輝くいのち
 
                        元京都御幸町教会牧師 藤 木  正 三
                        き  き  て        飯 田  忠 義
 
飯田:    「宗教は、教義や戒律を守ることだけにとどまらず、
       自分の究極的な生き方を実現すること、
       つまり自分を真ん中に据えない生き方を実現しようと
       願う祈りの営みである。」
           (藤木正三さんの言葉)
 
今日は宗教について、このこのように語って来られました元京都御幸町(ごこうまち)教会牧師の藤木正三さんにお話を伺ってまいります。藤木さん、どうぞよろしくお願い致します。藤木さんは牧師生活四十年されていらっしゃって、六年前に引退をされていらっしゃるということですね。
 
藤木:  はい。私は関西(かんせい)学院神学部の大学院在学中に、実習教会として大阪の下町の教会に派遣されまして、卒業後も十二年間在職致しました。そのあと、京都の市役所のすぐ近くにあります昨年創立百周年を祝った古い教会ですが、そこに移りまして、二十八年間在職を致しました。そしておっしゃいました通り六年前、六十六歳の時でありましたけれども、病気で引退を致しました。
飯田:  藤木さん、大阪のお生まれなんだそうですね。
 
藤木:  私は生まれは大阪です。そして育ったのは兵庫県の宝塚です。学校は大阪の旧制高等学校を出まして、そして関西学院の神学部に学びました。教会はいま申しました通り、大阪と京都ということですから、京阪神にずうっと暮らしてきたということになります。今はこの千里山教会に出席を致しまして、この教会は私が若い頃に通った、ここで洗礼を受けた教会です。ここで「成人聖書の会」大人の聖書の会と言いますか、そういう聖書を学ぶ会を担当し、傍ら、月に一回か二回ですが余所の教会にお話に行くという生活を致しております。
 
飯田:  そうですか。「引退された」と言っても、実際現役でやっていらっしゃるようなものですね。
 
藤木:  旧制高校三年生の頃に、私はその頃の年齢の人が、誰でもぶっつかる人生の問題、と言いましょうか、そういうものにぶっつかりました。その時は丁度終戦後、非常に混乱している時でありまして、学生運動、それも左翼的な学生運動が非常に盛んでありましたが、それに加わったり、或いは学生演劇活動も盛んでありましたが、それに頭を突っ込んだり、というようなことも致しましたけれども、私の本当の問題はそういうところにはなかったです。それは何か、というと、私は大変経済的にも家庭的にも恵まれた環境に幸い育ったのですけれども、そういうところで自分を抑えることの出来ないという生き方を通す。自分勝手な正義感を振り回す。そして、好き嫌いの非常に激しい我が儘な生き方をした結果、人間関係がうまくいかないという不適応な状態になりました。そして今の言葉で言うと、「不登校」ということになると思いますけれども、実際は学校に一遍も休まずに 行っておったんですけれども、気持は不登校というふうな状態になったわけです。「何故キリスト教に結び付いたか」というと、私がそういう不登校みたいな状態になっております時に、当然家庭の中でも荒れておったと思うんですね。それで父が手に余ると思ったのか、此処の教会の牧師のところに連れて来ました。精神的遍歴をした結果、此処へ来たわけですから、此処より他に行きようがないと、行くところがないという感じが強くありまして、積極的ではありませんでしたけれども、消極的な形でありますけれども、兎に角、此処で聖書を学ぶということを始めたわけですね。その時に、今から考えると本当に恵みというより他にしかたがありませんけれども、ぶっつかった聖書の言葉があります。これは「ヨハネ福音書」の第二十一章の十八節というところですけれども、こういう言葉です。
 
     よくよくあなたに言っておく。
     あなたが若かったときには、
     自分で帯を締めて、
     思いのままに歩き回っていた。
     しかし、年(とし)をとってからは自分の
     手を伸ばすことになろう。
     そして他の人が
     あなたに帯を結びつけ、
     行きたくないところへ
     連れて行くであろう。」
       (『ヨハネ福音書二十一の十八』)
 
こういう言葉です。私はこれを読みました時に、どう生きたらいいのか分からない、と思っておった問題に、答えを与えられたような気がしたんです。これはイエス様が弟子のペトロという人に言った言葉でありますけれども、「若かったときには」というのは、イエス様に出会う前、それから「年をとってから」というのは、イエス様に出会ってから、というふうに解釈していいと思いますけれども、もっと一般的に言えば、人間として本当に生きる、究極的な意味で生きる、ということを考える前と後が、若い時と年をとってから、という言葉で意味せられていると思います。このことを読んでいる時に、今までの私の生き方は、結局自分の思い通りのことをしておった。学生運動に入りましたのも、演劇運動に入りましたのも、何もかも自分のしたい通り、そして嫌な人間関係は逃げ回る、というふうな生き方だったなあということがしみじみ分かりました。
 
飯田:  「行きたいところへ行っていた」ということですね。
 
藤木:  そうですね。それと共に本当の生き方というのは、〈人間として究極を目指す生き方というのは、行きたくないところへいく〉と。〈人に呼び寄せられて行きたくないところへ行く〉。つまり、〈自分の人生は自分の人生ではない〉と。〈そういうふうに生きていくのが本当だ〉というふうに思ったです。よく信仰に入るのを、「回心(かいしん)」というふうに申しますけれども、非常に鮮やかにパッと回心した人もありますし、そういうことを書いた本もありますけれども、私にはそういう鮮やかな回心というのは全くないのでありまして、ただ、今申しました「ヨハネ福音書」の言葉にぶっつかった時に、〈自分の生き方は間違っておった〉ということ。そして、〈これからは行きたくないところへ行かねばならないことを示された〉ということが、回心と言えば回心ということになろうかと思います。そして私が牧師になったのも、行きたくないところをずうっと考えていく時に、そこの延長線上での決断として、行きたくないところ、牧師という仕事が私の仕事として、私は選びとらしめられた、ということになると思うんです。
 
飯田:  その聖書の一節の部分というのが、藤木さんにとっては一つの転機であったということですね。
 
藤木:  そうです。ですから、牧師になってからも、そのことがいつも頭にありましたから、聖書を読んでも、〈自分は行きたいところへ行っているんじゃないか〉と。〈行きたくないところへ行っているつもりでも、まだ甘くて行きたいところへ行っている〉というようなことを示される。そして、行きたくないところへ行く気力というか、元気というか、励ましを頂くというか、何かそういうふうなことが、私にとっては聖書を読む、ということだったですね。どこを読んでもそういうふうになるんですね。ですから、説教をしますと、普通の説教で、「教会とは」とか、「救いとは」とか、「永遠のいのち」とか、そういうことをいろいろ語られるわけですけれども、私はあんまりそういうことを語ったことがないんです。いつも自分を題材にして、自分のことしか語らなかった、というふうな気が致します。これが説教と言えるのかどうか分からないですけれど、それしか出来なかったです。誠に幸いなことですけれども、先程申しました二つの教会の人達が、説教とも言 えない説教を、四十年に亘って辛抱して聴いて下さった、ということですね。四十年を振り返っての思い出というのは、私は平々凡々の牧師生活で、大したこともしてまいりませんでしたが、何もないんですけれども、本当にいい聴衆に恵まれた。本当に感謝すべき会衆に恵まれた。これはハッキリ言えることでありまして、これが四十年における最大の思い出ということになると思います。
 
飯田:  そうですか。藤木さんは四十年の牧師の生活をされてこられて、キリスト教と言うんですか、宗教と一緒に歩んで来たわけですけれども、藤木さんご自身は、「宗教というのは一体どういうふうなものである」というふうに考えていらっしゃるんですか。
 
藤木:  それは〈いのちそのものを自覚的に生きる〉わけですから、そこで〈いのちそのものを実感する〉ということがあると思うんですね。そして、〈そのいのちそのものを実感するということが、人間にとって一番大切だ〉と思います。宗教というのは、実はここを言っているわけです。〈いのちを実感し、いのちそのものを味わって生きるということが、究極的な人間の生き方である〉と。そして、〈その究極的人生態度を実現するということが、宗教の根本的な意図である〉というふうに私は思います。これを言葉を換えて言いますと、私達は〈生きる装いのようなものの方に気がいっている〉わけですけれども、その中にいのちのそのものがある。ところが、〈このいのちそのものを普段私達は無視している〉んですね。こちらの方に気がいっている。〈無視されているいのちそのものが、いのちの復権を願って、いのち自身が働きかけてくる、これが宗教である〉。もう一つ言い換えれば、つまり、〈私のいのちは私のいのちであって、私のいのちではないと、人生をしみじみ味わっているのが宗教だ〉というふうに、私は考えております。私自身は先程申しましたような理解にたってですけれども、〈宗教は語る言葉、これに力があるということを信じて、その言葉の語り方を工夫していくべきものである〉というふうに考えます。語る内容は、先程言いましたように、簡単なことでありますが、〈人生は自分のものであって、自分のものでないと、人生の中でしみじみと味わうこと〉なんですけれども、そのことを、〈言葉に力があるということを信じて、言葉の語り方を工夫して語って、宗教者としての役割を果たしたい〉というふうに思います。
 
飯田:  「どう語るか」ということですね。
 
藤木:  そうですね。私は三つの点を言葉の語り方の工夫として思うんですが、一つは教会に行きますと、どうしても教会の中でしか分からない、と言うか、通用しない言葉を、私達は平気で使うわけですね。それではいけない、と。だから出来るだけ教会の中で平気で使っている教義的な言葉、と言いましょうか、そういうものを避けるようにしたい。それから伝える、伝道するとかという時に、どうしても人に教える、というような姿勢がありますけれども、イエス様の言われたことの中に、「健やかなものは医者はいらない。要るのは病人だけである」という有名な言葉がありますが、イエス様をお医者さまとすれば、私達、聴く者は病人。病人として聴かねばならない。病める者、弱い者、助けを必要としている者として聴かねばならない。私達は聖書を自分が本当に弱い、助けを必要とする、ダメ人間という、最低のところに立って聴く、と。そこで得たものを、いま申しましたように、教会で通用しているような教義的な言葉、或いは教会の中でしか分からないような言葉でなくて、自分の言葉で得た見方、聖書を通して与えられたものを出来るだけ傷付けないように、そのまま自分の言葉を捜しながら語る。そして更に人生論ふうにそれを語りたい、というふうに思います。第二の点は、「生のいのち」と言いましょうか、〈生かされているいのちに、自覚的に生きる〉ということが宗教の教えですから、〈そこでは当然生かされている者としての限り、限度というものが考えられるわけで、「限度のセンス」と言いますか、「限りのセンス」、或いは、「限りのわきまえ」そういうものを養うということを語る〉ということが、私は大切であると思います。
 
飯田:  その「限度」「限り」というのは、もうちょっと分かり易く言いますと、それはどう言ったことなんでしょうか。
 
藤木:  それはこの頃は何でも出来る時代になりましたね。言うならば、「欲望肥大」と言いましょうか、〈私達の欲を満たしてくれるようなことが出来る時代〉になってきました。なんぼでも出来る。〈出来ることはして良い〉というふうに思いがちですけれども、〈出来るけれども、してはならない。そこまでしてはいけない、というふうな限りというものがある〉と思うんですね。そのことをやはり語らねばならない、と思うんです。最近心臓移植ということが問題になりましたが、私は個人的には大賛成の者でありますけれども、ああいう問題において、いろいろ人間として良いとか悪いとか、と言っていますけれども、そういう問題だけではなくて、或いは法律的にここまではよろしい、これまではいけない、とそういう性質の問題ではなく、〈もっと日常の私達の生活、一人一人の生活、その中で自己抑制としてのわきまえ、というものを考える必要がある〉んじゃないかなあと思います。出来るけれども、そういうことをしては〈人間としての慎みがない〉とか、或いは、〈人間として恥ずかしい〉と言うか、或いは、〈そこまでやっちゃお終いだ、というふうな人間の誇り、人間のプライド〉と言いましょうか、そういうものを考えて、〈そこからくる一つの自己抑制としての限りのわきまえ〉というふうなものを、私は語りたい、と思うんです。三番目は「苦しみ」ということです。苦悩。私は阪神淡路大震災の時に、本当に身をもって感じたんですけれども、〈苦しみというのは向こうから来る〉んですね。〈こちらがどんなに真面目にキチッとやって、そういうことのないように準備万端しておっても、そんなことには関係無しに来ます〉。苦しみというのは。苦悩というものを避けることは出来ない。その時に一体人間はどういう態度を取るかというと、出来たら逃げたいですね。避ける。可能ならば、それに抵抗して、それを克服したい。出来なければ他の助けを借りてでも、兎に角そこを何とか乗り切りたい。これは当然でありますし、そうすべきなのでありますけれども、苦悩というものはそれだけではない。もう一つの意味がある。或いはもう一つの対し方がある。というのは、〈苦悩を通して、今までなんでもなかったことに、大変意味があるということに気が付くと、こんな詰まらないことと思っておったことが、非常に大事なことであることに気が付いたり、絶対間違いでないと思っておったことが、その苦悩を通して、とんでもない間違いであった、ということに気が付いたり、そういう目が開ける、開眼ということがある〉と思うんです。ですから、〈苦悩は開眼のチャンス〉というふうに考えられるべきであって、そういう意味において、〈丁寧に苦しむ〉ということも、これは〈宗教が語らねばならないポイントではなかろうか〉と。そういう三つのことを、私は言葉の力を信じて語り方に工夫しながら語っていくことで、宗教の役割を果たしたい、というふうに思っているのです。
 






 

宗教の役割

その一、 人生論ふうに語る
その二、 限度の感覚を養う
その三、 ていねいに苦しむ

 
 
飯田:  成る程。そうした「語る」ということなんですが、聖書ではどういうふうに語っているんですか。
 
藤木:  聖書の中に、「マタイによる福音書」というのがありますが、 その十八章の冒頭の部分を通して、少しそのことを考えてみたいと思いますが、十八章の一節にこういう言葉があります。
 
     そのとき、
     弟子たちがイエスのところに来て、
     「いったいだれが天の國で一番偉いのでしょうか」
     と言った。
 
ここで弟子たちがイエス様のところへやって参りまして、「一番偉いのは誰か」ということを聞いた、というんですけれども、これはちょっとそこだけ聞きますと、弟子が出世主義者で大変利己的な質問をしているみたいに聞こえるかも知れませんけれども、これは我々の世の中は競争社会ですから、みんなこれを考えているわけです。その意味では、弟子は極めて正直に率直に質問したと思うんです。これはそういう意味では問題はないんですが、問題はないのか、と言うと、問題がある。それは「天の國で一番偉いのは誰だ」ということですね。ということは、天の国というのは神の国。神様の直接的な支配が普遍的に超越的になされているところ、と私達は考えますが、そこで一番偉いということは、つまり、神様の評価で一番は誰か、ということですが、そういう質問を彼等が普通「現実で一番は誰か」と言っているのと同じような立場で聞いているというところは、彼等は現実と天の国というところにおける評価の基準というものを同じようにしてしまって、ごちゃ混ぜにしているというところがあるということは、ここに出ていると思うんです。その次の二節を見ますと、
 
     そこでイエスは一人の子供を呼び寄せ、
     彼等の中に立たせて、
 
とあります。イエス様はそこへ子供を連れて来させて、そして彼等の弟子の真ん中に立たせられた。これは弟子はちょっと意表をつかれた、という思いであったろうと思うんです。何でこんなところに子供が出て来るんだ、と。そうビックリしている弟子達に三節を見ますと、こうおっしゃっていますね。
 
     言われた
     「はっきり言っておく。
     心を入れ替えて
     子供のようにならなければ
     決して天の国に
     入ることは出来ない。」
 
こうイエス様はおっしゃっています。イエス様は、「天国で一番そんなことを考えてはいけないと」そんなことを言っていらっしゃらないのでありまして、勿論「それは宜しい」と。けれども、天国に入るそこで「一番」ということを考える場合には、「心を入れ替えて一番、ということを考えなさい」と。この「心を入れ替える」ということは、どう入れ替えるのか、と。非常に具体的に「子供のようにならなければならない」。それが心を入れ替えるということ。「そこで一番になる、ということを考えなさい」というふうに、イエス様はここで言われた、と思うんです。今は私達は普通の現実の社会で、「誰が一番偉いか」ということを、みんな心で考えていると思うんですが、その時に一つの基準は〈大きな仕事をする人が偉い〉、或いは小さなことかもしれないけれども、〈忍耐して、コツコツやっている人が偉い〉と。或いは、〈人の幸せの為に社会奉仕を一生懸命やっている人が偉い〉というふうに思う、と思うんです。もう一つは、〈肩書きをもっている人が偉い〉。或いは、〈お金を持っている人が偉い〉〈大きな権力を持っている人が偉い〉〈才能をもっている人が偉い〉ということも考えると思う。つまり〈何かをする人が偉い〉〈何かを持っている人が偉い〉。「する」と「もつ」というのが、偉いというものを決める時の基準のようになっている、と思うんです。弟子達もおそらくこの時、十二人いる弟子の中で、自分が一番篤い信仰をもっている。だから、「偉い」と言って貰えるんじゃなかろうか。或いは自分がこの中で一番イエス様に働いてよくしておる。だから、「偉い」と言って貰えるんじゃなかろうか、と言うふうに考えていたんじゃないかと思う。つまり「もつ」と「する」ということを基準にして、「誰が天国で一番偉いか」と思っていたところへ、イエス様は子供を立たせた。子供は「もつ」という意味においては、何も持っていないんですね。「する」という意味においては、何もするところはないわけです。ですから、「もつ」と「する」ということを基準にするのとは違う、もう一つの基準としては何か、ということを示す為に、イエス様は子供を置かれた。立てられた、と思うんです。「子供は何か」と。〈子供は持つという点で誇るところはありません。誇るところはない〉です。また、「する」という点においても、誇るところはないです。だけれども、「単純にある」んですね。「ある」ということですね。「単純にある」という点において、子供は誇るところ、といいましょうか。別に誇っておりませんけども、「単純にある」ということの大切さを、子供は語っている。そして、「持つこと」「すること」を離れて、「あること」、それが大切である、ということを示す為に、イエス様は子供を真ん中に立たせられたんだ、と思います。私達が生きていますこの現実の社会というのは、結局、「もつこと」「すること」これをめぐって極めて打算的、極めて功利的、極めて人為的に構築されておると思うんです。その中に私達は填ってしまって、「もつこと」「すること」を追い回して、そしてそこで「誰が一番か」というようなことを競っている。そういう生活をしている、と思いますね。その中では、〈ある〉ということ。〈単純にいのちそのものに目覚める〉ということ。〈存在そのものをしかと受け止める〉ということをしなくなっている。つまり、〈いのちに対する根元的な感覚というものが、麻痺していて、分からなくなっている〉ように思うんです。そういう中で、私達は右往左往していることに対して、イエス様が「心を入れ替えて、子供のようになければ、決して天の国に入ることは出来ない」というふうに指摘をされた、と私は思います。それから、「もつ」ことを離れなさい。「する」ことを離れなさい。「ある」ということ。〈いのち目覚めて、生のいのちに目覚めて、それを感じて、実感して、しみじみ味わって生きなさい〉ということを、イエス様はおっしゃったのだ、と。このマタイ福音書の十八章一節から三節を、私は解釈しています。
 
飯田:  「ある」ということを自覚して生きなければいけないということですね。
 
藤木:  そうですね。
 
飯田:  「ある」ということを自覚して生きる世界、と言うんですか、これはどういう世界ですか。
 
藤木:  うまく言えないかも知れませんけれども、私は大分前に「ブラザー・サン、シスター・ムーン」というアッシジの聖フランシスコ(一四一六ー一五0七:愛の宗教家とあがめられたイタリアの修道士)の伝記を映画化したものを見たことがあります。フランシスコについては知っておりましたけれども、その映画を見た時に、妙に感動致しまして、こんな世界を生きておる人がおるのか、と。その敬虔ないのちに対する感受性というものに、私は感動致しますと共に、自分のいのちに対する感じ方の荒っぽさ、と言いますか、粗雑さを恥じたのを思い出すのですけれども、彼は自分を自然の中に包まれた小さな存在として捉え、ありとしあるもの、いきとしいけるもの、全てと生き合っている。そういうふうに自分を捉えておると思うんです。そして小鳥ともおしゃべりをしますし、狼とも話をして、ブラザーウルフと、
 
飯田:  兄弟ですね。
 
藤木:  そうですね。狼が兄弟だ、というふうな、そういうふうなことをしておりますね。〈人間も動物も自然もすべて造られた方の掌(て)の中で同じいのちを共有している〉と言いますか、分かち合っている。同じ重さをもって生き合っている。そういうものとして、彼は捉えているように思うんです。人間だけがパッと突出して、自然とか動物を所有し、使用し利用する。それで構わないんだ、というふうなことは全然考えていない。極めて敬虔な、そして鋭いいのちに対する感受性、それで全てを捉えて、〈全てのありとしあるものが、万物が生き合っている。その中の小さな一部として、自分は存在しているという、そういう世界。それがいのちそのものに目覚めた人の生きている世界〉と言えるんじゃないかなあというふうに思います。
 
飯田:  いま藤木さんのお話を伺っていまして、思いますのが、要するに、「絵本の世界」と言うんですか、「童話の世界」のようなものというような感じがするんですけどね。
 
藤木:  そうですね。私はハッキリ言っていいと思うんですけれども、〈宗教の世界というのは童話の世界〉であるというふうに思うんです。童話の世界というのは作り話というのじゃないんです。或いは子供向けに易しくしたお話という意味でもないです。そういう意味とは全く違って、〈心を入れ替えて、子供のように生のいのちに気付いた人が味わっているところの根元的ないのちの実感というものを表現しようとする。その形式としての童話〉。童話という形式ですね。〈その味わっているいのちの実感を表現する。それが童話だ〉というふうに思うんです。ですから、私は宗教の世界というのは、童話の世界だ、と思いますね。この童話の世界においては、〈人間が動物と話をする。自然は人に話をする。自然と自然とが囁き合う。そういうふうな世界〉〈全てのものが生き合っている。混じり合っている。そういういのちに対する根元的な感覚というものを、私達は失った〉んじゃないか。あの童話の世界に生きている、そういういのちに対する感覚が麻痺してしまった。そして、ただ、「もつこと」「すること」にうつつを抜かして、そしてその中に埋もれてしまって、帰れなくなっている、と言いましょうか、そういう世界には帰れなくなっている。「故郷喪失」と言いましょうか。そういう状態に私達はある、と思うんですね。そういう状態にある私達に、イエス様は、「心を入れ替えて、幼子のように、子供のように」と生のいのちへの呼びかけをされた。ここに聖書の語る究極的人生態度というものが出ておると思いますし、現在のように、「すること」「もつこと」に振り回されて、物が溢れておる。その中でいのちというのは、本当に薄っぺらになってしまった。〈人のいのちをとることも、自分のいのちを捨てることも、全く簡単にパッとやって終えるようになっている現代に対する非常に鋭い問いかけ〉というものが、〈心を入れ替えて幼子のように、という極めて優しい童話のような世界の中にある〉というふうに私は思います。
 
飯田:  そういう童話の世界にある、そう言った大事な生かされている、と言うんですか、いのちというものに、我々どうしたら気付くことが出来る、ということなんでしょうかね。
 
 
藤木:  難しい問題ですが、ここにティポットがありますので、それを使ってお話致しますと、ティポットを人間、私達、私と致します。私は生きてある。生きてある、というだけで、私達は止まらないんであって、よりよく生きよう、と。これはみなすると思うんです。今の状態に止まらないで、もっといい人生があるんじゃないだろうか。もっと価値のある人生があるんじゃないか。もっと意味の豊かな人生があるんじゃないか。もっと目的に適った人生があるんじゃないか。こういろいろやっておると思うんです。そしてこの隣の人を見て、この方が素晴らしい。私が一番だ、なんていうようなことを考えながら、生きておると思うんです。ある場合は、そういう水平でなくて、垂直の方を見て、もっと高く清く美しく、精神的にそういうように生きることが価値がある生き方というふうに考えるかもしれない。或いは、パッとこうとって、もう空っぽになって、無欲になって、こういう生き方が素晴らしいのだ、というふうに思う人もあるかも知れない。思う場合もあると思う。ですから、私達は兎に角生きようという点では、いろんな形で、さまざまな生き方をしていると思うんです。こういう点では、みなやっていると思うんです。ですけども、「生きている」ということですね。「ある」ということについては、あまり考えていないんじゃないでしょうかね。私達は〈何も考えて、生き出そうとして、思って生きだしたわけでなくて、気が付いたらもう生きているわけです〉から。そして、毎日毎日の生活が目が覚めたら生き出すわけであって、寝ている時も生きていますけれども、目が覚めて生き出すわけでありまして、別にさあ生きようか思って、今日生きるわけではないわけです。ですから、生きるということは、まあ放っておいても生きているわけですから、私達は生きるということをあまり考えていない。いのちということをあまり考えていないんですね。そういうありようをしておるんです。私達はいのちはあると、生きてある、というふうに思って生きていると思うんです。考えていないと思うんです。ところが実際はそうではないんですね。ここにティポット スタンドがここにありますけれども、ここに支えられて、これの上に置かれて、これにあらしめられて、これに存在せしめられて、私はある筈なんです。これが見えないんです。これが見えないで、「ある」と思っているだけなんですね。「ある」というありようから、「あらしめられている」というありように、私で気が付くということをしなくちゃならないと思うんですけれども、こうして飯田さんとお話をしていると、飯田さんはそれは分かると思われるかも知れないんですね。それは確かにそうだなあ、と。だけども、分かるなあという分かり方は、実は不十分なんですね。いま本当に〈ありようが変わったら、生きようが変わる〉筈ですね。ところが、私達はありようはそうかなあと思いますけれども、思いながら生きようは、相変わらず同じことをやっておる。ちょっとも変わっていないんですね。ですから、本当に〈ありようが生きようの中に変化として現れてくるほどに、はっきり分かる、ということが起こらなくてはならないんですけれども、これは人間的に私は出来ない。無理だ〉と。
 
飯田:  出来ないんですか。
 
藤木:  出来ない。私達はやっぱり「ある」というところで、ありようの中に、どうしても観念的にこういうことを考えましても、実際は出来ないと思う。これが出来るのは、〈この私を支えていて下さるこのスタンドの方が、ポンポンと知らしめて下さる〉と言うんでしょうか。〈気付かせて下さるという、そういう向こうからの賜物として、恵みとして、このありようが変わる〉ということ。〈ありようが違っていた、ということに気付かさせて頂く〉。そういうことだと思うんです。では人間は何もすることがないのか、と、
 
飯田:  そうですね。待ってばっかりということになりますね。
 
藤木:  ということになりますね。私は一つあると思うんです。それは気付かさせて下さるのは、生かして下さるスタンドの方ですけれども、〈この気付かせを気付く〉ということですね。〈なんぼ気付かせても気付かないということがある〉んですね。〈気付くという、気付かせに対する準備、と言いましょうか、備え、と言いましょうか、それは人間は出来るし、しなくちゃならない〉ことだと思います。
 
飯田:  例えば、音の場合でしたら耳を澄ませるとか、
 
藤木:  そうですね。
 
飯田:  そういうことですね。
 
藤木:  そうです。そういうことは一体どういうことか、と言えば。それは私は先程話しましたように、〈いろんな形で苦しみが起きる。その苦しみを大事にする〉ということです。何故ならば、〈苦しみということは目が開くチャンスだ〉と先程申しましたけれども、目が開くチャンスなんですね。だから、〈ポンポンと来ている気付かせに、パッと目が開く。パッと耳をそばたてる。気が付く、ということが起こる為に、この気付かせとしてくるところの、生かして下さる力に気付く為に、私達は苦しみを避けるのじゃなくして、苦しみを丁寧に受け止めていく〉ということをして、そして、そのことを通して、生きようの方に向いている意識を、自分の方に集中していく。〈自己凝視をして、苦悩に助けられて自己凝視をしていく。そして、その気付かせに気付く〉ということが、人間のなし得るこの場合における態度でなかろうかと思うんです。ところがそういうことは出来るかというとなかなか難しい。私は自ら省みて、たまにしても、そうしょっちゅう自己凝視なんて、そんなことはしていないんですね。しようと思っても出来ない。ですけども、非常に大事なことです。ですから、出来ないなあと諦めないで、心を入れ替えて、と言うか、気を取り直して、というか、思い直して、というか、時々、その苦しみの中で自己凝視、そのことを丁寧に、時々やればいいと思う。時折やればいい。だから連続でずっとすることは難しいし、難しいからといって、諦める必要はないと思う。人間はそんなに真面目なものでないんですから。かなり手抜きで、私達は生きておりますから。ですから、手抜きはしょうがないところがあります。ですけども、気が付いたら気を取り直したらいいですね。そして時々やればいいんですね。榎本(えのもと)英一(一九0三ー一九九八:「現代の妙好人」と慕われた大阪の仏教詩人。九十五歳で没)という昨年九十五歳で亡くなった、確か淡路島出身の方で、小学校出ただけの学歴でありますけれども、非常に仏教の信仰に篤い人で詩人でありました。この位の厚い詩集を五冊、薄いのが三冊位ほどあったと思いますが、たくさんの詩を残された仏教詩人です。この方の残された詩の中に、「仏のむち」という詩があります。仏がむち打たれる仏のむちなんです。どういう詩かと言いますと、
 
     やはり私は
     ときおり 鞭を頂きたい
     しばらく
     ぐんにゃりするが
     そのあとがよいのです
 
という詩なんですね。ここに時折という言葉がありますね。やはり私は時折鞭を頂きたい。榎本さんはやっぱり毎回ビシャビシャ叩かれるような、それはとっても私は叶わん、と。とてもそれで自己凝視なんてようせんと。時折頂きたい。そうすると、そこへ暫くグンニャリと自己を凝視する。そこでハッと気が付いて、その後が良いのです、と。こういうふうなことを言うておられると思うんです。この詩は非常に簡単に分かり易い言葉ですけれども、本当に人生をよく見た苦しみなしには、人間は人間にならない、と。人間は本当に生のいのちにされ得ないということを、見事に詠っている詩であるなあというふうに、私は思います。いずれに致しましても、ご質問の、「どういうふうにしたら生のいのちに気付けるか」ということですが、これは非常に難しい。難しいけれども、特別才能はいらないですね。苦しみに対する対し方ですね。それを時折でいいですから、目が開くチャンスとして受け止める、ということを積み重ねていく時に、それがスタンドがポンポンと気付かせて下さるのに、ピタッと合って、ちょっと難しい言葉になりますけれど、「一瞬の直覚」と言いましょうか、「直感」として生かされているということに気付く、ということが恵みとして起こる、というふうに私は思っております。一寸注意しておきたいのは、あらしめられているありように気付く、と申しましたけれども、一遍気付いたら、ズッと気付きっぱなしかというと、実はそうではないんですね。気付いてもまた分からなくなって迷う。また気付いてまた迷う。こういうことを繰り返す。「それでは気付いたことにならんじゃないか」と言われるかも知れませんけれども、〈気付いては迷い、気付いては迷い、ということを反復しているということが気付いておる〉ということです。私達は錯覚をして、「気付いておる」と言うと、ちゃんと全部分かり切っちゃった、というふうに思いますけれども、そうではなくて、〈生かされているということは、分かっておって、迷いが出てしまって、自分が中心になって、ノコノコ出ていく。そういうふうなことを繰り返して、止めない、ということが気付いている〉ということ。表現を換えれば、〈今まであてもなく迷っておったものが、あてのある迷い〉。或いは、表現を換えれば、〈迷い方を知らずして迷っておったものが、迷い方が分かる迷いに変わる、ということがありようが変わる。いのちに生かされているということに気付く。いのちそのものに目覚める〉ということだと思うんです。そのように変わりました時に、当然この生きようが変わってくる、と思いますね。この生きようはどういうように変わるか、と言うと、いろいろあると思いますが、私は二つの点が言えると思います。生かされているんですから、〈生きようの中に感謝が通る〉と思う。もう一つは生かされているんですから、〈受け入れるということが生きようの中に通る。感謝し、人生において起こる全てのことを受け止めていく〉という、こういうことが〈有りようが変わった人の生きようとして出て来る〉と思うんです。〈この感謝して受け入れるということを一つにした〉時に、私は「いのちが花咲く」「いのち咲く」というふうに表現したいと思います。
 
飯田:  「咲く」というのはもう随分「花が咲く」という、
 
藤木:  そうですね。何故「咲く」と言うか、或いは、「咲くというのはどういう意味か」と言うことについて、渡辺和子(一九二七ー:現ノートルダム清心学園理事長)さんという方が書かれた『心に愛がなければ』という本がありますが、岡山のノートルダム女子大の理事長をしておられる方だったと思いますが、この方ご自身の詩ではありませんけれども、英語の詩が元の詩ですけれども、その本の中にこういう言葉がありました。ちょっとお読み致します。
 
     神が置いてくださったところで
     咲きなさい、
     仕方がないと諦めてではなく
     「咲く」のです。
     「咲く」ということは
     自分が幸せに生き、
     他人も幸せにするということです。
     「咲く」ということは
     周囲の人々にあなたの笑顔が
     私は幸せなのだということを
     示して生きるということなのです。
 
     神が私をここに置いてくださった
     それはすばらしいことであり
     ありがたいことだ≠ニ
     あなたのすべてが
     語っていることなのです。
     「咲く」ということは
     他の人の求めに喜んで応じ
     自分にとってありがたくない人にも
     決して嫌な顔 退屈気な態度を
     見せないで生きることなのです。
       (「心に愛がなければ」から)
 
こういう詩なのですけれども、私の知っている限り、このように見事に、ありようの変化にもとづく生きようの変化、と言いましょうか、あり方の変化に基づく生き方の変化を詠った歌はないんじゃないかなあというふうに思います。〈生かされて今ここにある〉ということに気付いて、神がここに置いて下さった、と人生のありようが変わったものの生きようは、それは素晴らしいことであり、有り難いことだ、という方向に生きるようになる。つまり〈人生においてもたらされることは何でも感謝していこうという、そういう生き方、生きようになる〉と思うんです。こう言いますと、それは「無気力じゃないか」と。「諦めじゃないか」というふうに言われるかも知れませんけれども、「そうでない」ということは、この詩が大変見事に語っていると思うんですね。ここには〈生かされているいのちに気付いた人が、そのいのちに本当に気力を充実させて、委ねていく。気力を充実させて従っていく〉と。そういう姿勢が詠われていますし、そういう生き方が、ありようの変化した人の生きようの変化。簡単に言えば、いのちはどこででも咲くという、このあり方では咲けない、そんなことは言わずどこででも咲く。有り難しとして受け止めれば、どこででもそこにはいのちがある。いのちはどこででも咲く、ということを、この詩は言って、教えてくれる、と私は思っています。イエズス会の修道士というんですか、司祭にアントニー・デ・メロ(一九三一ー一九八七:インド生まれの司祭。東洋と西洋の霊性の統合をこころみた、世界的な指導者)という人がおられました。この人の書かれた『心の泉』とかいう本でしたが、その中に少し省略して申しますと、
 
     受け入れがたい状況を感謝して受け入れる時、
     人は神秘の世界を味わったことになる・・・。
 
ということは、つまり置かれた状況に支配されないで、流されないで、そこで咲くと。そういう生き方の中では、一つの余裕がありますね。流されない。距離がありますね。これは非常に神秘的な余裕。それが「咲く」という表現をとっているんじゃないかなあ、と思います。それとこれはちょっと誤解がよくあるので、一言申し上げますと、「いのちが輝く」「いのちが咲く」ということと、「能力を発揮する」ということと同じに考えてしまいやすい。「能力を発揮する」と「いのちが輝く」。これは別問題ですね。ですから、「よくこんな職場では自分の能力を発揮できん」と。別の仕事に変わるというようなことを。これはまあそれなりに意味はありますけれども、だけども、〈能力というのは確かに置かれたところに影響される〉と思うんです。しかし、〈いのちは置かれたところで影響されることはない〉です。ですから、〈そこで能力が発揮出来ない、という不完全燃焼を味わっておるとしても、それは必ずしも不幸ではない。得意の中で色褪せてしまういのちがあれば、失意においてまさに輝くいのちもある〉。そういうことをやはり違うということを私は申しておきたいと思いますね。メロの言葉ですけれども、ちょっと同じような言葉ですけれども、
 
     神秘主義とは、あらゆることに感謝を感じることである。
 
私はこの言葉が好きなんです。〈受け入れがたいことを感謝出来る〉ということですね。これは非常に物凄いことだと思うんですけれども、それはそこに〈私達を生かしておられる生かす力。私達は神様と考えますが、そのことがそこに臨在している〉と言うんですね。だからあらゆることに感謝を感じることが出来る。それはまさに神秘なんです。だから、「咲く」というのは、極めて神秘的な生き方ですね。神の臨在という極めて鮮やかな、圧倒的な神様の臨在感に満たされている生き方というものが咲く。「花咲く」ということじゃないかなあと思います。ですから、自分を真ん中に据えないようなあり方にもとづく、自分を真ん中に据えないような生き方がそこに実現しているわけでありまして、そこに宗教が求め、指摘しておるところの究極的人生態度というものが、「咲く」というところで、実現しているんじゃないかなあと、私は思っております。
 
飯田:  そうですか。どうも長いこと今日は有り難うございました。いいお話を有り難うございました。
 
 
     これは、平成十一年六月十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。