常民(じょうみん)を見つめて
 
                      民族文化映像研究所 所長 姫 田(ひめだ)  忠 義(ただよし)
一九二八年神戸生まれ。昭和二十三年神戸高商卒。五十四年上京し、新劇活動。民俗学者・宮本常一に師事。六十一年から映像による民族文化の記録作業を始める。日本及び世界各地の人々の暮らしと文化を百本を越す作品に描き続けている。著書に「忘れられた日本の文化」「私の民衆風土記」など。
                      き き て        金 光  寿 郎
 
姫田:  いや、もう二十年近く、ちょっとご無沙汰しておりましたね。秩父の「通過儀礼」という記録作業をやり続けておった時期から見ますとね。久しぶりに。荒川ですね。こうして初めはこの秩父というところはどういうところか分からなくていましたが、この荒川沿いの、荒川を中心にした河岸段丘が拓けていて、大きな山地が拓けている。谷谷がある。それら一円に、非常に豊かな生活文化、歴史。それがあるんだなあということを教えられたんですけれど、最近この段丘というよりも、ここがもともと川が無かったかも知れないほどの時代。三十五万年程前と言いますから、その時代の石器が、この山の高いところでなくて、一種段丘上の、丘陵上の山の斜面にフッと出て来た。だから、ここは物凄い古い時代から、人の良い生活場所であった、ということをあらためて教えられますね。僕は日本を基点にしながら、人類を考え、学んでいきたいわけですけど、それの原点の一つとして、この秩父を考えたいなあと思って、今回やってきました。
 

 
ナレーター: 民族文化映像研究所の姫田忠義さんは旅を人生とし、生活とし、まるで乞食(こつじき)修行中の雲水のように、日本列島を隅々まで隈無く歩き続けて来た人です。それは戦後の日本が捨て去り、忘れ去ってきた日本人のありようを、映像に記録し残すためでした。自然との深い繋がりをもつ名も無い庶民の生活と文化を見つめ直して、私たちはどう生きていったらいいのかを問い続ける旅でもありました。七十一歳の今も姫田さんの旅はまだ終わっていません。秩父は埼玉県西部、山と川の間に拓けた地域です。中央に荒川が流れ、平坦な河岸段丘の上に市街地が形作られています。この六月におよそ三十五万年前の前紀旧石器時代の石器が発見され、この地域が大昔から豊かな自然に恵まれた暮らしやすい土地であったことを裏付けました。
 

 
姫田:  僕等がこの皆野に通っていたころは縄文を意識していますけど、縄文時代という、それより遙かに昔なんですね。この西日本を中心に発達した日本の学問の世界から見ますと、歴史学とか、もうここはなんか文化はつるところみたいに思われていたんじゃないでしょうかね。関東の山の。ところが、そんな京都や奈良というような次元じゃない時代に、もう何十万年というような、いわば人類史的なレベルの時代からの生活場所であったということが、
 
金光:  それは当然それだけの、何十万年も前からの生活は縄文を通って、それからいわゆる現代まで続いているということでございますね。
 
姫田:  はい。それはまず自然がそうであると。そうすると、今の視点で、そういう時代を昔はよくそんな時代から暮らせたのかなあという設問が生まれますわね。
 
金光:  そうですね。
 
姫田:  そうすると、今まで見過ごしていたこの自然形態、もう一度見直さなければならないという、そういう時期にきていると思いますよ。
 
ナレーター: 城峰(じょうみね)神社は海抜千メートルを越える山の上にあるお宮です。遠く平安時代中期、平将門が乱を起こし、ここに城を築き立て籠もり戦った伝説のあるところで、狼信仰で名高い神社でもあります。
 

 
金光:  今日は「常民を見つめて」という日頃の姫田さんのお仕事についてお伺いするわけですが、「常の民」と書く「常民」というのは、これはもともとどういう意味で、どういうところから使われているんでしょうか。
 
姫田:  日本民族学で使われている言葉で、「コモン ピープル(Common people)」という英語の訳と、私は伺っておりますけれども。「通常の人」というか、私なりに言うと、「庶民」と言いたいんですけどね。つまり権力者でないという。そういう大ざっぱな言い方ですけど、そういうふうに理解して、特に農山漁村、都市部も勿論庶民と呼んでいいわけです。私の場合には農山漁村が主として、そこにおられる生活者と。最近特に意識されているのは、「この自然とより深く接している生活者」というふうに私は理解して作業しております。
 
金光:  軍隊にいらっしゃって、それで敗戦になって、それでお生まれになったところの神戸にお帰りになって、それから今の神戸商大を出られて、しかも財閥系のいい会社に就職なさっていた姫田さんが、何年かで辞めて、今の道に入られた。それは何でそもそもいい会社を辞められたんですか。
 
姫田:  入る時は第二次大戦直後の数年後のことですので、何とか生き延びていかなければ、食わなければならないという、日本中がそういう時代であったんです。旧制の神戸高商、今の神戸商大ですけど、兎に角、早く出て働いて、と思っていましたね。ところがやっぱり青春期ですし、いろいろ模索がありまして、特に第二次大戦までの国家体制とか、社会体制とか、そういうことを徹底的に子供の頃、教育を受けたことがございますね。それに対する反省がポーンと出てきた。その中で現実に生活をする。いわゆるサラリーマン生活をするわけですけど、そこに普段言えないことがいっぱい溜まってきます。それのはけ口みたいなものを求めていた面がありまして、第二次大戦後、日本中がそうであったと思いますけど、文化活動というもの、或いはスポーツもそうですけれども、文化活動にみんな熱中しましたですね。それは心の癒しを求めてだったと思います。私自身は演劇の方に引っ張り込まれて、そうして高じて、
 
金光:  それは会社にいらっしゃる時に演劇をやられた、
 
姫田:  そうなんです。演劇好きの女性たちがおりまして。それで僕は演劇というのは大体軟派のやることだと思っていたんですけど、
 
金光:  で、そこでまたそのままずっと来ていらっしゃるわけじゃなんですね。
 
姫田:  東京へ来て、新劇をやり始めて、それと殆ど同時と言っていいんですけど、宮本常一(一九0七ー一九八一)という民俗学者に出会いました。出会った、と言うか、僕は飛び込んで行ったんですけど、
 
金光:  それはどういうところから宮本さんに、
 
姫田:  宮本先生が読書新聞なんですけど、一ページですね、「瀬戸内(瀬戸内海)海賊の歴史」という一文を草稿しておられて、私自身も瀬戸内海育ちな者ですから、非常に関心を持って読みまして、瀬戸内海賊、瀬戸内海海賊という「海賊」という言葉にある種の愛着ももっていましたが、同時にイメージを海賊というものに対して持っておりまして、いわゆるバイキング、北欧のバイキングとなんというのを思い出しますが、一種の冒険者、そういう意味で少年期にはワクワクしておったんです。宮本常一という人は生活者のレベルから、「海賊行為というのは生活行為である」ということを説いておられるんです。ビックリしましたね。こういう見方があるのかな、と思いましたね。そうして自分の故郷のことでもありますので、この人には是非会いたいと思って、即座に新聞社に電話して、そして東京の三田(みた)の渋沢敬三という方の屋敷内に、「日本常民文化研究所」というのがございまして、
 
金光:  そこでもう「常民」という言葉を使って、
 
姫田:  はい。出会ったんです。一日中話を聞きまして、
 
金光:  初めて行かれて、一日中話を聞かれた。
 
姫田:  それから、お昼にカツ丼をご馳走になりましてね。
 
金光:  その時分、カツ丼ですか。
 
姫田:  物凄い。腹ぺこの時代ですもの。僕は屑屋さんをやったり、あらゆる仕事をしましたよ。
 
金光:  新劇では食べられないので、
 
姫田:  新劇では食えません。俳優さんも食えなかった時代ですから。こうやって椅子に座った格好をしておったんですけど、だんだん熱中しますと、地図を広げなければなりません。あの人の話は物凄く具体的ですから。「いや、どこそこのこの裏にはなあ」というような調子。そして、「その家にはなあ、裏手へ廻ったら、その物干しに褌(ふんどし)が吊り下がっていてなあ」というような話をするわけですよ。何というけったいな人や。関西弁で言うと、「けったいな」ということです。これは「けたいなり」と言うことですね。「ただならぬ」ということなんです。それを「けったいな」「おかしな人」という言い方なんですけど、
 
金光:  悪い意味じゃないんでしょう。
 
姫田:  「けったいやのお」「お前、けったいな奴だなあ」と言うと、一種の賛美も含めて、
 
金光:  自分の物差しにかからぬ位のことをやっているという感じなんでしょうね。
 
姫田:  そうですね。当時、第二次大戦後、渋沢敬三先生が中心になりまして、「九学会連合」、その前は「六学会」という。つまりいろんな学会が一緒になって、共同調査をやらないといかんと、日本を。そして何かを考え直していこうというお考えの「九学会連合」という組織が、最初は「六学会」だったんですけど。その最初の調査地が対馬(つしま)だったんです。宮本先生も参加しておられたから、だんだんそっちの方に、話が瀬戸内海から西へ行って、朝鮮海峡の対馬の話になりました。で、私は行きたいなあと思いながら、食うに追われて、というようなことをやっていて、宮本先生にお会いしてから三年後の昭和三十三年でございますけど、初めて対馬に出掛けたりしました。島山の世界ですから、岩だらけの世界なんです、対馬というのは。そうすると、靴がパカッパカッのぼろ靴を履いて行きましたら、一遍にパッと口開いて、縄で縛って、というような調子で歩いたんです。一つの地域を腹減らしながら、人の恩恵で泊めて頂いたりしながらです。宿賃なんかありませんから。そうしますと、人の日常のたたずまいが見えるわけですね。それとやっぱり人情が見えますのでビックリしました。演劇というのは、一方では演劇を志しているんですけど、何かを、フィクショナルな世界を作ろうとしますね。作ることに一生懸命になります。ところがそこに存在している生活というのは、何かを作ろう、作ろうとしているんではない。自ずからそうせざるを得ないと言うか、そういうふうに生み出されたとしか言いようのないものを感ずるわけです。それはとてもフレッシュと言うか、衝撃的でしたね。つまり己の言葉で言いますと、こんなことを言ったら、演劇の仲間なんかに怒られそうですけど、己のやっていることが「小賢しや」と言えるんですよ。それを教えられたんですね。しかもそれに決定的に一人の人に出会ったものですから、そこで僕自身の思いの方向が決まってしまったような面があります。
 
金光:  その決定的な人というのはどんな方なんですか。
 
姫田:  それは対馬の海に面していない唯一の内陸部に内山というところがあるんですけど、そこの内山仁蔵(じんぞう)という人にお会いして、その人との出会いのエピソードが、もうこれが僕に決定的でした。僕は無住のお寺に転がり込んで、宿を貰って、それでその直ぐ近くの仁蔵さんの家にお風呂を貰いに行ったんです。そうしたら、お風呂を頂いて、上がって来たら、「まあ、お茶でも飲みなさい」というわけです。家族の人が何人か居られたんですけど、その人らは寝られて、それで、「じゃ、僕もお暇(いとま)します」と出ようとしたら、「ちょっと待て。わしはお前に見せたいものがある」というわけです。紙包みを、紐を掛けた赤茶けた新聞紙の包みですが、それを奧から持って来られて、それを開かれた。全部借金の証文なんですよ。借金の証文で、「これは儂が二十代の頭から、爺さんや親父の代に手放していた田地田畑を、そんなに沢山あるわけじゃないけど、一筆一筆取り戻した」と。
 
金光:  その仁蔵さんが借りたわけじゃないんですね。
 
姫田:  親父さんや爺さんや、先代や先先代の代の借財、    
 
金光:  払わないでもう亡くなっているわけですね。その親父さんとかお爺さんが、
 
姫田:  手放したまま、
 
金光:  その仁蔵さんが一生かかって、
 
姫田:  「働いて、それを取り戻し、取り戻していたんだ。破るに忍びない。焼くに忍びない。それからこれは自分の家の恥だから、村の人間にも言えない。見せられない。家族にも見せられない、という思いでずっと持っていた。儂はあんたに見せたくなったので見せた」と。「儂はあんたにこれを見せるために生きておったようなもんやなあ」とおっしゃったんですよ。僕は三十歳の、それこそ何者だか分からない。いわば放浪者ですよ。それに向かって、そうおっしゃったんですね。僕はそんな経験豊かな生活者であるおじさんが、そんなことをおっしゃるが、僕はほんとに何にも出来ない、若い者であると思っている。まあ何とも言えなかったんです。でも、咄嗟に思いましたね。「僕みたいに何にも出来ない者でも、お前に、こうして儂は何か思いが落ち着いた」と言うか、「お前にも意味があるんだよ」ということを教えられたように思います。
 
金光:  内山さんは姫田さんに話すことによって、それで何かそれまで心に溜まっていたと言うか、何かの思いが、
 
姫田:  二十歳から四十年程の間の、もう溜まりに溜まったものが、
 
金光:  その人にいい時に来てくれたという感じなんでしょうね。
 
姫田:  「ああ、こういうことがあるんだ」と思ったんですね。「役立たずの俺でも、人のお役に立つことがあるのか」ということを衝撃的に感じたんですね。さて、それから帰り道、家へ、一人旅ですから、ずうっと考え続けているわけです。一人旅というのは大事ですね。考え続けているわけですよ。黙って死んで逝った庶民が無数にあるわけですね。せめてその人たちがここに存在したという記録をやらなければいかんなあという思いが強まりましたですね。
 
金光:  それが「民族文化映像研究所」の創立に繋がるわけでございますね。
 
姫田:  そうですね。この過程の中には、九州の山の村で、今でもですよ、毎年十二月十二日から十六日にかけての祭に、狩をしたイノシシの頭を供えて、そしてそれを荒御魂(あらみたま)として、神殿(こうどの)という庭に祭壇を設けて、そこへ供えて、その前で徹夜のお神楽をするんですよ。やがて国指定の文化財になりましたけど、素晴らしい神楽の世界がありまして、その記録に。それはたまたま一人旅で九州を歩いている時に出合ったんです。それには私は衝撃的に、日本にこんな生々しい狩猟文化が残っているか、ということを教えられて、記録を始めたのが本格化するきっかけでした。ついでアイヌの友人たちに、今参議院議員になられた萱野(かやの)茂さんに出合ったりするようになって、いろんな各地の人たちと接するようになりました。それの成果を本格化するために、やはり研究所と言いますか、活動体をしないかんと。簡単に言いますと、看板を揚げようかという。それで、「民族文化映像研究所」という名前を付けた。
 
金光:  それから今までずうっと仕事を続けていらっしゃるんですが、今日はここの秩父にお邪魔しているわけですけども、
 
姫田:  秩父というのは昔の一国でございますから。古代の一国、一つの国ですから。一円の重要なスケールを持った、質量をもった世界と言えると思います。秩父の山地がありまして、甲信越が外側にある。荒川という川が流れている。秩父盆地と。この荒川に流れ込む河川が、沢沢、谷谷がありまして、その奥、奥に高いところに高地と呼んでいる集落がずっとあるんですよ。それがそれぞれ秩父一円と言っていいような共通項と、同時にそれぞれの特色を持って存在しているということを教わったです。例えば、立沢ですね、出産儀礼なんかの場合に後産(あとざん)、後産(のちざん)ですね。出産した後の後産(あとざん)、それをちゃんとくるんで、「とぼう口」とおっしゃっているんですけど、入り口の外側に穴を掘って、そこへ埋めて、それで土地の方の表現では、「犬や獣が掘り返したらいかん。だから、しっかり掘り返さないように、しっかりそこに埋めておくんだ」という表現で、一種儀礼があったんですね。それを記録したんです。それを見ていまして、いろいろ考古学の人たちと話し合ったり、議論になりました。縄文時代の幼児埋葬の遺風が彷彿(ほうふつ)しているんじゃないだろうか、という。縄文時代には埋めの瓶に幼児を入れて、地面の、家の近くとかに埋める。或いはこれは地域によって、そういう幼児埋葬するのに納屋の床の地面の下に、というところも、私も伺ったこともございます。私は外国にも時々出ておりますけど、ヨーロッパのバスク人の社会でもそういうことを伝えています。昔は先ず死者は自分の家の床下に埋めた。そして、ついで庭に埋めた。ついで、キリスト教が入って来てから、今度は教会の墓地に埋めるようになった。そういう言い方をしております。割とそういうことが、特に幼い命に対する生命観と言いますか、それは人類にある共通項がある。
 
金光:  もう一度生まれ変わって来るのには、自分たちと住んでいるところに近い方がいいというような含みもあるでしょうか。
 
姫田:  そう考えることも出来るんではないでしょうか。何でこんな身近に埋めるかということですね。今は遠くどころじゃないではないですか。病院で出産したら汚物ですよ。
 
金光:  そうですね。
 
姫田:  汚物でポンと捨てに行くんですよ。何処へいくんでしょう。行方不明になります。生命体の一部がですね。
 
金光:  そういうふうにその土地土地で残っている習慣なんかを、
 
姫田:  特徴のあるものが一円に、
 
金光:  そこにどういう意味があるのか。そこに昔はどう考えていたのか、という昔の人の生き様みたいなものも自然に考えさせられるということでございましょうね。
 
姫田:  そうですね。それで、たまたま僕は映画フイルム、或いはビデオという映像手段を活用するようになりまして、余計それを痛感させられるんです。私がいま生きている今、刻々の今というのは、今なんだけども、物凄い古い歴史を凝縮しているとも言えると思うんですね。それは筆舌に尽くし難しで、文字で表そうとすると、例えば姫田の顔は鼻が太くて、と描写しておりますと、何千年、何万年の歴史をここに凝縮しているなんてちょっと言えないんですよ。表現出来ないんですね。映画評論家の佐藤忠男さんと話したことがあるんですけど、「姫さん、あんたはどういうことを映像で大事に考えていますか。何を焦点にしていますか」と言われたことがあって、「それは行為です」と。「人間の行為を見つめる。その手段です」と申し上げたことがあるんです。
 
金光:  「行(おこな)い」ですね。
 
姫田:  ええ。「行い」。その生活行為の中には有形無形のものがあって、言葉で言うのも行為ですから。これは無形でございますね。物を作ったりする。これは有形と言っていいと思うんですが、有形無形の行為を見つめる。そうすると、その中に物凄く、例えば、木地屋さんが木地のお椀の荒型を作ったりする。山の村の人が丸木舟を作ったりする。或いは木こりさんが木を切り倒したりする。その時に共通の技術が出てきたりします。それは山型に彫っていくということなんです。それは今でも山型に彫ったりするんです。よく考えてみたら、その技術は石器時代の遺風かも知れない。ずうっと長年やっておりますと、そう考えざるを得ないと言うか、考えることが出来る。そんなふうに思えるようになりました。だからこの秩父はつい先だってですけど、六月ですが、私が知っている友人の藤村真一さんという旧石器時代を見付けるのを、神さまだと言われている人が来て下さったらしいですね。ここの城峰の方からも見えるこの秩父の長尾根という秩父盆地の中の尾根上のそこで、三十五万年前の旧石器を掘り出しているんですよ。
 
金光:  三十五万年前、
 
姫田:  三十五万年前。彼は宮城県の上高森というところでは、六十万年前掘り出して見付けています。そうしますと、それは原人と呼ばれている時代で、北京原人なんていうよりも、上高森の場合は古いわけです。ここの場合も北京原人に匹敵するような古さのものなんですね。但し、人骨とか、そういうものは出ていないんですけど、石器が出ている。私は関西生まれですので、秩父というところを知りませんでした。「秩父の霊場めぐり」とか、「秩父困民党の話」は有名ですので、この話ぐらいは耳にしているわけです。本で読んだりですね。それらを引っくるめてこういう印象をもっていました。秩父はなんか関東平野の奥の、暗くて、という感じ。とんでもない話です。こっちへ来ましたら、もう広壮な世界が開けているわけですね。しかもそこに旧石器時代人も、縄文時代人もみんなここで暮らし続けている地域だということで、決して秩父はそういう意味で特殊ではなくて、
典型的な日本列島の中の古い歴史の地だということがいよいよ発見して来ましたね。それを僕らが出来るのは映像で、今生きている人の行為を見つめる中で、そういう生活や文化や、例えば、技術というのは自然から我々が、人間が生きて生命体である人間が生きていく上での糧を頂く。それが技術だと言って良いと、僕は思っているんです。そういう技術の物凄い豊かな地域なんですよ、此処は。そういうことを学びました。
 
金光:  そうやって、此処の秩父だけではなくて、姫田さんは全国を歩いているわけですが、最初の頃ですね、「こんにちわ。ちょっと私はこういう者ですが、映像を撮らして下さい」と言って、「はい。どうぞ」ということじゃございませんでしたでしょう。
 
姫田:  今でもそうですけど。
 
金光:  殊に、最初はそうでしょう。
 
姫田:  そうです。
 
金光:  どうなさったんですか。
 
姫田:  あなたならで、「私はNHKの者です」と言えば、みなさん分かってくれるでしょう。
 
金光:  ある程度。いろいろの分かり方あると思いますけれども、兎に角。
 
姫田:  それから、「何々大学です」と言えば、分かった積もりになってくれるじゃないですか。本音を言うてくれるかと言ったら、
 
金光:  言いません。
 
姫田:  最初の門戸は開いてくれるじゃないですか。僕の場合は何者だか分からないから、「お前は何者や」。畑なんかで、大抵そうですね。人の家を訪ねて行くというよりも、道端で会うた人なんかに、やっぱり声をかけて、話伺え始めるというようなことが基本ですね。その時に「何じゃね」と言われて、「話を聞かして頂きたいんですけど」。映像という言い方しません。何年かかっても映像を回さない時がありますから。「話を聞かして下さい」ということが基本です。
 
金光:  いきなり言われたら、「わしが何の話をするんだ」みたいな、
 
姫田:  いや、それ以上に、「今、忙しい」と言われる。大抵。「そんなお前みたいな暇人と話している暇はない」と。生活者という者はそういうものですよ。それが始まりですね。暫く坐っていたり、そうですね、二時間も坐っていたり、ある時は雪の中で、八時頃から夜中まで突っ立っていたり、雪の中で。
 
金光:  帰ったらお終いですね。
 
姫田:  縁が切れますがな。縁を求めて行っているんですから、縁を実現しなければなりませんがなあ。そうすると、やっぱりどんなコケにされても、やっぱりそこに居らなければいかんわけです。そうすると、「まだ居ったか」というような。それで、「何や」とこうまた言われるんですよ、大抵。それで「話を聞かして欲しいんですけど」「いや、忙しい。わしは帰るぞ。日が暮れて来た。わしは帰るぞ」というようなことで、居らして貰うのが大変です。
 
金光:  じゃ、一緒に付いて話しながら付いて行くとか、
 
姫田:  ええ。まあ、ボソボソ遠くから付いて行く。それでも「しっ、あっちへ行け」という人はなかったですね。こういう話がありますよ。どこへ行っても、よくそういうこと、今でもですけど、「話聞かして下さい」とこう行くでしょう。そうすると、一生懸命話して下さることになって、有り難いことに話して下さった、と。その時、別れる時に、よく聞かされる言葉があります。特に年輩者以上ならば、ご自分がしゃべり続けているのに、「ああ、今日は良かった。いい話聞かせて貰った」。いい話聞かしたのはあんたやのに。ところがここが人間の言葉の綾(あや)と言うか、文化的表現というよりも、真実な気持の、人間の感情と言うか、真実な意識の働きと言えるのかと思うんです。その人は自分で自分のことを話してくれているんです。話続けてくれているんですが、「ああ、いい話聞かせて貰った」というんです。その時の「聞く」というのは、耳で聞くというふうに考えたらいかんなあと思うようになっているんです。聞き酒するという、聞くという時はこっち(舌)の方で聞いているわけです。それは自分の働きを向こうへ向かっている。つまりいい話をやったという場合にはそっちへ行っているんです。自分がこうやっている癖に、「いい話聞かせてもろうた」と言うたら、自分で聞いているんですよ。自分の心に、魂に、何かこう真実なものを感じたという意味の聞くという言葉のように受け取れるんですよ。僕には。これは田舎のお爺さんなんかに、よく聞かされる言葉なんですよ。「今日はいい話聞いた。良かった」と言うんですけど、本人がしゃべっていて、
 
金光:  ここだけでなくて、要するに、自分もその話が体に久しぶりにいい話だったという感じなんでしょうかね。
 
姫田:  そうなんです。それでそういうことを考えますと、日本語で「言(こと)の葉」と言いますが「言葉」、「言の葉」というんですよ。「葉っぱの葉」と書いているんです。「言の葉」という。それを解説することは難しいにしても、或いはそれを何か教学的に教えるということは分かりませんけど、何かそこに「言の葉」というのは私とあなたと誰それと場を開いていく。乗っける。何かヒラヒラしていた葉っぱなんだけど、何か乗っける場という、「言の葉」というのはそういうイメージがするんですよ。
 
金光:  そこにこと(言)が行われているわけですね。こと(言)が行われて、その言の葉という感じかも知れませんね。
 
姫田:  そうなんです。そうすると、そういうふうに考えますと、例えば、アイヌ語で「カムイ・シンタ」という言葉があります。神さまの乗り物。雲の魂はカムイ・シンタに乗って神の国へ帰るよ。「イヨマンテ」というのはそうなんですけど。その時の「カムイ・シンタ」という乗り物という感覚です。言の葉ということの中にあるかも知れません。だから、言の葉をとても日本人は大事にしたと思います。それから神さまに向かっていう時には、それを寿辞(ほぎごと)、つまり祝詞(のりと)というのは後には祝詞という言葉に固定してしまっていますけど、そもそもはそういう言の葉を差し上げるというか、そういうものだと思います。それはもうアイヌの心と同じだと思うんですよ。日本人にはそういうものが、言葉としても、イメージとしても残っているというふうに思うんです。
 
金光:  姫田さんはそうやってしょっちゅう旅をなさっているわけですが、旅をされる時 はどういう姿勢と言いますか、ご自分の旅を表現されると、どういう旅だという 言葉でおっしゃいますか。
 
姫田:  そもそも旅という言葉は一体どういう言葉かなあということを、衝撃的に教えら れたことがございまして、それをいま引用したいわけです。日常の呆けた自分で は、或いは日常にガラガラに纏わっている私をリフレッシュすると言うか、何か 新しく甦らせてくれるのが旅だと思います。そもそも日本人には旅という言葉に どういうイメージを託していただろうかということを、衝撃的に教わったことが ある。伊豆七島の最南端に青ヶ島というところがあります。そこを訪ねたことが ありまして、こう土地の人が教えてくれたんですね。女の人が出産する時にタビ に出ると。それはどういうことかと言うと、村外れの林の中にある産(うぶ)小屋、産屋(さんや) ですね。そこへ入ることをタビと言うんだそうです。「えー、何でですか」。旅 と言うと「旅行」の「旅」しか私は頭に浮かびませんので、「それはどういうこ とですか」と言いましたら、「いや、火を別にすることだよ」と。
 
金光:  (た)の火(ひ)ですか。
 
姫田:  そういう意味なんだそうです。
 
金光:  別火(べっか)ですね。
 
姫田:  だから、別火(べつび)とか別火(べっか)という、普通言われていることを青ヶ島の人は「他火(たび)」と 言っているわけです。僕は、「えっ」と思いました。日常の火を共にしている家 族から離れるわけです。そして出産の時には自分で煮炊きをし、と言うか、火で するんです。これは一般的に奄美にも、非常に広く別火(べつび)、別火(べっか)というのはありま す。またそれに対する理由付けが忌み、穢れがあるというような、いろんな理由 付けとかいろいろあります。ありますが、五千年前のヨーロッパアルプスのミイ ラになった人が出てきた人いるじゃありませんか。アイスマン。あの人は火を持 っていましたよ。確かカバで作ったポシェットのようなものの中に、草が突っ込 んであって、草がそこが焦げているんです。それをヨーロッパの研究者たちが、 これは火を持って歩いているんだ。つまり彼は旅をしていたんです。そういう意 味で日本流に考えれば、罪穢(つみけがれ)れということを言いますが、そうでない。もっと現象的なイメージ、ありようというものが、例えばヨーロッパアルプスのアイス マンなんかから教わることが出来る。五千年前です。そういう意味で火を別にす るということの意味合いは兎も角、何か日常と離れて、だって、出産自体がそう ですよね。それを具体的な表現として、場所を設定し、場を設定し、ありようを 設定するというのは、それは人間の文化だと思います。そういうことをちゃんと やっていたんです。そうすると、おれが旅をするのは家族をほっといて、ほっと いてじゃないんですけど、結果的にそうなりますわね。
 
金光:  家族と城を別にして、そこに暮らすことにならざるを得ませんね。
 
姫田:  しかも、己が火を持って歩いているのかと言ったら、僕の場合には本当は僕が持って歩いているんじゃなくて、人様の火に養われているんです。だから僕は寝袋を持って歩くというスタイルをもともと持ちません。最近は車でスタッフと一緒に動いたりする時、寝袋を積んだりしておりますけれども、一人で歩く時には最低の食料を持ったりしてしますけど、目立たない形を心掛けてきました。
 
金光:  それは何故ですか。
 
姫田:  土地の人が受け入れてくれないから。
 
金光:  目立つ格好をしていると、余所者(よそもの)だということになるわけですね。
 
姫田:  余所者は分かっているんですけど、余所者をひけらかしている者に対しては拒否反応を起こします。
 
金光:  それはそうですね。
 
姫田:  それは今でもそうです。都市生活者でもそうでしょう。何とか人間は出会った以上は共感して同一化しようとしているのに、「俺違うねん」と言われたら、「そうか。そんなら勝手にしろ」とそうなるのは決まっている。それは論理的にはそうですよね。「あなたと一体化したいんですよ」と言った時には、「そうか」と言うかも知れない。私はそれを初めから意識してやっていたんではなくて、貧乏だからということもありましたし、そんな格好をするという余裕が全くないということであったのです。なにせ相手様の火によって養われることしか出来ないんですから。
 
金光:  しかし、養われることによってまた相手の方の生活に溶け込むことも出来やすいということも言えるわけでしょうね。どこへ行っても別のところにキャンプして、そこで食べて、「こんにちわ」と言ったって、それはやっぱりダメでしょうから。
 
姫田:  ダメですね。それは違いますね。やっぱり、「お前、うるさいなあ。まだ寝ておるのか。お前、起きろ」なんて言われておりながら、「すいません」とか言って、そこである種の人間の、また言葉を換えて言いますと、やっぱりそれぞれの人が主人公ですから、他者が来た時に、己の主人性を侵されたら拒否しますよ。昔の日本人の旅人というのは、それを心得ていたと思います。だからこそ、ひょっとしたら巡礼者なんというのはみんなそのような服装で、そのような約束事の中で歩いて行ったんじゃないでしょうか。「私、特殊ですねん」「恵むのがあんた、当たり前ですね」そんなこと言えませんから。慎ましく慎ましく、そうして鈴を鳴らして、鈴を鳴らすのはもともとは獣よけであったかも知りませんけど、鈴を鳴らすことによって自らを励ます。鈴というのはあれは魂振りですから、魂が振るえるという魂振りですものね。リンリンリンリンと。あの仏様も来て下さる。何よりも自分の心が奮えながら、奮えることによって、何か清浄化していくという、そういうありようを実践しているのが、巡礼なんかだと思います。ひょっとしたら、昔の日本人の中に、或いは世界的な人類的な共通項に来訪心という考え方があるんじゃありませんか。何か何かの時に、訪れて来てくれる神さまがいる。その土地に居着いて下さる神々もいる。やって来て下さる神々がいる。日本の正月の神さまだとか、お盆の祖霊なんかみんなそうでしょう。それは喜びは持ちうる。自分をリフレッシュする。旅そのもの、旅する人もリフレッシュするんですけど。旅人を迎えるということはリフレッシュすることなんです。だから来訪者を非常に喜んだ。恐れると同時に喜んだという民族事象がございます。そういうのがやっぱりいまオープンにと言うか、フランクにそういうものだ、ということを、我々日本社会でも、いまもう一度甦らせて。そういうイメージを。人を見たら盗人と思いみたいなことだけではなくて。今、子供に何と教えています。挨拶させないじゃないですか。いま都会のあれでは、
 
金光:  「気を付けなさいよ」。
 
姫田:  「気を付けなさいよ」と言うんですよ。でも、日本人は、外国でもそうですが、「人類は気を付けなさいよ」と同時に、「喜んで迎える」という、その両方を持っていたんですね。「その両方があるんだよ」ということは、やっぱり教えなければいかんと思います。例えばいま此処にお世話になっている城峰の神社のこの大地は、これは五年や、十年、百年、二百年に出来たわけではないんですね。私はそこにいま此処に座らせて頂いておるんですけど、この恩恵というのは、僕が勝手に考えたわけではない。と同様な意味で、これは自然というものはそういうものだろうと思います。同時にその自然に依拠した自然に深く深く接しながら生き続けてきた人間のありよう。それが日本人とたまたま日本列島だから日本人だと。まあ最近は国歌、国旗だなんという話もありますけれども、そんなレベルの、次元の問題ではなくて、この 大自然の中で営々として生き続けてきた人間には、我々にとって、未来にとって大事な大事な資産がないかという探し方なんですよ。それが「基層(きそう)文化」という言い方をしているんです。「基層」というのは、基本の基に層をなしているという、そういうことで、一人一人の人の体の中に伝えられている。敢えて言えば基層文化と言っていいもの。つまり表層でこう揺れ動いているファッション、モードでドンドン変わっていくという、それも真実ですね。だけど、それを成り立たしている、踏ん張っている、底流しているものはないか。もしそれが無いとすればあまりにも儚すぎるじゃないか。我々存在、そのものが、そう思うんですね。例えば、雪国の越後の奧三面(おくみおもて)という処に伺って物凄く沢山のことを教わりました。そこの人が道を付けていく時に、それを昭和二十年代の終わり頃迄は稼ぎの仕事と考えたことはないんですよ、ということを教わりました。どういうことかと言いますと、僕が通うようになってから、「いや、こういうことがあったよ」と。谷の出口に、三面川という、川の谷の出口に最初にダムが出来た時、そこの道路工事に、奧の集落なんだけど、そこへ誘われて出るようになった。そうしてお金が出たんでビックリした、と。昭和二十七、八年の頃ですよ。貨幣経済を知らない山奥の人かというと、そうじゃないんですよ。もう江戸時代から稼ぎの、渡世の船木作りとか、渡世の塩木作りとかという文章を残している。ちゃんと船の材木を流したり、塩を焼くその薪を伐採して出したりしている処ですよ。それで稼いでいるんですよ。それから大事な財産権というものを大事にしておられる。財産権というのを教えられた。その中には熊などの動物の通路に、獣道に仕掛を、
 
金光:  罠を仕掛けるわけですね。
 
姫田:  ええ。そうして吊り天上式の。石を乗せていて、そこを通るとドンと落ちて獣を捕る。それを「オソ」と言うんですけど、オソを設置する場所の権利とか、「ドゥ」と言って、魚を穫る「筌(うけ)」と一般に言ったりしますけど、魚が入ったら出られなくなる。そういうものを設置する場所の権利。それから、菅(すげ)という草の採草権の場所。そういう三つを最初に教わったんです。最初に行った時、教わったんです。これはその三つを得られれば分家が出来ると。
 
金光:  生きていけるというわけですね。
 
姫田:  そうです。僕は「田圃は」と聞いたんですよ。そうしたら「田圃は分ける程ない」と言われましてね。咄嗟に感じたのは、あ、これは稲作以前の世界だ、と。それをちゃんと伝えている。稲作も伝えているが、稲作以前の世界。それは時代的に言うと、大まかな話ですけど、弥生時代よりも前の話です。縄文時代の話。それからあらぬかですね。その村は、三面という処はダムで水没して無くなって、移転せざるを得なくて、昭和六十年に無くなったんです。そこが移転された後に発掘調査が始まったら、なんと旧石器時代から縄文時代の各時期、ずうっと古墳時代に至る迄、平安期に至る迄遺物がずらっと連続して出て来ているんですよ。そこでその人たちは、道は自分で作るものだと思っていた。それを仕事と。敢えて言うとすれば、仕事と稼ぎ仕事をはっきり区別しているんです。稼ぎと仕事は違う。日本人は自らの仕事というものを稼ぎ仕事でない仕事ですね。人間としてやらなければならないという仕事というものを天職と考えるというその発想がだんだん消えて来ている。でもそれもひょっとしたらまだ甦る素地を持っているかも知れませんね。そういうふうに、甦りの素地を基想文化と呼びたいんです。良き甦りですね。若山牧水じゃないですけど、「幾山河越え去りゆかば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」という詩がありますね。はてなむ国ではありますね。日本列島というのはなんか固定してしまっていますけど、同時によくよく訪ねていけば、そしてそこに住んでいる人の生活の襞襞(ひだひだ)を訪ねていけば、はてなむ国、果てしがない国です。
 
金光:  いろんなそういう日本、或いは外国の人たちとお会いになって、自分のお仕事を通して、本当の自分を求められて来てどうですか。
 
姫田:  自分はまだ自分のこととして言うのはあまりにも未熟であると思っていますので、もし、そのことに答えさせて頂くとすれば、私の父親の言葉を引用させて頂ければと思います。十五年程前に父親は八十四歳で亡くなりました。終生の肉体労働者でした。七十過ぎてから老人結核になりまして、入院生活をして、「ダメだろう」と言われて、奇跡的に快復して、数年間最後いました。薬の問題もあったんでしょう。目も耳も殆どダメになっていましたが、毎日の朝の散歩は欠かせない人でした。その人が最期の年に、八月の中頃に、歩道橋から落ちて亡くなったんです。一月一日からその日迄毎日、神宮暦の一月一日、二日、三日、四日とある、その欄の一番空白のところに、同じ言葉を書き続けておりました。鉛筆で振るえる字で、殆どもう振るえて分からない程の字ですけど、「みなさん、ありがとう、おたっしゃで」と書いてありました。それを私は知りませんでした。母親が父親のお葬式の日に、「お父さんもこんなのを書いておったよ」と言うてくれたんです。「みなさんありがとう」という言葉は外に向かっています。「私、苦しい苦しい」「わたし、嬉しい嬉しい」という表現ではなくて、外の人に向かって、他者に向かって言っている言葉だと思います。私はもし自分の生涯を終える時には、そのようなありようで、いわば人類の生命の歴史の中に帰っていきたいと思いますね。「みなさん、ありがとう」と。私はいまそれが出来ているかどうか分かりませんので、親父の言葉ですけど、これを指標にしたいと思います。
 
金光:  どうも有り難うございました。
 
 
     これは、平成十一年八月二十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。