一切を捨てて
 
                             宝泰寺住職 藤 原  東 演(とうえん)
1944年静岡市生まれ。静岡市宝泰寺住職。臨済宗妙心寺派布教師会会長。サールナートホール館長。京都大学法学部卒業後、京都の東福寺で修行。妙心寺派教学部長、浜松大学非常勤講師などを歴任したほか、静岡青年会議所文化開発室長、高校英語教師などをつとめたこともある。中国シルクロードやインドの仏跡巡拝、テレビ説法、コメンテーターなどでも活躍。深く幅広い実体験をふまえた生き方にファンが多い。/著書:「人生考えすぎないほうがいい」「写経の力」など多数。
                             き き て 有 本  忠 雄
 
有本:  江戸時代の初め頃、一山(いっさん)の僧の生活を突然投げ出して、巷(ちまた)の住まいを持たない人々の群に身を投じて、そのまま後半生を生き切った禅僧がいました。その人が桃水雲溪(とうすいうんけい)です。今日はこの桃水雲溪の生涯について、静岡宝泰(ほうたい)寺住職の藤原東演(とうえん)さんにお話を伺います。どうぞ宜しくお願い致します。
 
藤原:  宜しくお願い致します。
 
有本:  静岡の宝泰寺の住職さんということですが、お生まれも現在の寺坊なんでございますか。
 
藤原:  はい。そうです。
 
有本:  そうしますと、もうお寺で生まれ、跡取り息子ということで、お育ちになったわけでございますか。
 
藤原:  周囲はそういうふうに見ていたようでありますけれども、自分はやっぱり寺のあり方に若い時は疑問を持ちましたので、
 
有本:  京都大学の法学部を卒業ということですが、やはり法律を専攻なさったのは、何かこんなお仕事に就いてみたいな、というご希望があったんですか。
 
藤原:  英語が多少好きでしたので、それで昔から外交官になってみたいなあ、という夢はあったことはありました。
 
有本:  成る程。
 
藤原:  大学生活をエンジョイしたと言うか、遊んでしまって、勉強をろくにしなかった。大学を卒業しましたけれども、これからどうしようかというテーマもなくなってしまったので。しかしながら、いくら考えても、このままじゃ自分ダメになっちゃうな、と思いましたので、父が、「一回道場へ行ってみたらどうか。自分を見直すのにいいぞ」と言われて、それで、漸く重い腰を上げて行く気になった。そういうことなんですね。
 
有本:  東福寺の僧堂にお入りになるわけですね。普通の雲水さんとは大分ご苦労が違うんじゃないかと思うんですが、如何ですか。
 
藤原:  そうですね。お経もろくに知りませんし、それから、小僧生活もしたこともありませんから、いろいろなお坊さんとしての所作(しょさ)がさっぱり分からないわけですね。ですから、よく怒られました。また、理屈っぽい人間ですから、反抗心がムラムラと湧いて来て、頭ごなしに言われますとね。よく厳しく言われて、何度飛び出ようかな、と思ったことありましたですね。しかし、自分、思うに出る勇気がなかったですね。母と妹が道場へ入るとき、駅まで送ってくれた姿が浮かんだり、それから、じゃ、外に出て何をするのかというテーマもない。結局、自分は、寺と言うか、家と言うか、そういうものに頼りに、甘えながら依存した生活していただけなんですね。文句言っていただけなんです。そういう自分が観えた時に、「あ、これじゃいけないな」と、初めてこの時、一つの機会でありましたけれども、「修行することに意味を見えだ さなけれないけないな」という気持が起きたんですね。
 
有本:  僧堂の雲水さんの生活というのは、作務(さむ)であったり、坐禅であったり、普通の夜、本を開いて勉強するというのは御法度(ごはっと)のように伺っていますけど、実際そうなんですか。
 
藤原:  そうです。ですから、一番困ったのが、臨済宗は「公案禅」と申しまして、師匠から公案という問題を与えられる。坐禅をしながら、それを工夫するわけです。やっぱり仏教語がいっぱい出てくるわけですね。出てくると分からないわけです。師匠は多少説明してくれますけども。仕方がないので、休みが月に二、三回ありますので、その時、仏教書を買って来て、但し、公然とは読めないものですから、唯一のプライベートルームはトイレなんです。トイレで読む。調べる。ただ、しかし、それは断片した知識なんですね。よく老師に、「お前は何も知らんなあ」とよく言われました。
 
有本:  老師はどなたなんですか。
 
藤原:  林恵鏡(えきょう)老師です。
 
有本:  厳しい方ですか。
 
藤原:  そうですね。法の上では厳しかったと思います。しかし、その時はもう七十二、三でありましたけれども、本当に頭が下がりましたね。朝、雲水と同じように、夏ですと、三時半から四時に起きられて、そして、寝るのは十一時頃寝られましたけれど、しかし、その間殆ど休みなしに、管長としての仕事を務められ、それから雲水の接化、指導をされましたので、自分の生活がないような方でしたから、一緒に隠持(いんじ)と言って、師のお付きする時があるんですが、その時、側についていて、この方の為に頑張らなければいかんなあと思うんですけどもね。意志薄弱なものですから、思うだけでね。師の気持に本当に応えられなかったんですけどね。一番堪えたのは、公案禅は言葉で説明し難いんでありますけれども、「本当のお前は何者か」「自分とは何者だ」ということなんですね。それで、私はそれなりに勉強はしてきたんですけども、「自分は何か」ということは勉強して来なかった。だから、「本に書いてあるものはもういい。お前の中から答えを出せ」とこう言われ るんですね。何も出ないんですね。それに対するショックは物凄く大きかったですね。公案禅は、大して数えておりませんけれども、一回本を読んだりすると、その概念が頭にこびり付いて、なかなか払拭出来なくなってしまって、公案の工夫に逆に時間が物凄くかかるんですね。ですから、むしろ公案禅の場合はものを読まない方がいいのです。自分はどうしても論理構成してしまうんですね。そういう生活なれておりますから。論理を飛び越したところに答えがあるものですから。どうしても論理的思考に慣れていましたから。それに私は鈍くさかったんです。その点は師匠から見たら、遅いなあ、と思われたと思いますね。
 
有本:  東福寺では何年修行なさるんですか。
 
藤原:  私は三年です。
 
有本:  これで私も住職として大丈夫だ、と。自信と言いましょうか、何年位経ってか らでございましょうか。
 
藤原:  私は仏教大学を出ていませんので、やはり、どうしても仏教の思想を知りたい。或いは、坊さんとして仏教の知識がないということは凄くそれが不安だったですね。それで一度仏教大学に行き直すか、或いは、通信講座なんか受けるかしないと、これじゃダメだなあと思ったんですね。その時にたまたま本山から布教師になる講習会があると、「高等布教研修会」とか言うんです。パンフレット頂いたんですけど、「高等」と書いてあったんで、私の仏教知識は「高等だ」とは言えませんので、これは無理だなあと思って、しかし一応、先輩に聞きましたら、先輩が、「これは字だけだ、高等というのは」と言われました。それに乗せられまして、本山の研修を二週間でしたけども、泊まり掛けで受けさせて頂いて、その時仏教の理論を深める大きな一つの入り口になったような気がします。今まで書物で読んだバラバラな知識が、仏教大学を出た人とか、先輩がいらっしゃって、聞くと、親切に教えて下さって、建物みたいに立体的に頭の中で構築されたと言うか、少し形になって来たんですね。仏教って面白いなあと少しずつ思えて来て、これは有り難かったです。それから、講習終わってから、当然受かるなんて思っていませんでしたけれども、どういうわけか合格したんですね。それで二年目でしたか、「九州の大分県に一ヶ月ほど各寺院に布教して廻れ」とご本山から命じられました。「巡教(じゅんきょう)」と言うんです。その時、全然知らない寺へ行って、全然知らない住職と、全く知らない信徒の前で法話するわけです。こっちはまだ布教師になったばかりですから、演台に立って話をするんですけども、勿論、上がりますし、それから、やたら理屈っぽい話になってしまいます。それから聴衆の皆さんが、時計を見たり、眠そうな顔を見ますと、やっぱりショックですね。それで落ち込んだりしましたけれども。しかしながら、毎日のように同じ話を繰り返すものですので、いくらヘボでも繰り返すうちに、「これは拙いなあ」とか、「ここは直さないといかんなあ」とか、或いは、先輩のご住職達が、「あんた、いい例話があるよ」とか、「これを読んでみたら」とか、新米なものですから、親切に教えて下さるわけですね。少しましになって来ますね。二十日位した時に、あるお寺でお話しました時でした。私一生懸命やるしかないわけです。そうしたら、前の人が何人か頷(うなず)いて下さった。これは嬉しかったですね。その時に頷(うなず)く姿を見て、自分が一生懸命やれば分かって下さる人もいる。また、頷きに対して自分はさらに応えたくなるんですね。「よし、もっと勉強しよう」という気になったですね。その時、初めて、「ああ、布教の仕事が自分の一生のものになりそうだ。布教師として生きたいなあ」と。一生懸命やれば応えてくれる。だから、恰好いい言い方すれば、魂を打ち込んでやると、相手も魂で応じて応えてくれる。魂と魂と呼応と言うか、呼び交えの中にこう使命感みたいなのがあるんじゃないかなあということを、その時、体験させて頂いた。それまではやっぱり自分だけが途中から坊さんになりましたから、みんなが自分の選んだ道を歩んでいるのに、自分だけ落ちこぼれという気がずっと、内心あったんです、私の中で。友人が弁護士になったり、官僚になったりしておりますのでね。自分だけ落ちこぼれたなあ、というのがあって。ところが最初の布教で、そういう体験をした時に、「ああ、自分は自分の生き方があるんだなあ」と、初めてその時頷けて、それから、坊さんとしてやっていこうなと、自分の腹で本当に決まった、と思うんですけどね。
 
有本:  じゃ、猛勉強始められたわけですか。
 
藤原:  いや、そんなんでもないんですが、ただ兎に角、先輩に、「解説書を読まないで、原典を読め」と。ですから、「禅宗の祖師方、悟りを開いた禅僧が書いた語録、残されたものを読め」。それから、「経典を読め」と言われて、兎に角毎日七、八時間、がむしゃらに読みました。今、思うと何も残っていませんけどね。
 
有本:  ところで、今日は一切を捨てた桃水雲溪についてお話を伺うんですが、桃水について、藤原さんが、何か勉強してみようというきっかけはどんなことからなんですか。
 
藤原:  きっかけは、ある出版社から、「『禅の名僧列伝』を書いてみないか」と。その時に二十一人の禅者、禅宗のお坊さんを選んだわけです。
 
有本:  どういう方がいらっしゃいますか。
 
藤原:  勿論、有名な白隠とか、沢庵とか、一休とかもいるわけですが、世間に知られた方々もいらっしゃいますけれども、いろいろ調べていくうちに、桃水というお坊さんがいらっしゃって、かなり名僧だったと思うんですが、あまり知られていない禅僧がいらっしゃった。正統な修行をされながら、住職の資格をも捨てて、巷の、さっきも言われた家のない人々と共に生活をして、布(ふ)施行(せぎょう)に生きた、こんな坊さんがいるのかなあという大変強い印象があったんですね。有名な良寛とも違うわけです。良寛も大きな寺の住職にならなかったんですが、一応僧籍は生涯あったと思うんです。しかし、この桃水という坊さんは僧籍さえも放棄したと言うか、捨てたわけですね。これ珍しいなあと思って、それで一回この人を調べてみよう、と。それが縁になりましたですね。
 
有本:  藤原さんは桃水和尚の一番の魅力は、どこだとお考えでしょうか。
 
藤原:  一言で、というのは大変難しいと思うんですが、やっぱりそうした寺の僧籍も、寺も捨てたというのは、割と歳を取ってからなんですね。晩年に、そういう生き方をしたわけですけども、そういう意味では世を捨てるということ一生かけたんですよね。さらに捨てることさえも忘れる、というところまで境地はいったと、私は思うんですけども、それはやっぱり亡くなる十年前の間くらいで、そういう境地へ到達しているような気がするんです。だから、大変大器晩成型ですね、そういう意味では。自分を仕上げる、仕上げる意識もなかったでしょうけども、ほんとに生涯純朴(じゅんぼく)な生き方をしたなあと思うんですね。
 
有本:  桃水雲溪和尚は江戸初期の方ですね。
 
藤原:  そうですね。
 
有本:  その「捨てる」というふうなことは、やはり桃水自身もいろんな高僧から教えて頂いたり、ということだと思うんですが、生まれは九州柳川(やながわ)ですよね。
 
藤原:  そうです。『桃水和尚伝賛(でんさん)』ですが、面山瑞方(めんざんずいほう)(一六八三ー一七六九)が書いたものなんですけれども、それを見ていると、やっぱり小さい頃から随分普通の子とは変わっていたようですね。商家に、商いしている家に生まれたようですが、両親は浄土宗の大変真面目な信者だった。阿弥陀さんを非常に信仰しておった。その阿弥陀さんを桃水は外へ連れ出してしまったというんですね。それを見付けたお母さんがお金を渡したけども、「お金なんか要らない」と、そういうような逸話があるようですね。
 
有本:  九州で修行なさるわけですかね。
 
藤原:  そうですね。最初は九州の囲巌宗鉄(いがんそうてつ)というお坊さまのところへ、七歳の時に両親に連れられて出家しているんです。七歳ですから、自分の自主的な出家ではないだろうと思うんですね。つまり、桃水の日常の振る舞い見ていると、とても商家を継ぐような人間ではない。そして、両親から見ればやっぱり非凡に見えたと思うんですね。勿論、そうだったと思いますけれども。それでこの子は一人出家させたら、ということになったのでしょう。でも、長男がいただろうと、私は思うんですね。書いてありませんが。
 
有本:  成る程。
 
藤原:  継ぐ者がいないと、やっぱりそういう決心はなかなか両親は出来なかったと思うんですね。
 
有本:  修行中もいろいろのエピソードがあるようですね。
 
藤原:  あるんですね。特に、十五歳頃でしょうか、その頃、三日間断食をしたとか、一晩中お経を読み続けたとか、それから山に入って、一人坐って坐禅したとか、凡人とは変わった振る舞いがあったようですね。
 
有本:  そして、そういう修行を積みながら、お寺の住職さんも経験するわけですね。
 
藤原:  そうですね。ただ、二十代にはやっぱり江戸へ善知識、善知識というのは、出会うと、その人の生き方を百八十度クルッと変えてしまうような方、それ善知識と言うんですけど、そういう人達に法を求めて、教えを求めて、十八で行脚に出ているんですね。
 
有本:  いろいろなお師匠に教えて頂くと同時に、ご自分でもそういう修行を積んだということなんですが、その師匠の中に、道元禅師の流れを汲む方がいらっしゃったようですね。
 
有本:  割にいろんな方に、臨済宗の方も黄檗宗の方にも会っています。この伝記を見てみると、曹洞宗と言われるのは鈴木正三(しょうさん)だけのようですね。あと臨済の大愚(だいぐ)禅師とか、愚堂(ぐどう)東寔(とうしょく)とか、それから沢庵とか、それから黄檗(おうばく)宗の隠元(いんげん)、隠元さんにはとくに惹かれたようですね。だから、あまり宗派には拘っていないんです。
 
有本:  藤原さんの今の寺の住職さんになるのはお幾つの時なんですか。
 
藤原:  平成五年ですから、四十九歳の時だと思うんです。人間誰でも、五十近くになるといろいろ忙しくなってきますね。雑務を含めてですね。私は割とがむしゃらと言うか、割と仕事好きな人間なんですけども、やっぱり五十に、住職になってからでしょうか、先輩に、「五十近くになったら、一つ増やしたら、必ずひとつは減らせ」と。「整理しろ」と言われましてね。「捨」の心が大切だということですね。考えてみますと、修行は道場に入る時も、庭詰めというのがあって、玄関で三日間土下座して、その後二日間、小さい部屋で坐禅をする、旦過詰(たんがづめ)をやるんですけども、後から分かったことですけども、「どんな学校を出たとか、どんな仕事をしたとか、どんな寺に生まれたとか、全部忘れて入って来い、捨てて来い」ということですよね。確かに僧堂生活で、無い無いづくしでした。テレビも、ラジオも、新聞もない。そして、食事も美味くないし、睡眠時間もろくにない。ないないづくしでしたけども。五十近くになった時に、先輩から、再び「捨」ということを教えられて、「あ、これはもう一度考えないかんなあ」とつくづく思ったんですね。
 
有本:  その「捨てる」というふうなことについての実感ですね。とても素敵なことだと思うんですが、高僧なり名僧なり、或いは禅語の中にも捨てるという教えというのはかなり出てくるんですか。
 
藤原:  はい。やっぱり桃水の師匠の開祖である道元禅師はやっぱりこの「捨」ということをしきりに教えていますね。
 
有本:  例えば、どんなふうに教えているんですか。
 
藤原:  『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』というものがあります。道元の弟子の懐弉(えじょう)という人が道元 さんの言葉を書き纏めたものなんですけども。その中にやはり、
 








 

示に云く、
学道の人、世情(せじょう)を捨つべきに就いて
重々の用心有るべし。
世を捨て、家を捨て、
身を捨て、心を捨つるなり。
よくよく思量すべきなり。
(『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』にある道元のことば

 








 
 
「世を捨てて、家を捨てて、身を捨て、心を捨つるなり」と、こう書いてあるんですね。面白いのはその前に、「重々の用心有るべし」ということばですね。世をすて、家を捨て、身を捨て、心を捨てる。四段階で捨てることを教えているんじゃなかろうかな、という気がするんですね。そう考えますと随分具体的で分かり易いんですね。やっぱり、出家する時には、まず、「世俗のことを忘れろ、捨てろ」と。それからやっぱり、「自分の家だとか、家庭の、両親のことだとか、それから、妻のことだとか、子供とか、それも全部忘れて置いて来い」。さらに今度は「わが身を捨てろ」ということは、暑いから寒いから今日は修行をやめようとか、そういう「自分の身を思う気持ちを捨てろ」ということだと思いますね。それから、「心を捨てろ」ということは、心にいっぱい雑念が浮かんできますから、こんな修行してなんになるとかですね、弱気も浮かんできますよね。それを忘れて頭を空っぽにして、修行に専一に打ち込め、ということだろうと思うんです。道元禅師はほんとに徹底して、権門(けんもん)に近付くことをほんとうに嫌ったですね。北条時頼(ときより)に非常に尊崇(そんすう)されて、鎌倉へ行くんですけど、直ぐ帰ってきてしまった。その時に、時頼が、「所領を何千石か寄付する」という書状を出します。玄明(げんみょう)という弟子が後に残ったんですが、喜んでその書状を持って来たんですね。「時頼からこういうものを貰った」と言ったら、道元が怒りまして、それで、永平寺から追い出したしてしまった。それにとどまらず、玄明が坐ったところの畳、その下の土を七尺まで掘って捨てたという位に嫌ったんですね。徹底している。ほんとにこの点はさすが違うなあと思いますね。
 
有本:  江戸初期の桃水が、そういう道元さんの教えを、「四つを捨てるというようなことは、とても大事なことなんだよ」ということは、修行時代にいろんな方からやっぱり教えて頂くようなことがあったんでしょうかね。
 
藤原:  はい。やっぱりそれは最初についた囲巌(いがん)という禅匠から教えて貰っていると思うんですね。『桃水和尚伝賛』に出ていますけども、五欲の話が出て参りますね。
 
有本:  五つの欲望ですね。
 







 

沙門は五欲を離るを専要とす。
五欲とは色欲、食欲、睡欲、名欲(みょうよく)、利欲なり。・・・
このうち名欲利欲は出家も離れがたし。
年臘も長じ諸人も崇(あが)む程になればいよいよ名利は厚重になり、
のちは道理を著て名利に倣(おご)る。・・・
(囲巌宗鉄のことば)

 
 
藤原:  「色欲」「食欲」「睡欲」「名欲(みょうよく)」名誉ですけど、「利欲」と五つある、と。囲巌(いがん)さんが、「上の三つは修行していれば、こういうのは大して問題にならなくなる。しかし、後の名欲だとか、利益を貪る欲とかは、これは大変なかなか脱却出来ない」と言うんですね。しかし、その時に、桃水さんは、「そんなこと大したことないんじゃないか」とおしゃっているんです。このときの桃水は修行を続けてきて、自分に名利にまどわされない自信があったようですね。でも少し自己を甘く見ていたと、私は思うんですけどね。
 
有本:  桃水雲渓の話の方にまた戻りたいと思うんですが、そういう道元禅師の『正法眼蔵随聞記』の中のお話とか、師匠であった囲巌(いがん)が、「五欲を絶ちなさい」と言った。でも、それは言われて直ぐということでなくて、やっぱり何年、或いは何十年かけて、全て一切を捨てるということなんですよね。
 
藤原:  桃水さんの人生を見ていると、まさにそうだと思いますね。五十過ぎた頃に囲巌(いがん)という和尚さんの法を継ぐわけです。「嗣法(しほう)」と申しますけども。しか し、その後、六十三、年齢的には、桃水の場合には、生年月日も十年位巾があって、ハッキリ分からないんですね。しかし、大体六十三歳か、五十の後半位に、嗣法した後、島原の禅林(ぜんりん)寺という大寺の住職になっているんです。これは高力(こうりき)左近太夫(さこんだゆう)と言って、その地方の大名ですね。大名の菩提寺の住職になったわけです。これはなかなか理解し難いところでありまして、先程、囲巌(いがん)という自分のお師匠さんの説法に対して、「名欲だとか、利益(りやく)を貪(むさぼ)る欲なんてのは大したことない」と言いながら、実はこういう一つの大きな寺の住職をしたわけですから、この辺のところはまだ桃水さんも完全に欲から脱却していなかっただろうな、という気がしてならないんです。こんなこと言ったら、非常にご無礼な気が致しますけども。
 
有本:  でも、自己矛盾に見えますけども、それが後年「一切を捨てる、捨てきる」という、その一つのプロセスなのかも分かりませんね。
 
藤原:  そうですね。人間というのは、悩みながら、葛藤しながら生きていく。やっぱり純一に生きたいと思っていらっしゃるから悩むわけですよね。ですから、葛藤も大きかっただろうなあと思うんですね。
 
有本:  九州からですね、一切を捨ててというのか、こちらでは、京や大阪へ参りますよね。例えば、そういう非常に大きなお寺の住職さんで、名誉も、或いは、お金も、一時期はそういう世界と言うか、そういう寺にいらっしゃって、抜け出すというのか、これはどんなことなんでしょうね。
 
藤原:  ハッキリした理由は分からないわけですけども、どうやら高力左近太夫という人がなかなか悪政を敷(し)いたらしいんですね。非常に人々が悩んでおった。そこの菩提寺の住職ということは、ある意味では悪政に荷担(かたん)していると言わざるを得ない面がありますね。実に悩んだろうと思うんです。それである時、藩主を諫(いさ)めたらしいです。「こういうことをしては拙いじゃないか」。それに対して大変な反発された。同時に、だんだん名誉欲とか、功利欲、お寺、或いは、腐敗した不正に甘えている世界に対して、非常に疑問がだんだんいっぱいになってきて、とても居られないと、二つあっただろうと思うんですね。それで禅林寺を出てしまった。出奔してしまったわけですね。
 
有本:  桃水が高僧で、しかも、安定した生活と言いましょうか、九州では。それをなげうって出奔する。藤原さん、どんなふうにお考えになりますか。
 
藤原:  そうですね。やっぱり住職として、自分が、今、「お寺を出ろ」と言われたら、出ることは 大変な問題ですね。妻子いますし、生活もかかってきているわけですから。それを全部捨ててしまうわけですから、大変な決心がいると思うんですね。桃水さんも、やはり、そこまでいく過程の中で随分悩んだろうと思うんですね。この方は性格というのは上手に立ち回ろうとか、そういう気はさらさらない人ですね。いつも純一にものを考え、行動していく。禅では大愚(たいぐ)と言うか、愚(ぐ)ということを非常に重要視するわけですけれども、その気持ちをずっと持ち続けた人ですね。ですから、「いつも自分はこれでいいのか」と問いかけていたんではなかろうかと思うんです。禅林寺に住職して五年目に、法会(ほうえ)と言って『正宗賛』という書物の講義をするわけです。あちらこちらから、桃水の徳を慕(した)って、修行者が集まって来たわけです。講座の最後の日に、弟子達が迎えに行ったら、すでに姿がなかったというのです。その時に桃水の部屋、方丈へ行ったら壁に一枚の紙が貼ってあったと言うんですね。それが、
 
     今日(こんにち)解制(かいせい)
     大衆(たいしゅう)送行(そうあん)
     老僧(ろうそう)先出(せんしゅつ)
     東西(とうざい)任情(じょうにまかす)
 
こう書いてあったんですね。まあ今日で結制して、終わってしまうと、みなさんは帰る。私は先に出て行くよ。どこへ行くか分からん、と。そういう漢詩を残して、お姿が見えなかった、というんですね。大変騒ぎになりまして、この高力という大名もあっちこっち捜して、全部差し止めて出ないようにしたんですが、行方は分からなかった。どうやら柳川へ行って、ご両親の墓参りをして、それから、中国道を通って、都の方へ向かったようでありますね。
 
有本:  京の都に、或いは、大阪にどんな生活を送ったんでしょうか。
 
藤原:  いや、京都へ来まして、宇治の黄檗宗の本山、万福寺に行ったようですね。隠元という禅者に非常に惹かれていて、そこで隠元という禅者が亡くなるまで修行をもう一度やり直す。一回嗣法した人間がもう一度、再行脚と言いますが、修行する。これこそ捨の心であり、愚の精神であり、どこまでも極めて行きたい、という純一な気持をもっている。そこのところにとても感動するんですね。ただ、黄檗山にずうっと居なくて、隠元というお坊さんが亡くなった後、二年位して、その万福寺を出ているわけです。多分、それが年齢的には、六十代の後半じゃない かなあと思うんです。乞食(こつじき)の生活に入っていくのです。
 
有本:  よく禅門用語と言いましょうか、乞食(こつじき)と申しますけども、我々一般の者に、乞食、これ托鉢の一種なんでしょうけど、分かり易く解説して頂くと、どういうことなんでしょうか。
 
藤原:  僧侶が、修行の時に、特に、生活の糧がないわけですね。みなさんから、財施と言うか、金品頂いて、それで修行専一にさせて頂くという意味ですね。だから、乞食(こつじき)と申します。
 
有本:  で、桃水は万福寺を出て、そして、まさに乞食の生活に入ると。
 
藤原:  それの辺の大きな転換点は何なのかなあと思いますね。つまり禅林寺を出て黄檗へ行ったんですから、そこはまだ禅僧として生きていく気持があったのかもしれません。あるいは捨の心に撤しきれない自己を克服したいと考えたのかもしれません。黄檗を出た後は、そういういわゆる巷(ちまた)の生活へ入っているわけです。ともかく、つまり、僧侶としての今までの信用も資格も全部捨てたわけですね。それは凄いと思うし、稀有のお坊さんだと思うんです。一番よく知られているのが、?(ちん)州(しゅう)というお弟子さんがいらっしゃって、師が出奔してから、何とか会いたいということで、ずうっと求めていたようですね。京都へ上がって来て、そして、智伝(ちでん)というもう一人のお坊さんと一緒に捜すわけですね。なんとか見付かるわけですけれども、その時、姿は何か髪はぼうぼうで、髭は長くなっているし、しかも着物もボロボロのものを着て、割れたような茶碗を持って、破れた袋を持って、とても昔の桃水を知っている弟子から考えたら、見られた姿じゃなかったんだろうと思うんですね。弟子としては大変尊敬していた。ですけれど、会えて嬉しさと同時に、何としてもその人と離れたくないという思いがあったんですね。しかしながら、ある意味では冷たい位に、桃水は、「お前はこんなところへ来るもんじゃない」「お前の境涯では無理だ」ということを言うんですね。それでも?州は離れないで、結局、同じ姿にさせられた。弟子にぼろを着せたりするわけです。ある時、大津の町へ行きましたら、そこに病人が倒れている。死んでいるようなんですね。かなり悪性の病気であったと。それを桃水は?州に、「鍬を借りて来い」と言って、埋めるんですね。たまたまそこに、よく見たら割れたような茶碗に、雑炊らしいものがあった。それを桃水は如何にも美味そうに食べるわけですね。普通だったら、病気が移るかも知れないとか、とても食べられないですが、自然に食べる。「お前も食べろ」と。?州はとても食べられないわけですね。しかし、師匠のいうことですから、目を瞑(つむ)って食べただろうと思うんですね。しかしやっぱり、ウオッと吐き出してしますわけですね。倒れてしまうわけですよね。「お前は無理だからもう止めなさい」と。「十日しか持たないだろうと思ったから、ちゃんとお前の袈裟だとか、衣、ちゃんと置いてあるから、それを着て、黄檗宗の高泉(こうせん)というお坊さんのところへ行って、ほんとに死ぬ気で修行しろ」と。智伝という弟子と一緒に会って、そちらに修行に行くんですね。読んでいると、もし、私が?州だったら、同じことをしただろうなあ、と思いますね。
 
有本:  そういう名僧、高僧と言われる方々は、素晴らしいお弟子さんを育てるというようなことが一つありますよね。そうすると、「私がやったことを、見よう見まねでやりなさい」というふうなことが、一般的ではないかと思うんですが、その桃水は、「俺の真似は出来ないんだから」と、?州に言うわけですね。
 
藤原:  はい。決してそれを全面的に否定してしまうとか、「お前、人間ダメだ」とかと言う、そういうのでなさそうなんですね。むしろ、本当に深い慈悲と言いますか、「人間それぞれ個性とか、力量が違うわけですから、自分にあった修行で磨いていけ」ということじゃないでしょうか。そこは、私は、桃水は非常に人間的な優しさを見るんですね。決して自分のやっていることが素晴らしいとか、うまいとか、凄いんだというような、そんな思いは欲ですから、全くないですね。そして、育った弟子を他の尊敬する坊さんに預けていく、という。勧めているわけですから。
 
有本:  今のお話は滋賀県の大津ということですから、比叡山の麓ですよね。
 
藤原:  そうです。 大津といいますからね。桃水は伊勢だとか、名古屋とか、奈良だとか、結構あちらこちら動いているんですね。七十過ぎていたとありますから、高齢に拘わらず、かなり健康な方だったなあと思うんですね。かなり無茶な生活をしているわけですから。食べるものも粗末ですし、寝るところもろくなところでないわけですから。かなり身体が丈夫だった人だろうと思います。しかし、何よりも巷の人々と一緒に生きていきたいと、そういうお気持ちといいますか、誓(せい)願(がん)がこの人を支えただろうなあと思うんですね。
 
有本:  いま四百年近い昔のお話を伺っているんですが、当時としてもやはり相当のお坊さんだなあと巷の方々は、思っていらしゃったでしょうね。
 
藤原:  だと思いますね。やはりどんなに隠しても、自ずと品性は出て来ると思うんですよね。だから、分かってしまうんじゃないでしょうか。雲歩(うんぽ)という、昔、ライバルだったお坊さんが、やっぱり囲巌のお弟子さんですが、桃水さんもかなり対抗意識みたいなものがあったようです。禅林寺に入ったのも、雲歩さんが、細川家の関わりが深いものですから、それもかなり大寺に入っている。それで、対抗意識があったような気がするんですが、京都に乞食している時に出合うんですね。その時は全く様子が変わっているんですね。たまたま江戸に上る細川家に雲歩もついていきます。二人は大津の辺りで会うんですね。その時に、雲歩さんが駕籠の中から桃水を見つけるわけです。その光景から浮かべたら分かりますよね。駕籠で、その周りをお付き合いいっぱいというか、或いは、自分のお弟子のお坊さんが何人か付いているでしょうから、桃水のそばにいた人々はきっと驚いたと思うんですよね。それで、「桃水さんじゃないか」と、雲歩さんは非常に感激するわけです。桃水に対して、雲歩さんが懐かしげに見ると、桃水さんが、「お前はこれから大名に仕える身で大変だなあ」と。だから、「身体に気を付けて長生きして欲しいぞ。務めをしっかり守ってくれや」とこう言うんですね。これをある方に言わせると、「桃水と雲歩さ んは全く境涯が違う」と。「雲歩は相変わらず細川家に付いて、そして、己れの欲を捨てきっていない。ところが、桃水さんはあらゆるものを捨てている。だから、雲歩は桃水に会って恥ずかしかったんじゃないか」とこう言うんですけども。私もそれはそれも一理あるなあと思いつつ、もう桃水の気持には雲歩より上とか、下とか、そんな気はさらさらなかったんじゃないだろうか。ほんとにその雲歩のことを思って、それぞれやっぱり人間生きる場所が違うんだから、生きる縁も違うんだから、その縁に従って生きるしかない、と。そういう縁をいっぱい生かして、長生きしてくれや、と。それはやっぱり慈悲の気持じゃないかなあ、と。このときの桃水はかなり「捨」の世界に深く深く入っているなあという気がしますね。
 
有本:  でも、ほんとにこの一切を捨てきるという、素晴らしいことなんですけれども、やはり桃水でなければ出来ない。何故彼はそれが出来たんだろうと、
 
藤原:  そうですね。それはもう推測するしかないわけですよね。一つ考えられることは、やっぱり、大愚と言うか、純一に自分を見つけていくという、そういう気持を生涯忘れなかった。外から見ると、非常に愚かみたいなんですよね。しかしながら、愚の精神というものをいつも持ち続けていた。だから、「いつも自分はこれでいいのかいいのか」という問いかけがあっただろうと思うんですね。そして、そのことが一つやっぱり生涯、精進の道を歩かせていった。それが一歩一歩捨の世界へ桃水を導いていったんじゃないかなあと思うんですけどね。
 
有本:  乞食生活、或いは、布施、桃水の、京、大阪での生活は、そういう乞食生活を送っている桃水が、乞食生活を送りながら、いろんな一般の市民と言いましょうかね、接触する機会は当然あったと思うんです。どんなふうに法を説いたのでしょうか。
 
藤原:  多分ですね、禅的の教えなど殆ど説かなかっただろうと思うんですね。むしろ、自分が托鉢したり、人から頂いたものを、貧しい、食べられないような病人たちを看病したり、あるいはそばで共に生活して元気になるように、そういうふうに奉仕したんじゃないかと思うんですね。ほんとに乞食たちと一緒に生活をしながら、そうして、自分は托鉢したり、得たものをみなさんに分けて、自分は最低限の食べ物だけを頂いて、あと全部施す生活、そういうことをやっていたようですね。
有本:  その施すと言えば、最晩年ですか、例えば、馬の草鞋(わらじ)を作ったとか、そういう生産的と云いましょうか、始めるんですよね。
 
藤原:  そうですね。それも殆ど最晩年だと思うんですね。亡くなる三年前位からだろうなあと思うんですけども。それまでは托鉢したり、頂いたものを人々に配って歩く。或いは、病気を治すために薬を買って来る。或いは、最後を看取ってあげるとか、そういうことをしていた。マザー・テレサがカルカッターで、路上で病気の人達を助けてあげて、最後に死を静かに迎えるという、そういう似たことをされたようですね。
 
有本:  江戸時代の京都の豪商、角倉(すみくら)ですか、その一族から米を貰って、それを材料に酢を作った話がありますね。
 
藤原:  面白い話ですね。ただ、その前にどうやら乞食生活にストップしてしまうんですね。どうもハッキリ分からないんですが、やはり巷で日々頂く生活をしている人々を見ていると、彼らは怠惰な生活をしている。まるで前向きのところがないわけですね。それを見て、ただ与えるだけではダメだと思ったんではないか。また、人から頂くだけの生活だけでは、結局それに甘えていくだけで、自分の生き方を変える気になどならないと痛感したのではないでしょうか。また桃水は自分の甘えにも気づく。私も托鉢しましたけれども、何となく托鉢していると、個人の所得にならないんですけれども、道場の維持になるんですが、沢山くれてもいいだとか、欲が出てきますね。ですから、特に、桃水もそういう気持もフッと起きたことがあっただろうと思うんですね。そして頂いて、やっぱり自分は甘えがある。その自分の甘えを何とか超えなければダメだ。それはやっぱり自ら自分が何か作って売って、そして、その売って頂いたものを、また貧しい人々たちに、支えが必要な人の為に施す生活に変えていった。それであちらこちらで馬の沓(くつ)を作って見たり、野菜を売ってみたり、それから掃除をしてみたり、そういう「下(げ)坐行(ざぎょう)」というんですが、それを一生懸命やったようですね。ただ、だんだん流石の桃水も身体が弱って参りまして、やはり、「一処不住(いっしょふじゅう)」と言うか、あちらこちらに住まいをしょっちゅう変えていますし、それに堪えられなくなってきたんではないでしょうか。ですから、布施頂いても、それを配って歩くことが苦痛になってきたようです。角倉(すみくら)という豪商は、大変桃水さんの生き様にやっぱり感動していたわけですが、何とか支えてあげたい、と。但し、桃水というお坊さんはもう頂きものの生活をしたくないと思っているから、どう説得するか、悩んだんですね。それで知恵をしぼった。その人は沢山の人々を使っていたようです。沢山の人々を使っているから、当然食事は沢山作ります。そうすると、どうしても米だとか、煮たものが余ってしまうわけです。それは捨てるわけにはいかない。米なんか余ったら、それで酢を作ったらいいんじゃないか。その余った酢を売ったらどうか。これは決して授けるだけのものじゃない。そういう話をされて、それで桃水が意外にも素直に、「それはいい考えだなあ」と言って、角倉のいうことを聞いて、その生活に入るんですね。鷹峰でしたか、そこの庵で生活するようになっていくのですね。またこんな逸話も興深いものがあります。大津で馬の沓草履を作っている時がありましたね。その時に、丁度商家の倉と倉の間に筵を敷いて住んでいた生活をしていた。そこには何もないわけですね。飯炊く様子もない。それで、馬子の一人が、「何もないと淋しいじゃないか。無いとクリスチャンと思われるぞ」と。「阿弥陀さんの掛け軸をあげるから掛けておきなさい」とこう言うんですね。桃水は断るんですよ。しかし、まあ、掛けてやる。しかしその後、桃水は姿を消してしまいます。中に入ってみると、消し炭で、上に字が書いてあったというんです。それが、
 
     せまけれど宿をかすぞや阿弥陀どの
       後生頼むとおぼしめすなよ
 
と。大変面白いなあと思うんですね。仏にも甘えない桃水と言うか。やっぱり我々は普通ですと、仏さんになにかして欲しいと、願いをもって手を合わせたりして、お賽銭を出すわけですけれど、桃水はそういう世界をとっくに超えていますので、もはや願いするものは一切ないと。「随縁(ずいえん)」と言いますけど、縁に従って生きていくだけだ、と。腹が据わっているわけですね。「捨」の世界がそこまで来ているんですね。
 
有本:  そういう一切を捨てた桃水ですが、四百年近い前の人だという、歴史上の人物ということだけじゃなくて、我々こう現代に生きている者も、やっぱり素晴らしいところは汲み取ったり、教訓としなければいけないと思うんですが、どうでしょう、藤原さん、桃水の生き様を求められて、現代の我々は桃水から何を学ばなければいけないでしょうか。
 
藤原:  ほんとにある意味では、全く逆の生活を我々はしているわけですね。捨てるよりも、ドンドンものを入れていく世界、取っていく世界をやっているわけですから。しかし、取る世界だからこそ、桃水の世界をもう一度見直してやる必要があるなあ、と思うんですね。一つはやっぱりあまりにも我々は柵(しがらみ)をいろいろ背負い込んでいますものですから、それに押しつぶされそうな、不自由な、いつも忙しかったり、追われたりしていますね。全部こう取っ払ったら、さぞかし爽やかだろうなあと、そういう願望的って、誰でもあるんじゃないでしょうか。それはやっぱり桃水の一つの、自分の生活をさておいて、私たちを惹き付ける大きな魅力だろうと思うんです。それから、やっぱり何か物事をやろうと思ったら、志を持とうと思ったら、何かを捨てない限り、今までと同じような生活をしていたんでは、絶対無理だと思うんです。例えば、一時間勉強するとか、一時間自分のつくるためには、他のものを廃棄しなければいけませんですね。そういう意味では、あれもこれもという、今のあり方をやっぱりどっかで改めて、余分なことをひとつでも二つでも捨てなければいけないと思うんですね。もう一つ申し上げたいことは、とても満たされた生活を我々は現在していますね。反面、生老病死という、どんな時代にとっても避けられない。人間は生まれて、老い、病気になって死んでいくという、厳しい現実ですが、それがだんだん見えなくなってきている。或いは、考えないで避けて通ると言いますか、その為に人生が見えなくなって来るというものがあるだろうなあと思うんです。見えなくなってくるというのは、どういうことかと言うと、歳を取って老いるということは、だんだん奪われていくことですね。若さも取られ、家族に去られたり、或いは自分の職を去らなければいけない。ある意味では、「捨」の精神でなくて、奪われてしまうわけですね。さっきの道元禅師の、「世間を捨て、家を捨て、身を捨て、心を捨てる」ということでなくて、自分を捨てる前に、世間からある意味では捨てられるわけですね。歳をとって退職するということは、ある意味では社会から捨てられることですね。それから、家族亡くなれば、家庭からも捨てられる。これ全部受け身になってしまうんですね。受け身からでは、絶対的に主体的に生きる真の気力は生まれて来ないと思うんですね。私はこういう時代だからこそ、やっぱり自分で一人で生きる、基本的には自分一人なんだという、一つの押さえをしていたらいいなあと思うのです。例えば、現実に家族います。妻もいます。でも、居るのが当たり前と思うと、その気持としては感謝もないですよね。当然と思い込んでしまっています。もし、自分が一人だったらどうなるか。全部自分でやらなければいけない。子供いることはどんなに有り難いことか。或いは、妻がいることはどれだけ有り難いことか。ということは、大体奪われて初めて分かるんですからね。その時は遅いわけですね。だから、お互いに元気な時こそ、やっぱり人間は本来孤独で一人者なんだという、やっぱり精神的な「捨」と言いますかね、これは桃水さんから見たら甘いと思うんですけども、そういう精神的捨というか、そういうものを現代は必要としているのではないかという気がするんです。そこから感謝も湧いてくるし、生き方も変わってくると思うんです。当たり前と思ったり、それは当然と思っているから、生き方が非常に甘えが出てくるような気がするんですね。趙州(じょうしゅう)という中国に大変な名僧がいらしゃって、そのもとで修行していた権(ごん)尊者という人が居て、ある時質問するんですね。「何も持っていない時、どうしたらいいか」。そうすると、その時、それに対して、趙州(じょうしゅう)が、「放下着(ほうげちゃく)」とこう答えたんです。ところが、何もないというのに、捨てろ、ということですから、ないものをどう捨てるのか、と疑問に思って、また質問するんですね。権尊者が、「じゃ、何を捨てたらいいのか」と、こう言うんですね。そうしたら今度は、「それなら担いでいけ」と言うんです。これは禅的な表現ですから、非常に理解し難いと思うんですけれども、無いという意識さえも捨ててしまえと。だから、例えば、桃水で言えば、捨てるという意識があるうちは、まだほんとに捨てていないと思うんです。捨てて、捨てて、もう捨てるという意識さえ無くなってしまう。ほんと自ずから湧き出る行為、自然な行為、それは外から見たら、捨てている行為になるでしょうけども、そういう世界だと思うんですね。
 
有本:  桃水は坐りながら、七十一、二年の生涯を終えるというようなことですが、
 
藤原:  そうですね。先程マザー・テレサの話をちょっと致しましたけれども、マザー・テレサの行いに対して、「たった一人の病人の死を静かに迎えさせるために行為しても、別に社会改革にならないし、何の意味もないだろう」という人の批判があったんですね。マザー・テレサがそれに対して、「そうじゃない。バケツに穴が開いたら、やっぱり止めなければいけない」ということを言っているんですよね。私はやっぱり私共気をつけなければいけないのは、社会のいろいろな問題に対して、社会批判を凄くする。そして、責任を問うわけですけれども、それはそれで大事なことだと思うんですが、先ず、自分が一滴でもいい、何か社会に奉仕することが出来るかどうか。これはなかなか難しいと思うんですけれども、そういう小さな善意みたいな、一滴の善意というんでしょうか、そういうものを現代人は忘れてはいないだろうか、と思うのです。確(たし)かに桃水のやったことはほんとに一滴の善意でしかないと思うんです。勿論、捨の生き様という爽やかさもありますけれども、貧しい、そして病人を助けた、或いは、看病した。それは社会のほんとに小さな小さな出来事ですよね。桃水は一山(いっさん)の住職である地位を捨てて、そちらを選んだわけです。選んだのか、自然になったのかなとか思いますけど、その一滴の善意ということを、やっぱり私共は桃水から学んでいく必要があるなあ、という気がするんです。ほんとに二十一世紀を迎えて、非常に社会が混乱して、政治も経済も先行きが分からない時代ですね。その時に、じゃ、何をしたらいいか。私は小さな善意をそういうふうにお互いに積み重ねていく中で、やっぱり心の改革と言うか、それが社会の浄化につながっていくんじゃないかと思うんですけどね。
 
有本:  どうも素敵なお話有り難うございました。
 
藤原:  雑ぱくな話で、申し訳ありませんでした。
 
 
     これは、平成十一年十一月十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。