東洋の心を語る B汝自身を知れ
 
                          東方学院院長 中 村  元(はじめ)
                          駒沢大学教授 奈 良  康 明(やすあき)
 
奈良:  「東洋の心を語る」というシリーズの第三回目になります。本日のテーマは「汝自身を知れ」ということでございます。「汝自身を知れ」、結局自分とは一体何であろうか。自己とは何か、ということかと思いますけれども、毎日をどう生きていくか、ということにも関わるし、自己というものをどうとらえるのか、という哲学的な問題でもあるし、人類永遠の課題かと思うんでありますけれども、本日はこのテーマにつきましていろいろお話を伺っていきたいと思います。お話を伺います方は東方学院院長の中村元先生でございます。よろしくお願いを致します。
先生、本日のテーマが「汝自身を知れ」という―自己とは何か。自己をどう求めていくか、ということかと思うんですが、これは宗教のうえでも、あるいは哲学思想のうえでも、古来いろいろと論じられ取り上げられてきた問題であろうかと思うんでございますけれども、この辺から少しお話を伺いたいんでありますが。
 
中村:  「自己」と申しますか、あるいは「自分自身」ということは、我々が生きていくためにももっとも大切な事柄だと思うんです。古来の哲学、宗教におきましても、みな「自己とは何か」ということを問題に致しました。「自己」という言葉ですが、英語では、「セルフ(self)」と申しますね。それからドイツ語では、「ジッヒゼルプス(sich,selbst)」というような言い方もございますが、自分を反省して、そこで自己というものを見つめるわけです。この自己を知る、ということは非常に難しいことでありまして、私どもは漢字で「自己」と書いておりますが、その「自己」の「自」というのは、元は中国で自分の「鼻」を表した言葉だというんですね。
 
奈良:  顔の真ん中に付いている?
 
中村:  顔の真ん中に鼻がありましょう。これを漢字というのは象形文字ですから、それを象(かたど)って、それでああいう「自」という字を使ったというんですね。
 
奈良:  顔の中心にあってほんとにやはり自分のことをいう時に鼻を指して、「私」などという、
 
中村:  そういうわけなんですね。
 
奈良:  そうですか。なるほど。
 
中村:  つまり鼻が顔の真ん中にありましょう。顔は大事なものですから、真ん中にあるんだから非常に中心となる大事なものの筈ですが、しかし自分の鼻は見えないわけなんですね。
 
奈良:  そうですね。
 
中村:  他の人の顔なり、鼻は見えるわけなんです。自分の鼻を見ることができない。ということは、さらに考えてみますと、自分を見つめるとか、自分を反省する、ということは非常に難しいことです。けれども、自分の存在の奥に「自己」と言われるべきものがあって、我々の生き方を導いている、ということが言える。そこに示されているわけなんでございます。
 
奈良:  非常に面白い、いいことを教えて頂いたと思うんですが、「自己」の「自」というのは、「鼻」ということなんですか。
 
中村:  そうなんですね。
 
奈良:  従って、自分のことがよく見えないのも、そうなると当然なのでありまして、自分で自分の鼻は見えませんのでね。それだけに昔からギリシャ時代にも、あるいはインドにおきましても、中国におきましても、自分ではなかなか見えない自己、それをどう考えていくか、というので苦労してきたわけですね。
 
中村:  そういうわけですね。すぐにも捉えにくいけれど、しかし考えてみれば一番大事な事柄なんですね。「汝自身を知れ」ということは、昔ギリシャのデルフォイの神殿に掲げられていた句であるというので、一般に知られておりますが、学者のいうところによりますと、元は、「めいめいの人は身の程を知れ」という意味だったと解釈されておりますが、これがソクラテスによって非常に深い意味に解釈されまして、「めいめいの人の本当の自己を探求し求めよ」というところから哲学的な思索が深められたわけです。これは何もギリシャだけの問題ではないんでありまして、インドでは「自己を知る」ということは、ある意味でインド哲学の中心課題だったわけです。既にウパニシャッドの中で自己を知るということが大きなテーマになっておりまして、その後インド哲学二千数百年の歴史を通じて常に学者が論議してきたことでございます。
 
奈良:  自己というものを求めていくのに大変考える良い材料となる仏典の言葉がございますので、まずそれをご紹介しながらまたいろいろお話を伺ってみたいと思いますけれども、
 
     「わたしには子がある。
     わたしには財がある」と思って愚かな人は悩む。
     しかし、すでに自己が自分のものではない。
     まして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
               (『ダンマパダ』六二)
 
日本では『法句経』と知られているものでありますけれども、ここに「自己が自分のものではない」。ちょっと凄い表現だと思うんですけれど。
 
中村:  そうですね。非常に鋭い表現だと思いますね。これは私たち一般の生活を考えてみましても、自分に何か属しているものがある、と思うわけですね。自分には子どもがある。あるいは自分は財産がある。こういうようなものが自己を作り上げている。自己に属している。自分はそれに頼っている、と。安心だ、と。一応そう考えますが、しかし考えてみれば、それらは自分の自己として頼ることが出来たかどうか。例えば子どもを如何に愛しても、この世を去る時は自分は一人で去らなければなりませんね。何かの時には頼りにならない、と。それから財と言ったって、いくらお金持ちだってその財産をあの世に持っていけるわけじゃないんですから、そうするとやっぱり自己から切り離されたものです。だから本当の意味の自己とは言えないんではないか。だから頼りにならない。そんなら自分はどうしたらいいか。まず自分自身を調えるということが必要ではないか、と。そこへ思索がいくわけなんです。
 
奈良:  どうしても、財産、子どもにしても、今のお話のようにすぐ自分とは離れていってしまいますし、自分の自由にならない。そうしたら、物がほんとに自分のものだということはないし、だからこそ自分というものを求めていくということが、どうしても出てくるかと思うんですが、「自己を求める」ということが、昔からいろいろな形で試みられているかと思いますんで、自己を知るとは何か、と。ギリシャ以来いろいろ求める方が説かれているようでございますけれども。
 
中村:  この「自己」というのを、インド哲学、あるいは仏教哲学におきましては、どう表現しているかと申しますと、「アートマン」というんです。「アートマン」というのは、英語で言ったら「セルフ(self)」という言葉に相当するわけでして、自分自身を振り返って言及する時に使われる代名詞なんですね。その語源をみますと、インド、ヨーロッパ語のもろもろの原語を通じて言えることですが、「息」を意味する言葉だったんですね。
 
奈良:  呼吸ですね。
 
中村:  呼吸です。元は「アートマン」は「呼吸」という意味であった。英語でも「アトモスフィア(atmosphere)」と言いましょう。「アトモス(atomos)」というのはギリシャ語に由来するんですが、やっぱり風。動く風です。だから「呼吸」「息」というものは動く風ですから、アトモスで表現されたこともある。ドイツ語では「アートメン」というような言葉がある。呼吸することをアートメンというんですね。そこに繋がるわけですが、で何故そういう言葉を使ったかと言いますと、「人間の自己は何だろう」とこう考えてみると、そうすると命のある間は我々は息をしているとみたわけですね。すると息をしているその奥に自己があるだろうと思って、それで呼吸の現象に気付いて、それから自己を反省して、だんだん中に入っていったわけです。そこからインドの哲学的思索が始まるわけです。
 
奈良:  呼吸がなければ生きていけない道理でございますし、一番大事なもの、一番本質的なもの、それが自己ということになってきたかと思うんですが、その自己というものも実はなかなか大事だということは知っていながら、先ほどの鼻ではございませんけれども、自分のほうで特に求めようとはしないんですね。他の詰まらないものは求めるけれども、自己を求めるということをなかなか私どもよくやらないわけで、前に先生から伺ったことがございますが、中国の孟子になんか面白い喩えがあると伺いましたんですが。
 
中村:  ええ。孟子が言っていることですが、「人間が自分の持っている鶏とか、犬とかが逃げてしまうと、あっ、大変だと言って追っかける。けれども、自分自身を忘れている。どうしたことだ」と、まあ孟子は警句を放って反省させているわけです。これは仏教にも同じような喩えがございまして、「自己を求めよ」ということを一番適切にと申しますか、面白い物語で示していることがあるんです。それはお釈迦様がベナレスで教えを説いて、そしてまたかつて悟りを開かれたブッダガヤーの方へ歩いて行かれた。途中に林があったというんですね。そこで三十人の男性がいて、それで自分めいめいの奥さん連れて来てですね、それでまあ楽しんでいる。excursionでしょうね、遠足のようなものだろうと思うんです。ところがその三十人のうちで一人だけ妻がいなかったというんですね。その人だけ寂しくて可哀想だというんで、遊女を連れて来て、それで仲良く楽しんでいた。そうしたら気が付いてみたら、その遊女がその相手の人の大事なものを盗んで、こっそりと逃げてしまった。ああ、大変だというんですね。それでみんながあの女はどこへ行ったかと捜していたというんですね。ガヤガヤしていた。そこへお釈迦様が通りすがって、「どうしたんだ」と。「いや、これこれの次第です」と。そうすると、釈尊は、「何だ。君たちはそんなことで騒いでいるのか。婦女を求めるよりは自己を求めよ。お前たちは自己を忘れているじゃないか」と言われた。そこでみんなはハッと気付いて、それで釈尊に帰依するようになったという、そういう物語があるんです。
 
奈良:  たしかに品物ですと、私ども一生懸命捜しますですね。先ほど孟子の話ございましたけれども、ほんとに十円銅貨を落としても捜し求めるくせに、自分自身を捜し求めるということはなかなかしない。そういういろんなエピソードもございまして、その中から一体自分て何か、ということを求めていくんですが、なんかいろいろ哲学とか宗教の中に非常に難しい形で自己を求めるということがよくあるようなんですが、そうした哲学的なというか、非常に高度の修行が必要なような自己ではなくて、もっと生活の中に自己を求めていくということをブッダの教えの中にあると言いますか、つまり非常に生活実践の中で自己を求めていくという、そういう生き方を説いたのが釈尊であったというふうに聞いておりますんですが。
 
中村:  無論哲学者たちも自我を追求するということはやったわけです。近代哲学というものは、「自我の自覚から始まる」と言われておりますね。デカルトが「我の存在を論証した」というのは有名ですが、「自分はここで考えている、意識している、だから自分は存在する」というんでしょう。あの議論がまたインドでも、今から千三百年ぐらい前にシャンカラ(八世紀前半)という哲学者が言っているんです。
 
奈良:  これはインドのヒンドゥー教の伝承のなかにいる哲学者ですか。
 
中村:  そうです。「自分はあらゆるものを疑うことができる。けれども、自己の存在を疑うことはできない。自己を疑おうとすると、その疑っている自己というものがまたここにある。それを否定できないではないか。だから自己、アートマンを否定することはできない」。ただ面白いことには、シャンカラの議論はそこからすぐ大我の存在へ飛躍するわけです。「自己は否定できない。その奥にある大我も否定できない」。
 
奈良:  そうしますと、私たちが日常普通に「私のもの」といっている我のもう一つ奥に本当の自己、大きい我がある」と、こういう考え方でございますか。
 
中村:  そうです。この近代西洋哲学の場合には、個人的な自我の存在というところでちょっと止まっているわけですね。ところがシャンカラはさらにその奥へ突き進んだ。自我の存在の証明がその奥にある絶対者の存在の自覚というところまで進んだというので、シャンカラの思索の特徴があるわけです。ただこれは所詮哲学者の議論なんですね。現実に生きている我々としては、もっと生きた意味での自己の捉え方というのが必要ではないか、と。そうすると釈尊の言葉なんていうものを改めて反省する必要が起きてくるわけです。
 
奈良:  釈尊が実際的な形で捉えるといいながら、仏教には「無我」という言葉がございますが、「無我」というのは我が無いと読めると思うんですが、我が無いということと―我というのは自己でありましょうから、それを求めよということは、どのように考えたらよろしいんでございましょうか。
 
中村:  これは、「無我説」ということが仏教の根本の教えだ、とよくいわれますけれども、その意味は「我執をなくせよ」というんですね。我々はこの自分に執着しているでしょう。我執があります。そして欲望にとらわれている。それを超えよう、というところから発したんです。だから別に我がない、という意味ではなくて、むしろ経典に説かれている教えは、「如何なるものも我ではない。如何なるものも自己ではない」と、そういうのがもとの意味です。だから非我説と言ったほうがあたると思うんですね。
 
奈良:  なるほど。「無我」というと「我が無い」ということですが、それが我が無いというよりはむしろ「どんなものも我では無い」という。それで「非我―我(が)に非ず」というふうにとらえたほうが実践的であるということですね。
 
中村:  そういうわけです。例えばさっき言葉がでましたけど、自分は非常な財産を持っている。けど、その財産といっても、これは考えてみれば本当の自分ではないわけですね。いつかは自分から離れるかも知れない。それから愛する家族が周りにいる。けれども、死ぬ時は一人でしょう。そうすると現実な意味ではそれも我であるとは言えない。あるいは社会的な名誉であるとか、地位とか、いろいろありますけれども、それも本当の意味の我ではない、と。つまり仏教の反省はもっと内面に入っていくわけです。我々の存在を構成しているいろいろの作用だの要素を考えるわけですね。例えば知覚能力というのがあります。思考能力というのがあるでしょう。意識する働きもありますね。こういうようなもの一つ一つとってみても、それは我ではない。またその中に我があるのではない。またそれらが我に属するものでもない、とこういって追求していくんですね。非常に反省的なんです。
 
奈良:  そうしますと、先生、こういうふうにみてよろしいものでございましょうか。常に私どもいろいろものを考えたり見たりしながら、「これが私ですよ」と。「我ですよ」と。あるいは「これが私のものですよ」というふうに握り締めてしまうわけですね。それで握り締めてしまうんだけれども、考えてみれば、「これが私ですよ」という私にしたって永久に持ち続けられるものでもないし、自分で自由にもならないし、私のものと言いながら、みんな離れていってしまう。結局「これが私ですよ」とか、「私のものですよ」と。つまり「我である」とか、「我のもの」とか言って握り締めるものもないから、その意味で、「どんなものも私として掴まえちゃいけませんよ」と。「私に非ず、私のものに非ず」と、こう受け止めるという。
 
中村:  そういうことになります。つまり無常の教えと表裏の関係にあると思うんです。よく世間の人が執着するものはですね、無常の立場からみますと、いつかは消え失せるものですね。それは自分の死後にまでは残るかも知れないけれども、いつかは消え失せるものでしょう。そうすると永久不変の実体であるということは言えないわけですね。
 
奈良:  ところが実際に私どもやっておりますのは、例えば命にしても、健康にしても、若さにしても、その他品物にしても、一旦自分のものにしてしまいますと握り締めてしまって、永遠に自分のものであれ、というようなことを常に願いますですね。
 
中村:  そうですね。
 
奈良:  いつも挫折するわけでなんですが、
 
中村:  そういうわけです。そういうような具体的に形のあるものが自己であるとか、自分に属するものであると考えてはいけない。本当の自己はどこにあるか、ということですね。自己を決して仏教は否定していないんです。自己が存在しないとは言わない。どこにあるか。生きていくための道理、筋道、それに従って生きていく、そこに本当の自己が現れる、と。だから他面では、自己は自己の主である、という具合に説いて実践的な意味で自己を理解しております。
 
奈良:  その意味で大変適切な言葉をお選び頂いておりますので、それをまずご紹介しながら、またそのお話を伺いたいと思いますが、
 
     (何ものかを)わがものであると執着して動揺している人を見よ。
     (かれらのありさまは)ひからびた流れの水にいる魚のようなものである。
          (『スッタニパータ』)
 
原始仏典の中でも一番古い時代のものかと思いますが、今のお話で我が物であると執着すると本当にアップアップしている魚と同じではないか、とこういうことですね。
 
中村:  これは考えてみれば痛烈な寸言ですね。我々は日常いろいろなことに追われてあたふたして暮らしているわけですけれども、これを高い立場から見ますと、水溜まりに魚が棲んでいる。だんだん水が引いて乾涸らびてくる。やがて水が無くなりそうになるとバタバタとのたうち回りますね。そんなようなものじゃないか、というんですね。
 
奈良:  なるほど、考えてみれば、「私ですよ」とか、「私のものですよ」と、今の言葉でございませんけれども、本当に執着しているわけですね。それが先ほどの先生のお話ですと、無常でありますから、常に変わっていってしまう。握り締めていくわけにいかないから、かえって欲求不満になってこうアップアップする状態になってしまう。本当に他人事ではなくて、少し本気になって自分の生活を振り返ってみると、なるほどそうかなと思い知らされるほどの実感のある言葉なわけなんですが、結局そうしますと、「無我」と言っても決して「自己存在がない」なんて言っているわけではなくて、「どんなものも私とか私のものとかというふうに執着するのをよしなさい」と。「むしろそういう執着を離れたところに本当のキラキラした自分というものが働きでるんだ」と、こうかと思うんですが。
          
中村:  そうです。仏典の中には反対に実践的な高い意味での自己を説いています。例えば「自己をいたわれ」とか、「自己のためを考えよ」とか、場合によっては「自己を愛(いとお)しめ、自己を愛せよ」というような言葉もあるんですね。これは浅はかな自己という意味じゃないんですね。「本当に人間が真実の自己を実現するように心掛けよ」ということを言っているわけなんです。だから仏教は決して自己を否定するどころじゃなくて、本当の自己、真実の自己を現す、ということを説いているわけです。これはインド以外の思想においてもやはり多かれ少なかれ見られることだと思います。
 
奈良:  そういうわけで非常に実践的な形で、つまり自己を愛しむとか、自己を調えるということは、寝っ転がっていて頭で考えてもできることではございませんので、非常に実践的な形でやるし、それからそれなりの訓練と申しますか、それがなければならない。そうしたことを自分に、道理に大変ピタッとあった自己を調えていくという教えがございますので、ご紹介をしたいと思いますが、
 
     実に自己は自分の主(あるじ)である。
     自己は自分のよるべである。
     故に自己をととのえよ。
     ―商人が良い馬を調教するように。
        (『ダンマパダ』三八○)
 
やはり自分のことは自分でやっていかないといけないわけですね。
 
中村:  そうですね。結局人に頼っているというのでは自己の本当の生き方というものを見失うおそれがありますから、やっぱり自分のことは自分で考えて、自分を調えて生きていけ、というわけです。「自分を制する」とか、「調える」とかと言いますと、なんか欲望は全部抑えてしまって、窮屈な生活をしよう、というような印象を与えるけどね、修身の教えのように取られますけどね、そうじゃなくて自己というものを考えてみますと、いろいろな複雑な人間関係の中に置かれて、そして我々が生きているわけですね。周囲から切り離されて生きるということはできない。他の人から切り離される存在ではないし、また周りの自然環境にこの頃しきりに強調されていますように、決して我々人間に対立するものじゃないんですね。むしろ我々と融合しているものだ。そこまで思いを馳せてですね、じゃ本当に自己がどう生きていったらいいか、ということを考えますと、そうすると自ずから生きるべき道というものが明らかになる。それに合致するように、まあ平たい言葉で言いますと、宇宙の波長に自分を合わせて生きていく、と。
 
奈良:  そうしますと、何か精神修養とかというような特別なことではなくて、勿論生き方でありますから具体的な訓練は必要なんでしょうけれども、その訓練する方向が決して独りよがりのものでなくって、社会の中の自ずと一つの生き方であるとか、或いは宇宙の大原則であるとか、そうしたものにピタッと合った形で自己を生かしていく。そういうことでございますね。
 
中村:  そういうことになりますね。殊に今おっしゃった独りよがりの自己観念ですね、これがこの世の中をみてみますと、非常に世の中を損(そこ)なっているんじゃないでしょうか。自分さえ良ければいい。しかも自分が一時の感情に委せて勝手なことをする。他人(ひと)のことは考えない、というふうな風潮が殊にこの頃強まっておりますね。
 
奈良:  自分勝手なことをして、私は一人偉いんだと言っているんですけれども、実はそうじゃなくて、自分自身に勝つのが本当の勝利を得た人だ、という経典の言葉がございます。ご紹介を致しますが、
 
     戦場において百万人に勝つよりも、
     唯だ一つの自己に克つ人こそ、
     実に最上の勝利者である。
         (ダンマパダ一○三)
 
先生、これ確か老子にも、「自己に勝つ者を、勝者となす」といっていますね。
 
中村:  そういう言葉がありますね。
 
奈良:  釈尊もこう言っておりますし、
 
中村:  「克己」という言葉はもともと中国の言葉じゃないですか。
 
奈良:  己に克つ。そうですね。
 
中村:  そして、まあ我々の祖先は絶えず努めてきたわけなんですが、インドではこの自己に打ち克つということを非常に強調しまして、ヒンドゥー教でも説きますし、それからジャイナ教でもこれと同じようなことをいうんですね。ですから仏教でもジャイナ教でも本当に修行を完成した人といいますか、自分の向上に努めた人、自分を高めることに努めた人、これを勝利者というんですね。「ジナ」と申します。ジナというのは勝利を得た人、勝利者という意味ですね。
 
奈良:  それが本当の勝利ということですね。
 
中村:  戦場において千人の敵に打ち勝つよりも自分自身に打ち克つことのほうがもっと難しい。それを成し遂げたのは偉大な人だ、と。そういう意味なんです。
 
奈良:  確かに今日最初にもお話がございましたように、自分の鼻に例えられるような自分というもの、なかなか見えませんし、追い求めようとしない。どうしても「勝った、負けた」と言いますと、他人との社会の中での勝ち負けになるけれども、「本当の勝利というのは自分に克つことだ」と。自分に克つといっても、別に自分同士で格闘するわけじゃありませんし、もっと精神的な意味でありましょうけれども。
 
中村:  つまりこうじゃないですかね。我々の意欲というものはいろいろあるわけですね。だから時には矛盾するわけです。あれもしたい、これもしたい。それらが矛盾し、相克することだってあるわけです。その場合にどの道をいくか、とこう整えなければいけないわけです。今これをしなければいけない。この次にはこういうことをする。あの場合はこうであるべきだ、と。そういうふうに整えるということがつまり自己に打ち克つことになるんじゃないでしょうか。
 
奈良:  結局自分というものを野放図(のほうず)にするのではなくて、やはりいろいろ考えて抑えるところは抑える面がないといけないと思うし、それが自己に克つことであり、そして先ほど、「自己を愛する」とおっしゃったわけでありますけれども、
 
中村:  そういう言葉も仏典に説かれているんです。自己を愛する、と。
 
奈良:  なかなか私自身で考えましても、とてもだらしない自分であるわけなんで、そのだらしない自分であるからこそ、本当の自己を求めるというんですが、その求める私がもともとだらしないんでありますから、とても難しいなと思うんですが、それでも自分を大事にしていかなければいけないという、インドの仏典に自己を愛するというのはどういうことか、ということの大変いいエピソードがあるようでございますので、仏典の中からそれをご紹介申し上げたいと思うんですけれども。確かこれはインドのコーサラという国の王様のパセーナディという王様と王妃のマッリカーという方との会話の中に出てきたというふうに聞いておりますんですが、まずご紹介を致しましょう。
 
     思いによっていかなる方向におもむいても、
     自分よりさらに愛しいものに達することはない。
     このように他の人々にとっても自分がとても愛しい。
     それ故に自己を愛する人は他人を傷付けてはならない。
          (『サンユッタニカーヤ』)
 
これも原始仏典の中でかなり古い仏典かと思いますが、先生、今出てきた言葉の意味、内容をご説明頂けます前に、ストーリーをちょっとご紹介を頂きたいんでございますが。
 
中村:  これは、ある美しい月夜に王様が宮殿の上にのぼって、月を眺めて夜景を愛でていたというんです。インドの宮殿は屋根の上が平になっておりますでしょう。日本と違うんです。日本の屋根はこういう具合に尖っていますけれども、インドの大宮殿は大抵屋根の上が平らで、そこで休息したり寝ることもできるようになっている。
 
奈良:  屋上のようになっている。
 
中村:  屋上のようになっておりますね。それで傍にお后がいる。「ああ、今日は美しい眺めを楽しめてほんとにいいな」と、月を愛でて王様が思わず言葉を発したわけです。その時に王様がお后に向かって、「この世の中で大切なもの、愛するものはいろいろあるが、自分より愛しいもの、自分より大切なものがあるかしら」と、王様がお后に聞いたわけですね。王様がそう聞いたわけは、王様のほうからお后に甘い答えを期待していたわけなんですね。
 
奈良:  そうなんでございましょうね、おそらくね。特に若い―若くなくとも同じかも知れませんけれども、愛情を持ち合っている人々の間の会話と致しましては、やはり愛情を確かめていきたい。「何者にもまして、あなたが一番大切であります」という答えをやはり欲しいというのは、誰でもそう思うんでございましょうしね。
 
中村:  そうです。ところがお后は、王様の期待をはぐらかしてしまったんです。「私にとっては自己よりも大切なものはございません。自分よりも愛しいものはありません」と。
 
奈良:  我が身可愛や、と。
 
中村:  我が身可愛やです。
 
奈良:  随分ドライな返事ですね。
 
中村:  ドライな返事ですよ。さらに王様に向かって鋭くつくわけです。「王様、あなたは如何ですか?」というんですね。そうすると、王様もやっぱりそういう答えを言わざるを得ない。「ああ、やっぱり自分でも考えてみると、自分が一番愛しい」と。そこで今度自分が愛しいということについての反省が起きるわけなんです。今、お読み頂いた聖典の言葉のように、考えてみると、どちらへ向かって探し求めても、自分より一番愛しいものはない、と。つまり誰だって我が身可愛や。他の人だって同じじゃないか、と。そこで人と人との関係を反省するわけです。それならば、人に対して害を与え損なうということが一番悪いことで、反対に人を愛し愛しむということがもっとも尊いことである、と。これは誰にとってに同じことである。だからこの気持を人々の間で実現しようじゃありませんか、と。そこから仏教の慈悲の教えが出てくるんですね。
 
奈良:  なるほど。今先ほど私ご紹介した詞が、そうしたパセーナディ王とマッリカー王妃との間の会話にもとづきながら釈尊が教えた言葉でございましょうから、そうしますと、釈尊という方は、我が身可愛や、ということはまず認めるわけですね。認めたうえで、それじゃ我が身可愛いんだから好きなことをさせればいいのかというと、そうではないんだ、と。自分にとって自分が一番大切である。とするならば、他人さまにとっても、他人さまの自分がその方には一番大切なのだから。
 
中村:  そうです。その人にとってはその人自身が一番大切なわけなんです。
 
奈良:  他人を自分の身に引き当てて考える。
 
中村:  そうなんです。他人を我が身に引き当てて考える。あるいは他人の身になって考える、ということですね。
 
奈良:  なるほど。非常に簡単なことでございますしね。私ども英語を習いました時に、向こうの諺と言うんで、「自分のして貰いたいと思うことを他人になせ」なんていう諺を習った記憶もございます。 
 
中村:  それと同じことなんですよ。それがきわめて分かり易い形でありながら、実はそれが今先生おっしゃいましたが、仏教でいう「慈悲」というものの、いわば出発点といいますか、基本という、そういうふうにみてよろしいわけですね。
 
中村:  そういうことになります。「慈悲」という非常に宗教的な高い徳であるという印象を与えますが、確かにそれに違いないんですが、もとの意味は、「慈悲」の「慈」は、サンスクリット語で、「マイトリー」と申しまして、「真の友情」という意味なんです。つまり本当の友人同士が持っている真実の気持ですね。それが「慈」なんです。「悲」というのは「哀れみ」というんですね。人と哀れみを共にし、同情する、という。これも本質において同じことですね。だから仏教では特に「慈悲」という言葉を説くのであります。
 
奈良:  なんか「慈悲」といいますと、身を構えまして、何かこう他人様に何かしなくちゃいけないんだ、といったような感じがないわけでもないんですけれども。
 
中村:  確かに「慈悲」と申しますと、宗教的な印象を与える。これは仏さまでなければ実現できないことだ、と一般に受け取られていますね。そうじゃなくて、一般の人々の間でもその気持ちは実現されていることなんです。例えば何でもないことですが、我々困った時に道を人に聞きますね。そうすると、その人は親切に教えて下さる。そこには損得の観念がないわけですよ。ああ、あの人は困っているから助けてやろう、という気持ね。人に道を教えるということは日常互いにありますね。実際に人間の中に具現されていることですね。ただ、それはもっと高めて広くしよう、というんですね。だから「慈悲」という言葉を中国のお経として翻訳されました時に、古い時代には「兼愛(けんあい)」と訳しているんです。「兼ね愛する」と。
 
奈良:  なるほど。
 
中村:  これは墨子(ぼくし)の言葉ですがね。「広く人々をすべて愛する。それが慈悲だ」というんですね。
 
奈良:  そうしますと、特に素晴らしく修行の積んだ方が何かするというんじゃなくて、一人一人が生活をしている中で、他人に対して思いやりの気持をのべ、友人の如く、それこそこうして欲しいな、と思うことを人にもしてあげる。
 
中村:  ですから、中国では主として儒教の伝統が強かったですから、「仁」という言葉をそれに対比しまして、「慈悲」というのは「慈仁(じじん)」と訳していることもあります。
 
奈良:  そうしたことがやはり自分というものを大切にすることだし、自分に克つことでもあるし、こういうふうに伺ってまいりますと、生活実践の中で理想的に百パーセントまでしろ、というのは難しいかも知れませんけれども、全然できないということではなくて、むしろ身近な、できることから努力して、それを続けていくことが自己を愛しむ道であるということかと思います。
 
中村:  そういうことになりましょうね。つまり人間の意欲はいろいろあるわけですが、それを調和を取りまして、そして整えて進んでいく。それが人のためになることでもあり、また自己を愛するゆえんでもある、ということになるんでしょうね。
 
奈良:  それが、釈尊もそうでありますし、おそらく世界の人類というものの自分というものを見出していく道に連(つら)なるかと思うんですが、ちょうどそれに関しまして、釈尊の最晩年の時のエピソードと、それからそれに関連した教えがございますので、それをまずご紹介しながら、またお話を伺いたいと思います。
 
     アーナンダよ、わたしはもう老い朽(く)ち齢(よわい)をかさね老衰し、
     人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達して、わが齢は八十となった。
     アーナンダよ。たとえば古ぼけた車が革紐(かわひも)の助けによってやっと動いて行くように、
     わたしの車体も革紐の助けによってもっているのだ。 
     しかしアーナンダよ、向上につとめた人が一切の相(そう)をこころにとどめることなく
     一々の感受を滅したことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、
     そのとき、かれの身体は健全なのである。
     それ故に、アーナンダよ、この世で自らを島とし、
     自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島とし、
     法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
            (『大パリニッバーナ経』)
 
中村:  釈尊の旅路を述べているお経です。
 
奈良:  先生の翻訳では、釈尊の般涅槃(はつねはん)ですから、「大いなる死」と訳されていたかと思いますが、八十歳になった老人となった釈尊が、ほんとに身体が弱って、古い車を革紐で結んでやっと動いているようなもんですよ、と。なんか如何にも老釈尊の老いや身体の不調を隠そうともしない人柄が如実に出ている感動的なものですね。
 
中村:  思いを語られますですね。釈尊は人生の最後には霊鷲山(りょうじゅせん)と申しますが、鷲の峰呼ばれている山から降りて、そしてご自分の故郷のネパールの方へ向かって旅をされたわけですね。八十歳の老人の旅ですからね。道も今のようによくなかったでしょうから、そこをお弟子を連れて自分でも歩かなければならない。トボトボと歩いたわけですが、その有様はちょうど古ぼけた車がガタピシになって、辛うじて革紐によって修理されて、繕われて動いているようなものだ、と。これはほんとにリアリスティックに言われていますですね。
 
奈良:  非常に臨場感のあるといいますか、光景がフッと目の前に浮かんでくるような経典かと思いますが、侍者和尚として付いておられるのがアーナンダという人でありましょうから、そのアーナンダに向かって釈尊が、「自らを島とし、自らをよりどころとする」と。それから「法を島とし、法をよりどころとする」と。本日のテーマが、「自己」ということでありますけれども、この「自分を島とし」というのは、次ぎの「よりどころ」と同じことでございますね。
 
中村:  同じことなんですよ。「よりどころ」というのは抽象的な表現ですね。それから「島とし」というのは具象的な表現です。あれは元の言葉で申しますと、「ディーパ」というんですがね、あるいは「洲(す)」と訳したほうがいいのかも知れません。
 
奈良:  河の中洲とかいう、
 
中村:  河の中洲もそうです。と申しますのは、インドでは洪水がありますと、そうすると、一面に水が溢れるんですね。そして山が見えませんでしょう。大体インドの中部地方では。だから一面の海になってしまうんです。人間の住むところもないわけです。だから仕方なしにいくらか高く水面に出ている洲のところですね、そこに人々は逃げて行って、頼って、水が引くまでそこで暮らしているわけです。この洪水と言ってもインドに途方もなく広いんですね。向こうが見えないです。日本では洪水がいくら酷いと言ったって洪水の端は見えるわけでしょう。これはやっぱり大陸ですね。
 
奈良:  その辺からおそらくインドでは、私どもがそれこそアップアップしながら生きているこの生活を大きな荒海に例えているのかも知りませんが、そうしたものの中にある中洲と言いますか、島が、なるほど、これは動かない。そこに辿り着いていけばしっかりとした拠り所でございますね。そういう意味かと思いますが。自分を拠り所とする。先程来、我が身可愛やということは認めますよ、と。そして自分を大切にするということは生活実践の中で他人のことを思いやりながらやっていくことが、最初の一番基本的な形であるということでございました。そうすると、自分を拠り所とするということは、そういう生き方を自分でしないとダメだよ、という。いわば、ほんとに自己というものを実現していく。自己を見出していくためには、まず自分の実践がなければダメですよ、と。そういう意味でここはみてよろしいんでございましょうか。
 
中村:  そういう意味に解釈できると思いますね。自分に頼るというのはどういうことか、と。自分というものを反省しますと、始終選択の可能性乃至(ないし)必然性に迫られているわけです。毎日こういう生き方をしようか、ああいう生き方をしようか、どっちへ行ってもいいわけですね。選択して、そしてどっちかに決めなければならない。そういう選択を我々はしょっちゅう迫られているわけです。自分に頼るというのは、自分でそれを決めるわけですが、どういう具合にして決めるかということになりますね。そうすると、人間が人間として生きていく生き方の理想があるわけですね。生きていくとき道筋がある。それに従って自分が判断して決める。だから自己に頼るということは、同時に人としての生きていくべき道筋に頼るということになる。
 
奈良:  それが「法」とみてよろしいですか。
 
中村:  それがここで言われている「法」なんです。この「法」というのは、元の言葉で「ダンマ」といいますがね。法律という意味よりはもう少し広くまた深い意味なんですね。人々の生きていくべきよるべ・道筋と、そういうようなものをインドでは、「ダルマ」とサンスクリット語で申しますが、「保つもの」という意味なんです。人と人として保つもの。人として保つには必ず道筋があるわけです。もしもそれを乱してしまえば、人間の顔をしているけど、人でなしだ、ということになりますわね。人が生きていくための決まり・法(のり)・道筋がある、と。それを自分が体現する、と。それが自己に頼ることである、と。その法を自覚すれば、あるいは他の人と意見が違うことがあるかもしれないけど、自分はこう生きるのが一番いいと思って断固として進む、ということもあるわけです。「百万人といえども我往かん」というようなことを申しましょう。
 
奈良:  なるほど。そうしますと、道筋というものがある。この道筋といっても、基本は勿論示されていると思いますけれども、十人十色の人間の社会でありますから、それぞれに一生懸命自分なりの心の奥底に立ち戻って良心的に自分の生き方を、今、先生のおっしゃる、選びとっていく。選びとっていく時に、その筋道と言いますか、法というものに各人が一生懸命それに則っていくように努力をしていかなければいけない。そういう努力をすることが、今の「自らをよりどころとする」ということでもある、という。
 
中村:  そうです。だから両方が一致するわけなんですね。
 
奈良:  そうしますと、同じことを二つにわけていったような感じがするわけですね。
 
中村:  自己に関していう時には、「自己に頼れ」という表現になります。それから人間の普遍的な規範というほうに目をつけていう時は、「法に頼れ」ということになる。実質的には同じことをいうわけです。
 
奈良:  「法」と言いますか、「規範」というものが、何か巻物みたいになって、床の間に置いてあるのでしたら何の意味もないわけですから、またそういうものの道理と言いますか、筋道でありますから、これは、人間が、というよりも、私どもがそれを生活の中に実践しなければ働きださない道理でありますし、
 
中村:  我々の現実というものは非常に複雑なものでしょう。いろいろな人間関係におかれています。そして、ありとあらゆる影響を受けて個人というものが出来上がっているわけですから、いろいろな条件を構造的に理解してですね、それで最後に決定を下す、と。それはすべてを考慮しなければいけないです。目を塞いで、何も見ないで、「俺はこういくんだ」といって、パッと決めるというのは、そういう生き方では非常に現実から浮き上がってしまう。
 
奈良:  「自らをよりどころとする」というのは、馬車馬のように勝手なことをするんじゃなくって、法に則った努力をするということが自分によることで、それが先程来のお話で、自己を愛する道でもあるし、自己は勝利者に導く道でもある。一方、法のほうからいうと、法というものを実践するのは自分でなければならないし、と。自己に頼るということと、法に頼るということが、二つのものを一緒にしなさいよ、というものではなくて、最初から自己を頼ることは法に頼ることだし、法に従うということは、それを実践する自己があるわけだし、と。先生、そうなりますと、私は一人で生きているなんていうことはあんまりあり得なくなってしまいますね。
 
中村:  これはあり得ないことですね。それは思い上がりですね。もう人間も他の人との連関を切り離しては考えられないし、生きていくことはできないわけでしょう。
 
奈良:  法というものの自体の中にも、さまざまな人間関係もあれば、自然法則の中に従っていくこともございましょうし、なんかややもすると、私ども別に「借金していませんよ。私、迷惑かけていませんよ」というような言い方があるんですが、本当の意味で自分の自己を知る。あるいは自己を求めていくということは、むしろ自分が非常に多くのものの関わりの中に置かれていると言いますか、その中に生かされている、ということをまず認識しておかないといけないわけですね。
 
中村:  今、おっしゃったように、「私は借金していませんよ」「他人には迷惑掛けません」と言われても、その方がそこまで到達するまでには、そういうことが言えるようになるまでには、無数の多くの人の恩を受けてきているわけでしょう。それは目に見える、その方が自覚しておられる恩もあるでしょうけど、目に見えないところで受けている恩もあるわけですね。そう思えばですね、それに対する感謝の気持ちが独りでに出てくるんじゃないですかね。普遍的なこの法というものも、なんか物体みたいなものとしてどっかにあるんじゃなくて、めいめいの人が実践し、生かすことによって、法としての意味が生きてくるわけでしょう。
 
奈良:  そうですね。
 
中村:  人間の美徳なんて言ったって抽象的なものがあるわけじゃないです。個々の人が実践するからこそ、美徳として生きてくるわけなんです。
 
奈良:  とてもこれ大切な問題ではないかと私は思うんですね。よくいろいろな正しい生き方というものが教えられるんですけれども、あるいは徳というものが説かれるんですが、ややもすると、それが言葉で終わってしまう。抽象的な観念として終わってしまって、慈悲だとか、平和だとか、愛だとか、いろんなことをいうんですが、単に机の上の印刷物の活字になっていて、抽象的な観念に留まっていて、自分の生活に戻ってこない。やはりそれだと、自己を求めるとか、汝自身を知れ、ということにはならない。やはり汝自身を知れ、自己を知る、ということの一番大切なことのまず第一は、自分で実践していくということでございますでしょうね。
 
中村:  その実践する場合に、人間の実践の場面というのは非常に複雑なものでしょう。だからいろいろな点を慎重に考慮しなければいけない。そこで己を省みるということが必要になってくるわけですね。
 
奈良:  どうしても自分一人の存在ではないから、他というものとの関わり、それが他人かも知れないし、それから歴史的な時間、空間を超えたさまざまな宇宙の理法との関わりかも知れないし、そうしたものの中に置かれている自分というものを考えながら、その理法に則しながらそれぞれの生き方を選び取っていく、という。
 
中村:  そういうことになると思いますね。ところがそこまで思いを致さないと、そうすると、今ここにいる俺はこのように力があるんだ、と。そして、つい自惚れてしまうわけですね。そうであってはいけない。自己というものがここにあるのは、無数に目に見えない過去からの原因といいますか、条件といいますか、影響といいますか、そういうものが集約して、でここに生きているわけですから、そこまで思いを馳せることによって本当の生き方ができるだろうと思いますね。
 
奈良:  それが自己というものを現す道もあり、愛する道であり、結局それがもっと俗な言葉で言えば、幸せというものに繋がる幸福感、本当の幸福感というものに繋がる道であるかと思いますし、汝自身を知るということもポイントになろうかと思いますが。
 
中村:  そう思います。
 
奈良:  先生、本日は大変有り難うございまいた。
 
中村:  有り難うございました。
 
 
     これは、昭和六十三年六月二十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである