんですね。例えば、世親という人は『唯識二十論』という書物を書いていますが、その中で一番重要な主題は、「原子の否定」なんです。ですから、「ありとあらゆるもの、机でもお茶碗でも、その他全てのものに実体はないというのが、空の思想」と言われるものなんです。譬えて申しますと、この机というのは、私がその前に座って本でも読んでおれば、それは机なんです。しかし、その机というものは、自立的に、それ一つで存在しているか、と言うと、そうじゃないんですね。例えば、木こりが山の中へ入って行って木を切る。その木を誰かが運んで来て、建具さんが木片を合わせ机の形を作る。それにペンキ屋さんが色を塗る。そして、誰かがそれを運んで、この部屋へ持って来て、空にとどまっていることは出来ませんから、床の上に置く。そうすると、初めから終いまで、机というものは自立的どころか、他の人、他のものに依存して、寄り掛かって、初めて存在するわけです。或いは、じゃ、それが変化しないか、と言うと、そうはいかない。机というものは、斧で叩き壊せば薪になってしまいます。火を付ければ、それが燃えて灰になってしまいます。猫が来て、その上に寝そべったら、それは机ではなしにベッドになっていく。私がそこへヒョイと腰掛ければ、それは椅子の役割をしているわけです。だから、その机というものは一体何なのか。机と思っていたら、椅子になり、ベッドになってしまった、ということが、実は事実なんで、そういう意味からも、その実体としての机というものはないんだ、ということになるわけです。我々は何時でも、概念とか、言葉というものにとらわれて、「概念としての机、言葉としての机が実際にある」と思い込んでいる。「その思い込みが実体にほかならないんで、その思い込みというものは、実際の世界にはないんだ、というのが、空の思想だ」ということになるわけでございます。
 
有本:  例えば、我々の心の問題でも、幸せだという、目に見えない、日々元気でいるという、健康であるという幸せもありますが、それは、「今はそうであって、明日は分からないよ」というふうな言い方を致しますと、健康、心の問題も、「実体はないよ。空なんだよ」という、何となく分かるような気が致します。
 
梶本: ええ。心というものが一番いい譬えなんじゃないでしょうか。つまり、あの机なら机というのは、何十年か、家でも何十年か、持つかも知れないから、これが一つの実体として、「私は家をもっているんだ」と言うかも知れませんけれども、自分の心を考えますと、心というのは、瞬間瞬間に変わっているんですね。今、良いことを考えていても、次の瞬間には私は悪いことを考えることが出来る。そのように、心というものは、瞬間瞬間に変わっているわけです。そうすると、そういう「変化しているものを実体である」とは言えないわけです。心の場合は、それが分かるんですけれども、物になりますと、みんな何か実体があるように思い込んでいるんです。実は、これは仏教では「刹那滅(せつなめつ)」と言いまして、この理論は哲学の中でも最高度に発達していると思うんです。仏教の「刹那」というのは瞬間のことです。「あらゆるものは瞬間瞬間に変わるんだ」という刹那滅論。この理論は仏教全体、どんな学派でもこの理論を採用しない学派はない、と言ってもいい位に一般的なものなんです。物というものをよく考えて見たら、一瞬一瞬に変わっているんだ、ということです。あまりそれに深入りする暇はございませんけれど、しかし、私が申し上げておきたいのは、曇鸞に従えば、「浄土には実体がないんだ」「人間にも実体がないんだ」というようなことを申しておりましたんですが、世の中には、「空の用(よう)」役割。空というものが役立つんだ。「空用(くうゆう)」という言い方をすることがありますが、それはあるんですね。だから、むしろ、「そのものが固定的に実体としてあったら、何にも変化しないし、成長も発展もしない」わけです。実際に、「物が成長し、発展していくということは、実は、物が空である」からなんです。ですから、例えば、人間というのは、他の動物や植物や自然と変わって、自分で努力して、文化というものを築き上げて、その文化生活をしているわけですけれど、「人間は文化的な存在である」といった場合に、「じゃ、文化というのが、実体としてあるか」と言うと、とんでもないことですね。文化のあらゆるもの、早い話が小説にしても、文学作品全体にしても、映画にしても、テレビの映像にしても、或いは、彫刻だ、絵だというようなものにしても、全て芸術作品にしても、これはフィクションです、ある意味で。極端に言えば、フィクションであって、決して、「そのものが実体としてある」なんて言えない。だから、「我々が文化的に生活している」ということは、「我々が空で、空の世界に生きている」ということ。「文化というものも空なんだ」と。しかし、「その空があるからこそ文化が成立し、人間が人間らしい生活が出来るんだ」という点では、それは空の大事な役割なんですね。だから、「我々の考え方が実は間違っている」ということになるわけです。今、実体ということを話しておりましたが、「あらゆるものには無いんだ」と。「実体がないから空だ」ということになるわけです。その場合、「では、何で我々はみんな実体があると思っているのか」というと、我々は普通概念と申しますか、それが言葉に表され、発音されて、音を伴った言葉というものになりますが、「その概念とか、言葉というものが実在する、と信じ込むことによって、実体があるんだ」というふうに考えているわけですね。
 
有本:  空の思想の概略が分かりました。空の思想が浄土の背景にあって、実は別のものではないということも、先生のお話で分かりました。では、その浄土の方に話を戻しますが、その浄土の中に、空の思想が生きている、或いは浄土教の類の教えの中に空の思想が大変息づいているというのは、どんなところにあるんでございますか。
 
梶山:  浄土教の一番大事な経典であります『大無量寿経』というものがあります。『大無量寿経』の中にも空の思想がある、ということをお話してまいります。もっとも、『大無量寿経』に限りませんで、大乗仏教の経典と言われるもの、『般若経』はもとより空を説いた経典ですが、『法華経』に致しましても、『華厳経』に致しましても、「みんなその空の思想というものを持っていないものはない」と言っていいんですね。実際に、『般若経』や空の思想からの引用というものは、『法華経』にも、『華厳経』にも山ほどあると言っていいわけであります。浄土教で大事な『大無量寿経』という経典に、どういうことが書いてあるかと申しますと、これは、阿弥陀仏がまだブッダにならないで、菩薩であった時に誓いを立てます。「誓 願(せいがん)」、「本願」というのがそうですが、「誓いを立てまして、自分は悟りを悟ったならば、こういう非の打ち所のないような浄土を造ろうという決心をして修行に入る。そして無限とも言えるような長い長い期間に亘って、欲望の心であるとか、怒りの心であるとか、暴力の心であるとか、というようなものは一瞬も持たない」。六波羅蜜と言われる大乗仏教の基本的な修行がありますが、その「六波羅蜜を修行して、瞬時も五つの感覚の対象にとらわれることがない。あくまでも清浄な清らかな、そして真実の心を貫き通して」、それも二時間や三時間ということではなしに、「何千万年、何億万年というような長い期間、一瞬もその真実の心を失わなかった」ということが先ず書いてあります。そして、仏さん、阿弥陀仏というブッダになった時に、「安楽国(あんらくこく)」というのが、本当の名前ですが、『阿弥陀経』などには、「極楽」という字も使われております。「極楽」とか、「安楽国」と言われる、いわゆる「浄土を建設して、そこにあらゆるものを、自分を信じ念仏さえすれば迎え入れるんだ、ということになった」ということが書いてある。しかし、今お話しているのは、「阿弥陀仏が菩薩であった時に、無限と言えるような長い時間に亘って、一瞬も自分の欲望や怒りの心や感覚にとらわれるということがなかったという、その真実の心、誠実な心というものを貫き通した」という、そのことが大事なんです。そしてその同じ『大無量寿経』の下巻の一番最後の方に、「五悪段」と通称されております部分がありまして、そこでは、今度は阿弥陀仏の修行とは対照的に、「この世の人間というのがどんなに嘘と偽りに満ちていて、そして、自分の貪欲(とんよく)や怒りや無知というものをさらけ出して、その結果として地獄に落ちたり、餓鬼畜生に生まれたり、人間に生まれても苦しみにあったりする。そういう果報を受けているんだ」と。そのことを随分長い文章でもって縷々として書いてあるんですね。だから、一方では、「阿弥陀仏が菩薩であった時のあくまでも清浄で清らかで真実な心を貫き通して修行した。そこには嘘、偽りが一つもなかった」ということと、それから、他方では、「一般の我々自身がやること、なすこと、すべて嘘、偽りに満ちているんだ」と。聖徳太子は「世間虚仮(こけ)唯物是心」と。「この世間というものは嘘、偽りに満ちていて、ただ、仏だけが真実である」ということを言われましたが、それも仏教の思想を取って言っておられるわけであります。そういうふうな仏の方は、如来さんの方は徹頭徹尾無限の時間に亘って、清浄で真実な心を貫き通して修行した。それに対して、我々はたとえ道徳を守り、善いこと、善事をしたように見えても、その底には、「俺がああいうことをしたんだ、偉いだろう」というような、これは間違った心が入り込んでいるわけです。「仏さんは清らかで真実だ」と。「自分達というのは、一片の清らかさも、一片の真実もなしに、嘘、偽りに満ちた生き方をしているんだ」と。この対照、二極対立的なところ、これが浄土教の祖師方というものには、共通して非常に深い影響を与えているわけですね。
 
有本:  何か極楽浄土という特別の世界があって、実体があって、私達は善行を積むと、極楽世界という特別な世界に行かされるやに、考えがちですが、そういう実体もないんだと。
 
梶山:  私共の方は、「仮に善い行いというものをしたように見えましても、そこには一片の清らかさも真実さも無いんだ」ということですね。これを言い出しますのは、これは親鸞は元よりですけれども、法然も、善導も、つまり浄土教の主立った方々というのは「雑毒(ぞうどく)の善」毒を雑(まじ)えた善いこと、と言うんですね。我々は非常に善いことをした、というふうに思っていても、そのこと自体の中に毒が雑じっている。本当の善と言えないんだ、と。だから、如来さんの清らかさや真実というものと比較も出来ないんだという、この自覚ですね。それが浄土教の祖師や信者達の核心にある考え方です。毒を雑えた善というのはどういうことか、と言うと、実はこれが出てまいりますのは、『般若経』の中で初めて言い出される言葉なんですね。これは世間一般では、「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」と言われますが、例えば、私がAさんが困っているものだから、Aさんにお金を提供したという。これは普通には立派な良いことなんですね。ところが、私が、という主体を意識する。Aさんに、という客体を意識する。お金をやったんだ、という作用とか、或いは、対象を意識している。そういうふうに、それぞれの要素に、善なら善、善いことの要素になるような三つのものを実体として考えて、それにとらわれる。己に、己の善事にとらわれるということがある限りは、それは毒を雑えた善であって、決して如来様のように、本当の意味で、清浄、清らかで、真実な行い、ということは言えないんだという。ここがポイントですね。そしてそのことを書いている。つまり、善いことをしても、その「主体」と「客体」と「対象」という、或いは「作用」というものを意識している為に、つまり、それを空として見えない限り、実体にとらわれている限りは、それは善でも何でもないんだぞ、ということです。だから、我々が道徳的な生活をして、良いことも行い、福祉も行い、人の為になったと、自分では思っているけれども、それは阿弥陀如来から見れば、善でも何でもない、と。それは何故かと言うと、そういう空というものを知らないで、己にとらわれ、その三つの要素にとらわれているんだから、全く宗教的には意味がない行いである、ということになるわけですね。二極対立というのは、変な言葉を使いましたんですが、要するに如来さま、仏さんの方は無限の時間に亘って、一瞬もその偽りの心、清らかでない心、真実でない心を持たなかった。それに対して、我々の方は、どんなに善いことを、善事と言われるような善いこともしても、それが己にとらわれ、そして要素になっている主体とか、客体とか、対象とか、作用というものを意識して行っている。それが毒を雑えた善と言うんだ、というふうに、『般若経』に実は書いてあるんですね。だから、それを封じてしまって、全くそういう、俺が誰それに何をした、という意識を持たないで行わなければ、本当の意味の善にはならないんだ、ということですね。
そういうことから、だんだんその浄土教の方に入ってまいりますが、親鸞の場合、実はこれは普通には「機(き)の深信(じんしん)」。「機」というのは機根(きこん)ということです。「深信」というのは深い信仰。「機の深信」と言っておりますが、それと「法の深信」。「法」は普通の「仏法」と言う時の法ですが、それに対する深い信心という。この二つが実はやはりいま申しました全く二極対立の関係にあるわけなんです。何故かと申しますと、これは親鸞の場合は、善導の言葉をめぐって考えていたわけでありますけれども、善導は信仰というものには二つあるんだ、という。
 
     一つには、決定的に深く、自分は現に罪悪深く、生死に迷っている凡夫であって、
     遠いはるかな昔からこの方、つねに没落し、常に輪廻流転してきて、
     さとりの縁はまったく無い、と信じることである
 
「自分は悟りの縁が全くない」と信じること、そういう自己批判でありますが、それを「機の深信」と。そういう信仰、信心をもたなくてはいけない、と言った。もう一つ、それと対立するような形で、信心にはもう一つ「法の深信」というものがある、と言うんですね。この「法の深信」というのは、いわば救済の保証といったようなもので、それは善導の言葉ですが、
 
     二つには、決定的に深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を収め取ってくださるから、
     衆生は疑いなく、おもんぱかりなく、如来の願の力に乗って、
     たしかに浄土に往生することができる、と信じることである。
 
それを第二番目の信心という形で、善導は言うんです。ところが、信心を二つに分けて、「自己批判の部分」と、それから、「法の救済の保証」というふうに分けて、善導は言ったんですが、ここには矛盾があるわけです。この矛盾は実は、法然も気付いておりましたけれども、特に親鸞はその矛盾に気付いて、これを解決しようとしているわけなんです。何故かと言いますと、その矛盾と申しますのは、「自分は輪廻転生を繰り返して、到底救済される、悟り救われる縁がないんだ」というふうに、片一方で自己批判する。その機の深信と、直ぐ後に出て来る二番目の、「しかし、阿弥陀仏は必ず私を救いとって下さるんだ」という法の深信。「救済の保証」と、私は申しましたが、そういうものとは矛盾しているんですね。「悟りに縁の無い者が、なんで浄土に生まれて救われるんだ。これはおかしいじゃないか」と、法然は実際そう言っています。ところが、親鸞にはここで一つの善導の言葉、善導におきましては、「私共、衆生がそういう二つの信心を持たなくてはいけない」と言っているんですが、親鸞はそれを逆転してしまうんですね。「そうじゃないんだ。実は自分が何時でも没落して、輪廻転生を繰り返して悟りに縁がないんだという、それも実は阿弥陀仏の回向(えこう)である。阿弥陀仏が、そういう信心を私共に与えてくれたんだ、と。阿弥陀仏が菩薩であった頃に行(おこな)った類い希な、他にはあり得ないような修行、その修行の中の清らかで真実な心を我々に与えて下さって、それが自分の修行のメリットというものを、転換して衆生に与えて下さったんだ」という形で、そういうふうに親鸞は理解するんですね。二つの信心というのは、「決して衆生自身がそう思った、信じた」ということじゃなしに、「阿弥陀仏がそういう二種類の真実を与えてくれたんだ」という形で、親鸞は解釈する。そうすると、この矛盾が矛盾でなくなる。「両方とも阿弥陀さんが与えてくれた信心なんだから、それを頂けばいいんだ」という形になるわけなんです。
仏教一般では、「人間というものには霊魂はないんだ」と。要するに、心と物とが寄り集まって、人間の心身というものが出来ているだけで、そこに霊魂という実体がないから、みんな無いわけですね。そうしたら、「もし人間の中に自我と言われる、霊魂と言われるようなものがなかったら、自分と他人の区別がつかなくなるんです。自他平等というものが出てくる。これはそういう空の思想から平等の思想が出てくる」ということですね。それから今度は、「もし、そういうふうに自他平等というようなことが打ち立てられますと、自分が行った善い行為のメリットというものを他人に与えると、他人に回向するということが出来る」ということになる。これは小乗仏教の業報(ごうほう)輪廻の思想には絶対になかったことなんです。そうではなしに、大乗仏教になって、「あらゆるものが空である」ということ。だから、「あらゆるものは空であるということにおいて平等である」ということになりますと、「空というのは、実は「転換の思想」なんです。何でも変わる」という。「本質がない。実体がないんですから、AがBになるということは何時でも可能になる」。だから、自分の為したよい行為のメリットを他人に与えるということも出来るわけですね。そういうのを私は自分のメリットを他人に与えるというのを、「方向の転換」と名付けております。それからもう一つは、「質的な転換」で、「自分で行った道徳的な、世間的なよい行為を悟り」という。これは世間のことではありません。「幸福とか、不幸というのは世間のことですが、悟りというのはそれを超越した、次元の違った世界でのこと。その悟りに質的に転換してしまう」わけですね。ですから、「何か善いことを行ったら、それを質的に転換して、内容を転換して、自分の悟りの為にする」ということですね。「その「方向の転換」と、 「内容の転換」という二種類が回向にはある」と。親鸞の言っていることは、「阿弥陀仏が菩薩の時に、清浄真実な修行というものを無限の時間に亘って行ったその行為のメリットというものを、自分で独占しないで、自分でその結果を取る、受けるというんではなしに、衆生の方へ、我々の方へ与えてしまったんだ」と。だから、「我々はそれを頂いて、そして阿弥陀仏のお陰で信心を用い、阿弥陀仏のお陰で念仏を唱えて、救われていくのである」ということですね。ですから、親鸞の場合、よく「他力本願」とか「本願他力」という、よく誤解される言葉でございますが、「他力」というのはその回向の考え方なんです。「阿弥陀仏がすべて信心も念仏という行も、阿弥陀仏が我々に与えてくれたんだ」と。「阿弥陀仏というのは自分じゃありませんから、自分でそうしたんじゃなしに、阿弥陀仏という 他力によって、我々は回向され、救われていくんだ」ということなんです。だから、この回向という考え方が出て来ますのは、また、これも『般若経』でございまして、第六章というところに「随喜(ずいき)と回向(えこう)」というチャプターがございます。「随喜」というのは、自分がよいことをして、それでそれをその結果を喜ぶということではありません。自分以外の他の仏んさんや、その仏さんの弟子達、或いは一般の人達というような他人、他人が行ったよい行為を、我がことのこととして喜ぶ、というのが「随喜」と申します。従って、「喜ぶ」と書くんですが、何だか可笑しいですね。「人がよいことをしたのを自分のメリットとして喜ぶ」というのは、どういうことだ、というと、ここも空の思想なんです。つまり霊魂とか、自我というものがなければ、自分と他人とが一体になってしまう。平等になってしまうから、人のよいことも、自分のよいことも区別がないというわけなんですね。だから、人のよいことを喜んで、自分のメリットになるという随喜というものが成り立つし、それから回向というものも、自分がよいことをしたら、それを人に上げてしまう。しかし、親鸞の場合には、阿弥陀仏が自分で苦しい修行をし続けて、そして真実と清浄さ、清らかさというものを持ち続け修行をしたそのメリットを我々に与えてくれる。我々はその阿弥陀仏の力、他力に頼りさえすれば、その他力の力に乗りさえすれば救済されるんだ、という形なんですね。それが「悪(あく)人正機(にんしょうき)」ということを、親鸞は『歎異抄』の中で言っているんです。これは、
 
     善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや
 
と。善人が救われると、世の中一般の人は考えている。しかし、本当のところというと、善人じゃなしに、悪人の方が実は阿弥陀仏によって救われるんだ、と。それが本当だという。つまり悪人だというのは、今までお話してきましたように、我々がどんな善い行為、どんな激しい修行をして見たところで、それはみんな毒を雑えた善であって、本当の宗教的な価値はないと、そういう悪人なんですね。「そういう悪人に対して、阿弥陀仏という他力が、我々にすべてのものを回向してくれて、それによって救われるんだ」ということになる。だから、「悪人の方が実は阿弥陀仏の本当の正機、正しい対象物、救済の対象なんだ」というわけですね。「悪人正機」という言葉を使いますが、こういうことを考えて見ますと、回向にしましても、善悪の対立にしましても、それに対する親鸞の解釈に致しましても、「これ全部空の思想である」と言っていいわけで、現にそういう「回向の思想」とか、或いは、「毒を雑えた善だ、何だ」ということ、これ『般若経』に書いてあることでございますから、そういう『般若経』に書いてある思想が、浄土教の基本的な思想になっているんだ、ということですね。
 
有本:  「空と浄土」というテーマで、空と浄土というのは相反する考え方というか、教えというふうに、一般的には受け止められているけど、そうではないんだ、というお話を伺いまして、最後に先生が空の思想は平等の思想でもあるんですよ。回向は方向の転換であったり、内容の転換であったりということになりますと、先生はどんなメッセージを、
 
梶山:  早い話がエコロジーですね。生態学の問題ですが、仏教のいいところは人間というものを動物であるとか、植物であるとか、神々であるとか、というものと全く区別致しません。六道とか、五道とかいうことが言われますように、「地獄」「餓鬼」「畜生」動物ですが、「阿修羅(あしゅら)」「人間」「天上」天上というのは神々、これは一人の神ではありません。無数の神々ですが、そういうものの間を同じようにみんな輪廻するんだと考える。つまり言い換えれば、人間も動物も神々も区別がない。それは全く「みんなが空だから、みんな平等だ」という考え方ですね。そうすると、今、喧しいエコロジーの問題とか、環境の問題というものに対して、この仏教の空と、それから平等の思想というものを適用出来るんですね。実際、日本で生態学をやっている方々というのは、そこを仏教思想の中に新しい二十一世紀のあり方、特に環境問題や生態学の問題に対して、仏教は大変大きな指針を、示唆を与えるものだ、ということを、皆さんおっしゃっているんですね。私もその通りだと思います。基本は、もし、あらゆるものが空である。実体がないという立場から見れば、人間も動物も植物も自然さえも、実は区別されない平等なものになるんだ、と。だから、中国や日本では、「山河大地悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」山や河や大地でさえも人間と同じように、みんなブッダになるんだ、ということをいうわけですね。だから、そういう世界にまで立ち入らないといけない。それが本当の意味での環境問題であり、エコロジーである、と私はそう思うわけであります。
 
有本:  限られた時間の中でありましたが、いろいろ有り難うございました。
 
梶山:  どうも失礼しました。
 
 
     これは、平成十一年五月九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。