伊那谷で老子に出会う
 
                         詩 人   加 島  祥 造(かじま しょうぞう)
一九二三年東京生まれ。信州大学、横浜国立大学でアメリカ文学を教える。フオークナーの「サンクチュアリ」「八月の光」などを翻訳。詩集に「晩晴」「放曠」「離思」などがある。伊那谷で詩と画作の暮しを営む。
                         ききて   金 光  寿 郎
金光:  伊那谷(いなだに)は長野県の南部にある大きな渓谷です。天竜川を挟んでその両側には中央アルプスと南アルプスの三千メートルクラスの高い山々が聳えています。駒ヶ根市中沢は天竜川を見下ろす河岸段丘の上に拓けた山村です。この村を第二の人生の舞台として、都会から移り住み、四季おりおりの伊那谷の自然の中で、終日(ひねもす)詩を創り、絵を描いて、たった一人で生活している人がいます。彼の骨格にあるのは中国古代の思想家老子の哲学です。加島祥造さん、七十六歳は東京神田の生まれ、今から三十年程前、ここ伊那谷の魅力に惹(ひ)かれ、大学退官後、生活の拠点をここに移して暮らしています。
 

 
     心よここにこないか
     疲れた時代の
     疲れ果てた心よ、さあ
     善悪正邪の網目をねけでて
     ここに来ないか         
     この夜明けの光のなかで
     笑わないか。
     心よ朝露のなかでまた
     深い息をしないか
 
     毒舌中傷の火に焼かれて
     君の希望は消え去り
     愛はくずれさるとも
     君の母なる故郷は若いのだ
     常に朝露は輝き
     薄明かりは銀色なのだ
     心よここに来ないか、ここでは
     丘に丘が重なり、神秘の愛に満ちて
     陽と月と森と川が互いに
     いつくしみあっている
 
     そして神はその淋しい角笛を吹き
     時代と時間はひたすら飛び去ってゆくが
     ここでは薄明かりは愛よりも優しく
     朝露は希望よりも貴重なのだ
       W.B.イエーツ「薄明の中へ」
          訳ならびに書 加島祥造
 

 
金光:  加島さんは英文学者として、イギリスの現代詩やアメリカの現代小説、特にウイリアム・フォークナー(William Faulkner:一八九七ー一九六二)の翻訳家として、業績を残した人です。西欧の合理的実証主義と人間中心の思想に染まってきた人が、七十歳を過ぎて、東洋の老荘の思想と自然観に心惹かれている。この西と東の文化を一人の内面に併せ持って、第二の人生を厳しい信州伊那谷の自然の中で送る加島さんの生き方をじっくり聞いてみたいと思います。
 

 
金光:  加島先生、こちらにいらっしゃったのは何年前位でございますか。
 
加島:  私は信州大学に行って、松本というところで十三年居たんですけれど、その時に長野県のあっちこっちの渓(たに)を見て歩いてたんです。この渓はその十三年のうちの十二年間見なかったんですよ。
 
金光:  というのは、渓がお好きだったんですか。
加島:  渓好きだったの。
 
金光:  ほう。
 
加島:  安曇野からずっと向こうの信濃川沿岸とか、木曽谷とか、みんな見て歩いてみて、
 
金光:  向こうをずっと見て、
 
加島:  そう。ここは来なかったんですよ。なんか南の方だし、長野県と言っても外れでね。ところが十二年目にここから出た学生さんが、「家に来ないか」と案内してくれて、それでこの谷の向こう側の大徳原というところへ行ったら、その原っぱに立ったら、仙丈がこっちに見えて、
 
金光:  仙丈ヶ岳、
 
加島:  向こう側に駒ヶ岳連峰が見えて、それが秋でして、ススキの中にそこに立った時に、私は自分の心の非常に深いところに何か動くものがあったみたいですね。今、この頃使う言葉ですけれども、「心の故郷」という言葉を、皆さんよく使うけど、あれに非常に近いものを何か此処に立って感じたんですね。開拓団の拓(ひら)いた山の中の林の端ですけど、そこに土地を求めて、
 
金光:  それはその時から何年か後ですか。
 
加島:  殆ど直ぐでしたね。
 
金光:  そうですか。余程気に入られたんですね。
 
加島:  そうですね。それも「気に入る」という言葉だと、頭の中でのあれこれになるけど、もっと近いとこ、ここのところでね。非常に打たれた。そんなことはあんまりなかったんですね。一生涯で。それだもので、幸いに譲ってくれる人が居て、ちっちゃな小屋を初め建てたんです。それが三十年位前ですかね。一番大きな経験は向こうは林が川に沿ってずうっとあって、
 
金光:  歩けるわけですね。道があって、
 
加島:  ええ。その林を歩いていた時に、急に私はゆっくり歩き始めて、何故ゆっくり始めたか、全く分からないんですけどね。
 
金光:  要するに、周りを見ながら、或いは聞きながら、という感じでしょうかね。
 
加島:  新緑の頃というのは、唐松林が実に美しいですよ。
 
金光:  そうでしょう。
 
加島:  もうそれは口に言えないけど。その新緑の唐松林の中をずうっと歩いていた時に、急にゆっくり歩き始めて、歩き始めた自分というものに、ちょっと面白くなって、もっとゆっくりゆっくり歩き始めたんですよ。それはもう本当に自分で歩く最小限の速度で歩いたんですよ。
 
金光:  止まるんじゃなくて、ゆっくり動くという感じで、
 
加島:  どうしてあんなことをしたのか、未だに分からないけどね。そしてその動きのままにすすんでゆくうちに、実にいろんなことが見え始めたんですよ。普段早足で歩いている時に見えないものがね。唐松林に透(す)け込んでくる陽(ひ)の光とかね、それから道端にこんなちっちゃな花も見えてきたり、それから急に谷川の底の方で鳴っている谷川の音が実にハッキリ聞こえてくるとか、普段早足で歩いているうちには見過ごしたワンダー(驚異)と言うか、驚きがそれはよく見えたんですよ。それでかなり、と言っても百メートルか二百メートルか知りませんが、ゆっくり歩いて、林を出たあとも畑のそばをゆっくり歩いたりしたんですけど、それは一つ大きな経験でしたね。何か新しいものを見るという。あれは自然と自分とが交わる最初の経験かなあ。もう一つはその川の上流へずうっと溯(さかのぼ)って行って、そして流れが堰(せき)になって、一つ溜まって、それでまた流れの平らなところに一人で行って、川の流れの直ぐ側のところで、大きな広い岩があって、そこへ寝転がって、空を見ていたんですよ。そうして、ゴーという音がずうっと絶えずしていますから、それを聞きながら、谷の上の空を見ていたら、寝ちゃったんですよ。それで目が覚めた瞬間に、辺りの緑の、丁度それも夏でしたけど、緑の葉の一枚一枚が見えたの。それから立っている木でも、枝の一本一本が見えてね。その鮮明な見え方には凄くビックリしたの。
 
金光:  寝ぼけじゃなくて、覚めて、綺麗に見えたわけですね。
 
加島:  そう。
 
金光:  一本一本がハッキリ見えるという、
 
加島:  そう。その位鮮明に見えた。それは写真でも見えない位鮮明に見えたの。
 
金光:  ほう。
 
加島:  そして、見えた情況というものに、自分が吸い込まれるようになって、まあ、三秒か四秒か、続いたのかしらね。そうしたら、ゴーという川の音が耳に入って来たんです。
 
金光:  見ている時は音なんかないわけですね。
 
加島:  無いの。
 
金光:  わあっと、こう、
 
加島:  そう。そうして、ゴーという川の音が聞こえてきた途端に、パッと消えちゃった。だから、それは非常に自分というものが全く無くなった時の五感がどんなに凄い働きをするのかということの証拠かも知れないですね。それからもう一つの経験は、秋に向こうの谷で、ベランダで座って居たら、赤トンボが二、三、番(つがい)で飛んで来て、それを見ているうちに、空中の赤トンボが山から下って来るんですよね。空中いっぱい。それが全部番(つがい)なんですよ。
 
金光:  それは空気がそういうふうに流れている。それにのっかっているという感じ、
 
加島:  のっかっているでしょうね。
 
金光:  番(つがい)ですと、こうやるんじゃなくて、そのままスウッと、
 
加島:  全然羽ばたかないで、静かに流れているの。大群で、こういう空いっぱいね。丁度向こうもこんな空がありますから。それでその時に僕は、単に私が見ている赤トンボの大群が大きな駒ヶ岳から天竜川へ下っていくというのを見ているというだけじゃなくて、多分この斜面全体に渡って中田切川から大田切川までの間の広大な斜面に赤トンボがみんな下りて来るんじゃないかと思った。凄い大きなイメージをその時は持った。
 
金光:  それでそのままドンドンどっかへ行っちゃっているわけですか。
 
加島:  そう。
 
金光:  先生はこうやってぼんやり、
 
加島:  そう。それでその時に僕は「凄い大きな流れがあるんだなあ」という気がした。
 
金光:  成る程。流れですね。
 
加島:  そう。
 
金光:  その流れというのは、単なる空気の流れだけではなくて、なんか音はしないけれども、自分も包み込まれている。流れみたいな感じになるかも知れませんね。
 
加島:  そうそう。「空気」というよりも、「大気」というかね。が、流れているという感じが、僕はしたんですね。だから、そうして、自分が、「そういう大きな流れの一つであるというか、中にいるんだ」という、そういう感じがしたのが強い記憶ですね。
 
金光:  それで、そういうふうにだんだん伊那谷の中の風景の中に、ご自分も自然に溶け込んだような、そういう暮らしをなさっていらっしゃったところで、でも、まだ、お仕事としては英文学のご研究が中心だったと思うんですが、その後のご活躍を伺っていると、老子という中国の古代の老子さんとの縁が物凄く深くなったように伺っていますが、それはどういうところから老子との縁が出来て来たんですか。
 
加島:  私、壮年期まではアメリカのウイリアム・フォークナーという小説家の仕事を主にしていたんです。非常に難しい作家ですけど、大きな作家で、取り組むだけの値打ちの十分ある人だったんです。壮年期を過ぎてから、一遍京都へ遊びに行った帰りに、京都でちっちゃな英語で書かれた『中国詩集』というのを買ったんですよ。それも殆ど何気なしにだったですけどね。それで車中で読んで見たら、その中国詩、唐詩が主なんですけども、実に分かり易くて、そして、白楽天(はくらくてん)(白居易(はくきよい))の詩を英訳で読んだ時に、「まあなんて白楽天というのはヒューマニステック(humanistic)と言うかなあ、人間の感情をこんなに素直に伝える人なのか」と思ったんですよ。それ迄の白楽天のものを、時々チラチラ見ていたんだけど、よく分からなかったんですね。非常に平凡な私達と同じ感情を率直に述べている人で、それが英文で実によく分かったんです。むしろ白楽天の気持さえ分かるような。私の読んだのはアーサー・ウエーレー(Waley, Arthur:一八八九ー一九六六:イギリスの東洋学者。中国、日本の古典を翻訳)の訳だったんですけど、非常に巧みをもっているんですけど、全体は口語体で書かれている感じなんですね。喋り言葉で、
 
金光:  分かりやすいわけですね。
 
加島:  易しいの。文語体みたいなものじゃないの。ですから、白楽天が直接私に話し掛けてくるような感じさえあるくらいだったんですよ。
 
金光:  じゃ、『源氏物語』を訳しただけじゃなくて、そういうものもアーサー・ウエーレーという人は訳しているわけなんですね。
 
加島:  ええ。英文で、こんなに初めて僕は漢文学の面白さを知ったんだからね。凄い皮肉なんですよ。だけどそれなら他のものもと思っている中に、老子(中国、春秋戦国時代の思想家。「老子道徳経」を説いた)の英訳も見付けたんです。
 
金光:  それとは別に、
 
加島:  その後でね。アーサー・ウエーレーも老子を訳しているんです。アーサー・ウエーレーという人は凄く大きな人で、『源氏物語』なんか彼の仕事の中のほんの一部なんですよ。
 
金光:  そうなんですか。
 
加島:  ええ。中国の詩の訳で、世界には有名ですけど、その他にも実にいろんな訳をしているんです。
 
金光:  正宗白鳥という人が、「アーサー・ウエーレーの『源氏物語』を英語で読んで面白さが分かった」という話が有名ですけど、中国のものも随分訳した方なんですか。
 
加島:  むしろ中国の詩の訳で、ウエーレーは英米の読者界には有名な人ですね。
 
金光:  そうなんですか。それでアーサー・ウエーレーの『老子』をご覧になったわけですか。それから老子に関心が、
 
加島:  それで非常に面白かったんですよ。老子という人も、「こんなに明解な考え方を述べる人か」と分かったんです。
 
金光:  明解なんですか。
 
加島:  明解なの。
 
金光:  だって、「無意」とか、「無知」だとか、いろいろ「無、無」の文句が出て来ますけども、それは英語でお読みになると、
 
加島:  解った。そういう難しい漢語の熟語にしていないから。普通の言葉に言い換えてあるから。だから、「何もしないということ」という訳だけじゃなくて、それは「どういう意味の何もしないか」という意味が、英文だとこもっているような、
 
金光:  老子を英語に訳した本というのは、アーサー・ウエーレーという人だけじゃなくて、いろんな人が訳しているんだそうですね。何種類もあって、それは訳はそれぞれみな違うんですが。
 
加島:  ドイツ語の、ヴィルヘルムという人の訳が英語になっているのも読んだり、もっと言えば、鈴木大拙さんもやっているんですよね。
 
金光:  そうなんですか。
 
加島:  ドイツ人の人と組んでね。大拙さんのごく初期の仕事なんですけどね。それから始まって、実にたくさんの人がやっていて、私が読んだ当時でも五十種類あったんですから。
 
金光:  そんなにあるんですか。
 
加島:  ええ。今、八十種類位あるんじゃないんですか。
 
金光:  その後もドンドン現代まで翻訳は続けられているわけですか。
 
加島:  ええ。いろんな人がね。
 
金光:  それはどこに魅力があるんでしょうか。
 
加島:  一つはそれまでヨーロッパが追いつめてきた哲学というのは、みんな理性で考えてやる哲学だったです。それで、ヨーロッパは理性的なものの考え方で社会の法を作り、それから社会制度も作っていたのが、行き詰まったというふうに、インテリはみんな感じていたようですね。そういう時に、大拙さんが最初ですけども、仏教というものがそういう理性を超えた向こうにあるもっと大切なもの、というものを伝え始めてね。その影響が主だったと思うんです。その老子のように、「理性を超えたもの、より大きなものというものが、我々と結んでいるんだ」という部分を説くのに気が付きだしたんですね。生まれは大体が商家の生まれでしたから、商家というのは割合合理的なんですよ。それから、次ぎに英文学もやって。英語でずっと読んでいたものは、みんな合理的なものですよね。
 
金光:  フォークナーなんて、「非常に難解で、難しい」と言いながらも、やっぱり合理的なんですか。
 
加島:  もうどんなに難解でも、難解さの奧に合理性がないと難解ではないんです。
 
金光:  そういうことですか。
 
加島:  そういう意味の難解さです。ですから、解こうと思えば解けるんです。
 
金光:  難しいけれども、追求すれば解けると。その先生がその老子の英訳から、「やっぱり違う世界」と言うか、それを「嗅ぎ付かれた」と言ってはいかんですけども、なんかそういうものがあるなあとピッタリこられたわけですね。
 
加島:  それはさっき金光さんがおっしゃったように、自然の中に、僕が時々いたでしょう。そこの中は合理性の世界じゃないんですよ。
 
金光:  それはそうです。合理以前ですね。
 
加島:  そう。それをどっかで身に感じ始めていて、それと老子との出遇いをそういう意味では僕くっついているんですよね。
 
金光:  それはそうでしょう。「道とは名付けようがないものだ」とか、一番最初からそうですからね。
 
加島:  そうそう。
 
金光:  タオ(TAO:老子の教えを道(タオ)という)と言うわけですけども、「タオ」というのは、「名の付けようがないし、名を付けたらタオではない」なんていう。「道ではない」なんていうと、先程お話頂いたご体験というのは、まさに掴まえようがない。けれども、間違いなく存在しているということですよね。
 
加島:  そう。ですから、そういうものをどっか身に染みついていたので、老子にという、非常に合理的でないものを、我々に開く人との出会いがあったんでしょうね。でも、私がそういう英文学をやったり、外国のものばっかりやっていたのが、ウンと役に立っているんですね。それがマイナスになっていない。
 
金光:  それはそうでしょう。
 
加島:  というのは、老子はそれでいて凄くロジカルな人なんですよ。論理的な人なんです。
 
金光:  「無い無い」なんて言いながら、あれは論理的なんですか。
 
加島:  凄い論理的なんです。すなわち、「凄い論理的に論理でないものを解こうとしている」ところがあるんです。
 
金光:  成る程。それはそうですね。
 
加島:  そう。我々、言葉は論理だからね。
 
金光:  それはそうです。
 
加島:  だから、例えば第二章で、「世の中に美しいというものがあるのは、醜いというものがあるからだ」と言っているわけですね。「汚いものがあるというのは、美しいものがあるからだ」「善いものがあるというのは、悪いものがあるからだ」という言い方を、第二章でしているわけですね。
 
金光:  それはその通りですね。
 
加島:  それで、それはその通りなんですよ。だけど老子はさらにそれをもう一歩進めて、逆にいうと、「善いものがあるというのは、悪いものがあるからだ」と言っているわけです。即ち、「片一方では存在していない」と言うんです。
 
金光:  その通りですね。普通はそう思わない、思いませんけれども、
 
加島:  そう。「どんなものでも片一方がなければ存在しないんだ」という言い方をするわけですね。それを論理的に押し進めていくと、「どんなものでもそうだ」ということである以上、「あるものがあった場合には、それは無いものがあるから、有るんだ」という、それも論理なんですよ。だけど、「無いものと、有るものとが一体している、その一つの状態というのは言葉で言えない」んですよ。その言葉はデジタルなものだから、対象的なことは言えるけど、「それを合体、それが一つで、二つのものが一つだ」という状態はどう言っても言えないんですよ。
 
金光:  やっぱり別々な取り上げ方をして、「こちらがあるから、こちらだ」と言わない と、それは「生きているということは死ということがあるからだ」というのと、そこでもやはり両方結び付くわけですね。全部分かれる前、人間が分析する前を掴まえて、分かれた言葉で、分析した言葉で、何とか伝えようとなさっているということなんでしょうね。
 
加島:  ええ。ですから、今、あなたがおっしゃったように「タオ」というのは、「分かれる前だ」という、だから言葉にしたら、もう、  
 
金光:  パッと葉っぱが一枚一枚見えたというのは、その時は見ようと思っているよりも、見えたという感じでしょうか。
 
加島:  見えた。
 
金光:  そうすると、何だ自分の経験したのと、老子の解こうとしているのは同じ世界じゃないかという実感が、
 
加島:  そういうことを少しずつ教わってきたわけですね。ほんの少しずつですよ。みな一遍になんか僕分かったわけじゃないんですからね。『老子』を読んでいたら、そういう意味で、「自然というものが一番そういうことをよく教えてくれるんだ」ということを。それでやっぱり「空」と言うか、「虚(きょ)」とか「無」とか言っちゃう部分が、これのように、「コップの中の空虚な部分があってのコップだ」という。老子は言い方をするんですよね。あの言い方は、
 
金光:  面白いですね。
 
加島:  あの言い方は実に凄いんで、あれも非常に論理的なんですよ。
 
金光:  普通は気が付きませんけどね。それと同じで、家だって、物がつまっていたら、家じゃない。中が空間だから人間が住めるわけで、そういう意味じゃ、今の「これがあるから、これ」という、「虚が、空があるから、空っぽだから使える」という、
 
加島:  英文だと、そういう理屈が実はよく分かるの。英文の文章はみんなそういうことをピシャッと言ってくれているんですよ。原文でお読みになると良く分からないじゃないですか。
 
金光:  分からないところがあります。分かるところは所々そうかなあと思うんで、分からないところが結構あるのが、
 
加島:  だから、そうやって見ると、空間というものを「虚」とか「無」とか、それはみんな同じんですけどね。英国人の、普通の人も「nothing」と言ったら、「何もないことだ」と思っていたんですよ。
 
金光:  日本人でもそう思う人は多いです、一般に。
 
加島:  そうそう。だからそういうアングルから見ると、「空間があってこそ、こういうものがあるんだ」という、この見方はあらゆるものに当てはまってきて、そして、「どっちが重要か」と言ったら、「そっちの無いほうが重要なんだ」というふうに 見えてくる。それをまた老子は、「日常の如何に生きていくか」という部分にも、いろんなふうに当てはめて言うんですよ。その言い方が実に有効なんです─人が歳くってくると有効に感じるようになるんですね。
 
金光:  そういう老子の、「ああ、こういう世界か」「こういう世界か」ということに気付かれると同時に、英文学の研究だけでなく、他の方にもいろいろ手を出されたというと可笑しいですけど、いろんなことはなさるようになったそうですね。
 
加島:  私は子供の頃に、学校で図画の時に、自分の絵をみんなに笑われて、絶望してからは、五十五になるまで絵はまるっきり描かなかったんですよ。
 
金光:  もう「いや」と、「そんなふうに言うなら、俺は描かない」と。
 
加島:  いや、「とてもダメだ」という気持があって。黒板にさえ、自分は絵を描けなかったですよ。なんか説明する時に絵を描くでしょう、教師って。それさえ出来なかった。何故かと言うと、「自分は徹底的にダメだ」と思ってね。五十近くになって、ちょっと書を習い始めたんですね。それはなんとなく、ある縁で、高木三甫さんという人なんですけど、三年程習ったんですけどね。その時に私達の詩人のグループの人達と一緒に、みんなで、「書と絵の展覧会」をやろうというので、横浜で十年ばかり始めたんですよ。その時に、それぞれみんな詩人だから、文人画のつもりでいろいろ出していたものを、高木先生という人が中心になって、詩人達と、みんなと一緒にやっていた。その時にみんなが絵を描いていたんです。高木先生も絵をやったんで、私もひょっと真似てやった。非常に稚拙なものでね。もっと言えば、「僕の詩とか、自分の訳した言葉とか、老子の言葉も含めてですけど、そういうものを画面に置いて、それと自分でなんか絵が描けたのが一緒になって、別の世界が出来ればいいなあ」と思っただけなんですよ。
 
金光:  じゃ、詩もお作り、でも暫くお止めになっていたんでしょう、詩を創るのは。
 
加島:  ええ。詩はね。三十の時まで詩を書いていて、それはしかし頭で書いたものなんですけどね。それから三十から五十五までは止まっちゃったんですよ。
 
金光:  出てこなくなったという、
 
加島:  そう。僕は出て来ないと書けないタイプなもんですから、
 
金光:  無理に創る人もいらっしゃるわけですか。
 
加島:  そうそう。詩は二つの作り方がありますからね。どっちが良い悪いじゃないんですけど。そうしたらこの山小屋へ来てから、詩が出来るようになったんですよ。
 
金光:  また湧いてくるようになった。
 
加島:  湧いてくるようになった。それからのことですからね。ですから、今、詩集は四冊あるけど、みんなそれ以降なんです。
 
金光:  それでそういう詩が湧いてくるようになって、その詩のイメージがありますね、そういうのと、先程絵をお描きになるのが一緒に、両方であるものを表現したいということなんですか。
 
加島:  そうそう。それだけは僕が出来ることかなあという気がしたんです。絵は大体素人で独描でしょう。それから字だって、その人に三年間付いてやったけども、まあ大したことない。だけど、自分の言葉がそこにあるでしょう。そうすると、自分の言葉を自分の字で書いて絵が描ければ、それは自分なりの世界じゃないですか。
 
金光:  それはその通りですね。
 
加島:  だから、そういうものが出来たらという気持があったことは事実ですね。
金光:  はい。まあ、日常生活をなさるわけですよね。こういう伊那谷に住んでいらっしゃっても。その生活の中からひょっと、「あ、こういうことがある」なんていうので、パッと閃くわけですか。
 
加島:  違う。
 
金光:  そうじゃないんですか。
 
加島:  もう日常生活の中では何も閃かない。ここへ来た時だけは、それが出来る。
 
金光:  そうすると、この周りのアルプスの風景だとか、谷の風景、木々のいろいろな様子、それから空気、いろんなものがなんとなく、中からの発想を刺激するということなんでしょうかね。
 
加島:  もう一つは日常生活の中で、「我々があっちこっち引っ張られている意識」がありますわね。これがこっちへ来ると、「遮断されるから、そうすると、その意識が内側へ向かう」。そうすると、「内側の中に日常生活で眠っている部分と言うか、埋もれた部分がそこで出てくる」だけなんですよ。
 
金光:  老子の世界に引き付けて言うと、老子の世界と言うのは、一生懸命覚えて、詰め込んでじゃなくて、「忘れて終いなさい」「空っぽになりなさい」という。空っぽになろうと思っても、これなれないですけれども、じゃ、加島先生、こちらにいらっしゃるとなんとなく遮断されて、自然に余所からの詰め物みたいなものが無くなってくるという感じでございますか。
 
加島:  そう。そうすると、詩の言葉が出てくる。それも別に、「考えた言葉じゃなくて、感じたものとして出てくる」という、その言葉をとっつかまえて、詩にしていたんです。
 
金光:  じゃ、「よし、これから創るぞ」という姿勢じゃ、全くないわけですね。
 
加島:  そんなことないよ。そんなことやったって出来ない。詩というものはね。
 
金光:  出来ないでしょうね。
 
加島:  出来ない。詩というのはね。
 
金光:  何か起こることを待つという。
 
加島:  そう。「起こること」なの。ほんとに「ハプニング(happenings)」なの。但し、起こることがあって、その起こることの意味を捉える為には、従来読んできた、あらゆるものの経験がそこに加わりますよ。
 
金光:  それはそうです。
 
加島:  決して天然にそれが直ぐ詩になるわけじゃないです。でも最初に起こってくるものは、そういういわゆる世間的な日常性出て、自分の内からひょっと出てきたものです。
 
金光:  ここはそういう意味では自分の心休まるところではあるし、ここにいると、今迄、経験出来なかった、「はあ、こういう世界に気付かして貰える良いところだなあ」と言うか、いわばまあその程度の感じですかね。
 
金光:  そうですね。だけど、「夕菅(ゆうすげ)の花がこんな美しいものか」ということも、東京育ちだから何にも知っていなかったわけですよね。それで散歩している中に、黄色い花があって、知らないから摘んできて、ちょっと花瓶で活けていたら、それが実にいい匂いがするんですよね。それでその匂いというものから、始めて、「これはどういう花だろう」と聞いて回って、それが「夕菅だ」と分かったという。初めはほんとの無知の中からきた経験なんですよ。
 
金光:  それで私は生えているのを見たことがないんですけども、それは一本だけ生えているもの、たくさん群生しているものなんですか。
 
加島:  「一本だけ」と言っていいんですね。
 
金光:  じゃ、たまたま歩いていらっしゃって、パッと目に入った。
 
加島:  そうそう。その頃は向こうでも田圃のへりに生えていたんです、どこでも。最近大分見なくなったですけどね。
 
金光:  最近でも気を付けているとありますんですか。
 
加島:  あります。この辺は割合とあるんですよ。
 
金光:  そうですか。で、その夕菅というのは、それ以来、何と言うか、お気に入りの花ということなんですか。
 
加島:  そうですね。というよりも、「自分が一番最初に心打たれた花」という意味でね。それまでだって、花を見ていたけど、全然心に入ってこなかった。
 
金光:  成る程。「あ、花が咲いている」ぐらいに。
 
加島:  そうそう。
 
金光:  そうですか。その匂いの話が出ましたけれども、その時、「摘もうと思われた」ということは、なんかパッと閃くものがあったわけですね。
 
加島:  全然無意識。
 
金光:  それも無意識ですか。面白いですね。
 
加島:  だから、「無意識で動いた時の方が、僕は大切なものを見付けてくる」ような気がする。
 
金光:  で、無意識でやっているのは、後々なんかの時に考えて見ると、「あ、あれはこういうことだったのか」と、
 
加島:  そう。
 
金光:  ああ、そうですか。
 
加島:  中国ではこれを「麝香草(じゃこうそう)」と言っているようですね。満州ではそれが非常に広いところにいっぱい咲いているという話を聞きました。それはきっと素晴らしいことでしょうね。
 
金光:  「一本でもいい匂いが漂ってくる」というお話でしたが、それだけたくさんあったら、物凄くいい匂いがするんでしょう。
加島:  しかも、その匂いは非常に品のいい匂いなんですよ。野の匂いのちょっと強い匂いではなくて、何とも言えないほんとに中国の美人の匂いのような気がする。もっとも中国の美人なんか嗅いだことないけどね(笑い)。どんな匂いだか。それから夕方の五時、夏ですから五時頃で、まだ陽が少し高い、少し沈むという時に咲き出すんです。その咲き出した頃に匂うのは、非常に匂いが高くて、そして六時、七時になると、丁度陽の暮れ方に全開、全部開くんですよ。
金光:  ああ、そうですか。
 
加島:  そうして、次の朝に萎んで落ちちゃうんです。ひと日花というやつでね。勿論幾つか蕾がありますから、だからそうやって一週間以上は咲き続けるんですけどね。それにしても、実に潔くね、一晩で素晴らしい花が落ちちゃうんです。その気持よさと言うかなあ、そしてそれが野の中に一本ですらっと立って、誰も見ていないところで、自分で誰に見られるということも期待しないで立っているという姿というのは、大したもんだという気がする。偉いものですよね。
 
金光:  でも、都会に、街へ出ていて、それでお帰りになると、どっかの野道でぱったり会ったりすると、あッという感じでしょうね。
 
加島:  そうそう。それでいて、丈高い、ずうっと丈が高いんですからね。
金光:  そうですか。
 
加島:  ええ。その丈高くて、黄色い花を夕暮れに一人で咲かしている姿というのは、なかなか健気(けなげ)なものですよね。
 
金光:  ああ、そうですか。その辺がやっぱり良いとこなんでしょうね。その話を伺うと、一度そういうご対面を、私もしてみたいなあという気がしますけれども、
 
加島:  出来れば、お一人で見た方がいい。
 
金光:  バッタリ会うというところが良い感じでしょうね。
 
加島:  でも、そんなに珍しい花じゃないんですよ。
 
金光:  そうなんですか。
 
加島:  夏でしたら。軽井沢の方にもあるそうですけどね。
 
金光:  「おお、待って居てくれたか」という感じもあるのかも知りませんね。お帰りになると。
 
加島:  夏毎に大学教師だったから、夏だけ長い休みがありますからね。それで一ヶ月半位来られましたから。夏毎に出会ったので、十年位でその存在の良さが分かったんですよ。
 
金光:  成る程。
 
加島:  最初の二、三年は分かりはしませんでした。ものの理解というのはそんなものかも。深いところから何か無意識的に打たれたもの、理解というものは時間がかかりますね。
 
金光:  そうでしょうね。
 
加島:  頭の理解だと早いけど、
 
金光:  ええ。
 
加島:  みんな私が今話していることは長い間の経験からのことを思い出して、一番奥の方、多分どっか胸と繋がっているところ出てくるんじゃないかという、みなそんな程度ですけどね。ですから、それはもっと言えば、誰かにも繋がる部分じゃないかというところなんですよ。
 
金光:  それはそうでしょうね。一番奥の方、掴みどころのない程奧のところというのは、みんな通じているところがあるわけでしょうから。
 
加島:  そう。僕はそこのことを日本の言葉で、「心」と言っているんじゃないかと思うんだけどね。
 
金光:  英語の先生ですから、英語の「ハート(heart)」も「心」ですよね。「マインド(mind)」というのも日本語だと「心」ということですね。その辺の違いというのはどういうふうに考えれば宜しいですか。
 
加島:  普通、英語で日常生活で、「なになにマインド」という言葉を使ったときは、「頭」という意味に殆ど使いますね。「Do you maind なになに」と言った時、「これだけくれないか、どうだね。君の気持ちは」という意味であって。それから「ハート」というのは「胸」という、「心臓」というものと直接の言葉で、「頭で考えても、頭に及ばないところがハート」なんです。彼等は感情というものを主にした、英語で「emotion 」というんですけどね。「emotion」とは、「非常に密接に関連したところがハート」で、それから、「ロジック、理性と、それに関連したところがマインド」だという分け方がかなり彼等はハッキリしているんですけどね。
 
金光:  そうしますと、「君のいう理屈は分かるけども、もう一つ納得出来ない」とか、そういう時に、ハートのところが納得しないという感じになるわけですか。
 
加島:  ええ。それを「ハート」と言わないで、「emotion」と言いますけどね。ですけど、日本語はその「心」というもので両方の働きを一緒くたに使っちゃっている。
 
金光:  そうですね。こんがらがって、両方一緒に使っていますね、確かに。
 
加島:  ええ。だから、「お前の心」と言った場合に、「お前の意志」の意味であったり、「お前のハート」という意味であったりするんで、非常に曖昧なんです。ですけど、私もそれは「人間の心理を明解にするには、分けた方がいいんじゃないか」と長いこと思ったんですけど、その方が「人間というものの理解にはよりいいだ」と思っていたんだけど、最近はそうじゃなくて、やっぱり、「日本流のこういう頭と心が混ざった状態の捉えた方が、人間の実像には即しているんじゃないか」と思うようになったんですよ。「詩にしろ絵にしろ、情なんであって、人間の情を伝えるんであって、無情を伝えるものじゃない」ということだけ、ちょっと言いたいと思うような気がする。即ち僕等は人間だからね。やっぱり、「心に悲しいとか、淋しいとか、嬉しいとかという、そういう情感を中心にして何かを伝えたい」と思うんでね。「そういうものを捨てた美とか自然そのものとかというものは伝えられない。だから生きている限り、情をもっているという限りは、そうやって続けたい」と思うけどね。「情」というのは何だか凄く、僕はこの頃、「大切な気がしている」。情というと、「emotion」という意味ですけどね。最近読んだ本で、「emotion intelligence」という言葉があるんですよ。「感情的智慧」と言うんだけど、これ矛盾しているんですけどね。感情と智慧をヨーロッパ人は分けていたわけですけどね。この頃は「感情的智慧(emotion intelligence)」と言うんですけど、「emotion、感情の中にこそ、知性よりももっと高い働きがあるんだ」ということを、その男の人は説いているんですよ。そしてそれを西欧人ですから、全部生理的に解剖して、頭脳の解剖をしていても、「その中に頭脳の中でもintelligenceと繋がる部分がある。そこが一番大切なんだ」ということを言った上で、「人間というものの根本的な動きというものの、みんな情感から出てくるんであって、理屈や理性から出てきたものは、みな二次的なものなんだ」ということを一生懸命言っているんですよ。珍しいと思ってね。
 
金光:  その辺の「emotion intelligence」というのは、年齢には関係なく、歳をとっても、だんだんこれから七十、八十と歳と歳を取るわけで、それは関係なく、歳を取れば取る程、年輪が加わるほど盛んになる。
 
加島:  「むしろ盛んになるべきものだ」ということを言っている。
 
金光:  先生がお訳しになったものを紹介しながら、またお話を伺わせて頂きたいと思うんですが、例えば、「君のHere-Now」という言葉で訳していらっしゃるのは、
 
     虚の大いなるパワーにつながると
     君の意識はほんもの自由を、手にいれることになる
     だがね、ただの利口や成績優秀・能率一点張りの人だったら
     恵みにあずかれないんだ
     何しろ虚のパワーというやつは、有りそうで無いもの
     無さそうであるものなんだ
     もののエッセンス
     純粋なるイメージ
     形の原型、いわば全てにその不滅のエナジーなんだ
     そいつは太古から現在まで続いているから
     名付けようのない名をもつ
     万物をまかなうパワーなのに
     誰のものでもない
     これをどうしたら知ることが出来るかって
     いま有る君自身をよーく感じることさ
     君のHere-Now を自分全体で感じることさ
 
「君のここ、いま」これはしかし、「ここ、いま」と言うと、「固定してしまうと思うと間違いだ」ということなんですね。ここに言っているのは生きた働きがある。
 
加島:  そうそう。これ「固定したものじゃないんだ」ということ。「今既にここで動いているものだ」という。それを見ないと、「here-nowの固定した存在と見ると詰まらない」んですよね。
 
金光:  固定しちゃうと無くなったりすることもあるわけで、動きが無いんですし、動くものが不滅のエナジーだという、
 
加島:  だから、「過去から来て、今に至っているエナジー」と、それによって、「これから先へいくエナジー」との接点だという意味であって、それは「いつも動いていく存在である」という、「瞬時も休まない here-now なんだ」という、そういう「動きの凄い大きなエネルギーを含んだ存在」という意味で言っているわけです。
 
金光:  これはしかしそう簡単に「here、今ここだ」と言っても、気が付きにくいものじゃございませんか。そう簡単にわかるものでは、
 
加島:  だから、「火事場の馬鹿力」ってあるじゃないですか。「瞬間に発揮されるようなエナジー」で、我々に隠されているわけです。凄いエナジーが、
 
金光:  「火事場の馬鹿力」という、自分で何故担げたか分からないんだそうですね。
 
加島:  だから、「そういう存在なんだという意味の here-now 」なんです、ほんとはね。勿論、「意識しては出そうとして出せないもの」。
 
金光:  そうですね。でも、しかし小出しにでも、「そういうものだ」という、「そういう働きが自分にあるんだ」という目で見直すと、また、「新しいことに踏み出す、新しい一歩を踏み出す力にもなる」ということでございますね。
 
加島:  この頃の言葉で言えば、「瞬発的」という言葉があるじゃないですか。あれは一番そういう意味で、「エナジーがかなりよく出ている瞬間」のことを言うんですよ。スポーツなんかで、みんなその瞬発力の素晴らしさを楽しもうとして、みんなスポーツをやるんですよ。或いは見る時もね。野球の選手が塀の上に飛び上がって球を取った時は、あれは瞬発力の一番の美しい姿なんです。即ち、エナジーが一番よく出ている時なんです。だからみな凄く喜ぶんですよ。
 
金光:  そうですね。気持がいいですものね。
 
加島:  そう。そうして、自分で一生出来ないから、千円も出して、あんな大きい所へ詰めかけていても、その一瞬を見たくて行くの、と僕は思うの。勝ち負けで見たいという人もいるだろうけどね。
 
金光:  そうしますと、それの延長線というと、随分、動と静の違いはあるかも知りませんけれども、「予想もしなかった絵が出来たとか、詩が書けた」というのも、似たようなところなんですね。
 
加島:  そうなんです。兎に角予想もしないものが出来た時には一番嬉しいの、僕等にはね。
 
金光:  「こういう世界があったんだ」というか、
 
加島:  そうそう。「俺にもこんなことも出来たんだ」という驚きがね。
 
金光:  そこには、そうすると、「一種の固定観念みたいなものが破られた」「生き生きしたもの」という。そういう言葉というのは、老子の中にはいっぱいあるわけですね。例えば、「花を咲かすべきものは」というのがありますけれども、これを拝見しますと、
 
     生まれたときは
     みずみずしく柔らかだ。
     死ぬ時は、こわばって
     つっぱってしまう。
     人ばかりか
     あらゆる生きものや草や木も
     生きている時は
     しなやかで柔らかだ。
     死ぬと、しぼんで、乾き上がってしまう。
     だから、固くこわばったものは
     死の仲間と言っていいだろう。
     一方、みずみずしく、柔らかく
     弱くて繊細なものは
     まさに命の仲間なのだ
 
     剣も、ただ固く鍛えたものは、折れやすい。
     木も、堅くつっ立ったものは、風で折れる。
     もともと強くて、こわばったものは、
     下にいて、根の役をすべきなんだ。
     しなやかで、柔らかで、弱くて
     繊細なものこそが、
     上の位置を占めて、花を咲かせるべきなんだ。
 
これなんか終わりの方に、「強くてこわばったものは下にいて、根の役をすべきなんだ」と、それで「弱くて繊細なものこそが上の位置を占めて、花を咲かせるべきなんだ」というのは、全く常識の反対ですね。
 
加島:  そうなんだけど、金光さん、そこらに出ている花だって、みなそうじゃないですか。
 
金光:  その通りですね。
 
加島:  常識は違うけど、自然の姿というのは、みなその通りですよ。
 
金光:  しかもそれが美しくて、
 
加島:  そうそう。
 
金光:  先程からの夕菅なんかも、そういう弱いところが上に出ている。
 
加島:  だからね、「我々の常識というのは意外に間違っている」というか、「正反対の固定観念で固められている」部分が多い。
 
金光:  それで自然を見るから、自然があんまり美しいと思えない。
 
加島:  思えないの。
 
金光:  ほんとに生きた自然を見ると、「柔らかくて繊細なものが、綺麗なものを、美しさを伝えてくれている」ということですね。そうなってくると、しかし、二千何百年前の老子さんというのも、古くさい人じゃないんですね。
 
加島:  大変な人ですよ。二千三百年も前から、既にこういう哲学をもったということは、僕は、「人間というものの凄さ」と言うか、「偉大さ」と言うか、そういうものを感じますね。
 
金光:  そういう意味で、現代の人にも。これは別の本に先生が訳していらっしゃる、「たかの知れた社会」というのがありますね。
 
     ぼくらは、人にほめられたりけなされたりして、
     それを気にして、びくびく生きている。
     自分が人にどう見られるか、
     いつも気になっている。しかしね、
     そういう自分というのは、
     本当の自分じゃなくて、
     社会とかかわっている自分なんだ。
     一方、タオにつながる本当の自分があるんだ。
     そういう自分にもどれば、
     人にあざけられたって、
     笑われたって
     ふふんという顔ができるようになるんだ。
     社会から蹴落されるのは恐いかも知らないが、
     社会の方だって、
     いずれ変わってゆくんだ。
     大きな道をちょっとでも感じていれば、
     くよくよしなくなるんだ。
     たかのしれた自分だけど、
     同時に、たかのしれた社会なんだ。
 
     もっともっと大きな「ライフ」というもの
     それにつがる「自分」こそ、大切なんだ。
     そこにつがる「自分」を愛するようになれば、
     世間からちょっとばかりパンチをくらったって平気さ。
     愛するものが、ほかにいっぱい見つかるのさ
     世間では値打ちなんかなくっても、
     別の値打ちのあるものが、いくらでも見えてくるんだ
     金でなんか買わないで済むものがね。
 
     社会のなかの一齣(こま)である自分は
     いつも、あちこち突きとばされて
     前のめりに走っているけど、
     そんな自分のなかには、
     もっとちがう自分があるんだと知って欲しいんだ。
 
やっぱり、「ほんとの自分があるんだ」と、これに気が付くと強いでしょうね。先程も言葉に出ました「タオという名付けようのないエナジー、エネルギーに気が付くと、これは世の中に、社会に対する見方も変わって来ますでしょう」ね。こういうのを、しかしお訳しになる時は原文とは大分離れて、
 
加島:  そうそう。これは、そこのところ、ちょっと言っておかんといかんけどね。僕は英文の老子の訳を、そういう時には五種類か六種類同じ章を読むんです。そうすると、みんなそれぞれ違った意見で書いているんですよ。時には十種類位読むかなあ。そして、それからあと忘れちゃって、殆ど原文も英訳も殆ど無しにして、今度、自分で喋ろうとし始めるんです。
 
金光:  成る程。
 
加島:  だから、「これ原文とはかなり違っているし、どの英文から訳したかということも言えない」んですよ。何故かと言うと、「あちこちのものから取った自分の言葉になるまで待って」いて、やるから。
 
金光:  それは、そうすると、「消化されたものが出てくる」ということなんですね。
 
加島:  そうそう。「消化するまで待つ」わけね。それには英文だといろんなものでも同じ線でこうやっているから、大体の線が出てくるんですね。それを、「自分の言葉で、自分が老子になった気で吹き込んだ」んです。マイクに、
 
金光:  ああ、そうですか。
 
加島:  あのテープレコーダーと言うの、
 
金光:  やっぱり口で吹き込まれると、ハートにしても、文字で書くのと違いますね。
 
加島:  ええ。違うんです。
 
金光:  それで「分かり易い」と言うか、調子も、
 
加島:  ええ。
 
金光:  成る程。
 
加島:  というのは、もっとさらに言えば、老子は「語ったものだ」と、ぼくは思っているんです。一番最初は、
 
金光:  それはそうですね。自分で書かれたものじゃないですね。
 
加島:  それじゃなくて、「老子もブッダやイエスなんかと同じように、自分で語ったものだ」と思うの。
 
金光:  ソクラテスだって、みんな自分で本を書いたんじゃなくて、「弟子が、聞いた人が記録した」わけですよね。
 
加島:  それは孔子もそうですよね。「子曰(しのたまわく)」ばかりで、
 
金光:  そうなんです。
 
加島:  そういう凄いスピリチュアル リーダーは、みんな口で言ったことが伝わっているんですよ。
 
金光:  生の声で、・・・そうですね。
 
加島:  当時は偉いじゃないですか。全然テープレコーダーもないのに平気で口で言っただけで済ましているんですから。
 
金光:  消えてしまうなんて考えなかった。
 
加島:  そう。だから、「自分の言葉が消えるなんていうふうには、きっと思わなかった」んでしょうね。どっか深いところで、これは「永遠のそういう真理だから、いつか残ってゆくんだ、という深い信念があった」のかも知れない。
 
金光:  そう言われると、そうですね。今なら、「録音出来なかった。さあ、どうしようか」と。「記録しないと困る」なんというけど。記録でなくて、覚えるだけ、聞くだけ、話すだけ。それで伝わるという世界ですから、
 
加島:  そう。凄い世界ですよ。
 
金光:  季節の移り変わりというのは、やっぱり今は雪の季節ですけれども、春夏秋冬それぞれこれだけこう自然が身近にあると、随分ハッキリ都会とは違った感じでご覧になれますでしょうね。
 
加島:  それは月が出て入るのが見えるんだから。ここの向こう側の山から出て、あっちの辺に沈むんですけどね。毎日見ているような気味があるね。だからまた満月が来たなんていうようなことが日常になっているわけだ。それと同じように四季でも非常に明快に感じますよ、それは。いやでも感じさせられちゃうね。
 
金光:  そうでしょうね。春夏秋冬とあるわけですが、冬の雪景色も好し、また春もまた好しということですか。
 
加島:  自然はどんな時期もいいですね。やっぱりあれこれと言えない。
 
金光:  それはそうでしょうね。
 
加島:  でも、都会から来ての自然というものと違って、彼等は見せ付けないから。変なことをいうけど。だから、見せ付けない姿というのは、いつ見てもいいのと同じように、こういうものというのは、こっちも見せ付けられないで見ているというものは、みんな何とも言えぬ確かな美しさがあって。でも、あんまりそれを言いたくないね。自然というのは自分を美しいと思って見せているわけじゃないですからね。だから、こっちもただなんとなく喜んだり、わくわくしたりすれば好いので、美しいという考え方自体が僕はかなり手前勝手だと思うね。
 
金光:  先程の話で、「美しいというのと醜い」というのと対になっていて、美しい方だけ人間が選ぶようなところがありますからね。
 
加島:  そうそう。
 
金光:  でも、やっぱり雪が積もっていると、春をよく雪国の人は、「春が待ち遠しい」とか言いますけれども、
 
加島:  そうね。ただ、それも以前の固定観念で、昔は、「寒いから、早く春が来て欲しい」という気があった。ところが最近はこういうふうに暖房が発達しているから、冬の良さというものをウンとよく分かってくるんですよ。冬は空気が凄くクリアですからね。
 
金光:  そうですね。
 
加島:  空も真っ青になるしね。遠山も実によく見える。それから静かだしね。それは冬の良さというのは、こっちが暖かかったら、凄くいいところなんですよ。
金光:  それはそうかも知れませんね。
 
加島:  夏なんかより、ずうっと美しいですね。僕は夕菅の美しさというものの気高さを知ったのは、五十五から六十の間ですからね。だから歳食ったことで、遙かに新しいセンスが生まれたり、それから、夕菅というものと、自分の中の情念というものが結び合うというようなことが起こったり、という点では、歳食えば食う程、不思議さが自分の内で湧いてくるんじゃないかと思います。それで、「ハプニング」という言葉は、なんかどっか自分よりは高いところから来るという感じがするわけです。低いところから来るんじゃなくて、どっか高い自分には計り知れないところから、ハプニングが起こるんで。だから、夕菅との出会いなんていうものも、そういう意味で言ったら、そういうハプニングが自分を導いたんだという。だから、ああいう一茎の小さな野の花なんですけど、伝えるものは凄い大きなものじゃないかなあという気がするんですけど。あんまり偉そうなことを言えないような気もする。
 
金光:  そういうふうに伺うと、「歳取って、人間ダメになるんだ」というふうな固定観念にとらわれないで、そういう起こってくるもの、直接直面するものの中から、また新しいハプニング、ものを感じる。そういう楽しさがあるんだということをお話を伺いながら、「ああそうだなあ、自分もそういう生き方が出来ればいいなあ」と思って伺いました。どうも有り難うございました。
 
 
     これは、平成十一年三月七日に、教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。