東洋の心を語る E飛ぶ鳥に迹なし
 
                         東方学院院長 中 村  元(はじめ)
                         駒沢大学教授 奈 良  康 明(やすあき)
 
奈良:  「東洋の心を語る」というシリーズの第六回目になります。本日のテーマは「飛ぶ鳥に迹なし」ということでございます。鳥が空を飛びます。私たち人間が人生の中を生きております。空を飛び、生きていく、それぞれいのちの極めて具体的な働きなんでありますけれども、そこに迹がないという。一体それがどういう意味があるのか。生き方としてどういう意味を持っているのか。そんなことを少し本日は伺ってみたいと思いますけれども、お話を伺います方はいつもの通り東方学院院長中村元先生でございます。どうぞ先生よろしくお願い致します。
いつものことですと、何か非常に仏教的な言葉がポンと出てくるんですが、「飛ぶ鳥に迹なし」という大変軟らかなテーマなんでございますけれども、言わんとする心と申しますか、ポイントはどういうことでございましょうか。
 
中村:  私どもはこの世の中に生きておりますと、いろいろの煩いもあり、難しいこともあるわけですね。我々は身体を持っておりまして、地上に身体を置いて生きているわけです。空へ飛んでみたい、飛び上がってみたい、という気持に駆られることもありますけれども、実際にはできないわけですね。ところが大空を見ていますと、そうすると鳥が如何にも自由自在に飛び交っておりますね。もう本当に自由で気持ちよさそうです。ああいう自在な境地に我々も達してみたいものだなあと思うことがございますですね。それが仏典ではよく喩えに引かれているんです。
 
奈良:  そうしますと、鳥が空を飛んで行くのは、自由自在な生き方の一つの象徴と申しますか、喩えと申しますか、
 
中村:  自由自在であるとともに、迹に何も汚(けが)れを残さないでしょう。あの境地というものは我々があやかりたいもんだなあと思いますね。
 
奈良:  じゃ、一体具体的にどういうふうにすれば、そうした境地に私どもは達し得るのか、あるいは生活の中で実践し得るのか、その辺のことを原始仏典の中から文例をご紹介しながら、考えてみたいと思います。
 
     その人の汚(けが)れは消え失せ、食物をむさぼらず、
     その人の解脱(げだつ)の境地は空(くう)にして無相(むそう)であるならば、
     かれの足迹は知り難い。
     ―空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
             (『ダンマパダ』九三)
 
『ダンマパダ』は、『法句経』として知られ、原始仏典の中でも一番古い層に属する経典です。そこに「空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように」とあり、その具体的な生き方として、「汚れが消え失せる」とか、「解脱」とか、「空にして無相である」という言葉が出てます。言葉の説明からお願い致したいと思うんですが、「汚れは消え失せ」とは、どういうことでございましょうか。
 
中村:  地上にはいろいろの汚れがありますね。我々の人間の生活にも汚れがある。けれど鳥が空を飛んでいるところを見ると、その迹に何にも汚れを残していないんですね。鳥が飛んだ迹はまた透明で澄み切った大空が見えますね。ああ、ああ、あのような気持になりたいなあ、と昔の人は思ったわけなんですね。
 
奈良:  心身ともに澄み切った汚れのない状況でしょうか。
 
中村:  それを抽象的な言葉でどう表現したらいいか。ここに「空」という言葉が使われているんですね。もう何ら拘りがない。そこに固定的な実体を何も残していないわけでしょう。また、「無相」というのは、姿がないという意味ですね。鳥が飛んでいる時にはそこに姿があります。けど飛び去った迹には何も残さないわけでしょう。清らかな姿だけが見える。ああ、我々もああいう具合になりたいなというのが、昔の人々の願いだったわけです。
 
奈良:  「空」という言葉は、例えば「色即是空(しきそくぜくう)」とかというふうに言いますし、仏教のほうでは大変難しい用語かと思うんですけれども、「空」というのは、そうした仏教の基本思想をいう大変難しい言葉ではあるんですけれども、しかし同時に、妨げのない自由自在な生き方を示す言葉でもあると、こうみてよろしいわけですね。
 
中村:  そうなんです。「空」というのは大乗仏教で多く説かれます。大乗仏教の専売特許みたいにいわれていますけど、そうじゃないんですね。もう最初の時代から空の境地というものは願わしいと思われていたわけなんです。それで「空」という言葉は、実体がない、という意味なんです。我々はいろいろなものをみますと、そこに実体があると思う。けれども、いろいろな事情というものは、もろもろの原因とか条件によって作り出されたものである。その関係をよく悟って、拘りがないという心境に達する。それが空の教えの言わんとするところですね。それを喩えて、どんなものか、と言えば、空飛ぶ鳥のようなものだ。それが空の境地だ、というわけなんです。
 
奈良:  「拘りのない」とおっしゃいましたが、確かに仏道修行という大問題に対しても勿論言いましょうし、私どもの普通の日常生活の中でも、一つの望ましい状況として、「こだわらないようにしよう」などと言われます。実際の生活の中でも、そうした例はいろいろあり得るし、考えていかなくちゃいけないわけでございましょうけどね。
 
中村:  この、拘りのない理想というのは、実際に実現している方々が世の中に大勢おられると思うんです。昔の例では、例えば総持寺(そうじじ)を開かれた瑩山(けいざん)禅師がいます。あの方は総持寺のご開山として知られていますけど、総持寺以外にもお寺をいっぱい造られたんですね。造られてもそれを自分のものだとは思わないで、出来上がるとすっと自分の信頼するお弟子に委してしまわれたんですね。そして全国を経巡って、それぞれの土地に応じたお寺を建ててはまた人に委してしまう。自分は一カ所に拘らないという生活をされました。あるいは、夢窓(むそう)国師の造られた立派な名園が全国のあちこちにございますね。今日から申しますと、あの方は事業家で、現在で言えば土建業者のような仕事をされたわけなんですが、造るともう拘らないで、それをサッと人に委してしまうわけですね。だから自分のものだなんて言い張ることもなかった。
 
奈良:  仕事としてはいろいろな大きな仕事をされていながら、「私がやったんだぞ」とか、「どうだ」といったようなことがなくて、造ればまた次ぎに移って行く。そこに拘りのない、サラサラと流れるような一つの心構えがあるという。
 
中村:  ええ。現在でも、諸方面のいろいろな方が実践して実現しておられることだと思いますね。例えば立派な実業家が一つの大きな事業を完成される。そうすると、後は自分の信頼する人に委せてしまって、自分はまた別のことに取り組んで開拓していかれる、というような例がございますね。拘りのないサバサバとした心境、あれは本当に麗(うるわ)しいことだと思います。
 
奈良:  「空」と申しますと、実践的な面からいうと、拘りがないことだと伺ったわけですが、空というと多くの人がご存じの「色即是空」という言葉がございます。「空」という言葉、「拘りのない」ということ、そして「色即是空」ということ、ちょっと話が理屈めいたことになるかも知れませんけれども、その辺の関係を少し伺いたいんですが。
 
中村:  「色即是空」という言葉は非常に完結に空の理(ことわり)を示しているものですから、どなたでもご存じなんですね。一番有名なのは『般若心経(はんにゃしんぎょう)』に出てくる文句だと思います。どういうことがあそこで説かれているかと申しますと、「色」というのは「五蘊(ごうん)」の一つです。「五蘊」と申しますのは、原始仏教時代におきまして、我々の存在を反省して考えまして、我々の内にある存在の要素を仮に五つの集まりに纏めたものです。「蘊」というのは集まりという意味です。その「五蘊」と申しますのは、「色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)」ですが、最初に出てくるのが「色」です。これは元の言葉で「ルーパ」と申します。容色(ようしょく)が美しいなんていう時も「ルーパ」というんですが、仏教哲学では、色彩を含めて、物質的な形を「ルーパ」と呼びます。漢訳仏典では、訳しにくいもんだから、色(いろ)を意味することもあるので、「色(しき)」という漢字で現しているわけです。
 
奈良:  非常にキチッとしたご説明を頂いているところでこういう話をするのをお許し頂きたいんですが、ある政治家の方が外国人の方に、「色即空、空即色」というのを、「sky is color」と訳したという、ジョークめいた話を伺ったことがございまして、色(いろ)というのは、英語に訳せば「color」でしょうけれども、「color」としてしまうと色(しき)に戻りませんから、ちょっと困ったことになろうかと思うんです。「空(くう)」を「そら」と読んで「スカイ(sky)」というのも随分ひどい話です。」
 
中村:  誤解を生みますですね。
 
奈良:  そうしますと、「色(しき)」というのはもともと色(いろ)という意味があり、形あるものという意味があり、もっと人間に即して言った時に、私どもの肉体も色(しき)という。
 
中村:  大体肉体をいうわけですね。我々の存在をみますと、外から見えるのは身体―肉体でしょう。形を持っていますね。さらに、内を反省しますと、精神生活があるわけです。それを仏教では反省していうわけです。次ぎに出てくるのは、「受」です。我々の精神的な働きは外からの印象を受け取って反応を示します。だから受けるということがある。それに基づいて心の中にいろいろの姿を思い浮かべますね。それが「想」です。
 
奈良:  イメージが出てくるということなんでしょうか。
 
中村:  そうです。そういうようなものが現れ出る場合には内なる形成力があるわけです。捉えにくいけれども、何か我々を動かしているものがある。それを「行(ぎょう)」というわけです。「諸行無常」という時の「行」はつくられたものをいうわけです。そのようなものを反省しますが、さらに考えてみますと、それらをみんな我々は意識して識別しているわけですね。そうすると意識する働きがあるわけです。その「識」が一番根本にある。これで「色・受・想・行・識」と五つになりますね。一応我々の精神作用や物質的な姿というものを五つに分類したわけです。
 
奈良:  もう少しそれを簡単に言いますと、「色」というのが肉体である。今、ご説明頂いた「受・想・行・識」というのは、どちらかというと精神の働き、心の働き、ということは、人間存在というものを「肉体」と「心」というふうに分けて、それを細かく五つに分類してみせたもの、こういうふうにみていいわけですね。
 
中村:  そうです。要するに「身心(しんしん)」と申しましょう。「しんじん」とも言いますが、その二つで括れるわけですね。
 
奈良:  色即是空からはじまって「受・想・行・識」のすべてが空であることをいうわけですから、結局「五蘊皆空」―五蘊のすべてが空である。身心のうち体も空であるし、心も空であると考えていっていいわけですね。「身心皆空(しんじんかいくう)」といえば、ずっとわかりよくなると思うんですけれども。
 
中村:  そういうことになりますね。
 
奈良:  「空(くう)」という字は、「そら」という字でもあるので、何にもない、という意味に誤解されかねません。「身心が空だ」というのは、別に身心がない、ということではないと思うんですが、「空」は本来はどういう言葉だったんでしょうか。
 
中村:  これはサンスクリット語で「シューニャ」と申しまして、「何々が欠けている」というような時に使う言葉なんです。実体がない、実体が欠けている、と。インドの数学では、「ゼロ(0)」のことを「シューニャ」というんです。ゼロの観念を考え出したのはインド人だそうです。
 
奈良:  現在、私どもはゼロの観念を使いませんと、数学おろか日常生活がなり立ちませんね。
 
中村:  そうですね。インド人が考え出した観念がアラビアを通って西洋へ渡っていったわけです。そして、西洋を通じて我々日本人にも知られ、使われているわけです。ゼロというのはどの数字でもない、否定的なものです。それと同じように我々の存在を構成しているものは、未来永劫、何千年何万年も固定して残るものではないでしょう。いろいろの条件に恵まれてここに現れ出ている。しかし、その縁が消え失せればまた消えます。「無常」と言っても同じことです。「無常」というのは消え去る方面だけをいうわけですが、固定的な実体がないという点を強調すると、「空」ということをいうんです。
 
奈良:  「無常」というのが常に移り変わっていくことで、それを別の言葉で説明した時に「縁起(えんぎ)」という言葉があると思いますが。
 
中村:  これも同じ趣旨ですね。「縁起」と申しますのは、「縁(よ)って起こる」という意味でございましょう。「縁って起こる」というのは、如何なるものも無数に多くの原因とか条件がそこに加わって働いて、そして個々のものが現れ出ているということです。我々人間だって、目に見えない多くの人々の恩恵を受けてこうして生きているわけです。さらに人々ばかりじゃありません、生きとし生けるもの、あるいは宇宙のいろいろの働き、力を受けているわけですね。だから個々の人が実に不思議な偉大な力を内に秘めているわけです。そう縁って起こっているということ、それを「縁起」というわけです。
 
奈良:  実は先日あるところで若い方々と話をしていたんですけれども、私なら私というものが存在する時に、両親の結合があり、それぞれの遺伝子が組み合わされる。ですから、顔形や性格、才能その他いろいろなものを、私が独りで作り出したものではなく、両親から受け継いだものがあり、しかも、それがずっと遡っていくわけでしょうし、
 
中村:  そうです。恵みによって与えられたものでしょう。その関係をずっと悠久の昔に辿ることができるわけですね。不思議なものですよ。
 
奈良:  そういう血統とか遺伝子の流れを考えると、タテの関係で悠久の昔に遡っていきます。同時に、現在をヨコに考えると、私どもは経済的な流通機構や社会のさまざまな恩恵を受けながら生きている。とても独りで生きているなんていうことは言えないわけなんです。「生きている」というと、いかにも独りで生きているように見えるので、「生かされている」という言い方のほうが、あるいは感じが出るかも知れません。
 
中村:  目に見えないところでいろいろの縁があって、繋がりがあるわけです。ですから今、我々個人個人は限られた存在のように思われますけれど、目に見えないところでいろいろの繋がりがあって、我々生きている人間が未来をつくり出すわけですね。だから内には無限の力を秘めているわけです。どんな未来が出てくるかわかりません。けれども、我々の中から未来が展開して出てくることは疑いないことですね。
 
奈良:  未来が展開がしていく基本の単位のようなものが私、その私は固定的なものではなくて、いろいろなものが関わり合って、縁起して存在しているもの。だからいろいろ変わっていきながら、そこに無限の力を秘めている存在ということですね。
 
中村:  そうですね。個々の人は、喩えていえば、いろいろの力の受け皿みたいなものですね。その中からまた無限の不思議な未来が展開していくわけです。
 
奈良:  そう考えますと、「ゼロ」は「シューニャ」だそうですが、決して何にも無いという意味のゼロじゃなくって、もの凄い大きな働きを持つゼロでございましょうね。
 
中村:  ええ。無限の可能性を持っているゼロですね。ゼロという喩えは当たっていると思うんです。数を扱う場合に、ゼロというのはそこに何も無いことですけれども、しかしゼロを加えることによって無限の数値が展開するわけでしょう。そういう不思議な働きがあるわけです。
 
奈良:  一にゼロを付けますと一○ですけど、ゼロを二つ付けますと一○○になりますし、何にも無いどころではなくて凄く大きな働きをなすわけですね。そうした空というものが具体的にどういう生き方に連なっていくのか、仏典の中からご紹介をしましょう。
 
     「サーリプッタよ、じつにあなたの身心は喜びに輝き、清浄である。
     ・・・サーリプッタよ、あなたは今いかなるところに住しているのか」
     「世尊よ、わたしは今多く〈空住(くうじゅう)〉に住しています。」
     「サーリプッタよ、もっともである。サーリプッタよ、あなたは〈偉人の住〉に住している。
     サーリプッタよ、なぜならば、〈偉人の住〉こそかの〈空住〉であるからである。」
               (『マッジマニカーヤ』)
 
これもパーリ語で書かれた原始仏典の一つでございますが、ここに「空住」という言葉が出てまいりました。
 
中村:  空の心境に自分は安住している、という意味です。その前後にいろいろの話が付け加わっているんですが、人々はなんか拠り所として、それを自分の拠り所だと思いますですね。それはそれでいいけれど、そのもっと元を見通していく。そうすると空の理(ことわり)にぶっつかる。自分は空の境地に安住しているというんですね。元の言葉で申しますと、これは「スニャターヴィハーラ」となっているんですが、「スニャター」というのは「空」です。それから「ヴィハーラ」と申しますのは「留まる」とか、「安らう」とか、そういうような意味なんです。
 
奈良:  普通は、「ヴィハーラ」というのは「住むところ」という意味で、特に仏教のほうでは、比丘たちがそこに留まって修行する僧院、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)とか、ああしたものもヴィハーラというふうに伺いましたが。
 
中村:  古い仏典では、修行者たちが留まって、くつろいでいるところの建物をヴィハーラといいます。だから僧院のこともいうわけですが、元のサンスクリット語で申しますと、「ヴィハーラ」というのは、「くつろいでいること、安らいでいること」、それを意味するんです。
 
奈良:  単に住んでいるというだけではなくて、何かゆったりと心安らいでいる状態です。
 
中村:  そうです。単なる住居じゃないんですね。それと関連あることを思い出しましたが、インドでもこの頃はレジャーセンターがたくさんできているんですよ。そのレジャーセンターというのは英語ですね。我々日本人も使っているわけですが、インド人はインドの言葉でそれを訳して使っています。それは「ヴィハーラケンドラ」というんです。「ケンドラ」と申しますのは「センター」をインドの言葉で直したわけです。語源はギリシャ語から出ているんですがね。
 
奈良:  ヴィハーラがレジャーの意味ですか。
 
中村:  レジャーの意味なんです。つまり子供たちも楽しみ、くつろぐ。大人もそこでくつろいで、世の憂い煩いを忘れる。それがヴィハーラなんですね。
 
奈良:  先ほどの文章で、「サーリブッダ(舎利仏)」が空に住している」ということは、なにかしかめっ面、難しい顔をして修行しながら住んでいるということではなくて、ゆったりと楽しんでいる状態で住んでいる。
 
中村:  そうなんです。漢字で表現するのはなかなか難しいでしょう。だから漢訳者は「空住」と訳したわけですね。しかし、元の意味は、くつろいでいる、安らいでいる、という心境を示しているわけですね。
 
奈良:  冒頭のところに「心身が喜びに輝いている」とあるのも、それでこうわかるような気が致しますね。空に住するということが、心の安らぎを得させるようなキラキラした生き方であるということですが、もう少し具体的な例を出しながら考えてみたいと思います。今度は同じ空というものが実践されていくにしても、死を直接問題にした文章がございます。
 
     モーガラージャがブッダにたずねた。
     「どのように世間を観察する人を、死の王は見ることがないのですか?」
     「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。
     そうすれば死をのり超えることができるであろう。
     このように世界を観ずる人を〈死の王〉は見ることがない。」
              (『スッタニパータ』一一一九)
 
短い文章でありますけれども、「死の王に見(まみ)えることがない」ということは、不死を得る、死なない、ということで、勿論物理的な意味ではなく、精神的なことでしょうが、「自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超える」とありますね。この辺少し内容的なご説明をお願い致したいんでありますが。
 
中村:  「死の王」というのは、元の言葉で「マーラ」と申しますが、これを「悪魔」と訳すこともございます。悪魔のうちで一番恐ろしいものは死魔(しま)ですね、死の悪魔です。これが人間を襲っている。我々はそれに脅かされている。どうしたらその恐れから逃れることができるか。考えてみると、我々は自分自身の奥に特別の「自我」と申しますか、「霊魂」とがあり、それが脅かされるんだ、と思っている。けれども、実体としての自我というものは、あり得ないんじゃないか。つまり我々がこの世に生まれてきたのも、いろいろの縁が加わって、父母から生まれたわけですね。そして縁が消え失せれば、またこの世を去っていくことになります。その道理をみることが空を観ずる、ということなんです。それによって我々は悪魔にとらわれることがなくなるだろうというんです。これは仏教の立場から、一種の安心(あんじん)を説いているわけです。西洋ではどちらかと申しますと、霊魂があって、その霊魂が不死であることを基礎づけるというのが、哲学者の仕事だったわけです。ところが、仏教の哲学者は必ずしもそうは思わなかったんですね。
 
奈良:  「無我」という考え方もございますし、「無我」という言葉も、先ほどの「空はまた無我だ」というふうに教えて頂きました。「無我」という言葉もいろいろ意味があるようでありますけれども、つまり我執を無くせ、ということと同時に、霊魂的なものを認めない立場ですね。
 
中村:  必ずしもそれを想定しない。西洋の哲学では、例えばカントなんかも、「霊魂不死」ということが一つの要請で、それによって道徳が成立すると言っていますね。日本の知識人でも大体それを奉じている方が多いと思うんです。けれども、仏教の哲学者はそこで一つの反省を加えるわけなんです。もし霊魂という実体があって、それが本当に不滅なものであれば、人を殺しても構わないじゃないか、という議論が出てくるわけですね。
 
奈良:  ほんとに殺したことにならないから。
 
中村:  ええ。殺しても霊魂がまたほかに乗り移る。霊魂は残るのですから、殺したことにならないんだ、というんですね。そうすると、人を殺しても構わないということになる。あるいは、バラモン教のほうで、神々に犠牲獣を捧げますね。生き物を殺すのは可哀想じゃないか、と我々は思いますけれども、しかし一部のバラモン教の教義学者たちは、「いや、彼らは殺されても霊魂があるんで、それが天の世界に生まれるから構わない」というんですね。そうすると、そういう考え方のほうがかえって道徳を破壊することになる。
 
奈良:  これはインドに生活をしてみますと非常に感じるんでございますけれども、インドでは「輪廻(りんね)」という観念がかなり物理的な形で受け取られておりまして、人間が生きている→亡くなる→また別の形で生き続けていくという。これが非常にストレートに受け取られておりますね。私ども現代人は人間の一生に重点をおく考えが強いんですが、これが生まれ変わり、死に変わりの長い広がりでみるとすると、同じ霊魂がいろいろと形を考えて生き続けていく。例えば今のお話ですが、バラモンたちがお祭りをするのに生け贄を捧げる。今はあまり行われませんが、お祭りに使われるために殺されるのであるから、その鳥なら鳥の霊魂は救われて天にいくという説明は、それなりの説得力を持っていたわけですね。
 
中村:  そうなんです。その点を仏教の哲学者は盛んに突いたわけですね。むしろ我々の存在が儚いものである、ということを理解することによって、人々に対する慈しみ、同情も起きてくるわけですね。お互いに儚いものだ。だから生きている間は仲良く、人に思いやりを持って暮らしていこうじゃありませんか、と。そこから仏教の慈悲の道徳の理想が出てくるわけです。
 
奈良:  そういう生活を心掛けることが、人間として本当の意味で生きているということなんですね。
 
中村:  そうなんです。そこに生きる意義が実現されるわけです。
 
奈良:  その時その時を充実した、ほんとに生き生きとした人生を展開していくことを、不死、〈死の王〉は見ることがない。とこう見ているわけですね。そのためには、空を生きる、あるいは空に住する、それなりの努力がないといけないのでしょうが、そうしたことを見事に言い当てた経典がございます。
 
     つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。
     つとめ励む人々とは死ぬことが無い。怠りなまける人々とは、死者のごとくである。
              (『ダンマパダ』二一)
 
中村:  これは短い詩の文句ですが、非常に含蓄が深いと思いますね。人が生きているとはどういうことであるか。人として努めているところにある。それぞれの人には努めがございますが、それを実現するところに人の生きている所以があるんだ。ただ我々の肉体を保持するために、どれだけかのカロリーを摂っているということは、それは肉体は保持していることになりましょうけど、必ずしも生きているということは言えない。生きているということは努めることである。ここで、また前に出ました「飛ぶ鳥の喩え」が生かされると思うんですね。鳥は空を飛んでいて、ああ、楽しそうでいいなと思うけど、飛ぶという努力はしているわけなんですね。鳥が飛ぶのを止めましたら、パタッと落ちてほんとに死んでしまうわけでしょう。鳥なりに飛ぶ努力をしている。それと同じように人間も、努め励むというところに生きる所以があるということを教えておられるわけです。じゃ、そこでこういう疑問が出されるかも知れませんが、例えば病気の方もありますね。なかなか身体を動かせない方もある。そういう人々はどうしたらいいんだ。丈夫な人々のような労働はできないでしょう。けれど、やはり充実した生き方というものを示すことができるわけです。例えばその病人の方が人に会って、優しい言葉をかける、と。そうすると会いに来た人はそこに喜びを感じるわけですね。また笑顔を施す、ということも仏典で説かれていることでありますが、病んでいる方が笑顔を見せてくだされば、見舞った人も嬉しくなりますね。心の交流ができるわけです。たとえ身体が動かなくてもその方は生きておられることになるんですね。
 
奈良:  充実感を確かめながら生きるということは、必ずしも健康な時だけとは言えないのはその通りだと思います。今、お話を伺いながらフッと、最近本で読んだことをフッと思いだしたんですが、二十歳前後のあるお嬢さんが、不幸な事故に遭って、足を失うような身体不自由なことになった。いろいろ悩まれたことは勿論間違いないんですけれども、その方が、「私はもともと本を読むのが好きで、今度足が不自由になったから、あんまり外に出ないで済むから、本を読む時間がたくさん増えて嬉しいわ」と、こうおっしゃったという。そのうち義足を付けますが、しかし前ほどは動けません。そうしますと、「前からやろうと思っていたお料理が家の中でとってもよくできるから嬉しい」という。こういうふうにさりげなくおっしゃるまでには、どれだけ苦労されたか、というのがよくわかるんですけれども、しかしとにかくそういうふうに見方を高い立場に立って前向きに事態を見れるというところに、今、先生のおっしゃいました、充実した努め励みながら生き甲斐を確かめていく生き方が出てくる余地もあろうかと思うんですね。
 
中村:  そう思いますね。我々の生きている世界というのは、ただ目に見えている範囲のことだけではないんですから。その裏に、その奥に不思議な力が働いているわけです。そこまで思いを馳せますと、それぞれの人の生き方というものが出てくるんじゃないでしょうか。
 
奈良:  先ほどのお話で、空飛ぶ鳥が羽を動かすのを止めると墜落してしまう、という。同じように私どもも一生懸命生きているところに、努力を続けるところに、空(くう)に住する秘訣があるんでしょうけれども、その辺のところをもう少し突っ込んだ形で述べた文章がございますので、これをご紹介をしたいと思います。これは至道無難(しどうぶなん)禅師の言葉なんでありますが、
 
     応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)
     すむ所 なきを心の しるべにて
     そのしなじなに まかせぬるかな
         (至道無難)
 
タイトルに、「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」―まさに住するところ無くして、しかも、その心を生ずべし―とございますが、やはり努力をしながら拘らないということでしょうか。
 
中村:  そういうことですね。これは『金剛経』の言葉です。非常に有名でよく知られておりまして、それを至道無難禅師が和歌に表現されたわけです。『金剛経』の実践観というものはここに集約的に表現されていると思うんですね。例えば禅宗で有名な六祖慧能(えのう)という方は、薪を取りに行った。その時にあるお坊さんが『金剛経』を読誦(どくじゅ)していて、「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」と言われた。そこでハッと思って、自分は仏門に入りたいと思って、それで修行に努めることにされた、という伝説があります。これは伝説ですから、どこまで本当か知りませんけれどもね。
 
奈良:  しかし六祖慧能禅師が仏法を修行される時の話は、心を生じて、しかも拘りを離れるという、非常に重要なポイントをおさえている伝承のように思うんですけれども。
 
中村:  そう思いますね。「応無所住」でしょう。滞るところがなくて、そしてしかも悟り、理想を実現しようとする、その心を生ずべきである、と。それを具体的にどう表現するかということになりますと、至道無難禅師が言われましたように、「その品々にまかせぬるかな」ということになるんじゃないでしょうか。人々の置かれている境地はいろいろ違います。仕事も違います。だからそれぞれに応じて、拘りのない気持で理想を追究していく、というところに集約されるんじゃないでしょうか。
 
奈良:  仏法の修行だから、こうしなければならない。右向け右、というわけには、とてもいかないと思いますし、また私ども生きていくということであるだけに、そうした一人ひとりの個別のものでなかったら生きていくことになりませんでしょうね。例えば自動車の運転をするに致しましても、運転するのは一人ひとり別でございましょうし、やはり努力する、生きていくということはそれに似たものがございますね。
 
中村:  そうですね。自動車を運転する方でもやはり車に応じて、それぞれの方の好みというか、癖がでるようですね。これは当然のことだと思うんです。
 
奈良:  たまたま車の話が出たんですけれども、心を生じて、しかも滞るところがない。これは何か一つの理想を掲げまして、生きていく努力は続けなければしょうがないんですけれども、それがいつまでも、私はああしている、こうしている、という拘りがあると本物ではない、ということにも当て嵌まるわけでございましょうか。
 
中村:  そう思いますね。理想を掲げるのは是非必要なことですけど、その理想というものを、何か空虚な概念と誤り解して、固執していると、とんでもないことになる。やはりそこは柔軟な融通のきく、それぞれの置かれた事情に応じて、もっとも適切な仕方で理想を具現する、ということが必要じゃないでしょうか。
 
奈良:  仏教のほうで、「三昧(さんまい)」という言葉がございまして、一般的には「読書三昧」とか、なんか夢中になって一つのことをやっているという意味で使われますけれども、この三昧が、空に住する生き方とそこで繋がるものがある、というふうに承ったんですが。
 
中村:  そうですね。表裏の関係にある、とでも申しましょうか。「三昧」と申しますのは、サンスクリット語に「サマーディ」の音を写しただけのことです。字には別に意味はないんですが、「サマーディ」と申しますのは、邪念を離れて心を統一することです。別の言葉では、「ヨーガ」とも申します。「ヨーガ」が精神統一でもあると同時に、元の意味は努めること、という意味です。殊に努力して仕事に努めることをインドでは「カルマヨーガ」と申します。集中する中心はあるわけですが、それを実践する、努力する。そこまで「ヨーガ」とか「サマーディ」ということの中に含められるわけです。
 
奈良:  そうした一つの生き方というものが、具体的にどういう具体例として出てき得るのかという、宮本武蔵の例をここでご紹介を致したいと思うんですけれども、
 
     武士のおこなふ道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、
     朝朝時時(ちょうちょうじじ)におこたらず、心意(しんい)二つの心をみがき、
     観見(かんけん)二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、
     まよいの雲の晴れたる所こそ実の空としるべき也。
             (宮本武蔵・五輪書「空之巻」)           
 
『五輪書(ごりんのしょ)』は、世界を構成するといわれる「地・水・火・風・空」という五大元素に準えて地の巻、水の巻、火の巻という形で章を分けて、宮本武蔵が剣の心得を書いたものでございます。宮本武蔵が仏教の「空」というものをどこまで勉強されたかよく存じませんのですけれども、ここに「心の迷う所なく」、それから「迷いの雲の晴れたる所」は、毎日毎日怠ることなく、ずっと努め続けるところに働き出るということかと思いますんですけれども。
 
中村:  本当の達人の心構えでしょうね。
 
奈良:  「心意(しんい)」とか、「観見(かんけん)」とか、基本的な心の持ち方、ものの見方、そして、それらの生活の場における具体的な働き、そうしたものがピタッと一つになるような形で―一つのことをやろうと志しながら、そのやろうという拘りも捨てて、自由自在に身体が動いていく。どうもそういう境界のようでございますけれども、考えてみますと、「自由自在」というのも、そういうところに秘訣があるようにも思うんでございますけれども、
 
中村:  そうですね。自分が何かしようと思う時に妨げがない。それが自由自在ということでしょうから。
 
奈良:  その自由自在の極致を一つ道元禅師のお歌の中からご紹介をして、その辺を一つまたお話を伺いながら纏めを致したいと思いますが、
 
     水鳥の行くもかえるも迹たえて
       されども道は忘れざりけり
          (道元・傘松道詠(さんしょうどうえい))
 
道元禅師の『傘松道詠』の中の一つのお歌でございますが、本日の一番最初に原始仏典の中に「飛ぶ鳥迹なし」というのが出てまいり、日本の道元禅師になりまして、「水鳥の行くもかえるも迹たえて、されども道は忘れざりけり」と、やはり空という生き方がずっと連なっているということでございましょうか。
 
中村:  そうですね。最初期の仏教で、飛ぶ鳥の喩えが出てきました。それから我が国に教えが導き入れられて、またここで仏教の実践の極致を示すものとして、道元禅師がこのように詠まれたということは、これはまったく不思議な偉大なことだと思いますですね。
 
奈良:  今の歌の「道は忘れざりけり」というのは、水鳥が迹を残さず自由自在に生きながら、行き着くところにはちゃんと行きつく。この道は仏教のほうでいう理法、理想、法ということでしょうね。
 
中村:  そういうことになりますでしょうね。水鳥は自由自在に飛んでいますから、勝手に動いているのかと思うと、決してそれではないわけですね。北の方の国に住んでいても、冬になって寒くなると南の方へ飛んでやってまいりましょう。そしてまた時期が来ると元へ戻って行く。ちゃんと方向を知っているわけですね。決して出鱈目に飛んでいるわけじゃないんです。もし出鱈目に飛べばほんとに死んでしまいますから。まあ我々にはわかりませんけど、水鳥には独特の感覚や機能がありまして、そして行くべき道を知っているわけなんですね。人間に当て嵌めてみますと、自由自在といっても、何でも出鱈目に勝手なことをする、という意味じゃないんですね。人間には行うべく道筋がある。それは所により、時により、いろいろ実践の仕方は違いましょうけれど、その方角は一定しているわけですね。それを仏教では「ダルマ」、訳して「法」といっているわけです。だからこそ「仏法」というわけですね。本当に達した人は法を忘れることはないわけなんです。改めて自分は法に則っているんだぞ、なんて言わなくとも、その人のなされることは、ひとりでに人間の理法に合致している。最初は戒律なんていうものもありますから、修行者の方は戒律にそって実践するでしょう。また、世間の方々はそれほど厳しい戒律でなくとも、このように生きるできであるという、その生き方を努めて体得されるでしょう。けれども体得されると、もう身に付いてしまうんですね。ことさら自分で努力しないでも、自ずから道に合致して、道から離れることがない。そういう境地に達しておられることをいうんだと思います。
 
奈良:  これは中国の諺ですけれども、「欲するところに従って矩(のり)を踰(こ)えず」というのがありますが。
 
中村:  同じことですね。あれは中国の儒教の言葉でしょうが、儒教だろうが、仏教だろうが、人間の理法というものは、普遍的なあまねきものですね。誰でも従うべきものですから、達している人は自ずから道を実行している。必ずしもそう難しいことじゃないと思うんですね。現代の生活で考えても、ドライブに慣れておられる方は楽に運転しておられます。最初は規則を全部覚えなければいけない、なかなか苦労されたと思うんです。けれども、達してしまうと我が身に付いているので、悠々とドライブして、決して道から外れることはしないわけですね。
 
奈良:  運転しているという意識さえ消えていて、しかも間違わずに運転してまいりますね。
 
中村:  その方にとってはもう車の輪が自分の身体の一部になっているわけですね。
 
奈良:  昔から、例えば馬術の名人は「人馬一体」ということを言いますし、今でいうと、「人間と自動車が一体」ということでありましょうか。あるいは、テニスや道具を使う体操競技であっても、ほんとに最初は血みどろの練習をするでしょうけども、ほんとにそれがピタッと一つになってくる。例えばテニスであれゴルフであれ、ラケットの長さとかクラブの長さが、それだけ腕が伸びたかと思うぐらいに自由自在に動いていく。それが練習の初期はなかなかできないけれども、それが慣れてくる。未熟なところから熟練するまでのプロセスはあるけれども、その理想を求めて、道を外れることなく、日々に努力をしていくことが空に住することであり、それが次第次第に身に付いたものとなっていく。そこに拘りがない、「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」という『金剛経』の境地に到達する。そういう一つの境地を仏教が教えているわけでございましょうね。本日は「飛ぶ鳥に迹がない」ということをテーマとしながら、それが私どもの毎日の生き方の中にどのような意味を持つのか、いろいろな面から実は伺ってきたわけでありますけれども、空ということが、私どもの日常生活にとって非常に身近な問題であるというようなことかと思いますが、本日はどうも先生ありがとうございました。
 
     これは、昭和六十三年九月二十五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映れたものである