東洋の心を語る A中道を歩む
 
                       東方学院院長 中 村  元
                       駒沢大学教授 奈 良  康 明
 
奈良:  東洋思想への関心が高まる中に、「東洋の心を語る」ということで、毎月一回放送しております。本日はその第二回でありまして、「中道と歩む」ということでございます。「中道」―いろいろな意味合いで使われる言葉なんですけれども、東洋の心として一体それがどういう意味を持つのか、いろいろと考えてみたいと思います。本日お話を頂きます方は東方学院院長の中村元先生でございます。先生、よろしくお願いいまします。今日のテーマが「中道」ということでございまして、実は昨日少し辞書を引いて見ましたんですけれども、「中」というのは「真ん中」という意味でありますから、例えば、「中流」とか、「中年」とか、ごく普通の真ん中という意味がある。と同時に、例えば「中心」とか、「中正」とか、「中庸」とか、やはり「中(ちゅう)」ということに非常に優れた特性を持たせて使うということがたくさんあろうかと思いますし、人間人生生きていくうえの一つの心得るべき徳を昔からいろいろなところで説かれているように思うんですが、東洋のほうを見ます前に、これはやはり世界的にやはり「中(ちゅう)」とか「ほどよさ」というようなことを言われているものなんでございましょうか。
 
中村:  そうですね。世界のいろいろの文化圏の伝統についてみますと、「中道」とか、あるいは「中庸」ということは、昔から説かれていることでございます。東洋では特に強調されていますけれども、決して東洋だけではないのでありまして、西のほうを見ますと、西洋でもやはり昔から説いていることがございます。例えば、イスラエルでは、ソロモンがこういうことを言っています。
 
     蜜は甘くて美味しいものだ。
     しかし、それを食べ過ぎると吐き出したくなる
 
と、そういうようなことも言っています。ギリシャでは伝統的にこの中庸の徳が説かれているんでございますね。例えば、ソロモンはこの度を過ごすな、というようなことを教えたと申しますし、そして「適度ということは健全な徳の姿である」ということを、哲学者のヘラクレイトスも説いております。「われわれ人間は節度を守らなければならない。快楽の奴隷となってはいけない」ということをソクラテスも説きましたし、殊にアリストテレスになりますと、中庸の徳を積極的に考察して論議致しております。例えば勇気とはなんであるか、と。それは無法な無茶なことであってはならない。これは過ぎているほうですね。反対に臆病でビクビクしている。これもいけない。その中間のもっとも適当な度合いを保つこと、それが勇気である、と。その他、他の人間のもろもろの徳に関しても同様にこの中庸を守る、と。適切である、ということが大切である、ということを説いておりまして、これは西洋の思想史においてよく知られていることでございます。目をこちらへ転じますと、お隣の中国では、これはもともと「中庸」という言葉が中国の言葉として定着しておりますですね。「程良さ」と申しますかね。
 
奈良:  「中庸」という言葉は、よく現代でも使う言葉でございまして、ほんとに程良さとか度を過ぎないという意味でよく使われるようですけども。
 
中村:  『論語』に出ておりますですね。そして孔子の孫の子思(しし)が書きました『中庸』という書物がございます。そこでは「中庸」ということが中心のテーマになっているわけです。それはどういうことか、と。日本でも『中庸』はよく読まれた書物ですが、儒学者の中村タ斎(なかむらてきさい)(江戸前期の儒者。天文、地理、制度史に通暁、朱子学を奉じ、当時伊藤仁斎と並称)という人は記しました注解によりますと、程よいことであって、前後どちらにも傾かず、左右どちらにも倒れないことである、と。ちょうど的(まと)に当たっていることである、という意味に解釈しておりますが、それを実践します場合には、「中行(ちゅうこう)」ということを申します。これも中国では古くから説かれていることでございまして、中庸を守って実践する、と。我々にもよく知られている言葉でございますが、「過ぎたるは猶お及ばざるが如し」と申しますでしょう。
 
奈良:  よく普通に使う言葉で、現代でも生きている言葉ですね。
 
中村:  そう思いますね。我々の生活に当て嵌めてみましても、本当に当たっているんじゃないでしょうかね。お薬が効く。しかしお薬を摂り過ぎちゃいけないんですね。それからまた適当な量だけ摂らないと効かないわけなんですね。ちょうど適切な度合いということがこの人間の生活に必要なんじゃないでしょうか。
 
奈良:  インドではどういうふうに説かれているんでございましょうか。
 
中村:  インドでも、「中」というのは、昔のサンスクリットの言葉で、「マドゥヤ」というんですがね。これは、「中(なか)」、あるいは「中心」という意味でございます。二つ何か対立している場合に、どちらにもとらわれない、ということをジャイナ教でも説くんです。
 
奈良:  ジャイナ教というのは、仏教の姉妹仏教と申しますか、釈尊が世に出られた頃、ほぼ同じ頃に出た宗教ということを聞いておりまして、
 
中村:  そうなんです。
 
奈良:  今日のテーマが「中道」で、当然仏教との関わりで、私ども知っているわけなんですが、何かこう度を過ごさないとか、バランスをとるとかというのは、勿論わかるんですけれども、真ん中とか中道といいますと、右と左の真ん中でありさえすればいいんだ、と。ですから、全体が右にいっていると、中道も右のほうにいくとか、全体が左に傾いている場合には中道も左にいってしまう、と。なんか非常にフラフラと、中道というのは何でも真ん中でありさえすればいいんだ。なんかそんな受け取り方もちょっとするんですが、その辺はどう考えたらよろしゅうございましょうか。
 
中村:  確かに世間ではそういう受け取り方もなされていますね。「中道」という言葉は仏教の「マドゥヤマー・プラティパッド」という言葉を、漢語に訳した場合に作られたものです。だから大きな漢和大辞典にも出ておりませんですね。仏教独特の観念だと思うんです。今申し上げましたように、ジャイナ教なんかでも、「二つの極端にとらわれるな」ということをいうんですが、仏教はそれを受けまして、「二つの対立した極端にとらわれるな。さらに中(ちゅう)にもとらわれるな」という教えが『スッタニパータ』に出ているんですね。それは今おっしゃいましたように、二つの極端があると、それを合わせて、足して二で割る、と。そういうことにまたとらわれてはいけない。本当に適切な、要点にピタッと当たるということが必要である、と。「中(ちゅう)」という字はこれは「あたる」とも読みますね。
 
奈良:  そういう名前の方もいらっしゃいますですね。
 
中村:  そうですね。本当に適切な、要点にぴたっと中(あた)るということが必要である、といいます。「中道」という言葉をまた漢訳の仏典では、「主要の道」とも訳していることがございます。「主要」というのは「要(かなめ)の道」ですね。その肝心要のところにピタッと当たる、という。それが中道の精神なんです。
 
奈良:  ということは、とにかく右と左と両極端があって、その真ん中でありさえすれば何でもいい、ということではなくて、その真ん中だということがキチッとポイントを押さえた、要を踏まえていなければいけない、ということでございますね。
 
中村:  そういう意味です。同じ平面の上に二つの対立したものを並べまして、それだけで考えて中と言いますと、そうすると、足して二で割るというようなことを考えがち、あるいはどっちつかずということになるおそれがありますけど、そうじゃないんですね。人間の現実の生活というのは非常に複雑なもので、いろいろな面を含んでおりますね。だから何かの問題にぶつかった場合には、こういう点からみればこうであると考えて、他の次元から考えるとこうである、と。いろいろな面から考えてみまして、そのうえでもっとも適切な解決の仕方はこうだと目途をつける。それが中の精神です。
 
奈良:  とにかく肝心の要を押さえている。そこが中道ということを考える時に一番大切な、それこそ要のものじゃないかと思うんですが、これは中道という言葉はかつて政治などの世界に使われたことがございますし、いろいろな意味合いがあるんですが、本来の意味をもう少しいろいろ伺っていきたいと思うんですが、仏典の中から一つ文章を読ませて頂こうかと思いますが、
 
     修行者は二つの極端に近づいてはならない。
     一つは、もろもろの欲望において欲の快楽にふけることであり
     ・・・他の一つは、自らを苦しめる苦行にいそしむことで、
     両者ともためにならないものである。
     人格を完成した人は、この両極端に近づかないで中道を悟ったのである。
           (『サンユッタニカーヤ』)
 
『サンユッタニカーヤ』でありますから、原始仏教の中でも比較的古層に属する古いものかと思いますが、ここで二つの極端、それでもろもろの欲望、快楽ということと、苦行ということを対比しておりますんですが、もう少しこの辺の事情をご説明、お教え頂きたいんですが。
 
中村:  最初期の仏教が起こりました時代には、世間にいろいろな思想家がいて、またいろいろの実践の仕方をとっていた人々がいたわけです。分類することは難しいんですけれども、大まかにわけまして、ある人々は快楽に耽っていた、と。快楽を追求することが人生の目的があると思っていた。また他の人々は身を苦しめる苦行に耽るのが、それが宗教の本質である、とそう考えておりました。ところが釈尊の立場というものは、そのどちらも間違っているというわけなんですね。我々の問題として今度考えてみますと、今の世の中では、苦行に耽って身を苦しめるという人はあまりいないかと思うんですがね。しかし当時は実際にいたんですね。仏典にも苦行の有様が出ておりますが、これはほんとかしらと思うことがあるんですがね。何にも食べないで断食の行を何日も続けるとか、あるいは立ったままで寝ないとかね。けれど、インドに行ってみますと、実際おりますですね、まだ。
 
奈良:  今日インドでも、私どももいろいろなところで苦行者に出会っておりまして、現在でさえそれだけおりますので、古代の釈尊の時代、古い時代にはもっとたくさんの苦行者がいたろうとほんとに思いますですね。
 
中村:  私も経験しましたがね、ベナレスですね、宗教的な都市ですが、あの海岸でイバラをずーっとこう積んでいまして、中に人間の死骸が横たわっているんですよ、ほとんど裸で。あ、これは火葬にするところがある、とビクッとしたんですね。よく見ていますと、その遺骸がピクピクと動くじゃないですか。つまり苦行者がそういうところで寝ているんですね。あ、昔典籍に出ていた苦行を行う人がまだいるんだなあと思いました。ただ、だんだんそういう人も少なくなりまして、その後私はベナレスへ何遍も行きましたけどね、見かけなくなったんです。どうしてだと聞きましたら、「この頃は流行(はや)らなくなったんだよ」というんですね。
 
奈良:  それでも少し奥まったところへ行きますと、昔風の苦行の伝統はまだ続いていると聞いておりますですね。
 
中村:  そのようですね。現に立ったままで十何年も寝たことがないという、そういう苦行者に、あなたは会われたんじゃないんですか。
 
奈良:  はい。写真も撮ったりしたことがございましたんですけれども、足が、天井から紐で台のようなものをぶら下げまして、休む時にはそこへ寄り掛かって休むんですね。ですから横になることはないんで、そうしますと足が―血が下がるというんでしょうか、ほんとに脹れあがりまして、とってもこれでいいのかしら、と思うような、足の形が変わって、見ていても目を背(そむ)けたくなるような状況なんですが、それでもあと二年経つと、それが満行である、と。全部済むというようなことで一生懸命やっておりましたですけれども。
 
中村:  仏典にそういう記載がございますしね。それからギリシャ人の旅行記にインドの苦行者は異様なことをする、と出ているんですよ。ほんとかなと思ったら、やっぱりほんとなんですね。インドのジャイナ教徒は現在でもまだそれほど酷い苦行じゃないですけど、我々から見ると苦行と呼ばざるを得ないようなことをやっておりますですね。
 
奈良:  そうした苦行をやる一つの修行として、苦行があったと同時に、やはり釈尊の時代には今度は極端な快楽に走るという考え方と言いますか、生き方といいますか、あるいは宗教的行法(ぎょうほう)としても、快楽を追求するといういったようなものもあったと聞いておりますが。
 
中村:  そのようですね。今日の我々の問題としてみますと、快楽に耽るというほうが問題になると思います。自ら身を苦しめる苦行をやる人はだんだん少なくなっています。昔何故そういう人がいたかというと、これはやっぱり苦行によって呪力(じゅりょく)を身に蓄えると。それで不思議な力を現ずる、というところからきているようなんですが。で、魂が穢(けが)れているからその魂を浄らかならしめる。こんにちはそちらのほうはあまり問題にならないで、むしろ快楽に耽るというほうが問題になっているんじゃないですかね。
 
奈良:  現代でも先ほど苦行と快楽追求と、両極端とおっしゃいましたけれども、現在の社会では別に極端じゃなくなって、ごく普通になっているような面がございませんでしょうか、快楽に関しては。
 
中村:  そう思いますね。これは人間の生活がだんだん楽になる。戦時中は我々のような年輩の者は、どうしても生活も苦しかったし、苦行を強いられていたわけなんですが、この頃は万事が安楽になりましたので、そうするとそれだけで人は満足しないで、もっともっと快楽を追求する、と。これは昔のインドでも見られることでございましたけれども、殊に釈尊の当時には都市人に富が蓄積されて、その富を使って快楽に耽るという現象は顕著だったんです。それもよくないと言われますが、これは現代の我々としては大きな意味を持っていることじゃないかと思います。
 
奈良:  釈尊ご自身も出家をされまして、「六年苦行」と普通に言われますけれども、苦行されて、そして苦行を捨てて、菩提樹の下で瞑想をして悟りを開いたということがございますね。
 
中村:  そうです。つまり釈尊の生涯そのものが、二つの生き方に対する反応を示しているわけです。若い時は国王の長子として王宮の中で育ったから非常に栄耀栄華を極めていたわけですね。しかしその生活に満足することができなかった。今度は出家して苦行者の元で苦行を六年行った。それでもう身体も痩せさらばえて、これじゃダメだということを悟られた。そこでどちらでもない、本当の生き方は何だろうと思って、瞑想に耽って、そこで悟りに達せられたと、そのように伝えられております。
 
奈良:  釈尊がやはり王宮にいた時に―これは後代の伝承ですからどこまで歴史的にみていいかどうか知りませんけれども、「三時殿(さんじでん)」と言いまして、暑い時と寒い時と雨期のそれぞれの時期に相応しい屋敷に女性とともに住んでいたと書いてございまして。
 
中村:  そうなんです。お屋敷が三つあったというんですね、宮殿が。
 
奈良:  ですから、釈尊が愛欲と言いますか、快楽の追求というものを自ら体験しておられたということ、そしてそれが一転して激しい苦行を行われた。結局その両者を捨てて中道を説かれたということが、その体験を踏まえているだけに、とっても意味があるような感じがするんですけれども。
 
中村:  そう思いますね。その二つの対立した生き方が、どちらも人間の本当の生き方を示すものではない、と。本当の道は何だろう、というところに問題が展開したわけです。
 
奈良:  そこに出てきたのが中道ということでございますね。そうしますと、両極端を捨てて、釈尊自身が自ら体験された両極端を、これではダメだと捨てている。ある意味では、釈尊が捨てられた苦行は私どもも行いませんけれども、ある意味では快楽を一生懸命現在に追求しているといったことはどうもありそうでございますね。
 
中村:  そう思いますね。快楽というものは、一つ追求して満足しますと、それで満ち足りないで、また次のものを追い求める。果てることがない、と昔から言われておりますが。
 
奈良:  結局自分の身を苦しめることになりますので、その辺を釈尊の教えというものが、中道ということを一番修行の根本にした、ということかと思うんですが、それでは一体中道というのは、当時釈尊の出た時代の一般的な傾向として、そういう修行者があり、その両極端に走る人々がいる。同時に哲学的な面におきましても、いろいろな極端なものがあったと聞いておりまして、その一つの例をちょっと読ませて頂こうかと思います。
 
     カッチャーヤナよ、世間の人々は多くは二つの立場に依存している。
     それは即ち「有」と「無」とである。
     もしも人が正しい知恵をもって世間の現われ出ずることを如実に観ずるならば、「無」はありえない。
     また、人が正しい知恵をもって世間の消滅を如実に観ずるならば、「有」はありえない。
     ・・・人格を完成した人は、この両極端に近づかないで、中道によって法を説くのである。
            (『サンユッタニカーヤ』)
 
これも古い原始仏典の一つ、先ほどと同じでありますけれども、ここに「有」と「無」という言葉がありますが、ちょっと難しいですが、教えを頂きたいんですが。
 
中村:  そうですね。当時はいろんな思想家がいたわけです。人々はこの精神の拠り所を失っていたわけです。必然の如く人間の運命はもう決まっているんだ。努力したってダメだ、というような人もいる。またそうかと思うと、すべては偶然に支配されているんだから、なるようになれ、と言って深く考えない人もいた、と。それから片一方では快楽に耽る人もいたし、また片一方では苦行に耽る人もいました。あるいはもう考えることなんか止めてしまえ、という懐疑論を説く人もいたし、まあいろいろだったわけですね。そのいろいろの考え方を整理をしますと、結局「有」を説く思想と、「無」を説く思想とに帰着するというわけなんですね。人間の観念とか概念というものはたくさんありますけど、それをずっと整理しますと、最後は有と無の対立に帰着すると思うんですね。
 
奈良:  自分というものがはっきり有るとか無いとか、世界が有るとか無いとか、こういうかなり哲学的な意味でもありましょうけれども、
 
中村:  有のほうは肯定するわけでしょう。無のほうは否定するわけです。そのどちらかへ帰着する。そのどちらも対立の一方であって、本当の正しい見解ではないというのが、今の言葉の主旨です。有になずむ人もいる、と。けれども我々が有ると思っているものはみんな消え失せるじゃないか、というんですね。それから無にとらわれて、すべてを否定する人もいる。けれども、現実にいろいろな事柄が現れ出るというのはこれも疑えないことでしょう。そうすると、どちらも対立した見解である。本当は有も無もともに生かして、ありとあらゆるものは縁起によって現れ出る。いろいろな因縁―原因、条件が集まって事柄が現れ出て、また消え失せる、と。それをあるがままにみようというのが「縁起」の教えでございます。
 
奈良:  今、大変私には大切だなと思われることを、先生がおっしゃったように思うんですけれども、有るということ、これを否定もしない。それから無いということに、つまり有るということに、有るんだぞ、って拘らないし、無いということにも拘らない。その両方を生かした形で、しかも正しいものの見方、それが縁起だという。そういう趣旨のことを今先生がおっしゃったんですが、
 
中村:  非常に現代的な表現を使いますと、すべてをプラスとマイナスで片付けるというような考え方がございますね。そのどっちにもとらわれるな、と。やっぱりプラスとマイナスと両方あるわけでしょう。
 
奈良:  そうですね。すべてプラスだと言えば、マイナスが消えてしまいますし、マイナスだといえば、プラスが消えてしまう。その両方をやはりそれぞれの立場において認めながら全体を引っくるめる形でみていかなければいけない。そうしますと、それが縁起という見方であると考えてよろしゅうございますか。
 
中村:  そういうことになると思います。
 
奈良:  縁起というのは、読んで字の如く、縁(よ)って起こる、という。
 
中村:  そうなんです。縁って起こると。
 
奈良:  なんかそれだけの一つの存在を認めないこと、というふうに、確か聞いておりますんですが。
 
中村:  そうです。互いに依存して成立している、ということですね。何も孤立したものはないわけです。必ず他のものを予想して、それに縁って起こっている、というのが縁起の思想でございます。
 
奈良:  すべてが依存している。すべてが関わり合いの関係の中で存在しているから、その関わり方といいますか、関係を切っちゃって、これだけがあるよ、と言ってもダメだし、無いよ、というのもまた嘘になるし、それを全部「有と無」ということ、「有る」と「無い」ということを全部引っくるめた形でこの世の中のあり方を見ていく見方、あるいはそれに従う生き方、こう見ていくことになろうか、と。
 
中村:  そういうことになりますね。今お話に出ましたところは、「有と無」という抽象的な観念の対立ですが、これを現実の世界にあてがってみますと、大きな意味を持っていると思いますね。どんな人だって孤立して存在しているんじゃない。お互いに他の人々と関わりを持って、他のものに依存してですね、あるいは平たい表現で言えば、他の人々のお陰を受けて生きている、と。なかなかそこまで私たちは反省しませんけど、よく考えてみるとそうなんですね。縁起の理(ことわり)からそういう点を気付かされると思います。
 
奈良:  そうしますと、縁起のものの見方からしますと、「有とか無」とか、「これだ」と一つに決めつけてしまうと、やはり正しい言い方にはならない。こういうことかと思いますけれども、釈尊がなんで「中道」ということをお説きになったのか、今言ったような、有でもない、無でもない。あるいは有がある、無がある。それを超えた言い方というのはやはりかなり哲学的な言い方になるかと思うんですが、先生にお選び頂いた仏典の中から、実はなにゆえに釈尊が中道を説かなければならなかったのか、ということを示した文例がございますので、一つご紹介を致したいと思います。
 
     「世界は常住(じょうじゅう)である」という見解があっても、
     また、「世界は常住ではない」という見解があっても、
     しかも、生あり、老いあり、死あり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。
     わたしは、いま、まのあたりにこれらを制圧することを説くのである。
            (『マッジマニカーヤ』)
 
『マッジマニカーヤ』からの引用で、『中部経典』と普通訳されている経典でありますが、ここに世界が常住だとか、常住でない、というのが有と無の、今のことだろうと思いますですね。
 
中村:  そうですね。有と無の対立を世界の問題に当て嵌めると、そういう議論になると思いますね。
 
奈良:  いろいろと有とか無とか議論したところで、結局私どもにとって一番大切な如何に前向きに生きていくか、という。つまり生、老、病、死を始めとし、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶え、そうしたものがあって、それとは関係がないではないか、というようなニュアンスがここにございまして、むしろそうしたものを目の当たりに制圧することを私は説くのだ、と釈尊はこうおっしゃるわけなんですが。
 
中村:  そう思いますね。当時世界についてもいろいろ哲人たちは思索を行いまして、対立した見解があったわけなんです。この世界と言いますか、宇宙というものは、これは永久に存在するものか、あるいはある場合に消えてなくなるか、ということですね。あるいは宇宙は広がりが無限にあるものであるか、あるいはどこかで限られているか、ということを論議しているわけですが、現代の天文学だっていろいろ専門の大家が論議しておられますでしょう。この世界は有限かどうか。例えば最初にビッグバーンなんていうものがあってですね、宇宙が現れたどうか、ということを言われますですね。それからやがてはブラックホールに飲み込まれるとかどうだ、と。けど、我々素人にはわかりませんから、所詮そういう議論は専門家に任せておいて、我々のいのちというのはもう限られていまして、何億年も生きることはないんですから、それよりも与えられた命、自分の生涯を如何に生きるかということ、それが肝要な問題である、と。だから解決できない問題には今すぐとらわれるな、と。まずめいめいの人がどう生きたらいいか、ということをそれぞれ考えようではないかというのが出発点であります。
 
奈良:  釈尊はそうした解決のつかないような問題、問いを発せられると、お答えにならなかった、ということを聞いておりますんですが。
 
中村:  そうなんです。つまりそれに対して、「イエスか」「ノー か」と言って返事を迫られた時に、釈尊は答えを与えられなかった、というんです。それを仏典では「無記(むき)」と申しますがね。二つの対立した意見が、或いは命題があるという場合に、どちらでもないというんですね。それから離れているわけです。
 
奈良:  確かに今先生が、ビッグバーンとか、現代の天文学のことをおっしゃられたわけですが、確かに現代に生きている私どもとしまして、宇宙がどうなっているのかとか、終わりがあるのかとか、無いのかとか、それは一つの知識として、関心がないといえば嘘になるんで、知識としてはどういうことになっているんだろうか、と本を読んだり、聞いたりするんですけれども、実はそれを言ったところで、私どもで結論が出るものではなし、むしろ専門の学者の方でさえ、まだ結論がきっと出ていないようなことでありましょうし、ただ一つはっきりしていることは、そうしたことはいわば私どもの知的なお楽しみとしては会話になるけれども、自分が如何に生きていくかということに関して、あんまり問題になりませんし、むしろもっと別に重要な、そちらの面で考えていくべきことがたくさんある。釈尊がそうした問題にお答えにならなかったという意味は、むしろはっきりした答えを出せないではないか、ということ以上に、そんなことにあんまり余計に頭を使うな、というお示しもあったのでございましょう。
 
中村:  そう思いますね。どちらに対しても答えを与えないというのは、ただ逃げたという意味じゃないんです。西洋の人はそういう立場、最初は理解し難かったと思います。アメリカ人でパーリ語の仏典を翻訳しましたウオーレンという人が翻訳しながら、その中で書いているんです。「無記というのは、これは西洋人にはちょっと理解し難い態度かも知れない」というんです。しかし考えられないことはない、と。例えばある人が面と向かって、「君は君のお母さんを殴ったことがあるかい」と聞いた場合に、そんな失礼な答えには返事をしないだろう、と。返事をしないということは、西洋にだってあるんだ、というんですね。
 
奈良:  なるほど。面白い例でございますね。
 
中村:  私はこれは面白いと思いました。アメリカの大学でちょっと申しましたんです。そうしたら学生が手を挙げて申しますね。「あなたのお母さんを」というところを、「あなたの奥さんを」と言ったほうがもっと我々には響く、といって笑ったことがありますが。
 
奈良:  「あなたのお母さんを」とか、「奥さんを」と、そうした失礼な質問に対して答えようもないという。やはりそこに単に答えが出ないよ、ということ以上に、そこに一つの姿勢が示されているわけなんですが。
 
中村:  姿勢が示されている。はっきりした哲学的立場と言えると思います。
 
奈良:  そうしますと、釈尊の一番そうした哲学的な有とか無とか、そうしたものの拘りを捨てて、そういう質問には答えずに、一番力を注がれたのが、先ほどの読んだところにございましたけれども、生・老・病・死の問題ですね。
 
中村:  そうです。この生・老・病・死ということ、これ人間には付きものでしてね。人間の生存の本質的なものだと思うんです。それを逃れることはできない。だからそれに対して我々がどういう立場をとって、どのように生きていったら良いか、ということが釈尊の関心事であり、それが教えとなったわけですね。
 
奈良:  釈尊が出家されたのも、人生の不安、苦しみを解決するためとも言われておりますし、おそらくそうであろうと思いますけれども、人間というものが必然的に人生生きていく中にいろいろな悩み、苦というものを避けることができないものとしていろいろ抱えていますですね。
 
中村:  それは人間が生きている限り避けることはできない。じゃ、他の人だって同じじゃないか。そこで人に対して言葉を持って説くということが始まったわけですね。
 
奈良:  いろいろに四苦八苦(しくはっく)というものに関して、釈尊は如何にしてその苦というものを克服していくかということを説かれたということなんですね。
 
中村:  そうだと思います。
 
奈良:  先ほどの仏典の中で、生あり、老いあり、死あり、憂い、苦痛、嘆き、悶え、一つ一つ読み過ごしてみると、何でもないんですけれども、私どもの毎日の生活に当て嵌めてみますと、それぞれに思い当たるようないろんな不安があって、仏典ではそれを「四苦八苦」と纏めて説くんでありましょうけれども、その解決の道が中道である、と。ですから有とか無とか、世界常住とか常住でないとか、そうしたような関心はもうどうでもいい、と。むしろそっちのほうに、中道を歩むことを心掛けるべきである、と。こういうことかと思うんですが、具体的に人生の不安、苦というものを、どのように解決したらいいのかと。どういうふうにしたら中道を歩みことになるのか。仏典の中から一つ読ませて頂き、又それをもとにいろいろお話を伺いたいと思います。
 
     (中道とは)・・・
     それは八支(はっし)の聖(せい)なる道である。
     いわく、正見(しょうけん)・正思惟(しょうしゆい)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・
     正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)である。
     これが人格を完成した人の悟り得た中道であって、
     これが眼を開き、智を生じ・・・涅槃におもむかしめるのである。
            (『サンユッタニカーヤ』)
 
これも『サンユッタニカーヤ』からでございますが、いわゆる「八正道(はっしょうどう)」と普通に言われておりますものが、それが中道なんだ、というふうに、ここで書かれておりますんですが、八正道の正見、正思惟以下難しい言葉かも知りませんね。ごく簡単にこの辺からお話を頂きたいんですが。
 
中村:  中道というのは、ちょうどピタッと肝心要のところに当たる道だ、ということになりますね。それを正しい道とまた別にいうわけです。正しいというのは、ある意味で完全な生き方、と。原語は、元の言葉では解することもできるのです。それを具体的に我々の生活に当て嵌めてみますと、仮に八つ立てるというんですね。これもある時代に纏めていわれるようになったんですが、「正見」というのは正しい見解ですね。それから「正思惟」というのは正しい思いです。何々しようと思うという、その思いですね。時には「正思」の「思」を「志」という字を当てて訳していることもございます。それから「正語」というのは正しい言葉。「正業」というのは正しい行いです。「業」というのは行いのことです。それから「正命」の「命」というのは、生き方、生活法のことです。それから「正精進」の「精進」というのは努めることですね。だから正しい努め。正しい努力ですね。それから「正念」というのは正しく心を向けること。そしてその結果心が統一するのが「正定」であります。一応そのように解せられるんでありますが。
 
奈良:  今、八つございまして、正しく努力するというのは一つの努力して生きていくという姿勢ですから、それはそれでよろしいですね。「正念」―正しく思いを向けるとおっしゃられました。それから「正定」が心の統一、と。これはそれなりの一つの努力といいますか、修行のかなり大きな徳目になるんですが、その前の五つというのは、正しい見解、つまり間違っていない。ただいろんなことについて正しい考えを持ちなさい、と。正しく考えなさいとか、正しく口をききなさいとか、正しく行えなさいとか、正しい生活をしなさい。これはもう宗教的な生き方を心掛けるとか、信仰があるとか無いとかでなくって、もう生きている人間にどうしても関わってくる生き方。生活の必然的な身体、心の動き。
 
中村:  そういうことになりましょうね。誰でも本気に考える人だったら、こういう事柄に関しては異論はないと思うんです。ただ現実的にそれをどう生かすか、ということになるといろいろ問題も出てきましょうが。
 
奈良:  ごく普通の生活のさまざまなことを、正しい方向で心掛けていくということで、それが先ほど来、ずーっと承ってまいりました「中道」という、真実というものを踏まえ、肝心なポイントを押さえた生き方そのものなんだ、と。中道を生きよとか、中道実践といいますと、とてつもなく難しいように思うんですけども、今こうした「八正道」のお話は伺っておりますと、ごく身近なものとして、どうも考えていかなければいけないんじゃないかと、そのような気がするんですけれども。
 
中村:  そうですね。一言で纏めたら中道になるでしょうけど、けど、それを人間の生活のいろいろな面に当て嵌めて、分けて考えると八つになる、と。別に最初のうちは八つと纏めることもなかったようです。五つぐらいに纏めていることもありますしね。まあそこのところはあまりこだわれなくていいと思うんですが。
 
奈良:  確かに正しい生き方とか、正しい考え方というのは、ある意味では非常に抽象的な言い方でございまして、要するに正しい生き方ですよ、と一つに纏めてしまえば纏まらないわけでもない。それだけ八つにわけてきて、解りよくやったんでしょうけれども、しかしそれでもなおかつ、あまり具体的に教えられているとも言いませんで、もう少し具体的な生き方で、この「八正道」をより具体的に展開した教え、戒律のほうとも関わるんじゃないかと思うんですが、もう少しその辺の、むしろ具体的にどうしたらいいんだというようなことをもうちょっと教え頂きたいんですが。
 
中村:  そうですね。今度具体的にどのように実践するか、ということにつきましては、五戒とか、八斎戒(はっさいかい)とか、或いは十善戒(じゅうぜんかい)とか、いろいろまた分けて説かれるようになったわけですが、五戒というのが一番普通でして、その仏教徒たる者は誰でも五戒を守るべきであるとされておりますが、その第一が、「生き物を殺すなかれ」ということですね。
 
奈良:  「不殺生(ぶせっしょう)」とよくいわれる。
 
中村:  不殺生です。「殺生なことをするなよ」というようなことを世間でも申しましょう。酷いことするな、という意味ですね。人間は、勿論如何なる生き物でもみな命を持っている。だからそれぞれの人、あるいはそれぞれの生き物にとって一番大事なものは命だ、というんですね。だからそれを大事にせよ、と。人の生命を奪うということが、最大の悪である、と。だから仏教では、殺してはならん、ということをいうわけです。そして殺すなかれ、ということを、できれば人間に近いような獣にも及ぼそうとする、と。これが他の宗教と違って、仏教の慈悲の気持を及ぼす範囲が広いということが言えましょう。
 
奈良:  生き物は慈悲を及ぼせ、といったようなことがよく書いてございますね。
 
中村:  そうなんです。生き物に慈悲を及ぼす、と。これはある意味では人間性に根ざしていることだと思うんですね。というのは、西アジアや西洋では、そういう思想はなかったわけですよ、昔から。ところがやっぱり人類の文化が進みまして、反省をするようになる。そうすると、近世になりますと、動物愛護ということをいうようになったでしょう。こんにちはある意味では世界的な動きになってきますね。これはやっぱり人間というものは仏性(ぶっしょう)といいますか、仏の心を持っているわけですから、それに目覚めるようになったからだと思います。
 
奈良:  確かに最近ほんとに自然とともに生きるとか、自然環境保護とか、ほんとにいろいろいうわけですけれども、まあこれは歴史的にどういうふうに解釈していいか難しいんじゃないかと思うんですけれども、確かに今先生がおっしゃいました通り、欧米といいますか、西のほうの世界では、特に動物を愛護しましょう、という、姿勢が出てきて愛護しようという行為が行われている。東洋のほうは、むしろ古い昔から生き物の命を憐れんでいくといいますか、不必要に奪うことがないようにとか、そういう教えになるわけでございますね。
 
中村:  歴史的には南アジア、東アジアのほうが生き物を憐れむという、そういう伝統が強く根強く続いてきたと思います。大昔のことは知りませんけれども、やっぱり仏教だとか、ジャイナ教だとか、道教だとか、そういうものが広がりましてね。我が国の神道だって、仏教の影響もあったでしょうけど、西洋のような残酷な犠牲を捧げるというようなことはありませんでしたものね。
 
奈良:  今、五戒の中の、ことさらに生き物の命を取らないということで伺いしてきたわけなんですが、こうしたことが具体的な一つのあるべき行為、いわば努力目標としておかれていく。むしろそうしたことを努力目標としておきながら、生きていくのが、先ほどの正しい見解であり、正しい思いであり、正しい行為であり、正しい生活であるというふうに繋がっていくんでございましょうね。
 
中村:  そういうことになると思います。というのは、生き物を殺すなかれ、だけを申しましたけれど、「盗みをするなかれ」。これはどの宗教でも説くことですね。仏教では与えられないものを盗ってはならない、と。そういう具合に解釈されます。それから「邪淫(じゃいん)を行うことなかれ」。これは男女の間を乱してはいけない、ということですね。それから次は言葉に関することですが、「偽りを語ることなかれ」と。その他仏教では、人を傷付けることを言ってはいけない。人の仲を裂くというようなことを言ってもいけない。罵(ののし)ってはいけない。それから飾って言ってはいけないとか、いろいろ付け加えて説かれています。精神は同じことです。
 
奈良:  五戒という言葉でよく言われるんですが、いつもこの五戒というのを考えます時に、生き物の命を殊更に奪わない、ということもなかなか―「殊更に」というのが付きますからまだ救われるんですけれども、嘘を付かないなどということに至りましてはとてもできようとも思えないわけなんですが、
 
中村:  これは多面的に事柄を考える必要があると思うんですね。人間はいろんな関係に置かれているわけでしょう。ある人を匿(かくま)っている。そこへ悪者が来て、「お前、匿っているんじゃないか」と言った時に、我々なんと答えたらいいか、というわけですね。うっかり匿っているということをいいますと、そうすると悪者がほんとに入って来て、その人を殺すかも知れないでしょう。そういう場合には、やはり人間の真実を実現するというところに重点をおいて処理すべきだ、と。人間の関係はいろいろあるわけですから、だから今ここでは自分が匿っているこの人を大切にするということがもっとも真実の行いであると思えば、悪者を追っ払うために嘘を言ったって、それはかまわないということになるんだと思います。
 
奈良:  極めて教条的に言葉尻を捉えるような形で、嘘をつくな、というようなことではなくて、もっと状況に応じて、その状況に応じての判断というのも、今よかれと念ずると言いますか、自分の正しいと思う生き方を根底においてそれを守っていくという。
 
中村:  人間としての真(まこと)を実現するということになりましょうね。
 
奈良:  そうしますと、五戒を実践するという大変難しい問題も、同じように考えてよろしいわけでしょうか。
 
中村:  すべてどの戒律も、それに基づいて解決できるんじゃないでしょか。そうでなくて、ただ文章として表れている戒律の項目だけを後生大事にするんだということになると、本当の精神が失われる怖れ無きにしも非ずですね。
 
奈良:  そうしますと、仏教でいう戒律というのは、法律がそうかどうかよくわからないんですが、文言(もんごん)通りにというよりは、その精神を汲み、趣旨を汲んで、そして真(まこと)を通すという―私なら私、各人みんなの自覚と言いますか、良心といいますか、そうしたものに従いながら実践していく。そういうことでございましょうか。
 
中村:  そういう具合に今まで我々の祖先が実践してきたんじゃないでしょうか。今、五戒のうちの四つまで申し上げましたが、最後は、「酒を飲むなかれ」というんですね。
 
奈良:  これはなかなか難しい問題でありますが。
 
中村:  前の四つは、それ自身が悪いことだ、と教義学のほうで解釈されている。ところが酒を飲むというのは、それ自身は悪いことじゃないけど、過ごすといかん。だから「遮(さいぎ)る戒(いまし)め」と言われているんです。あまり度を過ごすなよ、というわけですね。南アジアは暑い国ですからみんなほんとに厳重に守っている。ところがネパールから北のほうへ行きますと、その点がだんだん弛められて、日本ではご承知の通りですね、弛められているからと言って、それに安住してはいけないでしょうけれど、けれど風土なり社会生活の違いに応じて適当に実践するということが必要になるんじゃないでしょうか。
 
奈良:  お酒に関しては、日本、中国、寒い国でございますので、そうした風土的なこともございましょうけれども。
 
中村:  そうなんです。例えば朝鮮のお坊さんなんて戒律を厳重に守っていますがね。寒い時にはお酒を少々頂くのは許されているそうです。そうすると、我々が薬を頂くのと同じことになるんですね。
 
奈良:  願わくは、薬を飲むような形で頂ければよろしゅうございますけれども。
 
中村:  そこで限度をおくべきでしょうね。
 
奈良:  今の先生のお話がとっても「中道」ということを考える時に大切なことではないかなあと思いながら伺っておりましたんですが、先ほどのお話で、「有」とか「無」とか、或いは「中道」というものは、こうだとか、ああだとかという、はっきりと決めつけるのはかえって中道というものの趣旨に反する。
 
中村:  そうです。「中(ちゅう)にはとらわれるな」ということを仏典では教えているわけですから。
 
奈良:  しかしそれでは何をやってもいいかというと、そうじゃなくって中道という一つのはっきりしたものがある。それが先ほど「主要の道」「肝心要の道」とおっしゃいましたが、ポイントを押さえ、真実を押さえている生き方。しかもそれは今の五戒の解釈でもほんとうにそうなんですが、一人一人の人間がそれぞれの立場において、真(まこと)を尽くしていくという自分の心の中から出てくるものを基準にしながら努力をしていく。その意味では大変バランスを取った生き方を心掛けよ、という。
 
中村:  良い表現なさいました。ほんとにバランスを取ることです。
 
奈良:  「調和」という言葉もございましたけど。時間もございませんから、ストーリー全部ここでお教え頂くのは難しいと思うんですけれども、インドにも楽器をもとにしてあんまり糸を張り詰めてもダメ、それから弛(たる)んでも音は出ない、という例がございますね。
 
中村:  そうです。ソーナという坊さんに向かって釈尊が教えられた、というんです。楽器の弦があまり強く張っていてもいけない。そうかといってまた弛んでいてもいい音は出ない。ちょうど適切なところで張らなければいけない、ということを教えられている。その通りだと思います。
 
奈良:  中道ということをずーっと伺ってきながら、結局現実の、私どもの生き方の問題にほんとに直結したものでありまして、先ほど「両極端を離れる」と申しましたけども、いろいろな意味で極端に走ることを自分で抑制し、調和を心掛けていく。現代の私どもの生きている社会というのは、私自身なども含めて、いろんな意味でバランスの取りにくいといいますか、取ることの難しい世の中になっていると思いますんですけれどもね。
 
中村:  突き詰めて考えますと、めいめいの人の問題になると思うんですね。一律にはいかない面があると思います。「中道」と申しますか、あるいは音楽に例えていうと「和」ですね。それをめいめいの人が実現するということに帰着するんじゃないでしょうか。
 
奈良:  決して「これが中道ですよ」と言って、その法律のように一から十まで書いていて、それを文字通りの意味で守っていくということではなくて、あくまでも真実を踏まえ、真(まこと)を通すという基本を押さえながら、努力して生きていく。それが自ずと、「中道」と言いますか、真ん中を正しい道を歩く生き方に通じていかなければいけない。むしろそういう生き方を心掛けていくのが「中道」であり、その実践であり、仏教の教えといいますか、東洋の心であると。こういうことかと思うんですが。
 
中村:  そういうことに帰着すると思います。
 
奈良:  「中道」ということでいろいろ伺ってきたわけでございますが、本日は大変有り難うございました。
 
中村:  有り難うございました。
 
     これは、昭和六十三年五月二十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである