東洋の心を語る I山色清浄身
 
                       東方学院院長 中 村  元(はじめ)
                       駒沢大学教授 奈 良  康 明(やすあき)
 
奈良:  「東洋の心を語る」ということで、昨年の四月から毎月一回、いろいろなテーマの中でお話を伺ってきたわけでありますけれども、今月はその第十回になります。テーマが「山色清浄身」ということでありまして、お話を伺います方はいつもの通り東方学院院長の中村元先生でございます。よろしくどうぞお願いを致します。
今日のテーマが「山色清浄身」という。山の姿がそのまま清らかな真実の現れであるといっていいのか、あるいはその山のたたずまいの中に真実の働きを見てとるといいますか、如何にも清々しい、お正月に相応しいようなテーマかと思うんですけれども、まず、「山色清浄身」という言葉の意味のほうからいろいろと伺いたいんでございますが。
 
中村:  「山色清浄身」と申しますのは、中国の詩人として有名な蘇東坡(そとうば)の詩に出ている言葉に基づいて言われているのであります。蘇東坡は中国の宋(そう)時代の詩人でして、西暦で1036-1101年にわたっての人で、中国のみならず日本にも非常に影響の大きかった人でございます。この人が自然世界の特別な宗教的、哲学的意義をたたえ、そこに宗教的、哲学的なものを認めたということで知られているのでございます。それで自然の美しさを讃えるというような詩はインドにもいろいろございます。ただインドにおけるそういう趣旨の詩は、どちらかと申しますと、人間関係というものは煩(うるさ)いもので、人間から逃れて自然の景色の美しいところへ来て住んで、ああ、いいな、清々しいなあと感じる。そういう趣旨のものが多いと思うんです。ところが蘇東坡の場合には、それを一歩進めているんですね。我々を取り巻いている自然の世界―目に見える山の色合い、形、姿。これが、ああ、実は仏さまの清らかな身体がここに現れているんだ、といっているわけなんですね。
 
奈良:  そうしますと、自然というものをどう見ていくのか。自然とどう付き合っていくのか。ということは、もう一ついうならば、積極的にどう生きていくのか、という非常に積極的な生き方に関わる一つのテーマと思います。まず早速に、蘇東坡のこの本日のテーマの元になりました蘇東坡の詩をまずご紹介を致したいと思います。
 
     渓聲(けいせい)便(すなわ)ち是廣長舌(これこうちょうぜつ)
     山色(さんしょく)豈(あに)清浄身にあらずや
     夜来(やらい)八萬四千偈(げ)
     他日(たじつ)如何ぞ人に挙似(こじ)せん
        (蘇東坡)
 
なかなか奇麗な美しい詩でございますけれど。
 
中村:  いい詩ですね。これは昔から有名ですが、禅の書物にも取り入れられておりまして、『続伝灯録』二十六巻の『東坡居士章(とうばこじしょう)』にも出ておりますが、中国人には非常に訴えるところがあり、さらに日本でますます持て囃(はや)されたわけです。私は、台湾の南の高雄というところに最近出来た大きなお寺へまいりました。そうすると、山の上の高いところに位置していますが、せせらぎの音が聞こえるんですね。竹藪もあり、樹木も茂っている。その側にこの詩の文句が書いてあったんですね。ということは、今の中華民族でもこの詩の精神をたたえている、というわけですね。
 
奈良:  蘇東坡という方は、大変な詩人であり、書家でもあったわけでありますけれども、非常に仏教にも造詣(ぞうけい)が深くて、たしか今の詩も照覚常総(しょうがくじょうそう)禅師という方に自分の仏教の悟りの境界を示して、「それでよし」と言われた詩である、と伝えられている。
 
中村:  常総(じょうそう)禅師に呈して、「その通りだ」と認められたというので、中華民族、日本人には訴える詩なのであります。
 
奈良:  ここにございます「渓声(けいせい)」というのは、谷川の水の音ですね。
 
中村:  そうです。
 
奈良:  「廣長舌」というのは、インド以来、釈尊の三十二相の一つで、釈尊が舌を出されると顔を覆うぐらい大きかった、と。
 
中村:  そうなんです。耳まで達する、と言われているんですね。
 
奈良:  それから転じて、説法が雄弁で、素晴らしいことをいう言葉だと思いますけど。
 
中村:  そうなんです。ですからこの詩は、谷川のせせらぎを聞いても、そこに仏さまの説法の声が聞こえる、というんです。
 
奈良:  そうしますと、「山色清浄身」ということは、どういうことでございましょう。
 
中村:  趣旨は同じことになりますが、谷川のあるような山の姿、色、形、それがすべて仏さまの清らかな身体を現している、というのであります。
 
奈良:  きっと蘇東坡がそこに泊まっていたんだと思いますけれども、夜中からずっと谷川の水の音、あるいは山のたたずまい、そうしたものが八万四千の説法の言葉を発している、ということでございましょうか。
 
中村:  そういうわけですね。「偈(げ)」と申しますのは、仏典でいう詩の文句ですね。「八万四千」というのは、たくさんのことをいう場合によく使うんです。我が国でも、例えば「八万四千の法蔵をしる」なんていう言葉が蓮如(れんにょ)上人の『御文章(ごぶんしょう)』にもございますね。たくさんをいう数値でございますが、これは八万四千の法門の意味です。夜中から谷川のせせらぎ、風の音を聞いていると、あそこに八万四千の教えを説いていらっしゃると、蘇東坡はそう思ったわけですね。
 
奈良:  谷川の水の音というのは普段必ず音が出ているわけでありますし、山というものも当然最初からそこにあるわけで、私どもはしょっちゅうそれを見たり聞いたりしているんですけれども、蘇東坡のような受け取り方というのは普通は致しません。これは蘇東坡の仏教の悟りの世界と申しますか、真実を見通していく世界を心で頷(うなず)いているので、一般の人には聞こえていながら、その宗教的な意味がわからない。蘇東坡は自分の理解した、心に頷いた意味をこういう形で説いている。
 
中村:  そうですね。自分がハッと打つものがあったわけですね。心に響くものがあった。それを「他日―いつの日か、どういう具合にして人に挙似(こじ)せん」と。他の人々に、何として提示することができようか、と。ただ、宇宙の神秘に打たれているという、そういう気持ですね。
 
奈良:  これは理屈で言ってわかるものではなくて、一つの宗教的な修行が積んできた挙げ句の心境でございましょうから、人に伝えるというのもなかなか難しいかと思うんですが、しかし、なかなか私どもは自然というものを素直に見ることを致しませんですね。例えば春の後に夏が来て秋が来るとか、谷川の水が流れているとか、山があって風が吹き渡っていくとか、そうしたようなことを何か人間の、自分の立場から勝手な解釈をして、いわばはからいを持ち込んで、それが自然をそのまま、あるがままに見ていないということがあるように思いますんですが。
 
中村:  この自然環境に対する対し方、とらえ方の問題ですが、インドの大乗仏教の哲学者も同じ趣旨のことは言っているわけです。例えば大乗仏教の哲学者として有名な龍樹(りゅうじゅ)はこう言っているんですね。「如来の本性は如何なるものであるか。如来の本体は即ち輪廻の世界の本体である。世界と如来とは一つであって区別はない」とこういうような抽象的な表現をしているわけです。哲学的にはそれでいいですが、一般の人に訴える時はもっと具象的なものをもってきたほうがいいわけでしょう。それで東アジアの国々、ことに中国とか日本では、「渓声山色」というものをもってくるとピンとくるわけです。一つには東アジアの自然環境が美しいということもあると思うんですね。
 
奈良:  そうだろうと思いますね。自然が厳しい所ですと、自然のたたずまいの中に清らかな真実が現れているといってもなかなか見にくいだろうと思うんです。
 
中村:  見にくいと思いますね。ところが、これで日本人はピンときましょう。だから日本で、ことに持て囃されるんじゃないでしょうか。
 
奈良:  おのずと美しい自然の中に真実の姿が現れている。どうも私どもは、人間の自我、欲望を持ち込みますんで、その通り見ないんですが、これは釈尊以来、いろいろ表現は違うんですけれども、人間の自我、欲望、はからいを持ち込まないで、ものをありがままに見ていくというのは、仏教の一つの伝統としてあるように思いますんですが。
 
中村:  そうですね。もう非常に古い最初期の仏典から、「如実に見る」(如実知見)ということをしきりに説いているんです。「ヤターブータム・パッサティ」と元の言葉では申しますが、「あるがままに見る」。それもいろいろな意味合いがございまして、自然科学的な対象として、事物をあるがままに見る、という、それも勿論説かれていることですが、しかしそれよりも以上に、人間の生きる姿、人間の生き方をあるがままに見て反省する、ということを、仏典では最初の時期から説いているのであります。
 
奈良:  そうしたことをピタッと言い当てた仏典が一つございますので、それをご紹介をしながら、その辺のことをもう少し詳しく突っ込んで伺ってみたいと思います。
 
     この世において智慧ある修行者は、
     覚(さと)った人(ブッダ)のことばを聞いて、
     このことを完全に了解(りょうげ)する。
     何となれば、かれはあるがままに見るからである。
          (『スッタニパータ』二○二)
 
『スッタニパータ』からでございまして、釈尊の言葉がたくさん含まれていると言われております最古の仏典の一つでありますけれども、ここに「あるがままに見る」とありますが、「あるがまま」という言葉はよく使うんですけれども、ほんとに「あるがままに見る」というのは大変難しいと思うんですね。
 
中村:  そう思いますね。自然現象をあるがままに見る、ということは、これは誰でも同じようにできることなんですね。そこに差があることはないし、またあってはならないんですが、ところが人間に関すること、あるいは自分が含まれている事柄について、あるがままに見る、というのは難しいですね。人間には自分を中心にして見たり考えたりするという傾向があるものですから、当たり前といえば当たり前ですけど、その当たり前のゆえにまた難しい、と思いますですね。
 
奈良:  例えば春夏秋冬、日本で季節の移り変わりはもう動かしようがないのに、寒い時ですと、早く温かい夏が来ないか、といいます。先日若い人に会いましたら、スキー場に行ったら雪がなかったとか帰ってきて、怒っていましたけれども、それなりの理由があったから雪がなかったので、それを雪がないのはけしからん、というのは、自然に対してあるがままを見ていないことになるわけだと思うんですね。
 
中村:  どうしても人は自己中心に見て考えるようになりますし、よく世間でも申しますが、「希望的観測」というのがございますね。こうありたいと願う。そうすると、それが同時にそうある、という事実と誤認されてしまうわけですね。
 
奈良:  私どもの毎日の生活の中で、私はこう思うとか、私はこう見ました、とかというのは、結局人間のはからいを通してしか見ていない。人間というのはどうもそんなものじゃないかと思うんですけれども。
 
中村:  これは仕方がないのかも知れませんけど、と同時に、そういう傾向があるということをいつも反省している必要があるんじゃないでしょうか。
 
奈良:  雪がないのに、「雪がないのはけしからん」といったところで、いうなれば、これはないものねだりでありまして、結局あるがままに見ないから、ないものをねだって、そして欲求不満を起こして苦しんでしまう。生活の中の一コマにかこつけていうと、どうもそんなことかと思いますんですが、仏典の中に、具体的にはどのようにあるがままに見ていくのか、ということの教えがございますので、まずご紹介を致したいと思います。
 
     「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常))
     「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆空)
     「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)
     と明らかな智慧をもって観(み)るときに
     ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
        (『ダンマパダ』二七七ー二七九)
 
『法句経』からの一節でありますけれども、ここにすべて存在するもの、つくられたものは無常である。苦である。そして、「我ならざるもの」というのは、「無我」ということでございますね。
 
中村:  そうです。この三つの事柄は、『ダンマパダ』ばかりでなく仏典の中ではよく出てくるんです。最初の「一切の形成されたものは無常である」は、ありとあらゆるものはつくりだされたものですね。それには原因や条件がそこに働いている。因縁によってつくり出されたものですから、原因とか条件が消えてしまうと無くなるわけですね。だから無常です。これを「諸行無常」というわけです。「諸行」の「行」はつくられたものをいうわけでございます。次ぎに「一切の形成されたものは苦しみである」と。自分の経験するものというのは、因縁により原因条件によってつくり出されたものでしょう。自分がつくったものじゃないわけですね。自分が「こうありたい」と思ってもその通りにならないわけです。思うようにならない、ということを、仏典では「苦」とか「苦しみ」と言っているわけなんです。
 
奈良:  なるほど。具体的に、何が足らないとか、これがない、というよりも、思い通りにならない、広い意味で言っているわけですね。
 
中村:  広い、一般的な意味ですね。それを訳す言葉が見つからないものだから、もとの言葉の「ドッカ」を仮に「苦」と訳しているわけです。思うようにならない、ということです。そこから世間でいう苦しみも出てくるわけですね。
 
奈良:  なるほど。最初に伺いました通り、すべてものが原因と条件が和合することによって出来ていて、ほんとに必然の流れがあるわけで、だから雪が降らなかったわけで、それを雪が何でないんだ、ということは、いわば思う通りにならない不満が苦をもたらしている。具体的にいえば、そういうことかと思うんですが。
 
中村:  自分の希望だけをそこにつけているんですね。
 
奈良:  そうしますと、そうしたことを明らかに見ていく。三番目に、「一切の事物は我ならざるもの」とありますが。
 
中村:  これは古い仏典によく出てくる決まり文句なんです。我々が欲しいと思うもの、あるいは嫌うものも思う通りにはならないわけでしょう。何故かというと、自分ではないからだ、というんですね。これらの事物はすべて自分ならざるものである。非我である、我にあらざるものである、という説き方が多いのです。と同時に、それが自分に属しているものではなくて、やがては自分から離れて消え失せるわけです。長い期間にわたって続く実態を持っていない、本質を持っていない。そこで「無我」という表現もよく使われるんです。「諸法無我」なんていうことを申します。最初は「無我」という言葉は、我欲を無くする、我執を無くする、という意味に使われることが多かったんですが、哲学的な意味では、「非我」も「無我」も同じような趣旨に帰着するわけであります。
 
奈良:  哲学的には同じかも知れませんけれども、生活実践という面からみますと、どんなものもこれが私のものですよ、と握り締めることができない。どんなものでもこれは私ではないんですよ、といったほうがわかりいいですね。すべてのものは移り変わっていくし、それを無理に人間の思い通りにしようということで、人間のはからいを持ち込んでいくと、欲求不満に陥って苦しみをもたらすことになる。
 
中村:  そうですね。だからこそ、あるがままにみるということが必要になるわけですね。
 
奈良:  ということは、自分の欲望を持ち込まないということが、あるがままに見るということに連なっていく。
 
中村:  自分の欲望は欲望として、またあるがままに見て、それに対してどうしたらいいかということを、またあるがままに見たところによって考える、そういう道筋が必要ですね。
 
奈良:  そうでございましょうね。どっちみち私ども人間は自我、欲望から離れることはできないんですから、それを見て、それにかかずらわって引きずり回されると、苦しみがいつまでもとれない、ということかと思いますけれども。
 
中村:  だから、如実に見る、ということが必要だというわけですね。
 
奈良:  それが明らかな智慧で観る時に苦を離れる、と。雪がない時は雪がない時のように、嬉しい時には嬉しい時のように、暑い時には暑い時のように、それをそっくりそのまま見てとって、それを勝手に、「ああなれ、こうなれ」と言わない。いわば、あるがままに受け止めていくところに、かえって生活実践の面では、いろんな厄介なことを克服していく道があろうかと思うんです。先生のお話を伺いながら、私は、中国の洞山(とうざん)禅師と雲水さんの有名なエピソードを思い出しました。雲水さんが、「暑い時、寒い時、どうやったら暑さ寒さを凌(しの)げるか」と聞きましたら、「暑さ寒さのないところへ行ったらいいじゃないか」と。「そんなのはどこにあるんですか」と聞いたら、「暑い時には全身を暑さで殺してしまえ。寒い時には全身を寒さで殺してしまえ」といったという禅問答がございますけど。
 
中村:  禅問答で有名ですね。「寒時寒殺」「熱時熱殺」というんです。これはある意味では現代でも当て嵌まると思うんですね。この頃は機械文明が進歩しまして、冷暖房完備というような生活に移っていますけど、しかし部屋の中にいる時は、冷暖房完備でも、どうしても外へ出ると、寒かったり暑かったりするわけですよ。所詮逃れることはできないですね。それこそあるがままに見て素直に受け取るということが今でも必要じゃないでしょうか。
 
奈良:  そうでございましょうね。暑さ寒さは、人生の暑さ寒さに置き換えてもいいと思うんですが、冷暖房というのは、外から来る暑さ寒さを機械の力で遮断してしまうもので、楽になりますけど、反面私は何もしないでいよう、という思想だと思う。ところが、暑さ寒さを、あるがままに見るという時には、冷房が効けばそれを使えばいいし、外を歩いている時には効かないんですから、やはりそうすると、寒い時、暑い時に、今、自分が外を歩いて行かざるを得ないんだという状況を明らかに見た時に、かえって暑さの中、寒さの中へ飛び込んで、暑いなと言って、汗を拭き拭き胸だけを張って前を向いて歩いていく。寒い時にも背筋をシャンと伸ばして歩いていく。あるがままに見るということは、暑さ、寒さ、苦しみ、嬉しさなどをあるがままに受け止めながら、それに振り回されずに前向きに生きていく、そういう生き方をも含むわけでございますね。
 
中村:  「随処に主となる」と申しましょう。人生にはいろいろな事柄が起こり、避けることはできません。今の暑い寒いというのは、物理的な事柄ですけれども、さらに人間の生活の中には、好まないこともあるが、好まないこともいろいろ起きますね。それをすべて受け取って、如実にみて、そして自分がはっきりとした立場を打ち出す。「随処に主となる」ということが肝要な生きる仕方ということになると思います。
 
奈良:  あるがままに見るというのが、釈尊以来、インド以来の仏教の基本的なものの見方であり、同時に具体的な生き方にくっついてきているわけですが、特に中国以降になりますと、あるがままに見るということが、もっと宗教的な意味で、非常に積極的に現実を肯定していく。人間を取り巻くすべてをどう見るか、ということに関わってくる傾向が出てくるように思います。「諸法実相」という言葉が出てくるかと思うんですが。
 
中村:  そうですね。「諸法実相」というのは、大乗仏典によく出てくるんです。その言語はいくつかありまして一定していないんです。中国の鳩摩羅什(くまらじゅう)という『法華経』を翻訳した人の書物の中によく出てくるんです。言葉の意味としては、ありとあらゆるもの、それの真実の姿ということですね、それを「諸法実相」というわけです。これを見極めて自分で生きていけ、ということの教えだと思います。
 
奈良:  先ほどの蘇東坡の詩でございますけれども、谷川の水は説法じゃないか。山のたたずまいのその姿は清らかな釈尊の姿ではないか、ということも、普通のさまざまな自然のたたずまいの中に真実の働きをみていくわけで、これもやはり諸法実相の一つの同じ世界にあるよとみてよろしいんでございますか。
 
中村:  「諸法実相」というのは、ありとあらゆるものの真実の姿、つまり真理ということになりますので、「山色清浄身」も、結局そこに帰着することになると思います。
 
奈良:  先生が、アメリカの哲学者のノーマン・プリニ・ジェイコブソン教授とのお話の中で、ジェイコブソンが「仏教は、ごく普通の自然のあり方の中に宗教的な価値を見出していく立場である」というようなことを、確かおっしゃっていたような記憶があるんですが。
 
中村:  そうです。そういうことをはっきり言われた方もおられると思います。日本でも道元禅師は、「諸法実相」という言葉の意味を突き詰めて考えられまして、あるところでは、「実相が諸法なり」といっておられましょう。真実の姿というものはどこにあるんだ。我々に見えて現れているこの現象世界、それが真理の姿だ、と。自然環境に当て嵌めて言いますと、谷川のせせらぎも、山の美しいたたずまいもすべて真理の姿である、ということになるわけです。
 
奈良:  道元禅師のお言葉の中に、
 
     この山河大地みな仏性海なり
        (『正法眼蔵』仏性)
 
というのも一つございましたですね。
 
中村:  そうですね。「仏性」―言葉の意味は、仏となる得る可能性ということですが、我々が生きている山とか川とか大地、これも仏の本質がそこに現れているんだ、と。我々は気付きませんけど、よく考えてみると、そこに仏さまが現れているんだ、ということを説かれたわけです。
 
奈良:  私どもはなかなか気付かないんですけれども、仏教では、修行し続けてきた釈尊なり、祖師たちが、それを気付いて、頷いて、そしてこういう言葉になってきて、それが真実を踏まえながら生きていく道ですよ、と教えられてきているんだろうと思います。親鸞聖の有名な「自然法爾(じねんほうに)」という教えがございますが、
 
中村:  「自然法爾」というのは、親鸞聖人も説かれましたが、『大無量寿経』なんかによく出てくるんですね。元のインド仏教では、自然という観念が少し違っておりまして、「自然外道(じねんげどう)」というのがあります。「自然」と書きまして、これを「じねん」と読むんですが、もう我々が何をやってもしょうがないんだ、と言って、因果の理(ことわり)を否定する人たちをいうんです。つまり善いことをすれば善い報いが、悪いことをすれば悪い報いがある、というような道理がありましょう。それを全部否定してしまう。そんなことにかかずらわってもしょうがないよ、という具合に考えて生活する人たち、それを「自然外道」と言ったんですね。だから、そういう考え方は、インド仏教では退けられています。ところが、大乗仏典が漢文に訳されます。その場合に、ことに『大無量寿経』には、「自然(じねん)」ということが非常に多く出てくるんです。これは、もともと中国の道教で強調する言葉です。道教では、無理をしないで、自然の理に従って生きよ、ということを言っております。そうすると、そこで仏教が変わってきたかと思われるかも知れませんけど、必ずしもそうじゃないんですね。インド仏教で自然外道を排斥した場合には、日常の生活のレベルで、投げやりなことはいけない、道理を考えて生きよ、ということをいったわけです。ところが、大乗仏教になりますと、我々の日常生活に基づいて成立するもっと元を考えるようになった。そこに中国の道教以来使われてきた「自然(じねん)」という言葉を生かしてきたわけです。つまり我々はどこまでもなすべきことをなし、なしてはならないことはなさないように絶えず努めております。それは当然のことですが、それは人間がなし得る領域においてのみなり立つことなんですね。しかし、我々人間は、気付かないところで大きな力に生かされているわけでしょう。我々がこうして生まれてきたのはどうしてかってわかりませんよね。それから生きているでしょう。食べ物を食べるからって、それだけじゃ生きていくことはできません。やっぱり目に見えない力に生かされて生きているわけです。そしてやがて消えていく。これもそのようになっているんですね。目に見えないものに動かされている。その大いなるもの、そこに目を向けると、自然法爾という考え方が出てくるわけですね。すべてお任せする、と。
 
奈良:  それもあるがままにすべてのものを見ていくという、人間の自我、はからいを持ち込まずに見ていく、という姿勢に連なるかと思いますが、その親鸞聖人の自然法爾を述べた言葉をご紹介し、その後で、同じような趣旨であります道元禅師のお言葉をご紹介を致したいと思います。
 
     自然といふは、自はおのづからといふ、行者のはからいにあらず、
     しからしむといふことばなり。
     然といふは、しからしむといふことば、行者のはからいにあらず。
     如来のちかひにてあるがゆへに。
             (『自然法爾章』)
 
「自然(じねん)」というのが自ずからということで、人間のはからいによって移り変わったり、あるいは勝手な解釈をして、どうとかできるものではない。すべてが自ずから真実の働きを現している。それが如来の誓いなんだ、という一つの宗教的な頷きの世界、宗教的な目を通してみた受け止め方ですね。
 
中村:  そうですね。今、お読み頂いた文章は、親鸞聖人の言葉で、『末灯鈔(まっとうしょう)』の第五通です。また『三帖和讃(さんじょうわさん)』の一番最後のところにも、ほぼ同じ趣旨のことが述べられております。我々のはからいを超えた世界がある。それを親鸞聖人は如来様と呼んでいるわけですが、そこにまで思いを馳せる。これは最初期、あるいはインドの仏教が自然外道を退けたのとは次元を異にする。つまり自然(じねん)という言葉を構造的に理解する必要があると思うんです。同じ平面の上において考えますと、インドで退けたものを何故中国、日本の仏教で肯定したかとおかしく思いますが、そうじゃないのです。人間の生存というものを考えますと、いろいろな場面があり、領域があるわけですね。だから異なった領域に属する事柄であるということを理解しますと、その趣旨がすべて生きてくることになると思います。
 
奈良:  同じ自然(じねん)と言っても使われている意味が違いますし、使われる状況によってのものでございましょうからね。
 
中村:  自然科学なんていう場合の自然はまた違うんですよ。どこまでもフィジカルな自然(しぜん)ですから。
 
奈良:  ここでは、あるがままに存在しているもののありようを自然(じねん)といっているわけでございましょうけれども、自然科学という時の自然(しぜん)はむしろ英語の「ネイチャー」にあたるわけですから、物そのものを物理的に見ているだけでございますね。似たようなことを道元禅師もおっしゃっておられますので、ご紹介を致したいと思います。
 
     自己をはこびて万法(まんぼう)を修証(しゅしょう)するを迷(まよい)とす、
     万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
         (『正法眼蔵』現成公案)
 
『正法眼蔵』現成公案の一節でありますけれども。
 
中村:  これはまったく驚くような発言ですね。普通「浄土教は他力である。禅は自力である」と言いましょう。しかし、ここに言われた道元禅師の言葉は、これは他力じゃないですか。
 
奈良:  まったくそう思いますね。ですから、親鸞聖人のおっしゃる他力も、道元禅師の系統がよく言われる自力というのも、自我、はからいを持ち込まない、それを超えたところにこそ、物の真実の姿を見ていくということに関しては同じなんでございましょうね。
 
中村:  そう思いますね。他力という言葉も非常に誤解を招きやすいと思うんです。こういうふうに、ささやかな詰まらない自己がある。それに対する他だというと、同じ次元のものになるでしょう。そうじゃなくて、それを超えたもの、ということになるんですね。言葉でいい表しようがないものだから、浄土教のほうは他力という言葉を仮に使っただけなんですね。これは次元を異にするということを理解する必要があると思います。
 
奈良:  先ほど来からの話との関わりでいいますと、暑い時に道を歩いていて、クーラーもないのにクーラーをかけようというのは、「自己を運びて万法すべてに近寄っていく」迷いの立場ですし、暑いものは暑いんで、今クーラーのないところで歩いて行くんだから、その暑さの中に飛び込んで、汗が出てきたら拭きながら胸を張って歩いて行くところに、すなわち、「万法のほうから自己を包み込むところに悟りがある」と。道元禅師のお言葉を大変俗な形で解釈しちゃうといけないのかも知れませんが、そんなことじゃないかと思うんです。インドにも、あるがままに理法を見ていくのが素晴らしいという教えがございますですね。
 
中村:  最初の時期からそのように述べられておりますね。
 
奈良:  インドではどういう形で説かれているのか、それをまずご紹介を致したいと思います。
 
     ヴァッカリよ、やがては腐敗して朽ちてしまうわたしのこの肉身を見たとて、
     何になりましょう。物事の理法(ダルマ)を見る人は、わたくしを見るのです。
     また、わたくしを見る人は、ものごとの理法を見るのです。
     実に、ものごとの理法を見ている人は、わたくしを見ているのであり、
     わたくしを見ているものは、ものごとの理法を見ているのです。
               (『サンユッタニカーヤ』)
 
『サンユッタニカーヤ』でありますけれども。
 
中村:  これは素晴らしい言葉だと思いますね。こういう言葉を発せられたゆかりを申しますと、ヴァッカリという修行者がもう歳をとって、やがて自分の身は消えて無くなるのであろう。ただその前にお釈迦様にひと目お会いしたいということを言った。釈尊が見舞いに行かれたんですね。その時の言葉なんです。つまり釈尊にお目にかかるというのはどういう意味だ。釈尊は別に容貌が美しいからとか、形が見事だからというので偉いわけでも尊いわけでもない。人としてのことわり、道理、理法を具現しておられるわけなんです。だから釈尊に会いたいと思うその気持ちで、本当の人間の真理というものを仰いだらいいではないか。私の肉体だってやっぱり消えていくものなんだ。だからお互いに本当の人間の真理、本当の生き方を実行するということによって、釈尊とヴァッカリとが結ばれるわけですね。それは押し広げますと、あらゆる人の場合に当て嵌ることだということになるんです。
 
奈良:  釈尊という方が仏教を始めたから偉いとか、教団のリーダーだからどうということよりは、勿論実際的には人間的な尊敬、愛情というものがあったに違いないですが、今の話の本質というのは、釈尊という方が真実を身体で働かせている方だという。大切なのは、真実というものを働かせていくというところにある、ということでございますね。
 
中村:  そういうことになると思いますね。釈尊という方は、その後二千五百年にわたってアジアの人々から仰がれるようになったんですが、個人的にもきっと偉い方であったに違いないんですが、ただほんとに偉いと言われるところはどこにあるか。それは人間の真理を明らかにした、というところにあるのですね。人間の真理は如何なるものであるか、そういう問題が次ぎに出てくるわけです。これはいろいろな説き方がございますが、一番特徴的なのは縁起のことわりですね。あらゆるものはお互いに寄り合ってつくられている。種々の原因、条件によってつくり出されている。人と人の関係も、普通一般的に考えられていますのは、個人個人がみんな別の存在だということですね、それを強調するわけです。けれど、目に見えないところで、人々はお互いに目に見えない因縁によって結び付けられているわけです。縁があるわけですね。その縁を大事にしよう。そうすると、自分が生きているというのも、自分個人で生きているわけではなくて、多くの人々に助けられて生きているわけです。現在、ここに生きている世の人々に助けられているばかりでなくて、既に亡くなってしまった祖先の気持ちとか力というものが、今めいめいの人の中に生きているわけです。それは微小な存在であるけど、その中に偉大な宇宙が含まれている。そこまで思いを馳せますと、自ずから人々のために働くという気持が起きてくる、ということになりましょう。
 
奈良:  今おっしゃったようなことが一つの理法だし、それが具体的な生き方にほんとに連なってくるんですが、なかなかそれを私どもはあるがままに見ないわけです。あるがままに見るということは、理法をみることだし、それを真実を生活の中に働かせていくことだ。私なら私というものと自分を取り巻くすべての環境との関わり合いを求めていく、ということが大切だと思うんです。そうしたことをここで、道元禅師と良寛さんの言葉が大変美しい歌がございますのでご紹介をして、またお話を伺いたいと思います。まず道元禅師のお歌でありますけれども、
 
     峯(みね)の色渓の響もみなながら
       我が釈迦牟尼(しゃかむに)の声と姿と
          (道元)
 
これは先ほどの蘇東坡の詩と一脈合い通ずるものでございますね。
 
中村:  そうですね。蘇東坡の詩はなんといっても漢文ですから、だから当時の日本人にはまだよそよそしいところもあったと思うんです。まあ教養のある人は別ですけど。ところが、道元禅師のこの歌は『傘松道詠(さんしょうどうえい)』の中にあると思うんですが、ほんとに自分の身にこなして、その精神を生かして詠まれたという気持がします。
 
奈良:  自然のたたずまいすべてに真実の働きを見ていく。それを仏の声であり仏の姿と見ているんでありましょうけど。
 
中村:  的確に精神を生かしておられると思いますね。
 
奈良:  続きまして、良寛さんの歌でございますけれども、
 
     かたみとて何残すらむ春は花
       夏時鳥(ほととぎす) 秋はもみじば
           (良寛)
 
如何にも良寛さんらしい、自分の身の周りの自然の移りゆきの中に真実の働きをいっているもののように思いますんですが。
 
中村:  これもいい歌ですね。禅の精神を非常に我々に身近なところで生かして歌っておられると思うんです。趣旨から申しますと、中国の『無門関(むもんかん)』の中に出てくる詩があるのです。趣旨は同じですけど、それをご紹介致しますと、
 
     春に百花有り 秋に月有り、
     夏に涼風有り 冬に雪有り、
     もし閑事(かんじ)を心頭にかくることなくんば、
     すなわちこれ人間の好時節
 
というんです。自然の移り行きはみな美しい。もしも人間が詰まらないことを心にかけることがなければ、もうすべて人間のよい時節である、というんですね。それと同じ趣旨のことを言っておられると思うんですが、ただ『無門関』の詩は、中国の茫漠(ぼうばく)たる風土から出てきたものだと思います。だからそこに出てくるのは、春には百も花があると。秋には月が照らしていると。夏には涼しい風がスーッと吹いてくると。冬には雪がある、と。いずれも雄大な景観を連想します。ところが、良寛さんの場合は、自分に当て嵌めているわけですね。それで良寛さんの言葉には、春は花でしょう。夏時鳥、秋はもみじば、と、ほんとにもう気張ってもいないし、我々にも近づきやすい心境だと思うんですね。
 
奈良:  如何にも良寛さんらしいと言えば確かにそうなんですが、それと同時に中国の人と日本人とのものの考え方の違いみたいな、情緒のあり方の違いのようなものを感じますですね。
 
中村:  日本人の情緒感と言いますか、審美観と言いますか、それに訴えるものがあるんです。
 
奈良:  あるがままに見る。そしてあるがままに見ていくと、縁起の理に従っていろいろ移り変わっていくすべてのものが、常に真実を働かせながら存在し続けているではないか、と、そういうことを伺ってきたわけでありますが、そうしたことを非常にまた生活の場の中に踏まえながら、ズバリといいのけた詩がございます。本日は蘇東坡の詩で始まったんですが、最後も蘇東坡の詩で締め括りたいと思うんですが、ご紹介を致しましょう。
 
     廬山煙雨淅江潮 (廬山(ろざん)は煙雨(えんう)、淅江(せっこう)は潮(うしお))
     未到千般恨不消 (未だ到らざれば千般(せんぱん)恨み消えず)
     得到達来無別事 (到り得て達し来たれば別事無し)
     廬山煙雨淅江潮 (廬山は煙雨、淅江は潮)
            (蘇東坡)
 
蘇東坡の詩と伝えられておりますんですが、この詩は最初の句と最後の句が同じなんですね。
 
中村:  同じだということが非常に深い意味を持っていると思うんです。天下の絶景として中国で讃えられている廬山の煙雨ですね。廬山は江西省(こうせいしょう)にあります。昔から仏教の聖者の住んだところとしても有名ですが、そこには煙のような霧雨がたたえられているんですね。それから淅江は高潮がよせてくる、と。これも特別な景観だといってたたえられている。まず見ないうちは、どうなんだろう、見たいな、と思って長い間心に一種の望みを託していた。それが実現されないうちは恨みとなっていたわけですね。それがなかなか消えなかった。けれども、自分がそこへ行って、自分で眺めて見ると、何だ、別のことはない、別事無しですね。ああ、なるほど。この通り廬山は煙雨淅江は潮だ、と。つまり、元いた自分から出て、高いものを目指す。そこまで到達して振り返ってみると、あ、やはり元の自分がここにあるんだ、と。形はちっとも変わっていない。自分の身体も少しも変わっていない。ただ、心が偉大な展開を経て、また元へ戻ってきた、ということが言えるんですね。
 
奈良:  最初の句の廬山にぼぉっと霧雨にけむっている。淅江には潮が押し寄せている。これはごく普通の私ども日常生活の場で、そういうことがあるみたいな、どういうものかという、いろいろあるがままに見る以前に、いろんなものを持ち込んでいる見方。ところがひとたび行ってそうしたものの本当の姿をみて帰ってきた時に、やはり廬山は霧雨がぼぉっとしていて淅江には潮があるという。同じ言葉ですけれども、それを受け取る精神の次元がかなり違っているわけでございますね。
 
中村:  そうです。それを痛感して、しかもなんら異なったところでないということを、蘇東坡は言っているわけです。これは道元禅師にもっと簡単な表現がありましょう。「空手還郷(くうしゅげんきょう)」というんですね。手に何も持たないで故郷へ戻って来た。中国へ行って、修行して悟った。けど、元へ戻ってみると、元からの自分なんだ。空手―手を空にして、故郷へ戻った。けれど、故郷に戻った時、道元禅師自身は非常に高められているわけですね。けど、同じ人間である、と。同じ人間であるという場において、高いものを生かして生きていく、そういう気持を言われたと思うんですね。
 
奈良:  なるほど。道元禅師の「空手還郷」ということと、蘇東坡の「別事なし」ということが、同じ一つのものの見方という、非常に次元の高い宗教的な境界に、両方とも同じ世界にある、ということが言いようかと思うんですが。
 
中村:  そう思いますね。これは哲学的にこういう解釈もできるかと思うんですね。高いものを目指していく。これは往く姿なんですね。それからそこまで達して今後また元のところへ帰ってくる。これは還相(げんそう)で、還る姿ですね。浄土教のほうで、「往相(おうそう)」と「還相(げんそう)」ということをよく申します。このように解釈していいのかどうか知りませんけれど、私はそのように理解できたかと思うんですね。元へ戻ってみると、いっこう変わりがない。道元禅師は「眼横鼻直(げんのうびちょく)」ということを言われましょう。元へ戻ってくると、同じ人間がいるんだ、と。眼は横にあって、鼻は真ん中にある。別に別の人間がいるわけじゃない。また我々が生理的に別の人間となることができるわけじゃない。けれど、同じ人間であっても、すっかり中が改められて、高められている、と。
 
中村:  そうでございましょうね。今こうしたお話頂きました蘇東坡のものにしろ、「空手還郷」、あるいは「眼横鼻直」そうしたことはみんな、いわばお悟りの世界と言いますか、修行を積んで新しいキラキラした宗教的な目の見開きを持った方の心情なわけですが、そうした方をまた私どもの日常生活の生活実践の中に引き下ろして考えてみますと、「喜怒哀楽」というような言葉がございますけれども、そうしますと「廬山は霧雨淅江を潮」を「喜怒哀楽」という形で仮に置き換えた場合、喜怒哀楽のただ中に私ども生きている。それを乗り越えていかなければいけない。そういう具合にいろいろな形でものの考え方が進み、いわばいろいろなものをあるがままに受け止めていく。受け止めることによって、それを乗り越えていく。それでフッと振り返ってみると、やはり喜怒哀楽のただ中にいるということは変わらないんだけれども、喜怒哀楽に振り回される振り回され方がまるっきり違う。
 
中村:  そういうことになりましょうね。もう同じ人間としてやはり生きているわけですが、ただすっかり転回されて新しい意味を持つようになっている、ということが言えるかと思うんです。
 
奈良:  そうしますと、本日いろいろ伺ってまいりましたが、「山色清浄身」というテーマとしては、山のたたずまいが仏の姿ですよ、真実の働きですよ、ということなんですけれども、これが私どもにとって自然をどうみるか、自然とどう付き合うかといったようなことから、同時に私どもの毎日の生活の中に、いろいろな物事をどう受け止め、充実したものとさせていくか、という生き方にも関わってくるということになる。
 
中村:  将来に新たな問題を投げかけられるわけです。
 
奈良:  どうも本日は先生、ありがとうございました。
 
 
     これは、平成元年一月二十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである