See you in the morning―娘からの贈りもの―
 
                      ホスピス チャプレン 藤 井  浩(ひろし)
                      き き て       山 田  誠 浩
 
ナレーター:  藤井浩さんは、やすらぎの家「ピースハウス」と名付けられたホスピスのチャプレンです。チャプレン(chaplain)とは病院や学校などの礼拝堂チャペルで働く聖職者のことです。藤井さんは四十年以上日本福音ルーテル教会の牧師を務めて引退。七年前にこの病院のチャプレンとなりました。週に一度の礼拝の様子は、この場に来ることができない人のために、病室にテレビ中継されています。職員をはじめ九十人以上のボランティアが運営を支えているこのホスピス。聖路加国際病院の理事長日野原重明(ひのはらしげあき)さんが長年温めてきた願いを実現させ、十二年前に開設した病院です。
痛みや苦しみを抱える人間を受け止め、さまざまな角度から援助できるよう、此処ではチームで医療が実践されています。医師や看護士、ハウスキーパー、薬剤師や栄養士など、専門家たちが力を合わせ、一人ひとりの患者が望んでいるケアを実現させます。チャプレンの藤井さんもこのチームの一員です。かつて藤井さんは、この廊下を家族として歩いていました。娘恵美さんが此処に入院、それがきっかけでチャプレンとなったのです。今は礼拝以外の時間、一人ひとりの患者の部屋を訪れて、ともに時間を過ごしています。
 

 
藤井:  何聴いていらっしゃるの?
 
患者:  あのCD。先生の礼拝伺って受けさせて頂きました。すいません。今日、大勢の方がいらしたようですね。
 
藤井:  そうね。嬉しかったよ。
 
患者:  富士山が綺麗なんですよ。
 
藤井:  とっても綺麗。あなた夕方いらっしゃいよ。夕方の富士、見にいらっしゃい。
 
患者:  そうですね。
 
藤井:  それなら、「どこでもいい」というから、僕はパッと開けて読もうか。いい? その読み方で。(本を読んであげる)
 

ナレーター:  話し相手になったり、患者の手助けをしたり、この日は本を読むことを頼まれていました。娘恵美(えみ)さんを見送って八年。庭には、今も二人がよく話をしたベンチがあります。娘によって開かれたチャプレンとしての道。その歩みを伺います。
 

 
山田:  チャプレンになられて七年ぐらいにおなりになるそうですけれども。
 
藤井:  そうなんです。私、娘がおりまして、その長女が一九九七年でございますが―発病したのは九六年。そして九七年の七月と九月に、このホスピスに入院をしてまいりました。全部で二週間たらずでしたけれども、私、此処へ。ちょうど引退した年が九五年でございますから。
 
山田:  牧師をお辞めになったのが、
 
藤井:  はい。それで時間があったものですから、私、よく此処へ来させて頂きました。そこで前の佐藤三郎チャプレンにお会いして、そして「病院にチャプレンがいるんだ」ということを聞いて、どんなお仕事か、その時お聞きしたんですよ、実は。
 
山田:  そうですか。
 
藤井:  だけど、まさか佐藤三郎先生の後に、私が来るとはとってもその時は思っていませんでした。
 
山田:  チャプレンというのはどういう役割と言いますか、お仕事をなさることになっているんでしょうか。
 
藤井:  私、チャプレンというのは、他の医療者と立場が全然違いますね。「どんな仕事をするか?」というと、入って来られると、すぐ私、まず挨拶にまいります。
 
山田:  此処に入院していらっしゃったら、
 
藤井:  「私はチャプレンです」と言ったら、みんな「チャプレンってなんですか?」。同じようなご質問をされます。私、簡単に説明をしてから、「私は一つもあなたをキリスト教に導くんでもないし、キリスト教の話をするでもないし、私、ただ此処にいるだけです。時々現れてきますから」。第一回目はそんな調子ですね。その次ぎから行ったらば、普通の話をするんですね。例えば、その方は、この方はどんなお話が一番関心があるかなあって、こう感じて、家庭のことやら、或いはお仕事のことやら、今までやってこられたお仕事、特に男性の方なんかそんなことを話したがる方がいますもんね。大体二回目ぐらいか三回目ぐらいに、その方の心が出てくる。一番の苦しみが少しずつ話されるような関係ができてくるんですね。私が行くと、目で判ります。待っていてくれたな、或いはナースに「藤井先生いますか? 今日は来ていますか?」といってくれている。ナースがすぐ「誰々さんは藤井先生いますか?と言ってくれていますよ」と。私、まいります。
 
山田:  それぞれの方の生活、それまでの生活とか、病気の状態とかがいろいろですから、お持ちになっている悩みとか、それもさまざまだろうと思いますけど、どういうお話が出たりしてくるんでしょうか、だんだん。
 
藤井:  そうですね。例えば、例を申し上げましょう。私の娘のこと。娘が一番初め苦しんでいたのは、やっぱりモルヒネをどうするか、ということに苦しみましたね。「モルヒネをこれから取らなければいけないかも知れないけど、そのモルヒネを取ったらば、少し朦朧とするんじゃないかしら」とかね。
 
山田:  痛みを押さえるためにモルヒネが必要なわけですね。
 
藤井:  そうですね。
 
山田:  だけど取ると、そういうふうに意識が少し薄れるのではないか。
 
藤井:  そう。やりたいことができなくなるんではないか。よく考えられないんじゃないか。そんなことをとっても悩んで、モルヒネはずっと押さえていました。そんな話が私の娘から出てきます。だけど、ごく最近のある患者さんで、お医者さんからやっぱり同じように、「モルヒネを取ったほうがいい。痛みがこれ以上痛むのは大変でしょう。モルヒネは痛みを押さえてくれますよ」ということを、ほんとによく説明してくれるんですね。それでもやっぱり取りたくないんですね。これみなさんそうですね。今のモルヒネは注射だけじゃなくて、パッチという膏薬みたいなものを貼るだけでいいんですね。それも小さな膏薬を貼るだけでいいんです。だけど、それが不思議に痛みも、それからいろいろな不快感を全部とってくれるんですね。だけどそれはこれからずっととっていかなければいけないし、だんだんもしかしたら増やしていかないけない。それは患者さんにとっても辛いんですね。症状は取れてほんとに楽になります。だけど死へ向かっていくんですね。健康な人になるという方向じゃなくて、死への方向を自分で決断しなければいけない。
 
山田:  モルヒネを取るということはそういう死に向かっていくことだ、というふうに感じていらっしゃるんですか。
 
藤井:  そうですね。
 
山田:  そういうふうに医療上の問題だけではなくて、そういう生き方の問題と深く関わっての不安だったりするわけですね。
 
藤井:  そうですね。私、初めは一生懸命説明をこっちがしてやる時があるんですね。話してしまうんです。でも私が話したら、私の話をお聞きになっていらっしゃらない。だけども、私が今度は話を閉じて聞こうという態度になったら、その方が話始めるんです。その時はじめて、「死ってなあに? 先生。どんなとこだと思う? あの真っ暗?」「いやぁ、そうかな?」なんて、そんな話から、そのうちに、「だけど、やっぱりみんないつか死ぬんですもんね。自分は最後まで生きていかないけないわね」「そうですね」「ほんとに自分も生きないけないね」「長さじゃなくて、ほんとに生きる質というのは大事に考えていかないけないね」というようになってきてから、その方はほんとに落ち着いてこられるんです。私、それほんとに不思議だな、と思うんですね。患者さんが心で語ると、ただ語るだけじゃなくて、その患者さんの心の中で、自分である決断をしていくんですね。
 
山田:  そうなるんですか。僕は牧師でいらっしゃるので、その死に向かってさまざまな悩みを持つ方の問いに、藤井さんが積極的に答えて、「こうされるといいですよ」というふうに言っていかれるのかと思いました。
 
藤井:  そんなことを言っても聞いてくださいません、患者さんは。もっと真剣に考えて、ほんとに心の中から、「私はこうしたいの」と言います。
 
山田:  長く教会の牧師を務めてこられたんですけれども、そういう藤井さんにとって、今のこのチャプレンとしての仕事は、どういう意味を持っていますでしょう。
 
藤井:  それは私、ちょっとまた別な思いがあります。とても今までの牧師の生活の集大成というか、総仕上げというか、そんな思いも片っ方ではございます。牧師の時には人に語り、神さまの言葉を伝える。私の神学校の先生が、「神、かく語り給えり、と言って話せ」というのが、私、教えられてきたもんですから、とにかく神さまがこう語っているよということが、私、牧師の使命だと思っていたんです。だけど、此処へ来て、そうやって語ることが使命というよりも、むしろほんとに聴くことが使命だ。それも患者の声を聴くことが使命だ、と感ずるようになってきました。
 
山田:  それはやはり総仕上げのお仕事だ、と思っていらっしゃる?
 
藤井:  私は今そう思っています。
 

 
ナレーター:  ホスピスにはさまざまな人生経験を重ねてきた人たちが暮らしています。比較的若いスタッフが多い中、人々と同じ時代を共有してきた藤井さんの存在は貴重なものなのだ、といいます。藤井さんのこれまでの人生は、時代のうねりの中で、自分の身を捧げるに足るものを求め続けた歩みでした。太平洋戦争末期の一九四五年四月、江田島(えたじま)の海軍兵学校に入学した藤井さんは、国のために命を捧げることを使命と感じていました。しかしわずか四ヶ月で敗戦。生きる目標を失います。
 

 
藤井:  自分で方向を見失っているような時に、私の家の真ん前にキリスト教会ができちゃったんですね。戦争中爆弾が二個落っこちましてね。大きな穴が二つありまして、それが池になっていましたけれども、そこへ宣教師の車が来て、宣教師が降りて来て、「この土地を購入したい」という。私の母が、実はそこで野菜を作っていたんです。私たちの土地じゃないんです。地主さんは他にいるんだけど、「その地主さんに連絡をしましょう」というんで、話がついて、買われたんですね。そこへ教会ができたんです。木造の教会でした。宣教師が来られて、男の宣教師と婦人宣教師がきました。男の宣教師はこの方は立派な方でした。名前をデービッド・ヴィクナーという方でした。私、ちょうど大学生でしたから、もうどうしていいかわからないような時に、その方が、「明日教会へ来ませんか」。で、行って、「また来週もいらっしゃい。待っていますよ」。次の週にも次の週にも次の日曜も。「他に今度はいろんなバイブルクラスをしましょうか」「会話を作りましょうか」。日本人の牧師も来てくださって、今度は日本人の牧師ともお話ができる。結局、私はそこの教会で洗礼を受け、実は私の家内もその教会で洗礼を受けてキリスト者になりました。
 

 
ナレーター: ヴィクナー牧師から一年間のアメリカ留学の話が持ち掛けられたのは、藤井さん二十六歳の頃、戦後経済の復興の中、保険会社のトップセールスマンとして活躍をしていた時でした。会社のために遮二無二働くことに充たされない思いを抱いていた藤井さんは、一九五五年新天地を求め、アメリカに渡ります。最初は英語とビジネスを勉強するつもりだった、といいます。しかし、アメリカで志を転換、父親には黙って神学校に入学します。寮の食堂で皿洗いをしながら、キリスト教を学ぶようになりました。アメリカ人と同じように英語で神学を学び、一九五九年にオーガスタナルルーテル神学校を卒業、学位を取ったはじめての外国人でした。牧師として果たすべき使命を見出したのは、ミネアポリスでの牧師の見習い時代でした。世界中で開拓伝道を行うグループと出会ったのです。
 

 
藤井:  World mission prayer league(祈りに支えられて世界に伝道するグループ)の宣教師たちというのは、ほんとに何もなしで出掛けていくんですね。そしてネパールだとか、インドネシア、それからパキスタンに行くんですね。マザーテレサ(カトリックの修道女:1910-1997:インドで貧しい人々のために奉仕)の話をお聞きになりますでしょう。あれと同じような生き方をするんですよね。何にもなしで、もう裸で行って、そしてそこでみんなと一緒に生活しながら伝道していく。夏には大抵みんなミネトンカの湖の畔に集まるんですね。ほんとに数百人集まって、そして外国から帰ってきた宣教師の話を聞くんです。それはもう心が奮え、肉が躍るような思いで、そのお話を聴いて、「よし! 僕もやってやろう」というような気持になってね。そして私、ブラジルの宣教師を日本へ帰って来て、日本の牧師になってから行く決心をしました。
 

ナレーター:  一九六四年、藤井さんはブラジルに渡ります。軍事政権が誕生し、年に十パーセントを超えるインフレが続く時代。日系移民が六十周年を迎えようとしていた頃でした。何の足がかりもない土地に、妻と幼い子どもを連れて飛び込んだ藤井さん。決まっていたのは最初の一週間の宿だけでした。夫婦でポルトガル語を学び、自宅の暖炉を祭壇に仕立てて、伝道を始めました。
 

 
藤井:  日本福音ルーテル教会の初代宣教師として藤井浩夫婦、それから私、小さな子ども二人いました。その時に三歳の女の子と一歳半の男の子、下はまだおしめをしていたと思います。その子どもを連れて、そして行った時には、これはいよいよ私はポール リンデル(World mission prayer leagueの当時の代表者で指導者:1915-1974)のやるような宣教師としての働きをやってみたいと思って、そして実はブラジルにまいりました。ブラジルへ行く時には、何にもなくてもいいというのを決心していました。だけど幸い日本からお金をある程度送ってくださいます。で、日本から送って下さっても、ブラジルの世情は大統領が突然更迭される、或いは飛行機事故で死んでしまった。或いはサンパウロ大学が戦車で囲まれる、或いは突然銀行が止まった。私たち、何回かそれを見てきました。そのたんびに、もう食べ物はなくなる。それから銀行からお金を出すことはできない。そんなのが数日じゃなくて、一ヶ月ぐらい―一番長い時はもっとありましたかしらね―続くんですね。やっぱり今度は子どものことを考えないけない。家内のことを考えないけない。だって誰も外国を知らない。私一人アメリカを知っていたんですもんね。だから家内には随分不自由というか、心配をかけました。もうほんとに突然遠くへ、奥地のほうへ行ったり、貧しい方やそれからお病気の方を奥地から連れて来たり、家の中には誰か病人がいつもいました(笑い)。
 

ナレーター:  往復千二百キロの奥地への伝道や困っている人々への奉仕など夫婦で身を粉にして働いた七年あまり。ゼロから始めたサンパウロの教会は、七十人の日系人や日本人駐在員を集めるまでになりました。一九七一年に帰国。自分が洗礼を受けた日本福音ルーテル田園調布教会の牧師に招かれます。活発な教会活動を指揮し、ルーテル教会の中では二番目に大きな教会に育てあげて引退。長女恵美さんの発病はその一年後のことでした。
 

 
藤井:  私はそれまではなんというか牧師冥利に尽きるような思いで伝道していました。ブラジルでも、日本の伝道教会の活動だけでも。だけど娘の闘病からすっかり価値観が変わったというような感じが致しました。どうしてか、というと、それまでは神さまのために大きくすればいいんだ。宣教すればいいんだ。何でも人々を集めればいいんだ。経済的なことをほんの少しでもたくさん献金が集まればいいんだ。そんなことを実は恥ずかしいけど、ずっと考えていました。現実にこの教会を運営していくというのは、やっぱりそんなことも考えていかないけないのは当然なんです。だけど、とかくそれに押し流されてしまって、ほんとの信者の信仰のことじゃなくて、教会の成長、少しでもいい働きになればいいんだ、という、そういうふうな形でしか理解していなかった自分が今では恥ずかしく思います。
 
山田:  私たちは教会の牧師さんとして活動しておられても、一人ひとりの悩みやそういうことに対応しておられるので、同じことの延長かと思いがちなんですけれども、かつて教会の牧師でいらっしゃった時には、何か自分に見えていなかったものが、今は見えるとか、今は感じられるとか、という、そういうことなんでしょうか。
 
藤井:  恵美の最期を看取る過程で、ほんとに弱っていく恵美の姿や、だけどだんだん弱っていくが、醜い終わり方じゃなくて、美しい生き方というのがあるように思います。いわゆる右肩上がりの成長していくんじゃなくて、下がってもやっぱりそこにある生き方があるんだ。十分に生きる生き方があるんだ。終わりがあるんだ、というのを娘からちょっと見せてもらった思いがします。だって、死って、私もみんなに説教していましたり、いろんな最後の葬儀をしたり、死についてはわかっている、と思っていました。ほんとに苦しい大変な死への道、それを乗り越えていく肉親の娘の生き方を見ていてね、これはほんとにケアしていかないけない私の務めだなあ、って思いました。
 

 
患者: 散歩に連れ出して頂いたことを、とっても嬉しかったです。
藤井:  ナースが連れて行ってくれた?
 
患者: はい。焼き芋大会、焼き芋の会とかね。
 
藤井:  あの時は、私は来られなかった。
 
患者: あ、そうですか。外で焼き芋を頂いたりね。
 
藤井:  外で?
 
患者: はい。美味しかったです。
 
藤井:  それはそれは。また明日朝ね。
 
患者: そうね。「また」という言葉がとっても恐かったんですよ、今まで。
 
藤井:  そう?
 
患者: それが普通に「またね」って言えるようになりました。
 
藤井:  言えるようになった。
 
患者: 「またね」っていう言葉が、まだ使えるんだなあって。
 
藤井:  そうよ。あなたの心を傷付けたかも知れなかったね。「またね」なんていっちゃって。
 
患者: いえいえ。でもそういう希望をね、傍にいて支えてくれたのは娘ですから。
 
藤井:  そうだよ。その通り。
 
患者: あした。
 
藤井:  明日ね。失礼していい?
 
患者: はい。ありがとうございます。
 

 
ナレーター:  藤井さんの長女恵美さんは、このホスピスに二度の一時入院をしています。ガンと判ったのは、二人の男の子の母親として、また医師である夫を助ける看護士として懸命に働いていた時のことでした。手術や放射線治療を受けましたが再発。自宅で家族に見守られながら三十六歳で亡くなりました。恵美さんは藤井さんとともに三歳でブラジルに渡りました。伝道に忙しい両親の元を離れ、五歳の時に五百五十キロ離れた奥地の全寮制の小学校に入学しました。四人兄弟の長女恵美さんは、教会の活動や附属幼稚園の仕事に追われる両親に代わって、兄弟の母親役を務め、家事を引き受けてくれました。藤井さんにとっては頼もしい存在。しかし恵美さんにとっては大変なことでもありました。高校卒業後、家を離れ、京都の看護学校に入学します。裕福ではない家計を考え、奨学金を受けられる学校を探してのことでした。
 

 
山田:  恵美さんのご闘病のことを少し伺わせて頂きたいんですけれども。まだ年齢的にも若い時のご病気でしたから、
 
藤井:  まず「どうして私が」という思いがすごく強かった。怒りが出たりね。割合恵美は私に似ているんですね。穏やかな時はいいんですけれども、言う時にははっきりと。時々怒りも出すんですね。「私の二人の子どもは小さいの。もうちょっと子どもが大きくなるまでは何とか」。ほんとにこれは一種の神さまとの取引ですね。もう少し生きたい。エリザベス・キューブラ・ロス(1926-2004:精神科医。著書「死ぬ瞬間」で死を迎える人が歩む5つの過程を明らかにする)も同じことをいうんですね。この取引が第三番目にくるって。まず第一番目には否定をして、その次は、怒りが出てきて、そしてその次は取引をして、鬱(うつ)になって、そして受容していく。こういうふうな五段階を踏むというのです。私は必ずしもこの五段階どおりの順番にくるとは恵美を見ていても思いません。行ったり来たりしていました。私、牧師ですからね。初めは信仰的に解決しようと一生懸命祈ろうかとか、或いは信仰的な話をしたりするんですけれども、いくらそんな話をしてもだめでした。「祈ろうか」と言ったら、「祈っていらない」と恵美からそう叱られたことが何回かありました。「パパの祈りは聞かれない」と言われました。
 
山田:  それは藤井さんは、恵美さんがどういうふうに思いになっている、というふうにお受け取りになったでしょうか。
 
藤井:  「パパ、そう祈っても、私の身体はパパの祈りのようにはならない」って、彼女自身が知っていたんじゃないか、と思うんですね。だから、「そんな祈りは祈らなくていいよ」って、拒絶するんですね。むしろ私はその時に、「イエスさまがお祈りする時にはね、どうぞこの苦い杯―苦い杯というのは死のことをいうんですけど―苦い杯を私から取り去ってください」。これは人間的にはそう思うように取り去ってください。だけどこれは自分の思いではなくて、「み心のままになさってください」って。それがイエスの最期の祈りだったんですね。だから私はそう祈れば良かったのかも知れません。だけど人間的に少しでもよくなってほしい、或いは死が少しでも先にいってほしい、という願いがあると、どうしても治ることを期待するような祈りになってしまう。これはほんとに牧師としていつもそういうふうにしてしまっていたんですね。他の患者さん、信者のところへ行ってもそうでした。それは大きな自分自身のショックでした。だけど、これがほんとだなあと思いましたね。これから私は、しなければいけないことがあるんだと。ただ祈って、よくなることを期待して祈ることじゃなくて、今度は恵美と共にいることだなあ、というふうな思いに変わっていきました。抗ガン剤の治療に行く、或いは放射線の治療に行く。これは長期です。一ヶ月二ヶ月。毎日行かなければいけませんから、車で毎朝病院まで連れて行きました。その時が私と恵美との会話にとってはとっても良かったです。
山田:  藤井さんと恵美さんとの間の会話の時間が、
 
藤井:  そうなんです。ちょうど子どもの時に恵美をサンパウロ郊外の小学校に送って行く時に、自動車で毎朝送って行った時があったんですね。その時にいろんな話をしたのがお互いに思い出されたんでしょうね。恵美は結婚して二児の母ですけど、やっぱりお父さんに話すようなつもりで、「パパ」と言って、いろんな苦しみを全部話してくれました。私はそれをずっと聞いていました。
 
 
ナレーター:  治療の見込みがないと判った時、恵美さんは残された時間を十分に使う計画を立てるため、このホスピスに入院しました。二人の息子のために、毎年の誕生カードを準備したり、成長していく子どもに伝えたいことを絵本に表したり、旅行の計画や葬儀の準備まで一つ一つできることを仕上げていきました。
 

藤井:  この本は『ポケットの中のプレゼント(柳澤恵美著・久保田明子絵)』というんです。これは生まれてウサギはジャケットをもらって、そして誕生日がくるとそのジャケットのポケットに一つ一つプレゼントを入れてもらうんですよ。いろいろなものを。小さい時はテッシュだとか、それからシャベルだとか、大きくなるにつれてクレヨンとか、ボールとか、目覚まし時計だとか、いろいろなプレゼントを―これはダイアリーで日記を書くように、と言うんですよね―で、ある年の誕生日には聖書をポケットに入れて貰い、さらに大きくなるとラジオだとか、世界地図だとか、そしてそれらをもっていよいよ高い山を登っていくんですよね。これからあなたたちの前にいろいろな山があるよ。「勇気の岩山」「楽しみの岩山」「忍耐の岩山」「礼儀の岩山」「信念の岩山」「信仰の岩山」「愛の岩山」という山をこれから登るよ。これらの山々を一つ一つ登ってごらん、っていうメッセージを絵に描いたんですね。
 
山田:  それで恵美さんの闘病の間ですね。さまざまな形で寄り添われて、藤井さんがこう学ばれたことというと、どんなことになりますでしょうか。
 
藤井:  そうですね。纏めて、私、三つのことは学んだように思います。第一は、「人生の完成」。第二は、ほんとに人との和解、というよりも、むしろ「本当の和解」ですね。最後は、「希望」にしましょうか。
 
山田:  ほんとに一つ一つのことをやっていかれる姿を見ておられて、その完成とおっしゃいましたけど、
 
藤井:  そうですね。それを一つ一つやっていくんですね。ちゃんとやりあげていく。人それぞれ違います。だから完成というと全部やり遂げるとか、立派なことを仕上げるという意味じゃなくて、できるだけ自分の人生を十分に、良い質でもって生きていく。それはある意味での完成だと思うんです。もしかしたら、短いかも知れません。ほんとにできあがっていないかも知れないけど、その人なりに十分生きぬく。その時に完成して、少なくとも満足した人生を知ることができます。
 
山田:  二つ目におっしゃいました「和解」というのは、これはどういうことでしょうか。
 
藤井:  これはちょっと解りにくい言葉ですね。私たちよくみんなから、「藤井先生たち幸せですね」って言われるんですよね。四人子どもがいて、長女は恵美ですね。外から見るとほんとに幸せで、家族みんな仲がいいし、そして方々のところへ行っていろんな働きをして。だけど恵美はほんとに幸せだったかな。だんだんわかってきたんですけどね、恵美の苦しみの一番大きな苦しみは、さっき私、「ブラジルに行った」と申しましたけども、宣教師たちは自分達の子どもをよい教育をする学校を作って自分達の子どもをあずけて伝道地へ行きました。その学校はロンドリーナ(パラナ州)というサンパウロから五百五十キロぐらい離れた奥地にありました。私、恵美にいい教育を与えたい、と思って、その学校に行かせました。行く時はドライブして、「わぁ!凄いとこね。奥地って凄いとこね!」。真っ赤な土が舞い上がって走って行くんです。向こうに着いたら、お互いに顔が真っ赤で、顔を見合わせて、「わぁ!なんていう顔」なんていう感じで着くような、そんな遠いとこでした。全寮制でほんとに行き届いた素晴らしい学校なんです。私もそれを見て、安心して恵美をお願いしよう。恵美はよくわかならなかったのに、置いて帰って来ちゃったんです。それはいつまでもそのことを言っていました。「パパは私を捨てた」って。
 
山田:  その学校が、
 
藤井:  はい。その時恵美は五歳でした。だから恵美にとってはほんとに辛かったんですね。それがいつまでも彼女の心に残っていました。
 
山田:  そしてそのことが、和解というのはどうつながるんでしょうか。
 
藤井:  それで話はずっと恵美の最後になりますけれども、「パパとママのところへ行きたい」というんで、私、連れて行きました。十日間ぐらいでしたと思います、一緒に中伊豆の家で生活をしたんです。
 
山田:  それはお亡くなりになる前に?
 
藤井:  亡くなる一ヶ月ぐらい前のことです。夜が美しい。ちょうど十五日の満月の夜でした。「満月だね。外へ行こうか」と言って、小さな公園に行きました。そして満月を見ながらしばらく沈黙していました。何かまだ冷え冷えしい感じがあるんんです。何か全く通じ合っていないものを感じました。それで月を見ながらしばらく話しているうちに、ハッと気が付いたように、「何かパパに言うことない?」。そうしたら突然恵美が話し始めたんです。「私はパパやママの飾り物だった」って。恵美がいろんなことがよくできたし、そしてほんとに美しく動いてくれたから、私たちはいつも立てるのです。お客さんが来たら、まず「これが長女の恵美です」と紹介していました。「ああ、そうだ。恵美を飾り物にしたつもりはないけども、恵美に一番いい教育を与えようと思って、そしてロンドリーナの学校に入れたんだよ。その時、恵美辛かったね」とか、「恵美、看護婦になってくれたの、どうだった?」と聞いたら、「パパが看護婦というのは一番いい女性のお仕事だ、っていつか言っていたでしょう」「そうね。恵美、大きくなったら女性としては一番いい仕事は看護婦かも知れないね。病気の人をよく助けてあげる。介抱してあげるいい仕事だね」なんてよく言っていたんですね。それは恵美にとっては看護婦にならないけないような、或いは看護婦をパパが望んでいるんだ、と思っちゃったんですね。「パパやママたちのことを考えて、自分はこうやって看護婦になったんだ」ということを話した時に、「ああ、僕はほんとにこの子を犠牲にしたなあ」と。自分たちにとってはそれはいいと思っていたのだけれども、恵美にとっては苦しいことだったな、ということに気が付いて、「恵美、赦してね。パパ、悪かった」。その時にはじめて二人で抱き合うようにして、「ごめんなさい」。恵美も「パパ、ごめんなさい」。その時はじめてすべて和解したみたいですね。
 
山田:  生が残り少なくなった時に、何かそのことに触れて話をしたい。そういうお気持ちにその時になられたということでしょうか。
 
藤井:  ずっとなっていたんでしょうね。お互いに何か感じていたんですね。だけど和解というのは、気がついたのですけれども、恵美と和解するというんじゃなくてね―それも勿論そうです―同時に自分自身に気が付いたんですね。自分の弱さとか自分の欠点とか、自分自身の足りなさ、ほんとに人を理解することができなかった自分。恵美を理解することができなかった自分。その自分に気が付いたのです。
 
山田:  藤井さんご自身が、
 
藤井:  私自身がね。だって恵美はもう三十六歳になっているのです。私は気が付いていなかったです。だから恵美との和解の前には、やっぱり自分自身が、自分とはほんとにこういうふうな自分だということに気が付く。自分との和解というのがある、と思うのです。これは恵美とだけではなくて、他の人ともそうかも知れませんね。他の人ともほんとの和解というのは、ただ仲直りをするんじゃなくて、自分の欠点や自分のありのままの自分に気が付いて、そして和解をしていく。自分自身と。
 
山田:  そのお気持ちがあるからこそ、今度は恵美さんとの間にもそういう心の通いが生まれる。そういう意味でしょうか。
 
藤井:  そうでしたね。ほんとに此処でもそうだと思います。こんな自分でもまだ用いられて、此処で働くことができて、患者さんのために生きることができる。そんなら自分と和解し、そしてさらに今度は神さまとも和解していく。神さまが私を許し用いてくださる。和解に気が付いていく。その時にはじめて患者さんすべてを受け入れていくことができるようになりますね。恵美も和解してからというか、十月十五日の満月の夜の出来事からすっかり変わりました。それから自分でいよいよ最期の一ヶ月歩み始めましたね。で、その時の冷静さ、平静さというのはほんとに見事な毎日でした。
 
山田:  三つ目におっしゃった「希望」というのは、これはどういうことでしょうか。
 
藤井:  さっき申し上げた娘がロンドリーナの小学校、アメリカ人の宣教師の子女の小学校の寮に入れた日から泣きわめいていたんです。ほんとにその当時。宣教師のお一人が毎晩泣きわめく恵美を膝の上に抱っこしてくれました。両親は恵美を置いてサンパウロへ帰ってしまったのです。きっと困られたと思うのです。そして毎晩夜寝る前には、「さあ、恵美さん、お祈りしましょう」って、恵美に祈りを教えてくれました。英語でゆっくりと、そして祈った後、「see you in the morning」―明日の朝会いましょうね、って。はっきりとゆっくり言ってくれて、「Emi, go to your bed. See you in the morning.」―明日の朝会おうね、って言ってくださったのです。それが毎晩一年続きました。そうしたら恵美の頭の中には、「See you in the morning」というのがずっと残っているんですね。それでそのことを話してくれたもんですから、私たちも、今度私たちの家へ帰ってきた時に、恵美と一緒にみんなで家族で祈った後、「See you in the morning」ということにしました。それが合言葉になりました。そうしたら朝になったら元気にみんなで顔を見合わせて、「行ってきます」とそれぞれ一日が始まるようになりました。そんな生活がずっと続いていたんです。で、恵美がだんだん病状が進み悪くなってきて、そしてもう話すことができなくなった時、息子の聖(しょう)君という九歳の男の子が、「あこに聴診器があるよ。聴診器で聞いてごらん」。お医者さんの聴診器―きっと脈を計るために置いてあったんでしょう。で、こうやって当てたらよく聞こえるのです。
 
山田:  それは口に当てるんですか?
 
藤井:  口に当てなくでもいいんです。側へ持っていったら拡声器のように聞こえます。
 
山田:  あ、そうなんですか。
 
藤井:  はい。これ位近くへ持っていくと良く聞こえます。お医者さんの聴診器というのは素晴らしいものだと思います。持っていくと、小さい声でいうのが全部聞こえるんです。もうほとんど話の声が細くなっても、例えば、「パパ、もう逝っていい」とかね。こんなはっきりした声ではないですが、「もう逝っていい」。それが「もう逝っていい≠チて言っているよ」と、私がみんなにいうと、「ありがとう」、或いは「ごめんね」っていうのです。「ごめんね≠チて言っているよ」。こうやって恵美のか細い声を伝えてやるんですね。最後に、「何、恵美言いたいの」「See you」後はもう言う力がないんです。「in the morning」―朝会おうね。死が終わりじゃなくて、次の朝があるんだ、という希望を持つことができるんですね。ほんとは死というのはもうそれでお終いじゃないんですね。私は永遠の中で、一コマかも知れないけれども、永遠に続いていく一つの点かも知れない。それを超えて、また会うことができる。私それを一番感じたのは、アメリカへ行った時は一九五五年でした。横浜から「プレジデント ウイルソン」という船に乗って、三等船客で、ヴィクナー先生からもらったお金で一番安い切符を買って乗ったんです。みんなテープを振ってくれて、そして泣いているんですよね。下でみんな泣いている。私もちょっと泣きました。テープが切れて船が動き出したら、もう船の舳先のほうへ行って、前のほうを見て、あ、これからあそこの間を通って、東京湾を通って地平線の向こうへ行く希望でいっぱいでした。或いはずっと航海していても、ずっとあの太平洋の向こうにアメリカ新世界があるんだ。ずっと見ていたんですね。そして向こうへ行って三年ぐらい経った時に、私の親友が日本から何人か来てくれたんです。See you in the morning。だけど向こうでほんとに会えるんですね。そう思うと、恵美だって同じだ、と思ったのです。私に「See you」と言ったけども、また天国でいつか私も恵美と会うんです。実は此処でも患者さんのところを訪ねますでしょう。「またお会いしましょうね」。そして「明日またね」って、こう言い続けるんですね。そうしたら患者さんの心の中にはだんだん明日がイメージされるんですね。ある患者さんには、その方は英語を話す方だから、「See you tomorrow」、その次ぎ、彼は「tomorrow morning」。そのうちに今度はわざと、「See you in the morning」というのです。その方は今は「See you in the morning」と言ってくれます(後日談:この方はご自分が死ぬ日がわかっていたようにちょうど十二時間前の深夜、私を電話で呼び出し洗礼を受けられて十二月二十二日に亡くなりました。収録は十二月六日でした)。まだほんとにキリスト教的な天国はご存じないかも知れません。だけど、「See you in the morning」。我々の人間の中に、「in the morning」があるんですね。
 
山田:  それが「明日」という固定した日ではなくて。
 
藤井:  永遠ですよね。
 

 
(聖書の朗読を頼まれて)
 
藤井:  そののち十一人が食事をしている時、イエスが現れ、その不信仰と頑なな心をお咎めになった。復活されたイエスを見た人々のいうことを信じなかったからである。主は彼らとともに働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってハッキリとお示しになった。
 
患者: 今そこのエルサレムのヴィア・ドロローサ(エルサレムでイエスが十字架を背負(しょ)って歩いた道)のところを思い出していましたけど、あそこ歩かれた時は、私はわかりませんけど、それはみんなのもの、あの重たいものを一人で背負って、みんなのものを背負って行かれたから、それでみんなの罪が終わったわけではないですよね。みんなの罪はいつまでもあって、それを自覚していなければいけないと思いますよね。人から背負ってもらって捨ててもらうものではないですもんね。
 
藤井:  よく言ってくださった。ありがとう。
 
患者: そう思いますよね。
 
藤井:  嬉しい。
 
患者: あの細い石畳の道をずっと歩いて、こんなとこ歩けるかしらと思いましたよ。あんな大きいものを背負ってね。だからありがとう。先生、ありがとうございました。
藤井:  今日、あなたの手がちょっと冷たいよ。
 
患者: いつも冷たいんですよ。
 
藤井:  気を付けて、温かいカイロがあったら手に、
 
患者: もらっています。大丈夫です。
 

 
山田:  教会はいらっしゃる信者の方―聖書を学びたいとか、神の言葉を聞きたいとか、むしろ積極的にそういう形でいらっしゃるだろうと思うんですが、此処の方たちは必ずしもそうではありませんですね。
 
藤井:  そうです。だけど傍にいたら何もしないのか、っていうと、私の心の中では動きがあるんですね。その患者さんのことを考えたら。こんなことを思うんですね。イエスさまがもしそこにおられたら、何もしないかも知れないけれども、だけどイエスさまのお言葉の中には、よきサマリア人の喩えなんかでは、強盗に襲われた旅人を愛された、或いは顧みられた、哀れまれた、という訳がされています。そのすべての言葉の元は「compassion(共苦)」という言葉なんですね。聖書の中にたくさん出てきます。「compassion」というのは、「com」というのは「共に」、「passion」というのは「苦しむ」というもんですね。だから「ともに苦しむ」。だからイエスさまがいつも何もなさらないかも知れないけれども、「ともに苦しんでくださる方」というのがイエス様の姿だと私感ずるんですね。だからそんなら、「ともに苦しむ」―私たち人間が「ともに苦しむ」って、ほんとにできないことですが心の中で、今患者さんの思いを聞きながら共に苦しんでいこう、という思いだけは、ひたすらしていこうと努力しています。よく亡くなられる患者さんの横で手を握りながら、「私は何にもできない」とほんとにそう思って、一言、「私は何にもあなたにできない」。むしろ「ごめんなさい」と、一言小さな声でいうと、患者さんって、もう亡くなるまで、耳は聞こえているんですね。で、「いいですよ。それでいいんですよ」というような感じで応えてくれたことがありました。だから私何にもできなくともいいんだなあ、と思っているわけです。私は牧師になってからずっといろいろなことをやってまいりましたけれども、ほんとに無力なありのままの私こそが牧師としての私のほんとのあり方じゃないかなあ、と今は思うようになってきたわけです。
 
     これは、平成十八年一月二十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである