東洋の心を語る D毒矢のたとえ           
 
                      東方学院院長 中 村  元(はじめ)
                      駒沢大学教授 奈 良  康 明(やすあき)
 
奈良:  「東洋の心を語る」というシリーズでございまして、毎回仏教を中心にしながら、東洋の英知というものをいろいろな形で探ってまいっております。本日はその第五回ということですけれども、テーマが「毒矢のたとえ」ということでございます。お話を頂きます方は、いつもの通り東方学院院長の中村元先生でございます。先生、どうぞよろしくお願いを致します。
先生、今日のテーマが「毒矢のたとえ」という、いきなりたとえがテーマとして出てきたんでありますが、それを中心にしながらいろいろとお話を伺ってまいりたいと思います。まず最初に、「毒矢のたとえ」とは何か、と。そこから実は端的にお話をお伺いをしたいとしたいと思うんでございますけれども。
 
中村:  「毒矢のたとえ」というのは、原始仏教聖典では有名な比喩でございまして、よく知られているんですが、それはこういうわけなんですね。釈尊の所へ、当時の哲学青年でありましたマールンキャという若い人が訪ねてまいりました。そして質問をしたわけなんです。当時のインドでは、いろいろな哲学的な問題が論議されておりました。具体的に申しますと、こういうことなんですね。世界は常住であるか、無常であるか。つまり世界というものは永遠に存在するものであるのか、あるいはある時期に消えてしまうものであるか。それと同じようなことが霊魂についても言えるかどうか。それからまた第二には、この世界は空間的にどこまでも広がっているものであるのか、あるいは限られたもので、有限であって途切れているのかどうか。霊魂についても同じようなことが言えるかどうか。それから第三に、我々の身体と霊魂とは同一のものであるか、あるいは全然別のものであるのか。第四に、修行を完成した人は、死んでしまった後でも、やはり生存するか、あるいは消えて無くなってしまうか。まあこういうようなことを、当時論議していたわけです。これは仏典に出ているばかりじゃなくて、ジャイナ教のほうでも言うんですね。ジャイナ教のほうの聖典で『バガヴァティー』というのがございますが、そこでも同じ様な問題が論議されているのであります。それをマールンキャの青年が、ここで釈尊に返答を求めてきたわけです。それに対して釈尊が「毒矢のたとえ」ということを持ち出して諄々と教え諭されたという話でございます。
 
奈良:  ジャイナ教と申しますと、よく仏教との姉妹宗教といいますですね。ほぼ仏教と同じ頃にインドに興った宗教ですが、ジャイナ教でもこういう問題が言われているということは、当時の、いわばインテリ(知識階級)の間の一つの話題になっていたテーマなんでございましょうね。
 
中村:  そうです。インテリの間の話題だったんですね。ただジャイナ教のほうの解釈はこうなんですね。ある点からみるとこうであり、他の点からみるとこうである、という。例えば、宇宙は遙か遠い昔にもあったし、現在もあるし、未来にもあるであろう。その点からみると常住だ、というんですね。けれどもまた、宇宙というものは、ある時にずっと増大し、脹れあがる時期があり、それからまた、ある時には沈んで消えてしまう時期がある。それを繰り返すというんですね。今日の天文学でよく問題にされていますビッグバンというんで、宇宙が現れて、それからまたブラックホールで全部吸い込まれてしまう、と。それに似たようなことを考えて、そっちを見ると、無常であるというんですね。そういういくらかの相違によって、どちらにもなり得る、ということを言っていたわけですが、そこでまた一つ問題があるんですね。というのは、ある時期に宇宙がずっと増大し発展するとか、またある時期は消えて無くなるということを、どうして言えるんだ、というわけですね。それに対して釈尊は別の立場をはっきり出したわけなんです。
 
奈良:  ある意味では、現代でも宇宙に果てしがあるかとか、無いとか。人間は死後生存するとか、しないのか、という。現代でも話題になるような事柄かと思うんですが、やはり当時のインテリの間で一つの形而上学と言いますか、哲学として大変問題になっていたことだろうと思うんですね。それではそれに対して釈尊が、どのような姿勢を示されていたのか、それを一つご紹介を致したいと思います。
 
     「毒矢のたとえ」
     ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。
     彼の親友や親族は医者を迎えにやるであろう。
     しかし当人が「わたしを射たものが、王族であるかバラモンであるか・・・
     丈が高かったか低かったか・・・弓や矢はどのような形で、
     材料は何であるか、わからないうちはこの矢を抜き取ってはならない」と語ったとしよう。
     それではこの人はやがて死んでしまうであろう。
     それと同様に、もしある人が、「世界が常住であるか、無常であるか、
     といったことについて、尊師が断定して説いてくれない間は、
     修行はしないであろう」と語ったとしよう。
     しかし、わたし(ブッダ)はそのことを説かないのであるから、
     その人は(毒がまわって)死んでしまうであろう。
               (『マッジマニカーヤ』)
 
中部経典と言われている経典からの一節でありますけれども。ここでは、釈尊が、先ほどのジャイナ教のように、ある面からいうと、あるよとか、こっちの面からいうと無いよ、ということではなくって、そうしたことを断定して説かないということなんですね。
 
中村:  そうなんです。つまり現代の進んだ自然科学の知識をもってしても、なおわからないことがあるわけでしょう。まして当時の人が全面的にはっきりと断定することはできなかったと思うんです、こういう問題について、いつまでも論議していたら、この「毒矢のたとえ」のように、論議している間に矢が当たった人は毒が回って死んでしまう。我々だって解決できないことは論議している間に死んでしまうわけですね。そうじゃなくて、今ここに生きている人間にとって、どう生きていくか、ということが一番大切である。だから、解決できないことに深くとらわれることなしに、本当の生き方というものは何か、それを追究するというのが釈尊の立場であります。
 
奈良:  悪戯に議論を重ねて、いわば外側の形に関したことを、「ああだ、こうだ」と言っても、本当に生きていくということとは関わりがないではないか、と。どういうふうに答えがでるのかわからないようなことに神経を使うよりも、もっと生きていくのに大事なことにこそ神経を集中すべきである。こういう基本的な生き方でございますね。
 
中村:  ええ。お互いに人間として、今、ここに生きているわけですね。どう生きるか、ということが、めいめいの人にとっての一番大切な問題ですね。それに行くべき道を示すというのが釈尊の立場でございます。
 
奈良:  それでは、どういうふうに考えていったら、それが生きゆくべき道であるのか。先ほどのところで、考えてもわからないことは断定して説かないよ、と釈尊がおっしゃった。しかしこれだけは断定して説くという教えがございますので、それをまずご紹介をしながら、またお話を伺いたいと思います。
 
     しからば、私は何を断定して説いたのであろうか。
     「これは苦しみである」
     「これは苦しみの起る原因である」
     「これは苦しみの消滅である」
     「これは苦しみの消滅に導く道である」ということを断定して説いたのである。
            (『マッジマニカーヤ』)
 
先ほど同じ『マッジマニカーヤ』、中部経典からの一節でありますが、これは「四諦(したい)」と普通言われております重要な教えでございますね。
 
中村:  そうですね。一応根本の教えを纏めてみると、そうすると「四諦」ということになるかと思います。「諦(たい)」というのは真理ということですね。つまり人間に関する真理をいうことなんです。自分自身を反省してみますと、決して人間は思い通りに生きていくことができるわけじゃない。思い通りにならない、欲するがままにならない、ということを、インドの言葉で「ドゥッカ」と申しますが、これを漢訳仏典では「苦」と訳しています。苦しみです。ただ苦しみと申しましても、単に生理的な苦痛だけをいうわけじゃないんです。むろん病気や怪我で生理的な苦しみ、苦痛を受けている方もおられましょう。けれども、そういうことがなくても、必ずしも人生は思い通りにはならないわけですね。あるいは自分はもう楽しい生活を毎日送っているから、何にも煩(わずら)うことはないんだ、と言われる方もおられるかも知りませんけれど、しかしちょっと反省してみると、〈あぁ、これでいいのかな〉と思うことがありますね。何か不安もあるわけですね。〈これでいいのかな〉と思って、何かかかずらうことがございますね。そういうのを全部含めて「ドゥッカ(苦しみ)」と言っているわけです。非常に広い意味でございますね。
 
奈良:  大変思い通りにならないのが苦しみなんだ、という捉え方は、とってもわかりいいと思いますし、説得力があると思うんですね。よく私ども毎日の生活の中で、肉体的な苦痛もあれば、精神的な苦痛もある。心身、身心の苦しみということもよく言うわけですけれども、もう少し内容を分析すれば、結局痛いというのは、痛くないということが望ましいのに、思い通りにならないゆえの苦しみということにもなりましょう。私どもが毎日の生活の中で感じている苦しみとか、不安というものの、非常に具体的な内容を示すと、思い通りにならない、ということにいきつくし、とてもわかりのいい釈尊の教えかと思いますね。
 
奈良:  そうですね。非常に楽しい生活をしている人でも、フッと反省してみると、何か一種の精神的な不安、拠り所のなさというようなものを感じることもあるんじゃないですかね。第一にそこに目を付けて考えるというのが出発点であります。
 
中村:  どうしても欲求不満のない生活というのはないわけでありまして、そうしますと、今の四つの真理、四諦ということの最初が、「苦しみの真理」ですね。具体的には、よく「四苦八苦(しくはっく)」とか、「生老病死」という言葉を申しますけれども。
 
中村:  「四苦八苦」というのはよく申しますが、仏典の中に出てくるわけですね。「四苦八苦」というのは、語呂がいいからみんながいいますけれど、「四苦」と申しますのは「生・老・病・死」ですね。つまり我々がまず生きた時から思い通りにならないことは始まっているんじゃないか。それから我々は老いるという運命を避けることはできない。そして、やがては病み、ついには死ぬわけです。これは避けることのできない運命です。誰だってこれを避けたいんだけど避けるわけにいかない、と。それからその他に、我々は自分の愛するもの、欲するもの、快いもの、それを求めようとしますね。けれど決してその通りにはいかないわけですね。それから反対に、嫌だと思うもの、避けたいと思うものが、避けようとしても襲いかかってくることがございましょう。
 
奈良:  やはり思い通りにならないことが非常に多いわけなんですね。
 
中村:  そうなんです。社会的な活動におきましても、何かを得ようとして求める。ところがその通りにならないで、求めたものが得られない、と。そういう面もあるわけですね。さらに根本的なことを考えてみますと、我々の生存を構成している要素を仮に五つ―「五蘊(ごうん)」と申しますが―仏教の哲学では立てるわけです。その五つの構成要素、どれについても何か内に燃えさかるものがあって、思い通りにならない、それでまた別の苦しみがある。これらを全部合わせますと、今度は八つになるわけなんです。それで「八苦」というわけですね。
 
奈良:  「四苦八苦」という言葉に代表されておりますけれども、結局それは、思い通りにならない人生の現実をそういうふうに押さえているわけですね。
 
中村:  そういうわけですね。
 
奈良:  先ほどの第一の真理が、現実は人生の苦しみなんだ、ということが出まして、それで苦しみの起こる原因というのが二番目に出てまいりましたけど、じゃ、そういう不安とか苦しみというのは、釈尊は、どういうふうにお説きになっているんでございましょうか。
 
中村:  これは第二番目に、その原因はなんだろうと思って追究する。そこに思想的な反省が起きるわけですが、考えてみますと、人間の根本には、何か止むに止まれない生存への激しい欲求があり、衝動的なものが人間を動かしている。ところがその通りにならないというわけですね。これを喩えて申しますと、人間の渇(かわ)きのようなものだ、と。喉が渇いてしょうがない時には、少々水が濁っていてもグッと飲んでしまう、ということがありますね。殊に山を越えて来た時とか、長い徒歩の旅行をした時なんていう時には感じますですが、そういうような有無を言わせず、人を動かす衝動的なものがある。これに目を付けよ、というんですね。これが原因である、というわけです。
 
奈良:  それは、私ども誰にでもある欲望というふうにみてよろしいんでございますか。
 
中村:  ええ。あらゆる欲望を含めて、ということになりましょうが、その根本にあるものがある、と。それをなかなか言葉で表現しにくいのですが、それを「渇き」と言ったわけです。元のインドの言葉で「タンハー」と申します。それは同時に、人間の執着というようなものに通ずるわけですね。だから漢訳の仏典では、「タンハー」を、喉が渇いているという時の「渇」とか、あるいはそれに執着の意味を込めて、「愛」という字を付けまして、「渇愛(かつあい)」という言葉で言い表すこともございます。
 
奈良:  喉の渇いた時に、無性に水が飲みたい。それにも似て何かを求めて求めて欲しくて欲しくて仕方がない。衝動的な誰にでも心の中にあるような一つの根本的な欲望みたいなもの、それが「タンハー」であると。
 
中村:  そうですね。これは私自身を考えても、今は有り難い文明の恩恵に浴しながら生きていますので、奇麗な水を飲んでいますけれど、若い頃には軍事教練なんていうのがありまして、もう喉が渇いてしょうがないと、汚い水をのんだことがあります。あるいはインドの山奥へ行ったこともありますが、その時に出された水を飲んだんですが、「あれっ!臭いですよ」と、横の人が言いましたけど、もう飲んじゃいましたよ。自分でもそういう経験をしています。
 
奈良:  なかなか自分では制御仕切れない、ほんとに根源的なものを求める心は、誰にでもあると思います。それをもう少し具体的に書いた経典がありますので、まずそれをご紹介をしながら、またお話を伺いたいと思います。
 
     「三火(さんか)のたとえ」
     修行僧らよ。
     すべては燃えている。・・・
     貪欲(とんよく)の火によって、瞋恚(しんに)の火によって、愚痴の火によって燃えている。
     誕生、老衰、死、憂い、悲しみ、苦痛、悩み、悶(もだ)えによって燃えているのだ。
           (『律蔵マハーヴァッガ』)
 
インドのパーリ語で書かれました戒律に関係する仏典の一節でございます。「すべては燃えている」、ちょっと凄まじいような感覚の出だしですけれども。
 
中村:  そうですね。人間というのは反省してみると煩悩の火に燃えているわけですね。それを喩えて、「すべては燃えている」ということをいうわけです。人間の持っている煩悩はいろいろに分けることもできますし、仏典では細かく説かれていることもあるんですけど、主なものをここに三つ出しているわけですね。まず「貪欲(とんよく)」―貪(むさぼ)りですね。なんか無性に欲しくてしょうがない。それから次に毛嫌いするということがありますね。それを「瞋恚(しんに)」というんです。普通「瞋恚(しんに)」というのは、怒りの意味に使いますけれども、さらにその奥には、何ものかを嫌うという気持があって、それが現れると積極的に怒りともなるわけです。それからまた我々の奥には、何だかぼやっと迷っている。そういう迷いがあるわけですね。この三つを一応根本的なものだと考えますと、どれも人を毒するものだから「三毒」―三つの毒というんですね。
 
奈良:  一つの煩悩と言いますか、人間に苦しみとか、不安を与える三つの大きな毒のようなものだということですね。
 
中村:  そうです。さらに追究すると、その根本はさっき申しました「タンハー」―渇に喩えられる衝動的な妄執があるというわけなんです。
 
奈良:  そうしますと、ほんとに本能的な妄執があって、それが具体的に対象を求めて働き出す時には、怒りとなってみたり、物が欲しいということになってみたり、三毒という具体的な形で現れてくる。
 
中村:  そういうわけです。さらにその三毒がまた細かにいろいろ別れましょうね。ことに後代の教義学の書物では、細かに心理現象の反省、分析を行っております。
 
奈良:  そうしますと、本能的なものですから、いくら人間に不安とか、苦しみを与えるものであるということがわかっても、なかなかそれを処置するのは難しいかと思いますし、また反面に、喉が渇いた時にゴクッと飲む水の美味しさということは、ある意味では欲望が充たされた時の快感みたいなものがある。だからなかなか私どもにそれを止めることなどできないんでありましょうけれども、それが不安とか苦しみの原因だということがわかっていても、それを然るべく処置し、抑制していくことがなかなか難しいなあと思うんですが、仏教のほうでは、こうした「タンハー」―喉の渇きにも似た根源的欲望が思う存分対象を求めて働いていくことを助ける無知がある、という説き方もしているようですが。
 
中村:  そのように説くこともございます。これはやっぱり人間の根本的な迷いですね。その迷いに基づく欲求というものに対してどう対処したらいいか、ということが問題になるわけですが、人間が生きている限り煩悩とか欲求を無くすことはできないわけなんです。けれど、それを野放しにしておいてはいけない、それを制するということを説くわけです。これを漢訳仏典では「滅」と訳しておりますが、これがさっきお話にでました「四諦」―四つの真理のうちの第三になるわけですね。その根本的な煩悩を滅する、と訳されておりますが、これは言語で申しますと、「ニローダ」という言葉が使ってあるんです。「ニローダ」というのは、「堰き止める」という意味なんです。
 
奈良:  「滅する」というと、無くしてしまう。ゼロにするということで、従いまして欲望を滅する、と言われますと、欲望をゼロにしてしまうことだ、と。そうしますと、本能的なものをゼロになんかできっこないではないか、と。こういう考えがすぐ出てくるんですが、そうではなくて、それを制すること、抑えることでございますね。
 
中村:  ええ。放っておきますと、人間の煩悩というのはどっちへどう現れて動かしてくるかわからないでしょう。それを間違ったことをしないように制するというのがニローダなんです。これインドの文献にもいろいろ出てまいりますがね。例えば文学書なんか見ますと、美しい女官たちを後宮の中に閉じ込めておくこと、これもニローダと言うんですね。
 
奈良:  そうなりますと、その女官たちを滅してしまっては困るわけでありまして、
 
中村:  つまりそれを放っておくと、どっちへ遊びに出て行くかわからないでしょう。だから一定のところに留めておく、というのが文芸作品に出てくる使い方なんです。それを人間に当て嵌めると、我々の煩悩だってどっちへ流れ出していくかわかりませんもの。間違ったことをしないように留めておく、という意味です。そしてそれを「滅」と漢訳仏典で訳したことは、必ずしも誤訳じゃないと思うんです。チベット訳のほうでは、「堰き止める」―「ボーグ」という言葉でほぼ忠実に訳していますがね。漢訳仏典のほうで「滅」という字を使ったことは、やっぱり我々の煩悩を閉じ込めておきますと、そうするとその働きがなくなってしまう。煩悩というものは、物体とは違うわけです。例えば、風船玉の中に水をいれて、それをギュッと押さえると、バンと爆発することがありますね。けれども人間の煩悩というのは、少し違いまして、静かに留める、抑える、横へ流れ出ないようにするという修行をしていると、あたかも無くなったかのように働きが現れなくなると思うんですね。例えば私自身だって経験がありますが、若い頃には軍隊へ徴兵されましたが、徴兵されて閉じ込められてしまうわけですね。もうダメだと思って観念してしまいますね。観念してしまうと案外欲望は起きないもんです。
 
奈良:  私どもの生活の中でよく似たようなことをやはり感ずると思うんですね。若い時には、お菓子を見ますとお菓子を食べたくて仕方がない。そうするといろいろな理由で食べられない時には欲求不満が起こります。いわばお菓子に対する煩悩が活発に動くわけですけれども、例えば私のように、身体の調子で、「甘いものを控えなさい」などと言われて、もうそれは食べられないものである、と観念してしまえば、別に欲しいとも思わなくなる。いわば欲望そのものが決してゼロになったわけでもないけれども、働き出ることがなくなる、という。
 
中村:  私も同じことを感じますね。お菓子は好きですけど、身体のために良くない、と言われますと、ことにこの歳では、食べないようにしますと、そうすると慣れてしまいますね。それから何かご馳走を頂く時に、お醤油やなんかあまりかけちゃいけないと言われます。それも慣れますと、それでそのままずっと通っていきますね。
 
奈良:  なるほど。私どもを不安や苦しみに陥(おとしい)れる、そうした欲望そのものを滅する。ゼロにするのではなくて、それが出てきては抑え、出てきてもコントロールしながら、全体を抑制していくことによって欲望の働き出ることがなくなる。
 
中村:  そういうことなんです。
 
奈良:  それが働きが滅する、と。そうみればわかりいいかも知れませんですね。
 
中村:  自分たちの生活経験に当て嵌めて考えますと、そういうことが言えると思うんです。
 
奈良:  じゃ、そうした点をもう少し発展させて頂いて、原始仏典の中に、歳をとるとか、死ぬとか、誰にも切実な問題なんですけど、やはりこれも一つの欲望なんで、それをどういうふうに抑制をするのか。その辺の大変興味ある物語が原始仏典の中にございます。ピンギヤという人が主人公の話ですが、お話を少し伺いたいんですけれども。
 
中村:  この原始仏典聖典、殊に古い詩を集めたものの中には、実に我々の心の琴線(きんせん)に触れるような話が出ておりますね。それで今おっしゃったピンギヤの話というのは、まさにそれだと思うんです。ピンギヤという老人が、釈尊のところへやってまいりまして、こういって訴えたというんです。「ああ、私は歳を取ったし、もう力もなくなりました。容貌も衰えています。目もはっきり見えません。耳もよく聞こえません。ああ、私が迷ったまま、このまま死んでしまうんでしょうか。どうか迷ったまま途中で死ぬことがないように教えてください」と、そう釈尊に訴えたというんですね。そうすると、これに対する釈尊の答えはですね。
 
奈良:  どうやったらその苦しみを消滅することができるのか、ということの教えになるわけですね。それを一つご紹介を致したいと思います。
 
     ピンギヤよ、ひとびととは渇愛に陥って苦悩を生じ、
     老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、
     それ故にピンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、
     渇愛を捨てて、再び迷の生存にもどらないようにせよ。
             (『スッタニパータ』)
 
中村:  釈尊は実にスパッと答えていますね。老人が老いに襲われている。そして、煩悩がまだ捨てきれない。それを、お前は見ているじゃないか、というんですね。自分で気付いている、と。気付いているんだから、その通り受け取るよりしょうがない。どっか別の世界へ行くということができるわけじゃないんですから。だからそれに気付いて、そして正しくよい生き方を求めていく。それが渇愛を捨てる道であり、そうすれば迷いの生存に戻ることはないんだ。だから老いに襲われ、煩悩にとらわれながらも、その中でそれを乗り越えていく道をみなさい、というわけです。
 
奈良:  ここで「渇愛を捨てて」というのは、先ほどのお話のように、ゼロにする、ということではなくて、そうした欲望を抑制していく。いわばもう歳をとって、今更若くなりっこないわけでありますから、そうしたものをキチッと物事の道理として、もう見ているではないか、と。いわば若さを取り戻すということはできないので、いわばないものねだりをしても致し方がないんで、むしろそうした面から欲望というものを抑制しながら、毎日を怠ることなく生きて、迷いの生存に戻らぬようにせよ、とこういうことなんですね。
 
中村:  そういうことですね。あるがままに自分をみて、そのまま受け取って、そうしてそこに本当の生き方を実現すればいいではないか、と。そういうことになりましょう。
 
奈良:  しかし、自分が歳を取ったとか、あるいは病気になってしまっているとか、あるいは死期が近付いているとか、自分の置かれた状況をあるがままにみるより他に仕方がないし、それを見ないで悪戯に、「ああしたい、こうしたい」と言っても、結局できないわけでありますから、いわば欲求不満で苦しむという。たしかにその通りなんですけれども、実際問題としてなかなかそれが私どもにはできないわけですね。こうしたテレビであまり俗な言葉をいうといけないのかも知れないんですけど、「わかっちゃいるけど止められない」という歌が、私は好きでございまして、私ども一番困るのが「わかっちゃいるけど止められない」ことではないかと思うんですね。ですから、どうやったらその渇愛をコントロールし、うまくしかるべき方向に抑制できるのか。これに関しまして、確かヴァッカリという人の大変興味ある物語があったと思いますので、そのお話を少しご紹介を頂きたいんでございますが、
 
中村:  この「ヴァッカリの話」というのは、実に痛切なものがありまして、我々も大いに教えられるんですが、それはこうなんです。ヴァッカリという年老いた修行僧がいた。もう亡くなる前に、お釈迦様に一遍お会いしたい、と言っていたものですから、そこで臨終の床に、釈尊が来られて、ヴァッカリを見舞った。そういう話でございます。その時ヴァッカリは釈尊に向かって、こう申したのであります。
 
     「尊いお方さま、私はお釈迦様にお目にかかるために、
     お側に参りたいと長い間希望しておりました。
     しかしもう私はお目にかかりに行くだけの体力がありません。
     もうその体力が私の身体の中には残っていないのです。
     ここへ来てくださったのでお目にかかれて有り難い、嬉しいことです」。
 
そう申しました。これに対して、釈尊は、無常なるものを通して永遠なるものを見るということを教えられたのであります。その言葉をご紹介しますと、
 
     「ヴァッカリよ、そんなことは言いなさるな。
     やがては腐敗して朽ちてしまう私のこの肉身を見たとて何になりましょう」。
 
実にはっきり言われたものですね。会いたいと思われているその釈尊自身が、自分のこの身体だって、やがては朽ちて消えて無くなってしまう。その肉体を見たからといって、何になるんでしょうか、と。「物事の理法」―これを「ダルマ」と申しますが―「物事の理法をみる人は、私をみるのです。また、私をみる人は物事の理法をみるのです」。釈尊は、理法、理というものを奉じて生きてこられた。だから自分をみてくれるということは、理をみるということである、と。また理というものは、抽象的にフラフラしているのではなくて、めいめいの人に即して働くもの、生きていくもの。だから、めいめいの人をみることによって、理をみることになる。「実に物事の理法をみている人は、私をみているのであり、私をみているものは物事の理法をみているのです」。釈尊にお会いする。それは朽ちて消えてしまう釈尊の身体をみているのではない。その奥に奉ぜられている理―理法をみることになるのだ、と。と同時に、理法をみたいと思っても、その抽象的なものがフラフラしているわけじゃない。それを現実に奉じて生きておられる釈尊を見ることによって、理法を見ることができるのだ、と。だから釈尊と理というものがピッタリと一致しているわけですね。あるいは別の言葉で言いますと、仏と法というものはピッタリと一致しているというわけです。
 
奈良:  仏教にとりまして基本的な、大切なことかと思うんですね。理法と申しますと、何か理論とか理屈という感じがあるんですが、また確かに、「無常」であるとか、「無我」であるとか、「縁起」であるとか、あるいは「空」であるとか、そういう言葉によって示されようとしている理法というものがあるわけですが、それが単に理屈ではなくて、釈尊なら釈尊という生きて呼吸をして、血が流れている人の、生活をしている人格の中に、それが生き生きと働き抜いている。
 
中村:  そうですね。そこが尊いところなんですね。ただ抽象的な議論をしているだけでは意味がありませんから、
 
奈良:  そうした理法が釈尊の人格の中に生きているからこそ、ヴァッカリという老比丘(ろうびく)は、尊敬する釈尊が見舞ってくださって、大変感激しただろうと思うんです。感激したと同時に、老いというものをどのように超えていくのかという時に、単に釈尊つまり仏にお会いしたというだけではなくて、法というものと一つになった釈尊、仏と法とが一つになった、そうした生き生きした働き抜いた法というものを、釈尊の人格を通して受け取っていく。
 
中村:  そうですね。釈尊の中に尊いものが生きているわけですよ。その尊いものというのは具体的にそれを生きている人を離れてはあり得ないわけですね。
 
奈良:  そうしたことをもう少し具体的にした文章が続いておりますので、それを朗読を致したいと思います。
 
     「ヴァッカリよ、あなたはどう考えるか、物質的な形は常住であるか、あるいは無常であるか」
     「尊師よ、無常です」
     「もろもろの精神のはたらきは常住であるか、無常であるか」
     「尊い方よ、それらはみな無常です」
     「それ故に、(すべてのものが無常であると観じたならば)もはやこの世に生を受けることはないと知るのである」
              (『サンユッタニカーヤ』)
 
ここで理法の内容が、もう少し具体的に無常という言葉で説かれているわけですね。
 
中村:  そうです。「理法」とか、「理」というのは、一般的な表現ですけど、それをもっとはっきりと身に迫る表現を使いますと、無常である、ということですね。今生きている人も、生きているということは尊いが、その身体はいつかは消えて無くなってしまうものである。それを観よ、というんですね。病気に見舞いに来た釈尊が、無常の理を説くと。自分だって消えてなくなるという、非常にパッと突き離したような、と同時に人間の真実をそのまま明らかにしている、そういう教えだと思います。
 
奈良:  ひょっと思い出したんですけれども、文芸評論家の唐木順三(からきじゅんぞう)先生に、『無常』という著述がございます。その中でこういわれています。
 
日本の平安文学では、無常というと、儚いなあという非常に感覚的なもので捉えていた。無常というものを肌で感じていた。この場合には無常感、感ずるという言葉を使うんですね。ところが、中世の鎌倉期以降になりますと、無常を単に情緒的に感ずるのではなくて、私が無常なんだ。そして、無常なるが故に、その無常を超えたところに本当の生き方があるんだ、というふうに、無常を自分の問題としてみてとって、自分の生活に当て嵌めていく。その時には、同じ「無常かん」なんですけれども、無常を観る、無常観という字を当てられまして、無常というものを情緒的に受け取らずに、自分の生き方の問題として受け取るようになる。その代表が道元で、この時、日本の文芸は中世に入るのだ、と。
 
確かこういうことをおっしゃっていたことを、フッと思い出したんです。無常ということは理法の一つでありますし、これは誰にでも当て嵌る事実なんですが、それを、自分とは関係のない科学的な一つの理ですよ、というのではなくて、自分の生活の中にそれを生かしていく。言い換えれば、無常を生きていく。
 
中村:  そうですね。無常を生きていく、無常になりきることですね。そこからはっきりと生を肯定するという立場が出てくると思うんですね。我々の生きていくというのは、結局無常であることにほかならないですが、それに徹することによって、生きるということも実現される、ということになりましょう。
 
奈良:  ということは、無常を観るということは、決して、〈あぁ、世の中すべて移り変わっていく、こんな移ろいやすい、儚い世の中なんかは嫌だ〉という形ではなくて、もっともっと積極的な、胸を張って積極的に生きていく生き方なんですね。
 
中村:  そうですね。無常を体現することですね。自分の身体で感じ、行うということになりましょう。
 
奈良:  そうした点に関しまして、道元禅師のお言葉がございますので、ご紹介を致したいと思います。
 
     無常は仏性なり。・・・
     しかあれば、草木叢林(そうもくそうりん)の無常なる、すなわち仏性なり。
     人物身心(にんもつしんじん)の無常なる、これ仏性なり。国土山河(こくどさんが)の無常なる、
     これ仏性なるによりてなり。
           (『正法眼蔵』仏性)
 
まず、最初に、「無常は仏性なり」とあります。「仏性」という言葉を説明するのは難しいと思いますが。
 
中村:  いろいろ解釈されますけれども、仏の本性(ほんせい)といいますか、本体といいますか、あるいは仏そのものということになりましょう。この仏そのものというものは、実は何も我々を離れたところにある別の世界のものじゃないんだ。この無常なる世界というもの、これが仏さまそのものであると、実に大胆な表現だと思いますが。
 
奈良:  草が生えていたり、木が生えてきたり、自然のたたずまい、あるいは私ども人間がみんな無常なるものとしてどんどん移り変わっていく。無常という事実に覆われている。そこが本当の人間の姿であり、仏さまの姿なんだ、と。こういうことですね。
 
中村:  そうです。それ以外に我々の真理というものもないし、また仏さまのそれ自体というものも、この無常なる世界を離れてはあり得ない。それを感ずることのうちに仏をみることがあるんだ、と。そういう趣旨にとりうるんじゃないでしょうか。
 
奈良:  生死は仏の御いのちなり。
          (『正法眼蔵』生死)
 
というような言葉がございますね。
 
中村:  そうですね。仏さまというのは、永遠なるもので、我々を離れた遠い彼方にあると、世間の人は思いがちだけど、そうじゃない。我々が生まれて死んでいく、この姿そのものが仏さまのいのちである、とハッキリいっておられるわけです。
 
奈良:  そうしますと、私どもが呼吸をし、お昼がきたらお腹が空き、たまには風邪も引き、こう生きている。そして嬉しいとか悲しいとか感じながらいろいろなことをやっている。そうしたものがすべて、無常という理法の中に包まれていて、それが本当の姿であるとすると、その仏の姿に身を投じながら、それを正しく受け止めるためにはかなり努力しなければいけないわけですが。
 
中村:  そうですね。考えてみますと、我々の存在というものは、決して孤立しているものではなく、無限に多くの因縁、原因や条件を受けて、お陰様で暮らしているわけです。だから見方を遠く馳せますと、大宇宙がめいめい一人ひとりの中に生きているわけです。生かして頂いているんだから、その生かしているのを有り難くみて受け取る、ということが究極の生き方ということになるんじゃないでしょうか。
 
奈良:  私どもを包み込んでいる大きな生命、生かしてくれているものをうけながら、ただボヤッと寝ていたんでは本当の生き方になりませんので、努力しながら生きていくという、その辺を実にピチッと書いた中国の中唐時代の禅僧、盤山宝積(ばんざんほうしゃく)禅師の詩がございます。
 
     向上一路 千聖不伝(向上一路(こうじょういちろ)は 千聖(せんしょう)も伝えず)
     学者労形 如猿捉影(学者形を労すること 猿影を捉えるが如し)
             (盤山宝積(ばんざんほうしゃく))
 
中村:  この詩は非常に胸に訴えるものがありまして、私は実に有り難いと思うのです。人生のこの道というものは、結局向上の一路である、というんですね。理想を目指して、そして高きに向かって進んでいく。ただその一つの大道でありますが、どう生きたらいいかということは、言葉では言い表せないんですね。一般的に、「どうなさい、こうなさい」と十把一絡(じっぱひとから)げにいうことはできない。聖者が昔からいろいろ教えてくださったけれども、ギリギリのところはめいめいの人の問題なんですね。だから千人の聖者の言葉を聞くことは、これも是非必要なことですけれども、しかしその言葉からだけでは生かされない。結局はめいめいの人が、自分で体当たりに苦しんでみて、そこで、あぁ、自分はこう生きるんだ、今はこうするんだと、パッと悟りを開くわけですね。だから千人集まっても教えて頂けないことである。これはめいめいの人が体得し、解明すべきことである。ちょうど水面に映った月の影を猿がとらえようとする。いくら手を伸ばして月影を捉えようとしても捉え得ないようなものですね。それと同じで、抽象的な議論というものは、めいめいの人が生かして、体得するものでなければいけない。悟りというものは、個々の人の体得すべきものである、と。そういうことをいっておられます。ここに工夫の必要があるわけですが。
 
奈良:  ここに「学者」という言葉がございまして、むしろこれは、学問の世界の学者という意味よりは、むしろ道を求めて学ぶ者ですね。最初に出てまいりました「毒矢のたとえ」ではございませんけれども、その学ぶ者が、物事の外側の、いわば理屈的なこと、概念的なこと、理論的なことに引きずられてしまうと、それは水に映る月影を猿が取ろうとする、その愚かさに似たものとなってしまうであろう、とこういうことですね。
 
中村:  そういうことになると思いますね。学者というものは学ぶものという意味で、道を求めて実践する人というのが元の意味だと思いますが、しかし同時に、学問で教義を立てたりする、いわゆる学者もやはり含めて言えると思うんですね。
 
奈良:  そうしますと、学問は学問の意味があるわけですけれども、もっと仏法とか仏道を生きていくという面からみますと、私ども学問をやっている人間に対する一つの痛烈な批判であるということにもなりかねませんですね。
 
中村:  真理というものを人に伝えるには、共通な言葉によらなければいけないわけですね。だから学問とか学者の道というものが成立するわけですが、ただそれを受け取るめいめいの人は、自分自身の問題として解決すべきである、と。それを教えられた尊い言葉だと思います。
 
奈良:  今の詩の前半のところに、千人もの聖者さんが来ても、それを伝えていないという。あくまでも言葉としてはいろいろ教えてくださっているには違いないんだけれども、結局生きていくということは自分の問題でしかないわけでありましょうね。
 
中村:  つまりめいめいの人がみんな異なった存在であり、異なった教育を受け、異なった因縁と申しますか、いろいろの数え切れないほど多くの力を受けて、ここに別々の個人として成立しているわけです。だから他の人と取り替えることができないわけです。
 
奈良:  そういうことで、確か釈尊が亡くなられる臨終の言葉として、
 
「もろもろのものは過ぎ去る性質のものである、無常なるものである。だから努力して修行を完成せよ」と言われたというふうに聞いておりますが、結局「毒矢のたとえ」から始まって、ずーっと現代に至るまで通ずる仏教の基本が、自ら実践していくことである、とこういうことかと思います。本日はどうもありがとうございました。
 
     これは、昭和六十三年八月二十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである