老いを豊かにー古典に学ぶ老人論ー
 
                          桐蔭横浜大学教授 八 木  誠 一
                          き き て    白 鳥  元 雄
 
白鳥:  神奈川県横浜市青葉区の丘陵地に建つ桐蔭(とういん)横浜大学。今日はこの大学で哲学、倫理、宗教を教えておられる八木誠一さんをお訪ねします。八木さんは昨年五月、ローマの政治家で雄弁家として知られるキケロ(Marcua Tullius Cicero)紀元前一0六ー紀元前四三:ローマの政治家・雄弁家)の著作、『老年について』を奥様と共同で、ラテン語から日本語に翻訳し出版( (註))されました。二千年の時を超えて語りかけるキケロの言葉には、老いの豊かさについて示唆に富むものがあります。見晴らしの良い研究室でお話を伺いました。
            (註)キケロ著 八木誠一・八木綾子訳『老年の豊かさについて』、法蔵館、一九九九.

 
白鳥:  このキケロの『老年について』を奥様とお二人でお出しになったわけですね。ラテン語の原典を間において、なんか奥様と二人で一生懸命にお訳しになる。なんかその雰囲気を考えただけでも、非常に知的な雰囲気で羨ましい感じが致します。
 
八木:  いえいえ。
 
白鳥:  これはなんかきっかけがあったんでございますか。
八木:  ええ。そのきっかけはあんまり有り難い話じゃないんですけどもね。「なんか一緒に仕事をしよう」と言っていたんですよ、前から。そうしたら、家内が病気になりまして、それで三年程前ですけれども、ぐずぐずしているともう間に合わない、と。それで、「やることは早く一緒にやりましょう」ということで、そして何をやろうか、と考えたんです。家内の専門がラテン語、ラテン文学でして、私は宗教哲学ですが、出発点は新約聖書だからギリシャ語なんです。それで共通点というと西洋古典学。それでやはり文学よりは思想ということになると、やっぱりキケロなんですね。キケロもいろいろありますから、どうしようか、と。『老年論』があって、やはり現代、いろいろ老人論が盛んだし、私共も老境に入っておりますので、一つこれでもじゃ訳してみるか、と。そして、訳し終えたら、家内は御陰様で元気にしております。
 
白鳥:  そうですね。私どもの年代も、そろそろそういう意味では戦友としての夫婦でなんかしたい、という気持ちはございますからね。先生の場合には、成る程、西洋古典というものがお二人に重なり合う、と。
 
八木:  ええ。丁度そこしかないものですから。
 
白鳥:  いや、羨ましいような話ですね。ローマ時代のキケロと言いますと、私は、「名前は存知あげておりますが」というぐらいの知識なので、キケロとはそもそも何者であるか。そして、キケロの生きたローマの時代というのは、一体どういうものであったのか。その辺から先生、ちょっとお話頂けますか。
 
八木:  はい。キケロのいた時代というのは、紀元前一世紀で、ジュリアス・シーザー
(Julius Caesar)とほぼ同時代の人です。ですから、最盛期と言ってもよくって、特に文学的にはローマの文学、ギリシャの影響を受けているんですけれども、紀元前一世紀には、ジュリアス・シーザは勿論、有名な著作家で、それから詩人のウェギリウス(Publius Vergilius Maro:70〜19BC:ローマ建国叙事詩『アエネーイス』を書いた、ローマの代表的詩人)とか、ホラチウス(Quintus Horatius Flaccus:ローマの詩人:前六五ー前八)とかに並ぶ著作家ですね、キケロは。著作家として知られておりますけれども、そもそも頭角を現したのは二十代。弁論家です。弁論家というのは政治的な弁論をやるんですけども、弾劾演説や弁護もやりまして、弁護士とも重なるところがあるわけなんです。それから、政界に入りまして、執政官にまでなります。執政官というのは、当時は共和制で、貴族と平民の代表が元老院を構成していたわけです。執政官は政界のトップで、軍事と内政の最高権力者です。
 
白鳥:  そうしますと、今の大統領みたいな、
 
八木:  そうですね。大統領ですね。それは選挙で。ですから、世襲制でなくて選挙で選ばれて、原則として一年毎に代わるんですけれども、平民からも出ることがあるんです。執政官になるんですけれども、何しろあの頃、非常に大変な時代で、カエサルとポンペイウスと一緒になったり、対立したりします。それで、ポンペイウスについたものだから、カエサルと対立するんですけど、また仲良くなります。カエサルが殺されますよね。あの後、オクタウィアヌス(Octavianus:ローマ初代皇帝、カエサルの養子)とアントニウス(Marcus Antonius:古代ローマの政治家)と争いになるわけです。オクタウィアヌスの見方するつもりだったのに、オクタウィアヌスにそっぽを向かれるんですね。アントニウスの弾劾演説をやっているんですよ。それで、アントニウスに嫌われまして、
 
白鳥:  恨みを買って、
 
八木:  恨みを買ったんですね。紀元前四十三年に、アントニウスの派遣した刺殺団に暗殺されるんです。
 
白鳥:  最後は随分無残な死を、
 
八木:  そうなんです。オクタウィアヌスも知らん顔をしているんですね。法律の保護下から外す、ということにオクタウィアヌスの命令でなってしまって、暗殺されるんです。それで、カエサルと対立していた一時期に隠遁(いんとん)するんです。別荘にいまして、そのころ著作に専念するんです。それで法律とか、政治の問題について、また友情とか、老年という倫理的な問題についても著作をしました。この『老年論』というのは、その頃書かれたものです。
 
白鳥:  キケロの年譜によりますと、紀元前一0六年に生まれて、紀元前四三年に暗殺された年ですね。
 
八木:  そうです。
 
白鳥:  この本が書かれたのが、
 
八木:  その二年程前と考えられています。
 
白鳥:  もう六十代になってから彼が書いた。
 
八木:  そうです。六十ちょっと過ぎていましたね。当時のローマは満六十歳以上を老人と言うんです。今と大して変わらないんですね。ですから、老年というのは厳密にいうと、六十歳以上なんです。キケロはもう六十になっているわけですが、まあそれほど歳を取っているわけじゃないです、当時としても。でも、いろいろきっと老年について考えることがあったんでしょうね。
 
白鳥:  しかし、その頃、つまり、今からゆうに二千年を超えている古典ですよね。その頃の日本というのは、まだ弥生(やよい)時代でしたか。
 
八木:  勿論、縄文は過ぎていまして、弥生の前期から中期で、銅剣や銅器が出土している頃ですね。古墳よりも前でしょう。
 
白鳥:  そうです。まだ大和政権が出来上がるという、ずっと前になりますね。
 
八木:  そうですね。ですから、日本に文化らしい文化が成り立ったのは、更に数百年後になると思います。
 
白鳥:  そういうことですね。最近は山内丸山(さんないまるやま)遺跡やなんか縄文時代に相当な暮らしの文化はあったろう、と言われておりますが、やはりここに書かれているような一種の精神文化と言いますか、知的文化にはちょっとほど遠い感じですものね。
 
八木:  そうです。やはり韓国経由で大陸文化が入って来ないと、やはり日本の精神文化というのはまだ育たないし、王朝文学も勿論成立していないわけですね。
 
白鳥:  八木さんの訳の大変こなれた翻訳というせいもあるんですが、実に私は身近に感じまして、つまり、二千年超えているという歴史的距離感がない位に非常に近く感じたんですが。
 
八木:  そうなんです。キケロの著作全部がそうだというわけでは必ずしもないと思うんですが、『老年論』は今読んで、そのまま分かる部分が非常に多いですね。ある意味で言えば、それだけ常識的なことが書いてあるのかも知れません。二千年前の人の考えたり感じたりしていることって、我々と大して変わりないんだなあ、という感じがしますね。
 
白鳥:  そういう気が致しますね。この本は、キケロが生きた時代の、もう百年位前のカトー(Cato Maior)というローマの政治家と青年達二人に語らせるという、そういう形式を取っていますよね。
 
八木:  そうです。
 
白鳥:  これは、こういう形式がこの時代に多かったんですか。
 
八木:  ええ。『友情論』もそうなんです。若い人が語るという。ラエリウスが 語る、という形を取っております。これはカトーが八十四才だ、という設定になっておりますから、紀元前一世紀になりますよね、当然。カトーに語らせる、という形で、当時ギリシャでもプラトンがソクラテスに語らせる。対話の主要な人物として、ソクラテスに登場させて、ソクラテスに自分の意見を言わせていますけども、まあこういう形式はよくあるんですね。
 
白鳥:  ああ、成る程。これを読んで、最初に思ったことは、「ああ、ローマの時代にもやや老いるということ、或いは、老いた人への社会的な眼差しが相当否定的なものを含んでいたのかなあ」と。だからこそ、「そんなことは無いよ」という一種の『老年論』が生まれたのかなあという感じがしたんですが。
 
八木:  いくらキケロでも、「老年が一番良い」とは言っていません。礼賛するわけじゃないけれども、「老年、なかなか悪くないよ」「やりようでは楽しいよ」と。
 
白鳥:  ああ、成る程。ニューアンスとしてはそうですね。初めに幸せな老年の実例を挙げながら、
 
八木:  政治家や哲学者の例を挙げて、ここにあるのはクイントウス・マクシムスですね。ハンニバルと戦って制圧した立派な将軍で、随分老齢だったらしいです。そういう立派な老人がいるし、それからプラトン(Platon:ギリシャの哲学者、ソクラテスの弟子)が八十一歳でものを書きながら死んだ、と。そういう例を幾つか、
 
白鳥:  恰好のいい死ですね。
 
八木:  ええ。そういう立派な老年もあるんだ、と。先ず例を挙げて。
 
白鳥:  彼は四つ、反論の柱を立てておりますね。その辺を中心にちょっとお話を伺いましょう。まず、「老人はすることがないという通念に反論する」というのが出てきますね。
 
八木:  そうです。
 
白鳥:  ここはキケロの巧さというのは、譬えの巧さみたいなところがありますよね。
 
八木:  そうですね。
 
白鳥:  例えば、






 

それは航海の際、舵手は何もしていないというのと同じことだ。他の
人たちがマストによじ登ったり通路を走り回ったり船底の汚水をかい出たりしているのに、舵手は舵を握って船尾にただじっと座っているだけだというのかね。確かに彼は若者たちのように働いてはいないかもしれないが、もっと大事な仕事をしているのではないか。

 
 
と。こういう反論の仕方は如何にも上手いなあと思いますね。
 
八木:  そうですね。「老年はすることがないという通念に反論する」という。まずそこで、「舵手は何もしていないように見えるけれども、何にもしていないんだろうか。そんなことはない」。確かに上手いですね。
 
白鳥:  その挙げ句の果てに、



 

大国は青年達によって滅ぼされる。老人達によって支えられ再建され
た。

 
 
と。キッパリと言っていますね。
 
八木:  ここに挙がっていますし、「若い人達が無思慮なことをやると、国が亡びるんだ」と。そういうのをチェックするのは老人ですよね。「人生経験と円熟な判断力を持った老人が、国の舵を取るんだから、それを以て老人にはすることがないなんて言えるだろうか」と。確かにその通りですね。やっぱりローマでは共和制の時は元老院ですけれども、その時、やはりそういう老年が権威をもって舵を取っていた、というより、命令も勿論したでしょうけれどもね。そうだったと思います。
 
白鳥:  キケロの年譜を見ますと、二十代で弁護士として頭角を現したり、ズンズンズンと偉くなったり、コンスル(執政官)になったり、そして、その後に戦争に巻き込まれながらも、政治への参画という形で、まさに元老としての重みを持っていたわけですよね。
 
八木:  そうですね。
 
白鳥:  それと、先生のお訳の中で、ラテン語でなんと書いてあるのか、よく分からないんですけれども、先生は三十一文字(みそひともじ)にお直しになるじゃないですか。このソロンの詩というのを、
 
     新しき ことを学ばずいたずらに
       過ぎ行く日なし 老いゆく我に
 
どうしてこう三十一文字(みそひともじ)に巧くなさったんですか。
 
八木:  それは遊びなんですよ。大体詩文の引用が多いので、それを散文に訳すとなんとなく詰まらないから、出来るだけ詩文のように訳そうと思って。そうすると、実は正確さというのはちょっと怪しくなるんですけどね。意味は間違いないところで詩文にしよう、と。そういうつもりでやったんです。ところで、このソロンというのはギリシャ人です。ギリシャ語で引用してあるわけじゃありません。
ソロンが、彼の詩の中で、
 
「自分は毎日毎日必ず新しいことを学びながら歳をとっていくのだ」と言って、威張っているじゃないか
 
という、こういう下りがあるんで、そこをちょっと詩文にしたんですよ。
 
白鳥:  成る程。
 
八木:  家内が厳密にラテン語から翻訳しまして、それを、私が現代的な日本語に直していったんです。そうすると、やはりちょっと意味にズレが出来たりする。家内が、「そんなに下品にしちゃダメだ」と怒るんですよ。あまりにも砕けた口語になっていて、「品が悪いからダメだ」と言って、喧嘩をしたりして、まあこういう形に落ち着いたんです。
 
白鳥:  そうですか。これはいいお話ですね。さて、先生、次は、
 
八木:  はい。第二は、「老人には体力がないと、みんないうけれども、それについてどうか」というお話で、確かに体力は無くなりますよね。美しさも無くなるんですね。だけど、そのことはあまり言っていないんです。
 
白鳥:  そうですね。あまり老醜というのについては言わないですね。
 
八木:  そういうところがあると思うんだけど、でも、立派ですよね。
 
白鳥:  そうですね。彼は凄くいいですよね。
 
八木:  綺麗ですよね。だから、きっと言うまでもないと思ったんでしょうかね。兎に角、体力はどうしても衰えるんだ、と。だから、老年って厭だなあ、というわけです。だけれども、青年は体力はあるけれども、体力が無くたって、それでお終いというわけじゃないだろう、ということですね。
 
白鳥: 





 

誰でも、自分にあるほどほどの力で、できるだけ努力をしていれば、
力のないことなど、たいして気にならないのだ。

君たちにはミローの体力とピュタゴラスの知力とどっちがいい。

 
 
こう聞いていますね。
 
八木:  はい。そういうことも言うわけです。まあピュタゴラスの知力も大変ですけれどもね。その後に、これなかなかいい文句だと思うんです。
 




 

要するによき賜物(たまもの)は持っているうちは有効に使い、なくなってしまっ
たら悲しまないことだ。さもないと青年は幼年時代を、壮年は青年時代をと、いつも惜しんでばかりいることになる。

 
 
白鳥:  これはいいですね。
 
八木:  それぞれの時代に、それぞれ良さがあるんだから、それを使って享受しようというわけで、無くしてしまったものはもう惜しまないでもいいじゃないか。かつて持っていたんだから。
 
白鳥:  その後の言葉も、これまた一種の提言というか、諦めみたいな言葉のように見えながら、凄くいい言葉ですね。
 



 

自然の道は一つで、しかも一方通行だ。そして、人生の各々の時期に
は、それにふさわしいものが備わっているんだよ。

 
 
八木:  「自然」というのは非常に大事なことだから、後でまたこれだけを話題にしたいと思います。ここでもやはり「自然の道だ」と言っているわけです。生まれて育って、壮年になって、老いて死んでいく。これは「自然の道だ」と。これは一つで、しかも一方通行。しかし、自然のもたらすものには悪いものがない、という。これはまた後で問題に致しましょう。こういう考え方が貫いていますから、自然というのが、神々の定めと殆ど同じ意味に使われていますから、それには従うのがいいんだ、と。従うというのは、嫌々従うというよりは受け入れることですね。
 
白鳥:  そして三番目の問題。
 
八木:  「老人には何の楽しみもない」と。これもやっぱり若い時の方が、或いは、壮年期の方がいろいろ楽しいことがあるけれども、老年になると、だんだん楽しみが無くなってしまうじゃないか、と。これはやはり非常にあの頃の倫理学者らしい考え方だし、ギリシャやローマで一貫していた考え方だと思います。「欲望は悪いものだ」というんですね。欲望は自分にも、人にもいろいろ災禍(わざわい)をもたらす。しかし、欲望に逆らい、快楽を断念するのは非常に難しいものだ。ところが老年になってくると、自然に欲望が無くなってくる、というんです。これは非常に有り難いことじゃないか。自然の恵みだ、と殆ど言わんばかりに。
 
白鳥:  そうですね。
 



 

老年が青年時代の最大の悪徳を取り去ってくれるとは、なんと有り難
い恵みではないか。

 
 
これは冒頭に書いていますね。
 
八木:  はい。体力とか、血気とかが無くなれば、そういう欲望も無くなってくるわけで、そうなるのは非常に有り難いことである、と。
 
白鳥: 



 

快楽を理性や知恵で遠ざけることはなかなかむずかしいことだ。だと
すれば、よからぬことへの興味が失せてくる老年こそ、実に有り難いものではないか。

 
 
八木:  そうですね。
 




 

ある老人(ソフォクレス)に誰かが、「あなたはまだ情事に耽りますか」と、こう尋ねた。「とんでもない。私はまさにそういう野蛮な暴君の許から逃れて来たところだ。今更そんなこと、どうでもいいんだ」
 
 
と、そういうふうに言っていますよね。
 
白鳥:  確かに青春という名前は美しいけれども、あの年代の中にある嵐のような情念というのがありますから、やはりそう言ったものが静まっていくことへの憧れというのはあるでしょうね。まあ正直言って、私も青年時代ありましたね。
 
八木:  そうですかね。青年時代って、何にも分からないくせに、そういう血気というか、アンビション(ambition:大望・野心)というか、そういうものだけは盛んなんですよね。それで人生だんだん分かってくれば、こういうものかという、受容というか、ある意味では諦念でしょうけれどもあるんです。確かに青年というのは何も分からないで、それで血気にばかりはやるというのは辛いところがありますよね。
 
白鳥:  そうですね。それを非常に鋭く指摘しながら、老年の持つ穏やかさ、というんですかね。
 
八木:  ええ。「快楽がなくなってしまうわけではない」と言って、老人でもいろんな人とお話をしたり、適当に食事とか、お酒とかを楽しんだりすることは十分出来るし、それをやっていけないというつもりは毛頭ない、と。やっぱり老年にはささやかな、そういう楽しみがある。そうでしょう。
 
白鳥:  そうですよね。
 
八木:  やっぱり青年期もそうだけれども、気のあった人たちといろんな深い話をするということも出来るようになるし、確かにそういう点は言われてみれば、その通りだと思いますね。
 
白鳥:  今度の先生のお仕事そのものも老年の楽しみという感じがしないでもないです ね。
 
八木:  まあ確かにその一つですよね。歳取ってから出来ることというのは。
 
白鳥:  ご夫婦で向き合って、こういうお仕事をなさる。
 
八木:  いや、いや。
 
白鳥:  このご本を読んでいて、面白いなあ、と思ったのが、葡萄の作り方についてかなり細かく書いているじゃないですか。もしかすると、キケロさんはかなりガーデニングなんかおやりになっていたのかなあという感じがしたんですが。
 
八木:  ええ。カトーは『農業論』というのを書いているわけです。
 
白鳥:  ああ、成る程。この主人公になっているカトーは『農業論』を書いている。
 
八木:  書いているんです。だから、勿論、そういう含みなんだと思います。ただ、晩年にカエサルと対立して、蟄居(ちっきょ)して別荘にいた頃がありましたね。その頃にこういう本を書いたわけです。その頃、やっぱり農業の楽しみということを自分でも身をもって経験したんじゃないでしょうか。つまり、そういう葡萄の栽培を見て感心するとか、或いは自分でも庭いじりのようなことをやってみるとかして、これはとっても楽しいものだ。ガーデニングが最近流行(はや)っていますけどね。
 

白鳥: 



 

楽しみは大地との取引にあるんだ。

私を喜ばせるのは有用性だけでなくて、葡萄の栽培と本性(ほんせい)そのものな
んだ。

 
 
こんな言葉がありますね。
 
八木:  はい。それはかなり大事な言葉だと思うんです。と、申しますのは、「本性」と訳した言葉が、「自然」とも訳す「natura」で、同じ言葉なんです。「本性だから自然」なんですよ。それで、もう一つの「栽培」が「cultura」で、これが後で、「culture」文化という言葉になります。ここでは「栽培」が「cultura」、「自然」 が「natura」、この二つ並んでいるというのがなかなか意味があると思うんです。ついでに、「クルトス(cultus)」というと「祭儀」の意味もあります。これは大地は神様のものだ、ということになっているから、大地を耕す時にはまず神様に仁義を切るわけです。
 
白鳥:  成る程。
 
八木:  それが「祭儀」という。
 
白鳥:  お祭りという、
 
八木:  そっちにいって、耕す方が「栽培」とか、「耕作」とか、「cultura」という語に なっていくんです。ですから、今、カルト(cult)とカルチャー(culture)は別の言葉になっていますけれども、元来、同じ言葉ですね。
 
白鳥:  同じ語源というか、語根から出ているというふうに、
八木:  そうです。
 
白鳥:  ああ、成る程。だから、彼が食事の時のお喋りの楽しさも言いながら、お終いの方で、大地との取引として葡萄の栽培のことを、しかもかなり剪定の仕方から何から細かく書いていますね。
 
八木:  「挿し木の技術にもいろいろあってね」って。それは今読むと、どういうことだかよく分からないことがあって、そこをいろいろ調べものするんで苦労しました。
 
白鳥:  ああ、成る程。これも楽しみの一つでございますね。
 
八木:  大体合っているんだろう、と思うんですけども。
 
白鳥:  先生は書物で「cultura」なさったんじゃないですか。ただ、私ども年寄りには、何かやっぱりかなり痛烈なメッセージなんですけれども、兎に角、
 



 

そういういい年寄りになるには、青年期の基礎の上に築かれた老年で
あることをくれぐれも忘れないで欲しい

 
 
という一節がありますね。
 
八木:  そうです。これはカトーの話相手が、ラエリウスとスキピオで三十歳代の若い人です。ですから、そういう若い人に語っているという面があるわけです。老人相手にだけ書いているわけじゃないんですね。そういう意味で言えば、若い人にも今のうちから、準備をしておけよ、と言っている面があるんだ、と思うんです。それと関連しますけれども、ここに出てくる老人って、やっぱり健康な老人ですね。
 
白鳥:  そうですね。
 
八木:  みんなね。
 
白鳥:  さっき先生が彼の残っている像をお示しになったけれども、とっても格好のいい老人ですよね。
 
八木:  そうなんですよ。そういう点がちょっと格好良すぎるかなあ、という感じはします。まあ病弱な人の話も出てはきますけどもね。
 
白鳥:  どっちかというと、そういうのはなんか心がけが悪いんだ、というような言い方ですね。
 
八木:  ちょっとそういうふうに響くようなところがありますね。
 
白鳥:  そうして、「老人には何の楽しみもないという通念に反論する」という、三項の一番最後の言葉は「ケチになったり、貪欲(どんよく)になったりしてはいけない」という言葉なんでしょうが、
 



 

旅路の残りが少なくなればなるだけ、よけいに路銀をほしがるなんて
こんな馬鹿げたことはないよ。

 
 
と、こう言って、この項は終わっていますね。
 
八木:  そうです。まあでも、とかく逆になりがちなもんなんでしょうけれども、やはりこういうところはありのままをきちんと認識すれば、何もそう欲張ることないじゃないの、そういうことでしょうね。やっぱり哲学者ですからね。
 
白鳥:  そうして、最後に、彼は、「老年には死が近いということについて」という項を設けているんですね。
 
八木:  はい。これが一番辛いことじゃなかろうか、と言うんですよ。これやっぱり現代でもそうでしょうかね。私なんかもボツボツ友人が死に始めていて、病気は、これかなり酷い病気をするし、私にも経験があります。そういう中で、死が近いということを非常に実感するようになります。それでやっぱり死ぬのが厭だ、というのは、これは誰でもそう思うことでしょうから。それについては、じゃ、どういうことが言えるだろうか、ということになるわけですね。ポイントの一つはやっぱり「死」という。「老年と死」というのは自然なものだから、これは受容すべきものだ、と。そういうことと、それからこれはプラトンの影響を非常に受けていると思うんですけども、「霊魂の不死」ということ。霊魂は死なないんだ、と。つまり、来世がある、というわけですね。来世があるんだったならば、何も死は悲しむことは全然ないじゃないか。これはやはり今でもそう思う人がいるんだろうし、思わない人がいるでしょうけどもね。最初に書いてありますね。
 





 

死んだら霊魂が完全に消滅してしまうとしたら、死なんか全く無視し
てよいことだし、反対に、霊魂が永遠に生きる場所に連れていかれるなら、死はむしろ熱望されるべきものだ。この二つの場合しか考えられないじゃないか。

 
 
しかし、ちょっとそうかなあ、と。来世があって、地獄に落ちるなんて可能性が、この頃からあったわけですからね。それはまあカッコに入れてしまって、こっちの方ばっかり言っているなあ、という感じはするんですね。
 
白鳥:  彼が、
 



 

自然に従って起こることはすべて善とみなされるべきだが、老人にと
って死より自然にかなったことがあるだろうか。

 
 
これが先程の先生がおっしゃったナートーラ(natura:自然・本性)ですね。
 
八木:  はい。これがやっぱり彼の中心だろうと思うんです。
 
白鳥: 




 

青年から命を奪うのは暴力だが、老年から生命を奪うのは成熟なんだ
ね。成熟して死ぬのは私にはとても望ましいことなんだ。だから死が近づくにつれて、ちょうど長い航海がすみ、陸地が見えてきて、ついに港に入ろうとしているような気分になるんだよ。

 
 
八木:  これがさわりですよね。
 
白鳥:  さわり、
 
八木:  はい。
 
白鳥:  先生、これ、ラテン語で読むと、どういう響きになるんですか。
 
八木:  ラテン語ですか。私はキケロの演説を聞いたことないものですから、当時の演説家がどういうふうに読んだのか知りませんけども。現在の学校のラテン語の授業の時には大体こういうふうに読んでおる、ということで読んでみます。
白鳥:  この辺のところを、
 
八木:  そうですね。お話下さった「自然に従って起こるものが全て善という」。それで最後に、「港に入ろうとしているような気分になるよ」と、そこまですが。
 
(ラテン語で読む)
 
まあこんな具合です。
 
白鳥:  成る程。「natura(自然)」、それから「portum」
 
八木:  ええ。「portum」(主格はportus)は港です。「navigatione」(主格はnavigatio)はnavigation(航海)」ですからね。
 
白鳥:  成る程。
 
八木:  かなり、今の言葉がありますよね。
 
白鳥:  そうですね。ヨーロッパ語の源流というのは分かりますね。
 
八木:  ええ。そうですね。
 
白鳥:  こういう例も引いていますね。
 






 

人の生命の最上の結末は、かつてそれを組み立てた同じ自然が、老人
の精神と感覚を損なわぬままに、自らの作品を自らの手で解体してゆく場合だ。船でも建物でも、それをもっとも簡単に取り壊すのは、それを作った人だ。同様に人の場合も、それを組み立てた自然が、一番上手に解体するのだ。

 
 
これもなかなか見事な比喩だなあ、と思いながら読んだんです。
 
八木:  そうですね。
 
白鳥:  これもさっき先生が一種の中心概念とおっしゃっていた「natura(自然・本性)」 ということですか。
 
八木:  そうです。「自然」ですね。自然に従って起こること。それに逆らっていたって仕方がない。受容するのが一番いいんだ、という。そうすると、自然に苦しみもなく、死んでいくんだ、ということでしょうね。
 
白鳥:  こういうキケロのこのような考え方は、キリストとその教えが広まる前のギリシャ、ローマの時代の考え方というふうに考えていいわけですか。
 
八木:  はい。そうです。
 
白鳥:  これが今の私たちに、どうしてこんなにこうピッタリするのか。同質的なものがあるのか。これはどこが違っているのか。その辺は如何なものですか。
 
八木:  そうですね。これを見まして、一番感じるのは特に「自然」という概念なんです。
 
白鳥:  natura(自然)、
 
八木:  はい。勿論、我々も「自然、自然」と言いますけども、かなり違ったところがあって、むしろ東洋の昔からの伝統に近いところがあると思うんです。それは現代にとって、かなり大事なことだからちょっと申し上げますと、キリスト教以前の古典のギリシャ、「physis(自然・本性)」という言葉がありますが、今の物理学の「physics」の元になっている言葉で「physis」、「自然」とも、「本性」とも訳します。それはどういうことかというと、生まれつきもっている本性です。人が後から付け加えたんじゃなくて、生まれつきもっている本性です。ただ、その本性というのは静的なものじゃなくて、動的にだんだんだんだんと展開していく。それで展開を終えると、それこそ自然に終わるという。こういう考え方なんです。それで、ただギリシャでも「自然」と言った場合にはいろんな使い方があって、一つは「文化」と対立するんですね。
 
白鳥:  つまり、カルチャライズされていないもの。文化になっていないもの、
 
八木:  ええ。「文化の低い程度」と言いますか、まだ「文化の域に達していないもの」という。ソフイストなんかがそういう見方です。そうすると、やっぱり文化の方が高いわけです。人間は文化によって人間らしくなるんだ、という。それからもう一つ、「文化」というのは「人為」であって、人間の本性を損なうんだ、と。だから、「自然」とか「本性」とかと言った場合には、そういう「人為」によって損なわれていない元のもので、これが非常に大事なんだ、と。ギリシャの場合でもローマの場合でも、神々の行為と殆ど同じでありまして、そうすると、文化の方が低くなって、そういう二つの対立があるんです。それでソクラテスは、特に自然という言葉を使っていない、と思いますが、自分で書いたものないから、私もよく分からないんですけれどね。ただ、言っていることは、やはり人間の持ってうまれた本性。それの展開が大事なんだ。それは理性です。理性は文化の元にもなるけれども、しかし、文化は理性をダメにもする。元々与えられた本性、それを展開させることが非常に大事なんだ。こういう見方はストア派の自然法というのがありますが、自然法は法と訳しておりますけれども、原語は dikaion で、ノモス(nomos:法)じゃなんです。言語は、正しさ、正当性という意味で、本性上の自然というのは、やはり文化や個人を超えたもので、そういう意味での正しさというものが、人間の文化とか、人間を作った法の上にあるんです。それは裁く位置にあるんで、これを自然法と言った。そういう使い方がありました。それでラテン語でも勿論いろんな使い方があるわけで、ルクレチウス(Titus Lucretius Carus:ローマの詩人・哲学者)の「事物の本性について」なんていうのも「natura(自然)」です。特に、『老年論』に出てくる「自然」なんですが、やっぱりこ れは人間本来の与えられたもので、それがだんだんと展開してくるんですよね。少年から青年、壮年、老年。だから、それぞれの時期に、それぞれの良さがある。というのは、自然が与えたものは良いもので、自然に逆らうのは神々に逆らうような悪いことだ。だから、自然を認識して、それに従う時に、人間は一番本性に従った生き方が出来るんだ、ということなんです。そうすると、ここでは「人為」ということに対立しているわけですね。
 
白鳥:  人の作るもの、人がすること。
 
八木:  そうです。それでキケロの場合には、「農業」とか、「農耕」というのは「cultura」。これは「自然」と非常によく一致しているんです。ところが後になってから、だんだんとヨーロッパでも「自然」と「文化」が分かれてきて、それで「自然は低いもの」、「文化は高いもの」ということになってくるんですね。そうすると、ジャンジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau:フランスの作家・啓蒙思想家:一七一二ー一七七八)みたいに、「自然に帰れ」なんていう言い方が出てくるんです。この場合の「自然」というのは、やはり文化以前の状態という含みが強いでしょう。それで、どうしてそうなったのか。今、古典のギリシャやローマにあったような自然観をさがして見ると、むしろ東洋にあるんです。私はそう思うんです。例えば、「自然」という言葉が元来、老荘(ろうそう)の「無為自然(むいしぜん)」という、
 
白鳥:  老子、荘子の時代ですね。
 
八木:  そうですね。老荘の「自然」という言葉に出てくるんです。この場合の「自然」というのは、現在、「自然科学」と言っている場合の「自然」とは随分違って、「大いなる道」ですね。大いなる道の働きで自ずから成り立ってくるようなことで、しかも、それが人でも事物でも本性の表現なんだ、と。そういう考え方でしょう。それを「無為自然」と言っている。だから、荘子にも、
 
     天地は無為なり、而も為さざる無きなり
         (『荘子』至楽篇)
 
と、こういう形で出てくるんです。「無為」というのは「何もしない」と書いてありますけれども、これが「はからわない」「自我のはからいでない」という。本性から成り立ってくることなんです。そういう意味です。そうすると、こういう見方がかえって、ギリシャやローマの古典の見方と随分一致してくると思うんです。
 
白鳥:  そうですね。紀元前数百年と言いますか、その頃に、そうすると、これだけ距離の離れたところで、かなり同質的な一種の宗教的認識と言いますか、或いは、基本的な存在認識と言いますか、そう言ったものが洋の東西で生まれていたということになりますね。
 
八木:  そうなんです。それで、これは中国ですけれども、仏教が中国経由で日本に渡ってきますね。そうすると、中国仏教というのがあって、そこでこういう見方がかなりはっきりしてきたんじゃないかと思うんです。勿論、サンスクリットの原始仏教にもあるんです。あるんですけれども、これがむしろはっきりしてきたんじゃないかと思うのは、サンスクリットの「絶対性」とか、「無制約性」という言葉、これは中国人が訳した時に、そういう抽象名詞がないから「無為」を充てたんですね。
 
白鳥:  「無為」というのは、そういう概念が、
 
八木:  充てたんです。「絶対のもの」というからでしょう。そうすると、「無為」という言葉の意味が違って「無為法」。「無為法」というのは「有為の奥山きょう越えて」の有為の反対の、
 
白鳥:  「ある、為す」という有為、
 
八木:  そうです。有為の反対が「無為」です。そうすると、「無為」がそれの絶対という意味になって、中国人の言おうとした「無為自然」じゃなくなってくるんです。そういう訳語では。それで中国で成立した禅仏教では、早い段階から「無心(むしん)」という。サンスクリットのアチッタ(acitta)の訳です。「無心」という言葉が中心になって、それ以後、ずっと「無心」という言葉できています。「無心」というのは「無為自然」と意味上は同じです。つまり、ただ、「道」と言っても、この場合 は仏教の法ですよね。仏教の法の働きによって、自ずから成り立つこと、それに則することを「無心」という。、
 
白鳥:  そうすると、また、ほぼ同じ頃にインダス川のほとりで生まれた仏の教えが若干変容しながらも、中国でそういう概念化された段階で、少なくとも、それはまた同じような観念が含まれているということですか。
 
八木:  やっぱり原始仏教にもあるんだと思うんですが、サンスクリットで「本性」と訳される言葉が、「自然」と訳されているんです。この「自然」という言葉が中心になるのは、もう一つの中国でだんだんと発展して、日本に来て、独立の宗派になった浄土教ですよね。浄土教の中心概念になる。法然の時もハッキリそうだと思いますが、「自然法爾(じねんほうに)」という言葉があって、法然と親鸞の中心的な位置を占めていると思います。これは「自然(じねん)」に「法爾(ほうに)」という字が付くというのは、この場合の「法」というのは、ただの仏教の法というよりもっと限定されて、阿弥陀様の働き、阿弥陀様の願力(がんりき)、願の働きですね。
 
白鳥:  浄土教ですからね。
 
八木:  そうです。阿弥陀様の願力の働きによって、はからわないで、自ずから成り立ってくることを「自然法爾(じねんほうに)」と言っています。「信心」がそうなんです。人間の信心というのは、はからいでなく、自ずから成り立ってくる。だから、やっぱり本性の実現なんだ、と言っていいんじゃないかと思います。こういう人のはからいに因らない本性の実現です。そういう意味での「自然」、或いは、「自然法爾」というのはギリシャ語の「physis」、ラテン語の「natura」とよく一致してくるんです。ですから、古典にもご承知のようにいろんな考え方がありますから、全部が全部、そうだというわけじゃないんですけれども、中に非常によく響き合うものがある。
 
白鳥:  成る程。これはやはり先生、比較思想という形で宗教をいろんな教えの、そういう同質な部分、違う部分というものを丹念に、今まで学問的に追求されて来られたから。そう言った形で紀元前の世界であったわけなんですね。
 
八木:  ええ。そう思います。それでキリスト教が絡(から)んでくると厄介ですよ。
 
白鳥:  さっきおっしゃいました問題ですね。
 
八木:  『新約聖書』にも「physis」、ギリシャ語の「自然」があるんです。パウロが使っていますね。もっと注目すべきことはイエスの言葉に、「physis」とか、「ナトーラ(natura)」という言葉でなくて、「アウトマテー」。イエスの言葉は勿論ギリシャ語でなくて、多分アラム語なんですけれども、『新約聖書』はアラム語をギリシャ語に訳したんです。ギリシャ語に訳した段階で、「アウトマテー」という言葉になった。
 
白鳥:  「アウトマテー」、
 
八木:  「オートマティック(automatic)」、
 
白鳥:  英語に、直すと、「オートマティック(automatic)」、
 
八木:  「オートマティック」ですね。「アウトマテー」という言葉を使っているんです。「マルコ」の四の二十六から二十九に、
 
     神の支配はこういう風なものである。
     一人の人が大地に種を蒔き、毎日寝たり起きたりしていると、
     種はかれが知らないうちに芽を出して成長する。
 
だから、人のはからいじゃないんですよね。彼が知らないうちに芽を出して成長する。
 
大地がおのずから結実するのであって、
 
 
この自ずからが「オートマティック(automatic)」の語源、「アウトマテー」です。
 
     まず茎、次に穂、次にその穂のなかに豊かな穀粒ができる。
     実が落ちるころになるとすぐ鎌を入れる。
     収穫の時がきたのである。
 
神の支配ですね。神の支配って、普通は天のものなんです。地のものではないんです。ところが、イエスの場合は、神の支配が何かというと、大地が自ずから実ることだ、と言うんですね。私は、これはイエスの非常に特徴的な言葉だと思うんです。やはり、パウロの原始キリスト教と違ったところがあると思います。ただ、大地が自ずから、実を結ぶことだ。それが神の支配なんだ。天のものじゃないんですね。ただ、単に天のものじゃない。そういうところが、イエスに非常にハッキリ出ているんです。イエスの場合は死ということについても、大体、死というのは、『旧約聖書』でも、それからパウロでも、人間の罪(つみ)に対する罰(ばつ)なんですね。人間が罪を犯したら死ぬんだ、と。ところが、イエスにそういうことはないんです。例えば、雀について、
 
     一羽の雀すら君たちの父(神)なしに、地に落ちることはない
            (「マタイ」十・二十九)
 
と。そういうふうに言っていますね。「神の許しなしに」と訳す人がいるけれども、そうじゃないんですよ。「神なしに」は、神とは無関係に、という言葉です。マタイの十の二十九ですが、「雀一羽も神と無関係に地に落ちることはない」。だから、イエスの場合の死というのは、罪の罰ということじゃなくて、むしろ自然のものだったんです。自ずから、神の側からもよおされて、という。そう言ってしまうと、言い過ぎだろうと思いますけどね。やっぱり、なにがしかそういうところがある。ところが、『旧約聖書』の方では、また少し違っていて、「自然」という言葉はありません。「天と地」と言っています。その「天と地」なんですが、これは神の被造物です。神様が創ったものです。ですから、神々の働きじゃなくて、神様が創った神の被造物で、しかも人間の支配下に置かれるものだ。
 
白鳥:  そういう位置づけられるんですか。
 
八木:  はい。そういう考え方が原始キリスト教から、キリスト教の中核にまで入って来ますね。そうすると、ハッキリとそういう位階性ということがハッキリと出て来ます。
 
白鳥:  人、そして、被造物としての自然、
 
八木:  そうです。それが人間に与えられたものだ、という。そういう階層関係が出来て、それが原始キリスト教から、キリスト教の中核に入ってきます。これはある意味では、自然の悪魔的な恐ろしさということを乗り越えているから、非常に有り難かったに違いない面があるんです。しかし、また、自然の位置を人間の下に置いたということで、やっぱりある意味で、自然科学を準備した、と言えるかも知れないと思うんです。つまり、神が被造物として創った自然だから人間が研究するわけですね。それで、獲得した知識を技術として応用して、そして、近代になればなるほど、その技術が経済という大きな営みの枠の中に入ってきます。それで、商業生産に役立てられるということになりますと、ここで自然の位置がかなり変わってしまう。どういうことか、と言いますと、我々人間が自然を客観化するというか、対象化して、支配する為に認識するんです。支配したり管理する為に、或いは、利用する為に認識して、その認識を技術という形で役に立て、それから近代的な商業生産の枠の中に入れる、と。そうすると、自然が原料になります。それから、たかだか観光資源という意味で保存しようということにもなりますけれども。現在のように環境が重視される時でもやっぱりなんか環境の重視が人間の為だという、そういう含みがあるでしょう。
 
白鳥:  そうですね。なかなか一つ下の道具、背景、そんな感じで語られますね。
 
八木:  ええ。そうなんだと思うんです。それが勿論、キリスト教というよりは、むしろ自然科学と現在の技術、経済の問題なんですけど。そこに前に出てくるのが、「自然」じゃなくて「自我」なんです。
 
白鳥:  自我?
 
八木:  はい。「本性」と言っている場合、「自我」だけでなくて、いわば、人間の全人格性、身体性、それも社会を含んで、そういうものがあるんですけれども。今言った場合には、やっぱり自我が認識して管理する、という形になりますから。そうすると、文化の担い手が自我なんです。これは今、あまりにも簡単に申しましたけれども、文化のあらゆる分野で言えることじゃないか。そうしますと、自我というのは死にたくないんですよ。死というのは自我の否定ですから。矛盾するものなんですね。そうすると、自我と、その死の間にギャップが出来てしまう。こういう状態が現在あるじゃないかと思うんですね。
 
白鳥:  それがやはり死、或いは、死に繋がる老いへの抵抗とか抗(あらが)い、そういうものになっているんですかね。
 
八木:  そうだと思います。勿論、古典ローマの時代にもそれがあったから。
 
白鳥:  纏めて書いたということかも知れませんですね。
 
八木:  でも、今ほどじゃなかったんだろうと思いますね。現代の問題というのが、自我の時代だから、自然を見失ってしまって、しかも、その自然というのは、かつてはギリシャでもローマでも、イエスでも、或いは東洋の老荘、或いは仏教の中でも、ハッキリと認識されていたものだった。そういう感覚があったんですよね。それが現代なくなってしまった。
 
白鳥:  「ナトール(nature:自然的世界)」「アウトマテー」「自然(しぜん)」、仏教の「自然(じねん)」、
 
八木:  それを言いたかったんです。訳した動機のかなり大きなものですけれども。
 
白鳥:  そうですね。このご本の中で、「私の老年論」ということで、先生もお書きになっておりますけれども、そう言った形で、もう一度、私共も古典の時代がもっていたもの、それは世の東西を問わず、持っていた「ナトーラ(natura:自然)」であれ、「自然(しぜん)」であれ、「自然(じねん)」であれ、そう言った一種の観念の世界みたいなものをもう一度取り戻すことが出来たら、大分違ってくるかも知れませんですね。
 
八木:  そういうものに対する感覚が必要だと思うんです。歳を取ってくると余計そう思いますよね。
 
白鳥:  どうも有り難うございました。
 
八木:  有り難うございました。
 
 
     これは、平成十二年一月二十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。